[天女のはごろも]
■一
放課後の学校は、せせらぎの絶えた川床のようだ。
そこに過ごし、時がくれば去っていく少女たちの、檸檬色の笑い声。
やがてそれは色あせて、煉瓦校舎の深みに澱み、
その上にまた新たな時の砂礫が積み重なって、
そうやって、いつかは誰もが、遠いどこかへと押しやられて忘れられていくのだ。
何年も何年も同じように、違うことなく繰り返されてきた放課後の、時の化石化。
その開始を告げるかのように、
下校を促す鐘が、夕焼け空に今日も鳴っている。
ひと気のない夕方の校舎に漂う、このよそよそしい虚ろさは、多分、
時の金箔が次々とはがれ落ち、朽葉色と化して散り散りに擦り切れて消えていく、
その予兆の気配のせいなのだ。
(怖い)
柳澤柚子はそんな放課後、一人きりで、学校にいた。
大きな影が長い廊下の先をばたばたと横切るのにびくりとして柚子が眼を上げると、
それは窓を叩く新緑の影だった。
柚子はぎゅっと鞄を握り締め、再び、茜色に染まった廊下をそろそろと歩いた。
「本当にあった怖い話」にもいろいろあるだろうが、
舞台が古い女学校、
しかも柚子が高等部に上がるわずか数年前に、実際に起こった紛れも無い実話とくると、
生徒の引けた誰もいない教室や、薄青く冷えた天井、足音の響く廊下のもつ重みが違ってくる。
誰もいないのに、誰かがすぐそこにいて、首筋越しにこちらを見ているような気がする。
校舎を取り囲む木々のざわめきに脅されるようにして、柚子は廊下を歩いていた。
或る日突然、ここからいなくなった女学生。
その誰かとは、漠然とした大昔の誰か、ではない。
名前まで、ちゃんと特定できるのだ。
早乙女藤香さんは、或る日、この女学校から忽然と姿を消した。
証人もいる。
柚子が知るところによると、当時高等部の三年生だった藤香さんは、
忘れ物を取って来るわ、と学友に微笑んで、軽やかに階段を上がって行ったのだそうだ。
それきり、藤香さんは戻っては来なかった。
女学校にも実家にも、二度と姿を見せなかった。
教室に辿り着いたのかどうかも分からない。
失踪後、藤香さんの机やロッカーを開いたところ、その日藤香さんが
「忘れた」
はずの荷物は、そのままそこにあったそうだから。
何しろこれはまだほんの数年前に起こった事件だったから、
学校からかなり遠くの繁華街を歩いていても、
女学校と警察が協力して作った尋ね人のポスターを、頻繁に見かけた。
何度も刷られては広域にばら撒かれているらしく、
いつ見ても新しいそのポスターの中で、
濃紺のセーラー服を着た早乙女藤香さんは、整ったおとなしやかな顔をして、
何かを静かに待ち、何かを淋しく堪えているように、柚子には見えた。
セーラー服の胸元を飾る緋色のリボンが、
遠くから見ると赤いバツ印に見えるのが何となく不吉で、
見慣れてしまった写真付きのそのポスターから、柚子はいつしか無言で目をそらしたものだ。
事件以後、制服や学校名を知られるたびに、創立百年を超える伝統よりも真っ先に、
「ああ、あの、女の子が消えちゃった学校の」
と柚子の通う女学校の生徒は好奇の眼で見られるようになっていた。
高等部の三年生であった早乙女藤香さんは、いったい何処へ行ってしまったのだろう。
女子高生の誘拐略取など特に珍しくもない昨今ではあるが、
街中で起こったことならともかくも、部外者には神聖不可侵なる
女学校の中で、入り日に溶けるように、消え失せるとは。
(でも大丈夫だよね、だってここは二年生の校舎だし)
うっかり机の中に置き忘れた参考書を呪いながら、
隣に建つ三年生校舎をなるべく見ないようにして、柚子は歩いていた。
(数学、苦手なのよね。
でも、先生の教え方が悪いんだと思うな。
それに数学って閃きなんでしょ?だったら閃かない人には、
いつまでたっても解けないわけだし、だったら、
そんなものが必須科目になっているなんて、おかしいと思うんだけどな)
廊下には、誰もいない。
それでも、どうかすると柚子の影が映る白壁に、もう一つ、
柚子のものではない三つ編みが浮かび上がるような気が、柚子にはしてくる。
同じ制服を着た、美しい少女の影がぴたりと柚子の影に張り付いて付いてきて、
同じ速度で歩いている気がしてくる。
校舎の深部に進むにつれて、次第に柚子の神経は張り詰めてきていた。
もし柚子が走ると、その少女の影も走って追いかけて来るのではないだろうか。
柚子はそんなことを勝手に想像してこわごわと歩きながらも、
少女の影が柚子を追い越し、
くるりと振り返って、真正面からにっと笑う幻まで想像して、
すでに恐怖で心臓が痛かった。
想像力が強いほうだとは柚子は自分のことを思わないが、何しろここは、
本当に女学生が消えた怪談のある学校なのである。
どのようにでも怖い想像は次から次へと、浮かんでくる。
最近、級友から、楳図かずお「へび女」を借りて読んだのも悪かった。
逃げる少女を、その何倍もの速さでしゃーっと追いかけてくる、女の顔をしたへび。
柚子は振り返った。
放課後といっても、誰もいないわけではない。
遠くの校庭からは部活の後片付けの声がしていたし、
職員室にもまだ大勢の先生方が残っている。
美術室や図書館にも電灯がついているし、ついさっきまで、
音楽室からフルートの音もしていた。
だけど、早乙女藤香さんは制服の衣替えを控えた新緑の同じこの時期、
同じこの状況から、誰にも見られることなく、五年間の間手がかり一つなく、
何があったのかも今だに謎のまま、
もとから女学生の幽霊であったかのように、放課後の校舎から姿を消したのではなかったか。
中庭には創立者が独逸から苗を持ち帰って移植したとかいう薔薇が、
夕闇の中に紅く咲いて浮かんでいた。
廊下には誰もいない。
柚子はおそるおそる、踊り場の壁に映る自分の影を見つめた。
そこには三つ編みをした自分の影だけが、あった。
天窓にきらきらと反射して零れている夕陽のせいか、虹色を帯びている。
下校を告げる時の鐘が、ようやく余韻を引いて、止んだ。
柚子はその時、悲鳴を上げただろうか。
不意に、柚子の脚に鋭い痛みが走ったのだ。
背筋を駆け上がったその激痛よりも、幽霊の手が掴んだと思った恐怖の方が強かった。
声にならぬ声を上げて、柚子は倒れた。
したたかに廊下に打ち付けるはずの柚子の後頭部は、しかし、そうはならなかった。
柔らかな草の上に、倒れていた。
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空があった。
輪郭をきらめかせて幾重にももつれて流れる、白い雲があった。
広野に、そよ風が吹いている。
はるか遠くに望む山並みの稜線は緑になだらかで、
午後の日の光に、緑うつくしく、豊かだった。
どのくらいそうしていたか分からない。
眼を開いては何度もまた閉じて、柚子は先ほどからずっと、そこに横たわっていた。
顔のすぐ傍に、むらさきの菫の花があった。
首筋や膝小僧に、草が触れていた。
雨が降った後なのか、草の端や木々の葉先には雫がやどり、
風が吹くと、それが柚子の上にも落ちてきて、頬を濡らした。
柚子は水色の空を見上げた。
どういうわけか、或る歌ばかりが胸の中にこだましていた。
菜の花畠に 入日うすれ
見わたす山の端 かすみふかし
空に月はまだなかったが、それは中等部の頃、
音楽の時間に合唱したことのある、「おぼろ月夜」だった。
柚子はその歌の調べにすがるようにして、
何とか正気を保ち、心を落ち着けようとしていた。
何でも雪山で遭難した人々が眠気や恐怖をしのぐ際、
そこで歌う歌というのは、決して拍子の速い流行歌ではなく、
不思議となだらかな旋律の童謡や、昔ながらの唱歌になるのだそうだが、
はからずも柚子は自分でそれを証明することになってしまった。
だからといって、やっぱり田園抒情は日本人の心のふるさとなんだわ、などと
悠長にそこから慰めを得てほのぼのと癒されるまでは当然いかず、
身を固くしたまま、柚子は何かを必死に取り戻そうとしていた。
何かというのは、この場合、もとあるべき世界の全てである。
参考書は何処だろう。
確か今日は、この後マックに寄って、宿題を解くはずだった。
数学って、分かればあれほど解くのが楽しいものはないけど、
分からない時は頭の中に、ぐしゃぐしゃに動き回る灰色の蜂がいるみたいだ。
春風そよ吹く 空をみれば
夕月かかりて にほひ淡し
どうして空が見えるの。
どうしていきなり、野原にいるの。
そして痛くて動けない上に、怖くてそちらを見たくもないけれど、
私の左脚のふくらはぎに突き刺さっているものは、これは、
古典の資料集の中に見かけるような、矢羽根のついた矢じゃないの?
柚子はぎゅっと目を閉じて、また開けてみた。
何も変わらない。
何処なの、ここ。
そろそろと頭の後ろに手をやってみた。
打ち付けたはずなのに、あまり痛くないのは、土の上に倒れたからだろうか。
背中にあたっている湿った草地が、その時、何かが近付いて来る振動を伝えた。
少しだけ身を起こして、音の迫り来るそちらに、首だけを向けた。
遠くに騎馬の姿が見えた。
見る間にそれは駆けてきた。
今度こそ、柚子は悲鳴を上げた。顔を腕で覆い、そこから逃げようとした。
馬上の男は、流鏑馬のごとく草土を駆け散らして馬を疾駆させながら、
柚子を標的に弓を引き絞っていたのだ。
「キャーッ!」
「何だ、お前」
柚子が叫ぶのと、若者が怒鳴るのとが同時だった。
窪地にたまった水溜りの中に転がり落ちた柚子を
馬から飛び降りて引きずり上げたその若者は、柚子の姿を見るなり、
はっとした顔になった。
しかし柚子はそれどころでは無論なく、「はなして」掴まれたまま大暴れした。
上履きのままの足で若者を蹴飛ばし、
岩陰か木陰に隠れようとしたところを襟首を掴まれて引きずり戻され、
指に噛み付いたあたりで、頬をぶっ叩かれた。
「何するの」
「黙れ、女」
一喝されて見上げると、彼は柚子が噛んだ指先を口元に当てて、
顔を傾け、しかめっ面をしていた。
「痛ぇ」
「………」
「でも、お前の脚の方が痛いだろう。じっとしてろ」
狩衣姿の若者は、柚子の足許に膝をついた。
「何、するの」
「よし。深くは刺さってない」
何がよしなのか、狩衣を着た彼は軽々と柚子を地面に押し倒すと、
柚子の太股に片膝を乗せ、体重をかけて動けなくした上で、
その場で柚子の足に刺さっている矢を引き抜いたのだ。
肉がざくりと切れる感触がして、血が溢れた。
麻酔も何もないその蛮行に、柚子は声を放った。
「何するのよ、何てことするのよ、やめて、痛い-----ッ」
「これは俺の矢だ」
狩衣の若者は抜いた矢を肩越しに後ろに投げて、柚子を見下ろした。
「獲物と間違えた。悪かったな」
「兎や鹿じゃないのよ、それで済んだら警察は要らないのよ、どこかへ行ってよ、来ないでッ」
若者を突き飛ばすと、あまりの痛みに柚子は岩に倒れ伏した。
一息には抜かずに、小刻みに右左に揺さぶって抜いてくれたので、
その痛さときたら、熱した棒を無理やり突っ込まれたような痛みだったのだ。
流れ出た血は見る見る靴下を濡らし、上履きが赤く染まった。
やだ、傷跡が残ったらどうしよう。
それよりも障害が残って歩けなくなったら。
「立て、女。それしきのことで、いざりになどなるもんか」
「ひ、他人事だと思って」
「泣くな。骨には達してない。すぐに肉は盛り上がる」
「痛いから泣いてるのよ、それもこれも、あんたのせいじゃないの」
「しつこいぞ。二度とは謝まらん」
消毒のつもりなのか、若者は取り出した竹筒を逆さにして、柚子の傷口に
ばしゃばしゃと水をかけ、柚子はそれにまた悲鳴を上げて、泣いた。
「やめて、もうやめて」
「もう、済んだ」
若者は立ち上がった。
岩肌にに止まっていたちょうちょが、ひいらりと飛び立った。
後方を振り返る。
騎馬が五六騎、彼の姿を見つけたものか、こちらへ駆けて来るのが見えた。
菫の花がやさしく揺れていた。
追いかけてくる騎馬と、しゃがみこんで泣いている柚子とを交互に見つめて、
若者は腕を腰にあて、しばらく何事かを思案していた。
顔をそうやって厳しくしている彼の姿は、柚子には怖く見えた。
春風がそんな彼の黒髪を揺らして、過ぎていった。
(誰なの、この人)
おーい、おーいと呼ぶ男たちの声が次第に近付いていた。
若者の決断は早かった。
「いいか女、これはお前のためにやることだ」
いきなりその手が伸びると、柚子の胸倉を掴み、そして制服のリボンが奪い取られていた。
衿の合わさる胸元の部分は片側がスナップで留めるようになっている。
乱暴に引っ張られた拍子で、そこが外れた。
スカートも泥にまみれてまくれ上がり、誰がどう見ても狩衣男に暴行されたような姿で、
柚子は茫然と若者にされるがままになっていた。
しかしこれから起こることを決定づけるのは、
どうやら時空軸の階段を踏み外して、いつか何処かの、
古い時代に転落したらしい柚子ではもはやないようだった。
若者が奪い去ってその手に握っている、柚子の制服のリボン。
「おい、名は」
かん症な性質なのか、口を開く前にせかされた。
「早く答えろ、女」
慌てて答えた。
「柚子。柳澤ゆずこ、です」
「変な名」、狩衣はぼそっと呟いた。
馬の蹄が近くなり、彼の名を口々に呼ぶ声が、野を渡る風に乗って聞こえた。
「羽室、おおい、はむろの宮」
「羽室宮、大事ないか」
「俺の名は羽室瑞理だ」
「何よ、あんたこそ変な名じゃないの、はむろのみずり」
言い返した柚子には構わず、瑞理という名のその若者は、
手にした制服のリボンと、柚子とを、
少し眉根を寄せて見比べながら、押し黙って突っ立っていた。
「羽室宮、羽室瑞理、無事か」
「はむろの宮、どうしたのだ」
「みずり、おーい、瑞理」
「俺は、ここだ」
瑞理は彼らに応えた。
そして瑞理は、柚子の制服から抜き取った制服のリボンを、青空に高く掲げた。
緋色のリボンが風を受けて高々とひるがえった。
瑞理が真直ぐに伸ばした腕の先にたなびくそれは、誇らかに紅く、戦の旗にも見えた。
空を昇っていくようだ。
日を浴びて輝いている。
追いかけてきた騎馬がようやく二人を取り囲んだ。
「狩は中止だ」
鮮やかな緋色の下、瑞理はリボンを掲げて彼らに見せながら、
柚子の姿を見て愕いている彼らに云った。
「雨上がりの野において、ご覧のごとく、
羽室家の瑞理が虹の根元に宝を見つけた。
院にそう申し上げよ。
また今上帝および女御にも、このこと、奏上せよ。
だが、宝は最初に見つけた者のものだ。この女、俺がもらうぞ」
[二に続く]
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