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天女のはごろも

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[イセカイ召喚ファンタジー] 天女のはごろも Yukino Shiozaki



[天女のはごろも]
■二



瑞理に馬に乗せられて屋敷に連れて行かれる間、
柚子は唇を噛み締めて俯いていた。
泣くまいと頑張ってみても目に浮かぶ涙を、見られたくなかった。
どうしてこんなことになったのだろう。
ここは何処なんだろう。
時が経ち、いよいよこれは夢ではないと思うにつれ、
息苦しくなるほど柚子の不安は大きくなった上に、
馬に揺られている脚の傷が痛かった。
女子大と兼用の馬場が女学校にはあったから、
授業で習った程度には乗馬の心得が柚子にも多少はあったのだが、
颯爽とお馬さんの手綱を握ってぱかぱかと基礎馬術を披露するどころではとてもなく、
「落ちるなよ、柚子」
瑞理に抱え上げられて鞍に乗せられた後は、振動に激痛を覚えながら、
落ちないように瑞理にしがみついているだけで精一杯だった。

「み、瑞理」
「何だ」
「それとも、羽室宮」
「どっちでもいい。瑞理でいい。何だ」
「怪我が痛い。降ろして」
「もうすぐだ、我慢しろ」
「我慢できない」
「しょんべんしたいなら先にそう云えよ、その辺の茂みで止めてやる。
 見ないでいてやるから」

駄目だ、この人に、何を云っても無駄だ。
がっくりと柚子は目を閉じた。
はむろの宮みずり、というからには、宮さまなのだろか。
それにしては瑞理の言動は、柚子が漠然と思い描くところの
中世宮廷貴族の典雅や優美さとは程遠い。
歯切れのいい断定的な物言いは端的率直で武骨であったし、
「柚子、俺の屋敷はあのあたりだ」
得意げに方角を知らしめて夕闇に向けた鞭の先が柚子の肩に当たった時も、
「あ、すまん」
それで終わりだった。
野から都へと向かうその日暮れ、痛みと涙で頭がぼうっとなっていた柚子には
ろくに周囲を眺める余裕もなかったが、
檜垣や籬を巡らした家が建ち並び、貧しそうな板葺きの家からも夕餉の煙が立ち上っていて、
道幅が次第に広く、築地塀に囲まれた壮麗な大邸が見えるあたりに差しかかるにつれて、
まだ明るい往来には人がたくさん行き交い、
都は平和で、栄えているようだった。
柚子がしがみついている羽室宮の狩衣には、織目も美しい紋が浮き出ており、
彼の馬の往くところ、人がわざわざ大きく道を開けて見送るところからして、
若くても瑞理の身分は高く、貴顕の人なのには間違いないようだ。
しかし柚子は、助けてくれてありがとう、とはとても云う気にはなれなかった。
何しろ何処からか飛来して来た瑞理の放った矢にこの脚を射抜かれて、
放課後の学校の廊下から、こちらの世界に突き飛ばされて来たのである。
しかも強引に、こうして自分の家に連れて行かれようとしている。
柚子は出来たら、彼の処だけは勘弁して欲しかった。

(ほかに誰かいないのかしら。やさしい女の人とか、もっと親切な人とか)

これではまるで柚子は狩りの獲物として捕われたようではないか。 
そんな怪我人を片腕に支えて、巧みに馬を操る瑞理は、それでも柚子の怪我に
気を遣ってくれているのか、供人は先に行かせて、ゆっくりと馬を流していた。
碁盤目状の路が交差する四辻に差し掛かると、
狩場から先に帰っていた一同がそこで待っていた。
春の日に狩に連れ立った彼ら若人は、みな身なり良く、
すっくりと逞しい体格をしており、昔の人は押並べてひどく華奢で小柄だったと
思い込んでいた柚子には、それが意外だった。
そういえば古墳時代と戦国時代を頂点として日本人の身長は
時代を追って低くなり続け、一番小さかったのが明治人だと、
何かで読んだ覚えが柚子にはある。
この世界が何百年か前の日本であると仮定しての話だが、
彼らは戦後急激に平均身長が伸びた日本人男子に比べれば小柄なものの、
郷土歴史資料館などで柚子が眼にしたような時代装束をつけた等身大の人形ほど、
ひ弱に小さくは思わなかった。
私の時代の男の子が温室栽培のアスパラガスなら、
この人たちは刀と弓矢が似合う、山と河と風が生んだをのこだ、と柚子は思った。
土着的で強い感じがした。
それとも、獣を追い回して追い詰める遊びに熱中するほど彼らがまだ若く、
たぎるような熱い血を身の内に持っているからだろうか。
手綱を握る瑞理の手を見た。
柚子が思い切り噛みついた彼の指には布切れが巻いてあった。
同じその布を裂いて、瑞理は柚子の脚の傷を縛ってくれたのだが、
供人が何やらもの惜しそうな顔をして愕いていたところを見ると、この布も
下々には手に入らぬ上品ものなのであろう。
柚子は自分を運んでいく若者を見上げた。
精悍な顔を前に据えて、彼は風を受けていた。
その頭上には、薄い月が浮かんだ夕映えの空があった。
風にはまともに野山の匂いが混じり、空気も濃いみたい。
柚子は目を伏せた。
心細い。
高い建物がないせいか、空が愕くほど大きくて果てしなく、
宙に浮いているみたいな気がする。
往来の片隅で休んでいた瑞理の仲間たちは、そこで腰を上げて、
口々に別れの挨拶を寄越した。

「瑞理、ようやく追いついたか」
「羽室宮、それではここで」
「柚子どのと云われたか、その怪我、お大事にな」
「何かあれば使いを寄越せよ。怪我に詳しい良い薬師を知っている、力になるぞ」

瑞理は鷹揚にそれにそれぞれ応えて、下馬もせぬまますれ違った。
「大鱗の親王(たいりんのみこ)、左近中将、敦嗣、智明、またいずれ」
「また、宮中でな、羽室中将」
それぞれに狩りの獲物を担いだ供人を連れて、彼らは道を去って行った。
別れ際、随身を連れた貴人の一人、大鱗の親王と呼ばれた青年だけが、
瑞理に支えられた柚子に近付き、興味深げに、
そして無遠慮にじろじろと覗き込んで、すれ違いざま、
松の木の影越しに謎の言葉を残していった。
「似てないね。飛香舎のお方に。でも衣裳は聞いたとおり、同じだ」
「誰のこと?」
ぎくりとして柚子は瑞理を仰いだ。
衣裳が同じって、このセーラー服のこと?
瑞理はあっさり教えてくれた。
「藤壺女御のことだ」
「藤壺女御」
「今上帝の妃であられる。もとの御名を、藤香と云われる」
「藤香……」
「後宮に上がるには身分と後ろ立てがいる。
 それで、父上が寄る辺ない身の上であられた藤香さまを我が羽室宮家に引き取り、
 養女とした上で、帝に差し上げたのだ。
 だから藤壷女御は俺の姉にあたる。
 随分と、歳の近い姉だがな。
 藤香さまが後宮で賜った飛香舎の庭には藤の花がある、それで藤壺女御。
 どうだ、お前と同じような人間が他にもいると知って、少しは安堵したか、柚子」
「瑞理、逢わせて、その人に!」」

(忘れ物を取りに行ってくるわ)

笑顔でそう言い残して数年前、学校から忽然と消えた、
早乙女藤香先輩のことに違いない。
それが宮家の養女で、帝の女御とは。
「元気が出てきたじゃないか」
瑞理は笑った。
その笑顔がぼんやりと霞んだ。
激しい痛みと悪寒が走り、柚子の力が抜けた。
「あ、おい」
そのまま柚子はずるずると馬から落ちて、
慌てて瑞理が途中で抱きとめた時には、意識を失っていた。
何でも落馬の直前、じいっと瑞理を見つめて、何を思ったのか柚子は、
瑞理を馬から突き落そうとしたらしい。
馬を奪って、藤香さんの処に今すぐ行きたかったのだろうか。
そういえば、「放して」と、その時に口走った気もする。
怪我の熱と痛みと、張り詰めていたものがここにきて壊れたようだった。
濡れたまま風にあたったせいで高熱を出した。
そのまま精神の均衡を崩した柚子は、一時的な恐慌と錯乱状態に陥って、
羽室邸の一隅をあてがわれた後も見舞いに来た瑞理に向かって、
「人攫い!」と叫んで八つ当たりも甚だしく、
世話係の女房が止める間もなく碗や打乱筥や硯箱を投げつけたのだという。


「乱暴狼藉ものはどっちなんだ」
「……ごめんなさい」

柚子が投げた陶製の文鎮が額に当たった瑞理はついに怒り出して、
四、五日訪れなかったが、それが柚子の情動をかえって静めて、
再び彼が薬を持って様子を見に来た時は、
何とか柚子にも、この状況を受け入れる覚悟と、人心地がついていた。
見ろ、とこちらに向けられた瑞理の額には、
柚子が投げつけたものによって出来た実に痛そうな痣があった。
ひどい。誰がこんなことを。
惚けてももちろん無駄なので、お詫びもかねて、柚子はおとなしく彼の話を聞いていた。
久しぶりに逢うせいか、ほっとするほど、彼が懐かしく思えた。
「よい天気だ」
今日の瑞理は直衣を着ている。
柚子を促して簀子縁に出た。
房は庭に面しており、そこにはたくさんの花が咲いていた。
そしてここは元は、羽室宮家に引き取られた、早乙女藤香さんが居た部屋なのだという。

「今は口の端に乗せるのも畏れ多いことだが、藤壷女御も、
 屋敷に迎えた直後は柚子と同様に熱を出して、長く臥せっておられたな。
 もともと気鬱の病でもあられたのか、
 ぼんやりとして正体も定まらず、よく、泣いておられた。
 俺はまだその頃は女のこともよく分からず、よくお慰めも出来ず、
 藤香の様子を聞いては、庭から見ているだけだった」

話の途中で瑞理は柚子の髪を軽くつかんで、
「お前、あんな変な二つ分けの並べた団子みたいな結い方をせずに、
 髪をこうしている方が似合うじゃないか」
にこりと笑った。
「短くて、見っとも無くて、尼さんみたいだけどな」
熱が高くて洗えなかった髪を、今朝、頼み込んで洗ったところなのだ。
洗うといってももちろんシャンプーもリンスもシャワーもない時代だから、
角盥に張った米のとぎ汁に櫛を浸して何度も梳いただけだったが、
それでも気分は相当にさっぱりした。
瑞理が来る前は、洗いざらしの髪を肩に流して、乾かしていたところだった。
長い髪は三つ編みにするのが校則だが、今となっては守る必要もない。
寝巻きの類も着替えもないから、柚子は生絹の袿に打衣をかけた姿で、
ずるずると裾を引きずって歩くしかなかった。
この時代の貴族の常で、瑞理には異母きょうだいがたくさんいて、
男女取り混ぜて同胞は優に十人は超すという。
この衣は先年、夫の屋敷に迎えられた姉姫のもの、
さらには柚子の房に取り急ぎ整えられた文机や鏡箱などの細々とした女道具も、
女きょうだいの誰かからのお下がりなのだということだった。
「あ、孔雀」
柚子はびっくりした。庭に孔雀がいた。
孔雀は二人の眼の前を悠長に歩いて、翡翠色の羽根を揺らしながら
花畠を横切り、庭池を曲がって消えてしまった。
寝殿造の広大な羽室宮邸はこれでも、
荘園から上がる財源豊かな大貴族の屋敷に比べれば小さめなのだという。
勾欄に凭れて庭を見ていると、孔雀がまた戻って来た。
今度はその後ろに、女房に手を引かれた幼児が、
ちまちまとした足取りで孔雀の真似をして歩いている。

「七瀬!」

瑞理が手を打って呼ぶと、幼児はこちらに向かって愛らしく微笑み、
瑞理と柚子の方へと走り寄って来た。
あまりに可愛い児なので、
よく柚子の房に遊びに来るこの児を最初に見かけた時には、
柚子は七瀬を女児と間違えたほどだ。
髪を両耳のところで束ねた小さな子はただ歩いているだけでも
その仕草が愛らしく、柚子はつい、笑ってしまう。
「あにうえ、あにうえ」
「七瀬、ほら」
腕を伸ばして、瑞理はその膝に幼い弟を抱き上げた。



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「七瀬、この女は誰だ」
「ゆず」
「よしよし、覚えたな」

歳の離れた末弟のことがよほど可愛いらしく、
縁のあちこちを引っ張ったり叩いたりしている七瀬(ななせ)を構いながら、
瑞理はやさしく眼を細めた。
「最初のが早くに死んだので、
 今の北の方は父上の二度目の正妻だ。
 母上は生みの母がもういない俺や七瀬のことも実子同様に、
 あれこれお心遣い下さる。
 かといってさっぱりした気性の方でもないから、窮屈だ」
ゆず、あにうえ、と交互に名を呼びながら、七瀬はぱたぱたと
瑞理と柚子の間を歩き回り這い回る。
「ななくん、おいで」
柚子が手の平を差し出すと、そこに小さな手を乗せてすがり、
何かを掴もうとして立ち上がっては転ぶ様子が可愛らしい。
ひょいと抱き上げて、瑞理は弟を頭の上に上げて高い高いをした。
空は晴れていた。
「だから、七瀬はいつもは湖の国の、俺の乳母の家に預けてある。
 時々、こうして遊びに来させているが、母上にはそれも気苦労なことだろう。
 そのうち俺が自分の屋敷を構えるようになったら、
 七瀬をそちらに引き取るつもりだ」
しかし、瑞理は屋根庇越しに空を仰いだまま呟いた。
「でも俺は本当は、こんな仰々しい邸も、
 窮屈な衣冠も埃っぽい都も、好きじゃない」
貴族のくせに、瑞理は都の豪奢な暮らしには興味も、未練もないようだった。
七瀬を肩車したまま、柚子、と振り返った。
「その脚の怪我がすっかり治ったら、一度、
 お前を山向こうの湖の国に連れて行ってやる」
「湖の国?」
瑞理はそこで育ったのだという。
「漁火が星のように湖面に映る。水の上を渡る風が、涼しいぞ。
 雪が降れば、雪が湖に消えていく。。
 空が、湖に吸い込まれて消えていくようだ。
 俺はできたら、湖の国の漁師になりたい」
女房に七瀬を引き渡して去らせると、
円座に腰を下ろした瑞理は短い髪の女がよほど面白いのか、
再び柚子の髪を手にして、柚子の横顔を眺めた。
「藤壷女御も今は髪が伸びた」
どこか夢を見るような口調だった。

「背を覆うて流れるさまは、黒絹のように、見事だ」


瑞理の口から出てくる藤香先輩の姿を総合して察するに、
どうやら帝の女御となった早乙女藤香さんは、この世界において、
当代一の美妃と化しているようだった。
尋ね人のポスターの、あの、鎌倉に隠遁した昔の銀幕女優に似た面差しをした
藤香先輩の顔を柚子は思い浮かべた。
どんな時代でも男性がふと眼を留めるような、女らしい、
やわらかな顔立ちをした早乙女先輩。
そういえば藤壺というのは「源氏物語」中、光の君が終生、愛し続けた女人のことだ。
彼女に心惹かれたのは若い今上帝だけではないようで、
瑞理も多分、藤香さまのことが好きなんだろう。
柚子は頬杖をついて庭の花を眺めた。
帝に献上するために羽室宮家に引き取られて、かたちばかりの姉になっていなければ、
瑞理は、藤香さんのことを、どうしただろう。
藤香さんは今、どうしてるんだろう。
あの失踪事件から優に五年は過ぎている。
そして、私も、このままそうなるのかしら。
ポスターが貼られていた繁華街。
蛍光色と騒音の都市。
こちらと比べれば、元の世界は、まるでけばけばしい貴金属の宇宙船のようだ。
ふとあることに気がついて、柚子はうろたえた。
「瑞理」
「んー、何だ」
ふと横を見ると、瑞理は眼を閉じて柱に凭れ、うたた寝をしていた。
「ちょっと、起きて」
「昨夜は左大臣の屋敷で宴があって、寝てないんだ」
「それならちゃんと休んだら」
「病人じゃあるまいし、昼間から御簾を下げて寝込んでられるか」
ねえ瑞理、答えて、と柚子は瑞理の肩を揺さぶった。
「私も藤香先輩と同じように、まさか帝の女御にさせられるんじゃないでしょうね」
「それはない」
そこだけはきっぱりと強く応えて、瑞理は眼を開いた。
そして云った。

「お前はもう俺のものだからな」

そこで終わればいいものを、続いて瑞理は笑い出し、
「何しろあの時には、ああ云うしかなかったからな!」
笑うあまりにのけぞって、その拍子に後ろの真木柱に頭を打ちつけた瑞理を、
柚子は見ないふりをした。
やがて、
「傷口に塗っておけよ」
矢傷によく効く草木を自ら薬研で磨り潰したのだという実に妖しげな薬を
柚木に渡してそう命じると、瑞理は衝立障子を引き寄せて、
その陰で本当に眠ってしまった。
貝殻に入れたその薬を膝に、柚子が端近で雲の流れを所在無く見上げていると、
「柚子さま、どうぞ」
三十路の女房が小豆餅と白湯を運んできた。
羽室邸に引き取られた藤香さんの世話をしたのもこの女房だったと知った柚子は
小堀という名のその女房にあれこれ訊ねてみたのだが、

「帝のお妃さまとなられた方のことを、迂闊には口に出来ません」

この一点張りで、何ほども先輩のことは聞き出すことが出来なかった。
その代わり、女房の小堀は、羽室宮瑞理のことを少しだけ柚子に教えてくれた。
宮さま宮さまと申しましても。
ほほほと、小堀は笑った。
気取ったところのない御子さまで、愕かれましたでしょう、柚子さま。
瑞理さまはこちらの殿さまの五番目の男御子さま、
早くにご生母さまと死別された瑞理さまは、
乳母の実家がある比叡山の向こうの、湖の国で、野放図といってもいいほどに
自由気侭にお育ちになったのでございますよ。でもそんな利発で闊達な、
飾り気のないところがかえって殿上の方々にはすっきりと好ましく映りますようで、
元服されて御殿に上がられるようになりましてからは、
歳の近い当今さまにも特に目をかけて頂き、かといって宮中で驕ることもなく、
いつも風を連れて歩いておられるようなご様子が、何とも胸のすっとすることで。
帝の御弟であられる大鱗の方、これは宮のある土地からの綽名でございますが、
その大鱗の親王さまとも仲が良く。
若々しい瑞理さまがこちらのお屋敷に引き取られましてからは、
新しい、明るい風が吹いたようで、それにつれて、宮家の一つとはいえ、
傾きかけていたこちらの家も、再び時めきましたのです。
それを不動にしたのが、羽室宮家経由、藤香さんの入内だったのだそうだ。

「藤香さんは何処で、誰に、見つかったの」
「当時まだ東宮(皇太子)であられた帝ご自身が、何でも道行に、
 倒れているところを見つけられたのだとか。
 わたくしも詳しいことは存じませんし、
 なにぶんにも、そのあたりは禁中に関わることゆえ、詳しいことは申せません。
 藤香さまを見出されたその日、帝に随身していた源大納言卿が、
 羽室家の二の姫のお婿さまだったご縁で、
 帝は衰弱されていた藤香さまのご快癒と後見を、
 こちらの当家にお任せになったのでございます。
 いくら天女とはいえ、何の身分も後ろ盾もない女人が
 帝のお傍にお仕えすることは叶いません。羽室宮家はその点、
 帝がお召しになるまで藤香さまをお預かりするのに、申し分なかったのでございますよ。
 羽室家の養女ともなれば、更衣ではなく、女御として、
 天女さまは後宮に入内かないますからね」
「天女?」
「言い伝えがあるのですよ」
小堀はひそひそと囁いた。

「虹の果てる処に現れる天女を手にした者こそ、栄華を極めるだろう、
 天女の赤い羽衣を手にした殿御こそ、その者であると」

柚子は房を振り返った。
女学校のセーラー制服が衣桁に掛けられたままになっていた。
アイロンがない時代なので皺くちゃだったが、女房の小堀が頑張って
重しをかけてくれたおかげで、スカート襞もほぼ元通りになっていた。
洗って、泥を落とされたそれには、胸元のリボンだけがなかった。
緋色のリボンはあの時、
-------いいか女、これはお前のためにやることだ
瑞理が奪ったままになっている。
天女のはごろも伝説を踏襲するならば、もしかして、
制服のリボンを返してもらえなければ、私は元の世界に帰れないのだろうか。
どうして、瑞理は私からリボンを取り上げたのだろう。
柚子は何かを云いかけて、口を閉じた。しかし、
「柚子が天女なものか」
それに応えるように、衝立障子の後ろから声が上がった。
眠っていたはずの瑞理は、はきはきと言い放った。

「云っとくけどな、柚子。 
 お前から取り上げたあの羅紗は返さんぞ。
 あれがあるからといって、お前が国に帰れるわけじゃないんだからな。
 殺されたくなかったら、俺にあれを預けたままでいることだ」

殺されるという物騒な言葉にぎょっとしたところで、
渡殿からこちらの対屋に誰かが急いで渡って来た。
「院からの御使者です、瑞理さま」
「すぐに行く」
院御所からの使いなら、たとえ瑞理より身分が低い者であっても
上座に構えて偉そうに待っているはずである。
それなのに、衝立を退けて現れた瑞理はこれといって緊張感もなく、
伸びをして、昼寝のために寛げていた夏直衣を正しながら、
「どうせ噂が広まるのだ。
 せっかくこちらから天女の出現を吹聴してやったのに、
 呼び出しがようやく今日になってか。遅かったな」
あくびをした。






[三に続く]





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