[天女のはごろも]
■三
藤壺女御には、思ったよりも早く逢うことが出来た。
「制服を着て来ました」
羽室宮家の遣いとして女御を訪れた瑞理に連れられて、飛香舎に着くなり、
小袿 をずらして、柚子は中に着込んで来たセーラー服を女御に見せた。
それが一番手っ取り早いと思ったのだ。
夕刻にさしかかった後宮には既に灯りがともっていた。
小さく揺れる火影は、夕暮れの蛍のように、盛りと咲く庭の藤にもうつろった。
その朝、羽室邸の庭から届けられた百合の花を前に、
藤壺女御、もと早乙女藤香さんは、御簾の向こうでしばらく黙っていたが、
やがて扇を静かに鳴らした。
その音に周囲に控えていた女房女官らがざあっと影を引いて退出し、
庭の藤を望む御前には、柚子と瑞理だけが残された。
すっかり静かになると、
「こちらに来て-------」
振り絞るような、鈴のように震える声がした。
「もっと近くに来て。大丈夫、人払いをしたから。
あなたは本当に、あの学校の子なの。
こちらに来て、御簾の中に、入って」
どこから開くのか分からないので、柚子は御簾を持ち上げて下からくぐった。
目の前に、錦の色も鮮やかに、絹装束をつけた藤香さんがいた。
ほの暗い室にあって、そこだけがぼうっと桜色に見えるほど、
薄化粧をして花燭に囲まれた藤香さんは、
花びらに包まれたお人形のように艶やかだった。
「瑞理から、あなたのことを知らせた文をもらった時には、
愕いて、泣いたのよ。
柳澤柚子さん、あなたはどうやってこの世界に来てしまったの。
あちらの世界は、その後、つつがない?」
美しくはらはらと泣かれるので、その涙を拭う為の畳紙を慌てて取り出したものの、
高貴な方にうっかり触れて良いのかどうかも分からず、
柚子は「瑞理、どうしよう」、御簾の向こうに控えている瑞理を呼んだ。
「そちらにはいけない」
という返事だった。
それはそうである。先輩は今は帝の妃なのだ。
早乙女藤香さんに逢えたら抱きついて、
思いも寄らぬ奇禍に巻き込まれた互いを嘆き、
大泣きするのではないかと柚子は思っていたのだが、
先に泣かれてしまったことで、ずっと心を詰まらせていた嘆きや不平も、
ぐずぐずと砕けた。
あれからの年月を単純に加算すると、藤香さんはもう女学生の年齢ではなく、
二十歳を幾つか過ぎていることになる。
それでも濡れた眼で柚子を見上げている藤壺女御は儚げで、
ろくに日に当たらない生活のせいか蒼白く、
そのせいか雅に臈長けて、
尋ね人の写真よりもか弱げに、少女のまま、時を止めているように見えた。
(藤壺さまは懐妊しておられる)
道中の牛車の中で瑞理が教えてくれたとおり、
悪阻のせいか、脇息に寄りかかっている先輩は弱々しく、苦しげだった。
人払いをしたといっても完全には遠のいてはいなかったようで、
腹心らしき女官の一人が膝を進めると、「さ、女御さま」と、
藤香さんの涙を絹布で拭い、その背を気遣わしげにさすり、白湯を呑ませた。
妊娠したということは、いずれはお宿下がりをして、里邸である
羽室の屋敷で御子を生まれることになるのだろうか。
(でも実家といっても、羽室邸は藤香さんの本当の家じゃないのに)
幸いにして帝の寵愛を受け、また仲睦まじいと聞くものの、
赤子を生む時には、その帝からも引き離されて、藤香さんは一人だ。
それに、何といってもここは中世だから、お産も原始的なんじゃないかしら。
幾重にも衣を重ねておられるせいか膨らみはまだ目立たないが、
御子の宿った印の帯を巻いた女御のお腹を見つめながら、
乏しい出産の知識を頭の中で巡らせて考えているうち、柚子まで不安になってきた。
女御の涙を見るうちに、
近代医学の助けもないまま見知らぬ世界で出産しなければならない
その不安や頼りなさが、夜の潮のようにこちらの胸をも満たしてきた。
どうしよう。
ここにせめて、先輩のでも私のでも構わないけど、お母さんが、いればいいのに。
ちらりと振り返ると、御簾越しに瑞理が、怖い顔をして柚子を睨んでいた。
その視線を訳するとさしずめこうだ。
(このボケ、何の為にお前を後宮に連れて来たと思っている)
柚子は慌てて、藤壺女御を励ましにかかった。
ご気分のすぐれぬ女御さまを元気づけ、勇気づける名目で、
無理に頼み込んで、短い髪に付け毛までつけて、
瑞理の妹姫の一人になりすまして、柚子はここに連れて来てもらったのだった。
「藤香さん、お土産です」
御簾の隙間から瑞理が扇に乗せて差し出したそれを、柚子は藤香さんに渡した。
「御守りです。私が落ちた野原を後から瑞理が探しても、
鞄は見つかりませんでした。でも、この御守りはポケットに入れていたの。
これを藤香さんにあげる。交通安全の御守りだし、
ちょっと汚れているけど、御守りは御守りだもの、藤香さんとお腹の
赤ちゃんを護ってくれると思います。それと、これも」
「まあ、ラムネ」
ぱっと藤香さんの顔が輝いた。
そして女房に命じると、後ろの厨子から、藤香さんも何かを取り出して隣に並べた。
それはフランスの絵本の白黒うさぎの絵が蓋に描かれた、平缶に入った飴だった。
「わたくしも、(と、藤香さんはすっかりお姫さまになっていた)、これだけは
制服のスカートのポケットに入れていたのよ。
あと、ハンカチ。
ここには甘いものがあまりないでしょう?
それにこれだけが、元の世界のよすがですもの、
食べずに大切に取っておいたものなの。このお菓子、半分こしましょうね」
藤香さんは羽室家より届けられた百合に眼を向けた。
そして藤壺女御は、御簾の向こうに控えている瑞理に初めて声を掛けた。
「瑞理」
「はい」
「礼を云います。柚子さんに逢わせてくれたこと。
そして羽室邸の庭より、百合を届けてくれたこと」
「その花は、末の弟宮が今朝、女御のために庭より選んだものです」
「羽室邸に遊びに来ているの?七瀬は、大きくなったことでしょうね」
「湖の国で、健やかに」
「でも、わたくしのことなど、覚えてはいないでしょうね。
ほんの小さな頃に、逢ったきりですから」
「さあ」
「瑞理」
「はい」
「ありがとう」
瑞理は軽く平伏した。
憧れの女御の前では別人のように公達ぶった瑞理のそんな態度を
呆れて眺めていると、
女御の手から懐紙に包んだお菓子をやさしく持たされた。
それを衣の間にしまい、柚子は一番知りたかったことを口にした。
「藤香さん、あのね」
「なあに」
「私たちの他にも、他の誰か、女学生が来ているかどうか、知らない?」
「いいえ。そんな話は聞かないわ。多分、私たちだけじゃないかしら」
藤壺女御は哀しげに首を振られた。
その時、先触れがあって、帝がこちらにお渡りになるという。
本来、夜のお召しを含めて用ある時には、
藤香さんの方から御局を出て帝のおわす御殿に通うはずであるのだが、
身重であることで、帝も特にいとしく気遣われているようである。
お渡りあるとの知らせに、殿上人である瑞理はさっと声を引き締めた。
「柚子、出て来い。退出する」
「また来てね、柚子さん。きっとよ」
「先輩」
藤壺つきの女房たちが再び伺候してきて、
慌しく、帝を迎える用意を整える中、柚子は急いで訊いた。
「藤香先輩の制服は?制服のリボンは、今、何処にあるの」
「わたくしの、制服?」
まるで遠い異国の知らないことを訊かれたみたいな顔をして、
脇息に凭れたまま、藤香さんは頼りなげに目を見張った。
「セーラー服のことかしら」
「藤香さんが着ていた制服のリボンは、今、誰が持っているの?」
それがあると元の世界に帰れる、とはまだ断言出来ないけれど、
もしかしたらそれが希望になるかも知れない。
柚子はもう一度、袿をずらして、下に着ている制服の上着を藤香さんに見せた。
「私は失くしたけれど、校章のついた通しにとおして
ちょうちょの形にして、ここにあった制服の紅いリボンです」
「紅い……」
記憶が繋がったとでもいうように、浦島姫状態の藤香さんは
ようやくにっこりと微笑んだ。
「ああ、あれね。あのリボンはね、帝とご相談の上で、
帝がわたくしの目の前で炭櫃にくべて、燃やされてしまったわ」
「燃やした……」
「ええ。雪の降る日でした。帝はわたくしにお優しいことを囁きながら、
藤香を失いたくないから、どうしてもこうせずにはいられないのだと仰って、
リボンを、炎にさらしてしまったの。制服の方はどうしたのかしら。あれは確か、
まだ羽室の家にあるのではないかしら」
「柚子、急げ」
「藤香さんは帝と何処で出逢ったの」
最後に、柚子は藤香さんの手を握った。
「藤香さんは今、しあわせ?」
ややあって、藤壺女御は頷くと、その美しい目を上げて、微笑んだ。
そしてどこか淋しそうに、御簾越しに、瑞理の姿を思い詰めて見つめた。
「御守りをありがとう、柚子さん」
隔てられた御簾の向こうでは、瑞理が「早くしろ」と、柚子を急かしていた。
藤壺女御は涙をふり払い、毅然として、顔を上げた。
「心配しないで。こちらの世界でも、女のしごとは変わらないのよ。
帝はとてもお優しい方。逢えて良かったと、思っているわ。
大丈夫、ちゃんと子を生むわ。
帝の御子が、初めてのお産ではないの。
だから、きっと今度も、無事に生むことが出来るでしょう」
女御の手が離れた。
御簾をふたたび持ち上げて下がる時、柚子は瑞理にも女御の姿が見えるように、
わざと大きく開いたのだが、瑞理はぴくりとも顔を上げなかった。
女御も扇に顔をそらしていた。
百合の香りがしていた。
七瀬が選んだ百合だ。
今朝、庭で、瑞理に抱かれて女御に差し上げる百合を選んでいた七瀬。
(ゆず、ゆり)
(ななくん、このお兄さんみたいな男の人になったら駄目だよ)
(何を云うか)
小さな手を花に伸ばして、にこにこと笑っていた。
飛香舎を出た時には、柚子はそれを確信していた。
七瀬は、瑞理の弟なんかじゃない。
------ななくんは、瑞理と、藤香さんの間に、生まれた子なんだ。
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藤壺を退出した柚子がよろけ気味だったのは、
馴れない裾捌きのせいではなかったが、瑞理はそれを、
柚子の脚の怪我のせいだと思ったようだった。
湖の国で育った鄙の宮さまも、さすがに宮中ともなればそれらしく、
威儀を正して澄ましており、
今宵の瑞理は極上絹で仕立てた衣も冠も煌びやかに、眩しいほどの男ぶりだった。
そのせいか瑞理が渡る先々、御簾の向こうで女房たちが彼を目で追って
喧しいことこの上ない。また、瑞理のほうも女人たちに如才なく、
「羽室宮」、と御簾の下から差し出された檜扇を素早く拾い上げると、
「白鷺の君」
気さくに何やら親しそうに女の影に頷いてみせたりする。
方々で見せるそんな瑞理の慣れた風を、人気者なのね、と思いながらも、
その妹ということになっている柚子は、思うままに放心して歩いていたようだ。
派手に躓いた。
「痛むのか」
柚子は首をふった。貴人の女人は顔を晒さない決まりなので、
飛香舎の簀子縁をまたいだ後は扇で顔を隠していたのだが、
瑞理はその扇の上から、柚子の顔を覗き込んできた。
「どうした」
「どうもしない」
「なら、ちゃんと歩けよ」
「歩いてるわよ」
「なら、転ぶなよ」
どうも、同じイセカイからの稀人天女のはずなのに、
藤香さんと比べると、瑞理の態度には雲泥の差がある。
しかし出逢いがしらに瑞理を蹴飛ばしたり噛み付いた記憶も新しい柚子としては、
その点を彼に抗議したくてもかなわない。
瑞理の指に柚子が噛み付いた痕はもうなく、瑞理はその手に、先ほど拾った
女の扇を持っていた。
釣灯篭の火明かりの向こうには、真っ白い月がもう昇っていた。
柚子は溜め息をついて、扇に顔を伏せた。
そこに、お声がかかった。
「羽室中将」
瑞理は直ちに膝をついて顔を伏せ、柚子もそれに倣った。
「帝」
「藤壺の帰りか、羽室。そちらの姫は」
「妹です」、瑞理は何食わぬ顔をして応えた。
「そう」
くす、と帝はお笑いになったようだった。
何しろ顔を伏せているので、柚子にはお若いその声しか聞こえない。
「本当は後宮に入ってはいけないのだよ、でも、
瑞理のやることだから、大目にみよう。
こっそりとお帰り、そしてまたおいで、藤香の妹姫」
優しく、通り過ぎていかれた。
こっそり振り返ってみると、丸みを帯びた、小柄な熊のようなお背中である。
優しそうな人だね、と云いかけた柚子の頭を、
再び、瑞理が抑えつけた。
「羽室中将か」
「上皇だ」、瑞理が柚子に囁いた。
どうやら今日は立て続けに貴人と邂逅する日のようである。
上皇、ということは、それではこの豪華絢爛な衣を身に着けた壮年の男の人が、
先日お召しがあって瑞理がその院御所に出かけていった、その御方だろうか。
あの日は夜遅くまで、瑞理は羽室宮邸に帰って来なかった。
柚子には何も教えてはくれないが、院に呼び出された瑞理は、
あの日いったい院と何を話していたのだろう。
そう思いながらふと隣を伺うと、静かに顔を伏せたまま、
瑞理の肩が心なしか震えている。
さらには、不敵な笑みを口元に薄く浮かべていた。
実に楽しそうな、いい顔だった。
それはつまり、瑞理は院のここにおける登場を半ば予期していないでもなく、
実際に院が現れたことで、自分の予察が的中したことを、歓んでいるのだった。
(まるで子供なんだから)
どうも瑞理には難局なればなるほど愉悦を覚える躁病的なところがあるようで、
それは頼もしいと云うよりは、少しやんちゃが過ぎるように、柚子には思えた。
しかし院はそんな瑞理ではなく、隣にいる柚子ばかりを注視している。
その眼光の重みと強さは、柚子の首根を掴むようだった。
「羽室宮、それなる姫は」
「妹です」、もう一度瑞理がしれしれと嘘をつくのと、
「院、これが先日、狩の途上で羽室が見つけた天女です」
院の後ろに控えていた貴人が暗がりから院に囁くのが同時だった。
聞き覚えがある声だと思ったら、あの日瑞理と一緒に狩りをしていた、
大鱗の親王だった。
扇で顔を隠している上に、今日はあの日と違い綾錦を身につけている柚子なのに、
あの日、水たまりに漬かっていた泥娘だとひと眼で分かるとは。
親王の眼力に柚子が感心していると、院が大鱗の親王に笑って話しかけるところであった。
「藤壺の御方といい、この姫といい、
羽室の家ばかりを選んで、天女はよりつくとみえる」
そのようで、と大鱗の親王は追従した。
「俄雨が上がったところでした。
大きな虹が架かっておりました。
虹の果てを見極めようではないかという話になり、
獣を狩りながら、我らは共に駆けたのです。
やがて羽室宮が獲物を見定めたとみえて、弓を高く放ち、飛び出して行きました。
見ていると、虹の根元にまっすぐに駆けていくのです。
我らには何も見えぬのに、羽室の眼には、
虹の橋より降り立った天女の姿が、光の柱の中に、見えていたのでしょう」
「それで、そこに、この姫君がいたというわけだな。
その仔細は羽室宮自身の口から先日、聞いた。
中将は天女を矢で射て捕えたというではないか。そうだな、羽室の」
「天女にはとても見えませんでしたので」
瑞理は澄まして応えた。
「そうそう、狩りの獲物と間違えたのだったな。そういう話だったな。
ははは、可愛らしい獲物もあったものではないか。
天女よ、羽室邸で不自由はされてはいないかな」
直答してもいいのだろうか。
迷った柚子が扇をずらして顔を上げると、院と目が合った。
(院は、瑞理の、敵なの味方なの?)
帰りの牛車の中でそう聞くと、瑞理は、「敵」、とすぐに決めた。
(院は、今上帝と藤壺女御の間に生まれる御子ではなく、
ご自身の寵妃にして、帝の妃の一人であられる珠子妃の
生んだ御子を、次代の東宮にしたいとお望みだ。
それには、藤香さまのお生みになる御子が邪魔になる)
(院の寵妃にして帝の妃って……)
(ご自分の愛人の一人を、甥にあたる若い帝に押し付けたってことだ。
でも院と珠子の関係は今もまだ続いていて、珠子入内後に生まれた男御子も、
帝の子ではなく、院のお種であることははっきりしている。
さすがに今のままでは、珠子の子が東宮に立てられることはないだろう。
藤香さまの生まれる御子が、もし男児であったなら、その御子が確実に次の東宮だ。
そしてもしそうなれば、藤壺女御の実家である羽室宮家は、
次代の天皇の外戚として、絶大な権力を持つことになる。
通常、天皇の母系から、摂政関白が立つからな。
院と珠子にしてみれば藤壺女御とその御子、さらに羽室家は邪魔でしかない。
だから、敵)
特に藤香のことは憎んでも飽き足りないくらいだろう、
証拠はないものの、女御を呪詛した形跡まである、と、
瑞理は怖いことを云った。
「しかし帝は藤香さまをことのほかご寵愛だ。
後宮で十重二十重に護られていてはさすがに藤壺女御には手が出せない。
さて院と珠子としては、ここで藤香が天女であることに、目を向けた。
はたして藤香さまは天女なのか?否だ。
それは藤香を女御としてお傍に召し、
藤香のはごろもを取り上げた帝ご自身も、今はよくご存知のことである。
藤香は柚子と同様、何処からともなく都に
辿り着いたマレビトではあっても、天女ではない。
それでも、藤壺女御が天女であるとの風評は高く、内裏においても
はごろも伝説の神秘をまとった女御は今上帝のご威光の象徴として、
好意的に迎えられている。
院と珠子としては、藤壺女御を彩っているその神聖を穢したいところだ。
それにはどうすればいいか。
天女伝説それ自体を、穢せばいい。
天女はそれを得たものに栄華をもたらすものではなく、害をなすものであると、
不吉の徴なのだと、広く天下に知らしめるといい」
それには、悪の体現としての、悪い天女を手に入れなければならない。
院と珠子はそこまでは考えた。
「だが院とても、これは空論に過ぎなかっただろう。
天女は探せば見つかるものではなく、今上帝が藤香を見出されたことこそが、
御世の栄耀栄華を約束する稀有な験として、都人に受け入れられているのだから。
それに、藤壺女御の生む子が男か女かもまだ分からない。
彼らの策謀はいったんは冷えた。
そこに、お前が現れたというわけ」
「------え?」
牛車が揺れて、車の中で柚子は瑞理に倒れ掛かり、
瑞理はそれを支えて、続きを話した。
「あの日の狩場には、院と親しい、大鱗の親王がいた。
大鱗の親王は今上帝とは異母兄弟にあたるが、生母の身分がきわめて低いため、
一生日陰で終わる名ばかりの親王さまだ。
院と結びつき、帝、もしくは次の東宮を退位に追い込む陰謀に加担しても不思議はない。
大鱗の親王は、多分、羽室の人間である俺に近付いて、
何かと院に告げ口をしているのに違いない。
先ほど渡殿で、偶然を装って院がお出ましになったのも、
近いうちに柚子を連れて藤壺女御を見舞うと、以前に俺が親王に話していたからだ。
あのままお前を、お前を見つけたあの野に放置していたら、
柚子は今ごろ大鱗の親王から院に召し出され、天女伝説を、ひいては
藤壺女御を貶める目的で、院に利用されていただろう」
だから瑞理は柚子の「はごろも」を彼らの見ている前で取り上げて、
この女は俺のものだ、と先手を取ったのだろうか。
左右にゆっくりと揺れながら夜を走る牛車の中で、柚子は車酔いを覚えた。
でもそれは私の為じゃない。
藤壺女御さまの為に、瑞理はそうしたんだ。
そんなに好きなんだ、藤香さんのことを。
帝の女御になった限りは、いくら一途に想っても、
藤香さんとはもう二度とこの世で結ばれることはないのに。
手の届かぬ天上宮に去った天女のことを、今もそんなにも想っているんだ。
ななくんを可愛がるはずだよね。
だって、ななくんは、藤香さんの忘れ形見だもの。
そういえば、ななくんは目元や顔立ちが藤香先輩に似ている。
七瀬、と呼ぶ時の瑞理は、いちばん、やさしい顔をしている。
本当に、愛しそうな顔をして見ている。
羽室の家で、頼る処もなく心細い想いをされていた藤香さんを、瑞理は慰めたのだろう。
やがて女御とするべく帝の命で宮家に預けられていた、逃げ場のない藤香さんを
瑞理はいとしく想ったのだろう。まだ短い藤香さんの髪を撫でながら、
その涙を拭ってあげただろう。
(乱暴者だけど、瑞理の心は、強くてやさしいもの)
しかし、そんな瑞理は牛車を途中で停めさせると、柚子を残して車を降りた。
「ここから羽室邸はすぐだ。供もつけているし、一人で帰れるな」
「何処に行くの、瑞理」
「逢瀬の約束ができた」
「誰と!?」
「見てただろ」
車を降りた瑞理は檜扇を片手で広げて星空に見せた。
(白鷺の君)
「じゃあな」
動き出した牛車を残して、瑞理は供人の連れていた馬に乗ると、さっさと路を戻って消えた。
貴族の男子が方々に恋人を持つのはこの時代には当然なのだから、と
この胸に言聞かせても、柚子は面白くなかった。
あの様子では、白鷺の姫君だけではなく、どうやら瑞理は他にも
たくさんの女人と関係があるらしい。
不潔な奴、何てやつ、何も藤壺女御と御逢いしたその日に、
他の女の処に通わなくてもいいじゃない。
(信じられない、七瀬くんだってあんたの帰りを待ってるのよ、あんた父親でしょ?)
それに、私を一人残して、もしこの帰り道で誰かに襲われたらどうするのよ。
『いつでも気が向かれたら羽室邸より、
わが御所に飛び移って来られよ。
ちょうど良い花の木も、園もあるぞ。天女よ』
透渡殿で誘いをかけてすれ違って行った院の言葉を思い出しながら、
瑞理の不実に怒りつつ、
柚子は牛車に揺られながら、いつの間にか眠っていたらしい。
牛車の通りを告げる供人の前駆の声が遠のいて、
やがて軛が搨に置かれる音がした。
屋敷に着いたのだ。
降りる時には車の前から降りる。柚子は差し伸べられた手に手を重ねた。
「ようこそ、柚子どの」
その声を辿って顔を上げると、篝火の明かりに照らされて、
柚子に手を貸しているのは、大鱗の親王、その人だった。
[四に続く]
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