[天女のはごろも]
■四
「ここは帝室の後院なのだが、柚子天女を迎えるのに、
不都合ということは、ないでしょうね」
大鱗の親王は柚子を牛車から手伝って降ろした。
篝火に照らされたその姿は紛れもなく、御所の渡殿で院と共にいた若き親王である。
動転のあまり、柚子は「瑞理は」と、そこに居るはずもない瑞理を探した。
「ここは。瑞理は」
親王は身分に相応しく品良く、しかし作り笑いで、微かに笑い、
「何も心配することはありませんよ。羽室宮も、承知の上のことだから」
柚子を連れて行く。
親王は最初に柚子を抱え上げて運ぼうとしたのだが、
慌てて柚子は親王から身を引いた。
「柚子どの、脚は」
「もう平気です」
「それでは、こちらへ」
「瑞理がこのことを知っているなんて嘘だわ。私を羽室邸に返して」
「そんなに怖がることはないのに。それが証拠に、ほら、
羽室邸の家従たちはそのまま、ここで車と共に貴女を待つのです。
それだけではなく羽室の家にも、柚子どのがここにいることを伝える遣いを出した。
今ごろ宮中で女人と語り合っているであろう瑞理にも、同じことを伝えました」
「じゃあ瑞理が来るわ。きっと来るわ」
「来ませんよ。少なくとも今すぐには」
分かるでしょう、女のところにいるのだから、と
含み笑いをしながら肩をすくめて、親王は庇を出て夜を仰いだ。
「ここから羽室邸は近いのですよ。
真夜中までにはお帰しします。
月があのように美しい晩なのだ、ほんのちょっと、寄り道していかれなさい」
「変な真似をしたら瑞理が黙っていないから!」
「随分と羽室中将のことを信用しておいでなのだなあ」
親王は笑った。
灯に照らされた痩せた横顔は事の首尾に満足そうであったが、
何事にも誰かと比較をしては自分の不足を思い知って来た者特有の、
一抹の薄黒いしみが、ひ弱く差しているようだった。
「貴女の危惧するその変な真似とは、一体どんなこと。
瑞理に与える貴女の信頼の半分くらいは、わたしに寄越しなさい、柚子どの」
縁の簾を持ち上げて月が望めるようにした室で、柚子を前に
親王は腰を落ち着けた。
「さて、しばらくだったね、天女」
「私は天女ではありません」
二人きりにされて怖気たが、柚子は強く否定した。
(瑞理のバカ、あんたのせいよ)
柚子を残して女の許に行ってしまった瑞理を胸中で罵りながらも、
柚子は瑞理がここに来てくれるのを願った。
平生は使わない邸らしく、庭は荒れて池も曇っていたが、
親王の訪れににわか仕立てにも座敷の体裁は整って、酒も運ばれて来た。
「天女ではない」
柚子のその応えを聞くと得たりとばかりに、大鱗の親王は持ち上げかけた
盃を静かに下に置いた。
「天女ではない。そう、それが聞きたかったのだ」
「………」
「髢(かつら)のない、髪の短い、しかし尼ではない女人。
それでは貴女はいったい何者なのだ、柚子どの」
付け毛は気持ちが悪かったので、
御所を退いて牛車に乗った途端に、もぎ取って外していたのだ。
植え込みの草や潅木が、大木を過ぎて庭に降りる夏の夜風にざわつた。
重みの足りない柚子の髪を、親王はもの珍しそうに見ていた。
何者なのだと問われても、ただの女子高生である。
取柄といってもこれといって何もない。
挑発に乗って、柚子はそのままを応えた。
「ただの人です」
「そう。藤壺女御が天女ではないようにね」
親王は深く頷いた。
帰りの牛車の中で聞いた瑞理の話を思い返して、柚子は心配になった。
もしかして拙いことを口にしただろうか。
大鱗の親王は藤壺女御の敵であり、院と珠子の手先だと云ってはいなかっただろうか。
親王は柚子を招いた。
「柚子どの、もう少し近くに。そこでは月が貴女を照らさない。
よく貴女を見たいのだ」
「ここで結構です」
「もう少し、近くにおいで」
しまった、と思った時には、素早く手を掴まれていた。
乾いた手だった。
羽室宮から何を聞いたか知らないが、わたしはそんなに悪人ではないよ、と
親王は囁くのだった。
「その様子では疑っているのだね。
でもわたしは、大それた悪事が出来るほどの器じゃない。
少なくとも、院やその愛妃よりはずっといい。
それに、わたしは羽室宮が好きだからね、彼とは長く友人なのだ、
だから瑞理の気性はよく知っている、
あの男を本気で怒らせるなど、ぞっとしないな」
そんなことを云いつつも、親王は柚子に膝を進めて、肩を抱きすくめてしまう。
この方が話しやすい、と親王は断った。
「貴女に逢ったら、聞いてもらおうと思っていたことを
今晩は聞いてもらうつもりで、ここにお連れしたのだよ」
身を離そうとしても袿の裾を抑えられて動けない。
衣に焚き染めてある親王の香の匂いが柚子を近くから包んだ。
瑞理の好むものとは違う、幾重にも冬を重ねたような、薄暗い澱みのある香りだった。
「何もしないよ、柚子どの」
「は、放して」
「いったい瑞理はわたしのことを貴女に何と教えたものか」
苦笑いで溜め息をつくと、柚子を抱く手を少し緩めて、
自分の方がよほど傍若無人のくせに、と、親王はここにはいない男をぼやいた。
「柚子天女」
「な、何ですか」
「いつかわたしも、わたしの天女が欲しいと、思っていた」
「私、天女なんかじゃない」、柚子は懸命に否定した。
「天女ではありません」
「そのほうが都合が良い方々もいる。貴女や、
兄上の藤壺女御が天女ではないことを、悦ぶ人たちが。
しかしわたしはまだ迷う。
虹の橋を渡って、どこから貴女は来たのだろう」
親王は柚子の腕を引寄せると、柚子の顔を灯火と月に向けた。
柚子は必死で目を庭に逸らした。
高貴な人だけど、これ以上変なことをされたらどうしよう。
接吻とかされそうな勢いなんだけど。
瑞理、たすけて。
この人を殴ったりしちゃ駄目?
「あ、そうか」
親王は笑った。
「その様子では、まだ本当に、瑞理は貴女に手を出してはいないのだな」
「て、手を出しているのはあなたでしょ、止めて下さい」
「帝や瑞理が羨ましい。
柚子が天女だからというだけではない。
よしんば柚子が後宮や町小路の女たちと変わりのないただの女人であっても、
わたしは柚子に目をかけるだろう。
遠つ国より訪れた風変わりな女は、それだけで、男にとっては値打ちがあることを、
貴女は知らないのだな。
稀なる女よ、あの雨上がりの野で貴女を初めて見た時より、
是非もう一度逢いたいと思っていたのだ。
どうして貴女を射止めたのが瑞理であってわたしではないのかと、悔やまれてならない」
「何をする気ですか」
「何も」
「私を帰して」
「どこに」、素っ気無く親王は訊ね返してきた。
「どこにって……」
「都の何処にも、貴女の帰るところはもうないのではないのかな、柚子どの。
あの紅の羽衣もがなければ、天にも昇れないのではないのかな。
わたしは貴女が天女であっても、そうでなくても、構わないと云っているのだよ。
確かに院に唆されて、ほんの少し藤壺女御に関る或ることで力になってもらえれば、と
思ったこともあるが、そんなことは羽室宮が許さないだろう。
それならわたしはまだ彼の友人でいよう、
院と珠子さまとも疎遠にしよう、その代わり、
貴女を譲ってもらえないかと、瑞理に云ったのだ。瑞理は、快諾したよ」
「瑞理がそんなこと!」
「だから彼への親愛の半分を、わたしに寄越しなさいと云うのだ。
羽室宮との付き合いは貴女よりも長いのだ、あの男はそういう男だよ」
「私を譲る……」
「羽衣は抜きという条件で。そして選ぶのは柚子どの自身に任せるという、約束で」
「か、勝手に決めないでよ!」
「選ぶのは、貴女だ、柚子どの」
親王の手をふり払い、腰を浮かした拍子に、後ろの衝立にぶつかった。
ひどい。
これじゃまるで私は、藤香さんの安全無事と引き換えに差し出される人身御供じゃないの。
瑞理は愛する藤香さんを護りたい一心で、私のことを捨てる気なの?
親王が院を裏切るその代償として、平気で大鱗の親王に私を渡すの?
月光が滲んだ。
(私のことなんかどうでもいいの?要らない子なの?)
何ものにもかえがたい。
お前は俺のものだと云った、瑞理の声。
脚の傷に血止めの布を固く巻いて、もう大丈夫だと柚子を見上げた顔。
藤の見える後宮、百合の香りの中で、ずっと下を向いていた。
御簾の向こうのいとしい人。
「ああ、ああ、泣いてしまわれて」
女に慣れた男の手が柚子の頬を撫ぜた。
「天女はよく泣くのだな、可愛い」
「瑞理が、私を、あなたに」
「無理強いはしないように、固く誓わされてしまったよ。
まったくあの男は、畏れ多くも相手が帝だろうと、誰であろうと、
自分の意を通してしまうのだからね。
気がつけばそうなっているのだ、彼の人徳だな。
母の身分が低く、生まれた時から軽んじられ、
疎んじられてきたわたしとは、そんなところが、大分違う。
嫉ましくて、眩しくなる」
自嘲と羨望を織り交ぜて、それを映し出す無情の月に、親王は顔を傾けた。
「何もかもわたしには敵わない。
羽室宮から眼が離せず、裏切りたいと思いつつも、
結局は裏切れないのだ。
そのうち柚子を連れて藤壺をおとなうと彼が云うので、
それではその帰りに柚子どのをお借りしようと冗談のつもりで云ったら、
そうしたらいい、とあっさりしたものだった。
どうせ彼は今頃、女の髪に埋もれて、眠っているのだろう。
伸びやかで豪胆で、自由な男、いつもそうだ。出逢った時から変わらない。
どうも、わたしは彼の話ばかりしてしまう。
まるで父を慕う赤子のようだろう?我が身のことながら、そのあたりが可笑しいものだ」
「瑞理は、そういう人だから。誰にでも等しく、強いから」
ぽたぽたと涙が落ちた。
柚子は涙を袖で拭った。
親王が赤子なら、私だって似たようなものだわ。
瑞理が恋しくて泣いているのだもの。
見捨てないでと、哀しんでいるのだもの。
「わたしの許に来るといい、柚子どの」
夏なのに、冬の香りがした。
人知れず若い孤独を溜めてきた、冬の枯野の匂いだ。
瑞理と歳も変わらないのに、疲れた人みたいだ、親王は。
兄帝からも公達からも、瑞理からも、軽んじられていることを、うすうす知っているんだ。
それでも、少しでも、正しく生きたいと思っているのだろうか。
そのために、私が欲しいのだろうか。
「虹の天女。わたしこそ、貴女が必要なのだ。
兄帝が藤壺女御を手に入れ、瑞理が柚子を得た時、
わたしは思ったものだ。
何故あのように恵まれた者に、さらなる恩恵が下るのだろう、
彼らは何もかも持っているのに、天女までが彼らを選ぶ。
わたしは栄耀栄華など望まない。
兄に代わり帝の位が欲しいと夢に見たこともない。
それでも生きて行くには、人並みに、わたしにも誇りが欲しい。
貴女がわたしにそれを与えてくれる。せめて、天女を妻にしたい。
たとえ羽衣がなくとも構わない、柚子が欲しいのだ」
誰よりも真摯で切実な願いごと。
しかし柚子は首をふった。
親王の気持ちに嘘がないことは分かる。お淋しい人なのも分かる。
善良な人であることも。
でも、それは違う。絶対に違う。
「何が違うのだ。何故そのように首をふり、わたしを拒むのだ、柚子どの」
「親王は全然、分かっていない」
「何をだ。数ならぬ身とはいえ、わたしは親王。
そのわたしが約束しようというのだ、妻は貴女だけだ。
姫きょうだいの多い羽室宮と比べて財もあり、贅沢も与えてやれる。
あちこちに女を持っている、瑞理とは違う」
柚子は大鱗の親王から逃れて後ずさりした。
風が吹いていた。
夏の風にしては冷たい夜の風だった。
背筋が氷のように冷たいのは何故だろう。
奥の間に続く屏風の合わせ目が、いつの間にか少しだけ開いている。
底の知れぬ暗い切れ目が、垂れた蜘蛛の糸のようだ。
最初から開いていたかしら。
その間にも、大鱗の親王は、柚子の手をいよいよ握り締めてきた。
声を潜めて、親王は柚子の耳に囁いた。
「わたしの天女」
違う。
「柚子どの!」
柚子は、冬の香ごと親王を押し戻した。
もし、瑞理が私のことをもう要らないというのなら、それでもいい。
藤香さんの為に他の男の人の家に行けというのなら、そうしてもいい。
でも、それはちゃんと瑞理の口から聞きたい。
「私には応えられません」
「何故だ、柚子」
胸が苦しくていっぱい。
何処かへ行けと、私を見て、そう云って。そうしたらそうしてもいい。
柚子は叫んだ。
「だって、そこには親王の願いだけがあって、私の気持ちが一つもないもの!」
「騒がしいこと。同じ天女でも、藤壺のとは、ずいぶんと違うではありませんか」
女の声とともに襖子が開いた。
まず見えたのは、冴えた目をした、艶かしい、女の白い顔だった。
それは豊かな黒髪を連れて、いつまでも衣を引いて、闇と共に出てきた。
背の高い、豊かな女だった。
女は片目を吊り上げて、柚子を見下げた。
(潰してやる、小娘)
その目はそう云っていた。
悪い笑みが、そのまま、誘いになる女の顔だった。
今にもその白い顔が割れて、嘲笑と勝ちの笑いが湧き出しそうだった。
大鱗の親王はゆっくりと柚子から離れた。
庭池の水の流れも止まったようだ。
「珠子さま、このようなところにお越しあるとは」
「親王さま、これが、例の羽室宮の天女ですか」
何枚もの紙を擦り合わせて、嬌声の色香をかけたらこんな声になる。
漫画の蛇女よりも、怖かった。
[五に続く]
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