天女のはごろも

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[イセカイ召喚ファンタジー] 天女のはごろも Yukino Shiozaki





[天女のはごろも]
■五




瑞理が駆けつけてくることは、ついになかった。
大鱗の親王は約束どおり、
月が中天を過ぎる頃には柚子を羽室宮邸に送り届けて帰してくれたが、
何があったのかと心配する女房の小堀も遠ざけて、柚子は一人でいた。
星が消え、朝焼けの静かな水色が東の空に広がっても、妻戸に凭れていた。
やがて門が開いて、ようやく瑞理が帰邸した気配がした。
瑞理はそのまますぐに参内したようだ。
それを見届けて、柚子はようやく眠りに落ちた。
----柚子どの。
送りの車の中で、大鱗の親王は沈痛な顔を扇に隠して、
嘆息をついた。
-----今宵は申し訳ないことになってしまった。
   それでも、貴女を求めるわたしの心だけは、
   まことのものと信じて欲しい。
-----わたしの天女となり、わたしの許に来て欲しい。

「ゆず、あそぼう」
夢の合間に、七瀬が横になった柚子を揺さぶる声がした。
薄目を開けて少しだけ相手になってやり、藤香先輩からもらったお菓子を
七瀬に与えて握らすと、柚子はまた目を閉じた。
可愛い子。
こんな小さな男の子でも十数年後には一人前の公達になって、
恋人の許から朝帰りしたり、朝廷に出仕するようになるなんて、何だか信じられない。
(そのお菓子は、あなたのお母さんからのものよ)
眠る柚子を近くから覗き込んで遊びたがっていたが、女房に連れて行かれた。
やっぱり、藤香さんに、面差しが似ていた。

庭木の緑を叩く雨の音に目を覚ました。
午後の庭を翡翠色に曇らせて、夏の雨が降っていた。
雲間からは雷の音が漏れていた。
冷気に衣をかき寄せると、几帳の陰に、瑞理がいる。
朝政から退出した瑞理は女房の小堀から柚子の様子を聞くと、
柚子が起きるのを待って、ずっとそこに居たようだった。
手を打って、柚子の食事を運ばせると、女房をさがらせた。
瑞理は静かに近付いて、眠る柚子の額に手を乗せたが、柚子は背中を向けた。
雨脚は強くなるようだ。
雷鳴が聞こえて、時々、空が光った。
稲光を眺めている瑞理の横顔は何を考えているのか知れない。
懸盤に整えられた食事には手をつける気になれなかった。
昼間なのに、薄暗く、雨の音しかしない。
泥の底のいるみたいだ。
どうして、そこに居るの、瑞理。
私を親王へ渡そうと謀ったくせに、心配する真似なんかよしてよ。
(柚子って泣かないよね)
よく、友だちにそう云われた。
(いいね。強く生きていけて)
衣に顔を伏せて寝たふりをしながら柚子は
今まで人前では絶対に泣かなかった自分が、こちらの世界ではすっかり
泣き虫になっていることを思い返して、不思議に思った。
瑞理の好きな香を、もう覚えてしまった。
湖を渡る風と、青い空が見える。
それなのに心が壊れそうだ。
瑞理が好きなのは、私じゃない。

-----柚子がわたしの許に来てくれるなら、院と珠子妃とは疎遠にし、
  藤壺女御への陰謀にも決して加担しない。これは瑞理の意向でもある。

-----良い返事を待っている。

雨が降っていて良かった。
自分の心によく耳を澄ましながら、別人の心のように雨音に誤魔化して、
涙を心に隠すことが出来るから。
白く煙る庭の水たまりの面に、女の顔が浮かび上がって、こちらをじろじろと見ていた。
その目は柚子だけではなく、藤香さんも標的に据えていた。
昨夜、柚子が後院にいるとの報せを受け、羽室宮家からは急ぎ、
菓子が届けられていたが、その菓子をひと目見るなり、
「赤い菓子。見るからに不味そう。わたくしの嫌いな色です」
珠子は決めつけて横に除けた。
藤香先輩は、本当に殺されてしまうかも知れない。
あんな人に付け狙われたら最後だ。
何事も自分を中心に動いていかなければ気が済まない、高慢な顔をしていた。
後宮の魔窟の中で、藤香さんが磨り潰されるようにして殺されていく様が浮かんだ。
目を閉じて。
けたたましいその笑い声のように雷が落ちた。
誰か、悪いものを振り払って。
柚子は身体に掛けた衣の中で目を閉じ、唇を噛み締めた。
やがて雨が上がり、空が晴れた。
白い雲が雨雲をどんどんと山の向こうに追いやり、空に日が差してくると、
立ち上がった瑞理は戸を開け放ち、明るい風と光を入れて、柚子を無理やりに起こした。


「出かけるぞ」

何処に、と訊く間もない。
抱き上げられて馬に乗せられると、瑞理は人のいない雨上がりの路に馬を飛ばして、
雨の降り止んだ野を渡り、初めて逢った広野に馬を走らせた。
「悪かった」、木々の梢から雨粒のふり落ちる濡れた風の中で彼はそう云った。
何が「悪かった」のだろう。
大鱗の親王との取引に、柚子を利用しようとしたことだろうか。
それとも昨夜何があったのかと、柚子に何も訊ねないことだろうか。
昨夜、後院であったことを、瑞理は親王から聞いてもう知っているはずである。
院の愛人にして帝の妃である珠子は、鼻先で嗤うと、
扇の先で柚子の髪をはじいて慢罵した。

(天女を詐称する女に、侮辱されたと、後で帝によく申し上げておきます)
(何もかもが気に食わない。そこのそなた身の程知らずにも、
 藤壺女御に続いて、よもや入内など望んではおらぬでしょうね)
(もしも、その見っとも無い髪を後宮で見かけることになりでもしたら、その髪、
 さらに切り落とされて見苦しくなるやもと、覚えておおき)

空高く、大きな虹が出ていた。
瑞理は柚子を見つけた場所で馬を止めた。
柚子を馬から助け下ろすと、瑞理は泥の跳ねた柚子の衣を脱がせた。
昨日藤壺を訪れた時のまま、柚子は中にセーラー服を着ていた。
露珠が風に光り流れる中で、瑞理は柚子の頬を両手で包んだ。
何か云いかけて、それを止めると、瑞理は柚子に少し笑って無言で頷いてみせた。
そして緋色のリボンを取り出すと、肩越しから胸元へと、
そのリボンを柚子の制服の衿に通した。
両肩を抱いていた瑞理の手が離れて、柚子を押し遣った。
「瑞理」
何かの予感に追われて柚子が叫んだ時には、もう、柚子の身体は虹色の霧の中にいた。
弧を描く虹の光が、柚子を呑み込み、頭からつま先までをきらきらと照らし出していた。
虹の滝だ。
「瑞理!」
野山が薄れ、こちらを見つめて立っている瑞理の姿が、光の向こうにかすんでいく。
「瑞理!」
柚子は手を伸ばした。
瑞理、いやだ。
帰りたくない、私。
彼の名を呼んで手を伸ばした柚子を、瑞理は黙ったまま、少し眉根を寄せて見ていた。
唇を引き結び、両手を握り締めて黙って見ていた。
私を帰さないで。離さないで。
朧な霞の彼方に、学校の階段の踊り場が見える。
湖の国もまだ私は見ていない。
どこからこんな声が出るのかと自分でも魂消るほどの必死の声を上げて、
溺れる者のように柚子は叫び、瑞理に向けて手を伸ばした。
夏なのに雪が舞っていた。
七色の雪だった。
虹の滝の彼方に、全てが夢のようにぼやけていく。
虹色が燃えている。
悲鳴を上げて沈んでいく、昇っていく。
私を帰さないで。
離さないで。

「瑞理!!」

ぐいと腕が引かれて、柚子は野に倒れこんだ。
雨に濡れた草むらに転倒した。
瑞理は柚子を抱きしめて、息を切らしている柚子のセーラー服から
リボンを素早く抜き取った。
最初に逢った時のようにそうした。
「バカ野郎」
あいかわらず、口が悪い宮さまだった。
「ごめん瑞理、ありがとう」、精一杯、息を切らして柚子は応えた。
瑞理はかんかんに怒っていた。
緋色のリボンを握り締めて、柚子を怒鳴りつけながら空を示した。
「お前が火事場のめんどりみたいな悲鳴を上げるからだ!
 みろ、せっかくの虹が消えてしまったじゃないか」
羽室家に伝わる話だ、と柚子を連れて屋敷に帰る途上、
瑞理は柚子に話して聞かせた。
まだ都が奈良にあった頃のことだ。天女が羽室家の人間の前に現れた。
羽室の先祖は、天女と契り、子も生した。
或る日、雨が降り、空に虹が出た。
天女は俺の先祖が隠し持っていたはごろもを手に取ると、野に走り、そのまま
虹の中に消えてしまった。

「天女は現れたのと同じ場所かかった虹を渡らないと、天には戻れない。
 男は天女のはごろもを慎重に隠していたが、
 庭で遊んでいた子供が、桃の木の根元に埋められているそれを見つけた。
 藤香さまは違う。
 女御は何処に降り立ったかを覚えておられない。
 御陵のある天領地にさ迷いこんで、当時東宮であられた帝の前に引き据えられた時には、
 何日も山中を彷徨った後で、奥深い山河のどのあたりに虹から落ちたのか、
 その記憶を全て失っておられた。
 帝が藤香さまのはごろもを燃やしてしまったことは俺も知っている。
 だがもし、はごろもを藤香に返したとしても、
 藤香さまは虹の彼方に帰ることは叶わなかっただろう。
 訪れたのと同じ処からでないと、虹の橋は天女を運ばない。
 帝は、羽室家に伝わるその天女の伝説を、俺から聞いて知っておられた」

これは俺がまた預かっておく。
そう云って、瑞理は柚子の制服のリボンを取り上げた。
泥だらけの貴人が半ば怒鳴るようにあられもない格好の女に話しかけながら
馬に乗せていくのを、往来の都人は愕いて見送っていた。
飛び石のように空を明るく映して、水たまりが道に澄んでいた。
柚子は瑞理にしっかりと掴まって、馬に揺られていた。
「まあ、お前の場合は嫌になったらその時に、いつでも帰ればいいからな。
 柚子のはごろもは俺が持っているんだ。
 虹の出るその機会はそのうちまた、あるだろう」
屋敷に戻り、互いに汚れた装束をあらためた夕刻である。
雷雨の去った夏の空はこがね色に晴れていた。
入り乱れて輝いている雲を見上げながら、瑞理はまだ今日の虹を惜しんでいた。

「今後のことを考えなくちゃな。
 たとえ戻る国を失ったのは同じでも、
 瑕なき玉のごとくに帝の御寵愛深い藤壺女御のことはともかくも、
 お前はどうする。
 俺はそれも考えて、大鱗の親王ならば柚子の婿にちょうど良いと思った。
 物好きにもあの男、柚子のことを本気で気に入っているようだ。
 惚れた女を得ると見違えるように頼もしく変わる男がいるが、
 俺の見るところ、親王はそういった男のように思われる。
 親王は実際の政治には介入しないのが不文律だから、
 道を迷わない限り、大きく失脚することもないだろう。
 親王の妃になるのが一番いいと俺は思う。
 あ、柚子が嫌なら、もちろん無理しなくていいぞ」

夕涼みの縁には七瀬もいて、
柚子が持ち帰って渡した藤壷女御の飴を舐めていた。
その飴の色のような、明るい夕暮れだった。
鈍感なのか知らぬ顔を決め込んでいるのか、柚子の想いも知らぬ気に、
直衣の片膝を立てて、真面目に瑞理は考えている。
「柚子が泣き寝入りしているのを見て、
 宮中にとってかえして親王を叩き斬ってやろうかとも最初は思ったが、
 よく考えたら俺にはそんな義理はないからな。
 ちょうど雨が降って、虹が出た。
 柚子を国に帰したほうがいいと思った。
 でも、昨夜は新王に何かされたわけではないと聞いて、安堵した」
白鷺の君と遊んでいたくせに。
親王よりもむしろ瑞理を張り飛ばしてやりたいような気持ちで
柚子が黙っていると、
瑞理は次の案を出してきた。
「それとも帝に頼んで、
 藤香さまのお話相手として、後宮に出仕でもするか」
「出仕」 
身体が強張った。
畏れ多くも帝の妃である藤壺女御に対しては珠子も遠慮しようが、
柚子が宮廷に出仕することになったら、どのような手段を用いてでも、
柚子は珠子に葬り去られること確実である。
柚子は身震いをした。
おそるおそる訊いてみた。
羽室宮家には姫が多く、それぞれに婿を持たせるとなると、
その婿、及び生まれた孫の面倒も見なければならず、
何かと物入りなのだと大鱗の親王も云ってはいなかったか。
一応は天女として目されている柚子は藤壺女御にも縁深い者として
この屋敷で丁重に扱われてはいるものの、
家政を取り仕切っている北の方には気苦労をおかけしていることだろう。
瑞理と離れたくないといっても、
このままいつまでも羽室の家にやっかになっているわけにはいかないようだ。
それもあって、瑞理は親王のところへ行けと勧めるのだろうか。
「瑞理は、私がここにいるのは、迷惑なの」
「そんなことはないが、何といっても、ここは父上の屋敷で俺の家ではないからな」
それとも、と瑞理は首を傾けてこちらを見る。
「お前、俺の女房になるか」
女房といっても、もちろん妻という意味ではない。
瑞理付きの侍女である。
それでもいいなと柚子は思ったが、
瑞理は「いや、駄目だ」と結局は自分から否定した。

「天女と信じられている柚子を、女房などに落したら、
 藤香天女の評判にも翳りが差し入る。それでは、院と珠子の思う壺だ」


だから尚更、柚子の夫となる男には大鱗の親王がちょうどいいんだがな、と
瑞理は頬杖をついた。
帝の弟御である親王の妃も藤壺女御と同じ天女なのだと人々が聞けば、
今上の御世のご威光は磐石のものとなる。
「親王の妃になれば藤香さまとも親しく逢えるぞ。
 親王に引き取られるなら、そんなお下がりの衣じゃなくて、
 調度もよく整えてもらえて、大切にしてもらえるが」
と、どうあっても親王の許に行かせたいらしい。
それが柚子の為を思ってというよりは、やはり、藤香さんを第一としているのが
柚子には堪らない気持ちがしたが、
瑞理がそこまで考えてくれていたことは、素直に有難かった。
たとえ愛する藤香さんの為に柚子を他の男に引き渡そうとしたのであっても、
新王に何か傷つくような仕打ちを昨夜、柚子が受けたと思った瑞理は、
(悪かった)
何も云わず、何も求めずに、柚子を元の国に帰してくれようとしたのだ。
人の気負いや気取りや、迷いや弱さを、
無駄な飾りや不要な意地を、一息に取り払ってくれるところが瑞理にはあった。
夏風の中で、泣くことも笑うことも出来た。
「まあ、こちらにおいででしたか、瑞理さま、柚子さま、申し訳ありません」
そこへ、額の汗を拭いながら七瀬の女房が渡殿より走って来た。
七瀬は女房にも女御の飴を分け与え、
「これ、やろう」
にこにこしながら女房の口に小さな手で飴やラムネを押し込もうとする。

「あらまあ、これは何でしょうか。とても美味しい」
「柚子の菓子」
「まあまあ柚子さま、さすがは天女さまです、
 このようにきれいな、珍しい、美味しいものを」

女房は七瀬と一緒になって、飴を夕陽に透かしたり、舐めたりして、大喜びだった。
「家宝にしても良いような美味しさですわ。
 これはあの夕日から、きっと練られたものですわ。
 天女さまは、空の御国では、
 このような見事なものをお食事にされていらっしゃるのですね」
若干気が咎めながら女房と遊んでいる七瀬を見ていると、
瑞理の顔が思いのほか近くなり、
柚子は夕日影が赤くなった頬を隠してくれるようにと願った。
ここに、藤香さんが居ればいい。
そうしたら、ななくんには、ちゃんと父母が揃うもの。
藤香さんが入内する前、瑞理と藤香さんはここで夏の雨や、夕映えを眺めたに違いない。
影を重ねる二人を、虹が横切ったに違いない。
全ては隠されて、ななくんは女御と瑞理の子ではなく、羽室家の子となった。
帝の許に上がってからは遠く引き離されて、藤香さんはそれ以来一度も、
自分の生んだななくんの顔を見ていない。
逢いたいだろうな。
瑞理にも。

「あ、そうだ」

瑞理が突然、大声を出したので、女房が飴を取り落してしまった。
簀子縁を這い回って柚子がそれを探すのを手伝っていると、
七瀬の手が柚子の髪を引っ張った。
「ゆずも、いっしょに、行くのだよ」
「それがいい、そうしろ柚子」
「あにうえも」
「俺は、帝の用があるから附いて行ってはやれないが、
 七瀬と共にしばらく都を離れているといい」
院と珠子から離れて、そこに隠れているといい。
その間に、親王への気持ちも決まるだろう。
時々は、俺も逢いに行く。
大股に庭に下りると、瑞理は草の間から飴を見つけ出した。
飴を女房に渡した瑞理は、「鄙の宮様」と最初は侮っていた宮中の女官たちが
他愛もなく一様になびいた、その若い笑顔を柚子に向けて、
「湖の国はいいぞ」
風吹く山の向こうへと、その涼しい目を遣った。



[六に続く]



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