[天女のはごろも]
■六
大鱗の親王から歌が届いた。
--------夢に逢ひ夢に散りゆく花の香のはかなくたゆる有明の月
柚子は明け方に、夢を見た。
自分の部屋で目覚める夢だ。
何だ、ぜんぶ、夢だったんだ。
(柚子、遅刻するわよ)
(食べながら新聞を読むのは行儀が悪いから止めなさい)
(柚子姉ちゃん、僕の自転車の鍵どこ)
(おはよう柚子。数学の宿題やってきた?)
みんな、どうしているだろう。
学校も、家族も、心配して大騒ぎしているんだろうな。
無事でいるとだけ、伝えることが出来たらいいのに。
(何もかも、ぜんぶ、夢だったんだ)
夜明けの光は、窓からではなく、几帳の垂れ絹から差し込んできた。
夢だったんだ、何もかも、夢だったんだ。
どっちが。
柚子はどちらが現でどちらが夢なのか分からないような気持ちで、目を覚ました。
その朝、瑞理は柚子に水干を着せて、男装をさせた。
湖の国に着くまでは、羽室家の従者にも柚子だと知れないように、
その格好のままでいろとのことだった。
供人にも屈強な者を幾たりか加え、都大路の外れまで、
瑞理は七瀬と柚子の乗る牛車を自ら護衛した。
「何か、あったの?」
「何も」、瑞理は馬上から応えを返したが、
「陰陽師に調べさせると、今日が出立には良い日だったから」
さして気にしたこともないことを持ち出すあたりが、怪しく思われた。
「何か変事があったのではないでしょうか、柚子さま」
柚子の代わりに柚子の装束を身に着けた女房の淡津は、
膝に七瀬を乗せたまま、御所へと駆け戻っていく瑞理の馬影を
惜しそうに牛車の中から見送った。
「暑さが厳しくなる前に七瀬さまを湖の国にお戻しになることは
かねてより決まっていたことではありますが、
柚子さまを変装させたり、供の数を増やしたり、何だか不安ですわ」
折烏帽子をつけると短い髪も隠せるとはいえ男装しても柚子は柚子で、
「変装させた甲斐がない、まるで、鈍くさい白拍子みたいだ」
瑞理ががっくりきていたが、それを思い出しながら袖の菊綴をいじっていると、
ふと、柚子の胸が騒いだ。
何かあったとすれば、今朝届いた、大鱗の親王からの文に
それが隠されているかも知れない。
一字一句変わらなくとも、もしもあれが親しい恋人から届いた文であるならば、
新王のあの文は、
(夢の中で君にあったと思ったのだけど
起きたら君は隣にいなくて、淋しかったよ。
余韻を与えるばかりの、切ない想いをさせないでおくれ)
恋慕と甘えの恋歌として、心に聞こえたはずである。
しかしその歌を女房の小堀に読んでもらった柚子には、
迷宮を歩き続けて壁にぶつかり、張りが失せたような、親王の諦念を
遠くから聞いたように覚えたのだ。
-------諦めなくてはならないようだ。
でも、何を。
そんなことを考えて余所見をしている柚子の膝に、何かが飛んできて当たった。
「いけませんよ、七瀬さま。このような狭い乗り物の中で、
お手にあるものを振り回したりしては。
柚子さまに当たったではありませんか。
申し訳ございません、柚子さま」
落ちたのを拾い上げて見ると、布で作られたウサギである。
「淡津が作ったの?」
「いいえ、それはもったいなくも、藤壺女御さまがお縫いになったものなのです」
と申しましても、先輩女房からそのように聞いているだけの話ですが、と
淡津は断った。
「羽室宮家に御泊まりであった女御さまが、入内される前の日に、
ご自身でお作りになって、七瀬さまに下されたものなのです。
七瀬さまをお生みになられた女人は産後すぐに亡くなられたそうですが、
その頃、湖の国の別邸でお過ごしだった女御さまは、
はかなくなられたその方と、残された七瀬さまのことを、
憐れに思し召してこれを七瀬さまに下さったのでしょう。
ね、七瀬さま、女御さまから戴いたこのうさぎは、特にお気に入りなのですよね」
「ゆずに、あげよう」
「ううん。これは、ななくんのものだから」
しゃぶられたり握られたりしているうちにすっかり汚れて、
耳に縫い直したあとのあるそのウサギは、
別れていく藤香さんが子供に与えたものだった。
帝はお優しそうな方だったし、
本当のことを打ち明けて七瀬くんを藤香さんの近くに呼び寄せることは
出来ないのだろうかと思ったこともあるが、本当のことを打ち明けることになれば、
帝が望んだ女人を、それと知りつつ横から奪った格好になる瑞理がただでは済むまい。
死罪は貴人に対して厭われた時代であるから
帝の慈悲をもって死罪は免れたとしても、一族郎党、島流しものである。
藤香先輩、瑞理、出産に関った全ての人間が生きている限り、
藤香さんと瑞理は爆弾を抱えて生きているようなものだ。
状況を負担に思うよりはそこを超えることを愉しむ性質の豪胆な瑞理はともかく、
藤香さんにとっては生きた心地もしないこともあるだろう。
(まさか瑞理、無理やり藤香さんを口説いたんじゃないでしょうね)
ありうる。
柚子は扇に顔を伏せた。
鳴り物入りの帝の想い人ということで、尚更それで藤香さんに惹かれたのかも。
(瑞理なら、やるかも)
柚子の片思いは最初から失恋の様相を帯びたまま、車と共に揺れた。
そのが牛車が大きく揺れて、止まった。
先でもめている。
「道を譲られよ、宮家であるぞ」
「そちらこそ、脇に退くがよかしかろう」
「どうしました」
衣裳を取り替えて柚子ということになっている淡津は物見を少し引いて、
従者を呼んだ。
もうじきに山の坂に差し掛かり、牛車から手輿に乗り換えようという
都はずれの人の絶えた場所である。
木々の緑があたりを薄青く翳らせている中、前方に停まっていた牛車が
こちらに向かって動き出したのだという。
道を譲るにしても、かなり崖際に寄らなければならない。
淡津は面倒を避けて、そうするようにと外の者たちに伝えた。
そして柚子に囁いた。
「こちらが宮家と名乗っても臆することもない。
ここは、知らぬ顔をしているほうがいいのですわ。
いずれの貴人かは存じませんが、馬に乗った武官をたくさん連れております。
よほどのご身分の方でしょう。
挨拶もなくこのまますれ違うほうが双方にとって良いのですわ」
ところが、先方はなかなか動かず、扇に乗せて文を届けてきた。
柚子は隙間から外を覗いた。
向こう側の牛車の御簾が持ち上げられて、中の人影が見えた。
夏場なのに、ぞくぞくと血が冷たく引いた。
先で待ち構え、道を塞いでいるのは、院と珠子だった。
『羽室宮家の輿と聞けば、このままつれなく行き違うこともない。
小さな末の宮を、ぜひ拝見したいものだ。』
「淡津どの、信じがたいことではあるが、あちらはどうやら、
畏れ多くも院の御車ではないかと…。女人を連れての御しのびなのであろうか」
しかし、淡津はとっさに機転を働かせた。
「七瀬さまは夏風邪を引かれて、
ただ今もその静養に湖の国に向かう道中なれば
尊き方に悪い風邪がうつっては具合の悪いことです、
そのように、お断り申し上げて」
「それでも構わない、こちらの車に寄越して欲しい、
ひと目顔を見るだけだと仰せです。淡津どの、いかが致しましょう」
柚子が仰天したことに、それを聞いた淡津は、素早く小刀を取り出した。
「淡津、何をする気なの」
「道中、柚子天女さまと七瀬さまを狙うものがいるかも知れないと、
瑞理さまからは予め言い含められておりました。
そのために、この淡津は、柚子さまの衣をお借りして、
いざとなれば柚子さまの身代わりになるべく、
こうして柚子さまに成りすましているのです。
あちらの車の正体、本当にやんごとなき御方かどうか分かったものではありません。
柚子さま、七瀬さまを、拐かすつもり賊かも知れませんわ」
車を囲む羽室の家従も刀に手をかけた。
牛車の中で小刀を握ってそう述べる淡津の手も震えている。
淡津も、怖いのである。
「淡津」
柚子は手を差し出した。
「その小刀、私に貸して」。
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道を塞いでいる前方の牛車が院のものかどうかは、確かめるまでもなかった。
あちらの簾が持ち上がり、そこに、珠子の顔が見えたのだ。
豊かな黒髪にふちどられたその白い顔は、
嘲弄と執念を浮かべ、薄く笑ったまま、こちらを見据えて動かない。
そしてその隣で無言でこちらを差し招いているのは、
これも見間違えようもない、
御所で柚子に声を掛けた、院、その人だった。
「刀を渡して、どうされるおつもりですか、柚子さま」
淡津は云う事を聞かず、手を後ろに隠した。
「もしもあちらが本物の院ならば、
そのような方に迂闊に刃向えば、羽室の家もただでは済みません。
軽率なお考えはお止めください」
「淡津どの、あちらの舎人らがこの車を取り囲みました。
都へ戻る道も、この先の道も、騎馬で塞がれたようです」
「大胆不敵にも院の御幸を装った、追剥ぎやも知れませぬ。
お二方、七瀬さまをお護りし、外には出られませぬように」
「柚子さま、いざとなれば淡津は柚子さまの身代わりに彼らに捕まります。
柚子さまはお逃げください」
「淡津、あれは本物の院なの。
御所で逢ったことがあるから、院は私の顔も知っているの。
だから無駄だと思う」
「それでは従う他ありません」
淡津は観念した。柚子はその手から、無理やりに小刀を奪った。
双方の牛車は近付き、御簾が完全に開けられた。
七瀬をどちらが抱いて出るかという段になっても柚子は譲らず、
淡津に手伝ってもらって、七瀬を背中に背負った。
落ちないように紐でおんぶした。
これは、藤香さんの宝物。
柚子は七瀬を背中に牛車を降りた。淡津もそれに続いた。
「おや」
水干姿の柚子をひと目見るなり、院と珠子の笑い声が山間に響いた。
「これはこれは、天女ではないか。
今日はまた、何故にそのような、奇抜ななりをされているのだ。
存外にお似合いで、愛らしいが、羽室宮家がそれほどまでに
窮乏しているとは知らなかった。
天界より落ちてきた天女に子守の真似までさせた上、
はごろもの代わりの衣のいちまいも、調えてやることが出来ぬとは」
「背中におぶったりして、
あくまでも児が病だと、それで装ったつもりでいるのでしょう。
元気そうではありませんか。
それにその格好。短いおぐしを烏帽子で隠したつもりかしら」
遠慮なく珠子も嘲笑した。
「空を渡る天女どころか、まるで、鈍くさい白拍子のよう」
柚子には言葉もない。
七瀬は外に出れたことが嬉しいようで、おとなしく木漏れ日に目を向け、
明るい緑を見上げている。
鷹揚に院は微笑み、
「幼い児は、みな、かわいい」
そんなことを云いながら、巻き上げた御簾から手を出して、
柚子がおぶった七瀬のみずら頭を撫でたりする。
「院」
その時を待って、やがて珠子がそれを横目に院に囁いた。
帝の妃ともあろう身分で、このように院と共に後宮を離れること自体が
院と珠子の関係の癒着と、それを知る帝および官人の黙認、
さらには両名の権勢の強さを示しているのであるが、
これしきではまだまだ足りぬとでも云うかのようである。
美しい妃ではあるが、驕慢で、強欲な女であった。
珠子は扇で口元を隠しながら、予定の猿芝居を開始した。
「おかしなこと」
柚子にも聞こえるように、珠子は声を張り上げて告げた。
「院、そこな児、羽室中将の弟御にしては、
中将とは似たところがありませんのね」
「そうかな、珠子」
柚子は自分の姿で七瀬が隠れるようにと願いながら身じろぎした。
「よくご覧になって」
「どれ」
わざとらしく院も応じて首を伸ばし、柚子越しに七瀬を見遣る。
七瀬は柚子の肩に顔をうめて、小さな手を木々の光に伸ばしていた。
院はもっともらしく眉根を寄せた。
「そう云われてみれば、中将にも、
あまり羽室宮家の他の誰にも似ておらぬような気がしてきた」
「むしろ、或る御方によく似ているように、わたくしには思われますの」
「それは、珠子」
「それをここで申し上げるには、ちと差しさわりが」
「よい」
「それでも、あまりにも」
「よい、珠子」
「それでは申し上げますわ。藤壺女御に、面差しが何やら似ているような」
ほほほほほほ、と今こそ珠子は笑った。
そしてその笑う目が、哄笑のうちに意地の悪い愉悦を帯びた。
「となれば、中将の弟宮は、藤壺女御が母ということになってしまいますわね。
そういえば藤壺女御は、入内前、
羽室宮家に身を寄せていたのでしたわね。
ということは、羽室宮家の養女であり、中将の姉君である藤壺女御は、
後宮に上がる前に羽室の家において、
どこぞの誰かと、ということになりますわね」
よもやまさかそのようなこともありますまいと思いますが、と珠子は白々しく高く笑ってみせた。
その後で、
「それでも、そこな児は、そのような疑いを覚えたくなるほどに、
目元のあたりがあまりにも藤香天女と似ているように院も思われませんこと、
いかがでしょう、わたくしには、そうとしか思えませんわ」
決定的に言い放った。
思いも寄らぬ妃のこの讒言に、女房の淡津はさすがに愕いて息を呑み、
慌てて主筋に対する冒涜に反論の口を開こうとしたが、
珠子が「女房ごときが!下がれ」その手を扇で打って懲らしめた。
さらに珠子は勝ち誇った。
「どこの馬の骨とも知れぬ流れ者の女を、帝は特にということで、
わざわざ羽室宮家にお預けになったのではありませんでしたの。
つまり、最初から帝が思し召しの女人であるということは、
周知のことであったのではありませんの。
女御によく似たこの弟宮、御歳はお幾つかしら。
藤香天女が都に流れ着いたのは、確か五年前、
藤香女御の入内は三年前、すると差し引きして、ちょうどその間に
生まれたお子のよう、これは一体、どういうことでしょうね」
最初からそのつもりで、彼らはこの山道で待ち構えていたのである。
珠子と院は目配せを交わした。
震え上がっている淡津と、柚子を視野に見据えたまま、
愛人関係にある彼らはいよいよ最後の詰めに入った。
「珠子」
「何でしょう、院」
「話は分かった。ひとつ、この弟宮をお借りして、
帝と、藤壷女御の前にお連れしてみるとしよう」
「それは良いお考えですわ、院。
内裏に上がる前から、帝からは藤香天女には格別のご配慮があったというのに、
藤香天女はそれを裏切って他の男と通じていたということになりますもの。
これは、天子さまに弓引く重罪ですわ。
天女を預かっていた宮家も、知りながら黙っていたとすれば同罪ですわ」
「まだそうと決まったわけではない。
しかし藤香天女と実によく似ているので、帝も、面白がられるだろう」
「この子を前にした時の藤壺女御の顔が見たいものですわ。
もしも本当に過ちがあったのであれば、
相手の男がどこの何者なのかも、聞き出さなければなりませんわ。
藤壺女御の申し開きの場には、是非ぜひわたくしも、几帳の陰からでも、
その見物に預かりたいものですわ」
もう少しで柚子は「自分だって」と口に出しそうになった。
珠子とて、帝の妃でありながら、今だに院と仲良くしているではないか。
珠子が帝よりも院の方が好きだというのなら、それでもいい。
しかし珠子は藤香さんに寵愛を移した帝をお怨みし、藤壺女御を妬み憎み、
院の愛情は未だに独占しながら、帝の寵妃の座も、後宮での権力も、
次期東宮の母としてゆくゆくは中宮に上り詰める野心も、
何もかもを手段選ばず、浅ましいまでに己のものにしようとしているではないか。
七瀬くんと藤香さんを逢わせてあげたい。
でもそれは、そんな意地の悪い、不名誉な、
藤香さんを寵妃の座より失墜させ、羽室宮家に泥と恥を浴びせ、
瑞理の今までの人知れぬ努力と忍従と、その誠実を赤裸々に暴き、
他人の足で踏みにじろうとする、その手引きによる、裁きと暴露の場では断じてない。
満廷を埋めた官人の中で、瑞理が申し開きをしている。
慢罵慾に満ちた殿上人の好奇の視線を一身に浴びながら、
いっそ堂々とも見えるほどに、全ての罪を認め、帝に事実を告げている。
それを見て、院と珠子が笑っている。私たちが勝ったのだと笑っている。
こんないやらしい人たちに汚されないで。
ななくんを帝の前に連れて行かれてはおしまいだ。
瑞理も、藤香さんも、きっと潔く、罪の子を前に、罪の全てを認めてしまうだろう。
「柚子さま!」
柚子は小刀を取り出した。固く握り締めて振りかざした。
「どうするつもりなのだ、天女よ」
小刀を手にした柚子の姿を見て、院を護る近衛武官ら刀を抜き、
柚子に飛びかかり取り押さえようとした。
羽室家の家従らも、蒼褪めながら前へと進み出る。
それを静まらせると、院は七瀬を背中に抱いた柚子に向けてほろほろと微笑んだ。
「水干姿の次は、刀が出てきた。まったく退屈しない天女だ。
きっと何か思い違いをしているのだろう。もちろん、あなたもその子と共に来るのだよ。
羽室宮邸より、わたしの御所にな。この車に乗りなさい」
「七瀬くんは渡しません」
「柚子さま、院に刃を向けてはおしまいです、いけません!」
「その女房の云うとおりだ。逃げ場はないぞ、柚子天女。
いたずらに暴れるとあなたこそ怪我をするのではないかな。
最初からこうなることだったのだと諦めて、刀を渡し、
その子を連れて、さあ、乗りなさい」
「院のお言葉どおりにしたほうが身の為ですよ」
つんとして、珠子が付け加えた。
「何も、同乗させなくても良いのに。狭くなるわ」
七瀬をおぶったまま、小刀を握り締めた柚子は周囲を見回した。
狭い道の前後は閉ざされて、両側は山崖だった。
既に女房の淡津は院の従者に取り押さえられて泣いている。
うろたえて立ち尽くすばかりの羽室家の者も、遠巻きに追いやられて、
この場の誰も、院の威には逆らえぬばかりである。
「よい」
余裕を見せて、院は自ら車を降りた。
「天女よ、この世の極楽とまではいかぬかも知れぬが、院御所もそう悪くはない。
何なら貴女のために一つ、別邸を建ててもよい。
生きた天女が啼く庭は、さぞやわたしを満足させることだろう。
羽室宮ごときでは天から降り立ったあなたをもてなすには不足である、
わたしに飼われるといい。さ、迎えに来てやったぞ」
「近付かないで。七瀬くんはあなた達には渡しません」
「わたしを敬わぬでも、特に、許そう」
「来ないで。七瀬くんが必要なのでしょう」
「おや、賢いことだ。人質をとったつもりか。
そんなことをしても、しなくても、藤香天女の犯した重罪は明らかであるぞ。
もっとも、はごろもを失った藤壺は、もはや天女とも呼べぬ。
天女はここにいる。
あなたのはごろもは、相変らず羽室中将のところか。
それを身つけてわたしの前で踊るのだ、柚の天女。
そして天女を手に入れてから、ゆっくりと、あの生意気な羽室中将を追い詰めて、
彼からはごろもを取り上げるとしよう。羽室中将の苦しむ顔が見てみたい。
いつも傲岸不遜にしているあの男を、ひれ伏させてやるのだ」
「離して」
柚子は院の手を払い、七瀬をおぶったまま後ろを向いた。
その前に馬から下りた近衛の舎人たちが立ち塞がる。
「何処に逃げるつもりなのだ」
笑いながら院が追って来て、柚子の腕を後ろから掴んだ。
震えている柚子の手から、やすやすと、小刀を取り上げてしまう。
七瀬が背中で怯えているのが分かる。
院の声が耳に落ちた。
「わたしの天女になるのだ」
柚子は息を整えた。
ここから逃げなくてはいけない。七瀬くんを渡してはいけない。
「院」
うな垂れた柚子に、院は掴んでいた腕を放した。
「なんだ、柚子天女」
「実は、私、馬にのれるんです」
云うが早いか柚子は近くの者に走って身体ごとぶつかり、それの連れていた馬を奪った。
手綱を手に引寄せて、柚子に突き飛ばされて転がった者の背中を
踏み台にして、馬に飛び乗った。
一蹴りして馬を驚かし、崖際を駆け下って飛ぶように駆けた。
「柚子さま!」
「天女!追えッ」
緑の木漏れ日が、風と共に肺の中いっぱいに入ってきた。
後ろの騒ぎと叫びはみるみるうちに遠くなり、弓が放たれた。
風を切る音が耳元を掠めた。
羽室宮家の家従たちが追いかける帝の近衛舎人の邪魔をしてくれているのだろうか、
怒声の合間に女房の淡津の叫びを聞いたような気がした。
「柚子さま、逃げて!」
遠くに逃れた。
柚子は馬を飛ばした。
崖道を駆け下り、どちらに行けば良いのか皆目分からなかったが、都とは反対を目指した。
七瀬くんを連れて、院と珠子の手の届かぬ、何処か遠くに行くんだ。
そこで二人で隠れ住むんだ。
証拠の七瀬くんがいなければ、瑞理と藤香さんの不実が帝に知れることも、
暴かれることもない。
私がいなければ、天女を欲しがる院に、瑞理が苦しめられることもない。
乗馬の授業で習ったのは短い距離の駆歩までだったが、
無我夢中で道なき道を駆け、馬を飛ばしていた。
どれほど走っただろう。野には風が吹いていた。
「ななくん、怖いだろうけど、我慢して!」
後ろから馬が追ってくる。
追いつかれる。
駄目だ、追いつかれる。
泥地に入ってしまい、馬の脚は遅くなっていた。降りて走ったほうがマシかも。
登り坂に差し掛かった。
「柚子どの」
聞き慣れた声だった。
馬首が並んだ。
「まったく貴女には愕かされてしまう。馬に乗れるとは」
「大鱗の親王!?」
あっ、と思った時には、横から伸びた腕に手綱を奪い取られて引かれていた。
強引に馬を止めてしまうと、親王は柚子を馬から抱き降ろした。そして、
「失礼、柚子どの」
柚子と七瀬を縛り上げた。
[最終回・上に続く]
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