[天女のはごろも]
■七(最終回・上)
舟にぶつかる水音の合間に、ぽつりぽつりと大鱗の親王は柚子に話しかけた。
薄い空には鳥が飛んでいた。
舟ならば院の手の者に見つかっても川を下って逃げられる、そう云って
親王が柚子と七瀬を河岸の小舟に移してから、小半時も経つ。
小舟の中には、柚子と七瀬、親王とその舎人が数人。
縛られているのは手だけなので、自分一人ならば思い切って川に飛び込めば
或いはと思うが、七瀬がそれでは残されてしまう。
舟は漁民より取り上げたものらしく、泥と魚の匂いが強くした。
「かねてよりおかしいと思っていたのだ」
河岸の草が揺れていた。
花のかたちがはっきり見えるほどに、岸辺はすぐそこだった。
柚子にしがみついている七瀬を親王は上から見つめた。
「瑞理を五番目に、羽室宮家には男子が六人いる。
この末子は六番目のはずだ。
なのに何故、七瀬という名なのかと不思議に思っていた。
そしてどうして、「ななせ」という呼び方をするのだろうかと」
舟の縁に背をつけたまま、柚子は遠い世界のことを想った。
それは、ななくんの名をつけたのが、藤香さんだからよ。
だから、七瀬は「ななせ」と読むのよ。
舟に乗せられた時、柚子の頼みに応じて親王は七瀬の縛めだけは解いてくれた。
藤香さんは生まれたこの子に、どうしてこの名をつけたのだろう。
虹が七色だからかな。
「随分と歳の離れた瑞理の弟宮だと思っていた。
瑞理の父である羽室宮にその当時、
執心して通っていた女子がいると噂を聞くこともついぞなかったのに。
しかし藤香女御の生んだ子だと聞くと、なるほどと頷かれた。
目元や額のあたりが、ほんとうに藤壺女御とよく似ている」
その七瀬は泣きもせず、しかし緊張感からか、
舟に乗る前に与えられた食べ物をさきほど全て吐いてしまった。
今は柚子の膝に頭を乗せて、流れに揺られ、目を閉じている。
羽室の家の六番目の男子、七瀬。
「子にすがられて膝が苦しくはないかな、柚子どの」
「いいえ」
「さて、この子の父親は誰なのだろうか。
まさか、瑞理ということもないだろうが」
ふふっと笑った親王から柚子は顔をそらした。
河が暮れていく。
私がもし、ここでこのまま殺されることにでもなったら、
私の遺体はどうか、この河に落として流して欲しい。
この灰色の流れを漂って、いつしか時の流れに紛れ込み、亡骸だけでも元の世界に
戻れるかも知れないから。せめて、私の生死だけでも、分からないよりはいいだろうから。
誰に話してもきっと信じてもらえない。
この世界が何処なのか、柚子が歴史の授業の中で習う中世なのか、
そうじゃないのかも、分からない。
遠い過去なのか、それとも遥かな未来なのか、
または元の世界と裏表になって平行している異空間の何処かなのか、それすらも。
忘れ物を取りに教室に戻る途中だった。
おはじきみたいに飛ばされた。
旧制のままに女学校と懐かしく呼ばれていた、女の子ばかりの学び舎。
校則で決められている三つ編みを、時々、更衣室でこっそりと解いては、
私たちは笑っていた。大人になったらきっとこんな髪型にするわ。
まるでこの前みた、白黒の、ハリウッド映画みたい。
キスミーのリップクリームと、京都よーじやのあぶらとり紙。
書店で平積みになるような本はたいてい誰かが持っていて、
回し読みするうちに本の中に広がる物語は、みんなの共通の記憶になっていった。
中庭の薔薇、水草に覆われた古い噴水。
苦手な数学、先生が苦手。
自分が分かっているからって、飛ばして説明しないでよ。
それじゃせっかく板書を写しても、後でノートを見た時に途中の式が分からない。
上部が弧を描いている縦長の窓と、蔦のからまる煉瓦の校舎。
校歌はアイルランド民謡に少し似ていて、
女の子ばかりの澄んだ声でこれを歌うと、ずっとずっと私たち、
このままでいられるような気がした、そしてその分だけ、
そうではないことを自分に言いきかせて、胸に淋しく歌った。
鈴懸の木のある庭で撮られる歴代の集合写真。
創立当初の昔は制服がなくて、みんな「はいからさんが通る」みたいな格好をしている。
きれいな子もいれば、そうじゃない子もいることも、今も変わらない。
そして、高等部を上がる前から囁かれていた一つの、怖い噂。
『女性徒が忘れ物を取りに教室に戻った。それきり何年も戻って来ない』
『それ以来誰もいなくなった早乙女藤香さんの姿を見ていない』
『放課後に教室に戻ると女性徒の幽霊が、
顔から血を流しながら、廊下の奥で待ち構えているそうよ』
『たすけて、置いていかないで、という声を卒業式の日に先輩が聞いたって』
藤香さんは、ここにいるわ。
水の流れの果てに柚子は目を向けた。
低い山並の影と混じりあって、流れの先は茫漠と水色に霞んでいた。
私もここにいるわ。
ここが何処だか分からないけど、生きている。
だから、勝手なことを云わないで。
(もうすぐ、殺されてしまうかも知れないけどね)
手首で前あわせに縛られた手が痛かった。
馬を飛ばした時に素手で手綱を握っていたせいで、
手の平が擦り切れて、血が滲んでいた。
誰に話してもきっと信じてもらえない。
行方不明になった藤香さんは、なんと、帝の妃となって、
帝の御子をその身に宿されている。そして私は天女としてこの地に落ちて、
宮さまとはとても思えない粗雑な口を利く男に制服のリボンを取り上げられた。
親王は瑞理をこんなところに呼び出して、どうするつもりなんだろう。
柚子は傍らの親王を見上げた。
思いつくままに脅してみた。
「私はともかく、ななくんに手を出したら承知しないから。化けてでるから」
「天女の魂魄が死してなお地上にとどまるものであれば、是非」
大鱗の親王は平然として、柚子の近くへ寄ってきた。
誰かが大きく動くと、小さな舟である、心もとなく舟底が揺れた。
出来る限り柚子は船縁に肩をつけて、親王と距離をとった。
院と縁を切るようなことを匂わせていたのに、この、卑怯者。
「何故、帝と珠子妃が、今日になり、
打ち揃って貴女と七瀬を捕らえるのに急いだか、分かりますか天女」
柚子は首をふった。
瑞理は何も教えてはくれなかった。
大鱗の親王は御所の方角に目を遣った。
川のあたりは、ひと気なく、風に吹かれる葦が見渡すばかりである。
昨夜、鴻臚館に滞在中の高麗人が清涼殿の階を上がるなり、
院と珠子との間に生まれた第一親王を東宮に立てると大和国は暗雲に覆われ、
大いに乱れると、そのように帝と廷臣を前にして申し立てたのだそうだ。
「高麗人は占いをよくすることで知られています。
そして、続いてその者はこう告げた。
帝の血を正しく引く御子は天女が宿しておられる。
帝王にふさわしい男御子は、天女からこそお生まれになるでしょう、と。
貴女には下らない話に聞こえますか?
しかし、こんなとても簡単なことで、朝廷のまつりごとの流れは決まるのだ。
院と珠子にしてみれば、いよいよ、何としてもここで、
藤壺女御を蹴落としておかなければならなくなった。
さもなくば産み月間もない女御が、予言どおり見事、男御子をお生みになったなら、
高麗の相人の言葉はますます重きをもって、世間に迎えられるだろうから」
おそらくは、それを聞いて、常にも増して藤壺憎しに猛った珠子妃に
院が唆されたのだろう、と親王は遣る瀬無く肩をすくめた。
羽室宮家の末子はもしや、とかねてよりあやしく目をつけていたに違いない。
珠子妃という女はどこまでも貪欲に、どこまでも浅ましく、
己ひとりが大切に愛される為ならば誰かを陥れ、誰かを悪人に仕立て上げ、
その為には悪知恵も虚言もそら涙も惜しまぬような心の汚れたお人だが、
ああして我を剥き出しに生きている女人は、不思議と、
院のような男には魅了的に映るのだよ。
火山から溢れ出て全てを焼き尽くしていく溶岩に怖れつつも目が離せないように、
滾らんばかりのあの、ごうごうとした強い生命力に、男の性は取り込まれてしまうのだ。
貴女も藤壺女御も、いつも一生懸命で可愛らしいが、
珠子妃と比べるとその生命の様は、火炎と蛍火ほどに違っている。
小さな蛍火の天女は懸命にまたたけばまたたくほどに儚く、
地上を覆わんとする炎には、小賢しく目障りでしかないものなのだ。
そんなことを溜め息まじりに親王は柚子に語り、
「だが、たとえ藤香女御が入内前に、他の男と子を生したと分かっても、
兄帝が藤香女御をそれで嫌うことはないだろう」
風に乱れた柚子の髪を撫で、汚れたままの柚子の顔をその袖で拭った。
「それどころかこの七瀬のことも、
実子同様に、ご配慮下されることだろう。
兄はそれほどに、藤香天女をこよなく愛しまれておられる」
「それなら、今すぐに岸に舟をつけて」、柚子は頼んだ。
空を渡り、ねぐらへ帰る鳥の影がさした。
船底を揺する波の静かなうねりが、時を刻んで、日が翳る頃になった。
「七瀬くんを降ろしてあげて。藤香さんの元に返してあげて」
「自分の命乞いはしないのだね、天女」
遠くから馬がここに来るようだ。
真直ぐにそれは駆けつけて来る。
「あにうえ」
柚子に凭れている七瀬が顔を上げた。
「瑞理、来ちゃだめ」
柚子は声を上げた。舟が揺れた。
「座っておいで、天女。
貴女一人が暴れたところで舟が逆さになることはないが、
そこの小さい子は、誤って舟縁から落ちるかも知れない」
「瑞理、来ないで」
親王の腕に抱き止められても、柚子は叫んだ。
「来ないで、瑞理」
「お前、まだそんな格好してたのか」
夏の夕風が運んだ第一声はそれだった。
馬を乗り捨てた瑞理は、歩み寄るなりさらに呆れた声を岸から届けた。
「鈍くさい白拍子みたいだ」
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馬を飛ばした際に烏帽子はどこかへ失われた。
まとめていた髪もいつの間にやら解けて、肩にこぼれている。
これで長袴をはけば、白拍子にも辛うじて見えたかも知れない。
水干姿の柚子には烏帽子もなく、舞うための扇もなく、飾りの太刀もない。
しかもその手は縄で括られ、親王に捕らわれた挙句、舟に乗せられて水の上にいる。
あられもない柚子の姿に、瑞理が愕くのも無理はない。
(だけど、他でもないあんたが私に男装させたんじゃないの。
それに、そんなことで呆れている場合?)
岸辺に立つ瑞理の姿は、舟からもはっきりと見えた。
「大鱗の親王」
水際から数歩の距離に浮かぶ小舟に向けて、瑞理は大きく呼びかけた。
馬の鞭を両手で軽く持って、まるで漁師に取れた魚を訊ねる通りすがりの者のようだ。
思わず柚子が目を覆いたくなるほどに、親王を前にして、偉そうだった。
瑞理は口火を切った。
「親王自身がそうして欲しいと昔から願ってきたとおりに、
対等な友として話すぞ。
柚子に乱暴な真似はするなと云ったはずだ。
その女、天女ではないし、天女どころか無力なただの女だが、
ちょっとだけ可愛いところが俺も気に入っている。
欲しけりゃくれてやるが、それも柚子がそれを望んだらの話だ。
その話も、こうして川と岸で交わすのではままならん。
こっちへ来い。柚子と七瀬を舟から下ろせ」
「瑞理。よく来た」
うっすらと笑みを浮かべて、大鱗の親王は振り返った。
「いつか必ず、その傲岸不遜な頭をわたしの前に下げさせてみせようと、思っていた」
「院と珠子はまだ柚子と七瀬を探している。
連中から二人を匿ってくれたことは礼を云うが、
その礼が欲しくて、この大ごとを仕組んだか。
頭を下げて頼めというならば幾らでもそうしてやる。
公の場では人臣としていつも親王に対して俺がそうしていることではないか」
それにどうせ無駄だ、と瑞理は鞭の先を握った。
「俺が、いくら親王に対して臣下の礼を尽くそうと、
また友として親しみを結ぼうと、それに努めようと、
無品の親王として自分で自分を賤しめ、
自分を貶めて俺から離れていくのは親王自身だ、岸と川、このようにな」
後ろに追いやられた柚子は、七瀬を近くに呼び寄せて、できる限り
陸に近い舟の端に寄った。
「ゆず、あにうえだ。あにうえがあれに」
「そうよ、瑞理が来てくれたのよ、ななくん」
水を覗き込む。
舟が浮かぶだけあって、陸と近くても底は深いようだ。
いざとなったら川に飛び込むつもりでいるが、子供を連れて、
手を縛られたままで、しかもこんな格好で、果たして泳げるものだろうか。
多分、むり。
見張っている親王の舎人さえいなければ、七瀬にこの手の縄を解いてもらうのに。
柚子が暗い気持ちになっているその上を、男二人の声が飛び交った。
「瑞理」
「何だ、親王」
「院と珠子はかねてよりずっと、藤壺女御の支えであり、
帝にも特に目をかけておられるお前のことを事あるごとに邪魔立てし、
鄙の宮とあしざまに嘲笑し、羽室宮瑞理を愚弄することを繰り返してきたはずだ」
「そうだったかな」、瑞理は軽く聞き流した。
親王は追って訊いた。
「なぜ、その取り成しをわたしに頼まなかったのか」
柚子は川べりに立つ瑞理を振り返った。
そんなことがあったの、瑞理。
藤壺女御の里家である羽室宮家の人間ならば、院と珠子にしてみれば、
どれも同じように憎いのかも知れない。
親王の声が、夕暮れの川に、淡々と落ちた。
「院も、親王であるわたしの頼みならばそう無碍にはしなかっただろうに、
ただの一言も、わたしに彼らの仕打ちを打ち明けたり、
その傷を見せなかったのは、何故なのだ」
馬の鞭を軽く持ったまま、瑞理は黙っていた。
親王は唇を噛んで、さらに続けた。
「先年秋の、帝の行幸の際にお前が御前で舞を舞った時もそうだった。
紅葉が日に透けて赤く照る中、ぱらりと降った雨の中、
力強く足を踏み、どこか彼方の高みを見据えながら袖をひるがえし、
楽の音も忘れたように、そこにそうして一つの強さとして舞っていたお前の姿を、
誰もが息を呑んで、褒め称えるではまだ足りない、
どうあっても心打たれて魅せられずにはおられなかったのに、
笑い声を上げて彼らはそれを遮ったではないか。
『得意げなる鄙の、鄙舞』、そう云って、手を叩いて侮ったではないか」
「本当のことだからな!」
たいして気にした風もなく、瑞理は云い返した。
「いたらぬ者を笑うことが高雅や雅だというならば、俺はそんなものは要らない。
己の醜さには目を閉じて、人を笑い、侮ることを、それを殿上の雅趣や高尚だと
見なすのであれば、そう信じる者はそうすればいい。
それに、俺の舞は習い不足で、半ば自己流だったのも確かだからな。
大勢が酒を呑んでざわついている処で、何でまた酔狂にも、
大の男が楽音に合わせて動きまわって見せなければならんのかと、
気に食わなかったからな!
その気に食わぬ気持ちよりも、紅葉の美しさのほうが勝っていた。
目の前を赤く横切って落葉して、雨の中に、日の光を砕いて限りなかった。
それを見ているうちに、何となく、落ちる紅葉の色鮮やかと戯れながら、
どこか遠くへ俺を運べ、こんなところから俺を何処かへ連れていけ、この胸を貫け、
そのように激しく思ったのだ。それで、何とか格好をつけて舞えたまでだ」
「そんなところが、お前には敵わない、瑞理」
「敵うとか敵わないとか、考えたこともない」
後ろの茂みに瑞理は鞭を肩越しに投げ捨てた。
「俺は笛も歌も苦手だし、
内実が伴わぬのにかたちばかり、品を気取ることも性に合わない。
それでも俺は親王のように、誰かと比べてひどく劣るとも思ったこともない。
親王であれ、院であれ、誰もが別々の人間だ。俺自身の誇りには、関係ない」
「これでもか」
あにうえ、と七瀬が声を上げた。
「やめて」、柚子の叫びが重なった。
大鱗の親王は七瀬を両腕に抱え、その身体を半分川に出すようにして抱え上げて見せた。
「これでも関係ないと云うのか、瑞理」
「何がしたいんだ、親王」
うんざりと瑞理は怒鳴った。
だが、瑞理はいつの間にか岸から先へ出て、、
舟に近寄ろうというのか、流れの中に踏み出していた。
「七瀬を川に落せば、俺が泳いで助けるまでだ」
「そこから動くな、瑞理。近寄ればわたしの舎人の弓がお前を射るぞ」
「出来もしないことで威張るな」
「やめて、親王。七瀬くんを下ろして!」
「何がしたい、それを俺に教えろ、親王」
「瑞理、ななくんを助けてあげて、瑞理」
繰り返し上げる柚子の悲鳴に応えて、瑞理の目が柚子の方に向いた。
落ち着いた目だった。
(瑞理)
柚子は何かに慄いて震えた。
「柚子」
瑞理の呼びかけに、柚子は縛られたままのその手を彼に向けて伸ばした。
なに、瑞理。
「さっきのは嘘だ」
「う、嘘ってなにが」
「お前のことをちょっとだけ気に入っていると云ったが、あれは嘘だ。
ちょっとだけよりは、もう少しだけ気になっている。ずっとだ。
天女だからではなく、特に、そうやってバカみたいに捕まって、
バカみたいな格好のままで、俺の名を呼んでいるところが」
「………」
「似合わん」
だからこれは今朝あんたが私に着せたんじゃないの、と柚子は云いたかった。
私だって出来れば、お姫さまのような可憐な姿であんたを待ちたかったわよ。
どうせ囚われるなら、たとえこのまま親王に殺されてしまうにしても。
「瑞理ぃ」
「情けない声出すな。柚子。七瀬。きっと助けてやる」
瑞理は親王に向き直った。
そして、瑞理に再び、いつかの舞いの紅葉が降った。
赤く、ひらめいた。
夕陽の中に何よりも強く。
「持ってきたぞ。これと引き換えに二人を俺に返せ」
柚子のはごろもだった。
[最終回・下に続く]
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