天女のはごろも

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[イセカイ召喚ファンタジー] 天女のはごろも Yukino Shiozaki





[天女のはごろも]
■七(最終回・下)





川の流れに映るその色は、夕暮れを素早く泳ぐ赤い魚のように細くたなびいた。
柚子は風に透きとおるその色を仰いだ。
あれは、私の制服のリボンだ、
瑞理の手にある、あの緋色。
時の流れを駆け下り、私をここに連れて来た、私のはごろも。
「さあ、まずは七瀬を下ろせ。そして舟を岸に戻せ」
「わたしはもう、おしまいなのだよ、瑞理」
七瀬の身体を川の上に突き出したまま、親王は苦しげに、
瑞理の手にあるその色を凝視した。
「院と手を切り、離れようとしたのだ。
 だが院は、以前迂闊に書いたわたしの手紙を保管して持っておられた」
院はそれをわたしの目の前で焼いたふりをして、
ひそかに別の料紙を燃やし、わたしの手紙を手許に残していたのだ。
あれを表に出されたら、身の破滅だ。
親王の身体が慄いた。

「帝への謀反と受け取られても仕方がないことを、
 院の言葉のままにわたしは書いたのだ。
 あの手紙が露見すれば、反逆ありと即座に断罪され、
 わたしは隠岐か佐渡か、讃岐にでも流されて、
 そのうちに都人にも忘れ去られてしまうことだろう。
 御座所とは名ばかりの小屋でしだいに正体を失い、
 狂気の果てに異郷に倒れて死ぬばかりとなるだろう」

もとよりわたしは母の身分がきわめて低く、有力な後見もない、名のみの親王だ。
親王は自嘲した。
帝への反逆を企んだとなれば誰ひとり庇ってくれる者もいないだろう。

「それくらいならば、いっそ、遠くに行きたい。
 親王として生まれながら罪人と蔑まれ、朝廷より石もて追われて終わる、
 そのような惨めな生涯を送るくらいならば、
 僻地の流罪地よりももっと遠くへ、わたしのことなど誰も知らぬ、
 虹の彼方へと消えていきたい。
 あの秋の日、瑞理、お前が降りしきる紅葉の赤に安寧を見出して忘我していたように、
 同じ最期でも、せめて美しい方を選びたい。虹の向こうへと落ちて行きたい」
「だから、こうして、はごろもを持って来てやったではないか」
瑞理は手にした緋色を苛立しげに振り回した。

「親王はすっかり、ことが帝に暴露されると信じてそのように怯えているが、
 俺はまだ諦めてはいないぞ。院からその手紙を取り戻すか、または
 院を逆に脅して、証拠の手紙を隠滅し、口封じをすればいいことではないか。
 それに、誰ひとり庇ってくれる者はいないだと。
 親王のそういった不信や猜疑こそが、いつも俺には味気なく、つまらなかったぞ。
 何しろ、俺が気遣いを見せれば横を向いて拗ねる、
 俺が譲歩すれば情けをかけたと怨みに数えて卑屈に思う、
 俺が黒だといえば、白だと云う、
 それもこれも己が不遇の親王のせいだと、何もかもそのせいにして、
 周りが許容するのに付け上がってどこまでも頼りきり、
 己自身に甘ったれることをどこまでも許していた、泣き言上手な御仁だからな。
 だが、好きにするがいい。
 念のために云っておくが、柚子が落ちた、同じその場所に虹がかからないと、
 羽衣の霊妙は発揮されない。
 それまで逃げ切れるかどうかまでは、俺は保障しないからな」

瑞理は一度膝をつくと、火打ち石で草むらに火を熾した。
そして、その上にはごろもをかざして見せた。
熱を受けて、はごろもの片端が踊るように舞い上がる。
「今すぐ、七瀬を無事にしろ」
舟を睨みすえて、瑞理は脅した。

「さもないと、このはごろもを燃やしてやる」

「ちょっと、瑞理」、慌てて柚子は叫んだ。
それがないと、元の国に帰れなくなることを知ってて、何てことを。
だが、対岸の瑞理の眼は本気を宿してぎらついており、
真直ぐに伸ばした腕に握るはごろもを、今にも火の中に叩き落しそうであった。
本当にリボンに火をつけるかも知れない。
柚子は大鱗の親王を振り仰いで頼んだ。
「親王、ななくんを下ろしてあげて。瑞理があれを燃やしてしまう」
「困った男だ」、親王はぼやいた。
「これではどちらがどちらを脅迫しているのか分からない」
「舟をこちらにつけろ!親王」
だが、親王は舟を動かさず、かわりに舎人の一人に命じると、その者を川に飛び込ませた。
そして舟の縁越しに七瀬をその手に手渡した。
男は児を片腕に、巧みに岸に向けて泳ぎだす。

「藤壺女御の子と引き換えに、はごろもをこちらに渡すのだ、瑞理」
「七瀬だけでは不足だぞ、親王」

仁王立ちのまま、瑞理は舟を睨み付けた。
縛られている柚子の手が親王に引っ張られた。
引寄せた柚子を揺れる舟の中で腕に抱くと、親王は言い返した。
「弟宮だけでなく、天女も寄越せと云うのか。すこし、欲張りだとは思わないか、瑞理」
「柚子のことは、柚子の意志に任せると決めたはずだぞ。
 だが女を縛るような男に柚子はやれない。俺に返してもらおう」
「はごろもを、わたしの舎人に渡せ、瑞理」
柚子は親王に捕まったまま、喘いだ。
瑞理に比べればその見かけは優美でも、さすがに男が力を出すと、
その腕の中で暴れても敵わず、柚子はすぐに息が切れた。
「親王は、思い違いをしているわ」
苦しい息の中からようよう云った。
「あの羽衣は私のものだもの。
 羽衣を失った藤香さんがここで過ごす他ないように、
 瑞理から羽衣を取り上げても、親王は何処にも行けはしないわ。
 虹はわたししか運ばない。親王がはごろもを手に入れても無駄よ」
「それでは瑞理が貴女に、嘘を教えたのだ」
「え?」
親王は柚子を無理やりに抑えつけて、岸を指した。
「手だけでなく足も縛られたくなかったら、少し静まりなさい天女。
 ご覧なさい、七瀬が岸に着きましたよ。
 この舟より、兄弟のうるわしい再会を見物するとしましょう」
「あにうえ」
「七瀬」
舎人から奪い取って瑞理が水から陸に上げた七瀬は、
瑞理に抱き上げられると、ようやく堰を切ったように泣き出した。
泣きじゃくりながら舟を振り返る。
「あにうえ、ゆずが」
「うん」
「ゆずを、たすけてやって。ゆずこ、ゆずこ」
二人がこちらを見ているところで、柚子は親王に訊き返した。
嘘って、何が嘘なの。
親王は柚子を近くから見おろした。
「羽室家に伝わる天女伝説には二つある。瑞理から聞かなかったのか?
 一つは、天女が庭木の根元に埋められていたはごろもを取り返し、
 虹を渡って天の彼方に消えたという説。
 もう一つは、はごろもを持って野に駆け出し、そのまま虹に
 取り込まれて姿を消したのは、実は天女ではなく、
 遊んでいて庭の桃の木の根元からはごろもを見つけた、
 天女と羽室家の男との間に生まれた、彼らの子供であったという説」
「え……」
「つまり、天女は天女であるからこの都に遠き国より来たりて降りたのではなく、
 はごろもの神秘こそが、
 天女をこの地へと運んで来たとも、後者の説からは考えられる。
 もしそうならば、たとえ貴女ではなくとも、わたしがあの羽衣を手に、
 柚子どのが降り立ったのと同じ野で、雨が降り、虹が架かるのを待ちさえすれば、
 はごろもの持つ霊異現象はわたしを、虹色の極楽の世界へと、
 天女の故国へと、連れて行ってくれるのかも知れない。そうだな、瑞理」
「そうかも知れないと俺は云っただけだ。
 古い話を裏付けるものは何もない。
 もしかしたら子供だけでなく、女もその時、
 子供を抱えて一緒に虹の橋を渡ったのかも知れんしな」
「それでは、なおのこと柚子どのにもわたしと一緒に来てもらうとしよう。
 天女と共にならばそれが叶うというのであれば、柚子と二人で虹を超えよう」
「親王は、思い違いをしているわ」


柚子はもう一度云った。
夕焼け空に浮かぶ雲が、薄い虹色を帯びている。
とてもきれい。
この空を見ていたら、この空の何処かへと、あの虹彩の滲みの中へと、
飛翔したくなるのも分かるわ。
はごろもが欲しいならあげてもいい。
でも、親王は思い違いをしている。
「柚子どの?」
「私の故郷は、親王が夢見るような、そんな、いい処でもないわ」
御所よりもずっと綺麗な建物がたくさん鈍色の森のようにそびえ建っているわ。
牛車よりも速い乗り物があって、誰でもそれに乗って遠くへ行ける。
馬よりも速く、鳥よりも高く、魚よりも遠く、
一度に何百人も運んで空や海や陸を往復する乗り物。
高麗の国だって、空を渡り、数時間で行くことが出来る。
人は飢えることもないし、病気や怪我も、ここに比べればはるかに高度な医療で治癒するわ。
便利で豊かで楽しい処。
でも、賢い人もいれば、愚かな人も同じようにいる。
きれいな子もいれば、そうじゃない子もいることも、今も変わらない。

「親王と同じ悩みを持った人は、私の国にもたくさんいるの。
 ううん、もっとたくさんいるのかも。
 どうにかして人を貶め、その足を引っ張り、あしざまに嘲笑を繰り返し、
 自分こそが優れているのだと見せつけたがる人がいるのも、一緒なの。
 立場がまずくなれば、自分の都合や病気のせいにして、そうやって
 世間の同情を上手にひきながら、云いたい放題しているのも一緒なの。
 行過ぎた強欲や自意識の放出は周囲の人間に許容と我慢を強いるけれど、
 だからって何かの怖ろしい天罰が彼らに下るわけじゃないわ」

院や珠子みたいに、と言い掛けて柚子はやめた。
あまりにも具体的過ぎて、それではたとえば、珠子が院との間に生んだ我子を
その母性から溺愛する心や、院が珠子を憎からず愛する心には触れず、
柚子自身の中にもある嫌な部分を、
狭義的に彼らだけに押し付けることになってしまう。
「私のいた国だって、この都と何も変わらないわ」
何てきれいごとな話だろう。
もう少し、上手く話せるといいのに。
懸命に柚子は言葉を継いだ。
「人を突き飛ばしながら、そんなことは一度たりともやったことがないという繊細な顔をして、
 さも正しい人間であるかのように、やりたい放題して生きていくのが、
 一番たのしくて楽な、そんな世界だわ。
 それが一番、簡単だもの、人を押しのけて、喚き立てていれば、いいだけだもの」
誰もが、自分だけが繊細で特殊な人間だと思い込んでいる。
出しゃばって憚らず、
欲深で恥を知らず、
自己愛を飼いならす鍛錬も足りなければ、自分を客観視することもない。
悩んだり苦しんだりしながら、少しずつ、自己と折り合いをつけていくのが精一杯。
誰もが弱くて、保身的で、傷つきやすかった。
「では、瑞理はどうなのだ?」
頬を引きつらせながら、沈痛に親王は対岸を指した。
「あの男はどうなのだ?
 風のように自由で、強く賢く、分限をよくわきまえて野心を持たず、
 しかし卑しさには決して落ちず、
 そんな顔をして常にわたしの前に安定して立っている、あの男は。
 彼こそが最もやりたい放題をして、恵まれた生を、その傲岸と自信のうちに、
 充足して生きているのではないのか?」
「瑞理から見れば、親王こそがそう見えていたはずよ」
岸辺に立つ瑞理を見つめながら柚子は云った。
瑞理、火を消して。
はごろもを燃やさないで。
もとの世界に帰りたいからじゃない。
私の羽衣は、瑞理に持っていてもらいたい。

「誰だって他人に美点や欠点を見つけ出しては、
 美点も欠点も、そのどちらも、自分を脅かすものに見えるものだと思うわ。
 だから平気ではいられないんだわ。
 相手を褒め称えたり、あこがれたり、蔑んだり、小馬鹿にしたりするのは、
 結局はそれは自分を守るための、ただの方便だと思うわ。
 親王の愚痴や弱さは、瑞理から見れば、羨ましいものかも知れないわ。
 得をして楽でいいな、垂れ流しにすることで同情を集めていい気なものだな、
 そんなふうに映っていると思うわ」

(柚子って泣かないよね)

「しぶとくて強くて、生きやすくていいなって、お互いに思っていると思うわ。
 お互いそう思っていると思う。
 それでいいと思う。
 だって自分だけが完璧だとか、自分だけが惨めだなんて思ったら、
 心が閉じてしまって、何がいいことで何が悪いことなのかも、
 見えなくなってしまうもの。きれいなものを見ても、胸に沁みないもの。
 心が傷ついてひび割れているからこそ、そこに染み透っていくものも、あると思うもの」


柚子がもう少しこの時代に合致する適切な言葉を知っていれば、
それこそが「やまとごころ」なのだと、言い添えるところであった。
親王はしばらく黙っていた。
それでも、やがて「そうかな-------」と、何かの反駁を見せようとした。その時。
舟と陸の双方から同時に緊迫した声が上がった。
馬が二頭、夕映えの中を全力で駆けてくると、
そらは堤の上で速度を落とし、「瑞理!」と切迫した声で上から瑞理を呼んだ。
馬で駆けつけた彼ら二人は、狩りの日に瑞理と連れ立っていた公達だった。
瑞理は首をもたげて堤を仰いだ。
「敦嗣、智明、どうした」
「急ぎ、この場を離れるんだ。親王さまも、どうか」
「この場所が院に見つかったぞ。左近中将どのが力添え下さり、
 途中で引き止めて何とか時間を稼いでいるが、長くは無理だ。
 すぐに逃げろ。院は、お前と親王を、偽物の天女を担ぎ上げて
 帝を謀ろうとした罪人として、即日のうちに捕縛するつもりでおられる」
「何だって」
「柚子どのを偽物の天女だと暴くことで、
 お前と親王と、藤香女御を同時に排斥するお心づもりかと拝察するが、
 ともあれ急げ、逃げろ。捕まっては終わりだ」
「親王、聞いてのとおりだ」
一瞬の躊躇も見せず、瑞理は羽衣をかざしていた火をかき消すと、
川に浮かぶ舟を振り返った。

「ここは柚子を連れて舟を出せ。いいからそうしろ、親王。
 敦嗣も智明も行け、巻き込まれてはお前たちも罪に問われるぞ。
 俺はここに残り、院を食い止める」

「逃げて、どうなる」
それを聞いて、大鱗の親王は疲れた溜め息を深くつくと、くすっと笑い出した。
そして瑞理の言葉には逆らって、舟を岸に着けるようにと漕ぎ手に命じた。
「院がそのような院宣を下されたとあっては、何処に逃げたとしても、どの道、
 もう終わりではないか。逃れるすべはない。
 柚子天女、貴女と共に虹の国へ行けたらと夢を見たわたしだが、
 あのように瑞理が一人であそこに残り、わたしたちを逃がすために
 独りきりで果敢に立ち向かうつもりとあっては、
 さすがのわたしも平気ではいられないよ。
 羽室宮瑞理は大鱗の親王の古くからの友なのだ。
 友が犠牲になり、裁かれるのを見るのはしのびない。
 舟を岸に寄せよ。
 院と帝には、これ全て、わたし一人のはかりごとであり、
 そなた達には関係のないことだと申し開きをしてみよう。
 孤島に配流されるのは、わたし一人で十分だ」
太刀を片手に握り締めて、瑞理はなおも叫んでいた。
「いいから行け。柚子を連れてそのまま舟で逃げろ」
ひゅん、と空に赤い弧を描いて飛ぶものがあった。
音を立てて、それは柚子のいる舟底に突き刺さった。
岸から瑞理が放った矢には、柚子の制服のリボンが結ばれていた。
瑞理は柚子と親王を見つめると、弓矢を投げ捨てて、堤を駆け上がった。

「そのはごろもと一緒に、柚子連れていけ、親王」

そして仲間に走り寄ると、瑞理は七瀬を彼らに預けた。
「敦嗣、智明、七瀬を連れて行ってくれ」
「心得た」
「だが瑞理、お前も一緒に逃げよう」
「親王さま、堤の向こうから、あのように多勢の馬影が」
「こちらに来ます!」
「何をしている。早く舟を岸に着けるのだ。
 院の前にはわたしが出て、弁明しよう。
 柚子どの、必ずお救いするので、ここはわたしに任せて欲しい」
「瑞理、やはりお前を置いてはいけない。俺たちも残るぞ」
「あにうえ」 
「心配するな七瀬」
瑞理は七瀬に頷いた。
「湖の国に、きっと逢いに行くから」
舟の中には、柚子のリボンが矢に結ばれたまま残されて揺れていた。
柚子は目の前のそれをじっと見た。
そして、

「瑞理!」

柚子は、立ち上がった。
縛られたままの両手で、柚子は川床から引き上げられたばかりの石の錨の結び目を握った。
そして舟縁に立ち上がった。親王と瑞理が振り返る。
「柚子どの」
「柚子、何を」
「-----------私がいなくなれば、いい」
院が私を偽物の天女だと突き出すことで、
瑞理と親王と藤香さんを失脚させるつもりなら、
それなら私が捕まらなければいい。いなくなればいい。
七瀬くんのことはどうなるか分からないけれど、
最悪に転んでも、あのやさしそうな帝のことだもの、内密にすませて、
何処かでひっそりと藤香さんとななくんと瑞理が生きていくことを、お許し下さるかも知れない。
「瑞理、親王」
二人に呼びかけた。

「私の云うとおりにして。天女は偽物だったと認めて。
 院に握られている親王の手紙のことだけど、それは天女が偽者だと認める代わりに、
 それと引き換えに棄ててもらって。
 藤壺女御も私も天女なんかじゃない。私も藤香さんも、ただの女学生だった。
 帝が藤壺女御を愛されているのは、天女だからではなく、藤香さんが愛しいからだと、
 そのように誰の眼から見ても分かってもらえるようにして。
 そしたらもう、院にも珠子妃にもつけ入る隙はなくなるわ。
 天女だなんて------天女だなんて、最初からそう呼ばれることが間違っていたのだもの。
 時間をかけて、そうして。
 でも今は駄目。
 今ここで私が捕まってしまったら、院はきっと世間の力を利用する。
 羽室宮家と親王が、偽物の天女を仕立て上げて帝を謀ろうとしたと、
 そのように騒ぎ立ててしまうわ。そうしたらもう帝にも誰にも、
 大切な人を守れなくなってしまう。瑞理と藤香さんの子供だって、許してはもらえなくなる」

そんなこと、させない。
堤の上で茫然として立ち尽くし、こちらを見ている瑞理と目が合った。
必死な顔をして何かを叫んでいる。柚子、止めろ。
私のことをバカみたいだって云ったけど、
そうやって私を引き止めようとしているあんただって、バカみたい。
わたしさえいなくなればいい。
舟の重しの綱をくくられた両手に巻きつけた。
言い残すことなんか何もないけど、水死体はきっと見苦しいから、あんまり見ないで欲しいな。
「柚子どの!」
「何をする気だ、柚子。止めろ」
口を開いて早く肺を水で満たしたほうが楽だろうか。
それとも少しずつ、溺れ死ぬほうが苦しまないだろうか。
「柚子!」
声がすうっと遠くなった。
柚子は縛られた手に錨の綱を絡めて引寄せると、固く目を閉じて身体を傾け、
船縁を越えて暗い川に落ちた。
水沫に包まれて一気に深みに落ちた。
真っ暗闇の中に、やがて空が見えた。
夕映えの美しい、静かな、冷たい空だった。
水の底にも空があるんだ。
秋になれば紅葉が燃えるだろう。冬になれば雪もそこに舞うだろう。
倭建命を助ける為に荒波の海に身を投じた弟橘媛ノ命も、この静けさを見ただろうか。
湖の国。
頬をしたたかに叩かれて、はっきりと目を開いた。
誰かが咳き込んでいた。
「ばっきゃろー」
隣で水を吐いているのは、瑞理だった。
柚子を腕に抱いて水際に倒れ臥したまま、瑞理はもう一度、柚子の頬を叩いた。
口を開こうとすると、ごぼっと水が溢れ出た。
瑞理は柚子をうつぶせにさせると、飲んだ水を吐き出させた。
呼吸の詰まった肺が燃えるようだ。
この世の苦しみとも思えないほどに、苦しかった。
「自業自得だぞ」
水を吐き、苦しんでいる柚子を遠慮なく瑞理は怒鳴りつけた。

「二度と俺の前で溺れたりなんかするな!命が縮んだぞ。
 親王の方が速く辿り着いて、底からお前を引き上げたから良かったものの、
 お前が舟の重しを手に巻きつけたりなんかするから、やたら重くて、
 一度なんか、三人とも沈んだんだぞ!死ぬかと思った」
「し、親王は」
「無事だ」
近くを見れば、岸に引き上げられて舎人に介抱されている親王がいた。
濡れた衣が重たくて、歩こうとしても歩けない。
瑞理は柚子を助けてさらに陸に上げ、岩に寄りかからせた。
そして柚子をじろりと睨んだ。
「柚子。さっき、どさくさに紛れて、何か云ったな」
「な、何」
「俺と藤香の子供がどうとかだ。誰のことだ」
「な、ななくん……」
「お前、俺をそんな目で見てたのか?帝の思し召しの女に誰が手を出すか」
「違うの!?」
「当たり前だろうが」
瑞理は額にかかる濡れた髪をうるさそうにかき上げて、水気を飛ばすと、
きっぱりと云い切った。
「七瀬は、藤香さまが羽室宮家にいる頃に生んだ子には間違いないが、
 俺と血の繋がりはない」

茫然としたまま、柚子ははっと気が付いて、あたりを見回した。
院の追っ手は。
それに応えるように、堤の上に、瑞理の友人の左近中将が現れた。
続いて膝をついた左近中将の傍らに、人影が立った。
穏やかな、聞き覚えのある声。
逆光で、よく見えない。

「羽室宮瑞理」


ずぶ濡れの姿のまま、瑞理はその声を聞くなり、身を起こして草むらに平伏した。
尊き人影は、くすりと笑ったようだった。
「時ならぬ、大雨でも降ったか、瑞理」
「帝……!」
柚子も慌てて瑞理に倣い、面を伏せた。
髪からぱたぱたと水が滴った。
帝。
帝が、どうしてここに。
扇を手に、帝は鷹揚に一同を見回した。
「大鱗の親王も、柚子天女も瑞理も、ひどい姿である」
「兄帝」
よろめきながら、大鱗の親王が進み出て来ると、瑞理と柚子を庇って前へと出た。
「すべては、わたし一人に責があるのです。
 院と珠子妃から何をお聞きになられたかは知りませんが、
 兄帝、これは羽室宮と柚子天女にはいっさい、かかわりのなきこと」
何の話か、分からない、とそれに対して帝は応えた。
あなたたちが何か企んだとでもいうのか。
親王、あなたはわたしの弟である。
羽室中将はわたしの臣下。
しかし、と帝は声を低く落とした。
「柚子は違う。院と珠子によれば、天女でもないようだ」
「帝!」
大鱗の親王と瑞理は同時に声を放った。
帝は敦嗣と智明に命じて、七瀬を連れて来させた。
次に起こることが恐ろし過ぎて、柚子は目を閉じた。ごめんなさい藤香さん。
いろいろ頑張ってみたけれど、ななくんを結局は、帝の前に晒すことになってしまった。

「--------なるほど、藤香に、似ている」

静まり返った川辺に、帝の声は静かに流れた。
やわらかに、流れた。
やがて七瀬の頭を撫でると、帝は告げた。
「藤香のことは、案ずることはない。今までどおり、わたしの傍にいる。
 そろそろわたしも、院から実権をお譲り戴く頃である。
 わたしなりに思うことあり、そして、わたしはここにいる。
 院には、御所に、還御ねがった。
 親王、羽室宮瑞理、そなたらの罪はこの川が洗い落としてしまった。
 瑞理、変わらず、いっそう、励むよう」
「帝、それでは」
いっさいを不問に処すとの帝の言葉に、大鱗の親王と瑞理は声を強くしたが、
続く帝の言葉にさっと蒼褪めた。
だが、柚子天女は許しがたいことである、と帝は柚子を見据えた。
こたびのことは、そこなる女人が都にもたらしたること。
院と珠子を満足させ、そなたらの罪を不問にするためにも、わたしはこうせねばならない。
「宣旨である」
小柄な熊のように見えていた帝も、声を重くし、威を正すと、何倍もの大きさに見えた。
柚子の身体は震えた。

「柚子と、七瀬は、都より去ること。-------これ、世をいたずらに騒擾させぬため」

「帝!」
親王が声を上げた。
瑞理は唇を噛み締めて、俯いたままその身体を固くすると、
思い切って膝を進め、帝に真正面から面を上げた。
やめて、瑞理。
後ろから柚子はその袖を引いた。
もういいよ。もうじゅうぶん。
都より追い出されて、何処に流されるんだろう。やっぱり隠岐とか佐渡とか、讃岐かな。
それでいい。
瑞理に逢えなくなるのは辛いけど、ななくんの命は助かった。
それで、もういいじゃないの。
柚子のその手を振り解くと、瑞理は帝に敢然と声を絞った。
「帝、これなる柚子と七瀬を流罪に処すならば、どうか、羽室宮瑞理も同様に」
「黙りなさい、瑞理」、帝は静かに遮った。
「瑞理、やめて」
柚子を逃がそうというのか、瑞理のその手が咄嗟に太刀に向かうのを、
「よせ」と先に抑えて止めたのは親王だった。
喘ぎながら、大鱗の親王は瑞理に並んで、兄帝に申し立てた。
「兄帝、柚子を罰するならば、わたしこそを。
 柚子天女は虹の国に戻れるところを、あえて、瑞理の許に留まったのです。
 どうか帝の仁慈をもって、二人をお許し下さい」 
誰かが七瀬の手を引いて近付いて来た。
柚子の前で止まった。
帝だった。

「柚子天女はこの児を連れて、去ること」
「………」
「湖の国に、去ること」

そして帝はやさしく七瀬を柚子に受け取らせると、小さな声で柚子に付け加えた。
湖の国に行きなさい。
そこで、穏やかに暮らしなさい、勇敢な天女よ。
何もかも、わたしが良いように収めよう。
七瀬が、藤香の生んだ子であることは、とっくに知っている。


---------藤香は、入内した後、何もかもわたしに打ち明けて、教えてくれたのだよ。





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[エピローグ]



わたしの名は、父親と同じ、七瀬という。
わたしの顔立ちは母に似ていると、よく人がいう。

父の名は、渡邊七瀬。
母の名は、早乙女藤香。


祖父母の家に引き取られたわたしは、そこで成年になり、
教育大学を卒業後、今は物理教師として白衣をまとい、女学校で教鞭をとっている。
教鞭という言葉は、死語だろうか。
だがそんな古臭い言葉がここには不思議とよく似合う。
装飾が張り巡らされた講堂の天井、木製の手すり、
錆付いたアイアンの格子がはまった縦長の窓、
半ば崩れ落ちながら構内に取り込まれているかつての門番小屋、
薔薇の咲く中庭。
過去、何度か学校を舞台とした映画のロケ地としてオファーがあったそうだが、
そのつど教官一同、満場一致にて不許可に挙手してきたそうだ。
開発の途絶えぬ都心部にあって、古い森に囲まれて、
ここだけはひっそりと、過ぎ去った少女たちの笑い声を閉じ込めたまま、
とどめおけぬ時の流れのどこかを見逃してもらっている、そんな学校だ。
夕闇に下刻を告げる鐘が鳴っている。
廊下を歩いていると、女性徒が追ってきた。
「早乙女せんせい」
何年何組の誰、と即座に個体を認識できなければ教師ではない。
しかし、女性徒はみな似ているようにわたしには思う。
続く質問もだいたい同じだ。

「今日も白衣が似合うね、早乙女せんせい。
 早乙女先生の下の名前、何て読むの。「しちせ」?」
「「ななせ」。」
「先生、大手術の痕が身体にあるんでしょ。額にも少しあるよね。それって事故?」
「子供の頃の怪我」
「ひどい怪我?」
「崖から転落して、折れた肋骨が皮膚を突き破り、臓腑に骨の破片が突き刺さった」
「うわあ」
「嫌ならもう聞かないこと」
「先生も一緒にこれからスタバに行かない?」
「行かない」
「照れなくてもいいじゃないの。デートじゃないんだから。
 それとも先生、これから誰かと約束があるの?」

薄っぺらい出席簿で腕に絡んでくる女性徒の頭を軽く叩いた。
若い男の教官をからかいたい年頃なのは分かるが、毎日のようにこれだから困る。
教育実習は母校の男子校だったのでともかくも、実際に教官になって赴任してみると、
女学生の「先生コレ何アレ何、先生、彼女イルノ」攻撃は聞きしに勝るだった。

「寄り道しないで早く帰りなさい」
「はーい、ななせ先生」
「早乙女」
「早乙女先生。また明日ね。その怪我の痕、格好いいな。ごきげんよう」

女性徒の三つ編みがぱっと離れて、振り返る頃には足取りも軽やかに、
玄関に集う少女たちの群れの中へと消えていた。
セーラー服を着た女性徒が学校を去っていく。
わたしの母も、あのように二十年前に廊下を曲がって、姿を消したのだろうか。
生母である藤香のことは、まるで覚えてはいない。
DNA鑑定でわたしが渡邊七瀬と早乙女藤香の子であることが判明した時、
都内の大学に院生として通っていた父の渡邊七瀬は当初、
診断結果を呆然と見つめながら、
「いきなり父親だと云われても」
忽然と現れた七歳のわたしをまるで奇妙な、小さな幽霊でも見るような眼で見ていたものだ。
絶句していたが、無理もない。
わたしが彼でもそうだろう。
だが父は、わたしの名が「七瀬」であることを知ると、
不信と驚愕のうちにも、
かつての恋人の藤香のことが当時のやさしさのままに思い出されてきたようだった。
それは多分、女学生と大学生の、ありふれた普通の恋であっただろう。
早乙女藤香失踪直後はその交際相手として、
そうとうに事件との関連を疑われ、警察から絞り上げられた父だったが、
彼は藤香が行方不明になった日の前日から教授のお伴で
東北へ出かけていたという絶対的な現場不在証明があったため、
容疑こそ晴れたものの、最初の騒ぎが収まる頃には今度は、
「かき消えた恋人」
を持つ男として、世間の好奇と同情の集中攻撃的な的となっていた。
かなり神経がくたびれることもあったと思うのだが、
それをおくびにも出さず、

「そうか。藤香ちゃんの子なのか。僕の、子なのか。藤香は僕の名前を君に」


眼鏡を外す間もなく、「そうか…」と泣き伏したものである。
渡邊七瀬は実子としてわたしを引き取ることをその場で口にしてくれたが、
なにぶん、まだ学生の身であった。
早乙女家と渡邊家で話し合いの末、わたしは早乙女家の籍に入ること、
父には父の人生を歩んでもらうことが穏やかな談合のうちに、
両家で取り決められたが、
それは最良の選択であったと、わたしは今も思う。

だから、社会的には渡邊七瀬は他人である。

二十年が経ち、現在は化学メーカーの重役となっている父の渡邊七瀬は、
昔と変わらずにわたしを時々連れ出して、結婚して生まれた自分の娘たちと一緒に
わたしが子供の頃は子供映画や遊園地に、
成人してからは野球やK1、または酒場に誘ってくれる。
「二人いる僕の娘のどちらかと君が結婚してくれるといいんだがなぁ」
「よして下さいよ。父親が同じなのはマズいですよ」
「はは、そうだな」
息子がいないせいか、わたしと逢うのがなかなか彼も楽しいようだ。
実父の七瀬とは今でも歳の離れた兄弟のような付き合いで、
かつての恋人であり、わたしの母である、早乙女藤香の話がそこに出ることはほとんどない。
聞かれても、まったく覚えていない。
本当のことだ。
早乙女の祖父母にも警察にも、何度もそう云った。
わたしの父は、渡邊七瀬。
母は、早乙女藤香。
だが、わたしは彼らの元では育たなかった。
幼い頃のわたしは別の者の庇護下にいた。
わたしの母の名は、柚子。
そして父の名は、羽室瑞理といった。


「夏季休暇はまた滋賀県の琵琶湖ですか、早乙女先生」
「いきなり後ろから覗き込まないで下さい、先生」
「そうやって地図を広げているところを見ると、ずばりでしょ」
「ええまあ。今年は京都もついでに回ろうかと」
「あ、いいですね。大河ドラマと連動して、幕末フェアを歴史館でやってると思いますよ」
「幕末かぁ」
「やっぱり平安あたりに興味が強いですか」
「いえ、別に……。あ、教室に忘れ物をしたようです」

言葉を濁して、同僚の眼から逃れて教官室の席を立つ。
決して中世に興味があるわけではない。
平安時代と聞けばナクヨウグイスと自動的に遷都年号が脳裏に浮かぶ程度で、
王朝時代にさしたる関心も、格別の求知心も持ち合わせてはいない。
覚えているものを描いてごらん、そう云われて病院で渡された画用紙に、
幼いわたしが描き続けた、人の装束や家や、牛の引く車などが、
その時代の風俗に適合するようだと専門家を驚倒させたというだけに過ぎない。
長々と行われた当時の特殊機関の尋問や精神鑑定などの煩わしい詳細は
ここでははしょるが(思い出すだけで不愉快だ)、
画用紙に水色のクレヨンでわたしが描いたあの場所が、はたして
琵琶湖に該当するのかどうかも分からない。

大きな湖のほとりにわたしは暮らしていた。

父の名は、瑞理といった。
滅多に会えない人だったが、たいへんにわたしを可愛がってくれた。
わたしは彼が好きだった。彼が馬を飛ばして湖の国を訪れる度に、
「あにうえ」
そう呼んで駆け寄っては、懐いていた。
母は柚子といって、こちらの方は、母とは呼ばずに「ゆず」と呼んでいたと思う。
瑞理と柚子は夫婦だった、と思うのだが、はっきりしない。
実子でもないのに、よくもあれだけの愛情を、彼らはわたしに注いでくれたものだ。
「みかど」の用事で父はよく山の向こうに出かけて不在であったが、
その間、母の柚子と二人で手を繋いでは野に出かけ、花や実を摘んだ。
柚子が歌ってくれた歌をわたしはよく覚えている。
時々、女学校の音楽室からもその歌は聞こえてくる。
あれは、何処だったのだろう。
父と母のいた、あの湖の国は。

菜の花畠に 入日うすれ   
見わたす山の端 かすみふかし

雨が続いた或る日、ぬかるんだ崖から岩場に落ちた。
遠からず死に至るほどの大怪我だった。
瑞理と柚子は、瀕死のわたしの枕元で何かを相談していた。
瑞理が赤い布を出してきて、ゆずは泣きながらそれをわたしの首に巻いた。
雨が降っていた。
三人で、山を越え、雨上がりの広い野原に行った。
野にはたいそう立派な輿が一つ止まっていて、
簾の向こうから一人の貴女がわたしを見ていた。
柚子はわたしの姿をその人に見せるようにしていた。
父は泣かなかったが、母とその貴女は泣いていた。
ゆずは最期までわたしの頬を撫でていた。
それからにっこりと笑って、手をふった。
それきり、彼らには逢わない。
早乙女静香に遅れること五年、柳澤柚子もまた、この学校から姿を消した。
今に至るまで、消息は不明である。
だが、わたしは知っている。
今ではもう大きな子供のいる柚子のかつての学友たちがわたしに見せてくれた写真の中で、
胸に赤いリボンを結んだセーラー服を着て、こちら見ているその少女は、
確かにわたしが「ゆず」と呼んでいた人だった。
その写真を見た時、何ともいえない、時の流れの重みや煌きの全てが、
わたしの胸にどっと押し寄せてきた。

春風そよ吹く 空をみれば
夕月かかりて にほひ淡し

そして、全ては過ぎて去って行った。
階段を上がる。
ここで発見されたわたしは、ただちに病院に搬送され、
大量の輸血と大手術を繰り返して、ようやく一命をとりとめたのだと、祖父母から聞いている。
女学校の踊り場には、天窓からの光が今日も淡い虹影を作っている。
どこかで見た気がする。
湖面を渡る青い風を知っているような気がする。
そんな気がする。
あれは何処だったのだろう。
歌を聴く時と想いだす、夕風の吹く湖のほとり。
星が降っていた。雪が降っていた。湖面に揺れる、夕暮れの漁火。
瑞理はわたしと柚子を舟に乗せて湖に漕ぎ出し、魚を捕っていた。
風が緑を涼しくそよがせる。
瑞理と柚子が幼いわたしを呼んでいる。
湖のほとりだった。
白い雲が豊かに青空に流れている。
懐かしい国。
何処にあるのか、わたしは知らない。




[天女のはごろも・了]





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