幻想譚

[Kirill]
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Yukino Shiozaki

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Kirill(キリル)


 風の渡る草原、赤く暮れる雲の下、若者は馬を駆け飛ばして遠乗りより戻ってきた。
後ろで結わえた黒髪をなびかせて、城門の手前で振り返ると、
はるか彼方の山際に、太陽が沈んでいくところだった。
地平を這う山脈の尾根を細く繊細に辿っていく夕映えの金色。
草原の民はその連なりを、女神の首飾りと古くから呼んでいた。
 「あの燃える星の空は、いつも赤いのだろうか。
  太陽に住む人々は、いつも、赤い山河を見ているのだろうか」
 日輪が万年雪を赤く照らしつけながら、次第に小さく落ちていく。
しぼんでいく赤い花のような残照を見送っていると、祝いの手燭を手にした従僕が現れた。
 「キリルさま。お急ぎを」
 「そうだった」
 「キリルさまのご婚礼の宵なれば。花嫁はすでに、海の都からご到着にございます」
 「女神の首飾りをつけてか」
 草原の空は濃厚なる蒼のまま、星を浮かべ始めていた。
怪訝な顔をした従僕に、「何でもない」、キリルは応えて馬から降りた。
 草原の民と海の民は古くから、婚姻を交わすことで交易の便宜を図ってきた。
黒海から獲れる魚の塩漬けや特産品は、草原の道を通って、砂漠の街へと運ばれ、
砂漠の街からは西方の品々がまた草原を抜けて、海の都へと送られた。
 十八歳になるキリルは草原の民を統べる王の三男として生まれ、
先年に病で没した次男の代わりに此度、海の都から姫を娶ることになっていた。
 宴の席には、父である王、長兄をはじめ、縁続きの民おさが居並び、
海の都の姫君と、草原の王子キリルの婚礼を祝った。
 他国から嫁取りをする王子とは違い、次代の王となる長兄の伴侶は、
草原の民の中から選ぶしきたりである。
二年前に長兄の妻となった妃は、キリルの従妹にあたり、
同じ歳のこの従妹とキリルは、宴会の間、ずっと顔を合わせぬようにしていた。
 月が中天に白く昇る頃、宴はそのままに、王子と姫は新婚の間へと退いた。
宴席の賑わいがかすかに聞こえる中庭を隔てた上階、城の窓からは、
夜の草原の漆黒と、月光に淡く揺れる遠い河、山脈のかすかな影と星が見えた。
輝く星は、やわらかな夜風に震えるようだった。
 キリルはそこで花嫁を迎えた。
部屋には鳥や花の姿を織りつめた絨緞が敷き詰められており、
わずらわしいまでに焚き染められた香が風に薫った。
姫は死んだ次兄よりも年上で、キリルとは八歳も違ったが、
草原で生きる十八歳の若者にとっては特に気になることではなかった。
 「キリルさま」
 「姫、こちらへ」
 キリルの手は姫のかぶりものを取り、その髪を解いた。
 首筋に接吻すると、姫はうつむいた。
 首飾りをつけていない首だった。
 あまり美しい姫ではないと聞いていたが、キリルの眼には、姿やさしく映った。


 「海が恋しいだろう。今日は、河まで連れて行こう」
 海の姫を連れて城を出る時、兄嫁と回廊ですれ違った。
従妹は海の姫に話しかけ、「海の傍でお育ちになられたのですからご承知のことでしょうが、
水際は陽射しの照り返しが強いので木陰から離れませぬよう」、と微笑んだ。
海の姫は透き通るように肌が白く、こぼれるその金髪も日に色褪せてはいなかった。
低木がまばらに生えた河のほとりで馬を止め、キリルは姫に打ち明けた。
たとえ正式な婚姻前であっても許婚が死んだ貴家の女人は、女僧院に入るもの。
それなのに何故、死んだ兄の許婚であった貴女をもらったと思う、姫。
海の姫は喪服も着てはいなかった。
樹の根元に寝転んだキリルは青空を見上げ、姫の膝に頭を寄せた。
 「罪ほろぼしのため、と思うがいい」
 「お話が分かりません、キリルさま」
 「貴女の許婚であった次兄は、病死したのではなく、殺されたのだ」
 「あなたが」
 「そう」
 頷いたキリルは妻の声に混じる愕きを愉しんで、木漏れ日に眼を閉じた。
まぶたの上に陽射しが赤く滲んで跳ねていた。
ぱたぱたと、音を立ててあの日、流れ落ちた血は草原を濡らした。
 ---------キリル!
 振り返った次兄の怖ろしい形相を、キリルは平然と見返した。
また一太刀をその背中に浴びせると、次兄は膝から前のめりに倒れた。
草原の草を掴み、蒼穹の下、次兄は最後まで這いずって城に戻ろうとしていた。
緩慢なその動きと執念、その無念の身悶えを、風の中、キリルは最後まで見下ろしていた。
動かなくなるまで。

 「母の仇だ」

 城に戻って次兄の死を告げたキリルを、おとなしい気質の長兄は抱きしめることで、不問に処した。
 キリルと長兄とは違い、次兄を生んだ女は父王の側女の一人で、
父に讒言を吹き込むことで正妃に姦通の罪を着せ、無実の后を断首に追いやった女だった。
 草原の掟に従い、母の首は太陽の沈む方角の城壁の上に不浄のものとして晒された。
美しかった母の顔が、黒く腐り果ててやがて骨と変わっていくその様を、キリルは毎日見ていた。
骨になった母の眼窩に、沈みゆく太陽が赤く溶け落ちていくのを見ていた。
その太陽は輪郭を滲ませたまま、キリルの胸の暗闇に灯った。
 「この胸に踊る火を鎮め、解き放つには、静かに湛えられた清い水がいる。
  海の都から来た貴女が側にいてくれると、それも叶うような気がする」
 「お兄さまをその手で殺めても、まだ消えぬのですか」
 「分からない。それとも、一度それを心に秘めると、二度とは離れていかぬのかも知れない」
 「厭うものに、なおのこと、自ら同化してはなりません、王子」
 「姫は乳母のような口を利く」
 「なぜ、わたくしを」
 「貴女が僧院で一生を過ごすのは気の毒だと、そう思った」
 キリルは姫に小さなものを渡した。
 骨に見えたそれは、白い貝殻であった。
 「大昔、この草原は一面の海だったそうだ。遠くのあの山脈も、海の底だったそうだ。
  まことの話かどうかは分からないが、こうして、貝を拾うことがある」
 さすれば太陽は、その時代、海の向こうに沈んでいったのだろうか。どれほど思い浮かべてみても、
この草原に代わり、地平線までなみなみと水が湛えられている有様が想像できない。
それとも黒海のほとりで育った貴女には、その想像もたやすいだろうか。
 「教えてくれ。海の都の太陽は、燃える鳥のように羽根を散らして、海底の深みに落ちていくのか」  
 流れる河は、遠い海へと続いていたが、潮の香も波音もしなかった。
風にそよぐ草の葉ずれが押し寄せるそれに代わった。
海の姫は眩暈がする思いで、膝に眠る若い王子の顔を眺めた。
 海の姫がキリルの心に潜む禍々しきものを見たのは、それからほどなくであった。
キリルはいつも優しかったが、彼の慾情を満たすものは他にあることに、薄々気がついた頃であった。
 夜の城をそれは歩いていた。
 普段のキリルと変わるところはなかった。
 ただ、月光に照らされたその影が、影の中に、赤い焔の塊を宿していた。
 焔はキリルの歩みに合わせて、床や壁を這うキリルの影の中で、ゆらゆらと薄く揺れていた。  
 「キリル」
 彼を迎え入れたのは、長兄の妻の従妹であった。
抱き合い、部屋の中へと消えていく二人の姿を、海の姫はまたもや海鳴りの幻聴と
眩暈を覚えながら柱の陰から眺めていた。
 やがて、部屋から上がった魚が跳ねるような女の声から逃げるように、海の姫は踵を返した。
 廊下の突き当たりに、女が立っていた。
 「誰です」
 震える声で海の姫が訊ねると、女は手燭を片手に、ほほ、と笑ってみせた。
 それは王の側女であり、キリルが殺した第二王子の母であった。
 「このこと、王と皇太子さまに今すぐ、お知らせしよう」
 側女を追いかけた海の姫は、その前に立ちふさがった。
 「そんなことをなされば、第一王子さまの妃と、あなた様は同じ草原の民の出。
  妃が滅べば、あなた様とて追放の憂き目に遭い、草原ではもはや生きられませんでしょう。
  そしてその時には、お后さまに冤罪をかけたあなた様の罪も露見するに違いありません」
 「言いがかりや、邪魔立てはおよし、海の姫」
 側女は短剣を取り出して喚き立てた。
 「わが子を殺された母の嘆きや恨み、決して他人には分かりはしません」
 「キリルさまは、お父上が深くあなた様をご寵愛であるからこそ、あなた様を見逃されているのです」
 「子を喪って余生を生きる女ほど惨めな生き物はないとよく知った上で、あれは復讐のために
  わたくしではなく、息子を殺したのだ。
  そなたもしかと見たでしょう、あの王子の胸を食む怖ろしき鬼火を。あれは亡き后の怨念などではない、
  キリルの骨身に沁み込んだ、あの者の正体です」
 「その火を消して欲しいとキリルさまはわたくしに願われたのです」
 暗闇でもみ合ううち、取り上げた短剣を握る手が誤り、海の姫は側女を刺し殺してしまった。


 口を開けば、第一王子に嫁ぐ前より続いている妃とキリルの長年の不貞までも暴くことになる。
牢の中の海の姫は、厳しい取調べに対しても、何も答えなかった。
はるばる海の都より、姫を幼少の頃から知っている伯父や伯母が訪ねて来たが、
涙にくれる彼らにも故郷の人々にも、姫は何も伝えることがなかった。
 牢の小窓からは、灰色の空が見えた。
 海の姫の処刑は、日没に行われた。
 城の塔の上、目隠しをされた姫は手探りで、自らの首を置く台を探さねばならなかった。
血止めの藁に素足が触れた。
そこに膝をつき、台の上に頭を載せた。
 「夫の手で送られるとは、倖せにございます。わが君」
 キリルは斧を振り上げた。
夕陽が塔に射して、キリルの胸を照らした。
 「わたくしの首は土に埋めないで下さいませ、キリルさま」
 「そうしよう」
 胸壁をすり抜けて届く日没の光が、姫の細首に首飾りのような金色の陰影を作っていた。
キリルは斧を振り下ろした。
埋葬前に、首の離れた姫の手を開かせると、そこには白い貝殻が握られていた。
 その晩から降り出した雨は、数日経っても止まなかった。
草原の民は顔を見合わせた。
乾季の長いこの地に雨は少なく、また降ってもすぐに止むのが常だった。
 七日目に河が溢れ、大地を浸し始めた。
空は掻き曇ったまま暗く濁り、昼となく夜となく、雨が降り続いた。
家畜を捨てた遊牧民は少しでも高台を求めて地を彷徨い、城にも多くの者が逃げて来た。
王は落ち着いて、古来より止まなかった雨などないと説いたが、人々の不安は止まなかった。
水没した城の庭園から辛うじて運び上げた花の残りももはや枯れていた。
窓辺に据えた海の姫の首にキリルは話しかけた。
水浸しとなった平野の果てには、遠くの山脈が、孤島のように雨にかすんで取り残されていた。
 「ここを海に変えてみせようというのか」
 腐ることなく保たれていた姫の顔が、僅かに頷いたようにキリルには見えた。
 河の中にすべての木々が呑まれて消え、やがて、城の天守閣も水の底に沈んでいった。
草原は一面の水鏡と変わり果て、吹き渡る風が作る静かなさざなみに、生きる者の影はなかった。
 海の都と砂漠の街から、それぞれ探索隊が派遣されてこの地を訪れたのは、
水が引いてぬかるみが固まり、完全に大地の乾いた、百年後のことである。
風が吹き、草原にはまた草が生えていた。
城に近付くにつれて、周囲には流れ出した陶器や煉瓦、人骨が散らばっているのが眼についた。
長い間水の底にあった城は荒れ果てて、ぬるい風が吹き抜けるままに、内部はすべて朽ちていた。
倒壊した柱に囲まれた庭園跡や、腐り落ちた廊下、
ぼろぼろに裂けて破れた絨毯には退色した花や鳥の織文様が辛うじて見て取れたが、
かつてそこに過ごした人の痕跡はわずかに残された遺物に触れてみても、ほろりと砕け落ちるばかりで、
もはや虚ろな沈黙のこだますら、人々に返しては来なかった。
 若い王子の遺骸は塔の上で見つかった。
密閉された塔の中、王子の遺骸は女の首を抱いたまま、生前そのままの姿をとどめていたが、
風を通すと、たちまちのうちに風化して、骨を残して塵と消えた。
 その日の夕陽が山脈に沈んでいくところであった。
山際を細く辿る夕映えのそのさまを何と呼ぶのかも、もはや知る者もいなかった。
 斜陽は開け放たれた窓から、黒髪の残る王子のされこうべの上に落ちた。
火がついたように見えた。
王子は骨と化しても、まだ女の頭蓋骨を大切に胸に抱いていた。
夕陽の金鎖で分かちがたく、繋がっているようにも見えた。
人々は王子の眼窩と女の眼窩を代わる代わるに覗き込んだが、
そこには静かな暗闇が、どこまでも深く、貝殻の空洞のようにかすかな波音をひいて、
眠るように閉ざされているだけであった。




[Kirill/了]



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