[レムリアの湊]
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Yukino Shiozaki

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■\.
【最終回・下】


 真夜中の海では、船の生存者を引き上げる作業が続いていた。
夜の蝶々号に収容されたアカラの兵たちは下甲板に送られて、厳重な見張りのもと、
武装解除され、毛布と温かな飲み物をあてがわれた。
「小鹿の踊り号を失うのはきついが、テッサコモのライヤーズに、借りはつくりたくないからな」
 ホトーリオは未練を隠さず、海上で接舷した「小鹿の踊り」号の船体をしみじみと
惜しんで眺めた。
「あの御仁も、もう少し、外交というものを学んで下さればよいのだがな。
我が家に押しかけてくるなり、アカラのエブスタは大昔にわしの手下であった男、
あやつがどれほど欲深な風見鶏かわしはよく知っておる、ほれこのとおり、とばかりに
亡命した船匠から聞き及んだコルリスとアカラの密談内容をぶちまけて、得意満面、
さあハレの危機を教えてやったぞ、これでおぬしとわしは兄弟だ、つきましてはこれから
通商をよろしく、ときた。提携条約の書類まで万事整えて携えてきよったからな。
しかもその日の日付入りだぞ。ばかやろうが。彼の中ではすっかりそうなるべきこととして
悦び勇んでハレに来たもので、思い通りに事がはこばなかったことがついに最後まで
ご理解いただけなかったようであったが、あれほどに単純な人間も珍しいわ。
まあでも今回はそのライヤーズのお蔭で、いち早くエブスタ・ゴールデンへの警戒を
もてたことでもある。間接的にせよ、ハレの存亡の危機を救ってくれたには違いあるまい。
腹いせの泥棒行為だろうと何だろうと、領主がどうでも、そのような良い船匠があちらに
いるのであれば、お礼としてこちらから、「小鹿の踊り」号をテッサコモに譲ってくれるわ」
 夜の蝶々号と小鹿の踊り号は、仲の良い双子の姉妹のようにして、その船体を海に並べていた。
露天甲板から両艦の間に、渡り板が橋のように架けられた。細い橋は、月の光に白く浮かんだ。
 オスタビオ艦からはオスタビオ、「赤月」からは、後のことを髭面に任せたジャルディンを乗せた
小艇が放たれ、夜の蝶々号に漕ぎ寄せた。小艇から舷門をとおって夜の蝶々号の甲板に
降り立った彼らを、ホトーリオが肩を叩いてねぎらった。クラリサは再会したオスタビオの腕にすがり、
その胸の中で、はらはらと涙を流した。
「三年前に死んだわたくしの夫は、アカラの船工房にいたのです」
 オスタビオはすばやくクラリサの胸から短刀を抜き取り、いざとなれば養父をその手で殺めようと
覚悟していたクラリサも、エブスタが捕らえられた今となっては、抵抗しなかった。
くしゃくしゃに乱れたクラリサの金茶の髪を整えてやりながら、オスタビオが云いきかせた。
「クラリサ。ハレにおいで。そしてぼくたちは一緒に暮らすんだ。いいね」
 オスタビオに涙を拭われながら、クラリサはこれだけは云っておかなければと、言葉を継いだ。
「アカラの工房には、職人たちの尊敬を一身に集める船匠がいました。
彼はいつも、その人のことを眼を輝かせて話してくれました。うちの師匠はすごいんだ、
あの人を見ていると、船を造る仕事に誇りが持てるよと。その船匠の名はストロウ。
でも、それは後からついた名で、本名は誰も知りません」
 船匠ストロウ。彼が何者なのか、出身はどこの国なのか、誰も知らなかった。
しかし何人かはこう云っていた。あの方はきっと、ハレの人だよ。
 戦闘中、貴賓室に保護されてたマーリンとエトラが、クロータスに導かれて小鹿の踊り号の
上甲板に姿を見せると、夜の蝶々号からは喝采が上がった。
クロータスが、続いてエトラが道板を渡った。人質といっても上客扱いだったらしく、エトラは元気だった。
波間の上に架けられた細い橋を軽々と渡ると、エトラは金色の小鳥のように、夜の蝶々号の傭兵の
許へと駆け寄った。残るはマーリンひとりとなった。
「マーリン」
 愕きをかくさず、ホトーリオは呆れながら妻を迎えに道板へ駆け寄り、橋に脚をかけた。
「クロータスと一緒に小鹿の踊り号に乗っていたとは」
 角燈に照らされた船べりから、ホトーリオは対面の船にいるマーリンに手を差し伸べた。
マーリンは傍らに立っている髪を後ろで束ねた男と、二言三言、挨拶を交わしていた。
その男の顔を見たホトーリオの顔が、信じられぬものを見たようにこわばり、茫然となった。
ホトーリオに手をとられたマーリンは、二つの船を繋ぐ橋を渡り、月光に輝く海を越えて、
夜の蝶々号へと移ってきた。その眸に涙を浮かべ、通りすがりにマーリンは夫に囁いた。
「テッサコモの海でも、四年に一度、旅をする蝶の群れが見えるそうですわ。今からそれを、
楽しみにしていると」
 マーリンを船に残して、ホトーリオは道板に身を乗り出した。ハレ領主の姿をみとめた男は、
小鹿の踊り号から軽く礼をした。
「あの方が亡き夫の師匠、船匠のストロウさんです」
 クラリサは、小鹿の踊り号の舷縁に佇む男を示した。
 十八年前、海岸沿いの小さな邑に、若い男が引き取られた。若者は手仕事に興味を示し、また、
専門家並みに船に造詣が深かった。船工房に雇われた若者はたちまちのうちに頭角をあらわし、
やがて、アカラへと招聘された。
「焼け焦げた板切れに掴まって海を漂っていたところを、釣り船に発見されたのだそうです。
彼の学識や知識はそのままでも、彼は彼自身にまつわる過去の一切を憶えてはいませんでした」
「わたしだ。ホトーリオだ」
 両艦の間に架けられた橋の上に立ち上がり、ホトーリオはテッサコモの船匠を
かつての親友の名で呼んだ。彼は自身の胸を叩き、かさねて呼びかけた。
「わたしだホトーリオだ。子供の頃、君と一緒によく船渠に屋根からしのび込んでは、
おやじや、工房のおやじどもに叱られていたホトーリオだ。君と一緒に船の模型を造っては、
海に浮かべていた、ホトーリオだ」
 マーリンはクロータスと手を取り合って、夜の蝶々号の手すりのところに立っていた。
海で見つかった若者は火傷を負っており、そして上着には、『湾内船渠工房見学許可証』を持っていた。
それがハレ発行のものであることを、文字の読めない小さな邑の人たちは、誰も分からなかった。
後年になってそれがハレのものであると知れても、男は、『何故このようなものを持っていたのだろう』と
首をふった。名匠は何も憶えていなかった。
「それでも、珍しく深酒した時に、わたくしの夫だった人をはじめ、船工房の人たちは
酔いつぶれたストロウさんが、昔のことを呟くのを聴いたのだそうです。
朝になってそのことを訊いても、本人にも、もう分からないようでした。ですが、
彼はこう云ったのです。マーリン、と」
 エブスタに隠れて船工房に恋人を訪ねていたクラリサは、工房長のストロウとも知り合いになった。
ストロウは若い恋人たちに優しかった。恋人の仕事がまだ終わらない時、ストロウはクラリサを
吹きさらしの船渠から、暖炉のある図面室に招いてくれた。
そこはストロウの自室も兼ねており、クラリサは設計図面をひいているストロウを見つめながら、
夕方をそこで過ごした。あちこちの引き出しを開けても、うるさくしない限り、何も云われなかった。
ほっておくとストロウは文字どおり寝食を忘れて仕事に没頭しているので、幾度となく、
下男とともに食事に注意を向けさせなければならなかった。エブスタは破格の高給をストロウに
与えていたが、ストロウはその殆どを、アカラ近郊の慈善院に寄与してしまい、自分のことには
頓着しなかった。夫は首をすくめた。「誰にも真似できないだろうね」。
 駈け落ち同然に結婚して三年後、クラリサは夫を喪った。
そして三年間を修道院で過ごした後、アカラに帰ってきたクラリサを、ストロウは慰めるでもなく、
励ますでもなく、懐かしい図面室にまた迎え入れてくれた。その船匠の形相が一変したのは、
エブスタが、船をコルリスに売っていたと知った時であった。そしてストロウは、クラリサの口から
ハレとの縁談の話を聴いた時にも、不可解な反応をみせた。船匠は、自分でも何故そうするのか
分からぬといった顔をしながら、ハレ領主の一家の名を繰り返した。
そして彼は、その要求をエブスタに突きつけたのだ。
『ハレを侵攻するだと。如何なる大義がそこにあれ、アカラにもコルリスにも与することは
断固賛同いたしかねる。わたしの船は、欲深い人間の戦いの道具として遣われるものではありません。
ただちにコルリスと縁を切り、ハレ攻略をお止めいただきたい。さもなくばアカラを出て行く』と。
 クラリサが、船匠の出身に思い至ったのは、その時であった。
死んだ夫のはなし、それから、図面室の棚の引き出しの中に大切にしまわれていた、あの古い、
『湾内船渠工房見学許可証』。

 「わたしだよ、ホトーリオだ。君の親友のホトーリオだ。どうか、わたしの名を呼んでくれ」
 渡し板の上でかつての親友に呼びかけているホトーリオの袖を、マーリンがそっと掴んだ。
マーリンの頬には涙が伝い、そしてマーリンは向こうに渡ろうとするホトーリオの背を抱きとめた。
泣きながらマーリンは首を振った。
「憶えてないの。あの人、本当に、わたしたちを憶えてないのよ」
 夜の蝶々号からそれを見守っているジャルディンとエトラの隣りに、クロータスが立った。
「母とわたしとで、ハレの話を幾つかしてみたのですが、あの人は本当に何もかも忘れていて、
昔のことを何も憶えてはいません」
 クロータスは「小鹿の踊り」号にいる実父の姿を、絵でも見るような眼で、しかし何ともいえない
親しみ未満の感情で、じっと見つめた。母に見せてもらったことのある絵の中の若者と、
テッサコモの船匠の間には、長い年月があり、それに気がつくのは、彼のことをずっと懐かしんで、
今日まで忘れなかった者たちだけだった。
「死んだと聞かされていた実の父が生きていて、テッサコモにいるかもしれないと
クラリサさんから教えてもらった時も、そして今も、あの人がそうだと知ってからも、
わたしには釈然としないばかりです。それがまさかあの人のことだとは思いませんでしたが、
ハレを救う為だと云った、あの人の真剣は、どうしてだか信じられるような気がしたのです。
それでも、息子がいたことすらも完全に記憶にない人のことを、父上とは呼べません。
だって、わたしにとって父親といえば、ホトーリオ父さんで、そして母と兄が、家族でしたから」
「ええ、そのことはよく分かっておりましたわ」
 クラリサが涙をおさえた。
「それでも、これが最後になるやも知れぬと思うと、ストロウさんが不憫で、それすらもわたくしの
勝手な同情であったとしても、それをお伝えせずにはいられなかったのです」
「ハレ領主殿は、よいご子息をお持ちです」
 星空の下、両船を繋いでいた道板が取り除けられた。「小鹿の踊り」号の露天甲板から、
テッサコモの船匠は、あっさりと彼らに別れを告げた。
「それでは、お船をいただいて参ります。ライヤーズ様は喜怒哀楽と癇癪のはげしい方ですが、
テッサコモを内外に誇れる国にしたいと、あれでも真剣にお考えなのです。今後はあちらの船匠として
その手伝いができればと考えております。いつか、それに適うだけの国となりましたら、
またハレともお近づきになりたいと存じます。さて、領主の密命は「夜の蝶々」号を奪ってこいとの
ことでしたが、わたしは「小鹿の踊り」号をいただきます。ライヤーズ様には両艦の区別がつかぬでしょう。
万事これがいちばんいいように思います。「夜の蝶々」号は、ハレの船ですから」
 小鹿の踊り号が、夜風にそっと押し出された。
それは、星空をはしる船のようであった。小鹿の踊り号の帆が、夜風に月のかたちを描いた。
船匠の知性を湛えた眼は、遠い昔、彼がいつも何かを興味深く見る時にそうしていたように、
やわらかに澄んで、夜の蝶々号の甲板から見送っているホトーリオ、マーリン、オスタビオ、
クロータスの上に順にとまり、そしてまた、最後にマーリンとホトーリオの上に戻ってきた。
船匠は礼をした。
「わたくしごときを、親友とお呼び下さって、まことにありがとうございます」
 ホトーリオが友の名をもう一度大声で呼んだ。ストロウは何のことか分からぬといったように
微笑んで首を傾けた。そして船尾の手すりから身を離すと、片手を挙げた。
「奥方さま、マーリン様。ホトーリオ。皆さま、どうぞ、いつまでもお達者で」
 挨拶を終えると、船匠は背をむけて、彼の弟子たちの待っている艦首楼へ去ってしまった。
それはまるで、月の国をはしる船であった。月光の照らす静かな波をわけ、
星の散りばめられた夜空へと、白い翼をひろげて、ゆるやかに飛び立つ、風の船の姿であった。
時が移り、彼らの発明や、彼らの精励が、まったく忘れ去られ、世の中や、後世から嘲笑されるような
古めかしいものに変わり果てたとしても、彼らはあたうかぎりの労と時を、愚直なまでにそれに
そそぎ込むことを止めぬであろう、それはいつまでも、いつの時代でも、彼らが彼らの命と語ることであり、
たとえそれがどれほど無意味で、無価値なものにみえたとしても、それこそが彼らの
生きるよろこびと矜持、この世界に在ること、彼らそのものなのだった。


 水晶を砕いたような夜の海に、小鹿の踊り号は、やがて見えなくなった。
夜の蝶々号の人々はその船影を見送ってすっかりそちらに気をとられていた。そのために、
反対側の左舷でおこった動きに気がつくのが遅れた。
「エブスタ!」
「お父さま!」
 見張られていたエブスタが、水夫を殴り倒すと、大檣に走り寄るなり、猛然と静横索を掴んで
それを登りはじめたのだ。夜の蝶々号の大檣は、先ほどの海戦で損傷している。根元を囲んだ
索止め座は無事でも、索の何本かは焼け焦げて、中ほどからいつ折れるともしれない。
檣楼員も念のために、先ほど全員降ろしたところだった。
「危ない、折れるぞ。降りろエブスタ」
しかし、エブスタは制止の声には耳をかさず、見張り用の檣楼まで登りつめると、そこに常備してある
角燈を取り上げ、芯に火をつけた。
 一同はエブスタの目的に気がついた。沖合いでは、コルリスの艦隊が国へ戻ろうとして転進中である。
エブスタは角燈を使って艦隊に信号を送り、さも作戦が成功して、ハレの防壁が開いたかのような
合図を出すことで、あの大艦隊をこちらに呼び戻そうとしているのだ。
コルリスの艦隊が引き返して押し寄せてきたら、ハレの街は防壁に立て篭もることで守れても、
圧倒的な艦隊を前にして、この船はそこで終わりである。前檣と後檣に詰めていた檣楼員たちも
それを察して、直ちに弓を取り上げ、エブスタを矢で射ようと、対面の大檣楼に狙いをつけた。
その水夫たちを、「待て」、ホトーリオが止めた。
 帆柱に取り付けた籠のような檣楼に上がるには、檣楼座板の下に穿たれたくぐり穴から肩を出して
身を持ち上げる。しかし、慣れた船乗りはそんなことをしない。
外に張り出した静索を掴み、一度海面に背中を向けるようにして逆さまになると、腕の力で
それを斜めに登り、檣楼に飛び移るのである。エブスタの真後ろから飛び込んだジャルディンは、
振り向いたエブスタの手から角燈を叩き落とした。はるか下方で硝子の割れる音がして火と油がこぼれた。
その火は船体に燃え移る前に、水夫たちの手によって競うようにして叩き消された。
月明かりの中でも、エブスタは黒髪をなびかせている傭兵の姿を見分けた。
「ジャルディン」
「降りろ。エブスタ」
「貴様。邪魔立てばかりを。貴様さえいなければ」
 エブスタは長靴の中から隠しの短刀を取り出した。それがあるために、いつも脚が悪いふりを
していたのだ。ジャルディンはそれを見抜いていた。すぐさまジャルディンも剣を抜いた。
船の高み、月に近いところで、きらりと剣が閃いた。激しく打ち合う音がした。
悪党であっても、エブスタは凄まじい執念と胆力の持ち主であった。もはやエブスタには
ジャルディンを殺すことしか頭になかった。そのエブスタは、たちまちのうちにジャルディンに剣を
落とされてしまうと、何を思ったのか、檣楼を離れ、真下の帆桁にすばやく降りて、静索を片手に身を支え、
海面からはるか高みにある帆桁に脚を乗せた。誰もが、エブスタがそこから海に逃げるつもりなのだと思った。
砲撃と火災により芯が傷んでいた大檣は、ぐらりと揺れた。それが明暗を分けた。エブスタはジャルディンを
待ち構えており、静索の反動と帆桁の傾きに合わせて、追ってきたジャルディンに体当たりし、
傭兵を帆桁から突き落とした。下方甲板から大きなどよめきが上がった。
「エブスタを射おとせ!」
 ホトーリオの命令で、前楼と後楼の檣楼から矢が放たれた。
ジャルディン・クロウは帆桁に両腕をかけて、辛うじて墜落をまぬがれていた。
矢は帆桁の上に立ち上がっているエブスタの身体を掠めたが、しかしエブスタの執念のほうが勝った。
エブスタはじりじりと慎重に帆桁の上に歩を進め、傭兵の腕を踏みつけた。足場綱はそこになく、
帆桁から腕が外れれば、墜落死を免れ得ない。全体重と復讐の怨念をこめて、エブスタは
傭兵の腕を骨まで砕けろとばかりに、がつがつと踏みにじり、蹴りつけた。
ジャルディンの片腕が離れ、片手は括帆索を掴んだ。ジャルディンは眼をすがめ、いちばん近い
索を探した。届かない。
「死ね、貴様さえいなければ。死ね、ジャルディン」
 誰も止める間もなかった。人影が大檣に走り寄った。それは金色の鳥が空に舞い上がるようにして
段索をあっという間に駆け上がり、高い高い帆桁のところに辿りつくと、帆桁の枝に踏み出して、
ジャルディンの上に覆いかぶさった。そして傭兵を蹴りつけているエブスタを睨み上げた。
「彼を殺してごらん、わたしがお前を殺してやる」
「邪魔をするな、小娘」
「エトラ!」
 帆桁に跨り、腹ばいになると、エトラはジャルディンの片腕をしっかりと掴んだ。
「お前から落としてくれる」
 エトラの肩や背をエブスタが猛然と蹴った。男ひとりを持ち上げられるわけもない。だがエトラは
ジャルディンの腕を離さなかった。エブスタに頭を蹴られたエトラががくりと身をのけぞらし、
帆桁に突っ伏した。それでもエトラはジャルディンの腕を離さなかった。
「エトラ、誰か、エトラを助けて」
 マーリンとクラリサが悲鳴を上げた。そしてそれは、さらに大きな異音にかき消された。
傷んでいた大檣は、大きく揺れると、もう二度とは持ちこたえることがなかった。
根元のあたりから折れて、帆柱は巨大な帆を抱えたまま横倒しに傾き、星空をかき消すように視界を
大きく横切ると、「夜の蝶々」号を大揺れに揺らしながら、めきめきと音を立てて、
どおっと海中に落ち込んだ。引きちぎれた何十本もの太い索がうねり、甲板を鞭のように叩いた。
人々は、エブスタが柱の直撃を受けて、海中に沈み、もう二度と浮かんでこないのを見た。
エトラは泳げない。そして大量の帆と重い帆桁を抱えた大檣が逆さまに墜落した先は、
暗く、つめたい、夜の海だった。


 
 帆桁の上に立ち上がると、空の茫漠の中に落ちるような、風に誘われて、
雲の耀く夕焼けの天海に手を引かれるような、快い解放と、空虚を覚える。
それはどことなく、大空との契りに似た、常習性の強いたのしみであった。
何もかもがどうでもよくなり、そしてその自虐性までもが、光と風になぶられて過ぎるあの瞬間、
きわどい均衡と落下の危うさを交互に味わう男たちは、はるか高みで薄笑いを浮かべたものだ。
ジャルディンは哄笑こそしなかったが、そのぬるい弛緩はよく分った。まさか本当に、
深遠に落ちる日が来ようとは。
 夜の海に落ちるということは、拘束具ごと水に浸けられることと、ほぼ同じである。
漆黒と重圧があるばかりで、天地も分らなかった。瞼も耳も口も、水圧でふさがれていた。
ジャルディンは浮くに任せた。やがてほのかに海面が見えた。手を伸ばすと、つっかえた。
漂う帆の真下だと知れた。ジャルディンは落ち着いて、息をながらく止めたまま、
頭上を覆う蓋の切れ目まで帆を辿った。ようやく、帆の下から脱出し、息継ぎができた時には、
すでに「夜の蝶々」号の灯りの輪の外であった。檣冠に手をかけて、ジャルディンは息を整えた。
海で過ごした経験のあるジャルディンなら慌てることなくこれができた。しかし泳げない者にはまず、
不可能である。少々の荒波なら渡ってみせる熟練の泳ぎ手でも溺れて沈むのが、夜の海なのだ。
「エトラ」
 海の恐ろしさを知るだけに、ジャルディンは心底から、この状況を懼れた。
帆柱が海に倒れるということは、その重量ごとそちらに船が傾斜して引きずられるということである。
「夜の蝶々」号では、まだ繋がったままのあらゆる索と柱を切り離して檣を完全に海中投棄し、
船の傾きを回復させる作業に追われており、そうしているうちにも、海流に流されて、
船との距離は開いた。
 月明かりの海面には、沈んだ艦の破片や遺体が一面に散乱しており、それが浮いたり
沈んだりしながら真っ暗な波間に揺れて漂っている。
十中八九溺れているであろう少女の姿をこの中から見分けて探すことは、闇の中、困難を極めた。
いかなる戦場でもかつて覚えがないほどに、ジャルディンは焦りを覚えた。泳ぎ方を知らぬだけに、
浮き上がることもないまま、エトラは海の中で溺れてしまったかもしれぬのである。
後にエトラが語ったところによれば、海に落ちて、しばらくすると、何か小さな光のかたまりが
ぼんやりと見えた。鳥のかたちをしたそれを追っているうちに、星空が広がったそうである。
 水を必死で叩いている音がして、ジャルディンは、かすかなその音を頼って、エトラを見つけた。
「エトラ」
 エトラはまた波に沈んだ。溺れる者に手ぶらで近寄ってはならぬ鉄則を破り、
これはかなり巧者な泳ぎ手でも迂闊にはしてはならぬことなのであるが、溺れているエトラの背中に回り、
ジャルディンはエトラを海中から抱き上げた。水への恐怖から、エトラはめちゃくちゃに暴れた。
エトラを後ろ抱きにしたまま、ジャルディンはエトラが疲れるまで待った。
浮くものを探していると、ちょうどいい板切れが漂ってきたので、それを引き寄せた。
「いや。怖い」
 凄い力で首にしがみついてなかなか離れようとはしないエトラを何とか板切れにつかまらせて、
ジャルディンは板切れを引くようにして、岬の影からそのあたりにあるはずの、いちばん近くの、
海に突き出ている岩島へと泳いだ。エトラはかなり海水を呑んでおり、吐かせると、ぐったりと
岩棚に凭れてしまった。そして無理からぬ恐怖の反動なのか何なのか、ほかに理由があるのか、
エトラはジャルディンを叩いた。抗うその腕を抑え、ジャルディンはエトラの上に身体を重ねた。
ふるえながら、エトラはジャルディンにすがりついてきた。横目で見れば、「夜の蝶々」号と、
探索に繰り出された小艇はまるで見当違いの遠いところを探しており、そしてコルリス艦隊は完全に
撤退を終えて、夜の向こうに消えていた。
 冷えきっているエトラの手脚をさすったり、時々話し掛けているうちに、夜の雲の輪郭が
青灰色に変わってきた。呼吸が落ち着いた。眠いというので、寝てもいいと云った。
風があたらないようにエトラを庇いながら、波音をきいていた。だから木登りはよせと云ったのだ。
冬場でなくて幸いだった。この岩島にいる限り、朝になれば、見つけてくれるだろう。
 空が白みはじめ、星が薄れた。乳白色の光が視界に混じり、海面は対照的に暗さを増した。
海で迎える夜明けのことは、古代より数限りなく、いろんな詩人がうたい上げている。
しかしどのような言葉でもそれは言い尽くせない。それはまるで、この世の始まりなのだ。
その光輝は、言葉を尽くしても語りつくせぬ、この世の美しさそのままであり、
世界をひらく黎明の光は、薄灰色の中から、忽然と、その光をのばしてくる。
 そしてジャルディンは、この世で二度と見たくないものを、また見るのだ。レムリアの湊。
その帝国は海から向かうと、鳥が翼を広げたように見える。湊に建ち並ぶ白亜の塔は、海の上に
浮遊しているように見える。それは暁の光に呼び起こされる、古く、苦い、まぼろしだった。
船乗りの頃、毎朝のように海の彼方に見ていた白い幻影、払暁の一瞬に焼きついて、燃え上がる、
後悔にも似た白銀の心象を、また見るのだ。
 星が薄れ、夜明けの風が吹いた。
海は銀灰色に打ち寄せた。ジャルディンは、岩棚から、一気に広がったその白い光を見ていた。
空はまだ暗く、雲はまだ夜の中に流れていた。波は穏やかで、湖のようであり、灰色を帯びた
ばら色や藍色が、ゆるやかに金色と青を濃くしていた。大洪水の後に、エトラと二人だけで
此処に残されたような気がした。その帝国の名はレムリア。たとえ睡りの中であろうと、
夜と朝がある限り、それは暗闇の中から、荘厳な暁をつれて、海上に浮かび上がってくる。
 誰かの手が、そっと触れた。
「わたしを見て、ジャルディン」
 いつの間にか目覚めていたエトラが、身体の下からジャルディンを見ていた。
わたしを見て。その眸の色は、澄み切った水色だった。朝風の中から、エトラは囁いた。
傭兵の背にエトラは手を回した。その指先は、男の肩の昔の痕に触れた。
眩しい旭の放射が、しだいに空の四方にとけて、その残滓は砕け散り、それは見る見るうちに、
別の色に変わった。少女の声が告げた。
「夜明けの湊は、もう消えてしまった。わたしを見て、ジャルディン」
 それは朝の清浄な空の色だった。朝焼けの光に縁取られ、少女の髪が、きらきらと輝いた。
水色の眸が近づいて、ジャルディンから海を消し去った。少女はその眸で傭兵を見つめ、
その唇を寄せた。空には、まだ月があった。
 陽が昇り、夜が払われた。岩棚にいる彼らを見つけた小艇がこちらへ漕いでくる。
漕手は副隊長の髭面で、舳先では、そばかすの少年が彼らの名を呼びながら手を振っていた。
黒髪の傭兵は潮のひいた岩棚に立ち上がった。その足許で、エトラは膝を抱えて空を
見上げていた。上空を、朝の鳥が過ぎた。空が晴れてゆく。ハレの街が夢のように、
朝霧の向こうにそのかたちを見せはじめた。防壁の上では、街の人が彼らの無事を祈っていた。
船乗りもいた。船大工もいた。守護隊の男も、色街の女もいた。その無事を知らせる、街の鐘が鳴った。
また明日、海の上には、湊の影が現れる。そしてそれは、透きとおるような別の色に吹き払われる。
ジャルディンに水色の朝が訪れて、そして、それはもう、消えはしないのだった。



[レムリアの湊・完]


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