--------ああ、雨だ

夜を乱した音は、すぐにぱたりと途絶えた。
雨など降っていない。それは四方に飛び散った血の音だ。
わたしの陋屋はその先にある。
道なりの塀に真新しい血吹雪がついていた。流魂街のこのあたりでは珍しくもない。
ぬるい風が吹いて、柳の木がそよいでいた。
心の空洞に吹くような風だった。
視線の先に、ひとりだけまだ立っていた。
闇の中、そのひとのさげた刀だけが光る雫のように冴えているのが眼を惹いた。
辛うじて身を支えていることが分ったのは、わたしが近付いても微動だにしなかったからだ。
血刀を握り締めたまま、蒼褪めた月よりも冷たい横顔の眸を伏目がちにして、
そのひとはわたしがそこを通り過ぎ、立ち去るのを待っていた。
何もかもを忘れることを。

土間と一間。それがわたしのすまいだ。
共同井戸から水を汲み、ありたけの手ぬぐいを並べると、
「薬。もらってきますね」
わたしは気づかれないように後ろ手で古ぼけた鏡台から珊瑚のかんざしを取り出した。
それは落籍された花魁がお別れの際に「これ。緋真に」とくれたものだ。
もったいなくて使えなかった。ここでは貴重で滅多に買えない薬代くらいにはなる。
外に出た。今度は本当に雨が降っていた。
細かな雨に打たれながら帰ってくると、そのひとは端然とまだそこに坐っていた。
怪我の手当てよりも先に、刀の血よごれだけがきれいに清められている。
肩をかそうとした時も、路地の奥に向かう間も、
そのひとの歩みにはぶれがなかった。何という意地っ張りだろう。
「着物をかして下さい。汚れを洗いますから」
油紙をといて、貝に入った塗り薬を眼の前においた。
かすかに、頭を下げたような気がした。気のせいかもしれない。
乏しい火影がふちどるそのひとの黒髪。吸いつくような肌触りをした漆黒の衣絹。
きっとこんな貧民窟には足を踏み入れたことのない、どこかのお貴族さまだ。
あのまま路に残しておくと、悪霊に襲われそうだった。
わき腹の傷をしっかりと止血した。
はやく出て行ってくれるといい。


「頼まれた縫いものがありますから」

もとから夜なべするつもりだったのだ。
ひと組しかない寝具をのべて、それを端に寄せ、すこし考えたわたしは
衣桁に単衣をかけたものを衝立の代わりにして、せまい一間を二分した。
こまめに掃除はしていても、だからこそ、何もかもが古びて薄汚れていることは
これ以上隠しようもなく、どうしようもない。
何もかもが拾い物であったり、貰いものなのだ。橋の下で寝るよりはましだという程度だ。
それでも客人の礼儀はわきまえているとみえて、男は粗末な調度には何も云わなかった。
こちらからは見えなくとも、あちらからは、火に照らされたわたしの影が間仕切りがわりの
衣を透して見えていることだろう。夜を徹して縫い物をしたとて、もらえるお金は
貴方の足袋の片方にもとどかない。
雨は強くなく、夜半過ぎにはもう止んだ。格子を上げて夜空を見上げると、
速い雲が流れて、その合間には魚の鱗を撒いたような銀の星が見えていた。
寒かったのですぐに閉めた。羽織は怪我人に渡してしまった。
衣架にわたした着物とて、唯一わたしが袖をとおしていない、とっておきの晴れ着なのだ。
(ルキアが戻って来たら、あれを着せてあげよう)
わたしが捨てた妹。

朝霧が指先をつめたくする頃、ようやく針をおいた。
朝餉の支度といっても何もないが、それでも湯はわかそうとして土間におりた。
昨夜何度もすすいだ黒い衣がそこに干してある。広げてみると、一箇所だけ鋭利に切れている。
どこから糸を抜きとり、どうやって掛け接しようかと思案しているうち、
ふとばかばかしくなった。
貴族なら何枚駄目にしようがいつでも屋敷に替えがあるに違いない。
ちょうど遊郭にいる女郎の代替がいくらでもきくように。
(------緋真さん! 誰か来ておくれ。おかみさん、緋真さんが血を吐いて)
(これから売り出すって時に、まあ)
(ねえ緋真。病もちのあんたを抱えるわけにはいかないが、昼見世の通いならいいよ。
あんたは顔がいいから特別だ。贔屓にしてらえる客をせいぜい掴むんだよ)
ほうけていると、足先に何か触れた。
怪我の手当てに着物を脱がせた時、袂から落ちたもののようだった。拾い上げた。
椿の紋の入った印籠。
振り向くと、衣架が引き払われて、そのひとがこちらを見ていた。
寝具はそのままで使われた乱れがない。もしかしたら刀を抱えたまま
壁にもたれて休んでいたのだろうか。
食事ともいえぬ膳の内容の乏しさに、さすがに羞しかった。それでも普段よりは多く出したのだ。
「夜には戻ります。昨夜薬やさんから聞いたのですが、
よくないものがこの辺りを徘徊しているようです。まだ外には出ないで下さい」
こんな忠告に何の意味があるのかしれないが、一応云っておいた。
身動きできないほどの傷ではなくとも、あれで闘うのは無理だろう。
雨が上がってくれて本当によかった。天気によってはお茶をひくことになる。
夕暮れまでに今日は何人の客がとれるだろうか。楼主に前借りして、何か滋養のつくものを買って帰ろう。
「行ってきます」
「名は」
「緋真と」
わたしの顔色はひどく悪いに違いない。徹夜明けはいつもそうなる。
雨漏りのしみ込んだ天井。半ば朽ちかけて剥がれかけた砂壁。共同井戸と樹木の蔭になっているこの
薄暗いすまいを選んだのは、ここなら隣家にもわたしの咳の音が聞こえないからだ。
表に這い出して血を吐いても、椿の木が隠してくれる。
そのひとはわたしの前に、刀を差し出した。
「売れ」
「もらえません」
「もとより常は遣わぬもの」
そのせいで昨夜は不覚をとった、ということなのだろうか。
鞘も柄も艶びかりして、下緒も手擦れしていない。何やらぞっとするほど見事な品だった。
「いただけません」
この方は本当に何も分っていない。ここは治安最悪の戌吊なのだ。
南流魂街七八地区において、あやしまずに女から上物の刀を受け取る質屋があるとするならば、
そのまま跡をつけられて身ぐるみ剥がされるのがおちだろう。
指をついて頭をさげると、わたしは風呂敷を抱えて引き戸をひらき、侘ずまいを出た。
路地の間を喚声を上げながら水溜りをはねあげ、走り回っている浮浪児の群れとすれ違った。


ルキア、ルキア。
花代があがったら、迎えに行こうと思ってた。
ようやく尋ねることが出来た頃には、そんな子はこのあたりでは見たことがないと
誰もが首を振った。雪の中に置き去りにした、小さなあの子。
だから、これは天罰だ。
昨晩わたしは斬って欲しくてあのひとに近付き、その眼前にふらりと立ったのだ。
羽虫のように虚無のように、それが貴方の仕事ならそうして。
血の匂いをまつらわせて佇んでいた、死神に。


身を落としても慣れないことや、耐えられないことがまだあるとは、われながら愕きだ。
脚の間を掘るようにさまぐる太い指。ねちこく擦り付けてくる唾液。
苦痛と悪寒をこらえて、じっと瞼を閉じていた。
手首を縛られたまま犬のように這わされ、膝を大きく拡げられた。
何でもいい。どうでもいい。
金を三倍払っては、面白半分に女を輪す常客だ。呼ばれるのはこれが初めてじゃない。
思わず洩れた声を背中からのし掛かってきた男は聞き逃さなかった。
引き起こされて腰の上に乗せられた。過敏になった背が反り、ゆさぶられる間も
突き出されるかたちになった胸先を前から別の男の手が掴む。
「おい------」
「わかってるって。軽く首を絞めるくらいいだろ」
「また血を吐くかな。どうせこいつ永くはないぜ。せいぜい極楽見るんだな」
それでもいい。どうでもいい。
もう一度ルキアに逢えるのなら。
誰かあの子を取り戻して。

温かい湯に擦り切れた手首をつけた。
廓の一隅にある風呂は、女郎たちの溜まり場だ。
これから帰るわたしとは違い、彼女たちはこれから張見世に並ぶのだ。
格子で囲まれた見世にいる女たちは、あらゆる芸や手管で男たちから銭を巻き上げる。
「ねえ、昨日の夜このあたりに虚が現れたって」
「憑依された者たちを番頭さんが見たって」
「あの嘘つきじじい、あてになるもんか」
「討伐に護廷十三隊が出てきたそうよ」
湯気にこもる女たちのおしゃべりを聞きながら、湯桶をおいた。
護廷十三隊とは、瀞霊廷にある、尸魂界の守護機関だ。
流魂街と違い雲の上の方々がすまう瀞霊廷を、流魂街の底辺に棲むわたしが知るはずもない。
それでも、たすきをかけて、ちろちろと燃えるかまどの火を見ているうち、
「あの」、問うてみた。
「貴方は。もしや護廷十三隊の方ではないのですか」
「そうだ」
やはりそうだった。
あの隊服。あの刀。何よりもあの夜このひとから放たれていた霊圧が、
何よりもそのことを如実に示していた。瀞霊廷には彼らを預かる立派な病院があるはずだ。
「貴方がここにいることを誰かにお報せしてきます。迎えに来てもらえるように」
莫迦なことを云ってしまった。
流魂街と瀞霊廷は厳格に区別されて、四つの大門に近寄ることすらわたしでは叶うまい。
そのひとの眸が、無表情のままにそれを告げていた。
こうまで落ち着いていられるのは、誰かが自分を探し当てることを信じてのことだろうか。
膳の上にそろえた粗末な椀。楼主に拝み倒しても前借が叶わなかった。
姐さん女郎からお金を借りた。今朝よりは二つも菜が多いけれど、このひとの眼からみれば
鳥の餌にもなるまい。
着るものが要るのは確かなので、わたしは大急ぎで乾いた衣を縫い合わせにかかった。
血の汚れも切れた布も二度と元にはもどらないが、今までもそうやって生きてきたのだ。
瀬戸物の上に布をあて、細かな布目を見つめながら、何とかやりくりしてきれいに縫い終えた。
「できました」
畳んだそれを差し出したところまでは、覚えている。


------刀。
------刀はどこへやったのですか。


「過労だそうよ。おかみさんもゆっくり養生すればいいって」
そんなはずはない。女郎を働かせるだけ働かせて死ねば井戸に投げ込むのが廓のならいだ。
這ってでも見世に出なければ、きついお仕置きが待っている。
様子を見に来てくれた姉女郎は、紅を塗った唇をわたしの耳に寄せた。
「三日間も眠り続けていたのよ。すわ夜逃げかとあんたを探しにきた男衆を
追い返した色男がいるそうじゃないの」
わたしは天井の雨のしみを見つめていた。
こうして倒れるたびに、客をとれなかった日数分、また借金が増えるのだ。
病もちで他に働く場所がなく、逃げる心配のないわたしとは違い、見舞いに来てくれた
姐さんには若い衆が付人としてついていた。
腕っ節の強い大男は遊女の逃亡防止に、いまも表で見張りに立っている。
かんざしで高々と髪を結い上げている時よりも、片側に流して三つ編みにしてよく笑う時のほうが
姐さんはきれいだ。わたしのためにいろいろと便宜をはかってくれていることも知っている。
「姐さん。すみません」
「あの用心棒がひと言もなく縮み上がって帰ってきたんだよ。
その人どこの人なの。今度連れて来てよ」
今朝眼が覚めた時には、もうそのひとは居なかった。
倒れたわたしを寝具にはこび、夜着に着替えさせてくれたのなら、
手首に残っている紐の跡も、からだ中の傷も見ただろう。お針子ではないことも察したはずだ。
青黒く変わった首の痣には包帯が巻かれており、枕元には薬もあった。
鏡台の上に残されていた紫の袱紗を後であけてみると、中には数年遊んで暮らせるほどの
大金が入っていた。
傷が癒えたのかどうかはしらないが、無事にお帰りになったのなら、それでいい。
「そのひと隣家の男の子を捕まえて、質屋に腰のものを預けに行かせたそうよ。
それがあんたの薬代やおかゆに化けたってわけ」
姐さんは格子を上げた。
「あら、椿の木があるのね」
椿は、護廷十三隊の何番の隊章なのだろう。
起き上がれるようになったわたしは紫の袱紗を手に、質屋に行った。
全部出して、金を包んでいた袱紗まで渡して、ようやくあのひとの刀を取り戻せた。
胸に抱くと、ひんやりと冷たくて重かった。
これはわたしを斬るはずだった死神の刀。
どうせ永くは生きられないのなら、つかの間の自由よりも、この刀と共にいたい。


花のかたちのまま、ほとりと椿が土に落ちた。
「緋真を」
名を呼ばれたことで、夢ではないとしった。
懇意の花魁がしつこく云ってくれたお蔭で無理無体をはたらく性質の悪い客とは
隔離されたせいだろうか。昼から夜見世に移されて、少し具合が良くなったある日、
娼楼の格子の向こうにそのひとが立っていたのだ。
夕闇の残る空には緋色の提灯が幻燈のように揺れていた。
無意識のうちにわたしは格子の隙間から手を伸ばしていた。
桜の花を掴もうとする子供でも、ああもひややかな眼つきで見返されはせぬだろう。
しかし、そのひとはわたしの指先に触れるかわりに、
「この女を」
と云ったのだ。
わたしは近くにいた禿を招きよせて、頼みごとをした。
「貴族さまだって」
「すぐにいちばんよい座敷を用意して、この妓にいちばんよい着物をお着せ」
気合の入った遣手の手で飾り立てられ、座敷に押し込められた頃には、もうすっかり夜になっていた。
以前のこのひとの前に出した膳をわたしは羞じたものだったが、ここでもそう大差ない。
餓死者が道にあふれているような街なのだ。
お酌をしていた女を下がらせて、お待たせしましたと詫びてから、遣いをやって取りに行かせたものを、
わたしはそのひとの前に差し出した。
「勝手に質屋からもらいうけてしまいました。お探しだったでしょう。ここに。どうぞ、お持ち帰り下さい」
刀を手に、そのひとは何も云わなかった。
まさかわたしを買いに来たわけではないだろうから、それしか考えられなかったのだ。
「--------帰る」
「はい」
「わけにはいかぬか。朝までは」
途中で客が帰れば、わたしが叱責される。それにしても、本当に何をしにいらしたのだろう。
夜も静まった頃、自分から膝をすすめて、そのひとの黒衣に頬をつけた。
椿の花に香りはあっただろうか。あったような気もする。
もしあるなら、きっとこの夜のような匂いだ。
帯に手をかけた。眼が合った。
刀を探しに来たのではないのならば、貴方は遊郭の客であり、わたしの客だ。
そしてわたしは上等の遊女でもなく、ここは流魂街の底辺だ。
「お礼がまだでした」
それとも、わたしのような卑しい女に触れるのは厭だろうか。そうじゃないと云って欲しい。
尸魂界の最下層で生き延びてきた女がどのような種類の女なのか分ったら、もう二度と来ないで。
「椿が」
「はい」
「咲いていた」
わたしのすまいの裏庭の椿。わたしの血を吸い上げた色で咲く。
あらゆる汚泥にまみれた陽だまりの紅い色。もう二度と来ないで。
「あの夜。霊圧の中に入ってきた女をはじめてみた」
「さあ。死にたかったのかもしれません」
「怖れもためらいもなく、眼の前にいた」
「どんな殿方にもそうします。貴方にこうしているように」
行燈の影できものをすべり落とした。
もう一度逢いたいと想っていました。
あの椿の印籠。貴方は護廷十三隊の何番めの隊にいらっしゃるのですか。
それを知ってどうするわけでもないけれど、花のかたちのまま散ってしまう椿の花が、わたしは好きです。
夜露に湿ったまるい花びら。雪の上に落ちるあの紅い色を見ていると、哀しいことも忘れてしまう。
貴方もそうであればいい。わたしに触れている間は、すべて、忘れて。

「朽木家」
「そうだよ、これは朽木家の紋所だよ。貴族の最高位である正一位の位を持つ四家のひとつさ。
次期当主さまは、護廷十三隊の六番隊を束ねておられるはずだよ」
結局、刀はまだわたしの手許にある。
椿の象徴する六番隊の気風は、『高潔な理性』だそうだ。あのひとには似合うけれど、
わたしには過ぎた言葉だ。
通りかかった刀鍛治に刀を鑑定してもらった答えがそれだった。
それでは、あのひとは貴族の最高位をもつ、朽木白哉さまだったのか。
貴族の中の貴族、他の死神とは比較にならない強い霊力をもつというから、その霊域を
破って眼の前に立った女に白哉さまが関心を持たれるのも、頷けるはなしだ。
縫い物の手を休めて、片隅においてある刀を見つめた。
あれから時々通ってきては、過分なお金をおとしてゆかれるので、楼でのわたしの待遇は飛躍的に上がった。
その代わり、時折このあたりでは見ない顔が格子の向こうで行きつ戻りつしていることがある。
「きっと、あのひとのお目付け役だよ。お貴族さまはやっぱり違うね」
姐さんは肩をそびやかして、
「若さまが深入りするようなら止めようって肚だろうけど、恋仲を引き裂こうなんて野暮たいね」
気にするんじゃないわよ、とわたしの肩を叩いた。
糸を唇の端で湿して、玉結びをつくって留める。
あのひとも遊女のやり口を知らぬわけではないだろう。ということは、互いに騙し合っているのだ。
(また来て下さい。上客を逃したと知れたら、ここの人に折檻されてしまう)
使ってみた常套句は空々しかったが、こうして毎回、刀だけは見向きもせずに残してゆく。
わたしも必ずお座敷にはもって出る。この刀は次の約束のかわりなのだ。
酷いことをされるわけではないが、やさしくもない。交わりは、たぶん、わたしの命を縮めてる。
死神に抱かれながら死ぬというのは理想的だ。白哉さまでも、刀でも。
興味が続く限り、わたしのからだも心も、どうぞ隅々までお調べになるといい。
たもとを押えた。
ずるい女。
次の逢瀬を上手にねだりながら、そのひとの眸に、その向こうに、つめたい刀を見ている。
(緋真)
名を呼ばれるたびに、脳裡のどこかで刀がひらいたり閉じたりを繰り返す。死にそうな声を上げている。
女の虚ろな胸に残された接吻は数あれど、椿のように落ちたのはあのひとのもの一つだけ。
疲れ果てた共寝の夢の底に紅く咲いたまま、いつの間にかもう消えてはくれない。


賭けに出たのはどちらだろう。
貴方だろうか、わたしだろうか。
妹を置き去りにした女に、「選べ」と。貴方はそう云った。


(正妻、に……?)
花吹雪という言葉どおりの、桜の夜だった。
わたしはあの日のことを想い出していた。
「白哉さま……いつからそこに」
こうして屋敷の一隅に臥せっていると、昼も夜もしだいになくなる。
いつからおいでだったのだろう。目覚めるまでずっと傍にいてくれたのだろうか。
白哉さま。わたしは今日も嘘をつきます。
「ああ、桜が咲いたのですね」
桜など咲いてはいない。
二度とわたしの面影ぬきでそれを愛でることのないように、
抱え上げてくれるその胸に、わたしを見つめるその顔に、わたしはそれを囁き続ける。
かわいそうな人。
わたしなぞ、あのまま流魂街に棄ておいて下さればよかったのに。
「お匙さまが、しだいに良くなっていると。もうじき起き上がれると」
白哉さまがかすかに頷く。嘘だと知っていて、そうする。
わたしの眼はもうほとんど見えていないけれど、それでも分る。桜などまだ咲いてはいない。

-------雨?
-------それとも、桜だろうか。雨でもいい、雪でもいい。

朽家家でどんな揉め事があったのかはしらない。わたしと縁を切るか、引き取るか。
どれほどの反対があったのかも聞いていない。白哉さまはそういったことを一切こぼさぬ方だ。
体面の問題だとしても貴族ならば他に囲い方もあるだろうに、名門貴族家の跡取りが、
卑しい女を正妻にするという。
こんな命、どうでもいい。惜しくない。白哉さまの妻として朽木家の敷居をまたぐことも、
瀞霊廷に上がる身の程知らずのこの身の上も、幼い妹を捨てたことも、これまでのことも。
ほかには何もいらない、何も怖くない。
貴方と共にいられたらいい。わたしの刀。
「……朽木家にまいります、断れば」
まるで賭けのようだった。
「もう二度と、白哉さまはここには来ては下さらない」
互いに脅しているみたいだった。
あの夜、白哉さまを見つめながら、わたしは端座した膝の上で手を重ねた。
「選べ」と云われて、わたしは選んだ。白哉さまが望むように。
いいわ、わたしの負け。選べないことには慣れている。
外は桜吹雪だった。夜風に白く乱舞する花びらが、廓の座敷の中にまで降っていた。
行燈がそれを照らした。雪影のように、雨のように。
断ればもう二度と逢いに来ては下さらないのなら、他に選ぶ道もない。
「そうなれば、緋真は死ぬほかありません」
どうして死神と別れることが出来るだろう。それはいつもわたしの胸を叩き続け、
生きていることを思い知らせつづけた、わたしのよすがであったのに。
「緋真」
白哉さまの胸に頬を寄せて、わたしは屋敷の屋根をうつ雨の音をきく。それを告げる。
雨など降ってはいない。あの日のように桜も咲いてはいない。
ここに来て以来やせ衰えた指先に届くものは、いつでも貴方だけだった。それでいい。
「よくなったら、白哉さま。もう一度お傍に上がらせて下さい」
すきとおるように胸が清んで晴れるのを、自分のものではないようにわたしは見ていた。
「ほら、雪の影が、雨の影が。音もなくきれいです」
あさましい女、こうまでして忘れられたくない。
桜が咲いたら。春がきたら。いつまでも。
無念のかわり吐息のかわり想い出ごと、わたしの代わりにこの方の胸の中で狂い咲くといい。
屋敷の床の間には、わたしのものになった刀。
その隣りには、一輪の紅い椿。



[了]

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簡易原作案内:
流魂街-----現世で死んだ魂が尸魂界で転生する街。区画番号が大きいほど治安が悪い。南78区画は「戌吊」とよばれる。
護廷十三隊-----瀞霊廷の機関。尸魂界の守護の任にあたる。
朽木白哉(くちきびゃくや)-----四大貴族家「朽木家」の当主。護廷十三隊六番隊隊長。
緋真(ひさな)-----白哉の正妻。本編では故人。
ルキア-----緋真の妹。のちに朽木家の養女となり白哉を兄とよぶ。

※非営利目的の二次創作につき、SSの内容は原作・原作者さま・出版社とは関係ありません。


2008 Yukino Shiozaki