あとがき


1995年の阪神淡路大震災から十年目を迎えた或る日、ああ、もうあれから
十年なのかと振り返ったわたしは、それまで、戦後何十年といった数え方でしか漠然と
みていなかった遠い昔の戦争が、ふいに、息のかかる真後ろにあるような気がした。
十年ひと昔というが、まだ、たったそれだけしか経っていないのかと、終戦からの
年月の短さとあまりの世の変貌に、しばし放心するほど驚いた。

何かのかたちで、ヒロシマにかかわった人は、心の中に
ヒロシマの火を抱えて生きることになる。
私自身には古い世代の親族に誰ひとりとして戦火に遭った者はいないのであるが、
子供の頃に診てもらっていた病院の担当医が、被爆者であった。
老先生の腕にあった、みにくいケロイドを、どれほど子供の私は厭うただろう。
触られるとそれが伝染する気がして、泣いておしのけ、散々にごねたものだった。
それは治療を怖れることとあわせた生理的な嫌悪であったのだが、いくら
何も知らなかったとはいえ、思い出すたびにひたすらに天に懺悔したくなる。
老先生は、ぬいぐるみでわたしのご機嫌をとったり、医院の関係者が作った
毛糸の服をきたキューピー人形を下さったりと、いつも穏やかであられた。
当時のお年からいっても、もう他界されたことだろう。
病室の外に出たら、わたしたちは仲良しだった。
この老先生とバトミントンをしたり、池の金魚に餌をやったり、黄色に染まる秋、
どんぐりや銀杏を拾った思い出は、いまもやさしい。

医療系の会社の経理部に就職した友人が、扱う伝票の中に
原爆病院の名が散見されることについてショックを受けていたが、
それほどに、わたしたちの世代は疎い。
復元後、縮景園と名を変えた浅野の泉邸は、被災した人々がたくさん
逃げてきたところで、あの名勝の庭で命を落としたものも多かった。
どうやってそれらの悲劇を、現在の広島や日本に重ねることが出来るだろう。
それはまるで、ものがたりのようなのだ。
故杉浦日向子は、その創作対象としていた江戸について、現代と地続きのものであると
認識することを基本姿勢としていたが、それは数百年と隔てているからこそ
余裕をもって見据えることが可能なのであり、半端に生々しいものと直面しなければならぬ
身としては、あの日そこにいなかった者には語る資格などないような気分に襲われて、
何度も挫折したものだった。
その前日、爆心地近くでアイスクリームを買ってボートに乗って遊んでいたという、
当時学生だった方の寄稿した、ちいさなちいさな新聞記事。
数ヶ月の間、わたしの心は、その記事がもたらすものから離れることがなかった。

七十五年は草木も生えないといわれた焦土に、いまは、緑が満ちている。
エンタメ系のものかきとしては扱い難い苦手なところであったが、
それでも何かのかたちで、わたしなりの伝言をこれからも残しておきたい。
ヒロシマ。
殿さまが開いた戦前の広島でも、戦後の復興した広島でもない。その符号は
あの日を境にして、永遠に問いかけてくる。


*完結済小説倉庫へ 2008 Yukino Shiozaki