夏を数える


 二キロ以上も離れた鋼鉄の扉がくの字に折り曲がるような爆風だったのだ。 熱線に続いて炸裂した衝撃波は音速を超え、それは、まちが一瞬で消えてしまうほどの風だった。
「どうしても、想像できないんだな」
 焦げた三輪車、炭化した弁当。びりびりに裂けた制服の残骸。
「どうして、葉子ちゃんが、黙っていたのか」
 川から海にはこばれてそれきり戻らない、たくさんの人々。夏のまま時を止めたそのまちの、それからの冬が、想像できない。
「東京はもっと寒かった。広島はいいところね。青空の色が濃く、入道雲があんなにも白いのは、瀬戸内海に面しているせいかしら」
 当時女学生だった関原葉子の行方は、六十年以上が過ぎた現在も、不明のままだ。
「おじさんの病院に行って、お薬もらってくる」
 広島の人々は特産品の下駄をはいていたが、東京から親戚を頼って疎開してきた関原家の女たちの足許は、洋靴だった。 矢崎洋二郎は、関原家の寓居先のななめ向かいに下宿していた。彼はそこから広島文理科大學に助手として通っていたのだ。
 同じ東京者ということで、関原家の長女と仲良くなった。
「葉子さん、比治山に登ってみないか」
「夏に山登りなんて。それに、男の人と一緒にいるそんなところを見つかったら、憲兵さんに引っ張られてしまう」
「低い山だよ。じゃあ秋に。大きな月が見れるよ。それに、ここだけの話だけど、もうじき戦争は終わる」
「ほんとう」
「一億玉砕なんて莫迦なことをやらなければの話だけど」
 連合艦隊が壊滅し、硫黄島が陥落し、東京が三月の空襲で焼け野原になり、もう国力も尽きていた。
「そうしたら、わたし、思い切り蓄音機で西洋ワルツを聴くんだわ。ピアノも弾くわ」
 夏空の下、葉子は両手を打ち合わせた。木陰の緑が、その白い頬にやさしい影をつくっていた。
「葉子さんはバレエが出来るのだったか」
「ダンスよ。洋二郎さん、田園調布のご実家から何か届いて?」
「改造社の世界大衆文學全集。それと龍星閣と春陽堂の何冊か。戦死した兄さんのだけど。読むなら貸すよ」
「うれしい。読書に飢えてたところ」
「こっそり読めよ。それから比治山」
「考えておく」
 葉子は三つ編に指をからませた。
「きっと秋になると、すすきがさらさらといっぱいね。夕陽があたると、山の野は、蜜柑色の海みたいになるのじゃないかしら」
「葉子さん、その足、痛いだろ」
 新しい下駄を履いているせいで鼻緒のあたるところの葉子の足指は薄皮が剥け、すり傷ができていた。 もう慣れたわ、と葉子は小さな爪のならぶ白い足指を下駄の上でうごかした。


 広島市中には東と西に繁華街があり、小浅草といった趣きで、どちらも賑わっていた。
川床の御影石に清められた水はみどり色に深々と澄んで、枝分かれしながら、しだいに深さを増して湾にそそぎこむ。
軍都に指定されたことで軍人の姿は多かったが、敗色が決定的になりつつあったその頃も軍需景気に恵まれて、山と海に 挟まれた広島の午後は、わきあがる豊かな白い雲のしたに、長閑であった。
 広島学派にあこがれて全国各地から入学してきた洋二郎たちは、アイスクリンやラムネを買って、川べりを歩いた。
「広島は都会じゃの」
「お前が田舎ものなんだろう」
「わしの村にきたら愕くぞ。安土桃山時代から変わってない」
「大げさすぎるわ」
「大坂も心斎橋のあたりに空襲がひどかったらしいな」
「卒業して師範学校の教員になったら、女生徒の中に関原葉子みたいなのがおらんかな。下宿先でもいいのだが」
「いたらどうするつもりや」
「やめとけ、やめとけ。葉子さんには、もう矢崎がいる」
「分かって云ってるんだ。それにしても解せん。葉子さんはどうして矢崎みたいなのがいいんだ」
「都会もの同士で話が通じるからだろう。二人とも日比谷公会堂で子供の頃にカチユウシヤを観劇したことがあるんだと」
「ちっ。おとなしく研究室にこもってろ」
「何とか云え、矢崎」
「おう」
「おう、とは何だ」
「余裕のつもりだろ」
「矢崎のお蔭ですっきりせんぞ。どうだ、ボートに乗らんか」
「いいぞ」
「あの産業奨励館みたいな立派な建物が、おれの田舎にも建たんかな。それよりもまずは、水球のできるプールかな」
「お前の村じゃ、田んぼでさるかに合戦をしてるのがお似合だ」
 日光にあたたまったボートの底は足裏をつけることができぬほどに熱かった。橋の上からでも魚の影がよく見えた。
洋二郎はラムネの空き瓶を片手に空を仰いだ。青い夏空は広島の川に落ちて、そこに鳥が泳いでいた。


 
 映写室で観たアメリカものの「白雪姫」が、葉子がいちばん感動した映画なのだという。
「漫画映画じゃないか」
「洋二郎さんだって観たら分かるわ。総天然色の上に、小鳥や風にゆれる花々の隅々までが生きているようなのよ」
「おれの兄さんが生きてたら、きっと、葉子さんとは気が合っただろうな」
「そうなの。わたしもそう思うの」  夏でも出しっぱなしの洋二郎の下宿部屋の火鉢に片手をついて、葉子はこちらの気もしらずにおおいに同意してみせた。 「江田島の海軍士官のお兄さま。並んで撮った写真をみても、洋二郎さんよりはお顔がまるいのね」
 文學にしろ映画にしろ音楽にしろ、婦女子が好むようなものが好きな兄だった。先年六月のマリアナ沖海戦にて たすからぬ艦が海にさまよう様は、横倒しになったビルヂングがぼうぼうと燃えているような惨状であったそうだ。
 港の倶楽部に預けられていた兄の遺品が戻ってくると、母はそれを抱きしめて、畳をひきむしり、声の限りに泣いた。
「囲碁では、洋二郎には敵わないな」
 休暇の折に一緒に碁を打ったのが、兄との最後になった。兄は弟の洋二郎よりも背が低かったが、柔道は強かった。
「東京に戻りたい」
 葉子の幼い妹が胸の病気になり、その道に詳しい医者のおじがいる広島に、母と妹と一緒に葉子が疎開してきたのが一月。 物理を教えてもらうという口実で葉子は洋二郎と会っていたが、町内の人たちからは良くは思われてはいない。
「東京もんが」
 葉子の父が軍高官とも懇意の名の知れた実業家であることと、葉子のおじが古くから尊敬されている医者であること、洋二郎の 下宿先がその医者のおじと古馴染みであることで、かろうじて二人はお目こぼしにあずかっている。
「お父さまの手紙を読んでも、本当かしらと思うわ。銀座も浅草も燃えただなんて。わたしには想像がつかないわ」
「焼け野原になったおかげで、何処からでも富士山が見える」
「やめて頂戴」
「葉子さんは、広島が嫌いだな」
「嫌いじゃないわ。広島城も、浅野の泉邸の庭園も、もみじも、川もきれい。晶子の胸の病気もこちらに来てからましになったし、夏の風も気持ちがいいわ。 でも、家がいいの。本土爆撃の報をラジオで知るたびに、山の向こうの空を赤く染める空襲を見るたびに、 東京のお父さまがご無事かどうか心配になるの。二階に駆け上がって、自分の部屋に変わりがないかどうかを、確めたくなるの」
 広島だけには空襲がないと云われて久しい。洋二郎は二階の窓から下の川に吊るしていた紐を引き上げた。 桃の缶詰を冷やしていたのだ。軍属に特配されたもので、戦死した兄の友人からもらったものだった。それを見ると、葉子の顔が明るくなった。
「泣いた烏がもう笑ったというやつだ。二缶あるから、ひとつは家に持って帰って、おばさんと晶子ちゃんにあげて」
「洋二郎さん、はやく開けて。おいしそう」
「葉子ちゃんにあげようかな、どうしようかな」
「いじわる。はやく食べさせて」
 畳の上で押し合いへし合いしているうちに、抱き合う格好になった。転がって砂壁にぶつかった缶詰はそこで止まった。
 約束して。
 葉子は洋二郎の腕に頬を押し付けた。夏なのに、その指先はひえきっていた。
 きっと平和の世がくると、約束して。東京では一晩で数万人もの人が死んだ。 従兄の兄さんは思想犯として特高に捕まったまま、まだ帰ってこないの。考え方の違いでひどい目にあわされたり、 町が町ごと燃えて無くなるようなことにはもうならない日がくると、約束して。 わたしには想像できない。この世界が狂ったとしか思えない。眼を覚ましたまま、生きたまま、わたしたちは地獄へ堕ちたのかしら。
 巻き上げてあるすだれが風にゆれ、掠れた音を立てていた。川の向こう岸では、郵便配達人が自転車を片手押ししながら 板塀に沿って道を曲がってゆくところだった。戦前の広島は、ちょうど隅田川のそれのように川に屋形船を繰り出して涼をとり、 花火大会を楽しんだそうだ。
「戦争は終わると、もう一度云って」
「降伏というかたちでね。国として存続できるかどうかは、分からない」
「植民地にされないように戦っている兵隊さんに、悪いかしら。占領されたら男の人は殺されるというわ。洋二郎さんは、落ち着いてるのね」
 少女の白い首筋を間近にしても、洋二郎にはふしぎとそれが、うつつの熱い血潮を持ったものだとも、短い命のものだとも思われなかった。 夏の影の中の、蝋人形のようだった。葉子からみた自分も、おそらくそう見えていたのだろう。長い戦争に、誰もが倦んで疲弊しきっている頃だった。
 近くから、葉子は洋二郎の眼をのぞきこんだ。
「何だか、投げやりな顔をしてる」
「まだ兄さんが死んだことが、信じられないからかもな」
 碁を打ちながら、敵わん、敵わんと首を傾けていた兄は、真珠湾攻撃攻撃の大成功に日本中が沸きかえっている頃から、 「洋二郎、これは続かんよ」小さな声で警告していた。 「わが闘争」は原語で読めよ。日本は戦うことも負けることもしらんのだ。
「最近、子供の頃の夢ばかりみるのよ。いざとなったら神風が吹いて、うちわで扇いだ紙飛行機みたいに敵機が吹き払われるだろうなんて、嘘ばかり。 わたしの命が無駄にならないとしたら、誰かと穏やかに暮らせる日がくるならば、空に祈るわ、その日を迎えさせて下さい」
「誰かというのは」
「さあ。誰でしょう」
 なにかを予感したように、葉子は洋二郎の腕からのがれた。その唇が、ワルツのひとふしを小声で歌った。
 窓からは青い空が見えた。川では子供たちが泳いでいた。堅牢な石橋。鉢植えの朝顔。建物疎開で更地となった合間に目立つ、 煉瓦やコンクリイト造りのモダンな建物。城下町の面影をのこす瓦屋根の向こうの、なだらかな山々。 ふいに夏の午後が静まりかえり、路面電車が並木道を過ぎていった。



 昨夜の特集番組は、途中で見るのをやめてしまった。
「お父さん、それ本当。わたし、そんなことちっとも知らなかった」
 食器洗浄機に皿を入れていた娘は、素っ頓狂な声を上げて、夕食の後片付けを手伝っている夫と顔を見合わせた。
「何か申請がいるんじゃないの。新聞にも時々出てるじゃない。証人を探す記事とか入市証明とか、ほら何だっけ」
「お義父さん、そのこと、亡くなったお義母さんは知っていたんですか」
「パパ、ママ。どうしたのよ。お腹の子が愕いてるわ」
「弟のところもわたしも、わたしの娘たちも孫たちも、今のところ健康そのものだけど急に心配になってきたわ、どうしましょう」
「え、なに。そのこと産婦人科の先生に伝えておいたほうがやっぱりいい?」
「やだわ、ちっとも知らなくて。気持ちが悪いわ。今までどうして黙っていたのよ、お父さん。お父さんの額の怪我の痕はそれだったの」
「やめなさい。お義父さん、すみません」
「おじいちゃん、気にしないで。大丈夫、お姉ちゃんのところの赤ちゃんも元気だし、この子も無事に生まれてくるわよ」
 床暖房完備の高層マンションのベランダからは、高速道路と、六本木方面の派手な電飾が一望できた。
 何度みても、どうしても信じられない。上空から撮られたお馴染みの記録フィルム、眼下のあのパノラマの中に、いつものように 大學の構内を歩いていたであろう自分がいたことが。どうしても繋がらない。あの下に確かにあった、あの日の夏の朝との関係が。 多くの学生が学徒動員にかりだされていた月曜日、がらんとした校舎。白墨を握り、黒板に何かを書き付けていた教員の背中。
 雲間から映された不気味な映像に向かって叫びたくなる。止めてくれ。何てことをするんだ。その下には何十万人もの 人間がいるんだぞ。止めてくれ。

 旧財閥系の会社を定年退職後、洋二郎は区役所の人材シルバーに登録し、花のおじいさんとして近所に知られている。
 楓の木に囲まれた古い公園のひと隅に、草木が枯れたまま放置された花壇があり、何となくそこに花を植えてみたのがきっかけであった。
 私財をきってホームセンターの園芸コーナーで腐葉土や種を揃えたあたりから、あきれながらも、娘夫婦もたまに手伝ってくれるようになった。
「お義父さん、これ、実は違法だと思いますよ」
「公園清掃の人とこの前会ったけど、とくに何も云われなかったわよ?」
「こんにちは。またお花が咲きましたね」
 ベビーカーを押しながら、若い母親たちが笑顔で声をかけてくれることもある。水に濡れた草木の上に、小さな虹ができていた。 東京の中でも地価高騰がはげしく、一時はかたぎの家や 子供たちの姿が消えたこの一帯であったが、最近になって、若い層を中心に、人が戻っているそうだ。
 二人に一人が死んだといわれる広島も、戦後、他所からの移入者が増え、人口も大幅に回復し、都市機能としての復興を成し遂げた。 その一方で、多くの者が広島から出て行った。そして彼らのほとんどは、二度と広島には戻らず、何も語らない。
「隣にいたら毒がうつる」
 誤解されたままその影響が明らかになるにつれ、ながらく、あのまちの人々は差別され、忌避されたものだった。後からそれを知った洋二郎の亡妻は、 「あなたのせいじゃないもの。でも、子供たちには黙っていましょうね」洋二郎の靴をいつもよりも丁寧に磨きながら、もう二度と、その話はしたくないようだった。
 洋二郎の知る広島の川は、灯篭をあんなに流したりはしなかった。水も、もっと澄んでいた。それでも葉子があれを見れば、さるすべり色をした 夕景に目をほそめ、きれいと微笑んで喜びそうだ。
「誰かというのは」
「さあ。誰でしょう」
 三つ編の横顔を向けてしまった葉子の沈黙とともに、夏は途切れた。


 かがやく雲が、山際にそって流れていた。
 黄金糖を溶かしたような西日の中に、瀬戸内特有の夏の風がゆるりと吹いていた。
大樹の木陰道を歩いていると、公園の中に見覚えのある少女の姿を見つけた。葉子の妹の晶子だ。
「晶ちゃん」
「洋二郎さん」
 おかっぱ頭を振り向けて、砂場から立ち上がった晶子は行儀よく挨拶を返した。
「おかえりなさい」
 姉の葉子もそうだが、ブラウスにもんぺという格好は同じでも、どことなく垢抜けて見えるあたりが東京ものである。 晶子がいつも首からぶら下げているお守り袋が外に出ていたので、襟の中に戻してやった。名前と住所を書きつけた紙片を たたんでいれてあるのだと、いつか葉子が同じものを見せてくれたことがある。
「具合はいいの」
「今日は咳ないの。お母さんが遊びに行ってもいいって」
 自宅療養中のよそものと遊ぶような地元の子供はいない。ひとりで何をしていたのだろう。
「花の種をまく。ここにかい?」
 洋二郎は笑ってしまった。
「こんなところに蒔いても芽は出ないよ。何の花の種」
「咲かないの」
「咲かないね。砂場はよろしくない。それに普通は、種を蒔く時期は春と秋だな」
「家から持ってきた種よ」
 小さな手をひろげて晶子はそれを洋二郎に見せてくれた。実家の庭の花壇でとれた種を、父親に頼んでもらってきたのだという。
「金魚草。夏のはじめに咲くの」
「それなら、やっぱり種まきは秋だ」
 残念そうに花の種を紙片で包みなおした晶子を、洋二郎はブランコにのせてやった。晶子は嬉しそうに子供の笑い声をあげた。
「洋二郎さん、ゆらゆら。わあ、ゆーらゆら。高い、高い」
「秋になったら、花壇をつくってあげるよ。それとも晶ちゃんがいつも近くで観察できるように、縁側におく植木鉢がいいかな」
 ブランコの吊手の鉄のにおいが手についた。公園を囲む近くの家からは、魚を七輪で焼いているらしき煙がたっていた。 昭和になって上水道が普及したといっても、まだ井戸水をくみ上げている家もある。そんな家は、台所に大きな水甕をおいて、そこに水を溜めていた。
 晶子に求められるままに隣のブランコに乗って、立ちこぎの高さを競った。軍のトラックが排気の煙をあげて、つり橋を通り過ぎていった。
「飴たべる?」
「うん。ありがとう」
「葉子姉さん、お守りの中に、洋二郎さんの写真を入れてるよ」
 生えかわりかけの乳歯をのぞかせて、晶子は笑った。その声は、夕焼けの空に昇って洋二郎から離れていった。


 こまかな灰が時折の風に舞い上がっては雪の抜け殻のように力なく降っていた。
 欄干が片側に倒れて半壊している橋の上から、洋二郎は静まり返った広島を見廻した。 夜が近づいた廃墟は、あちこちに火葬の煙を立てながら、もう一度火の記憶に沈むような色で日没の太陽に暗く染まっていた。
「広島は壊滅した。長崎にも同じ新型爆弾が落ちた。日本は降伏したよ」
 崩れた壁と棚の下から洋二郎を救い出して救護所にはこびこんでくれた級友たちは、洋二郎と違い目立った外傷もなかったが、 赤痢のような症状をおこして、順番に死んだ。 数日のあいだ意識がなかったせいで、市内救援に参加せず、水をあまり呑まなかったのが助かった要因ではないかと、洋二郎は後に云われた。
「焼いても、骨が残らないので骨壷に拾えないんですよ」
 老いるにつれて遺族からのそんな話も聞くようになった。自分も死んだら、そうなるだろう。
 その朝、関原葉子はおじの診療所へ妹のための薬をもらいに家を出た。門のところでいちど立ち止まり、三つ編のねじれを直していた。 その後ろ姿を、洋二郎は下宿の前から見送った。
「どうしても、想像できないんだな。あのまちの、その年の秋を。雪の舞う冬を。さくら咲く、それからの季節を」
 関原家の寓居跡とおぼしきあたりから灰をひろい、東京に戻った洋二郎は、それを葉子の父に届けた。
 戦争が終わり、灯火管制の解かれた東京の夕暮れは、焼け残った電柱の合間に蛍を散らしたような電灯をぽつりぽつりと頼りなく灯し、 いわし雲の下に夕餉の乏しいにおいを漂わせていた。
 葉子の家は大正建築の洋館であった。
 庭をみおろす二階に葉子の部屋はあった。いまにも葉子が元気に踵をはずませて、階段を駆け上がって帰ってきそうだった。
 竹久夢二の画の切り抜き、千代紙を入れた風月堂の菓子の空箱、資生堂のオイデルミン。ピアノの楽譜と、栞が挟まれたままの 「童話白雪姫」。女中が供えたのか、撫子の花が机に飾られていた。下方の庭では、葉子と晶子が飼っていた犬が、さびしそうに花壇の黒土を掘り返していた。
「妻と娘たちのいた家と、弟の診療所があった中州の一帯は、完全に熱壊したそうですね。葉子は、どうせ死ぬのなら好きなものに囲まれた この部屋で死にたいと云っていましたが。広島で東京の人に会った、こちらでも変わりなく東京の話ができると、葉書も届いていましたが」
 父親からその葉書をいちまい、形見分けとしてもらった。
 葉書には、隅のほうに少女らしい色鉛筆画で、おおきな桃と、「こちらの人は皆さん下駄です」赤い鼻緒の下駄の絵が描かれてあった。
 比治山には、アメリカの調査委員会が設置され、いまも経過観察の目的でそこにある。 広島の夏は時を止めたまま、あの日から、あたらしい夏空を数えている。


[了]


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