黒水仙
].青い船出 (最終回)




 アンドレたちはテレーズの姿を見かけた旅館の前で待ち伏せていた。
向かいの建物の蔭にひそんだアンドレはファブリスの腕をしっかり掴んで
離さなかった。
「短慮をおこすな、ファブリス」
「アンドレ、だけど」
「これは君が云ったことだ。事はもう、テレーズと君だけの話ではない。
慎重になってくれ。きっとこれには深い事情があるのだ」
「事情、どんな事情だ」
 ファブリスはわなわなと震え、いまにも卒倒しそうであった。待っていると
やがて外套に身を包んだ男女が旅館から出てきた。女は頭巾を頭の
後ろにさげて、青い海原にその美しい眸を向けた。
「テレーズだ」
 ファブリスは狂おしい眼をして、その姿を追った。
 街を出た男と女は海岸に沿って、草のなびく寂れた道を歩きはじめた。
「ファブリス、君は後ろから来い。テレーズ嬢が振り返って君に気がついたら
いけない」
「アンドレ。ファブリスは当事者だ。ブローチの秘密と、テレーズの実の
両親が誰なのかも彼に話しておこう」
「いや」
 アンドレはセヴランと並びながら声を低めた。
「このことは国家機密級だ。わたしがデギュイヨン枢機卿ならば、国王陛下に
異母妹が、それも隣の島国の王室の血をひく王女がいるなどと、天下に、
とりわけ隣の国に明らかになるよりは、事実を闇に葬り去ることを選ぶだろう」
「隠蔽工作の巻き添えとなり枢機卿に殺されるのは、お前とわたしの
二人だけでいいということか」
 セヴランはアンドレの顔を見てちょっと笑い、帽子を傾けた。
「テレーズ」
 彼女にそう呼びかけたのは、ファブリスではなく、ヘンリー・アイアトンであった。
ヘンリーはテレーズの片手を引いて、足場の悪いところに差し掛かると、
ダンケルクまでの旅の道中もそうであったように、テレーズを助けてやった。
「もうひと頑張りだよ。国に帰ったら、すぐに式を挙げてしまうのだ。
そうすればデギュイヨン枢機卿も安心だし、君も晴れて、わずらわしい
政治の犠牲者にならずともすむ。伯爵については少々説得が手こずるかも
しれないが、なに、あの方だって、亡き王女が願っていたことは娘の幸福であると
きっと理解してくれるだろう」
 海に流れ込む河口では、一艘の小船が彼らを待っていた。そこへ降りるには
岩崖を伝うか、遠回りをしなければならなかった、ストラフォード伯爵が漕手と
共に隠れていた岩場から出てきた。沖の艦まで、これで漕いでゆくのである。
 青い波は世界そのもののようにして押し寄せた。風の中、テレーズは
ヘンリーの手を握り締めた。言葉や慣習の違う見知らぬ異国に行くことも、
重大な秘密を隠して生きていくことも、何もかも、これから夫となるこの男に
頼らなければならないという不安が、テレーズの声をふるえさせた。
「ヘンリー」
「まあ見ていたまえよ」
 波打ち際から船に乗り移るのに、ドレスの裾が濡れぬよう、ヘンリーは
テレーズを両腕に抱え上げた。
 ヘンリー・アイアトン卿はお国柄、冒険好きらしい余裕を発揮して、
頼もしくテレーズに微笑みかけた。
「これでも社交的な愛想と口八丁は右に出る者がいないと学生時代から
褒められているのだ。旅先で奥方を見つけて来たとしても、きっと周囲に
認めさせてみせるから」
 その二人の親しげな様子に、船から立ち上がってこちらを見ていた
ストラフォード伯爵が何かを察したような顔をしたが、ヘンリーは平然と
伯爵を見返して、伯爵の手にテレーズを預けた。
 両側が崖になった河口はダンケルクの砦からは見えない位置にあった。
船に伯爵とテレーズを乗せてしまうと、ヘンリーは船を押し出そうと浅瀬に
踏み出し、船尾に手をかけた。
「テレーズ!」
 岩場に響いた若い男の声が、ヘンリーのその手を止めさせた。
「その船まて。テレーズを返せ」
 岩棚から降り立ったのは、ファブリス青年であった。それに合わせるかの
ようにして、海上の艦からまた砲号が上がった。
「ファブリス」
 船の中に立ち上がり、テレーズは眼をみひらいた。
 ヘンリー卿とストラフォード伯爵は動じることなく、沖の艦に視線をとばした。
異変があれば海から救援が来る手はずになっている。艦上では上甲板から
ずっと望遠鏡でこちらを見ているはずなのだ。

 ヘンリーは背中で船を波に押し出し、テレーズと伯爵を先に行かせようとした。
「動くな」
 ファブリスはその胸に剣を突きつけた。彼は小船の中にいるテレーズに
呼びかけた。
「テレーズ。船から降りて」
 船の漕ぎ手とヘンリー卿に油断なく眼を配り、ファブリスはテレーズに云った。
「船から降りるんだ。行っちゃいけない、テレーズ」
「ファブリス……」
 この場に現れたファブリスに、テレーズは茫然として、船べりを握り締めていた。
一方、ヘンリー卿は紳士であった。なので、この状況が若い恋人たちにとって
どれほど辛く、またこの青年にとってどれほど残酷な場面であるのか、そのことが
よく分かっていた。口達者であることを自認しているヘンリーであったが、その
彼でも口を出そうとして、できず、身を引いて傍観していた。
「ファブリス!」
 そこへ、アンドレとセヴランが追いついて駈け付けた。砦から放たれた烽火に
彼らが振り返った一瞬の隙をついて、セヴランは彼らを振り切り、勝手に崖を
降りて行ってしまったのだ。
「失礼」
 息を切らしながら、セヴランがヘンリーに訊ねた。
「貴方はヘンリー・アイアトン卿ですか」
「そうです」
 ヘンリーは島国人らしい沈着さでもって応えた。
「そして船の中にいらっしゃるのが、ストラフォード伯爵ですね」
「そのとおりです」
「我々は、事態収拾のために来たのです。攫われた修練女を追って来ました。
テレーズ・ブーティリエ嬢を、貴方がたはどうなさるおつもりなのです。それを
お聞かせいただけますか。此処に来たのは、王命です」
「君たちは国王の剣士隊ですか」
 わずかな表情の変化で、アンドレたちはヘンリーがテレーズのまことの
両親が誰なのか、やはり知っていることを見て取った。
 大人の男らしい開き直りの覚悟をみせて、ヘンリーは青年たちに向き直った。
「テレーズ・ブーティリエ嬢は、島に渡るのです。そして遠からずアイアトン家の
人間となるでしょう」
 ヘンリーは彼らに、というよりはむしろ船の中のストラフォード伯爵に向けて
それを告げていた。
「わたしとテレーズ嬢は婚約しています。テレーズはわたしの妻となるのです」
「何だって」
 上ずった声を上げたのは、船にいるストラフォード伯爵であった。
衝撃の告白にファブリスは鉛色の無表情となって、波打ち際に立ち尽くし、
船の中のテレーズを凝視した。
「ファブリス」
 苦悶のあまり、テレーズは凍りつき、ファブリスを見つめ返すばかりだった。
「ファブリス……」
 ヘンリー卿の云ったことは本当ですと、テレーズは自分の口から云おうとした。
それよりも先に、何よりもテレーズのその様子から、ファブリスはテレーズの
心変わりを知った。ファブリスはテレーズとヘンリーを交互に見比べ、すべてを
察してしまうと、顔を引きゆがめた。故郷を出たばかりの、ほんの少年に
かえったかのような顔をして、ファブリスはテレーズの裏切りに傷つき、それを
隠す術を知らなかった。乾いた声で、彼はテレーズに何かを云いかけた。そんな
ファブリスを、テレーズは見ていられなかった。
「テレーズ。僕は」
「ファブリス、ファブリス、ごめんなさい」
 テレーズはファブリスに駈け寄り、抱きしめようとした。が、テレーズが
船を降りようとするのをストラフォード伯爵が抱き止めた。咄嗟にテレーズに
向けて伸ばされたファブリスの手は、何も掴めぬままに、突き出された格好で
固く握り締められた。
「船を出せ。早く」
 ストラフォードは漕手をせかした。
「ヘンリー、乗れ」
「アンドレ、長艇が来る」セヴランが沖を指して大声を出した。
 海上の艦から武装した兵を満載した長艇が降ろされ、伯爵たちを迎えに
この岸を目指している。すごい速さで長艇は接近していた。
 アンドレは迷った。
 テレーズを亡命させるわけにはいかない。しかし、ヘンリー卿の言質を
信じるならば、テレーズはヘンリー・アイアトン卿と結ばれて、島国王妃の
座には登らない。アンドレが見たところ、テレーズの心もすでにヘンリーを
選んでいる。それならば、このまま行かせたほうがいい。しかしファブリスが
それでは納得すまい。
 アンドレとセヴランが迷うよりもはやく、意外にも、ファブリスがそれを決めた。
「テレーズ」
 彼は衝撃からまだ立ち直れてはいなかったが、雄々しくもここにおいて誇りと
自制を勇敢にも取り戻し、ヘンリー卿を船に乗せさせると、その手で船を海に
押し出しはじめた。アンドレとセヴランもそれを手伝った。じりじりと砂と波を削って
船に浮力がつきはじめた。アンドレたちは力を合わせ、船を海にすべらせた。
「ファブリス」
 船の中でテレーズが泣いていた。ファブリスは無理に笑顔を見せた。
「いいんだ、君が倖せなら」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ファブリス」
「元気で。テレーズ」
「ファブリス君」
 ヘンリー卿が船尾から身を乗り出して片手を伸ばした。彼らは無言で
握手を交わした。漕ぎ手の櫂が動き、半回転して向きを変えた船はすぐに
波をわけはじめた。
 しかしそれらの動きは、海上の艦からは伯爵たちが襲われていると見えた。
長艇の兵たちが立ち上がって何かの警告を叫んでいた。顔を上げたアンドレは
艦の砲門がはっきりとこちらを向いているのを横目に捉えた。
「何だ?」
「伏せろ!」
 アンドレは、セヴランとファブリスを砂地に突き飛ばした。
 海の一点に発火が起こり、それが眼の前で火の玉になって炸裂するのが
同時であった。雷が耳元で炸裂し、真上の岩崖が木っ端微塵に吹き飛んだ。
「連中、撃ってきたぞ」
「アンドレ、砦からも応戦の火が」
 口から砂を吐き出す暇もなかった。続く第二弾の砲撃が彼らの上に降り注ぎ、
砕けた岩が轟音をうならせながら落石の雨となって浜一面に落ちてきた。
砂地にも海にもどすどすと岩の破片が突き刺さり、それはまるで岸壁が自ら
炎を吹き出して爆発をはじめたかのようだった。立て続けの爆撃ににごった音が
鼓膜を貫いて、彼らは一時的に何も聴こえなくなった。
 艦よりは岸辺に近い位置に浮かんでいる長艇の兵たちが、誤解だと
教えるために立ち上がって艦に合図を送っていたが、ダンケルクの砦からも
即座に砲撃のお返しを受けたこともあり、頭に血がのぼった艦の艦長には
それが通じなかった。彼は甲板で指揮棒を振り上げた。
「撃て、伯爵をお救いするのだ」
「テレーズ!」
 アンドレたちがようやく顔を上げると、海に漕ぎ出した小船は、大急ぎで砲撃の
射程圏外から離れていくところであった。ヘンリー卿とストラフォード伯爵が
身をもって降り注ぐ砂礫からテレーズを庇っていた。テレーズが危険をおかし、
海岸にファブリスの姿を探して船縁にすがりついた。ファブリスが無事で
あることを知ると、遠ざかるテレーズは「ファブリス」と泣きながら最後に彼の名を
呼んだ。
「ファブリス----」
 ファブリスは頷いてやった。それがファブリスとテレーズとの別れだった。
 再び真上の崖が炸裂し、砕け落ちた。
「止めろ。撃つな」
「叫んだって聴こえるか」
 アンドレとセヴランは転がり落ちた帽子を拾い上げると、ファブリスを間に
挟んで逃げ場を探した。なにしろ海上艦は崖を狙って撃っているのであり、
落ちてくる岩盤が一つでも頭に当たれば即死必定である。
 三人固まって木の洞のような崖のくぼみに走りこんだ。そこで砲撃による
大音響と大揺れに耐えていると、どのくらいであったか、不意にそれが
途切れて静かになった。
 残響がじんじんと響く頭に、彼らを探す声がした。
「セヴラン、何処だ」
「兄さんの声だ」
 砂まみれの顔を互いに見合わせ、彼らは崖の下から顔を出し、眩しい
空を見上げた。砲煙がまだ棚引いていたが、それもすぐに風に吹き払われた。
「アンドレ、ファブリス、生きているなら返事をしろ」
「あれは隊長だ」
「パトリス様だ」
 ついで、彼らがぎょっとしたことに、こんな声も聴こえてきた。
「デギュイヨン、あなたがどうして沿岸封鎖をしたのか、その必要性が余には
分からないが。付近の漁村にも被害が出ています。これは賠償問題になる」
「お任せ下さい、陛下」
「国王陛下と、デギュイヨン枢機卿だ」
「港湾を閉ざしたのは何故なのだ」
「陛下。こういった際には必ず連絡係が動くものです。おかげで、わが国に
しのんでいる島国の間諜の所在が、これで掴めましてございます」
「おお、それでか。清教徒かな」
「おそらくは」
 アンドレたちが砂浜に出てゆくと、砲撃はもう終わっていた。
 むっつりのヴィクトルとお獅子のユーグが彼らに手をかして、岩崖の上に
引き上げた。
「アンドレ。セヴラン」
 たくさんの兵をかき分けてオクタヴィアンが現れ、彼らに抱きついた。
「無事で良かった」
 少年は彼らの安否が心配のあまりに涙ぐんでいた。オクタヴィアンはマリーに
似ている。危ないところを助かった反動もあり、アンドレとセヴランはどさくさに
紛れて少年を強く抱きしめ返した。


 旗もちの掲げる王旗が青空にひるがえっており、白馬に乗った王がいた。
左右には赤と黒、親衛隊を引き連れた緋色の猊下と、剣士隊を率いた
パトリスが付き従っており、他にも大勢の兵がいた。
 東西の砦から喚声が上がった。
「外国艦を追い払ったぞ」
 長艇と小船を収容し終えた武装艦が帆を張って、重たげなその船体を回し、
帰路につくのが見えた。
「陛下」
「よいよい」
 鷹揚に、王は去り往く艦を見つめた。
「アンジュー伯の遺児が外国に嫁ぐというので、それを見送りに来た
だけなのでな。庶兄とはいえまことアンジュー伯は王家に、父王と余に
尽くしてくれた。何もあのようにしてこそこそと攫っていかずとも、云って
くれれば持参金もつけて、テレーズ嬢が望むかたちで良いようにして
やったものを。ところでデギュイヨン」
「はい、陛下」
「テレーズ嬢はいかなる身分になってヘンリー卿に嫁がれるのか」
「適当な貴族の養女となり、婚姻はそれからかと」
「さようか。それにしても、せわしない。近いうちにストラフォード伯爵夫人に
劇場で逢うことになっているので、その時にでも夫君のやり方について、
あの人に少し苦情を云っておきましょう」
「外国人に恋人を奪われてしまったとは、気の毒に」
 思いがけなく、枢機卿が近くにいたファブリスに話しかけた。
「剣士ならば、決闘をしてでも恋人を取り戻す気概を見せるかと思ったぞ」
「いえ」
 枢機卿の厭味と侮辱をやり過ごし、ファブリスはいっそすっきりした
顔をして、青い海を眺めた。
「ヘンリー・アイアトン卿はわたしよりも、ずっと大人で、立派な方です。
彼になら、彼女を任せられると思いました」
「して、ブローチは」
 海を見つめたまま、ファブリスは「はい」とも「いいえ」とも応えなかった。
それでデギュイヨンは、ブローチがまだアンドレの許にあることが分かった。

 船は、陽の照り返しを受けた海原に吸い込まれるようにして小さくなった。
 崖の上から遠くなる艦影を見送っていたアンドレは、パトリスに肩を叩かれた。
「アンドレ」
「隊長」
 パトリスはついてこようとしたセヴランとオクタヴィアンを追い払い、アンドレ
だけを崖縁に連れてゆくと、デギュイヨンに背中を向けて、空っぽの片手を
アンドレに向けて差し出した。
「ん」
「は?」
「出せ」
「何をです」
「お前に渡した水晶のブローチだ。わたしが預かる」
「アンジュー伯の?」
「アンジュー伯のだ」
 アンドレのわき腹を肘でつついて、パトリスはせかした。
「早く渡せ。それを持っていたら、必ず枢機卿につけ狙われるぞ」
「ブローチがなくなればいいのでは?」
 パトリスが枢機卿の屋敷を訪ね、ヘンリー卿の手紙を読んだことを知らぬ
アンドレは云ってみた。
「テレーズ嬢も別の人生へと歩みだし、この国からいなくなったことです。
これはもう不要でしょう。海に捨ててしまえば?」
「莫迦者。そんなことをしたら」
「したら?」
 枢機卿に宛てたヘンリー卿の手紙を読んだのは、パトリスだけである。
アンドレとセヴランがブローチの中身を開いて台座の裏側を見たとは知らぬ
パトリスは、国家機密をアンドレの手から奪い返したくてたまらぬようであった。
 パトリスはその精悍な顔をアンドレに近寄せて囁いた。
「隊長の命令だぞ、アンドレ。アンジュー伯のブローチはわたしが預かる。
枢機卿はそのブローチをたいへんに重要視しておられるのだ」
「じゃあ、いっそ枢機卿に返却します」
 アンドレはしゃあしゃあと云った。
「あの方ならば、国庫に百年間の封印つきで厳重に保管して下さるでしょう」
「それは悔しいから駄目だ」
 パトリスは苦い顔をした。
 今回は枢機卿に先手をとられてしまったこともあり、パトリスはせめて
証拠物件のブローチを手許においておきたいのであろう。先王の遺児の
存在を王にお隠しもうしあげたことは重罪に値する。もしもの時には、枢機卿を
この件で脅すのだ。もちろん、その際にはパトリスとても事実を隠していたことは
同じなのであるから、同罪になるだろう。
「しかしながら、いざという時の保険にはなる」
 パトリスの言葉に、アンドレは懐に手をおいた。そこに水晶のブローチがある。
 アンドレは海を見た。船はもう見えなかった。そのようなかたちでふたたび
己の名が利用されることを、このブローチに関わった王女が望むだろうか。
 どのみち、デギュイヨンは死ぬまでこの秘密を口外すまい。
「お前、そういえばカンタン殿から財布を巻き上げたそうだな」
「ああ、そうでした」
 王と枢機卿は長居は無用とばかりに、馬を回し、吹きさらしの崖から砦に
向かってもう引き上げはじめていた。
 アンドレは突然、枢機卿に従う親衛隊の背中に向けて大声を張り上げた。
海風に、青年の声はよく通った。
「思いのほか、カンタン殿は軟弱者」
「アンドレ」パトリスの眼がまるくなった。
「高名ばかりが先に立ち、それにともなう実力は何にもない男でした。ご自分で
地道な努力をする者ならば、他人にも敬意を払えるものだ。ところが
カンタン殿ときたら他人の誹謗中傷ばかりに熱心で、人のあら探しをしては
自分は何もせずに人の上に立った気でいる、中身のない卑怯者」
「そのとおり!」
 調子よく、セヴランがそれに合わせた。彼はアンドレが理由なくして
そういった罵詈雑言を人に対して浴びせぬ男であることをよく知っていた。
オクタヴィアンもいそいで同調した。
「本当です。わたしとの決闘も、始める前から逃げてしまわれました」
「カンタン殿は、いわば張子の虎です」
「陰口を叩く陰湿ばかりが発達し、肝心のお手元はおろそかになったとは
遺憾なことで」
「ほら、ああやって大勢の親衛隊の中にこそこそと隠れておられるのがよい証拠」
 アンドレとセヴランとオクタヴィアンは悪魔の仔のように、げらげらと笑い出した。
 当たり前であるが、怒ったカンタンが剣を片手に、親衛隊を押しのけて
彼らの前に進み出てきた。
「いま、何と申したか」
「カンタン殿は卑怯者だと申しました」
「いたずらに人を挑発し、愚弄するその方らこそが、卑怯者なのだ」
「そんなに財布が惜しいのか」
 アンドレは顔つきを変えると、剣の先にいつの間にか懐から取り出した
カンタンの財布を突き刺して、眼の前に突き出してみせた。
「返して欲しいのならば、かかってこいよ」
「アンドレ。気でも違ったか」
 レオンとユーグとヴィクトルまで青褪めていたが、アンドレはいよいよますます
軽口を叩き、岩場の上をとび回った。
 緋色の隊服に身を包んだ親衛隊と、黒水仙の剣士隊がわあっと彼らを取り囲んだ。
たびたび云っているように、彼らは犬猿の仲である。
「やっちまえ、アンドレ!」
「カンタン、青二才を海に叩き落とせ!」
「あっはっは」
 実に愉しげに、太陽と海原を背にしてアンドレは哄笑した。剣を抜いて襲い
掛かってくるカンタンをすばやく避けて、右へ左へと、剣先に突き刺した財布を
提灯のように振り回しながら、草を踏み、崖縁へと後退してゆく。
 黒の鎧に緋色の僧衣をつけたデギュイヨンが、アンドレが今からやろうと
していることなどお見通しだぞと云わんばかりに、遠くからこちらを見ていた。
 しかし緋色の猊下はちょっと片眉を吊り上げて、「好きにしろ」とでも云うように
片手を挙げると、砂浜に馬を走らせ、私兵を率いて立ち去っていった。
「アンドレ、やり返せ!」
「そこだ、カンタン、奴を串刺しにしてしまえ!」
「仕方がないやつだ。帰るぞ、「お兄さま」」
「隊長」
「ああ、すまなかった。ついつい。帰るぞレオン。ユーグ、ヴィクトル」
「はい」
「セヴラン、オクタヴィアン。それからファブリス。無断行動が過ぎたぞ。
都に帰ったらお前たちには十日間の謹慎処分と、半月分の減給を与える。
そのつもりで」
「はい」
「アンドレにも?」
 彼らは振り返った。ちょうど崖っぷちでアンドレが黒い隊服をひるがえして
カンタンの渾身の一撃をかわし、剣に空を斬らせたところであった。
 その襟につけた銀の徽章が、真昼の星のように輝いた。
「おっと」
 最初から予定したとおりに、反撃しようと勢いよく振りかざしたアンドレの剣の
先から、カンタンの財布がすっぽ抜けた。財布はその中に入れていた金貨と
水晶のブローチごと、虹のような大きな弧をえがいて、下方の海へと音もなく
落ちていった。
 白い波頭に消えた財布は、深いところへと沈み、二度と浮かび上がっては
こなかった。
 剣士隊がどっと笑い崩れた。カンタンと親衛隊は猛り狂った。そこへ枢機卿の
合図で、「親衛隊は全員直ちに帰参せよ」の太鼓が砦からどろどろと打ち鳴らされた。
「オルレアン公とノアイユ伯爵夫人にみやげ話がたくさんだ」
「アンドレにも処分を、隊長?」
 心配そうに、オクタヴィアンがパトリスを仰いだ。崖淵でアンドレはまだ笑っていた。
「これは残念、カンタン殿。枢機卿さまから頂いたご褒美の金貨が手つかずのまま
あの財布に入っていたとは、惜しいこと」
「まさか、アンドレを僧院などに送らないでしょうね、パトリス様」
「あの狼男をそんなところに送れるか。僧侶たちの迷惑になるわ」
「アンドレ、いい加減にしろ。帰るぞ」
 セヴランがアンドレを呼んだ。アンドレは芝居の終幕のように帽子を胸にあて、
いとも優雅にお辞儀をし、海とカンタンに笑って別れを告げた。
「この朝の波音を、ある理由からわたしも生涯忘れないだろう。愉快なる
想い出よ、海底に沈んだ剣士の財布よ。ごきげんよう」
「誰に似たのやら」
 パトリスの密かな呟きは、アンドレの笑い声に隠れて、誰にも聴こえなかった。


[黒水仙・完]


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