エデン・ズ・ノア
---後---



 王さまが狩りで近くにお越しになるって?
 それじゃひとつ、エデンの王のお眼にとまるように、俺とアカシアのことを
売り込んでよ。
 姉さんほどの美人なら、男なら興味をもたないわけがない。たとえ
それが王さまでもね。
 こっちが出世したらお前たちにも悪いようにはしないからさ。


 ネクタリオス王が寵妃アカシアを王妃にするとの布告が国中に出された。
 重臣たちは歯噛みして悔しがったが、後宮に血族の女をおさめていない
他の貴族たちは一様に安堵した。ネクタリオス王には世継がまだいない。
権力がいち貴族に偏るよりは、アカシアの生む王の子の後見人の座を
これから狙うほうがよい。
 
 最初の結婚で得たカッサルシャの正妃は数年前にすでに亡くなって
いたので、ネクタリオス王はアカシアを王妃に迎えるにあたり、王妃宮を
あたらしく建てさせることにした。
「古代王国エデン・ズ・ノアにも勝る壮麗な宮殿を」
 王の命に、国中から選りすぐりの建築家が集められ、属領からは金銀、
青銅、石材、花崗岩、窯焼きレンガ、それら世界を組み立てるものかと
見まがうほどの建築材料が大量に切り出され、作り出され、海路、あるいは
奴隷の人力で、カッサルシャの王都に続々と運び込まれた。
「宮殿には七階層の空中庭園を設え、そこにサザンビリス河からくみ上げた
水を流すようにせよ」
 また、外壁を飾る釉薬レンガは冴えた青色に統一され、蓮の花をかたどった
白亜の列柱を並べた王妃宮が完成すれば、それは「王妃の青の宮殿」と
名づけられることになっていた。
 ネクタリオス王は、それらを公共事業としたので、あぶれていた日雇いたちも
職にありつけ、金が回ることにより、都の景気はかつてないほどの賑わいとなった。
「ライサンダー様が」
 後宮の房にひっそりと閉じこもっていたアリアドネは、侍女の口から宮殿の
工事現場にライサンダーが混じっているときいて、ひそかに胸をとどろかせた。
「ライサンダー様はお元気そうでしたわ。目元の涼しい若者とご一緒に
働いておられます」
 大掛かりな工事には危険がつきまとう。近くにライサンダーがいると知った
アリアドネは、何としてもひと目、ライサンダーを見たくなった。
 悠久の大河、リメス=サザンビリスに陽が昇る。
 まだ土色の空をした瞑想的な朝焼けの中、白い鳥のような影が、ひそかに
河霧をぬって後宮を抜け出した。
「ご主人さま……」
 工人たちに混じって天幕の中で寝ていたライサンダーは、うすく眼を開けた。
履物をはいた女の小さな足の爪がみえた。顔の上に降りかかったのは
夜露ではなく、女の涙だった。
「ライサンダー様。お逢いしたかった」
「アリアドネ」
 とび起きたライサンダーは、すぐにアリアドネの手を引いて天幕の外に出た。
 眠気も吹き飛ぶ勢いで、ライサンダーはかつておのれが所有していた
少女奴隷を叱り付けた。
「莫迦なことをするな。いますぐに後宮に戻れ」
 絹の被り物をつけたアリアドネは首をうちふった。
「石打の刑にされるなら、それでもいい。ネクタリオス王の寵はアカシア様に
移りました。後宮から女がひとり消えたとて、誰もちっぽけなわたしを
探したりはしないでしょう」
 はらはらと泣くアリアドネは、ちっとも変わってはいなかった。戦火の中から
馬の鞍の上に救い上げた時と同じように、彼だけをひたむきに慕っていた。
「どうせ忘れ去られる身です。このまま後宮で朽ちて死ぬ前に、ひと眼で
いいからライサンダー様にお逢いしたかった」
「王はお前が惜しくなくとも、威信と面子をかけてお前を探し出し、王の女を
奪ったわたしと共に処刑するだろう」
 アリアドネの肩を掴んで揺さぶりながら、ライサンダーは、唐突にそれでも
いいなと思った。
 アリアドネを連れて逃げれるところまで逃げてやろうか。いちど下民に
墜ちた身だ、これ以上、王を怖れることもない。
「南方の海は碧く、北方の山は雪に白い」
 されども天界だけは雲の城を建て、風の果てへと無窮をいざなう。
 誰に教わったかも分からぬその古い歌は、ライサンダーにいつも、ひとりの
女を想わせた。明瞭にはならぬその姿は、舟の底に横たわるアカシアを
見た時に、ようやく一つの像となった。
「ライサンダー様」
 アリアドネの涙が落ちた。アリアドネの肩を掴むライサンダーの手に力が
こもった。ライサンダーはアリアドネを見た。かよわい身で命賭して逢いに
きてくれた女は、幻ではなく、熱い涙をもっていた。
 時折ライサンダーが吟じていた歌の続きを、アリアドネは全てそらんじていた。
「千の鐘を打ち鳴らして君を呼べども、空は応えず、鳥の声に振り向けども、
失われし君、影すら見えず。ライサンダー様のお傍で暮らしていたあの頃に
戻りたい」
 空にはまだ月があった。女を横たえた河べりの茂みに朝風が吹き過ぎた。
声を上げるかわりにアリアドネはライサンダーの背に腕を回した。
「見せて……海や雪山を……」
 それも朝霧に湿っていった。


 後宮から逃亡したアリアドネを庇ったのは、意外にもアカシアであった。
「アリアドネ様を罰するのならば、族長の息子を殺して逃げてきた
わたくしも罪人。同罪です」
 アカシアはネクタリオス王の足許に膝をつき、アリアドネの助命を願って
ひたすらに懇願した。
「わたくしが王の寵をあの方から奪い取ったのです。アリアドネ様はまだ
ほんの少女。王に見棄てられる辛さを耐えられるほど、アリアドネ様の
お心は強くはなかったのです。王よ、どうかお赦しを」
 王の逆鱗は、後宮の女官たちを生き埋めにしてやると盃を床に叩き
つけるほどに強かったが、アリアドネの探索だけは、アカシアのとりなしで
ようやく思いとどまった。
 アカシアはこう云って王の気を鎮めた。
「おそらくアリアドネ様はもうこの世のお方ではありません。悲嘆にくれた
女はみな、サザンビリス河に身を投げるのです。王にお逢いする前の
わたくしが思いつめて、そうしようとしていたようにです」
 そんな際のアカシアはいつも、後ろから何かが追いかけてきてその髪を
掴むのを怖れているかのような顔をした。黒い霧がじわじわとアカシアに
迫るのを、誰よりもよく知っているという顔をしていた。
 身を挺したアカシアの切ない願いに、ネクタリオス王の怒りもほどけた。
「王さま」
 アカシアは何を想い出すのか、繰り返し王の腕の中で訴えた。
「王さま。ようやくお逢いできた愛しい王さま。どうか、もう二度と離さないで」
「ネクタリオス王はすっかりアカシア様に溺れておられる」
 ひそひそと貴顕高官たちは囁いた。
 かつてないほどの王のアカシアへの執着が、彼らを不安にさせていた。
 傾城傾国の美女。真珠を散らしたように幾多の歴史書の中に出てくる
その手の女とは、烈婦でもなければ、格別に美人であるわけでもない。
男の身体にぴったりと沿って、しなしなとその身を蔓のように男の四肢に絡ませ、
男の意の侭になりながら、男を味方につけて思い通りにあやつる、無邪気なまでに
計算高い優しい女のことである。
 重臣たちは暗い顔を見合わせた。彼らはみな、同じ伝説を思い浮かべていた。
 かつてのエデン・ズ・ノア、およびエデンの覇者ノアヴァラが滅びた背景には、
ひとりの王妃がいたのではなかったか。
 「エデンから略奪してきた王妃に対するノアヴァラ王の寵愛は、限りなかった」
 一日の労働の終わり、博打の場に集った男たちは、賽子を入れた器を
ふるう若い男の話に耳を傾けた。
 いつもライサンダー王子と一緒にいる風采卑しからぬその若い男が、遠い
砂漠からやって来たのだということ以外、誰も正体を知らなかった。
 流浪の民は幾多の言語を自在にあやつり、宮殿施工の現場主任よりも
建築に詳しく、またライサンダーとは違う凄みでもって、土場の男たちを
ひややかに圧倒していた。
「ノアヴァラの王は王宮に迎えたエデンの王妃を正式に自国の后に
しようとした。エデンの女を后に据えることを、ノアヴァラの民は良くは
思わなかった。血濡れた王妃は国に不吉をもたらす。ノアヴァラの民は
王に対して叛乱を起した。妖婦を殺せ。不吉をはこぶその女を殺せ」
 男の手にした器の中で賽子がからからと哂いを立てた。
「ちょっと待て」
 掛け金を並べていた男たちが顔を上げて口を挟んだ。
「王妃は炎上するエデンから逃げる途中で、裏切り者の双子の弟に
殺されたのではないのか」
「捕われることを厭い自害したという説もあるぞ。河に身を投げたと。それが
なんで、ノアヴァラの后になるのだ」
「生きてたのさ」
 何事もないかのように、流浪の民は賽子ごと小器を地に伏せた。
 男たちが固唾を呑む中、若い男はゆっくりと小器を持ち上げた。勝った
負けたの怒号は、男に遠い記憶を呼び戻した。
「アケロン」
 双子の姉アカシアが頬を染めて、弟に抱きついてきた。睡蓮色をした
サラサの花が、夕闇にひらひらと散っていた。
「アケロン。サザンビリス河のほとりで、わたし、王さまからお声を掛けられたの。
王さまは、わたしのためにお花を摘んで下さったわ。サザンビリス河のほとりでよ」
 それは男から女への、永遠の愛を誓うしるしだった。最近の姉がいつも
夕方になると一人で河へ出かけていたのは、そういうわけだったのか。
「遠くからやって来た人だとしか知らなかったの。王さまだったなんて。でも
これでわたしと王さまは、ずっと一緒。いついつまでも魂は呼び合い、離れても、
必ずまためぐり逢える」
 アカシアは子供のようにそれを信じていた。別たれた恋人も、サザンビリス
河がいつの日かめぐり逢わせてくれると。
 アケロンはアカシアの手を払いのけた。
「俺とは別れてもいいのかい」
「あら、アケロンはこの邑の男だもの。遠くへ連れては行けないわ」
 その後双子を襲った運命がいかに過酷なものであったとしても、その時の
アカシアの倖せそうな笑顔ほど心に沁みるものを、アケロンは短い生涯の
うちに、ついに知らなかった。
 まもなく、アカシアはエデンの王宮に召された。それに伴い、双子の弟も
身分を引き上げられて、オリオン王の側近となった。
「わたしは、愛する王妃と、またとない忠義の友を手に入れた」
 絹や宝石に飾られた姉は、目が眩むほどに美しかった。
 双子は王を深く尊敬した。父母をはやくに失った双子たちにとって、オリオン
王こそは、父に等しきものであった。
「アケロン」
 双子はオリオン王の庇護下にあったが、正面から姉を侮辱する者はいなくとも、
王妃となったアカシアを成り上がりの下賤者と蔭で侮るものは絶えなかった。
姉の顔からは笑顔が消えた。
「アケロン。それでも、あなただけは王妃の恋の真実を知っている」
「かつてのエデン・ズ・ノアに匹敵する、王妃の宮殿か」 
 イリアスは、夕陽に聳え立つ建設中の宮殿を見上げた。
 アカシアはネクタリオス王に、一つだけ注文をつけた。
「離宮と同じように、サラサの木を空中庭園に植えて下さい。いつでも
サザンビリスの河べりを懐かしく想えるように」
 アカシアの望みはすべて叶えられた。
 七階層の庭園は、最上階と、外枠だけが完成していた。それは空に続く
巨人の階段のようであった。
 工事現場には番人が立っていたが、王の護衛であり将軍の直近である
イリアスの歩みを制止する者はいなかった。
 夕暮れに女のすすり泣きがしていた。
 イリアスはそちらへと向かった。途中まで青いタイルを敷き詰めた内装半ばの
モザイクの間に、女がしゃがみこんで泣いていた。女はむき出しの床の一点を
見つめて、時折そこを撫ぜていた。
 嗚咽はいつまでも止まなかった。
 どうして泣いているのか、女にも分からぬようであった。
 柱の蔭からイリアスが見ていると、女はやがてよろめきながら立ち上がり、
未完の宮殿から立ち去った。
 アカシアが立ち去ってから、イリアスはアカシアが撫でさすっていたものを
見に行った。反射する落日の赤銅色を透かして、ようようそれは読み取れた。
 ----王の御名を称えよ。うるわしきサラサの乙女との婚姻を。エデン・ズ・
    ノアに千年の栄えあれ
 数年後にはこの世から消えうせるエデンの古い言葉だった。
 工事にあたっては近隣の遺跡からも石材がはこばれる。それらは全て
タイルや漆喰で覆われて見えなくなるのであったが、さすればこれは、
滅び去った古代王国の住居か外壁の一部であったものだろう。
 古い碑文を指でなぞり、古語の知識を総動員して何とか読み取った
イリアスは、不気味な予感に胸がふるえるのを止めることはできなかった。
 山の端で燃えている日輪の反対側には、白い小石のような月が冴え冴えと
光っていた。星々を浮かべた濃紺の空に睡蓮をかたどった石柱が黒々と高く
のびるまで、イリアスは押し黙ってそこにいた。
 イリアスは首をふった。王妃はエデンと運命を共にして死んだのだ。

 王都に帰ったイリアスが下町にライサンダーを訪ねると、王子は王都から
姿を消した後だった。
「あの方のことは、心配はいらない」
 流浪の民は、イリアスに酒盃を寄越した。面差しがアカシアと似ている
若い男だった。
「あの王子はご自身の命で現世を切り拓いて生きてゆくことができる御方」
 海に出る、とライサンダーは言い残した。
「船を見つけて、遠くの大陸に渡る。そこでアリアドネと共に暮らそうと思う」
 旅立ちの朝、ライサンダーは、カッサルシャの平野を見渡した。荒々しい
大地と、砂塵に染まらぬ広い空だった。荘厳な朝焼けと夕焼けを連れた太陽は
この地に昇って沈むを繰り返し、白茶けた地表には南や北のいずれの国とも
違う熱い風が永遠ともいえる緩慢をまとって吹きつける。
「いつか、老いた時に、わたしはこの風景を懐かしむだろう」
 国の興亡も、人のいとなみも、全てを映してきたサザンビリスの青波金波。
魂をはこぶといわれるその河を、ライサンダーは懐かしく見つめた。
「サザンビリス河のほとりに生まれた者は、死後もこの河に魂が還り、また甦るという。
ずっと誰かを探して彷徨っていた気がしたのだが、アリアドネがその執着と迷いに
光をくれた。それでも、いつの日か、また、わたしはこの河のほとりに生きるだろう。
こうして生きている在りし日のこの命のことは忘れた姿で、これから向かう新しい
人生を礎にして、はるかな未来に、新しい命を生きるだろう」
「イリアスに逢ったらよろしくと」
 若い男はライサンダーの伝言をイリアスに伝えた。
「着いたら手紙を出すと。河舟で下ってゆくあの王子のお姿には、まことに
王の風格があられた」
 新天地についても王子は手紙を書かないだろう。そんな気がイリアス
にはした。手紙が届いたとしても、それは海を巡り巡って、数年のちのことに
なるのだろう。南方の海は碧く、北方の山は雪に白い。王子がよく詠っていた
古い歌。王子がアリアドネを伴って行ったことが、少しだけイリアスの寂しさを
あたためた。
「後宮から抜け出すのは勇気のいることだったろう。アリアドネの一途さが
ライサンダーの心を過去の憂鬱から解き放したのだな」
「この世には前世の因縁を断ち切ることができる、そんな強い人間もいる」
 それを口にする若い男の眼光は一点に据わったままであった。獣脂を満たした
平皿に漂う灯を見つめているその横顔は、やはり、アカシアとよく似ていた。
「寄り添う乙女が悲運の王子にそれをもたらした。あれこそはサラサの乙女。
褒め称えんかな」
「流浪の民。何をしにカッサルシャに来た」
「王との約束を果たしに」
 若い男は剣を取り出して酒場の卓の上においた。それは、ライサンダーが
アカシアに贈った翠玉の剣とよく似て、あれよりもずっと古びた品だった。
 翠玉と金は、エデンの太古より今に受け継ぐ伝統的な宝飾である。それを
見つめるうちにイリアスはふと、エデンの碑文を読んだ時と同じ薄気味の悪い
悪寒を覚えた。
 酒場の窓からのぞく白い月が翠玉の剣を光らせた。どこかで琴が爪弾かれ、
それに合わせて酔った男たちが唱和していた。
 天界の王は太陽を、冥府の王妃は月を戴冠す。
 イリアスは酒壷を両手で抱えた。
「王とは、砂漠の族長のことか」
 若い男はそれには応えなかった。

       ◇  ◇  ◇  

 ネクタリオス王の手でアカシアの頭上に王妃の冠がかぶせられるのに
合わせ、居住部分だけを先に整えた「王妃の青の宮殿」の落成式が
華やかに執り行われた。
 カッサルシャは祝いの祭りの中にあった。
 山車の上から女神に扮した乙女たちが街中に花をまき、弦琴を抱えた
楽師たちがかすかな哀愁を帯びた砂漠の民の曲をかき鳴らす。
 まるで、エデンのようだと誰もが思った。今日は、カッサルシャがエデン・ズ・
ノアを超えた日だ。
 ひと際の歓声が上がった。
「流浪の民だ!」
 広場の中央で、若い異国人が剣の舞を踊っていた。
 垂らしたターバンの端がその力強くはげしい躍動に合わせて青空にくねり上がり、
翼のようにさっと流れて陽に透けるたびに、見物人からはどよめきが上がった。
翠玉の剣のきらめきの先で男の足先が高々と空にむかって跳ね上がったかと思えば
反対側にだんっと降り立ち、片脚を軸に回転し、雪豹の化身となって宙に投げた
銀刃の下をかいくぐり、落ちてくる剣を後ろ向きで受け止める。大きなうねりと小さな
動きを組み合わせたその舞は、男の端整な容貌と、獰猛なまでに研ぎ澄まされた
作為的な野生味によって、一つ流れの芝居のように、集まった人々の眼を奪った。
「見事、見事」
 広場の石畳にたくさんの硬貨が投げられた。
 流浪の民は気位が高い。王都に招かれていた各地の総督は、ひとつ王と
王妃の前でいまの舞を踊ってはくれまいかと、膝もつかずに片手に剣をさげて
突っ立っている流浪の民に褒美を与えて頼んだ。

 王妃の青の宮殿では、豪勢を極めた宴がたけなわであった。
 各階層が大理石の橋で繋がった空中庭園の偉観に人々は瞠目し、これに
まさる宮殿は千年の後にもこの地上には現れないと、その愕きを語り合った。
 休憩がもうけられた。居並ぶ廷臣たちに王と王妃は軽く応え、天守閣から
橋を渡って夕方の庭園に出た。
 最上段の庭からは、カッサルシャの街とサザンビリス河が一望できた。
 造園と建築の最高技術を集めた庭は天井が開閉式の硝子ばりになっており、
四隅に立てられた円柱が天を摩するがごとくに建ち並ぶ。緑を映す小川はその
川床に宝石を敷き詰めて、四方から滝となって豊かに流れ落ち、涼しげな音色を
空に響かせては、人口の森の中に小さな霧と虹を生んでいた。
「サラサの木」
 睡蓮色の花びらが夕方の風に舞い散っていた。カッサルシャの王妃となった
アカシアは花の雨を見上げた。
 宮殿は黄金の雲に包まれて、庭はまるで空に浮いているようだった。そこから
見下ろすリメス=サザンビリス河は、黄金の帯となって、夕暮れにあかく染まった
地上をどこまでも続いていた。
 河の流れの果てが銀貨のようにとりわけ明るいのは、そこに海があるからだ。
王と王妃の護衛についたイリアスは、ライサンダー王子が船出した遠い海の
出口に眼をほそめた。
「王さま」
 着飾ったなりで、アカシアは少女のようにサラサの木をまわった。
「王さま。王さまが伝説を憶えていらっしゃらなくてもいいの。もしも願い事を
申し上げてもよいのなら、サラサの花をわたくしの髪に下さい」
 ネクタリオス王はそうしてやった。サラサの花が女の髪に飾られた。
「うれしい」
 愛する王へ向けたアカシアの笑顔は、幼子のように穢れなかった。
 王宮の広間から低い唸りを上げて、男性的な速い調子の管弦楽が聴こえてきた。
街で評判をとった流浪の民が、剣の舞をこれから見せるのだ。王はアカシアを
誘ったが、アカシアは、「剣の舞など、おそろしゅうございます」身をふるわせて
遠慮した。
 護衛のイリアスも庭園に残った。二人きりになった。


 祝いの日なので、イリアスも今日は正装を身に着けていた。王の護衛は
宮殿の中でも剣を帯びることを許されている。
 夢の話だ、と断ってから、イリアスはそれを語った。アカシアはサラサの
木に片手をかけてイリアスを見ていた。
「サザンビリス河のほとりで愛を誓った男女は、別たれても、まためぐり逢える」
 夢のはなしだ。俺は夜の河岸に潜んでいるのだ。まわりには炬火を掲げた
兵士たちが同じように身を隠している。どうやら俺は、対岸に誰かの姿が
現れるのをそこで待っているらしいのだ。
 向き合っているアカシアの衣が夕風になびいた。
 誰を待っているのか、それは分からない。イリアスは暗く云った。
「分かっていることは、河の向こうには燃えている城があり、街があり、
たぶん俺のとても大切な人がそこにいて、俺は哀しみと憎しみを抱えながら、
じっと闇に伏せているということだけだ」
 階下では剣の舞に合わせた演奏が、ますます速く、はげしくなっていた。
イリアスは正面からアカシアの眸をとらえた。
「俺はきっと、前世でも兵士だったのだ」
「ええ」
 アカシアは淋しい顔で頷いた。漣に映るさやけき月影の風情だった。
「ええ、信じます」
「或る日、あんたが舟で河を流れてきた」
 イリアスの手が腰の剣に伸びた。イリアスはアカシアへと近づいた。
「俺は思った。そうだ、俺は待っていた。あんたをずっと待っていた。この女を」
「わたくしを殺すつもりですか、イリアス」
 アカシアがサラサの木に背をつけた。違う、とイリアスは乾いた声を出した。
「知りたいだけだ」
 イリアスは剣柄を固く握り締めた。
「俺には分からない。何故、エデンが滅びたのか。どうしても分からない。
エデンだけではない、勝者ノアヴァラもすぐに後を追って滅びた。千年は
繁栄すると云われた王国が、あれほどの富と財を誇っていた文明が、
あれほどの大国が一夜のうちに。それは何故だ」
「それは、ひとりの裏切り者のせいです!」
 突然、アカシアの声が激情を帯びた。女の頭上には、月が昇っていた。
「天界の王は太陽を、冥府の王妃は月を戴冠す。それは、ひとりの裏切り者
のせいだ」
 いつの間にか、楽の音は絶えていた。鳥の影が庭を過ぎた。燃える夕陽に
ターバンをひらつかせ、流浪の民の姿が橋を渡って庭園に現れた。その手には
剣の舞に使われた翠玉の剣が握られたままだった。
「ノアヴァラは滅びた。エデン・ズ・ノアから連れ帰った王妃が原因だった。
人々は怖れた。禍々しい女を后にすれば、エデンと同じわざわいが起こる。
しかしノアヴァラの王は民の声を聴き入れず、エデンの王妃を后とした。
ノアヴァラの民は女に惑わされた王を見限ると、植民都市と手を組み、王に
対して叛乱を起した」
 黒一色の踊りの衣裳を身に着けた流浪の民は、イリアスの脇をすり抜け、
アカシアに向かってその歩をすすめた。
「ノアヴァラの王は民によって殺された。そして后は」
「アケロン」
「俺が殺した」
 流浪の民を凝視するアカシアは、まるで亡霊でも見たかのような青褪めた
顔をして、サラサの木につかまり、瀕死の病人のように喘いだ。

 黒いターバンを夕空になびかせ、アケロンはアカシアに近づいていった。
「なんど生まれ変わろうと、俺はお前を探し出す。何千何万もの民を
犠牲にして、エデンを滅ぼし、王を殺した罪深き女よ」
 アカシアはわななき、うわごとのように何かを云っていた。
「ライサンダーは、あの人は、遠くへ行ったわ……巻き込みたくなかった」
「オリオンは心強き方。此度こそは、そのたましい過去に囚われることなく、
王妃への未練もようやく捨てて、この現世でそのお命をまっとうされることだろう。
そこにいる、その男が健やかに生きているように」
 イリアスは、はじかれたように、アカシアとアケロンの間に割って入った。
 すべては夕霧の中、太陽光の残照の中、渦巻く金色の雲の中でのことだった。
雲から顔を出した夕陽が、ぐらぐらと揺らぎながら、彼らの影を濃く変えた。
 流浪の民が、翠玉の剣を持ち上げた。イリアスは叫んだ。
「アカシア、逃げろ」
 その時イリアスの脳裡で赤い太陽がどろりと溶け、あたりは夜となった。
「ノアヴァラが同盟を違え、エデンに攻めてきただと」
 誰かが、家族の許へと駈け付けようとするイリアスを羽交い絞めにして
止めていた。あの炎の中には、父が母が、弟妹たちがいる。
「行くな、街はもう助からぬ」
 イリアスは怒号を上げている大勢の兵士と共に王宮へと押し流された。
「この裏切りは王妃の謀ったことだ」
「アケロン様がそうおっしゃったぞ」
「双子として生まれた姉であるからこそ、エデンをノアヴァラに売った王妃を
許してはおかぬと」
 夜の河岸でイリアスは待っていた。裏切り者の王妃アカシアが河を渡って
くるのを。アカシアはノアヴァラと通じている。あの女は王とエデンを捨てて、
遠くノアヴァラへと逃げるつもりだ。
「そうはさせてなるものか」
 夜のサザンビリス河に風が吹き、棘のような波が立った。
 やがてアケロンに連れられたアカシアの姿が対岸に現れた。アケロンが
用意の小舟のもやいを解いた。
「アケロン。裏切り者」
 カッサルシャの空中庭園にたたずむ王妃は、涙を流した。
「あなたには分からないわ」
 そこへ、異変を察したネクタリオス王と警備兵たちが庭園に駈けつけてきた。
 王妃に刃を向けている若い男を見ると、すぐさま王は兵に命じた。
「流浪の民を捕えよ!」
 きりきりと弓が引き絞られた。それよりはやく、大きな鳥のようにアケロンは
アカシアに襲い掛かった。
 はかない声を上げて、アカシアはネクタリオス王へと白い手を伸ばした。
「王さま。わたくしの王さま」
「カッサルシャをエデンとノアヴァラの二の舞にさせたくなくば、この女が
死ぬところを黙ってみていろ」
 アケロンはアカシアの喉に腕を回し、剣を振り上げた。翠玉の剣がかっと
夕陽を吸い込んだ。
「王さま」
 サザンビリス河のほとり、サラサの木の下で少女は泣いた。
「王さま。邑人たちが、わたしを王宮へ連れて行くと云うのです。従わなければ
邑の人たちが罰せられてしまいます。狩りの折にわたしを見初められたのだとか」
 いつも国境を隠れて超えて来るその人にそのことを知らせるすべを少女は
持たなかった。
 少女はサラサの木に涙で濡れた頬を寄せた。
「サラサの木よ。どうか憶えていて。隣の国のノアヴァラの王さまにお伝えして。
いつかまたお逢いできる日を信じていますと」
「性懲りもなく、この世においてもまだあの男を慕うのか、アカシア」
 アケロンはネクタリオス王を指した。
「残念だな。どうやら、あの男はお前のことを憶えてはいないようだぞ」
 ネクタリオス王はアカシアを見つめながら、怖い顔で硬直していた。
 背後では、騒ぎをききつけた賓客たちが大勢庭園に出揃って、この成り行きに
愕きと恐怖の叫びを上げはじめていた。
「不吉だ」
「祝宴に血が流れるとは。縁起でもないことだ。この王の御世は永くない」
 ネクタリオス王の顔はみるまに青褪めた。
「王よ、あの女を助けてはなりません。流浪の民のさせるままにしておくのです」
 アカシアを亡くしてやらんと、イリアスは叫んだ。
「必ずやカッサルシャに暗雲を呼び込む女です」
「サザンビリス河のほとりで愛を誓って下さった、わたくしの王さま」
 アカシアの白い頬に涙が伝い落ちた。
「わたくしのことをお忘れでもいい。それでもいい。ずっと、ずっと、お逢い
したかった----」

 エデン・ズ・ノアに潜入したノアヴァラの隠密は、美しきエデンの王妃に
囁いた。どうぞ、わが国にお越し下さい。あれから何年経とうとも、わが君は
貴女さまのことをお忘れになってはおられません。サザンビリス河のほとりで
愛を誓われた少女のことを王は懐かしく惜しまれておられます。王は心より、
アカシアさまをお迎えいたします。
「決行は日蝕の日に」
 アカシアはノアヴァラと裏で通じて、エデンを滅ぼした。
 劫火に包まれるエデンの街も、オリオン王を騙したことも、アカシアにとっては
愛しい王に逢いたい一心の、星の夢の中でのことだった。
 いかなる賤民の女であっても一つの恋に生きることは出来るのに、王宮で
卑しい女と罵られているわたしがそれをして、何が悪いの。

「その女、額に罪人の烙印をもち、蛇の心をもって男を惑わす卑しき女とな」
 ネクタリオス王は、アカシアを救い出そうとしていたその手をおろした。
 前世で愛した少女の面影も、この世の彼にとっては、集客の前で王に恥を
かかせた赦しがたい女でしかなかった。
 誇り高い王は怒りで眼の奥まで赤くして、兵にそれを命じた。
「国を傾ける魔の女。殺せ」
「めでたきこと」
 アケロンは唇を吊り上げて首肯した。
 流浪の民は王妃を庭園の縁に引きずっていった。美しい王妃を助ける者は
もはや誰もいなかった。
 空中庭園から望むこの世の落日は赤く、真下には、サザンビリス河が赤銅色に
染まりながら滔々と流れていた。
「アカシア。怖がることはない」
 風の中、アカシアの耳にアケロンの囁きがおちた。それはまるで一対の恋人
たちのようであったと、後になって云うものもいた。アケロンはアカシアを連れて
庭園の端に立ち上がった。
「決して離さない。エデンの王宮にも一緒に手を繋いであがったように。誰にも
渡さない。俺の半身。お前は俺のものだ」
「アケロン、あなたは」
 アカシアは喘いだ。
「あなた、は……」
「アカシア」
 アケロンの手がしっかりとアカシアの身体に巻きついた。
「何度生まれ変わろうが、お前を探して取り戻す。いつまでも一緒だ。黄泉の
国の扉の向こうへ」
 アケロンはアカシアの胸に翠玉の剣を深々と沈めた。
 エデンの王オリオンはアカシアを愛したが、アカシアは王を愛さなかった。
アケロンは他の男を愛している双子の姉への愛憎から、王妃のまことの愛が
成就することを阻み、王妃の魂を永久に追い続ける。
 睡蓮色をしたサラサの花が王妃の姿を隠した。
 そのまま二人の姿ははるか下方の河に落ちた。あとでどれほど河底をさらっても、
遺体も、流浪の民の翠玉の剣すらも、見つからなかったということであった。

 カッサルシャの平和は永くは続かなかった。増税に喘ぐ民から怒りの声が
噴き上がり、ライサンダー王子の還御を望む声が高まった。
 しかしライサンダーは二度とふたたびこの地を踏まず、王の護衛イリアスもまた、
古きエデンの地を離れていった。
 平和の眠りにあったエデン、民意に背いて急速に瓦解したノアヴァラ。それらと
同様に、血で血をあらそう内乱におちたカッサルシャも、ほどなく外敵をむかえて
時代を終えた。
 壮麗な王宮も、ついに完成をみなかった空中庭園も焼き滅ぼされた。王陵も
崩れ去り、その址には、瓦礫と砂地だけが残された。
 はるけきかな、人々のざわめきは時の彼方に潰えて遠く、廃墟には青い風が吹く。
 リメス=サザンビリス河だけが、いまも流れる。

 
 王さま。
 サザンビリス河のほとりで男が女の髪に花をさすのは、愛のしるし。
 いつか、王さまの国に連れて行ってね。
 もし別たれても、わたしのことを、
 忘れないで。




[エデン・ズ・ノア 完]

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