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河の水は、冷たかった。
「ジョゼフィン。ジョゼフィンじゃないか」
岸に漂いついたジョゼフィンを見つけたのは、シマだった。
「誰にやられた」
河岸に下りたシマは膝まで水に浸かってジョゼフィンを引き上げると、ジョゼフィンに上着をかぶせ、そこからほど近い酒場へ連れて行った。
ジョゼフィンは橋を振り仰いだ。ソバルトの姿は、もうなかった。
「ミュラは」
「病院からいなくなった。アドリアンが、彼女を探しに行っている」
シマはミュラの家に、ミュラを探しに行った帰りだった。
ずぶ濡れの少女を抱えて現れたシマの姿に酒場の客は愕いたが、親切にも暖炉のまわりをあけて、介抱してくれた。
温めた果実酒に口をつけているジョゼフィンの顔をのぞきこんで、シマは声を低くした。その顔には、貼り付いたままの恐怖があった。
「アドリアンは一人で五人を倒してしまった。折り重なった死体は、見る間に細かく崩れて塵と消えていった。愕かないから僕に教えてくれ。君たちは、いったい」
「朝に消える露と同じようなもの」
ジョゼフィンは顔を上げて、シマを見つめた。
「アドリアンはわたしに、亡くした人の面影を見ているの。シマ、あなたが、夜の間はカイになり、ミュラのことを想うように」
「なんだって」
「眼の前にミュラがいない時だけは、死んだカイになり、ミュラのことを愛するように。わたしたちは、彼らに追われているの。
永い、永い時が流れたわ。六百年よりも、もっとずっと」
「莫迦な、ありえない……」
「そう」
「君たちは年をとらない。それじゃまるで魔物だ」
「何とでも呼ぶといいわ」
濡れた髪をしたまま、ジョゼフィンは真正面からシマを見つめ返した。湖水の青の眸で、その赤い唇で、それ以上の彼の疑いを封じてしまった。
「ありえないことが起こる。この街に暮らすあなた達は、誰よりもそのことをよく知っているはずよ」
夜明けは遠く、此処は、死の灰が降った街だった。
「血霊たちは、人間の血を呑むの。アドリアンもわたしも、その同族」
「……」
「冥府といっても、人間が認識しているところの魂の煉獄とは違うわ。それはこの世と連結している別の国。
火の扉を越えたところにある、彼らの故郷。わたしは行ったことがないけれど」
ジョゼフィンは立ち上がった。ミュラを探しに行きましょう。ソバルトが橋にいた。きっとミュラは、中州の廃墟にいるわ。
火事だ。
夜空の一端があかく、明るくなっていた。街の半鐘が鳴り出した。火事だ、火事だ。
「研究所から出火した」
カイは身支度を整えると、ミュラに接吻した。
「待って。これを飲んでいって」
ミュラは大急ぎで牛乳を温めた。星の音が鳴りそうな、寒い夜だった。
「そのまま当直に入るから、きっと、明日も戻れない」
「わかったわ」
「兄さん」
幼い弟のシマも寝巻きのままで起きてきた。
「兄さん、気をつけて」
「大丈夫だ」
くしゃくしゃと弟の頭を撫で、カイは二人に頷いた。
「行ってくる」
「あれから何処で、何をしていたの。カイ」
瓦礫や破片が散乱し、草に埋もれるままになっていた。石を拾うように、ミュラはその一つ一つを踏みしめて、研究所の廃墟を彷徨い歩いた。
「あの夜、何処で、何をしていたの。あなたのことだから、きっといちばん焔の強いところで、ずっと頑張っていたのでしょう」
何処にいたの、カイ。わたしもそこへ、行きたいわ。
夜中なのに明るかった。ごおん、ごおん、と機械が唸る稼動音が地の底から響いてきた。ミュラは夜空を仰いだ。銀貨を撒いたような星空がひろがっていた。
城塞のような研究所の影が目の前にあった。それは青い灯をともして、いまも、動いて、生きていた。地面が大きく縦に揺れた。ミュラの見ている前で、
花火が開くように、研究所の屋根の一部が吹き飛び、見る間にそこから焔が噴出しはじめた。河向こうの対岸の街では、半鐘が鳴り出した。
火事はどこだ。
防火服を着た消防士たちが続々と橋を渡って駈け付けてくるのが見えた。
「消火栓が遠い」
「河の水を使え。この研究施設に何かあったら、大事になるぞ」
「カイ!」
溶岩が落ちるように、ばらばらとミュラの頭上にも焼けた破片が降ってきた。消防士たちは誰一人としてひるむことなく、
炎へ向かって走っていく。ミュラはその中に、カイの姿を探した。待って、カイ。
「あの時、あなたは、何処で、どんなふうに死んだの……?」
研究所は轟々と唸りを上げて熱気を放出していた。炎の衝立を背に、あたりには、ゆらゆらと、いつの間にか人の影が集まって立っていた。消防士ではなかった。
ミュラは夜の廃墟に膝をつき、咽び泣いた。
「遺体を見ることすら出来なかった。棺には、鉛が流し込まれた。土の下に、あなたは埋められてしまった」
影法師たちがミュラを取り囲んだ。彼らが古めかしい服を着ていることだけが、ようやく月明かりに見分けられた。その姿は蛋白石のようにちらちらと乳白色に光り、
かと思うと、完全に闇の中に溶け込んでいた。影たちはミュラを囲み、その眼を赤く変えて、女を見ていた。首筋を見ていた。ミュラはすすり泣いた。
遠くから、声がした。
「ミュラ」
誰に呼ばれたのかと、ミュラは幻の炎で燃え盛っている廃墟を見廻した。まだ遠くに、その人はいた。
「雪の女王……」
吹雪の亡霊を連れた、美しい女が現れた。王冠もないのに、神々しいまでの光に包まれ、威厳をもち、しずかに、
小さな炎のように、こちらに近付いていた。
「ミュラ!」
それはジョセフィンだった。ジョゼフィンはミュラに向かって叫んだ。
「ミュラ。彼らに従ってはだめ」
ミュラはたくさんのエンデルに押し包まれていた。星空がみるみる消えて、大地からは冷気が吹き上がり、河が消え、外の音が絶えた。
火事の幻影はますます盛んになり、燃える研究所からは流れ星のような火の玉が、火の粉を振り落としながら、幾つも幾つも弧を描いて落ちてきた。
夜の霧がミュラの脳裏を覆いつくした。何も見えなかった。カイのいる処へ行きたかった。ミュラは凍える身を自分で抱いた。
「カイ……」
ミュラの姿は、影の輪の中に消えた。
「エンデル。その人からはなれて」
ジョゼフィンは地面から硝子の破片を拾い上げた。硝子は火を映し、黄金色にかがやいた。エンデルたちは二手に分かれ、ジョゼフィンの方にも向かってきた。
炎が竜巻となり、荒れ狂い、眼に見えないものが、河にも街にも降り注いだ。風となり、灰となり、火の色の雪となって、中州と街を覆いつくした。
「その人の血を吸うのはやめて」
少女は武器の硝子片を握り締めた。
渦巻く炎と吹き付ける火の粉は、ジョゼフィンの頭上に、光の冠を生み出した。エンデルたちがそれを見て、気圧されるようにたじろいだ。
嫌になるくらい、あの女にそっくり。いつもアドリアンが口癖のようにそう皮肉る、その姿だった。
「そうやっていると、嫌になるくらい、あの女にそっくりだ」
「ちょうど今、あなたがそう云うだろうと思っていたところよ」
ジョゼフィンの真上に閃いたエンデルの剣をあわやのところで受け止めたのは、黒い獣のように飛び込んできたアドリアンの杖だった。杖は瞬く間に黒い剣となった。
「ミュラ、しっかり」ジョゼフィンはミュラを助け起こし、崩れた壁の処まで連れて行った。
「カーンビレオの騎士」
エンデルがどよめいた。アドリアンはジョゼフィンとミュラを背に庇うと、黒剣を構えた。斃されてゆくエンデルは影が影に吸い込まれるようにして数を減らし、
次々と見えなくなった。
「アドリアン!」
ジョゼフィンが悲鳴を上げた。一陣の風が、地面からジョゼフィンを攫い、魔鳥のように飛び上がると、エンデルたちを連れて廃墟の中に消えたのだ。
火事の幻影は去り、瞬時のうちに、あたりは風吹く廃墟の夜の静寂にもどった。まるで芝居の仕掛けのように、暗転し、霧が晴れ、全てのあやかしが拭われた。
静かになった。
ミュラは、河の音を聴いていた。
敷地の反対側を探していたシマが、砂利を踏んで、ようやく現場に駈けつけた。
「ミュラ」
息を切らして、シマはミュラの許へいった。
「アドリアンとジョゼフィンは」
「カイ」
地に膝をついていたミュラはふらりと立ち上がり、現れたシマを見て、そう呼んだ。
「カイ。来てくれたの」
よかった、無事だったのね、カイ。火はもう消えたのね。街はそのまま。
途中で言葉が途切れた。ミュラの頬に、疲れきった涙が伝い落ちた。
「シマ。カイは、あの人は、やっぱりいなかったわ。此処にはいなかったわ。幽霊でもいいから、逢いたかった」
「ミュラ」
散乱している硝子の破片が、月を浮かべた星空を青く映していた。ミュラはふらつく脚で、シマに向かって歩いてきた。
「あの夜から、あの人を探していたわ。この街で、探していたわ」
ミュラは銀河の上を歩いていた。
カイを求めれば求めるほど、わたしは他の人のことを想っているの、それを打ち消しては、こんな処にまで来てしまった。
探し続けて、疲れてしまった。もう見つかっているものを、探しているふりをすることに、疲れてしまった。
カイの姿が見つからない。どれほど探しても、カイはもう見つからない。
未来と健康の黒く塗りつぶされたこの街で、そのことだけを、探していた。壊れた心で、幽霊のようになって、失くしたものを、失くした場所で、
大好きだったから。
「黒い霧に包まれて、さっき思ったの。わたしは探していた。今も探している人がいる。もう一度、逢いたい」
火事に向かう消防士たちの影絵の中に、カイの姿は見つからなかった。姿を見せてはくれなかった。誰よりも優しいカイ。死んでからも、そうやって、あなたは優しい。
「その人に、逢いたいと」
ミュラはシマを見た。諦めるよりも、忘れるよりも、探し続けた。瓦礫の中から大事なものを、大切な人を。失われた愛のかわりに、また愛を。空回りするその気持ちが
胸の中の想い出を紡いで、紡ぎ飽きて、そしてまだわたしには分からなかった。こんな処に来てしまうまで。
瓦礫を踏み越え、シマはミュラを迎えに行った。シマの胸に辿り着いたミュラは、ふるえる手をのばし、シマの背に腕を回した。
誰か云って、こうしても、いいのだと。
廃墟の中にエンデルを追って入ったアドリアンは、錆びれた通路を幾つも通り抜け、制御室に辿り着いた。十年前、技師たちが詰め掛けていた
制御室は静まり返り、埃をかぶった計器盤は、作動禁止であることを示す小さな常夜灯を点して、そこかしこで赤く光っていた。
風もないのに、ソバルトの白髪が、霧のように揺れていた。ソバルトはアドリアンを迎えて、剣を抜き放った。
「カーンビレオの騎士」
アドリアンは応えず、黙って口もとに皮肉笑いを浮かべた。
「そう呼ばれるのは、お嫌いか」
「アドリアン」
ジョゼフィンは硝子で囲まれた指令室の中に閉じ込められていた。その外側をエンデルが取り囲み、整然と並んで、
ジョゼフィンの視界を半分塞いでいた。ジョゼフィンは壁を叩いた。
困ったね。と黄泉の声が少女に話しかけた。次局長は寂れ果てた指令室を懐かしそうに見廻した。
ここはね、もし事故があった際に、職員の一時的な避難所となるように設計された、特殊な硝子部屋なんだ。あの夜は、そのことすら思い当たらなかったな。
誰も逃げようとはしなかったから。
「アドリアン」
そんなに壁を叩くと、手が痛むよ。わたしはね、兄弟の多い貧しい農家に生まれて、独学で修士号を取ったんだ。この研究所に赴任が決まった時は嬉しかったよ。
この管制室からいつも、離れた炉で行われている実験を操作していた。大好きな部屋だ。だからずっと此処にいる。
「炉心に近づけない!」
「水門のある地下へ向かう階段が煙に巻かれている。このままでは被害が拡がってしまう」
「わたしが下に降ります」
若い消防士が救助用の綱を取り出した。地元の英雄。炉に接触すれば確実に致死量の毒を浴びる。分かっていたが、云えなかった。彼は手動で水門を開いた。
「アドリアン、扉が開かない」
ジョゼフィンの叫びに、ソバルトが振り返った。
「河などに飛び込むからだ。水は急速に力を奪う。半分人間である身には、たまるまい」
ジョゼフィンは牙を立てた。手首を口にあてた少女を見て、ソバルトは片眉をあげた。
「また自分で血を呑むつもりか。一晩に二度は辛いぞ。それでなくともこの内部の汚染は、君のからだを侵しているはずだ」
少女は呑み込んだ血を吐いた。血性嘔吐に似た症状を引き起こして、ジョゼフィンは床に崩れ落ちた。次局長の亡霊は立ち尽くして、
そんな少女を見ていた。
ソバルトはアドリアンの黒剣をかわした。
「死んだ娘を甦らせるとは、莫迦なことをしたものだ」
白髪を揺らし、ソバルトはせせら笑った。
「ジョゼフィンが王妃に似ているので、見境をなくしたか」
「王妃の娘を火刑に」
指令室の前に並んだエンデルたちが唱和した。
「この娘に、裏切り者の王妃と同じ末路を」
「冥府へと通じる扉は、炎がそれを導く。いつ何処で開くかは、誰にも分からない。我らもそれも知らない。エンデルたちは、帰りたいのだ」
戦場の炎、焚き火のゆらぎ、あるいは、毒素を撒き散らした災害の火事。エンデルたちがさらに求めた。
「火の扉を」
ソバルトはエンデルに応え、アドリアンに剣先を向けた。
「このカーンビレオの騎士を手土産に、ジョゼフィンを火刑に処すれば、それが叶うかな?」
烈しい音を立てて、剣と剣が打つかり合い、薄闇に火花が散った。
「王は、いまでも王妃とお前の不貞をお疑いだ」
ソバルトの剣が空を斬った。衝撃波で計器の覆い硝子が一斉にひび割れた。ソバルトと位置を入れ替わったアドリアンは指令室に跳び下がると、そこにいた
エンデルを刎ね飛ばし、指令室の扉に肩からぶつかった。開かなかった。
「それは電子制御で開閉する」
アドリアンに斬られた手の甲を見つめながら、ソバルトが教えた。
「避難所だっただけあって、頑丈だ」
アドリアンの姿を見てジョゼフィンが床を這い、硝子壁を叩いた。次局長が首をふった。無駄だよ。
「火を放て!」
ソバルトが命じた。
「この廃墟ごと、娘を焼き滅ぼせ。裏切り者を殺せ。冥府の王はお喜びになられる」
「ジョゼフィン。アドリアン」
ミュラが小さな悲鳴を上げた。
制御室に辿り着いたシマはミュラを連れて見つからないようにすぐさま引き返し、制御室の外通路に出ると、壁をさぐった。
廊下には蛍光色の弱い灯りがついていた。
「ミラ、斧を探して。近くにあるはずだ」
ようやく目指す電子制御盤が見つかった。シマは階ごとに備え付けの、非常用の斧を取り外して、それを振り下ろすと、
壁にはめ込まれている灰色の箱の鍵を打ち壊した。この中の回路は、制御室に繋がっているはずだ。
「シマ、何をするの」
「僕は、これでも工学部にいたんだ」
シマはすばやく操作した。一時間いれば、一生分の毒を体内に吸収すると云われている建物の中だった。
触れるもの、吸い込む息が、命を削っている。きっと、街中とは比べものにならぬくらい、汚染されている。
シマはミュラの手を握りしめた。ミュラはシマの肩に頬を寄せた。
街の大気が清浄に戻るには、あと六百年かかると云われている。その頃には、住人の死に絶えた街は森の緑に覆われて、そこに淋しい風の歌が流れてる。
「その時代の人たちはこう云うだろう。ごらん、あそこには昔、街があったんだよ」
「彼らは河のほとりの廃墟の中に、カイの墓を見つける。庭に撒いた夏の水。夢のあとを」
「走って、ミュラ」
「アドリアン」
指令室の扉が突如、発火音を立てて外部から開いた。計器盤の一部が漏電を起こしたように、煙と火を上げていた。
アドリアンはジョゼフィンを床から助け起こした。仰向けになったジョゼフィンの顔には、生気がなかった。
アドリアン。
忘れえぬ女の声が、彼に囁いた。
アドリアン。わたしの娘には、人間としての命を。
王妃は黒髪の騎士にそう頼んだ。
冥府の城よりも、日差し溢れる、大地での生命を。わたしが愛したあの人と同じ、果敢なく、いとしい、人間としての短命を。
手から手へと渡された赤子。アドリアン、あなたがいなければ、わたしは鳥籠の中の鳥だった。
火の扉の向こうを見たいというわたしの願いを叶えてくれて、ありがとう。王妃は、最後に彼に願った。この子をお願い。
王妃の青い眸が、彼を見つめていた。
----決して生き返らせないで
アドリアンはジョゼフィンに覆いかぶさると、その首筋に唇を這わせ、探り出した血脈の上に牙を立てた。
「裏切り者」
ソバルトが吐き捨てた。アドリアンは手首を噛み切ると、少女の首から吸い上げた血と血を融合させ、ジョゼフィンの唇に手首を押し当てて、それを呑ませた。
血霊たちがそれを見守った。
少女の瞼がぴくりとふるえ、蒼くなった唇に、みるみる赤みが戻ってきた。そのほそい指が宙をさぐり、その膝が動き、唇がアドリアンの血を求めてひらいた。
陶器の人形が目覚めるように、ジョゼフィンは薄めを開き、息をした。それからふたたび力尽きて、ずるりと床に落ちた。
制御室にきな臭い煙が立ち込めた。床をのたうつ火の手が可燃物を探して、彼らを包んでいた。白髪を火の色に染めて、ソバルトがそれを睨んでいた。
やはり、だめだったようだね。
次局長の霊が、ソバルトを慰めた。次局長は云った。
扉が開くかと思ったが、違ったようだ。
ソバルトをその場に残して、次局長は制御室から出て行った。
ジョゼフィンを床に横たえ、アドリアンは立ち上がった。ソバルトとエンデルが剣を閃かせた。
血を少女に与えたことで衰弱しているはずの黒髪のカーンビリア騎士の両眼が、炎よりも赤く燃え、深淵よりも暗くなった。
はっとなってソバルトが叫んだ。
「お前は」
その黒い剣は、火炎の色を吸い上げ、真昼の太陽のように白熱化していった。かがやく黒剣は強く、速く、鋭かった。
黒い熱の塊となって浮くように襲い掛かってきたその剣は、ソバルトの知る、カーンビリアの力も超えていた。暴風が掠めた。
閃く軌跡は流れる一筋ではなく、始点と終点の連続に見えた。独楽に跳ね飛ばされるようにして、血霊たちは壁にぶつかり、そこで破裂し、四散した。
唸る剣は音すらも立てず、一瞬の擦過音となって、闇を破るだけだった。
ソバルトの剣は根元から粉微塵に砕け散った。腕を立てて庇うよりも早く、ソバルトの胸は貫かれていた。塵と崩れ落ちながら、ソバルトの顔が引き歪んだ。
その白髪が海草のように天井にむかって伸び上がり、その爪が床を削った。
「お前は……」
アドリアンは塵をなぎ払った。ひと払いした剣は黒杖に戻って、すばやく彼の手におさまった。
その柄頭には、十字が刻まれていた。アドリアンは杖を塵の跡地につき立て、その紋章が示すものを、自嘲をこめて読み上げた。
「冥府の番犬。血霊の最高位にして、最も賤しい、王の騎士」
制御室に、さらなる火の手が噴き上がった。それはくすぶるだけで、その場で弱りつつあった。
アドリアンはジョゼフィンの傍らに膝をつき、頬にかかっているその髪をはらった。少女は眼を閉ざしたままだった。アドリアンは意識のないジョゼフィンを腕に抱き上げると、
踵を返して、制御室から出て行った。
シマとミュラは手を繋いで、橋を走っていた。ミュラがよろめき、シマが支えた。シマは倒れたミュラを背負った。そして彼らは二度と、夜の廃墟を振り返らなかった。
給水塔に朝日が昇り、朝の花がひらくまで。
ジョゼには後見人がいて、いいな。
縒り合せてゆく糸のすべりは、指先に心地よい。糸つむぎは単調な作業だが、おしゃべりを楽しめる。
糸車を回しながら、少女たちはジョゼフィンに話しかけた。たいていは氏素性も分からない捨て子だ。ジョゼフィンに後見人が現れたことが、羨ましいのだ。
「彼はジョゼの名で、施設に多額の寄与をしたそうよ」
ふもとの村で買い取ってもらう糸束を、少女たちは丁寧に木箱につめた。
「あの方は、きっと十字軍の兵士だわ」
「杖に、その御しるしがあったもの」
ジョゼフィンは首をかしげるにとどめた。みんな、よく見てる。
黒髪の素敵な方に云いつけるわよ、と少女たちはそれからも折にふれてジョゼフィンをからかった。もしかしたら、人攫いかもよ。ジョゼを遠くに連れて
行ってしまう人なんでしょう。
石棺に閉じ込められたような院生活の中で、それは唯一の、外からの風だった。ジョゼフィンは花々が咲き乱れている菜園に眼を向けた。
七年経ったら、また逢いに来てくれると云った。あれきり便りも寄越さぬ人だけれど、きっとそうなる。ジョゼフィンは被り物をとり、髪を梳かした。
もう一度あの人に逢えたら、訊いてみたい。遠い国のことを、そこに生きる人々の話、物語のような愛や憎しみが、本当にあるのかどうか。
その約束の日は、もうすぐだった。
「雨が多いわね」
港のほうで疫病がおこり、山側へ拡がっているというお触れが出ていた。一度誰かが罹ると、同じ部屋で寝起きしていた者たちは、
薙ぎ倒されるようにして全滅するのだと噂されていた。
「ねえ、みて」
年少の少女たちがジョゼフィンを物陰に呼んで、不安そうに咳をしてみせた。少量の血痰を吐く者もいた。少女たちは顔を見合わせた。
なんだか、熱があるみたい。
修道院に隣接した孤児院から、弔いの鐘が絶えなくなるのは、それからほどなくのことだった。
小鳥のなき声がした。
大樹の根元で、彼女は眼をあけた。白い雲が流れる、青い空が見えた。
束ねていたはずの髪が顔のまわりに柔らかくなびいた。雨にあらわれた枝葉から、小さな雫が落ちてきた。
彼女はずっと待っていた。山々は遠く、雨粒は、かそけき珠となって、夏の夢のように風に飛び交った。秋の雨。雪の朝。林檎の花のようだった。
棺を壊して。
そんな昔の夢をみていた。十字の光が上から落ちてきた。
手をのばした。
探していた人が、そこにいた。
[棺の街・完]
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