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魔王が百三十人の子供を町から攫っていってから
二七二年の後、この門は建立された。
----ハーメルン市の新門に刻まれてあるラテン語碑文
雲は風に流されながら、光の綿のように絡み合って、薄色をした東の空へと流れていた。
夕風にそよぐ草の間に伏せっていたアドリアンは、片手をついて、半身を起こした。
口許を拭うと、アドリアンは袖にきつく絡みついたままの少年の指をほどいた。荒野は静かだった。
「祝祭の獣……!」
抗う少年は小さな悲鳴を上げて最期にそう叫んだ。そうだと認める代わりにアドリアンは
逃げようとする少年を草むらに引き倒し、覆いかぶさるとその喉に牙を埋め、子供のひ弱い皮膚を裂いていた。
はるか遠くに街の教会の尖塔が島影のように見えていた。野には風が吹いていた。その風の中に、夕暮れを奏でる笛の音色が混じった。
笛の音は次第に近づき、やがて一人の若い男の姿となった。
笛吹き男は、小さな笛から唇を離すと、アドリアンの足許に横たわっている少年を一瞥した。
「カーンビレオの騎士も堕ちたもの」
それはジョゼフィンが広場でみかけた、笛吹き男だった。笛吹き男は白髪をなびかせ、冷然とアドリアンを責めた。
「人の贄を奪うとは」
「笛の音に誘い出され、血霊に血を吸われた者は、遠からず狂いだす」
恐怖を浮かべて見開かれたままだった子供の目蓋を閉ざしてやると、アドリアンは少年の傍らから立ち上がった。
忘我の踊り、あるいは舞踏病と呼ばれる奇怪な踊りをおどりながら、少年は星を掴むしぐさで腕を振り上げ、
街からここまで荒野を彷徨い歩いていたのだ。
「情けをかけて狂った子供の息の根を止める前に、ついでに血もいただいたというわけか」
笛吹き男は軽蔑したように、アドリアンのやることを見ていた。アドリアンは少年の遺体をくぼ地に蹴り落として片付けると、
笛吹き男の許に戻ってきた。
アドリアンは黒杖を構えた。それは一振りで朱い斜光を跳ね返す黒剣となった。彼らは夕陽の沈む地平を見詰めた。
「落日の彼方を目指すことで火の扉に辿り着けるならば、お前たちを探すような苦労はしない」
「残りの子供たちはどこにいる」
「教会の墓地に隠してある。夜になれば起きるだろう」
笛吹き男は外套を払い、長剣を抜いた。
「冥府の王はたいそうお怒りである。お前の首は見せしめとして冥界の門に飾ると仰せであった。それでもお前を斃さねば
カーンビレオ騎士の座に空きは出ぬ。われらソバルトこそ、王に試されているのだ」
「お前が率いてきたエンデルたちは何処にいる」
「子爵の持つ笛を貰いうけに行った。お前が連れている娘が、まことにあの裏切り者の王妃の子かどうかを確かめに」
「答えはもう出ていると思うが」
「そのようだ」
笛吹き男が踏み出した。アドリアンの顔面に銀光が落ちた。ソバルトの剣の下に黒髪の騎士の姿はなかった。風と剣の軌跡をひいて
黒鳥のように退いたアドリアンを見据えて、ソバルトは剣を構えなおし襲い掛かった。
「あの娘の身が危ないと知りながら、お前が平然としているのだから」
街では、若者たちが古い車輪を集めて火をつけていた。
「太陽が落ちるぞ!」
炎を噴き出した車輪を足蹴にして、若者たちはそれを人々が踊っている広場に向かって勢いよく転がした。
跳ね上がりながら転がってきた燃える車輪に祭りに集まった人々は悲鳴を上げて小鼠のように四散し、逃げまどった。
油をかけた木製の車輪はよく燃えた。転がる車輪に飛び込まれた屋台が火事を起こし、慌てて人々が水桶の水を
かけるのを、若者たちは大喜びで手を叩いて見送った。新たな火の車輪が用意され、それは次から次へと広場に蹴り込まれた。
「危ない」
火の輪は石や障害物にあたると思いもよらぬ方向に転がった。母親たちは慌てて
子供を連れて安全な物陰に立ち去った。音を立てて転がり回っている塊は、燃える猫か、溶岩のようだった。
夜に向かう広場はたちまちのうちに太陽を散らしたように明るくなった。
祭りの大混乱に若者たちが喝采を上げているその影で、子供がふと気がついた。
炎をこうもりのように飛び越えて、幾つかの人影が壁際沿いに広場をすばやく過ぎていく。
「お母さん。幽霊が……」
「莫迦なことを云って。本当に幽霊が坊やを攫いにきたらどうするの」
何人かの子供たちが昨日から行方不明になっていることもあり、母親は慌てて不吉なことを口走るわが子の口を塞いだ。
喧しい音を立てて燃える車輪が広場を転がり回っているその裏路地では、ジョゼフィンと子爵が逃げ回っていた。
ぜいぜいと息を切らして、子爵は怒鳴った。
「何だこいつら、追いかけてくるぞ。おい、誰か助けてくれ」
子爵は呼ばわったが、広場での大騒ぎが、子爵の声をかき消してしまった。
「子爵さま。エンデル達です」
「なに、何だって」
「昨夜お屋敷の前にいた。エンデルは子爵がお持ちの捨て子の笛と、わたしの命を狙っているの」
「それはいかん」
子爵はジョゼフィンの腕を引っつかんで道を曲がった。屋敷へ逃げ込もうとしたのであるが、それはさらに祭りから離れ、ひと気のない、暗い道を
辿ることだった。
「反対側からも来るぞ」
物陰に隠れたが、やり過ごせるとも思えなかった。子爵はジョゼフィンを抱き寄せ、壁に背をつけた。子爵は声を潜めた。
「アドリアンはどうしたのだ。彼はお前の護衛であろうに」
「子爵さま。わたしに任せて下さい」
ジョゼフィンにも自信がなかったが、ジョゼフィンは子爵の持っている捨て子の笛と護身用の剣を求めた。
「それを貸して」
「これか。何に使うのだ」
笛と剣をジョゼフィンに渡した後で、子爵は思い直してジョゼフィンからそれを取り上げようとした。
「いや、いかん。若い娘が何をする気なのだ」
「子爵さまは逃げて下さい。この魔笛はわたしが棄てます」
「棄てる!?」
「ご無事で、子爵さま」
長い髪を翻してジョゼフィンの姿は物陰からとび出していった。
「おい、ジョゼフィン」
子爵が顔を突き出すと、ざああっと横殴りの雨のような黒い霧が眼前を過ぎて、そしてそれが通り過ぎてしまった後には、
祭りの喧騒の遠い響きだけが黄昏に残された。
五人のエンデルたちはジョゼフィンを追った。猟犬のようなその影は荒野へと逃げるジョゼフィンの背後に迫った。
野原の中の教会が見えてきた。そこでジョゼフィンは振り返り、剣を構えた。
「エンデル」
「笛を渡せ。小娘」
----ジョゼフィン。冥府を護る騎士には位階がある。下っ端のエンデルくらいは、お前でも斃せる。
ジョゼフィンに剣技を教えながらアドリアンは云ったものだ。迷うと負けるぞ。
追ってきたエンデルは、確かに五人だった。一人のソバルトに率いられ、彼らは五人一組で動くのだ。
ジョゼフィンは剣を握り締めた。護身用のこんな細い剣でどこまで戦えるだろう。昨日のように跳べるだろうか。夜風に草がそよぎ、早出の月影に少女の髪が舞った。
間近で見るエンデルたちは、人間とよく似て、そしてやはりその赤い眼は人間のものではなかった。
燃えろ 燃えろ 燃え上がれ
祭りの焚き火は最高潮を迎えていた。仮面をつけた人々は舞台の薄板を踏みしめて、誰かれ構わず
舞台の上に引っ張り上げては死の踊りを狂ったように踊った。不作の恐怖、病の恐怖、老いへの恐怖。
人々は踊り狂い、そしてその罪のいっさいを身代わりの藁人形にかぶせて浄化の焔の中に投げ入れるのだ。
祭りの焔の中に落ちた藁人形はかっと赤く燃え上がり、瞬く間に黒く変わりながら踊り狂う人々を恨みがましく睨み返してきた。
その灰は踊る人々の頭にふりそそぎ、風に流れて畑や川にも落ち、祈願と恐怖は再び人の営みに寄り添い、憑りついて、そうやって明日からまた
自然と人間は一年を過ごしてゆくのだ。
「おう、アドリアン」
子爵はかろうじてアドリアンに追いつき、その腕を掴んだ。
静まった路地から屋敷に駈け戻った泥棒子爵は家に立て篭もるような真似はせず、感心にも
留守番に残っていた家人を引き連れて、ジョゼフィンを助けに戻ってきたのだ。
アドリアンは事情を話す子爵を見つめ返した。祭りの焔のせいだろうか、その双眸は、あかかった。
「笛は」
「あの娘のことが心配ではないのか」
怒って子爵はアドリアンの胸倉を掴んだ。
「笛のことなど気にしている場合か。笛はジョゼフィンが持って行ったが、そのエンデルとかいう連中はジョゼフィンの命を
つけ狙っているそうだ」
子爵はぎょっとして手を引いた。アドリアンの衣が血で濡れていることに気が付いたのだ。アドリアンは子爵と子爵の連れてきた家人を
押しのけ、広場とは反対方向へと歩き出した。
「おい、何処へ行く」
子爵は追いかけた。月光が氷のように流れる地面をひと蹴りしたと思ったら、先をゆくアドリアンの姿はもう闇の中に消えていた。
ジョゼフィンの髪をエンデルの剣が掠めた。はね飛ばされた剣は、弧を描き、教会の壁にぶつかって落ちた。剣を奪われた
ジョゼフィンは、咄嗟に捨て子の笛を取り出した。
「よらないで」
「そんな笛一つで、抗うつもりか」
エンデルに囲まれたジョゼフィンは唇を笛にあてた。最初はすすり泣くような音が出た。
夜の荒野に透きとおるような笛の音が流れ出した。ジョゼフィンの息がふるえた。わたしの知らない父母のうた。
この笛と共に秋の朝修道院に預けられた。アドリアン、気がついて。
「この娘をどうする」
荒野は月世界のように静かだった。エンデル達は少女から笛を取り上げ、捕らえたジョゼフィンを引き立てた。
「そこの教会で検分しよう」
夜の教会はあやめも分からぬ漆黒の闇だった。物音に、祭壇の裏からふらふらと、小さな影がまろび出てきた。
ジョゼフィンは彼らに見覚えがあった。鼠をくれた街の子供たちだ。血霊たちが血を吸うつもりで教会に隠していたのだろう。
子供たちの眼はうつろで、痩せこけたその顔色は夜眼にも土色だった。
「その子たちをどうするの」
ジョゼフィンはエンデルを睨み上げた。声なく嗤ったエンデル達の眼は、子供たちではなく、ジョゼフィンの白い喉に向けられていた。
「笛吹き男が呼び寄せるのはあなた達の生贄。遠国で行方知れずとなった百三十人の子供たちは、冥界から大挙して
こちらへと渡った血霊たちの、その最初の犠牲者だったのではないの」
血霊は定期的に人間の血を吸うことで、その姿かたちを人間世界に保つ。下級血霊のエンデルたちは
死ねば灰となる。吸血鬼伝説はそこから生まれた。
「ソバルト以上ならば、その構造は人と霊の特性を併せ持ち、より人間に近く擬態する」
アドリアンはちらちらと彼らに秋波を送っている浮気な紳士や貴婦人たちを指し示した。見てのとおり。
「お前は、本当に王妃の娘なのか」
「アドリアンがしもべにした、ただの村娘なのか」
「血を吸ってみれば分かる」
エンデル達は担ぎ上げたジョゼフィンを祭壇に横たえた。子供たちがぼんやりと見ている中、赤い目をしたエンデルたちはジョゼフィンに覆いかぶさり、
少女の襟を開いてその白い喉をあらわにした。
「笛吹き男は帰ってこない」
闇に沈む聖母像の陰から、若い男の声が響いた。教会の中に夜が切り込むようにして、高窓から影が落ちた。着地点に閃きが見えたと
思ったらそれは隼のように飛来して、彼に背を向けていた一人のエンデルがのけぞり、塵となって消えていた。
「アドリアンか」
エンデルは二手に分かれて祭壇から飛び退いた。彼らに剣を構えるいとまも与えず、アドリアンの剣圧は流れるようにエンデルを襲った。
突っ立っている子供たちの頭上を突風が過ぎた。エンデルの首が天井近くにまで刎ね上がった。投石された石のようにしてその首は椅子の間に重い音を立てて
転がり落ち、そこでかき消えた。
「ジョゼフィン」
アドリアンは祭壇からジョゼフィンを引き起こし、その手に剣を持たせた。
「アドリアン」
「エンデルならお前でも斃せる」
ジョゼフィンは祭壇から降りて、覚束なげにエンデルに立ち向かった。
最後に残されたエンデルはジョゼフィンを認めると、ジョゼフィンに迫った。それを反映するかのように、ジョゼフィンの眸は金色を帯びていった。
真上から落ちてきた剣をジョゼフィンはからくも避けた。が、そのわき腹をエンデルの剣が斬っていた。
斬られたというよりは殴りつけられた衝撃に、ジョゼフィンは勢いごと吹っ飛んで、椅子をはね飛ばし、教会の片隅に転がった。
顎を強打し、眼がくらんだ。ざくりと開いた傷口から血が出ているのが分かった。血霊の剣に斬られたそこは、燃えるように熱かった。
ジョゼフィンは剣を引き寄せ、それを杖に立ち上がろうとした。真後ろにエンデルが立っているのが分かるのに、膝が思うように動かず、
石と化したかのように脚が重かった。エンデルはそんなジョゼフィンを見下ろして、アドリアンに向き直った。
「これでも、王妃の娘か」
「そうだ」
アドリアンは説法壇に腰掛けて床でもがいているジョゼフィンを上から見ていた。夜の教会は盗まれぬように金気のものをすべて仕舞い込んで
鍵つきの網戸に入れているので、聖母像と十字架の他は奥に何もなかった。
「冥界の王は、王妃のかわりにこの娘を花嫁に望んでおられる」
「他をあたれ」
アドリアンは壇から降りて倒れているジョゼフィンの手から剣をもぎ取った。ジョゼフィンは苦しく仰いだ。
「アドリアン……」
「一人は外で斃したと云いたそうだな」
教会の中にいたエンデルは四人だった。
「護身用の小さな剣しかなかったのよ」
「それで。そのざまを見たら、それもまぐれだったとしか思えないが」
「こんな時にも憎まれ口を忘れないのね。教えてもらったとおりにやったつもりなのよ」
「じっとしてろ。すぐに傷はふさがる」
ジョゼフィンは眼を閉じた。あとで盛大に貧血を起こすだろう。そうなったらその時には。窓の向こうに夜を流れる雲と、青い石のような月が見えた。
ジョゼフィンの眼が、子供たちに向けられた。
「ソバルトは戻らない。融解する前に荒野で死体が見つかれば、笛吹き男が子供を攫った祝祭の獣ということで片がつく」
「アドリアン。裏切り者」
エンデルは吼えた。
「王妃が堕落したのはお前のせいだ」
「鎖であの女を冥界に縛り付けていた王に云え」
アドリアンの声に潜んでいる思いがけない怒りの烈しさに、ジョゼフィンは壁際から眼をあげた。訊ねることが何となく怖くて出来ないままでいる。
(カーンビレオの騎士は王妃を愛していたの?)
一度だけ剣を手に遊ばせると、ソバルト目掛け、アドリアンは床を蹴った。薙ぎ倒されるように教会の椅子が倒れて砕けた。
エンデルのからだを突き抜けるようにして向こう側に抜けた黒髪の騎士は黒剣を床に突き立てて動きを止めた。
「血霊はいつまでもお前を追うぞ。アドリアン。呪われた裏切り者よ」
崩れ去るエンデルの赤眼は、アドリアンに続いて、ジョゼフィンもとらえた。その指がジョゼフィンに突きつけられた。
「王妃の罪を、その娘にあがなわせるために、追い続ける」
剣を杖と変えてアドリアンが持ち直した時には、エンデルは塵と消えていた。
祭りの山場が過ぎて、焚き火の周囲に折り重なって泥酔し、眠っていた人々は、明け方の風に混じるその匂いに顔を上げた。
「火事だ……」
「野原の中の教会が燃えている」
赤い星がそこに落ちて焔を上げているかのようだった。
「見ろ、子供たちが」
燃えている教会の道から、行方不明になっていた子供たちが泣きながら歩いて帰ってくるところだった。
翌朝、教会の焼け跡が調べられた。子爵も様子を見に来た。
「一人だけ男の子が帰りません」
「しかし遺体もないのだな。後で捜索隊を組むとしよう」
「街に戻った子供たちは何も憶えていないそうです」
焼け跡にジョゼフィンとアドリアンらしき遺体もないことを確かめると、自分でも奇妙なほどほっとして、子爵は十字を切った。
(何があったか知らぬが、さてはあの笛、そうとうな因縁ある品だったのだな。危ういところを免れたというわけだ)
朝焼けの荒野は、別の星のもののようだった。子爵は風吹く荒野の果てを眺め遣った。どれほど眼を凝らしても
街を立ち去った青年と少女の姿はもうそこには見つからず、笛の音も聴こえてはこなかった。
『お従兄さま。子爵さま』
手紙はいつものように、そう始まっていた。
修道女の手蹟は、古ぼけた修道院の書斎の黴臭さを隠すために、いつものように押し花が添えられていた。
『変わったことがございましたので、子爵さまのお慰みに、そのことをお話したいと思います。
修道院に隣接しております孤児院ではたらく老女が体験しましたことです』
孤児院にいる女子の教育と管理も尼僧長の役目だった。
『その者は厨房にながく勤めている老女で、古い時代のことをよく知っております。その老女が、死んだ少女の幽霊を見たと云うのです』
「笛の音が」
「ほら、不気味な笛の音がしております。近づいてくる」
「尼僧長さま」
「静かに」
夜をぬって鳴り響く笛の音を怖れ、修道女たちがおののき騒ぐのを、ぴしりと尼僧長は制した。
予期していたことだ。しかしまさか本当にやるとは。かといって、麓の村の村長が真っ赤な顔をしてあれを吹き鳴らしているとは云えない。
尼僧長は修道女たちを集めた。
「知ってのとおり、遠い国で子供たちが笛の音に誘われて帰ってこなかったという事件がありました。そういった噂が広まるれば、必ず
悪心をおこし、いたずらに模倣する者が出るものです。落ち着いてあの笛の音をよく聴いてご覧なさい。ほら、息継ぎをしている。
人間の仕業である証拠です。朝まであのまま頑張って吹き続けるようならば、その時こそ、それは人ではなき者の仕業でしょう」
理性的な説明は効果絶大だった。得心いった修道女たちの顔にはひそかな微笑みが浮かんだ。
「あのような悪戯に惑わされてはなりません。夜のお祈りにお戻りなさい」
修道女たちを立ち去らせると、尼僧長は歩廊に出て行った。
薬草を植えた菜園と石垣の塀の向こうは、黒々とその枝葉を夜空にのばす森だった。槍の穂先を並べたような魔の山が雪の稜線を星空に刻んで
銀灰色に月の光を浴びていた。真珠色の雲がわずかに流れるほかは、満天の星の夜だった。
笛の音は続いていた。銀河から降るような神秘のその音色に、尼僧長は目蓋を閉じた。
流れる笛の音はつめたく澄んで、清流のごとくに寂しく心に沁みた。これは村長ではない。誰が吹いているのであれ、この音の響きを吹き鳴らしている者は
この星月夜にふさわしき、流浪の楽人だ。
「……尼僧長さま」
下男が角燈を掲げて近付いてきた。彼も巧みな笛の音に遠慮するものか、声を落としていた。笛の音は止んだかと思うとふたたびはじまった。
「様子を見てまいりましょうか」
「いいのです」
尼僧長は首をふった。
「明け方まで吹くわけもない。放っておきましょう」
はたして、星を残した空が白む頃、笛の音は静かに森の奥へと遠ざかり、消えていった。
机に向かって仕事をしながら起きていた尼僧長は、最後の一音の余韻まで聴き終えると、ため息をついて組んでいた指をほどいた。
寝る支度をするにはもう夜明けが近かった。休むことは諦めて灯りに獣脂を少し足し、まだ暗い中、尼僧長は書面台にふたたび向かった。
房の戸が叩かれた。
「誰です」
「尼僧長さま。起きていらっしゃいますか」
払暁とともに起床して働いている厨房の老女だった。その声に尋常ではないものを感じ取り、すぐに尼僧長は戸を開けた。
立っていたのは以前、遠方からの問い合わせにつき、昔のことを訊ねたあの老女である。
「尼僧長さま」
わなわなと老女はふるえ、もどかしく何かを云おうとした。尼僧長は落ち着いて問い返した。
「どうしました」
「あの件についてわたくしが申し上げたことには、黙っていたことがございます」
「異国のご老人の手紙のことですか」
「はい」
一代で財を築いたその老人は二ヶ月ほど前、修道院からの返事が届いてほどなくして亡くなったという。養子となった跡継ぎは
葬儀の後、老人の遺言だといってまとまった金額を修道院に寄与した。
「五十年前の流行病では孤児院の子どものほとんどが死んでしまい、そのうちの一人である修練女の遺体が
地下の納骨堂から盗まれたままになって戻らなかった。それこそが手紙の老人の姪である。そこまでは聴きました」
話を整理しておいて、尼僧長は老女を促した。今さら何をきこうと異郷で老人も天に召され、この孤児院にいたという老人の姪も、とうの昔に死んでいるのだ。
「他に何かあるのですか」
「修練女は生きておりました」
「何ですって」
「生きて……生きておりました。あの頃のまま。少女のまま。さっき庭で逢ったのです」
「誰と」
「納骨堂から消えた修練女です」
老女は動揺のあまり、いつも前掛けに入れている木べらを片手で握り締めていた。尼僧長は無言のまま、老女の顔を眺めた。
窓の外はしだいに明けて、空は水色に変わろうとしていた。尼僧長は椅子を引いて立ち上がり、灯りを消すと、
窓を開けた。ひんやりとした朝風が開いた窓から吹き込んできた。灯りを消したことにより室内は灰色を刷いた薄闇の中となった。
窓の向こうには、うす青色に広がる朝の菜園が見えた。野菜や薬草を植えてある菜園は果樹園もかねていた。
尼僧長は窓枠に手をついた。以前から考えていた。菜園も煉瓦塀で囲っておこう。境界線として石を並べてあるものの、下男の云うとおり、
部外者の侵入に対してこれでは無防備すぎる。
「ジョゼフィンでした。間違いなく」
木々の向こうは人の通わぬ深い森だった。笛の音に惹かれて老女は庭に出た。消えてゆく霧と共に、夢の続きのようにして
笛の音について行きたかったが、それはもう叶わぬ願いだった。
枯れ木のように老いた女はその少女の名を、数十年ぶりに口にした。空にはまだ星が残っていた。朝露と花の中に少女は立っていた。
「わたしを憶えているの?」
少女の方も老女を憶えているようだった。朝風に少女の髪がふわりと流れた。
「修道女の眼をぬすんで、台所でこっそりお菓子をくれたわ。云うことをきかないと木べらで殴る真似をしながら追いかけてくるのよ」
あの頃は子供たちよりも早く走れた。緑の庭をどこまでも走れた。老女の頬を涙が伝い落ちた。鳴り響いていた笛の音が遠くなった。
少女は朝の風に葉を揺らしている梨の木を見上げた。それから外套の頭巾をかぶって顔を隠し、朝霧の向こうへと去っていった。
[祝祭の獣・完]
各話冒頭文・阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男」より
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