幻想譚

[夜を奏でる]
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Yukino Shiozaki

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■夜を奏でる



 太陽は沈もうとしていた。
山の稜線に触れた日輪が四方に広げる輝きに、空は色を変えて燃えていく。
 手琴の音が零れた。
 庭園を望む廻廊に、弾き手はいた。
エキゾチックな風貌をこの土地の衣服で包んだ若い吟遊詩人だ。
若者は黄昏を唄っているのだろうか。
内庭も今は斜光に浸されて、花の色も見分けがつかぬ。
風に潮の香りが混じるのは、港が近いからだ。
今頃は入港した貿易船が波の上に帆の影を落とし、
荷の陸上げが橋渡しを揺らして続いていることだろう。
港町では早くも次の航海の漕ぎ手を募り、元締めが眼をつけた船乗りどもに声をかけていることだろう。
宴の支度のざわめきが屋敷の奥から洩れている。
貴族の屋敷では日に幾度となく新鮮な魚や果実が運び込まれ、贅を凝らした夜会が繰り広げられる。
山の手だけではなく、祭りともなれば下町の窓という窓が開き、人々が花を投げ、酒を飲み、
狭い街路にひしめいて浮かれに浮かれて踊り明かして繁栄を称える。
そんな栄華を極めたこの都に訪れる、今日の黄昏を、若者は唄うのだろうか。


 とろりと光に沈む庭園に彷徨い出てきた人影に、若者は抱えた手琴を持ち直した。
もう何度もこうして見かけている女なのに、その都度あれはあの人ではないのだ、そう自分に
苦く言聞かせるのは、似ても似つかぬのに見間違えてしまう、寄る辺ない様子のせいだろうか。
 もう何年も昔のことだ。今よりももっと向こう見ずで若かった。
 流離いの途中に立ち寄った、寒い北の国だった。
暗い夕暮れ、きらめく夕映えにも見放された短い夏の闇の庭。
あのひとはそこに居たのだ、と若者は弦をはじく。
 「一体何をしているのです。冷えた風も夜の霜も、何もかも
  貴女の身体には悪いのに。寒くはないのですか」
 恥かしそうに振り向いた女は、手にした白い花を胸元に寄せるようにして
軽く頭を下げた。こちらに歩いてくる様子も、かえって背後の闇に捕われて
攫われていきそうな、そんな頼りないものだった。
 舌打ちした若者は庭に駆け下りざまその腕を掴んで、開け戸の内に引っ張り込んだ。
掴んだ女の腕の冷たさがなおさら若者を怒らせた。
 「出歩くと身体に障るといつも言っているのに、自分で分らないのですか」
 あの頃、あの女はもう三十を幾つか過ぎていたはずだ。
お抱え楽師として彼を雇ったその屋敷の主人の親族にあたり、
生来の病弱から嫁ぎ先を離縁され、引き取られた屋敷から外に出ることもなく、
煎じた薬草を大人しく飲み、ゆっくりと余命を数える日々を送っていた。
 首筋の細い、眼ばかりが澄んだ、疲れた少女のような女だった。
 「夜が近づくと」
 女は摘んだ白い花を若者に見せた。
 「庭の一隅に、ぼうっと白い塊が現れるのが不思議でした。
  骨のようにも、蝶のようにも、魂のようにも見えるのです。お花でした」
 「それの名前は『迷い花』というのです。日が沈む頃に咲いて、
  月が高くなる頃には萎んじまう。
  いつ咲いたものか分らない愚かな花だというので、そんな名前がついたのです」
 「迷い花」
 「旅人が森の中で子供の幽霊と間違えたからついた名前だともいわれています。
  どちらにしても、陰気な花だ。好きじゃない」
 それから、もう何度か交わした戯れの口づけをしてやったが、
女はいつものように別段それに心を動かされることもなく、甘い吐息一つ洩らすでもなく、
かといって若者を振りほどきもせずになすがままに受けて、花を抱えなおした。
 女はしげしげと薄い花びらに魅入り、そして慰めるように呟いた。
 「日没から月が中天に昇るまで。穏やかで静かで、いちばん恐い時にだけ咲くのね」。


 その晩から女は床について、それから幾日も経たぬうちに逝ってしまった。
 (年中寒いあの国の、凍りついた青い大地の下で、今も姿そのままに
  眠っていることだろう)。
 暇を乞い、すぐに旅立った。南へ南へと、見る景色の色が次第に濃くなり、空が蒼くなり、
風に熱が混じり、人々の肌の色が変わり、
溢れかえる眩しい光に満ちた、何もかもがたわわな海の都へとやって来た。
 それなのに夕暮れになると、ああしてほっそりとした女の亡霊が眼の前に現れる。
 自嘲含みで庭にそれを見下ろしながら若者がふたたび手琴を奏でていると、
廻廊の端からなじみの少年が駈けて来た。
 「邪魔してごめんよ。奥方さまがあんたをお呼びだ。
  今夜の夜会につけて出る、髪飾りを選んで欲しいんだって」
 若者は適当に応えた。
 「いつものように白孔雀の羽がお似合いですと伝えてくれ」
 「駄目だよ、ちゃんと一緒に来てくれなきゃ。どうせ他にもいろいろあんのさ。
  お気に入りのあんたの顔が見たいんだろう」
 諦めて手を止め、肩をすくめて立ち上がった若者の視線の先を辿り、少年は騒ぎ立てはじめた。
 庭園に若い娘がいた。
 薄闇の中でも鮮やかな緋色の服を引きずり、金色の豊かな髪を
背中に流して一人歩く様は、羽根を切られた紅い鳥のようだった。
 「何てだらしがないんだろう」
 少年は軽蔑をたっぷりこめると、顎をそびやかした。
 「こないだなんて、真昼間から、身を乗り出して通りを眺めていたんだって。
  肌が悪くなるから女は普通、日光を避けるものなのに。
  めかけなら妾らしく、普通は奥の間に引っ込んで控えめにして、出しゃばらないものなのに。
  我が物顔で毎日ああして庭をうろつくなんて、何様のつもりなんだろう!」
 「随分嫌うんだな」
 若者は軽くいなしたが、少年はむきになって言い募った。
 「当り前さ。みんな言ってる。ご主人様があいつに飽きて放り出すような
  ことがあったら、その前にみんなで散々に殴って、身の程ってやつを
  思い知らせてやろうってさ。元は二束三文の奴隷なんだよ、あいつ。なのに何で
  俺たちが仕えてやんなきゃいけないの」
 「ご主人さまのお妾だからさ。美人なのはお前も認めるだろう」
 「ちぇっ、俺が挨拶してやっても、知らん顔でおつに澄ましてんのさ」
 気にいらないのはそこらしい。
若者は少年の額をちょっと叩くと、先に立って歩き出した。


 娘は若者が少年と共に廻廊から姿を消すのを遠目に見ていた。
弦の響きが、寄せる満ち潮の迫りのように耳に残っていた。
いつも夕方になるとあの若者はああしてあそこに腰を掛け、手琴を弾くのだ。
そして娘はそれを聴きながら、四方を囲まれ、逃げ場のない屋敷の内庭をゆっくり、ゆっくりと歩くのだ。
 (さざなみのような音を弾く)
 緋色の衣の裾を軽く持ち上げ、いつの間にやら覚えてしまった旋律の
一節を口づさみ、娘は暮れる空を仰いだ。
 淡い幻のような三日月と、砂金のような星が大空に遠かった。
吹き付ける宵風に娘の髪が金色の蜘蛛の巣のように広がった。
娘は唇を動かした。
 「兄ちゃん、星が出たわ、急いで帰らなきゃ」
 想い出がちゃんとそれに応えた。
 「そっちは俺が持つから、軽いのを持ちな」
 波が満ちてくるまでに浜辺に干した海草を取り入れるのは幼いきょうだいの
仕事だった。兄と共にそれをかき集め束にして背負い、貧しい海辺の小屋に急ぐ。
 「兄ちゃん、ほら星がもう五つも出てる」
 「あっちは都のある方だ」
 「いつか、都に行きたい」
 小さな漁村にも或る日戦火が伸びてきて、男たちと老人は押し込められた小屋ごと焼かれた。
妹を連れて逃げようとした兄は妹の見ている前で斬り殺された。
奴隷商人の手に渡り、流れ流れて、何年経ったか。
 (あの音色を聞くと、泣けてきてしまう。そして優しい気持ちになるわ)
 あの漁村が何処にあったのか、夢の中ですらそれを確かめる術もない。
たとえ戻れたところでもう何も残ってはいないのに。
 (ふるさとがあるような気になるわ)
 娘は微笑んで、明かりが灯され、夜会の支度に賑やかな屋敷の方へと踵を返した。
 やがて夜半を過ぎる頃、金色の髪を主人の床に広げた娘は、仰向けになったまま、
また若者の手琴の音を聴くだろう。
庭園を隔てた一室で、窓辺に涼みながら奏でられるその音に、
静かな波の音を想い、天井に揺らぐ月の光のせせらぎを見つめながら、
娘は安らかな眠りに落ちていくのだ。


[夜を奏でる/了]

(あとがき)
これは前身サイト初期に設置していた「浪漫部屋」に掲載していたもの。
元ネタは学生の頃に書いたもので、マイメロディのノオトに書かれておりました。
処女作にはすべてがあるとかよく言われておりますが、
基本的な嗜好がその頃すでに定着していたようで、原点的な一編といえるでしょうか。
エキゾチックという単語に古臭さを感じて笑えます。
原本では、吟遊詩人の名前がエリオットで、妾の名前がデビアということになっていました。


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