[日蝕の王]
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Yukino Shiozaki

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■\.


 
 シャージン王子は王の前に立ちふさがった。よせ。罠だ。
夕闇迫る水の平野には土を掘って遺体を埋めている音が低く響き、
蒼を重ねた夜空には、星がちらちらと輝きはじめていた。
 夕刻になって予告どおりカーリスから使者が送られてきた。
解放されたレムリア兵の捕虜がもたらしたその書文を一読するなり
シャージン王子は王に追いすがり、王を引き止めた。
「王。これは罠だ」
 野営の篝火が夕陽の名残のように点々と大地を染め上げて、山々は
黄昏の空に黒い影となっていた。
 武装を整え終えた王はハクプトが用意した踏み台をのぼり馬上の人となった。
馬の前に両腕を広げてシャージン王子は邪魔をした。
「ジャルディン王」
 天幕を囲む篝火が王の金兜を濃い色に染め上げた。王は馬鞍から
シャージンを見つめ返した。兜の下の王の眼は落ち着いていた。まるで
神話の中の英雄のようだった。
「予が戻らなければその時は、シャージン、貴方が王に」
「何を云う」
「あとを頼む」
「ジャルディン」
 王を乗せた馬は一声嘶くと、またたく間に赤い星を散らしたような火の野を
超えて夕闇の中に駈け去り、彼らの視界から消えてしまった。
「後を追うなと云われたが、そうはいくか」
 シャージンは荒々しく辺りにどなった。
「ハクプト、精鋭兵を選んで招集しろ。王の援護に向かうぞ」
 王の侍従からの返事はなかった。シャージンは振り返った。ハクプト少年は
不慣れな手つきで革の防具を身につけていた。
「何してる」
「わたしもお連れ下さい」
 鎧の上から剣帯をかける少年の顔は、覚悟を滲ませて引き締まっていた。
「わたしは王から剣の稽古をつけてもらいました」
「分かった」
 王子は時を無駄にしなかった。
「足手まといは不要だが、今度だけは特別だ」
 シャージンはハクプトの馬を見繕ってやるよう、配下の者に指示をとばした。

 
 二度と航海には出ない。
 海から陸にあがるたびに船乗りは女たちと唇を合わせてそう誓う。
そして彼らはふたたび黄金の国を夢みて船に乗る。沈む太陽に見果てぬ理想郷を
追い求め、夕暮れに燃える幻の海原へ、ありとあらゆる明日を探して舵をきる。
 海鳴りが地の底から轟いていた。
 もとは古代の燈台であったと思しきその砦は、何百年という年月に
半壊した姿で絶壁の上にあった。往時には松明を燃やして沖合いの船に
陸の位置を知らせていた要衝も、航路が変わった為に放置されて久しい。
 夜の森を抜けて海岸に辿り着いたジャルディンは、そこで馬を降りた。
目立った処に人影はないが、かなりの数の敵兵が辺りに潜んでいると思われた。
 明るい色の雲がせわしく流れる月の下、下方に波が渦巻く無人の吊り橋を渡り、
盾と剣を手にジャルディンは砦の内部に脚を踏み入れた。半ば崩れ落ちた
天井の穴からは、夜空が見えていた。
 外の波の音に、獣の唸り声が混じった。
 招かれた者を導く火が暗い廊下の中央に間隔を空けておかれており、
それは無人の奥へと続いていた。獣の唸り声は突きあたりの扉の内から
聴こえていた。女の悲鳴と、幼い子供の泣き声がそれに混じった。
「ようこそ」
 重たい扉を開けたジャルディンは三方が囲まれた檻の内側にいた。
獰猛な獣の咆哮がおこった。檻で隔てられた仕切りの向こうには、動き回っている
巨大な虎と、途中で倒壊した石柱、そしてその柱の上に乗せられているエトラと
小さな男の子がいた。
「勇敢なジャルディン王。一人で来たね」
 カーリスの声は高いところから落ちてきた。広間を囲んで見下ろす二階の
回廊の窓にカーリス王子はいた。
「坊や、坊や」
 女の悲鳴はその反対側の張り出し窓からのものだった。背後の扉を閉ざされて
閉じ込められた露台には、広間を見下ろして身も世もなくうろたえている
アウロデニア姫がいた。
 獣が唸り声を上げた。虎は身を低くすると、赤々と燃えている篝火の影を横切り、
生贄目掛けて凶暴に跳び掛った。
 柱の上に立たされたエトラは子供を抱きかかえ、柱の端ぎりぎりに退り、辛くも
虎の鋭き爪を逃れた。着地した虎は向きを変え、すぐにもう一度高く跳んだ。
エトラはそれも避けた。
 虎が壁際にさがると、泣きわめいている子供を抱きかかえたままエトラは
よろめいて立ち上がり、こちらも泣きそうな顔で夜の砦に現れた男を見つめた。
髪の毛は乱れ、子供を抱く腕は疲れて顔色は青褪め、衣は昼間のままだった。
柱の上から掠れた声でジャルディンの名を呼ぶ王女は、凍えた一輪の花のようだった。
「ジャルディン……」
「カーリス!」
 癇癪を破裂させたアウロデニアは反対側の窓にいるカーリスに指を突きつけた。
「坊やに何をするの。殺す気なの。今すぐにあの獣を殺して坊やを返して。
お願いよ、カーリス。このとおりよ」
「へえ、高慢ちきなあんたでも誰かに頭を下げることがあるんだ」
「ふざけないで、カーリス」
 虎の動きも気になるアウロデニアは、せわしく下の広間を見ながら、カーリスに
対して怒りをあらわにした。
「卑しいギルガブリア女の血を引くお前など、弟だと思ったこともない」
 虎は壁際からふたたび柱の上の獲物に狙いをつけた。
「きゃあ、坊や」
 アウロデニアはかん高い悲鳴を上げて、届きもせぬのに下方の広間に向けて
両手を伸ばした。
「坊や。わたくしの坊や」
「ご安心を、アウロデニア姉上」
 カーリスはアウロデニアに呼びかけた。
「その虎は餌付けした人間には咬みつきません」
「あのように昂奮した猛獣にそれが通じるものですか!」
「おや、よくご存知で」
「お母さま、怖い」、子供が母親を見上げて火がついたように泣いた。
「アウロデニア、綱を投げて」
「そんなものあるわけないでしょう!」
 アウロデニアはエトラにどなり返した。
「エトラ、何もかもお前のせいよ。ひっ、危ない」
 虎は跳躍した。その爪がエトラを倒したとみえた。子供を抱いたエトラは
反対側へ身をひるがえして虎の攻撃を逃れた。エトラは息を切らしていたが
子供を放さなかった。その一部始終を真剣に追っていたカーリスは、口調
やわらかに上から手を叩いた。
「よく避けたね。いい見世物だよ、王女さま」
 剣と盾を手に、ジャルディンは上階を睨んだ。
「カーリス、檻を開けろ」
「王。あんたには選択肢がある」
 窓に立ち上がったカーリスは、窓枠に片手をかけて、王に示した。
「虎と闘うか、それともその子たちを見捨てて陣に戻り、明日からまた戦うかだ」
「檻を開けろ」
「だろうね」
 カーリスは軽く肩をすくめ、天井近い処に控えている者たちに合図を送った。
 ジャルディンと猛獣を隔てている檻が、がらがらと引き上げられた。後ろ足で
立った成獣の大きさは優に男の背丈を越えていた。一撃でもまともに浴びれば
骨が砕ける。ジャルディンは盾と剣を構えた。
「ジャルディン」
 エトラが声を上げた。虎は重たい音で床を蹴り、ジャルディンに向かってきた。
掠めた虎の前脚を盾で受け流したものの、ものすごい力でジャルディンは
盾ごと壁に叩きつけられた。
「はやい内に仕留めないと勝ち目はないよ」 
 カーリスが冷静に告げた。王兜をかぶった戦士は剣を持ち直した。
カーリスの耳にラザンが何ごとかを囁きに来た。
「先刻から砦の外が騒がしいと思えば。シャージン兄上か」
 カーリスはちらりと対面のアウロデニアをうかがった。アウロデニア姫は
両手を握り締めて、階下の闘いを穴のあくほどに見つめていた。


 海崖にぶつかる波の音に、烈しい剣戟の音がおこった。
レムリア兵を引き連れて乗り込んできたシャージン王子は、いかにも彼らしい
猪突猛進で、悠長に「王を返せ」などと交渉することもなく、燈台砦の周囲に
隠れていたギルガブリア兵を片っ端から退治してのけると、松明を手に
廃墟の中から出てきた兵にまで襲い掛かった。
 カーリスの郎党が吊り橋の上でシャージンを出迎えた。
「レムリアの王子とお見受けいたします。カーリス王子より、中に案内するようにと
仰せつかっております」
「案内だと」
「姫さまがたもお揃いでお待ちです」
「ちっ」
 剣を腰におさめ、槍を片手にシャージンはギルガブリア兵の後について歩き出した。
「シャージン様」
 後に続こうとするレムリア兵をシャージンは追い払った。
「お前たちはそこで待っておれ。夜明けまでに王と俺が戻らなければ、
あの砦に火を放て。皆殺しにして構わん」
 乱暴なことを云い捨てて背中を向けたシャージンに、一人の少年が
息せき切って駆け寄った。ハクプトだった。
「シャージン様。わたしもお連れ下さい」
 シャージンとハクプトは砦の中に入っていった。その直後、レムリア残留兵は
隠れていた新手の敵兵に包囲され、武装解除を求められた。

 獣の両眼をしっかりと捕らえ、ジャルディンは虎の正面に回り込んだ。
ごうっと獣が吼えた。下手に剣を揮えば武器を失うことになる。レムリアの王子で
あった頃、ジャルディンはよく闘技場の貴賓席から剣闘士たちの闘いを眺めていた
ものだった。飢えた獅子や虎を相手に、革鎧を着けた奴隷たちが闘うさまを。
 ジャルディンは盾を持った腕を横に伸ばした。その盾を目掛けて、虎が跳んだ。
闘牛士のごとく、ジャルディンは巨大な猛獣の体当たりをかわし、そうしながら
虎の注意をエトラのいる柱からそらして、徐々に闘いの場を柱から遠ざけていた。
「人質がいては、王もやりにくかろう。武具も不足だ」
 低い声に、アウロデニアはぎくりとした。
「シャージンお兄さま!」
 喜色を浮かべてアウロデニアは振り返った。そこにいるのは砦に招き入れられた
シャージン王子だった。向かいの窓では、後ろ手に縛られたハクプト少年が
ラザンに頭を殴られても構いもせずに、カーリスに向かって涙まじりの猛抗議を
繰り返しているところだった。
「今すぐに、王とエトラさんを無事にして下さい!」
「アウロデニア。帰国するジャルディンの艦隊を襲った武装艦は、お前の手引きだな」
「え?」
 シャージンはアウロデニアを押しのけると広間の様子を見、
「加勢するぞ、王!」
 動き回っている虎の脳天を目掛けて長槍をぶんと投げた。それは虎の背に
突き刺さった。傷ついた獣の怖ろしい唸り声が、砦中に響き渡った。
「お兄さま」
 アウロデニアは胸元に衣をかき寄せ、兄を仰いだ。
「お兄さまったら、何をおっしゃって……」
 その女の頬が信じられぬものを見て引き攣った。シャージンは腰から抜いた
剣の先をまっすぐアウロデニアに向けていた。
「お前は此処で死ぬのだ、アウロデニア」
 アウロデニアは少女のように、あどけなく愕いてみせた。
「いったい何をおっしゃっているの、お兄さま」
「レッダエスタを殺したな」
 静かな声でアウロデニアにそれを問うシャージンの眼には、男の怒りがあった。
「レッダエスタ。気に喰わぬ男だった。だがな、俺はあいつが、あいつよりも体格の勝る
俺に負けぬようにと、日夜血の滲むような努力を重ねて鍛錬していたことを知っている。
筋のよい方ではなかったが、俺に負かされるたびに、人の三倍は剣の稽古を積んでいた。
俺はそれを知っている」
「それがどうかして、お兄さま」
 虎の牙と王の盾がぶつかり合う音がした。
「女に、それも信じていた女に、虚しく殺されたレッダエスタが哀れだ。心底、哀れだ」
「待って。お兄さま」
 たちまちのうちにアウロデニアは落ち着きを取り戻した。人の疑いをかわし、
追求を無効にする態度とは、ふてぶてしさと悪知恵の回る沈着冷静、さらには
相手を徹底的にやり込める嘲弄であることをよく知るこの女は、兄に対しても
その手を使った。
「カーリスから、何か間違えたことを聞かされたのではありませんの。
まったく生まれ卑しい者はどこまでもやることが浅ましいわ。レッダエスタ王子は
わたくしと心中を図ろうとしたのですわ。それだけでなく、坊やまで道連れにしようと」
 シャージンはアウロデニアの喉もとに剣を突きつけた。
「第一王子と第二王子の死も、お前が後ろで糸を引いたことだ」
「……」
「第一王子は俺たちの兄だった。同胎の兄が王となっては、お前は后にはなれない。
第二王子には既に正妻がおり、王族直系のその妻の地位にお前は勝てなかった。
だからお前はレッダエスタに眼をつけた。后の座に据えてくれるであろう、いちばん
適任の男にな」
「云い掛かりだわ」
 アウロデニアは困惑した様子で悔し涙を浮かべた。
「誰がそんなことを云っておりますの。お兄さま、わたくしを信じて。冷静になって。
それはわたくしを陥れようとする陰謀に違いないわ」
 アウロデニアは無垢な女を装って云い立てた。だが兄の眼の中にあるのは
動かしがたいまでに凝り固まった妹姫への嫌悪ばかりだった。それを悟った
アウロデニアは、はじめて青褪めた。
 剣を向けられた女の背に、冷たい汗が流れた。
「お兄さま」
「たくさんの人間を傷つけ、多くの人間を平気な顔で踏みにじってきたお前は
何が望みだったのだ。お前は、いったい何がやりたかったのだ。
ジャルディン、あるいはレッダエスタを利用して、レムリアの王妃におさまることか。
毒虫にも言い分はあるだろう。最後だ、アウロデニア。正直に云うがいい」
 アウロデニアは喘いだ。
「違うわ。わたくしは母として、あの子を王位につけてやりたい一心で」
「誰かの為だなんだと体裁よく自分を飾り立てながら、お前は、そんなお前のことだけが
大事なのだ。良識人や善人を装うことは出来ても、お前には真の知性や良心がない。
自己顕示欲の化け物め」
 シャージンが投げた槍により手負いとなった獣はすさまじい咆哮を上げて
床や壁に爪を立てて暴れており、それに怯えた子供はついに気を失ってしまった。
子供を抱きかかえているエトラが柱の上でふらついた。
「仕方ないな」
 カーリスは上の階に向かって片手をあげた。天井の梁に待機している手勢が
頑丈な網袋を広間の柱の上に落としてきた。エトラがその中に子供を入れると、
子供は安全な場所に引き上げられた。
「アウロデニア」
 シャージンは重ねて訊いた。子供が無事になったことを見届けたアウロデニアは
意識を兄の説得に集中した。アウロデニアは一息に云った。
「どうか、わたくしの生んだあの子を、レムリアの次の王に」
「そうか」
 ややあって、シャージンは剣を構えなおした。お兄さま、とアウロデニアは
声を上げてシャージンにすがりついた。
「先手を打たなければ競争には勝てません。これまで邪魔な王子たちを
排除してきたのも、ひとえにお兄さまの為です。お兄さま、あの子はお兄さまと
わたくしの子なのよ」
「知っている」
 シャージンは吐き棄てた。
「俺とお前の子供だ。俺の馴染みの娼館にお前は娼婦を装ってもぐりこみ、
暗闇の中で俺の上に跨ってきた。だがそんなことはどうでもいいことだ。
レッダエスタはあの子をおのれの息子だと信じ、心底可愛がっていた。
その点だけでも、俺はレッダエスタに借りがある」
「……」
「アウロデニア」
「死んだレッダエスタ王子のことなど、どうでもよいではありませんの。
こう云っては何ですが、所詮は底辺にいるしかない滑稽な無能王子でしたわ。
過ぎたことを、莫迦らしい」
 アウロデニアはこの上もなく優しい笑みをつくった。
「お兄さまほどに優れた方があんな不出来な人間を気になさるなど、おかしいわ」
 シャージンはそんな妹の手を振り払った。
 泣き落としも媚も通じぬとみると、兄の拒絶を受けたアウロデニアは実に
この女らしい天晴れな表情をつくった。図太い自信に満ちた、男という男を
子供扱いして上から見下す、嘲弄を含んだ冷笑をみせた。
「まあ、どうしてなの。お兄さま」
 可笑しそうに、アウロデニアは首をかしげた。レッダエスタ、或いはジャルディン王の
后となり、実兄シャージンとの間に生まれた子供を次の王にするつもりであった女は、
この期に及んでも終極の野心を失わず、まったく怯んではいなかった。アウロデニアは
この女の特徴である、自分こそが誰よりも優れているのだという相手への軽蔑と、心ない
者にしかかなわぬ、ひややかな笑みをみせた。
「シャージンお兄さま。愚か者どもの真似などせずに、もっと視野を広く
持って下さいな」
 共犯者の笑顔を作り、アウロデニアは兄に歩み寄った。
「わたくしに任せて下さればよろしいのに」
「生まれた子供には罪はない」
「大丈夫ですわ。これからも気に喰わぬ者がいれば、根回しをして」
「安心しろ、あの子は俺が引き取ってやる。お前のような毒婦ではなく、
優しい養父母に預けて、礼節と思いやりをもった心温かい人間に育ててやる。
アウロデニア」
 シャージンはアウロデニアを引き寄せた。
「これは俺の役目だ」
 シャージンはアウロデニアに剣を突き立てた。アウロデニアが逃げる間もなかった。
女の胸から赤い毒華が噴出した。
「お兄さま」
 アウロデニアは口を開いた。剣をひいたシャージンは嫌悪の情からアウロデニアを
振りほどいた。女はよろりと前のめりに倒れかかり、両手で傷口を押さえながら
唇をわななかせた。
「……どうして。お兄さま。お兄さまだけが特別な男。わたくしは子供の頃から、
シャージンお兄さまのことだけを」
 アウロデニアは膝をついて横倒しに倒れた。シャージンはそんなアウロデニアを
冷たく見返した。アウロデニアの話が本当なのかどうなのか、それももはやどうでも
いいことだった。罪の自覚というものをまったく知らぬ女は、何としても、いかなる
手段を用いても、人を蹴り落として常に自分が上にいたいという強烈な執念により、
末期のその時、薄笑いを浮かべた。
「わたくしたちの子を王位につけるのよ。ほら、わたくしの、勝ち……」
 爪を染めた女の指が床をかきむしった。そして、動かなくなった。


 手負いの虎は狂ったようにジャルディンに襲い掛かった。
ジャルディンは振り上げた盾を獣の鼻面に思い切り叩きつけた。
盾を右に左に立てて、虎の爪の直撃をすり抜け、ジャルディンは
剣の平で獣の顔面を叩き、返す剣の先で獣に斬りつけ、すぐ退くことを
繰り返した。黒髪の戦士は壁に追い詰められていたが、それは獣の
跳躍力を殺すためだった。獰猛な獣の匂いと荒い息と尖った牙が王に迫った。
王は重量ごと盾をふるい、虎の頭部を殴りつけた。
「ジャルディン」
 柱の縁に身を乗り出して、エトラは闘いを追った。広間を囲むたくさんの
篝火が砂漠に傾く落日を思わせる色で揺れていた。獣がそこを横切った。
彼は幻影を見た。レムリアの夕焼け空を過ぎていった渡り鳥の黒い影。
「今日の試合は愉しかった」
 闘技場からの帰り道、黒髪の王子は誰に何を訊かれても、そう答えた。
振り返った円形闘技場の上空は、その日流れた剣闘士たちの血の色をして
濃厚にかがやいていた。
「ジャルディン様!」
 獣の頭突きを受けたジャルディンがふっ飛ばされた。
ハクプト少年が悲鳴を上げた。怒れる猛獣は獰猛な動きで態勢を崩した
王に噛みつこうとした。身を起こした王は虎の咥内に盾の先を押し込んで
それをかわしたが、虎はそのまま首をふった。ジャルディンは盾ごと引きずられて
エトラのいる柱の処にまではね飛ばされた。シャージンとハクプトが叫んだ。
「ジャルディン様!」
「王!」
 王の手から盾が離れた。剣は半分に折れていた。王が構えを立て直さぬうちに
後足を蹴立てて獣が突進してきた。片膝を立てた王は咄嗟に剣の柄を両手で握った。
火の粉を散らして篝火が倒れ、虎の巨体に王の姿が隠れ、虎の牙が何かを噛み
砕く音がした。
「ジャルディン!」
 暗転した視界に、一瞬だけ、こちらを見守っているエトラの姿がかすめた。
猛獣と王は組み合ったまま、床の上をはげしく転がった。火の粉がそれを隠した。
獣の下になったジャルディンの脳裡に、闘技場での記憶と、忘れていた昔の日が
交錯した。はじめて降り立った帆船の甲板。潮風と陽射しに白く乾き、空に近いところに
高く帆を拡げて、この世界に漂う小さな蝶のように頼りなく、そして風の力で強く揺れていた。
「王!」
 砦に咆哮が響きわたった。船は暗闇に潰されそうになっていた。竜巻と雷光に
翻弄されながらも、男たちの力で海原をすべり、吹きつけてくる大風に舵と帆で
立ち向かう、あれこそは船乗りの命そのものだった。ジャルディンは嵐の果てを見つめた。
そこに、小さな星がまたたいていた。
 深く暗い海の底に白光がよぎり、ふいごのような呼吸がうねって聴こえ、それは
自分のものか、圧しかかっている獣のものかも分からなかった。ジャルディンは
横倒しにした虎から万力の力で剣を引き抜くと、身を引き起こして膝で獣を抑え、
もう一度剣を四肢を投げ出して痙攣している猛獣の首に折れた刃を突き立てた。
 足を引きずりながら立ち上がったレムリアの王は、虎に砕かれた肩あてを
引きちぎり、王女のいる柱の下に立った。
「降りてこい、エトラ」
 荒い息をついていた。ジャルディンは両腕を伸ばした。
「俺のところへ、降りてこい」
 高みから飛び降りた王女は、小鳥のようにジャルディンに抱きとめられた。
床に足をつけたエトラは夢をみているような顔で、ジャルディン、と小声で呟き、
王の胸に顔を埋めた。もう二度と離れぬということだけが、互いの全てだった。
 抱擁の後、エトラは王の負傷に気がついた。
「ジャルディン、肩から血が出ているわ。こんなにも」
 その王の背後に、音もなくぬっと立ち上がったものがあった。
ジャルディンが振り向くよりも早く、王女がそれに気がついた。エトラの眼が
大きくみひらかれた。
「ジャルディン!」
 エトラはジャルディンを横に突き飛ばした。 
 ぱっと血が上がった。
 瀕死の猛獣の一撃を背中に受けたエトラは半回転すると柱にぶつかり、
金髪をふわっと広げて、床に崩れ落ちた。みるみるうちにその背に
赤い血が広がった。叫んだのはカーリスだった。上階から一斉に投げられた
数本の槍が今度こそ虎の息の根を止めた。
「エトラ!」
 ジャルディンはエトラを膝に抱き上げた。エトラの首が傾き、その手がだらりと
床に垂れた。
「エトラ、エトラ」
 慌しい音がして、見たこともないほどに動揺をあらわにしたカーリス王子が
駆け込んできた。シャージン王子とハクプトも続いて広間に駆けつけた。
「エトラさん!」
「止血だ。早く」
 湯や包帯が持ち込まれ、軍隊流の手当てを行う音が夜の底の広間に流れた。
 真夜中を過ぎて、王女の出血はようやく止まった。心臓や肺には達して
いなかったものの、獣の爪にえぐられたエトラの傷は深かった。意識のない
王女の傍から離れようとはせぬジャルディン王に、カーリスは云った。
「選びなよ、王」
 男たちの足許で瞼を閉ざしている王女の顔色は、氷の姫のように血の気なかった。
「外のレムリア兵はわたしの郎党が抑えてある。選びなよ。その子か、王の座か」
 ジャルディンは彼らが見ている中で、黙ってその王兜を脱いだ。
それが日蝕の王の答えだった。
 王に抱かれたエトラは、愛する男に逢えた安らぎすら浮かべているように見えた。
「剣を持っていきな」
 カーリスはジャルディンの腰に新しい剣を手づから与えた。
「待て……」
「動くな。砦は包囲されてることを忘れるな」
 シャージンに釘をさしておいて、カーリスは王に道を譲った。
「あんたは是非とも殺しておきたい男だけど、王女に免じて夜が明けるまでは
追手をかけないでいてやるよ。時間の問題だけどな」
 砦を出て行くジャルディンは、王の兜も、誰の姿も、一顧だにしなかった。
カーリスは、すれ違うジャルディンの腕に抱かれた王女を見つめた。
「利用するつもりで連れて来たけど、君には負けた。王女さま、おいらのエトラツィア」
 眠る王女を見つめ、幾ばくかの未練と、愛惜をこめて、カーリスはほとんど
優しい顔をしていた。淡々とカーリスは云うべきことをジャルディンに伝えた。
「この大陸を出て行きな。ここはギルガブリア領だ。いちばん近い漁村までも
徒歩で二日はかかる。一帯にはギルガブリア軍の斥候が昼夜を問わず血眼になって
不審者を探していて、敵兵を見つけしだい片端から殺している。
手負いの身で、そんな重傷者を連れて、はたして何処まで逃げられるものかな。
幸運を祈ってるよ、ジャルディン王。御身の名はとこしえに讃えられるだろう」
「ジャルディン様」
 ハクプトが追いかけようとするのをシャージンが腕を掴んで引き止めた。
砦を出て行く王を彼らは見送った。王は、王女をもう二度と離さぬと決めた
大切な宝物のようにその腕に抱いて、そうして彼らの前から永遠に立ち去った。
 燈台砦に静寂が戻った。
 夜のさざなみの音と篝火の影だけが広間を満たし、しばらくの間誰もが無言で、
動くものとてなかった。人払いをした広間は静かだった。
 残された王の金兜を、カーリスは床から拾い上げた。
「日蝕の王」
 カーリスは結わえた黒髪をほどき、砦に残された兜を両手で頭上に持ち上げた。
男の影絵が篝火に浮かび上がった。
「----見るがいい。日蝕の王が、誰なのか」
 焔が王兜をつけたカーリスの横顔を照らしつけた。それを見たシャージンは
愕きに息を呑んだ。

 虎の死骸からカーリスはレムリア王の剣を抜き取った。
刃の折れたそれを腰の鞘におさめたカーリスは、シャージンに呼びかけた。
シャージンはむっつりと腕組みをして、王兜と王の剣を手に入れたカーリスを
無言で眺めていた。敵兵が包囲している砦では、逃げることも抗うことも
今となっては不可能だった。
 「シャージン兄」
 レムリアの戦神がそこに立っていた。体型の差異を隠す厚手の黒い鎧を
身に着けたカーリスは、遠めにはレムリア王そのものだった。金兜の眼庇の
奥からひかっているその眼には、彼らの父王と同じ冷酷な威厳があった。
「シャージン兄。王の失踪が知れ渡れば、レムリア軍は敵地領内に孤立する。
帝国は危機に晒されるだろう。わたしはこの姿でレムリアの陣に戻り、臣民を
騙せるだけ騙す。今宵よりわたしは王となる。それには、貴方の協力が必要だ」
「……それしかあるまい」
 苦渋の決断を迫られたシャージンは、カーリスの云わんとする利害を
十全にのみ込んでいた。敵地にあって、敵陣に王の不在が伝わることほどの
破滅はない。シャージンは承知した。何よりも、このようなかたちで一気に
黄金の王座にのぼりつめた弟王子に対して、シャージンは反感や反発を超えた
脅威と賛嘆を覚えており、自らそれに騙されるようにして、もはやこの流れに
逆らうことはしなかった。王位継承権の刺青すらもたぬ末端の王子は、独力で
大帝国の王位をもぎとり、王冠を手に入れたのだ。
「お前が最初からこうなるように仕組んでいたとはさすがに思わぬ」
 苦い顔でシャージンは重々しく云った。
「だがレムリアにとって今はそれしかないようだ。王の不在は敵にも味方にも
知られてはならぬ。行方を消したのは、カーリス・サザレナイド王子だ。
側近と枢機卿どもには事実を知らせるが、厳重に緘口令を敷いて、少なくとも
ギルガブリアとの関係が落ち着くまでは、外部に王が別人であることが洩れるような
ことがあってはならぬ。いずれは内外にばれることだろうが、その時はその時だ。
悪い方へと転ぶなら、いつの日か、俺が贋王を斃す日も来るだろう。
カーリス、それを憶えておけ」
「わたしは偉大なる先人に劣らぬよう、努力しよう」
 黒い鎧をまとったカーリスは彼らの知る誰かと酷似したその姿で応えた。
ゆらりと揺れ動く炎が太陽のようにその姿を黄金色にふちどった。
「たとえ神の眼を欺くものであろうとも、日蝕の王としての名を、穢すまい」
 その間、ハクプトは凍りついたように彼らの近くに突っ立っていた。
少年は涙を流しながら、彼の王が去った方を声もなく見つめていた。
やがてカーリスとシャージンの視線に気がつくと、ハクプトは鼻をすすり、
カーリス王子を意地で睨んで、従容としてその場に膝をついた。
「どうぞ」
 ハクプトは首を前に出した。
「口封じに、わたしをお斬りになりたいのでしょう。親子二代であの御方に
お仕えできて、満足です」
「生意気を云うな。無事に国に帰れるかどうかの瀬戸際だぞ」
 シャージンが怒ってハクプトを引っ張り上げた。ハクプト少年の顔を
ごしごしとこすって涙を拭ってやると、彼は少年を揺さぶりたてた。
「もう泣くな。これからお前がいちばん忙しくなるのだからな」
 シャージンはハクプト少年を王の傍へと押しやった。
「ハクプト、お前は今までどおり、日蝕の王に仕えるのだ」
 シャージンはカーリスにも聴こえるように云った。
「似ているとはいっても別人なのだからな。いいか、この王があの男の名を
名乗るにふさわしい男かどうか、身近にいるお前が試金石となり、俺と共に
生涯をかけて見届けるのだ。遠慮はいらん、恨みをこめて厳しくいけ」
 大芝居をうつぞ、とシャージンは一同に申し渡した。
「ここにおられるのは、レムリアの王だ」



 誘うのは、穏やかな波の音だった。
 目覚めたジャルディンは船尾楼の扉をひらき、夜空の下に出て行った。
星々が光の帯となって海の上に流れていた。冬の銀河に思えたが、まったく
知らない海と空にも見えた。
 銀灰色の帆をかかげ、帆船はゆるやかに波の上を進んでいた。
若い女が立っている船の舳先へとジャルディンは歩いて行った。
「ジャルディン。来たの」
 エトラがジャルディンを振り返った。
 はじめて逢った時のようにエトラの髪は肩先で切り揃えられており、そのせいか
幼くみえた。ながく待たせたような気もするし、そうでないような気もした。
確かにあったはずの後悔も切実も、王女と旅をした懐かしい想い出も、想い返す
端から波の音に浚われて、誰も知らぬ遠いところへと薄れて消えていった。
「ジャルディン」
 エトラはジャルディンがやってきたことが嬉しいというように、笑顔をみせた。
 白い衣をまとったエトラは、星の女王のように船の舳先で海風に吹かれ、
ほかに動くものとてない静かな月光の海を見ていた。
 ジャルディンはエトラと並び、手すりに腕をついた。
「俺は、レムリアの王を知っている」
 銀を散らしたような満天の星空を仰ぎ、航海を導く星座はないものかと探した。
「王の中の王。俺の逢ったレムリアの王は、戦場で負った傷がもとで深い病に
おかされていた。だが彼は、骨の髄まで王だった。老いて誰に位を譲ろうとも、
あれこそは生まれながらの帝王だった」
「わたしもレムリアの王を知っているの」
 夜の海風に髪をなびかせて、エトラは隣りのジャルディンを見上げた。
「最高貴の王。傭兵にして船乗りだった」
 流れ星が過ぎた。まるで銀河の中に立っているようだった。雪のように星が
降りしきり、波の雫は花吹雪のように舞い降りた。ジャルディンに支えられて
エトラは舳先の手すりに腰をかけ、幼子のように声を上げて喜んだ。
 清んだ音で船鐘が鳴った。二人を乗せた船は浮遊するようにその速度を上げた。
「海の街に帰ったら、きっと皆がおどろくわ」
「見知らぬ国々を巡ってからでも遅くはない」
 知らない歌がそこにある。
 銀灰色の帆が風をはらんだ。夢は花になり、夜明けになり、何もかもが金色に
透けていった。ジャルディンに身をあずけ、エトラは彼らの行く手を指して微笑んだ。
「星の海に漕ぎ出したみたい」
 

 傭兵と王女の話はこれで終わる。
 何処かで彼らの姿を見たと云う者もいる。月の海を船で渡っていったのだと。
 日蝕の王は、生きる伝説となった。
 栄華の都に、朝の涼しい風が吹いていた。ハクプトは王の私室を整理し、
持ち出すことをゆるされた品を手許に集めた。父のエクレム・クロウが
黒髪の王子に教えるのに使っていた教本と、出奔前に王子が書き遺して
いった置き手紙。そこには、黙って国を出て行くのであり、教父エクレムには
罪はないこと、母の霊廟に花を絶やさぬようにしてほしいとの王子の願いが、
短い言葉で書き記されてあった。
 エクレムは蓋の開いた小函をそのままに、王の室を出て行った。
 エクレムが立ち去った後、窓から一羽の白鳩が王の間にとびこんだ。
白い鳩は、函の中に遺された飾り紐をくちばしに捉えると、色褪せたそれを
咥えて海風吹く水色の空に飛び立ち、青の彼方に見えなくなった。




[日蝕の王・完]


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