[シラクサの泉]







■シラクサの泉

 わたしは、 オルティジア島で生まれた。
 守護神アレトゥーサの正面からの顔が刻まれた10ドラクマ銀貨。これはシラクサの、鋳型彫刻工キモンの手によって生みだされたものだ。
 オルティジア島といっても、パレルモやカターニャの人にしか通じない。シラクサ生まれだと云うと、ようやく人々はこう応じる。
「それならわかるよ、競争馬で有名なところだ」
 キモンと並ぶ有名なシラクサの彫刻工エウクレイダスは、遠近法をよく理解して、動感あふれる戦車と馬の意匠を硬貨に刻んだ。 彼らが生きたのは、折りしも、精巧で斬新な硬貨が戦争の勝者や、文化水準の高さを誇る宣伝の道具として使われ出した頃だったから、 失業の心配のない職人たちは一心不乱に腕を磨き、微細で立体的な彫像を次から次へと、硬貨の上に描きだした。
 物々交換に代わって取り交わされるようになったあの小さな固い青銅に、時の皇帝の肖像、凱旋将軍の横顔、コリントスの象徴ペガサス、 智慧のふくろう、または神々の姿を、おのれの矜持をこめて刻みこむ一心には、 きっと世界創造といった神の業をふたたびわが手でなぞるような、深い充足を彼ら職人たちに与えたことだろう。
 光の祝祭の夜のこと、守護神アレトゥーサがわたしの夢の中に現れた。
 朝になって眼が覚めたわたしは、満ち足りて微笑み、水を汲んでいる母のところにまでとんで行くと、母に教えた。
 10ドラクマ銀貨の夢をみちゃったわ。
 それらは今、博物館で、白いひかりを浴びている。

 わたしの名はエウティシア。古い名だと笑う者も、もうこの世から失せ果てた。
 懐しさ限りない古代の波の音、原野の緑の葉を揺り動かす半島の風を、わたしはまだ憶えている。
 シチリア島のシラクサで生まれたことは、誰もがそうであるように、わたしの心の原風景だ。シラクサは、わたしになってしまった。 キモンやエウクレイダス、またはエウアイネトスなどの、シラクサ出身の鋳型彫刻人たちは、もういない。だが 彼らが彫った芸術的な硬貨を眼にするたびに、わたしの心はたちどころに熱い風に染まり、 あの頃のシラクサへと舞い戻る。 紡錘形の黄色い果実をたわわに実らせた果樹園。素焼きの壺と、焼き立ての平たい丸い麺麭。魚をはこぶ帆かけ舟、 石積の港の活気あった往時、紺碧の大空と、夏の雷雨を、唇におぼえた涙の味とともに、苦しく想い出す。
 神や妖精ときく時に、人々が思い浮かべるような深い森も、神秘の氷の山も、ここにはない。あるのは、半壊した劇場の址や、 石切り場、埋もれたままの導水管、考古学的にもさしたる価値のない発掘品のがらくたばかりだ。 南国の太陽は、果実の香りのする乾いた風で、わたしが生まれた時代に使われていたそれらを、ながい時をかけて風化させてきた。
 つかの間の伴侶は、かぞえきれぬほど、わたしの上を過ぎていった。
 男もいたし、女もいた。少女や少年も、老人も、瀕死の病人もいた。僭主もいれば、聖職者も、没落した金持ちも、黙って畠仕事にとりくむ農奴もいた。 気まぐれにわたしは彼らをこよなく愛し、その生涯を見守った。わたしが選ぶ者たちに共通していたのは、誰もが自立し、孤独であったこと。
 アネモネの赤く咲き乱れる戦地を彷徨い歩き、戦に出たきり戻らぬ恋人を探したこともある。夕陽の落ちる戦場に散乱した錆かけの剣や槍は、 燃える骨のようになって、やがて暗い夜に呑まれていった。
 時というものを、わたしは怖れたことがない。わたしの上には意味をもたないことだから。
「なにか話をしておくれ、エウティシア」
 老いて乾いた恋人の手足をさすり、一晩中、面白おかしい物語を語りきかせたこともある。皺ぶかい彼の手にわたしの手をからめ、 白髪あたまに接吻をして、新婚の時からそうであったように、わたしたちは狭い寝台で一緒に眠った。
 何か云いたげな彼の哀しい眸にわたしはにっこりと笑いかけ、船乗りの歌をうたってみせる。彼は漁師で、若い頃は大きな魚を両手に抱えて家まで帰って来たものだった。 エウティシアに見せてやろうと思って。得意げなその笑顔は、少年の頃から変わらない。それらの新鮮な魚は、貧しくも愉しい、わたしたちの夕餉にささげられてきた。
 漁師の日に焼けた背中や、逞しいからだつきは、もはや見る影もないけれど、老衰した彼の前にいるわたしは、永遠に若く、変わらない。
 迎えの時が近くなったことを知った彼は、枯れた声と弱った視力で、その夜も、もう何度めか知れぬ問いをわたしに優しく投げかけた。
「はじめて逢った時のことを、憶えているかい、エウティシア」
「ええ。憶えているわ」
 はっきりと。
 海鳥のように両手をひろげ、片手を海に、もう片方の手の先を町の側に突き出して、堤防の上を歩いていた男の子。
 わたしは彼の母。彼の娘である。哀しまないと誓ったとおり、わたしは最期まで、彼の前で明るくふるまう。
 不老不死とは不幸なことだと、たいていの書物にはそう書いてある。なるほど、わたしには束の間の生命を精一杯生きるといったような、健気なはかなさは ないのかもしれない。それでは、死にゆく友だちを想ってふたたび溢れ出したこの悲哀は、なんだというのだろう。
 床に落ちたままの魚のうろこが、灯りに照らされてひかり、小さな星をかたちづくっている。 愉快なお話を彼にきかせて、彼の顔の上に翳ってくる死を遠ざけ、共に過ごしたこの海辺の家を、幸福感や安らぎで満たそうとする。 壁に掛けられて埃をかぶった、銛や釣り竿。漁師が生きた証のそれら。あとに残されてしまう伴侶ならば誰でもそうするように、快復の奇跡を狂気のようにわたしも祈る。
 朝おきると、彼は死んでいる。
 ようやくわたしは涙を流し、その日いちにち泣き続け、夕方になってから葬儀の手配に立ちあがる。

 エウティシア、これをあげる。
 無意識にさぐった上衣から出てきたものは、干し果実のお菓子だった。死んだ漁師がまだ少年の頃に、はずかしそうにわたしにくれた、最初の贈り物。死の床からも、 それを求め、そしてわたしにくれたもの。
 葬儀の参列者はほんのわずかだった。わたしが年をとらないせいで、一処にながくは住めないせいだ。
 にわか雨が過ぎた港町は、潮の匂いと雨の匂いが入り混じり、空気はひんやりと新鮮だった。
 子供の声が響く狭い路地をぬけて、噴水の処にまでやってきたわたしは、疲れた脚を休め、水をたたえた噴水の淵に腰をおろした。噴水の水を手ですくい、 その手で顔をぬぐって、ぼんやりと雲の流れる町の上の空を眺める。今日の商売を終えた花売りが、手押し車をひきながら、誰かとわたしを間違えたのか、頭を下げて過ぎて行った。
 わたしの名。わたしは、エウティシア。
 何千年ものあいだ、そう答えてきた。オルティジア島の父母がつけてくれた名だ。大家族の長女として生まれ、十五歳の時にあの夢をみた。
 太陽が海原を染め上げて、かがやく燐粉を夕方の空に撒きはじめた。雲を映した水たまりが、極楽鳥の羽根を落としたように、夕焼けに鮮やかだ。 雨雲が去った海辺の町は、ひとけなく、静かのうちに家々は明かりを灯し、菫色に暮れようとしていた。
 わずかな荷物をおさめた編んだ袋を膝におき、わたしはこの先どうするかを考えた。この広場から右に進めば、船乗りたちの集う酒場になる。 陽気な男、無口な男、赤銅色の肌をした異人。だけどわたしは次の恋人を探す気には、まだなれない。
 此処は、オルティジア島。昔とすっかり変わってしまっているが、わたしのふるさと、シラクサだ。長衣や短衣をまとった人々や、ガレー船、洗濯やが尿を集める土器はもう 街角に見当たらないけれど、空の青さ、檸檬色の夕べ、影の濃さと風の匂いは変わらない。まじないのように古名を拾ってもいい。ラティウム、シキリア、シュラクサイ。 プラトンの書に名を残し、アテナイで名声を得た商人ケファルスも、このシラクサの出身だった。原住民を追い出して半島に栄えた豊かな都市カタナ、カマリナ。 百年ぶりに、また戻って来た。
 堤防の上を歩いていた少年、ジェノヴァで出逢ったわたしのつれあいは、もういない。彼はよくわたしに訊いた。君は何処からきたの、エウティシア。
「アレトゥーサ」
   町の鐘の音にかぶさってきこえた威厳ある女の声に、わたしはとび上がった。鷲掴みにされた心臓のどこかで、跳ね上がった動悸が、古い銀貨の裏表をひっくり返す。
「自分の名を忘れたの、アレトゥーサ」
 こちらを咎める声は、噴水の向こうからした。ふるえる膝をはげまして立ちあがり、わたしは後ろを振り返った。


 神話を題材にした絵画の中で、精霊の女が逃げている。むきだしの乳房とまるい尻、小さな足を見せて、女は何かから逃げている。
 はるばるやって来たその女神の名は、ここでは秘めておこう。ご存知のように女神たちの気ままな怒りは、とても怖ろしいものだから。 黒衣の貴婦人は水のとまった噴水を回ってくると、わたしの前に立ち、丈の高いところからわたしの顔をひややかに見つめた。
「アレトゥーサ。哀しいことがあったのね」
 水を湛えた水盤は、鏡となって宵の月を映し、時折そこに苛立ちのしるしの風のさざ波が立っていた。 人間の死を悼んでいることを知られたのだ。わたしは、女神の前で身を羞じた。黒衣の貴婦人はそんなわたしをみて眉をひそめた。
 鋳型彫刻工キモンがその芸の粋を捧げたように、古代シラクサの守護神は、泉の神アレトゥーサだ。アレトゥーサは、 アルペウスの川で水浴びをしていたところを、河の神アルフェウスに見つかった。
   恋を厭い、男を厭うアレトゥーサは、河の神アルフェウスもまた毛嫌いした。強情なことだ。だけどアレトゥーサはまだその感情を知らず、 その時まで同じような少女たちと野原で遊び、いずれは清い身のまま、女神に仕えるのだと思っていた。
 アレトゥーサは遠くへ逃げた。
 黒衣の貴婦人は云った。
「わたしはイオニアの海に水路をつくってお前を逃がした。だが河の神アルフェウスはなおもお前を追いかけた。 お前はアルフェウスに捕まってしまった。ここ、シラクサで」
 わたしは頷いた。オルティジア島に現れた黒衣の貴婦人は、わたしの髪に手をふれた。神にも系統があるが、ティターンの血族らしい雄々しさと癇性は、その仕草からはうかがえない。
 立派な父と兄をもつこの方は、かつて、わたしたちにとって憧れの女神だった。 遠矢の弓を片手に、アルカディアの山河を疾風のように踏破してゆくこの方の優美な姿を、わたしはよく憶えている。茨の棘が女神の足を傷つけても、 女神はさっとそれを払うだけで、テッサリアの荒野を遠くに睨み、氷の美貌を崩しはしなかった。
 はじめてみる男神とその求愛に愕きおののいたわたしが動転しながら逃げてきた時、 大急ぎで駈けつけたこの方は、真珠で磨いた腕を胸の前に高くかかげて弓をひきしぼり、河の神アルフェウスを向こうに回して一歩も引こうとはしなかった。 海と河を背後に、わたしは逃げた。そしてアレトゥーサは古代シラクサの泉の神となった。
 だがその泉の水は、月の女神の前に濁ったままだ。わたしの頭の中のように、濁ったままだ。黒衣の貴婦人は相変わらずのわたしの様子に、眼をほそめた。
「お前を憐れんだわたしは、お前を人間の娘にしてあげた」
 それはとても珍しいことなのだと、わたしも知っている。女神は決して寛容でも慈悲深くもない。

 何処から来たの。名を教えて。
 わたしは応える。
 わたしの名は、エウティシア。シラクサから来たの。
 少年は干し果実をわたしにくれた。その頃、わたしは盛りを過ぎた女声楽家と住んでいて、疲れた彼女が幼子のように眠ってしまうと、 排泄ぶつを始末して洗い、漆喰の剥げ落ちた階段を辿って下に降りて、家の扉をあけ、海へ行った。
「空腹にせっつかれて、思い切って路上に立ったら、どうだろう、ぱあんと何かが弾けたような気持ち。わたしの声に、わたしの歌に、みんなが聴き惚れて、喝采を 送ってくれるんだ。その日からはじまったのさ。自分じゃ稼ぐことの出来ない物乞いの両親に引きずられるようにして、町から町へ、流浪の民の、歌をうたって」
 いつの時代にもよくあることだが、評判が高くなるにつれて彼女の歌声は権力者に利用されはじめた。名を刻んだ硬貨のように、彼女の名声は誰かの顕示慾の役に立つ。 劇場は満員御礼。敵国を罵倒し戦意高揚に協力しろと、いつの間にか 慾得で織られた蜘蛛の巣の中で、こう歌え、ああ歌え、感謝しろと、彼女は外から求められるようになっていた。 少しでも異を唱えれば、翌日の新聞に彼女の不評が大きく載った。醜聞屋はこぞって彼女の動向を書きたて、歌い手に対する、民衆の好奇と憎悪を煽り立てた。
 わたしは路上で晴れやかに歌っていた彼女を知っていた。田舎の人たちの拍手に、破れた靴を履いていても嬉しそうな笑顔をみせた。
 わたしはアルルの病院に彼女を訪れ、そっと彼女を連れて外に出た。
「そのひと、歌声はもどったの?」
「もどらないほうがいいのよ」
 屋台で買い求めた干し果実をほうばりながら、わたしは少年と語り合った。わたしたちの真横を、船から降りた軍靴の一団がすれ違って行った。 芸人にたかり、その才を喰い尽くす悪人は古来よりつきものとはいえ、 よき後援を得て、円熟した歌い手となるには、時代が悪すぎた。女声楽家のばあい、親切な顔をして彼女に取り入った付人が、いちばん性質がよくなかった。その男は 歌い手の本当の友人や理解者を口巧く遠ざけてしまい、自分が目立つ居場所をこしらえるために、女声楽家が背負わなければならない誇大広告や、悪意の讒言に励んで回る 二枚舌の持ち主だった。
「気がつけば、女声楽家のもとには醜聞のほか、何も残らないようになっていたの。解雇された腹いせもあって、長年にわたって迷惑と苦痛を与えることで、 彼女の名誉と健康と家族まで、その男は滅ぼしてしまった」
「その男はいまどうしてるの?」
「相変わらず、彼女についての出鱈目な情報を切り売りしているわ」
 転んでけがをした少年の膝小僧に、わたしはよく薬を塗ってやった。
「これくらい平気だよ、エウティシア」
 波と石の間に、小さな蟹を見つけた。汗と、ひなたの匂いがする少年は、清んだ眸で、海をじっと見ていた。
 当時の男の子が皆そうであったように、大きくなったら兵士になって軍隊に入り、外国軍を追い払うと勇ましく宣言してはわたしをひやひやさせていた少年は、 戦争の終結を得て、漁師となった。
「もういちど、わたしは路上で歌おう。劇場で歌おう」
 女声楽家が衰弱からくる肺炎をこじらせて息を引き取った翌朝、彼女が病床からいつもみていた曇った窓を、はじめてわたしは布でふいた。
 鞄を持って建物の外に出たわたしを待っていたのは、すっかり大きくなった漁師の彼だった。 青年の足許にも、鞄があった。
 わたしは彼に説明したことがあっただろうか。わたしの後ろに延々と続いている、人間たちの墓の話を。きっとあったのだろう。
「行こう」
 彼はわたしの鞄を持って歩きだした。転々と漁港を変えながら、漁師としてそれからの二人の暮らしを支えた。
 その漁師ももういない。
 海鳥のなき声で眼を覚ました。朝になっていた。
 いつの間にか噴水の淵に身を傾けて、眠ってしまっていたようだ。朝焼けの翳りの中にある広場を見廻してみたが、黒衣の貴婦人の姿はすでに消えていた。
 わたしは空を仰いだ。教会の塔の向こうに、細い月がまだあった。編んだ袋を探って手にとると、わたしは身を起こし、早朝の風に吹かれて狭い通りを歩き出した。

 船が銀河を飛ぶようになったとしても、神々の物語は、星座の庭に閉じ込められているほうがよい。何千年もの間、わたしは年をとらぬ神として、 他の姉妹のように天にも昇らず、エウティシアという名の娘として地上に生きた。
「アルフェウスがね」
 去り際に黒衣の貴婦人は、つめたい眼をして、おぞましきその名を口にした。
「お前に謝っていましたよ」
 河の神アルフェウス。もう顔も想い浮かばない。エウティシアとなってからのことは憶えているが、それ以前のことは水音に埋もれて、記憶も曖昧だ。
 貯水槽のような、水の濁った小さな泉。訪れる人の口から失笑がもれるほど、年々汚れ、お粗末になっている。だけどわたしは知っている。この泉に海の水と河の水が 流れ込み、半島を揺るがすはげしい波濤と水泡の戦いが続いたことを。この底で、わたしは河の神の両腕に捕まった。
 古代の残り香がわたしの髪をゆらす。死人の群れも、霧の谷も、虹で織られた常春の城も、妖獣も、妖精王のすまう森もない。青い海と緑の低木。 此処での神々は、人間よりも残酷だ。
 女神は、わたしを憐れんで、わたしを人間の娘にしてやったと云った。それは半分は本当で、半分は嘘だ。女神はとても嫉妬深い。 侍女のひとりが自分に内緒で子を宿したというだけで、その侍女を追い詰め、ゆるさなかったほど、自尊心が強い。 女神は、アルフェウスからわたしを庇いながらも、いざアルフェウスが宿願を遂げてしまうと、今度はわたしに対して憎しみを抱き、わたしの姿を人間に変えた。
 黒衣の貴婦人は立ち去る時に、意地悪というでもなく、耳にかかるわたしの髪をつまんで一度だけひっぱった。
 永遠に生き、永遠に喪え、喜びと哀しみに翻弄されろ。
 わたしは命を生きた。銀貨に刻まれたアレトゥーサとしても、エウティシアとしても。
 神は思いのままに振舞うことがゆるされており、神の気まぐれと多情はよくあることだ。壊れた木の人形のように水の底に転がっていたわたしを引っ張り上げて、 わたしに蝋燭の炎を吹き込んだ女神とても、わたしが人間に寄せてきたほどの一途な情はない。
 干し果実を口にしてみる。想い出が、わたしを泣かせる。これは人間の感情だろうか、それとも神のものだろうか。どちらでもいい。
 河の神アルフェウスが荒い息でわたしの耳に囁いたのは、わたしの名。アレトゥーサ、アレトゥーサ。
 わたしが愛し、わたしを愛してくれた人間たちがわたしに囁いたのも、わたしの名。
 穢れきった泉をのぞく。朝日が照らす水の面は、心なしかいつもより清んでいる。数滴の祈りが沈んだ泉。眼を凝らす。濁りの中に、こまかな水の泡が見えてくる。 青い粉雪の中、見覚えのある精霊アレトゥーサは変わらずに若かった。だがアレトゥーサは何も応えない。
 わたしは唇をうごかす。人々は、不老不死とは生きていないことと同じだという。良薬と思いこまされている良薬の効能を語るように、彼らは語る。 限りあるからこそ万象は美しく、我々はわれとこの世を愛すと。
 女神の呪いが解けたなら、わたしはこの遺跡の島で年をとり始めるだろうか。それとも、塵となって消えるだろうか。覇権を競う幾多の無残な戦争や盛衰を経て、 わたしは愛する人間とささやかな暮らしを紡ぐことに心を傾けてきた。
 絶えて久しい、バービトンの音色。海原の彼方、リンドスのカレスが建てたロドス島の巨像はすでにない。
 鳥がはばたく。朝のひかりが、エウティシアと呼ばれる娘の身体を透過する。いかずちも黒死病も、わたしを死なせはしなかった。
 アレトゥーサ。
 わたしは呼びかけてみる。河の神もまだ知らぬ、遠い野原は雪の中だ。わたしは繰り返し呼ぶ。アレトゥーサは応えない。
 生きるということが、まだ分からないの?
 水のゆがみから手を伸ばすわたしに、雪の寝椅子から清澄なまなざしをくれて、アレトゥーサはかたちのよい唇を引き結ぶ。



[了]


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