[かげろう]






 古い時代に築かれた石垣が亀裂のように黒く、縦横に地を這い、ヤナンの行く手の大地に伸びていた。 太陽が沈むにつれて足許より流れる影は、不吉を必ず秘めている。だから決して背後を振り返ってはならないのだと、幼少の頃にヤナンは祖父から教わった。
 故郷の邑ではクオイイと呼ばれている角を持つ馬の手綱を、ヤナンは引いていた。家畜の毛を編んでつくった頑丈な沓でクオイイを叱咤し、 遺跡の埋もれる赤い大地を渡っていくヤナンは、夕焼けとは対照的な色で染まり上がる鮮明な空に星座を探し、方角を確かめた。
 名の通りのなき声を出して、彼のクオイイが淋しく首を振る。
「もうすぐだ」
 ヤナンはクオイイの鼻づらを撫でてやった。もうじき夜になる、河が見えてくるはずだ。導く星座が正しいのならば、この先に、いつかは必ず。
 だがその河はいっこうに見えては来ないのだった。
 ヤナンの祖父は、部族に伝わる伝承をヤナン相手によく語った。われらは巨人の足の小指の中に、はりつくようにして生きている。 世界は神のからだの中にあり、その表を、松明を手にした巨人がはだしで走っている。宇宙を巡る巨人の足の小指には、地熱を帯びた、青い血と赤い血が流れている。 その混ざり合いが空の色だ。朝焼けや、風や、この日昏の色なのだ。巨人が神の怒りに触れて氷漬けとなれば、われらにも、身動きできぬ厳しい冬がやってくる……。
 燃える水が、争いの発端であった。
 ヤナンの故郷は岩と灌木だらけの高地にあった。やせた土地のその先には、鼻の曲がりそうな匂いを放つ澱んだ泉があり、 泉を囲む斜面には、粘ついた黒いものが堆積していて、そこでよく鳥が死んでいた。
 或る日、邑の男がそこに迷い込んだ。
 食用のとかげを追っていた男は疲れをおぼえて休憩することにしたが、適当な場所がないので、黒い水の溜まった泉の風上を選んで荷をおいた。 小さく火を熾しておいて、小枝を刈りに近くの林に引き返した男が戻ってみると、火は、坂から点々と焔を飛ばすようにして斜面をかけ下り、 水の満ちた泉の中央で燃えていた。
 水の上で火が燃えている。
 以後、ヤナンの部族はその泉を聖地と崇めた。雨が降ろうが風が吹こうが、水の上で消えることのない焔。神の御業と思われたのだ。
 が、真に価値があったのは、焔ではなく、黒い水のほうであったらしい。
 放牧から戻って来た人々は、頭部に金鎖を巻きつけた黒装束の一団が尾根を伝って泉の方に向かうのを見た。それからほどなくして、戦が仕掛けられるかたちで 始まったのだ。
「神の火を護れ」
「黒い水を寄こせ」
 高地の岩場という天然の要塞に恵まれたヤナンの故郷は、襲いかかる近隣部族との争いにもながく持ちこたえたが、 終わらぬ戦に民は疲弊し、荒れた田畑からは、糧となる実りが絶えた。そこに家畜の疫病と日照りが重なった。
 追い詰められたヤナンたちが気がついた時にはもう遅く、包囲された邑は、餓死を待つばかりになっていた。
「黒い水を引き込んで、炎の河を作ろう。さすれば敵の侵入だけは防げる」
「もう遅い。戦える者が残っていない。それに敵方はいずこからか、精鋭兵と物資を絶え間なく送られているようだ」
 敵を援助する大国とはどこなのか、それすらも、疲れ切った人々にはもう問題ではなかった。
 抗戦か、降伏か。
 長老たちが悩むその隙に、夜を待ったヤナンはクオイイを連れて山をこえ、聖なる黒い泉のほとりに独りで向かった。
 苦労して岩道を越えるうち、やがて、はばたく黄金色の息吹が先に見えて来た。宇宙をさかさまにしたような黒い泉の中央に、神の火は燃えていた。
「クオイイ」
 愛馬をなだめてその鞍に跨ったヤナンは、しずかに泉に乗り入れた。どろどろと粘ったものが浮かぶ泉は、馬の脚も鈍らせた。
 泉の中ほどに辿り着いたヤナンは、用意してきた竿を素早くふるうと、神の火を泥水ごと竿の先の麻網にすくい取った。ヤナンはすぐさま馬を返して坂を駈け上がり、 そこからはずみをつけて、わざわいの根源である網の中身を遠くへと投げた。
 神の火は火の玉となって夜を横切り、闇に消えて行った。

 流れ星となって消えていった炎。
「あれがいけなかったのだ」
 煙るような色合いの薄暮が昼と夜、天と地の境目をしだいに薄れさせた。ほのかに笑い、ヤナンはクオイイに話しかけた。
「最善と思われたことだったのに、それでも、戦は終わらなかったのだから」
 長老たちはヤナンに神の火を取り戻すよう命じ、邑から追い出した。
 ありたけの願いをかけて、ヤナンは火を棄てた。神の火は何ひとつ聞き届けてはくれなかった。水の上に燃える炎は、天の河の清浄に還るどころか、 さらなる戦の火を、ヤナンの邑に呼び寄せただけだった。
 ぬるい風におどるヤナンの髪の一束には、部族のしるしである鮮やかな衣が巻きつけてある。赤銅色のそれは強い日差しに色褪せて、ちぎれかけていた。 疲れた眼をして、ヤナンは落日を眺めた。
 決して背後を振り返ってはならない。
 クオイイがぴくりと耳を立てた。薄闇をわけて、後ろから迫ってくる馬の蹄の音がする。それは二騎だった。 彼らは前方にヤナンの姿を捉えているはずであるのに、近づく馬脚を衰えさせず、まっしぐらにこちらに向かってくるようだった。
「追いはぎだろうか」
 気候の変化に強く、少ない餌に耐えて頑丈であっても、山育ちのクオイイの逃げ足は速くない。追いはぎならば、まずは弓でこちらの背を射て、 馬から落とそうとするはずだ。
 振り返ることはできない。ヤナンは腰刀に手をかけた。鞍をしっかりと両脚で挟み、いつでも半身を倒して馬の腹に身を隠せるよう、ヤナンは 接近してくる音を背中一面で待ち構えた。
 太陽が沈んだ。雲の階段を流れ落ちるようにして残光が散る。溶けるようなその赤をはねかえすようにして、鮮やかな二騎がヤナンの左右にとびこんできた。
「クオイイ!」
 相手の手に白刃を見たヤナンは、クオイイの脇腹を蹴った。そのヤナンを前後から挟み、ぱっと砂を蹴立てて、二騎が彼の退路を断つ。
「案内する」
 眼つきの鋭い大柄な男がヤナンの前に立ちふさがり、低い声で口をきいた。もうひとりは若い女だった。彼らは兄妹らしく、同じ文様の刺繍を腰帯に縫いつけてある。
 髭をたくわえた男は、冷淡な態度で剣をしまうと、ヤナンをうながした。
「ついて来い。嵐が来る」
「砂嵐は怖ろしい」
 男の妹も唇をひらいた。黒い眸に踊る女の意思は、星のまばたきのようだった。
「あなたも、あなたの馬も、竜巻は全てをまき上げて、地に叩きつけてしまうわ」
 ヤナンの部族の女たちとは違う編み方をした長い髪をひるがえし、女は、ヤナンの先に立った。 黄昏に浸された地平の先に、彼らのものらしき、集落の灯りが見えていた。

 嵐からヤナンを救ってくれた女の名は、カンラといった。
 岩塩の山に築かれた村落は、ヤナンを無言で受け入れた。大袈裟な歓待もせず、さりとて冷遇も干渉もしない。荒地に迷う者をそのままにはせず、 かといって仲間にもしない。過酷な自然に生きる部族らしい対応だった。
「時々いるのよ。あなたのように、迷いこんでくる人が」
 岩壁に沿って積み上げられた煉瓦の階段をひたすら辿ると、夜空が近くなった。クオイイは登れないので下においてきた。
「お帰り、カンラ」
「客がいるの。角のある彼の馬にも食事をおねがい」
 壁に掘られた横穴の並びがひとの住まう室だった。分厚い織物の扉をひらいてヤナンを中に招くと、岩塩をくりぬいた小窓に
カンラが手燭の火を移した。小皿に移されたその明かりには、影があった。
「荒野の神が定めたの。わたしたちは滅びゆく氏族で、もう何年も、赤子が生まれない」
 砂まじりの風が吹き始めた。カンラが髪をほどいた。ヤナンは敷物の上にすわった。
「わたしと兄はもう何度となく睦み合ったけれど、それでも赤子は生まれない。ここの人たちはそれを神の怒りだという。 異民族と交わってはならぬという掟を破り、昔ある女が、ちょうど今のような砂嵐の晩に、山を訪れた男と情を交わしたからではないかと。 その男は変転に逆らうことで輪廻に囚われた呪われし者だった。神は怒っている」
 強まる風の音にまじって、叫び立てるような赤子のなき声がきこえた。
「あれは、兄の妻が生んだ奇形の子」
 突風に混じる砂礫が、爆ぜるような音で集落を押し包み、カンラの声も遠く途切れがちだった。
「手も足もない赤子。祈りの歌を憶える前に死んでしまうでしょう。だから兄はわたしを、兄しか知らぬ洞穴に引きこんだ。 婚姻の歌の代わりに、星と風が、わたしたちの上で歌っていた。わたしたち兄妹は秘密をもった」
 あなたがまことに、神の火を探す者ならば。カンラの手の平がヤナンの胸にのびた。
「その火の欠片が、あなたの胸にもあるはず。結び付けようとしてもほどけてしまう火星と金星とは違い、天地の狭間に結ばれて、二つきりでこの世を漂っているはず」
「そうだといい」
 ヤナンは呟いた。
 カンラたちの氏族の伝説では、世界は、神の作った船の中にあるという。いつか空の水門が開いて、行いが悪ければ、船も水の底になるのだと。
 暗闇の中で聴く風の音は地鳴りのような暴風と変じ、嵐は、岩も砕く洪水に似ていた。カンラは自分のほうから刺繍入りの腰帯に手をかけた。
「一握りの草。一握りの塩。海の花のようにわたしたちはそれを数える。荒地に生きる民は残酷で、厳しく、そして終末が見えている」
 朝になり、嵐は去った。ヤナンはカンラに礼を云い、カンラの兄に麓まで見送られて、岩塩の山を去った。


 青銅の小函を抱え、神の火を探すヤナンに、話しかける者もいれば、そうでない者もいた。
 空を暗く変えるほどの砂煙をあげて横旗を列ねた皇帝の大軍がクオイイの鼻面の先を通り過ぎたこともあった。 武装した兵たちはヤナンには眼もくれず、それどころか威嚇の剣を突き出して邪魔扱いにすると、鴉の群れのように甲冑をぎらつかせてヤナンの前を通過していった。
一年後、彼らは今度は反対側の地平から現れて、異国に連行される哀しみに泣き叫ぶ奴隷たちを引き連れながら、ふたたび砂埃に消えるのだった。
 それらは繰り返された。
 月の満ち欠けのように、数え切れぬほどの興隆と衰退がヤナンを置き去りにして過ぎていった。
 世話になった岩塩の山が包囲され、近隣部族に蹂躙される様子も遠くから知った。地平の低いところに流れる戦火はカンラの腰帯と同じ、薄紅色をしていた。
 隊商から呼びかけられることもあった。
 馬術巧みに乾いた砂地を蹴ってヤナンに駈け寄った使いの者は、隊商の全員一致の意向として、ヤナンを野営の夕餉に招待したいと伝えた。 ヤナンは困った。彼らは細身のヤナンを、若い女だと見間違えたのではないか。さもなくば長旅の貴重な食料を、どうして分け与えたいと思うだろう。
 女と思われたのだろうな、そんなヤナンの予感は的中し、それは招待されたその晩の焚火を囲む間、彼らの笑い話となった。
「気にせずに好きなだけ食べてくれ」
 隊商の男たちは陽気に焼いた肉をまわした。
「半月後には交易路の中継点、砂漠の国に辿り着く」
 絹の道をかよう隊商は、ヤナンに酒をつぎながら、砂漠の睡蓮と讃えられる交易国の華やかさ、文明の高さ、そこを統治する若き王と女王について語ってくれた。
「そこでは天をつくほど高く、王宮まで途切れることのない、見事な列柱道路が旅人を迎えてくれる」
「刺繍された布や、高価な香料が幾らでも取引される。垢じみた乞食なぞ一人もいない。娼婦たちは乳液でみがいた白い乳房に手をおき、男たちを待っている」
 若いヤナンをからかう彼らも、ヤナンが神の火を探す若者だと知ると、それ以上は誘わなかった。
 まだ見つからないの?
 静謐な月光が地面をひやす星夜には、懐かしいカンラと話した。
 こぶのある馬に乗って現れるカンラは、言葉少なく、朝になれば戻らなければならないのだといつも云った。
「どこに帰る」
「決まってるわ。岩塩の山よ」
 二つの大河が出逢うところに、とカンラはヤナンと指先をからめ、約束のように交差させた。あなたの求めるものがあるかもしれない。
 やわらかな白い頬、薄紅色の腰帯は、かつてのままだった。
「行ってみるよ」
 ヤナンは朝のやわらかな光に薄れてゆくカンラに手をふった。

   雨の少ない土地に、雨が降っていた。
 六階層にまで増築された巨大な神殿を中心に、そこから伸びた街路が放射状に城壁まではしる大国には、各所に雲をつくような大門が備えられていた。
 物資を満載して行き交う荷馬車。練兵場に向かう兵士たちの銀色の行進。五角柱で高く支えられた神殿からこもってきこえてくる、神官たちの静かな唱和。それは 大河の中州に人口を集めて華ひらいた、文明の集大成であった。
 都市に恩恵をさずけた二つの大河は、朝からの雨に、瑠璃色に濁っていた。
「具合でも悪いのか」
 途上、放置された石材を雨避けにして伏せっている老人を見かけたヤナンは、馬から降りて話しかけてみたが、 老人は茹でた豆の皮のような瞼をひらいて、両手を泳ぐように動かし、水筒を差しだすヤナンを追い払うだけだった。
 はるか遠くからでも、神殿の天辺に鎮座している祭事の火が見えた。 それは雨にも消えることなく、国が滅びるまで、都市の華麗な塔の頂点に永久に燃えているのだという話だった。
 城門兵は濡れて湿った荷を小脇にかかえ、薄汚れた馬を引いているヤナンをうるさく思った。城門兵がヤナンを街から追い払おうとしたのを救ったのは、 城門の中から繰り出してきた街の人々であった。雨も厭わず彼らは大声を上げて踊り、鈴つきの腕輪をはめた両手を打ち合わせて、ヤナンをとり囲んだ。
「お祭りだ。今日は火のお祭りだ」
「踊れ、歌え、飲んでくれ」
 跳びはねながらヤナンを迎えた老若男女は、城壁の内側にヤナンを招き入れると、ヤナンを担ぐようにして街をねり歩いた。
 街は祭りのただ中にあり、音と昂奮の坩堝と化していた。
 入れかわり立ち替わり、人々はヤナンの肩を熱っぽく抱いた。今日ばかりはよそ者も仲間であった。そぼ降る雨も祭りの高揚をさますには足りず、 打ちつけあう身体から湯気を立てながら、人々は花をまき、酒を浴び、仮面をつけて、踊りくるった。
「火祭りだ!」
 ヤナンはなき声を上げている馬のところに戻ろうとしたが、渦巻く喧騒に阻まれて果たせず、クオイイとはぐれてしまった。 混雑の波に押し出されるようにしてヤナンは、前へ前へと浮くようにして歩かされた。
 突き飛ばされるようにして角をまがると、そこに五角柱の神殿が聳え立っていた。雨を顔から拭い、眼を凝らしたヤナンは、はじめて見る神殿を仰いだ。 荘厳な建築物の一階は、外壁一面にどくろと戦時捕虜を描き、階が上になるにつれて、祝福された人々に、王に、神官にと、絵柄を変えていた。
 外回廊を動く人影も見えた。視界にその人影を捉えたヤナンは、胸を突かれたようになって立ち尽くした。
 頭部に金の鎖を巻いた黒装束。
「こっちへ来い」
 呆けているヤナンの腕を強く引っ張る者がいた。ヤナンを連れて人ごみをかき分けて行く者は、街の外で雨宿りをしていた、あの老人であった。押しあいへし合いする 人波を泳ぐうちに、されるがままのヤナンは何度も人や壁にぶつかった。腕を掴んでいる老人の力は強かった。腰から下げているヤナンの青銅の函が音を立てて鳴った。
 老人はヤナンを神殿に連れて行った。そこまで来ると、もう人はいなかった。
 六階層の神殿は、ちょうど入れ子のいちばん小さな部分を垂直に引き上げるような形で、基底から所徐に面積を小さくしていき、頂点である 円錐の先に、この都市を見守る聖火が炎の羽根を広げて燃えているのだった。
 長い通路には採光窓からの丸い光が規則正しく落ちていた。水晶と大理石でできた階段回廊が、建物と建物の間を 空中で繋ぎ、老人とヤナンを導いた。
 老人は入り組んだ神殿の内部に迷うことはなかった。螺旋階段を渡るみすぼらしい老人に対して、すれ違う神官たちは皆、道を開いてあたまを下げた。
 神殿の頂きに近づくにつれて、ヤナンの鼻腔は、憶えのある匂いで満たされはじめた。ヤナンは老人の背中を追いかけた。
「ご老体」
 ヤナンは息を継いだ。
「教えて下さい。あの聖なる火が、探しているものなのかどうかを」
 荒々しくも花咲く故郷。待つ者もいないものを。
「なぜ探す」
 剥いだ木の皮のような脚の脛がヤナンの方を向いた。段上から謎の言葉を紡ぐ老人の声は重々しく、ヤナンの頭に直接響いた。
「探しものを追い求め、一心に追いかけるあまりに追い越した。始まりも終わりもない円周の無限に囚われてしまった者よ」
 六階層の果てに出ると、突如、世界が一望できた。五角柱に支えられた五角形の床を持つ天辺には、中央に穿たれた大きな穴の上に鉄製の 巨大な籠が立ち、聖火はその籠の中で、宙に浮くようにして回転しながら燃えていた。
 頭痛がしてくる匂いは、薄まるどころかますます強かった。風がはこぶのは、下界の祭りの騒ぎだけではなかった。
 不安と予感に促されるようにして、ヤナンは燃え盛る炎の下の穴に近づいた。
「黒い水だ」
 ヤナンは穴の縁から下を覗きこんだ。地上まで、あるいは地下深くまで掘られた縦穴に満々と湛えられているものは、故郷の泉に たゆたっていたものと同じ、あの黒い水だった。汚水を凝視するヤナンに老人は告げた。
「火祭り、聖なる火、永久の繁栄。その正体は、この黒い水にある」
「祭りだ!」
 国中が揺れ動いた。はるか下方の地上から湧き上がる怒号のような歓声の中、ヤナンの見ている前で、聖火の籠が傾いた。籠は三方から内側に倒れはじめた。津波となって 揺れ動く大観衆の中には、ヤナンの郷里の人々がいた。カンラも、はるか昔に別れた隊商の男たちも。
「節目の時がやって来た。再生の祭りを!」
 頭の片隅で、ヤナンは想った。
 若き王と女王、列柱回廊は何処にいったのだろう。何層にも重なったこの都市の砂の下に、戦に敗れた奴隷や、行き倒れた隊商たちの木乃伊と共に、 古い時代の遺構となって、深く埋もれたままなのだろうか。
 籠が傾いた。縦穴を落ちてゆく火の塊は暗い真下まで到達すると、そこで弾けるようにして噴き上がり、雲を貫く大火の火柱となった。
 熱風にまかれてよろめきながら、ヤナンは叫んだ。滝となって降り注ぐ火の粉は、雨粒を吹き飛ばし、ヤナンも吹き飛ばした。
 雨は蒸気と変った。大量の火の粉が地上に降り注ぎ、地平を覆い、うねりとなって丘の上にも水の上にも跳ね飛んだ。太陽をぶちまけたような火の海の中で人々の影が踊った。 全てが影絵のように実体なかった。隕石となって落ちてくる火の粉の塊も、再建されては燃えあがり、蒸発してゆく都市の面影も、高速で飛び過ぎた。
「クオイイ。どこだ」
 両腕で顔を覆い、ヤナンは空中を歩いた。砂漠を、河の中を歩いた。彷徨うヤナンの閉じた眼には、粘ついた黒い水しか見えなかった。哀しげな クオイイのなき声を聴いた気がしたが、それも熱の風に奪われていった。
 何かが耳を掠めた。砂粒につぶれた眼をひらこうともがいているヤナンの胸部を貫いて、熱のかたまりが通り過ぎた。燃え盛る巨大な炎だった。日輪の車輪に引きずられるようにして、 ヤナンはすべり落ちていった。

 真上に、漠然とした空があった。ヤナンは地表に独り倒れていた。
 音もなく、人もいなかった。二つの大河に挟まれた都市も、岩塩の山も。雪や灰のごとく降りしきる灰色の霧が、永い時の向こう、 何層もの星の巣を抱えて彼方に漂うだけだった。
 ヤナンは立ちあがり、歩き出した。河を探すのだ。祖父の教えどおり、河に辿り着けば、そこから頭巾をかぶった船頭の舟で忘却の彼岸へと渡れるはずだった。 そこまで行けば、この足どりが井戸に呑まれたように重いそのわけも、心身の自由が解かれたように軽いそのわけも、その時に分かるだろう。
 探していた火は、天の河にあるのか、古代の大河に忘れてきたのかも、ヤナンにはもう分からなかった。 愛馬のなき声を聴いた。彼らは行ってしまった。カンラにももう二度と、あえない。
 老人の言葉がよみがえった。
 決して背後を振り返ってはならない。
 かたく守ってきた教えに背き、未練にひかれてヤナンは後ろを振り返った。塔も都もなかった。岩だらけの赤い地表に、荒地を渡る風が吹いていた。
 ヤナンは足許を見た。おのれの姿の影の中、黒装束の影の中、そこに金鎖の輪のように、あの神の火が燃えていた。




[了]

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