永遠の都 (後)


 運河に沿って道を選びながら、ロシュディは懐中時計を上着から引きだした。セナとの待ち合わせ時刻に、少し遅れている。 急がなくては。大役を引き受け、第一段階を一応無事に果たしおおせた後の快さが、ロシュディの気持ちを引き立たせていた。
「何だって、セナ。では、やはりお前が宝石函を持っていたのか」
「中身だけだ。オルゴール函はヴァレリアに抱かれて海の底だ。これは間違いない」
「腑に落ちない」
 詰問口調になってロシュディはセナを窺った。最初から何となく怪しいと思っていた事が、ここにきて、 当人の口から出てくるとは。
「疑われても仕方がない」
 セナは慌てなかった。
「ロシュディ、まずはこれを見てくれ」
 布包みを取り出したセナは、その中身をロシュディの前にある小卓の上にぶちまけた。 袋の口から溢れ出て、卓上に積み上がった光りものは、あの晩、音楽界に集った人々が寄与した、宝飾の数々だった。
 南洋真珠の見事な一粒が転がって、卓から落ちそうになった。ロシュディは玉虫色をしたそれを袖口で受け止めて、セナの顔を眺めた。部屋の中央に立っている セナは賭ごとの時のように顔色を変えず、平然としていた。
「何があったのか、詳しくきかせてくれ、セナ」
「もちろん」
「ヴァレリアがどうして海に落ちたのか。そこからもう一度だ」
 壁の漆喰が年月に耐えかねて剥がれかけていた。 呼び出された安宿の天井からぶら下がった暖色電灯が、小卓に鎮座した宝石たちを洞穴の宝のように美しく見せている。セナは信用できない。 そしてそのセナは、海に身投げしたヴァレリアを信用していなかった。そのことをロシュディは知っていた。 ヤギェウォ大学助教授が死んでからは、とくに。
 セナは、助教授と親しかった。そして助教授はヴァレリアと恋仲だった。ロシュディは疑っていた。
「当ててやろうか。三角関係のもつれの果ての殺人だとでも思っているのだろう。三文芝居じゃあるまいし」
 ロシュディの心中を読んだものか、投げ出すようにセナから切り出した。莫迦かといわれた格好になったロシュディは、無言でそれに応えた。セナは立ちあがり、 床に重ねて置いてある古本を跨ぎ越して、窓に近寄った。電球の明かりが島影のように丸く、夜の街に浮くように、汚れた窓硝子に映っており、 そこに室内の様子が二重映しになっていた。トパゾス、探し求める。霧に包まれて容易に発見できなかったことからその名がついた、トパジオス島。 助教授は何を探し、何を求めてヴァレリアに接近し、そしてあのような、変わり果てた姿で発見されたのだろう。
 セナは話しだした。
「あの晩、夜になってから島に到着した君とマノンを迎えに、ヴァレリアと海岸に向かっていた。ヴァレリアはオルゴール函を持っていた。 そのうちに、彼女は宝石を別にして、隠しておいたほうがいいと僕に提案した」
「何故そんなことを」
「舟で島にやって来たのが、君たちだけではなかったからだ」
 筋は通っている。あの舟には、港でマノンが知りあった、アドリアンとジョゼフィンを予定外に乗せていた。
「僕は宝石を袋で包んで、灌木の茂みに隠した。舟にいる君たちが無事かどうかを確認してから取りに戻ればいいと思った。 空になった函の方は彼女が持っていて、ヴァレリアはそれを手提げ鞄に戻した」
「オルゴール函も隠さなかったわけは?」
「さあ」
 質問者の視線をはぐらかすように、セナはまた窓を見た。
「あの古めかしい年代物のオルゴール函は、亡くなった助教授のお気に入りだった。ヴァレリアはあれを、彼の形見だと思って、大切にしていたようだ」
 肌身離さず、抱きかかえて逝くほどに。

 セナの説明を全部納得したわけではなかったが、ロシュディはセナの頼みを結局は受け入れた。
「宝石を売ってきて来てくれ」
 セナがロシュディをその役目に選んだのには、理由があった。むかし悪童だったロシュディには、その筋の世界に、昔馴染みの懇意が多くいるのだ。 顔の利くロシュディが宝石を捌いた方がいい。
「他の仲間に頼むと、お坊ちゃん嬢ちゃん揃いの彼らは下手を打ちそうだからな。だから今日まで、宝石があることは誰にも云わなかった」
「音楽と、その演奏者の為に、使われる金なんだろうな」
「もちろん」
「それなら文句はない」
 その代わり現実的なところをロシュディは求めた。宝石を流すにあたっては、それなりの手間賃と業者への口止め料がいる。セナは首肯した。
「多少の目減りは構わないさ。相場を出せばいい」
「一つ訊くが、ヴァレリアは今までどうやって宝石を金に換えていた」
 そういえば、ヴァレリアのことはほとんど知らない。マノンとロシュディは新参者で、音楽会の 熱心な参加者とはいえず、兄弟に遺産を遺した伯父の跡目を継ぐかたちで、支援者の会員名簿に名を連ねているにすぎなかった。ヴァレリアは、 助教授が連れて来たのが最初で、助教授の死後、そのまま助教授の名代のようにして会に居座っていた女だった。
 今さらのようにロシュディは愕然とした。海に身を投げた女は、一体、何者だったのだろう。愕かされることには、セナも、そして音楽会の出席者も、 誰一人としてヴァレリアが宝石を換金していたその方法に詳しくないという事実だった。
 あれこれ考え込みながら雨上がりの街を歩いているうちに、薄暮の海と、水門がようやく見えてきた。 そこを越えたところの煉瓦倉庫にセナがいるはずだ。橋の上に差し掛かったロシュディは、見慣れた人影が向こうから走ってくるのに気づき、愕いて脚を止めた。
「ロシュディ」
 名を呼び、髪をなびかせてロシュディに駈け寄って来たのは、島に残してきたはずのマノンだった。 夕立ちにあたったのか、走ってくるマノンは髪から水滴をふり落とし、ずぶ濡れだった。ロシュディはいきなり現れたマノンの姿に躊躇った。島にいたはずではなかったのか。
「どうしたんだ」
 戸惑いながら、ロシュディは橋の上でマノンを出迎えた。
「風邪をひくぞ」
 隔ての河を超えるように、まっすぐにマノンはロシュディに抱きついてきた。夕方の花のように、風に震えながら、女は男の胸にすがりついた。 兄妹に共通するやわらかな巻き毛が、ロシュディの顎を雨の名残で湿らせた。
「ロシュディ」
 息を切らして、マノンはロシュディを揺さぶった。
「セナから、オルゴール函を預かってない?」
「オルゴール函。いや、持ってない」
「よかった」
 心底ほっとしたように、マノンはため息をついた。雨に冷えたその顔は、ロシュディの知らない女のようだった。初めて知る女のようだった。
「この先に行っちゃ駄目よ、ロシュディ」
「何があった、マノン」
 ロシュディは対岸をすかし見た。心なしか、闘いのような音がしている。 マノンの両肩を掴んだロシュディを遮り、兄の行く手を塞いだマノンは潤んだ眼で男を仰いだ。首にはいつものスカーフがきつく巻かれていた。 それを隠すようにもう一度マノンは兄に抱きつき、ロシュディの腰にしっかりと腕を回した。
「マノン。オルゴール函がどうした。セナに、何かあったのか」
「行かないで、ロシュディ」
 言葉を詰まらせたマノンは、瞼を閉じ、ロシュディの胸に顔をすり寄せた。
「行かないで」
 泣きじゃくる女からは、古びた街の匂いがした。路上で二人きりで生きた懐かしい時間を想い起こさせるような、雨と霧と、そして海の匂いがした。


 セナにとって唯一の救いは、そのようなものがあるとしての話だが、アドリアンがどうやら、こちら側についてくれるらしいことだった。
「隠れていろ」
 夕闇を横切り、黒杖が空を飛んだ。腕を伸ばしたアドリアンはセナの見ている前で黒杖を掴んだ。雨を払うように軽く一振りされたそれは、 またたく間に、銀光を放つ素晴らしい剣と変った。セナは眩暈を覚えた。今のは手品の一種かと訊いてみる気もしない。悪い夢なら、早く覚めてくれ。
「アドリアン。こいつらは、エンデルと云ったな。エンデルとは何だ」
「下級の血霊。助教授が不完全だったのもそのせいだ」
 軽蔑丸出しで云ってのけたアドリアンに、エンデルたちは牙を剥いた。助教授もそうした。真っ赤な眼は、人間のものではなく、幽霊のものでもなかった。
「ほう」
 セナを後ろに追いやりながら、アドリアンは血霊たちを眺め回した。
「ソバルトもひとりいる。お前がマノンの血を吸ったな」
「横取りをするとは」
 血霊の憤りに大気が緊張をはらんだ。ソバルトは白髪に近い髪の色をしており、一群の中でも高い能力を持っていそうだった。海風が吹いた。ソバルトが剣を抜いた。 アドリアンは剣を握り直した。 彼らは、生きていた。禍々しい形相で、限りなく優雅な動きで、人には敵わぬ速さと力で、ソバルトの合図を皮きりに、セナとアドリアンに襲いかかって来た。
 金属が裂ける音がした。セナの頭上の看板がえぐられていた。豹の如く跳んだエンデルの攻撃がそうしたものだとセナが察するまでの間に、今度は倉庫の煉瓦壁に 裂け目が走り、路面が粉砕された。いずれも寸でのところでアドリアンがセナの腕を引いてくれなければ、直撃を浴びていたに違いなかった。セナは喚いた。
「殺される」
「倉庫に入って扉を閉めろ」
 白銀の剣を持ち構えたアドリアンは、セナを庇ってエンデルたちと対峙し、不敵に嗤った。どちらも怖ろしく、別種の生き物だった。 オルゴール函を引き渡せば、連中は去るのだろうか。気持ちの悪い汗をかきながら、セナは鞄の中に手を突っ込んだ。
「アドリアン」
 じりじりと倉庫の壁際に追い詰められながら、セナは叫んだ。冷気の吹きつけてくる剣の群れは、揺れ動く骨の柱のようだった。
「アドリアン。ここにオルゴール函がある。これを、どうすればいい」
「渡せ」
「誰に」
「当然、こちらに」
「理由をきいてからだ」
 セナは倉庫に向かって走った。占師が繰る札に、確かこんな一枚があった。鎌を掲げる死神。セナは応戦をアドリアンに任せ、 いちばん近い倉庫に転がり込んだ。扉は重かった。 ぎいぎいと鳴る扉を片腕で外に押し出すようにして、片方の手では函の入った鞄を押さえ、セナは倉庫の閂を探した。 その動きが止まった。背後にぞくりとするものを覚えたのだ。
「セナ」
 一度に何度も怖ろしい目に遭うと、神経が麻痺するものらしい。熱くなったセナの頭は、倉庫の暗がりから伸びて来た白い手を『それ』として感知することが出来なかった。 セナは振り向き、振り向きざま、反射的に背後のものに向かって引き金を引いた。めちゃくちゃに連発した。『それ』は霰をくぐるように弾丸を左右にすり抜けて、セナの前に現れた。 女だった。
「二度も、わたしを撃つの」
「ヴァレリア……」
 口を開けっ放しにしてセナは喘いだ。がたん、と音がした。女の手でセナの銃が払い落とされた音だった。 絶叫や異音を口走りながら、セナは扉に背をつけ、顔を両腕で覆った。
「やめてくれ!」
「何もしないわ、セナ。わたしが海でしんだと思ったのね」
 ほろ苦い笑みを浮かべて、ヴァレリアはうずくまったセナに近づいた。死人に追いつめられたセナは扉を叩いた。 外からは剣をつかった派手な闘いの音がしていた。
「アドリアン、来てくれッ」
「ねえ。あり得ないことが起こったと現実否定をするよりこう考えて、セナ。この世には不死の生命体があり、人の血を好物として啜り、 永遠の命を持っていると」
「アドリアン!」
「わたしもそうしたわ。閉じ込められた地下牢の扉を叫びながらそうやって叩いた。暗闇と圧迫感。一滴の水もない。そこは、わたしを 永遠の飢餓に閉じ込める為の墓所だった。どうして怯えるの、セナ。あなたはいつも、あの人とわたしの跡を尾けていたじゃない」
「それは」
 セナは掠れ上がった声を絞り出した。
「お前に関心を寄せる助教授の身が、心配だったからだ」
「わたしを疑って?」
 尻で床を這い、踵で床を蹴るようにしながら壁際にずりさがり、セナはヴァレリアから逃げた。 ヴァレリアの靴がそれを追った。飾りつきのサテンの靴。ワンピースも、あの夜と同じものだった。その足許は、今しがた 海から上がった者のように濡れていた。
「セナ」
 ヴァレリアは歩いてきた。死者よりも穢れに近い者として、生々しく現実感を伴いながら、彼に迫って来た。
「オルゴール函を、わたしに渡して」

 もちろんだよ、ヴァレリア。何も怖くはない。君が本当に血霊なら、是非とも実験体になりたいものだ。 子供の頃から「世界の七不思議」の類には妙に魅かれてね、その手の本を読み漁ったものだった。わたしが研究職についたのも、分からないことを知りたいという、 一見矛盾しているような、この探究心のせいだと思う。研究者はいつだって、詳らかに出来ないことへの、謙虚な奉仕者なのだよ。
 これを見てくれ、ヴァレリア。我が家に代々伝わる、古いオルゴール函だ。音を鳴らしてごらん、変った音色がするだろう。すっかり憶えてしまい、 ほら、こうして歌えるまでになった。
 比べようもない旋律。まるで、人が紡いだものではないような、美しい。

 倉庫の扉がゆっくりと開いた。明るい残照が斜めに差し込み、セナの視界を奪った。ふたたび見えるようになった時、セナの眼に映ったのは、 かつての恋人同士の姿だった。ヴァレリアは、はっとなり、打たれたような顔をして、その場に凍りついた。
 ヴァレリア。
 陰々と声が響いた。扉を押しあけて倉庫に侵入して来たのは、助教授だった。
「ヴァ、レ、リ、ア」
 生前の姿そのままに、昔の彼ではなき彼となって、助教授はヴァレリアに手を伸ばした。ヴァレリアは逃げることも忘れたように、迫りくる男の前に 突っ立っていた。セナはオルゴール函を取り出して叫んだ。
「これが欲しいなら、くれてやる。持って行って下さい、先生」
 助教授はセナの差し出すオルゴール函を見向きもしなかった。ヴァレリアもその場を動かなかった。助教授は音もなくヴァレリアに近づいた。 ヴァレリアは苦痛に満ちた表情になった。女は両腕をだらりと下げたまま、恋人を抱こうとする助教授の腕を受け入れ、拒まなかった。
「後悔しています」
 助教授のなれの果ての姿に、ヴァレリアは話しかけた。そんなヴァレリアを愛おしそうに抱き寄せ、助教授は女の頭を引き寄せた。
「わたしと接触したことで、あなたが下級のエンデルたちに狙われて犠牲になると知っていれば、 わたしはあなたを遠ざけたのに。憶えていますか。あなたはわたしに血を吸っていいと云った。 わたしはそうしませんでした」
「憶えているとも」
 ざらついた声で、助教授はヴァレリアの頬に頬をすりつけた。倉庫の隙間から腐臭のような雨上がりの海風が漂った。
「怒ってはいないよ、ヴァレリア」
「でも、後悔はしていらっしゃるでしょう?」
 誰が怪物と化して墓場から甦りたいと願うだろう。エンデルが人間の血を吸うのに失敗すると、大方は、浅ましき飢えた者へと変り果てるのだ。 女の首筋に接吻する助教授の口には、牙があった。
「わたしに近づいたことを、悔いていらっしゃるでしょう?」
 忌まわしいことを思い出したものか、女の声はわなわなと震えた。
「罪もない先生を、あのような惨い目に遭わせてしまいました。永劫の飢えにさらしてしまいました」
「いいや」
 ヴァレリア、と助教授はヴァレリアの耳に囁いた。かつてそうしたように、彼はヴァレリアをかき抱いた。ヴァレリア、逢いたかった。
「君が、どうしているか、気になっていた。そればかりだ」
「先生」
 セナはヴァレリアの唇がふるえ、その指先がわななくのを見た。夜の海も銃弾も怖れなかった女が、ひどく弱り、苦しみ、哀しんでいるようにみえた。 ヴァレリアは助教授の肩に腕を回した。背伸びをして手を添え、男の首筋に接吻をした。助教授はされるがままになっていた。男の首筋に沿った女の赤い唇が、裂けるように開いた。 真っ白な牙が男の首筋を破り、深く、血潮を探って、果実をむさぼるように埋め込まれていくのを、セナは茫然として見ていた。
「我は、主である」
 聖句を女は口にした。それを助教授に告げるヴァレリアは乾いた赤い眼をしていた。その先、何と云ったのか、セナは聞き取れなかった。 助教授のからだが雷に打たれたように伸び上がり、ふわりと浮いたようにセナには見えた。 ヴァレリアが何かを命じたのだと、ようやく分かった。ソバルトがエンデルに、しもべにそうするように、そうしたのだと。
 助教授の姿が薄くなり、透きとおり、四方に拡がり、そして急速に輪郭とかたちを失った。
「先生。あの曲を、もう一度わたしに歌ってきかせて」
 叶わぬことを願い、一瞬だけ、ヴァレリアは引きとめようとした。切なく伸ばされた女の手を血霊はすり抜けた。 血霊は塵となり、霧となり、あとに一片の血肉も残さずに、どこかに吸い込まれて消えて、ヴァレリアの腕の中で消えてしまった。
 外から轟音が響いた。倉庫の壁が砕け、もつれ合った二影がセナの前に転がり込んで来た。
「アドリアン」
 闘いを慌てて避けたセナは、絡み合っている影の片方がアドリアンだと知ると、今度は迷わず、オルゴール函を両腕で高く掲げた。 他のエンデルたちはすでにアドリアンの手によってやられ、残るは相手にしているソバルトひとりらしかった。
「指示をくれ、これをどうしたらいい」
 セナは函を揺らした。
「これは螺子鍵が外されていて音が鳴らない。それでもいいなら、あんたか、亡霊どもの好きにしろ」
「音が鳴らない」
 片眉を吊り上げて、それをきいたアドリアンは少し何かを考えていた。それから彼は辺りを見廻した。
「助教授先生はどうした」
「わたしが、送ったわ」
 俯いてヴァレリアが応えた。途端に、アドリアンは笑い出した。胸が悪くなるほど邪気のない、悪魔的としか呼びようのない笑いだった。
「きいたか、ソバルト」
 剣と剣を絡ませているソバルトを、アドリアンは押し戻した。白銀の剣が赤く燃え、眼を潰すほどの妖光が暗い倉庫に満ちた。
「ついでに教えてやろう」
 アドリアンの黒髪は、剣の放つ強い光に煽られて、ほとんど青白く見えるほどだった。渦巻く稲光の風の中で彼は勝ち誇り、笑っていた。
「あちらの世界と繋ぐものは、音ではない」
 意味が分からないながらも、それが血霊たちがオルゴール函を探し求めていた理由だと、セナにも知れた。アドリアンがソバルトを斬った。その剣の流れが 一筋の流線を引き、セナのいる側に向かって来るのが見えた。両眼を閉じたセナは強い衝撃を両腕に感じた。跳ね飛ばされたセナはヴァレリアとぶつかって後ろに倒れた。
 光は遠ざかり、昼と夜が入れ変わるようにして倉庫の中には静寂が訪れた。薄闇の底に海鳴りを残して、血霊たちはかき消え、セナの足許には、 アドリアンの剣で叩き斬られた、壊れたオルゴール函の残骸が転がっていた。


 駅舎も列車も、装飾趣味をぎっしりとあしらった、新古風だった。そのうちまた流行が変り、 これらの典雅も無駄の一切をそぎ落とした、硝子貼りの白黒一色に統一されるのだろうかと、そんなことを思いながら、 ロシュディは駅舎の高い天井を眺め回して感慨にふけった。 何千年も前に最高峰を極めた文明が、科学の進歩に浸食されて、後退と再生に相殺されたようなこの世界にあっても、生まれてくる若い命には、 何もかもが初めてで、新しい。
 花売りや菓子売りをかき分けて、帽子をかぶったマノンが新聞を片手に現れた。
「ロシュディ」
「遠くへ行こう」
 妹の旅行鞄をあずかり、両手に革鞄を持ったセナは予約車両に向かって歩き出した。列車はもう到着している。予定どおりだった。
「北か南か。東でもいいな。砂漠の中の薔薇の国、灼熱の太陽と、シトラスの風。知らない土地がいい。いとこ同士の結婚だと云えばそれで通るさ」
「ロシュディ。わたし、やっぱり」
「何人も子をつくろう。 黒胡椒をかけた肉料理に、琥珀色の辛い酒。濃い青空を映す冷たい井戸水と、色鮮やかな鳥の群れ。実のところ僕は、気取った音楽会など肩が凝って退屈なだけだった。 誰もかれもが、わけ知り顔で何かを述べやがる。誰かをやりこめることに終始して、裏に回れば脚の引っ張り合いと相互監視と悪口ばかり。 うんざりだ。お前もそうだろう?」
 マノンの不安を打ち消すように、ロシュディは云い続けた。汽笛が鳴った。マノンの歩みは遅れがちだった。附いて行ってもいいのだろうか。 新天地でわたしは、ロシュディの血を欲するだろうか。それは、わたしたちの未来を意味するだろうか。ジョゼフィンとアドリアンは倖せだろうか。 舟から降りた少女の呼び掛けを最初は無視し、それから手を伸ばしていたアドリアン。互いを少しずつ疎んじ合い、そうすることで結ばれていたような、あの二人のように 愛憎の中に生きることは可能だろうか。
 その答えは出なかった。
 駄目だわ。一緒には行けない。
 ロシュディはすでに列車に乗り、個室の中に入って荷物を棚上げしていた。マノンはホームから動けなかった。ロシュディは何も知らないのだ。 出立の喧騒でごった返している駅だ。今のうちに引き返して雑踏に紛れ込めば、探すことは不可能だろう。 身体の向きをかえたマノンに、知り合いが自分を呼ぶ声がきこえた。
「マノン!」
 人混みをかき分けて、セナが手を振っていた。大切な伝言があるのだと口を動かしながら、餞別の花束を手に、マノンを呼んでいた。祝辞のように汽笛が鳴った。 迷いとの決別のように、マノンのスカーフが風になびいた。

   大学の街と呼ばれる古都だった。自転車を乗り回す学生たちの半分は、休暇の間も親の待つ故郷に帰らない。 炭酸水のあぶくのような漫然として捉えどころのない青春を、互いの下宿にたむろって浪費し、消費し、謳歌するのは、いつの時代の若者にも共通だった。
 首にかけた鎖が黄金の光を水差しの曲面に映している。ヴァレリアは珈琲のお代わりを店の者に頼んだ。小皿に盛られた菓子は、老舗店らしく他ではみない、 洒落たものだった。カカオに包まれた中身は、それぞれアルディッシュ産のマロン、ブルターニュ産の塩、コルシカ島の蜂蜜に、プロヴァンスのクローブ。
「占いみたい」ジョゼフィンが難しい顔をした。
「それは苦いと思うわ」
「トルコ産のルグリス」
「インドのカルダモン。王さまの解毒剤に使われてきた果実ね。こちらをどうぞ。マダガスカルのバニラ味ならお口に合うわ」
「どうして、オルゴールの鍵を取ってしまったの、ヴァレリアさん」
 少女は小さな赤い唇で菓子をかじり、青い花柄の茶碗でジャムを沈めたロシアンティーを飲んでいた。どうして? 頬杖をついたヴァレリアはジョゼフィンから眼を逸らし、 カフェと市場の賑わいに視線を移し替えた。あの頃と同じだった。人々のいとなみがそこにある。違いもあった。 酒や酢を詰めたアンフォラや、鮮度を保つ術のないまま昼過ぎには腐っていく魚、異国から連行された奴隷たち、「乳の塔」と呼ばれた捨て子の公共置き場は、あれきり見かけない。 解体されて店頭からぶら下がっている豚や牛、焼き立ての麺麭の香ばしさについては、現在でもそう変わりない。 集合住宅のインスラそっくりの、縦に高く積み上がった住居。人々の喉を潤す噴水は、かつてのそれの方が大きかった。 パクス・ロマーナ。戦争の狭間に訪れる平穏の時代がここにもある。学生たちはもう少し活発で、勉学と遊びに邁進していたけれど。
 お菓子の味については、断然、今の方が上質だ。手鏡を取り出し、ヴァレリアは口紅が滲んでいないかどうかを確かめた。
「セナは、駅でマノンに会えたかしら」
「無事に。アドリアンからの伝言を伝えることが出来たそうです」
「不公平ね」
 鏡を手提げに戻して、ヴァレリアは口をとがらした。四角い手鏡に映った背後の建築物に、ヴァレリアの知る栄光の帝国を重ねて、仕舞いこむように。
「わたしもマノンも、ソバルトに血を吸われたのは同じだというのに。ソバルトにも影響力の等級があるのかしら。それとも、 アドリアンがマノンの血を吸ったソバルトを斃したから?」
 髪を揺らして、ジョゼフィンは首を振った。少女にも分からないようだった。
「一つだけ確かなことは、アドリアンがそうしたのだということ。逆を云えば、アドリアンがその気になれば、彼はいつでもマノンさんをしもべに出来ます。 マノンさんは人よりも年をとるのが遅いかもしれない、もしかすると、ある日突然、命が尽きて、塵と変るかもしれない」
「人間に戻ったような、そうでないような。ためしに、わたしもアドリアンに血を吸ってもらいたいものだわ」
「彼、喜ぶわ」
 少女の眼が優しく笑っていた。そんなことを思いつくなんて、あなたはカーンビレオの力のことを知らない。
「誘われても、断ったほうがよさそうね」
 生きた見本を前に、ヴァレリアは首を振った。
 お茶を飲み終えると、少女は立ちあがった。ヴァレリアは眩しげに少女を見詰めた。少女はまるで、光のようだ。冬の氷、春の露のようだ。 永遠の都を守護していたパッラス女神のごとく、この少女は生きとし生けるものの分水嶺を軽やかに踏み越えて旅をしている。時を。
「行ってしまうの」
「送電所の跡地で、アドリアンが待っているから」
「また逢えるかしら」
「そう訊く人は多いわ。アドリアンはわたしがあちらの世界の音楽を聴きたいと云ったので、あのオルゴール函を探していたの」
 そして少女はヴァレリアの前から静かに去って行った。ガリアのルテティア、自由、平等、博愛、蜂のように理想をがなり立てる集団暴徒の手によって 断頭台に引き立てられてゆく貴族たちを、ヴァレリアと同じように広場で遠巻きにして見守っていたあの時と同様に。
 ヴァレリアは胸もとを探った。鎖を指にからめて、隠していたものを引き出す。鎖の先には、オルゴールの螺子を回す、小さな鍵がついていた。
 セナもこの曲を聴いたことがあるかしら。
 助教授の愛した妙なる音階。オルゴール函に閉じ込められた、美しいふしぎな音色、菫色の夕べを想わせる。二人で聴いた。これだけはわたしが持っておくわ。
 カフェを出て、古街を歩きだしたヴァレリアは、 ひどく身が軽いことに気がついた。手が、脚が、透けるようになり、夕方の太陽に照らされ、砂金となって、霧と代わり、崩れ落ちていくところだった。
 まがい物のソバルト。だがヴァレリアは微笑んでいた。
 古代の墓。わたしは帝国の聖火をあずかる巫女だった。死ぬまでそうであり続けるだろう。過去を振り返ることを人は愚かなことだと嗤うけれど、 想い出をわたしは愛する。過ぎた日々を、大切に持っておくことを。記憶のこもった鍵をヴァレリアは握り締めた。扉を開き、こうして大気に消えてしまう 水滴にも満たぬ存在であっても、それはわたしが誰かと築き上げ、生きた証に他ならないのだから。
 幻の旋律が寄り添い、歌った。

 連れて行っておくれ。
 君と共に生きることができるならば。



[永遠の都・完]


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