アイリスの雨




■アイリスの雨

私はもう二度と、くちづけをしない。
廃園には、夏の雨が降っていた。
アイリスの匂いがしていた。
雨を跳ね飛ばして、彼が踊る。
筋を引いて地面に流れる雨水を飛び越え、
土のついた濡れた手を伸ばし、私に触れる。
そんなに私を泣かさないで。

崖の縁に立ち、海に降る雨を眺める。
荒波のうねりの上に針のように雨は落ちていく。
庭の草と雨の匂いが混じりあう。
私は空に手を差し伸べて泳がす。
踊る彼がそうするように、手を動かす。
海と空は抱き合い、雨の中で灰色に溶け合う。
この曇りの深みに、空の果て、水のうねり、大気の重たい流れを見つめながら、
最後に広がるのは冷たさばかりであることを、私は忘れたい。

海霧で庭が乳白色にけむる時間が好きなんだ、
私の胸の中で彼はそう呟く。
雨の筋を辿るように、膚に透ける私の血管を指先で追っている。
私は呼吸の湿りの中でじっとしている。
雲の中にいるみたい。
いや、死の国に。あなたは笑って目を瞑る。
二人きりで?
あなたはそれには応えない。
私は彼を横たえ、その瞼にくちづけをおく。
北極星が掠めたみたいだ、彼は哀しみに眼を伏せる。
彼は想い出している。
その手はもう土で汚れてはいない。
私はもう二度と、くちづけをしない。

雲間から差す光に、庭を覆う霧が薄い色を帯びていく。
舞い降りた鳥影のように花の色がぽつりぽつりと古い庭に浮いている。
崩れた壁の端に残る、青銅の取っ手がついた井戸。
窓辺に凭れた私は彼の髪を撫で、疲れたその頭を抱いて、いい聞かせる。
子供の頃、私たちはあそこで水を飲んだわね、交互に、いたわり合いながら。
錆びついた取っ手に手を重ね、上下にそれを動かす間、
身体から力を奪う午後の暑い日差しに抗いながら、向かい合って懸命にそれをする間、
憶えているでしょう、子供だった私たちは、まだそれに名を与えることも知らぬままに、
お互いをもう自分のものとして見ていた。

もう誰にも邪魔をさせない。

彼は私を抱く。
この星の地殻の底にあるものが、赤く輝く溶岩であることを不意に思い出す。
興醒めするほど冷静な声を出す。彼は全く気にしない。
死の向こうにも、世界が、国が----あるの?
私たちは笑い出す。
ある。昔からどんな伝承にもそう書いてある……。

海の上に弓なりの月が見える。
アイリス、彼は私を呼ぶ。
アイリス、それが君の名前だ、あの花の。
彼が私に話してくれるお話はいつも同じだ。
雪の夜道を馬が走っている。
やがてそこは駆けつけたたくさんの官憲の姿で埋め尽くされるだろう。
彼は故郷の町へと向かう。
窓を開けた彼女は、彼の名を呼ぶ。
彼は彼女を奪い、彼女を連れて逃げていく。
どこへ逃げるの。
庭に降る雪の中から振り返り、子供の頃からそうしたように、
私は彼にその続きを語ってくれるようにと頼む。
細い草葉の上に積もった雪を彼は黙って掬い取る。
この土の下に、あの日彼が埋めたものを、彼はもう忘れている。
彼は、もう忘れてた、と嘘をつく。
私は波の音に合わせて、根気よく、彼に問い返す。
彼らはどこに逃げたの。
こっそり教えて、大丈夫よ、知っているでしょう、私は昔から嘘が上手いの。
逃避していく翅をちょうだい。
彼は私の手を取り、雪の中のダンスに誘う。
その二人は兄と妹で、いつか別荘のある、海の傍に暮らそうと夢見ていた。
愛欲の意味でのくちづけは彼らには許されてはおらず、
これからも、許されないだろう。
どうしてなの。
くちづけは互いの瞳が近すぎるからだ。
それが彼らに与えられた罰なのだ、と彼は語り終える。
あなたの瞳を見ると、君の瞳を見ると、
ぼくは思い出してしまう、ぼくの前に君のその唇に触れた男たちのことを。
私は思い出してしまう、私の前に、あなたのその唇を知った女たちのことを。
手をつないで、子供の頃よくこうして、私たちは暗い階段を上ったわね。
子供部屋へ向かう廊下は暗くて冷たかった、私はいつも凍えていた、まるで今と同じよ。
それなら申し分ない、私の手を握る彼が踊りながら頷く。
完璧だ、いつまでもこうしていたいと願ったあの頃と、同じなら。
君は憶えているだろうか、子供部屋へ向かう廊下の途中には、アイリスの絵がかかっていた。
雨の香りがする花だということを、あの頃、君は知っていただろうか。
あの子の唇はいつも赤くて、そして冬には少し荒れていた、こんなふうに。
無防備に、そして差し出されるものとして。
それに触れることは出来ない。
今と同じだ。
雪は降り続ける。庭を埋めていく。薄暮の灰に見える。

私はもう二度と、くちづけをしない。
これからどうするの。
君の望むことを何でも。
彼は最後に、追いかけてきた彼の妻を埋める。
雨の中に埋める。
雨が降っている。
降り止まない。



[了]



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Yukino Shiozaki
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