[葡萄の山] ****************** Yukino Shiozaki |
■葡萄の山
「詳しい話は後からするから、とにかく今すぐその家を出なさい」
石の雨が今日も降った。
空は蒼く、波の音が聴こえ、庭には噴水の水が滾々と溢れて花壇に飛沫をとばし、
柱廊を抜けて吹く風は家の隅々に満ち渡っている。
いつもの朝だった。
しかし反対側に眼を向けると、大きな山からは見たこともないほどの煙が出ていた。
わたしはその山を見ていた。
「テルティア。いいね」
念を押すセクスティウスを、わたしは無視することにした。
踵を返すと、セクスティウスはわたしの後を附いて門をくぐり、屋敷の中に入って来た。
屋敷の老ご主人さまは総督の覚えもめでたい若手のセクスティウスを贔屓にし、
武功を立てた彼の訪問は歓迎されこそすれ、咎める者は誰もいない。
室に戻ったわたしは小型の機織機を手に取り、膝の上に乗せて、ふたたび続きにとりかかった。
竪琴のような機には、絹糸が美しいくもの巣のようにかかっている。
これは、奥様の腰紐になるものだから、丁寧に仕上げなければならない。
それなのに、久しぶりに逢えたと思ったら、そんな話を。
セクスティウスは黙っていた。
軽装の鎧をつけ、功を立てた軍人のつける飾章が逞しいその胸や肩に光っている。
寡黙で、ほとんど表情を変えない。
軽くびっこを引いて歩くわたしを、追い抜きもせず、わざとらしく遅れもせず、
わたしの歩行に合わせて悠然と歩を運ぶ彼の歩き方。昔から変わらない。
十七年前、わたしはこの人の腕に抱かれて、地震の難を逃れた。
わたしの両親とわたしの兄姉たちは崩れ落ちた建物の下敷きとなって、その時に皆死んだ。
セクスティウスの両親とわたしの両親の間には親交があり、その日、彼らはわたしの家を訪問していた。
ゆりかごの中のわたしが泣き出したのを見て、十歳だったセクスティウスはわたしを抱き上げ、
あやすために庭に出た。
そこに地震が起きた。
町全体が持ち上がり、立てるもの全てが倒壊し、瓦礫と共に地面に叩きつけられた後には、
一瞬にして孤児となったセクスティウスとわたしが残されていた。
テルティアという通称名が示すとおり、わたしは両親の三番目の女の子だった。
わたしたちの親は、わたしが生まれた時から、将来はわたしたちを結婚させようと決めていたと
セクスティウスは主張するけれど、本当かどうかは分からない。
それならば、その時の地震で死んだわたしの二人の姉のほうが、
年齢的にも彼の許嫁になるには相応しく、その他の点でも釣り合いが取れていた。
機を織りながらわたしは椅子の下で、引きずる方の脚を隠した。
セクスティウスは決してそのような眼でわたしの不自由な脚を眺めたりはしない。
けれど、落ち着いた物腰の、立派な装いをした人の前では、それが男であろうと女であろうと、
わたしはこの脚のせいでひけ目を感じてしまう。
片脚が生まれつき悪いのだ。歩く時にも走る時にも、身体が少し傾く。
そんな娘を誰が好んで妻とするだろう。
或いはもしかすると、雇われた家でからかわれているわたしを見たセクスティウスが、わたしを憐れみ、
この家の女主人が少しはわたしを丁寧に扱うように、その為についた嘘なのかも知れない。
「セクスティウスは信用できない」
この家の若だんな様はセクスティウスが気に入らず、始終そう云うけれど、
そこにはわたしの関心を引こうとする、若だんな様のセクスティウスに対する対抗心が仄見えた。
どちらでもかまわないわ。
わたしは機に緑の絹糸を新たに足した。
若だんな様は、外征地で目覚しい活躍をしているセクスティウスを同じ年の男として嫉み、
羨んでいるのに違いない。
どちらでもかまわないわ、待遇が変わろうと変わるまいと、奥様が揃えたこの家の使用人たちが
陰湿で意地悪なのには変わりないし、わたしは彼の許嫁でもないのだから。
それなのに、セクスティウス様の云ったことは嘘です、わたしは彼とは結婚しません、と何度云っても、
目配せと冷やかしはついて回った。
(あの娘、赤ちゃんの頃はセクスティウス様に襁褓を取りかえてもらっていたそうよ)
想像するたびに羞恥のあまり前のめりに倒れそうになる。
機を織ることに集中した。
属州ゲルマニアに赴きゲルマン人との激戦で何度も功を立てた華々しい武人と、びっこの娘。
軍人として頭角を顕してきたセクスティウスに対する街の人々の尊敬や、
彼に秋波を送るこの家の女たちの噂話にも、わたしは気がつかないようにしてきた。
羽根つきの兜をかぶり、兵を叱咤激励して突進していく彼の姿は、わたしには想像できない。
無口と無表情は変わらないけれど、軍ではそれが貫禄になるのかしら。
容姿が際立ってよいわけではないけれど、見てくれを気にしてばかりいる男たちよりはよほどいいわ。
わたしはもう、少年だったあなたが腕に抱いて、瓦礫の山と火災の中を逃げたあの時の赤子では
ないのだから、任期を終えて街に戻って来るたびに、父か兄のように、そんなに気を遣わないで。
陽のあたる床に、まだらな影が落ちた。
また、石の雨が降ったのだ。
最初は小鳥の屍骸が落ちてきたのかと思って愕いたけれど、拾い上げてみるとそれは、
くぼみのたくさんある、温かな、そして軽い石だった。
海を見た。
海が海底の石を吐き出したのでない限り、ではこれはやはり、空から落ちたのだ。
石は庭のあちこちに転がって、水盤に落ちて水音を立てたものもあった。
あたってもさほど痛くはないけれど、それでもそれは、不気味な光景だった。
そしてこの現象は数日前から散発的に始まり、だんだんと酷くなっている。
室を大股に横切って、セクスティウスは窓から外を見た。そこからは海が見える。
人工過密気味の都からほどよく離れた、風光明媚な別荘地。
貿易港をひらくほど海岸はなだらかではなく、それだけに急激に落ち込む海岸線は、
素晴らしい眺めを人々に提供してくれる。
わたしが家族を失った十七年前の大地震の後では、再建が叶った家と、
そのまま没落していった家とにはっきりと分かれてしまい、
その後に金貸しや商人などの新興成金や自由民がなだれ込んで来て、
名家に生まれたわたしが人の家に仕えているように一部では品が落ちたけれど、
それでも地方都市ヘルクラネウムは、貴族の壮麗な別荘が建ち並ぶ、劇場と四つの公共浴場、
上下水道とパラエストラ(体育場)を備えた、区画整理の整った、立派な美しい街だ。
わたしは機を織りながら、厳しい顔つきで空を見上げているセクスティウスをそっとぬすみ見た。
罰して欲しい人がいるとわたしが云ったなら、セクスティウス、あなたは腰のその剣で、
日に焼けたその腕で、わたしの為にそれを果たしてくれるかしら。
屋根が音を立てた。
わたしとセクスティウスは天井を見上げた。
空から落下してきた石は次々と屋根を打ち、軽やかな音を立てながら転がって、庭先に落ちてゆく。
野生の鳥や鼠の姿をそういえば、ここ数日見ていない。
セクスティウスは帰る前に今日はじめてわたしの肩に触れた。
逢えると分かっていたら、髪飾りをつけておくのだった。
「テルティア、わたしは明日にも海軍基地ミセヌムへ赴かなければならない。
ここ数日の地震と、この異変は、大地震の前兆に思う。
建物の中に居ては危ない。この家を出なさい。そして逃げるのだ。いいね」
任務に就いているところだというのに、僅かな時間を使って、馬を飛ばしてここに来てくれた。
詳しい話は後からするから、とにかく今すぐその家を出なさい。
「セクスティウス、詳しいお話とは何ですか」
わたしは織物から眼を上げなかった。
出て行く途中で彼は立ち止まって振り返った。
けれど結局、セクスティウスはそれが何かは教えてはくれなかった。
もしこの家の人たちが今のことを見ていたら、彼らはまたわたしをからかって嗤うだろう。
莫迦な娘だね、セクスティウス様はいよいよお前を花嫁にしてくれようというのだよ。
花綱で居間を飾り、暖炉の前に毛皮を敷いて、処女のお前が慎ましい姿でやって来るのを
待っていらっしゃる。
そうでなければ、身寄りのないお前を、誰があのように構ってくれるものかね。
せいぜい、そのびっこが目立たぬように、お淑やかに歩く練習でもしておいで。
それが間違いであることをわたしは知っている。
セクスティウスは将軍の娘と近々結婚することになっている。
立ち去る彼の足音が遠くなる。
わたしが胸から下げている貝殻のお守りは、セクスティウスがくれたものだ。
テルティア、軍人になって遠くへ行くことになった。
わたしがもう少し小さい頃、大事なことを話す時には彼は肩ではなく、わたしの頭の上に手をおいた。
セクスティウスは十七年前の地震で、妹を亡くしている。
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ゆりかごの中に、赤ちゃんが眠っている。
赤子を覗き込んだ人々は頷く。大丈夫、よく眠っている。
少年は大人たちに訊く。
その子を、何処に連れて行くの。
雨の音で眼が覚めた。
ヘルクラネウムは海岸沿いの避暑地だ。
流通経路が発達し、この世にある全てのものは揃っている。
此処では都と同じように季節はずれのアスパラガスも、あざみの芯の油漬けも手に入る。
裕福な人々はほとんど台所を使わない。
使いを出せば、すぐに品物は調理された状態で届けられ、麺麭も卵も、肉も魚も、
ケーキもワインも、朝から晩までお望みのままだ。
今朝ほども、セクスティウスが訪ねて来なければ、わたしは青果店に出かけるところだったのだ。
老ご主人さまの好物のなつめやしが切れかけていたから、忘れずに買わなくては。
奥様に夕餉のお伺いを立てて、なくなりかけている魚ソースも頼みに行かなくてはならない。
それに、もしかすると災害に備えて貯蔵できる食材もお頼みになるかも知れないわ。
外は、まだ石の雨が降っているのかしら。
膝の上に乗せたままだった機織機を横に退けた。
うたた寝から目覚めたわたしは、室がやけに暗いことに気がついた。
ほんの少し居眠りしていただけだ。まだ日が沈む時刻ではないのに、これはどうしたことだろう。
窓に向かった。そして悲鳴を上げた。
鳴り続ける石の雨の音は、夢ではなかった。
暗い空から、石の雨が降っていた。
庭一面が灰色に見えるほどに、石で全てが埋め尽くされている。
顔を出しかけたわたしは慌てて身を引いた。
鼻先を掠めるように、また石が落ちてきたのだ。暇な子供がいつまでもそれを投げるようにして、
軽石はあれからずっと絶え間なく、この街に降り続いていたのだろうか。
雨と違い土に吸い込まれることのない石の雨は、見ている間にも地を覆い、
その堆積はどんどん厚みを増して、噴水の水面もすでに見えなくなっていた。
造園師に剪定させたばかりの庭園も見る影もない。
石礫の量は、朝に比べれば、何倍にもなっている。
蝗の大群が襲っても、これほど怖ろしくはあるまい。
ざざっと音がして、今度は大量の灰がばらばらと落ちてきた。
たとえば街の地図の上に、袋いっぱいの砂礫を篩いにかけて落としたら、
ちょうどこんな具合になるだろうか。
地鳴りがして、床が揺れた。地震はすぐに収まったけれど、石の雨は止まなかった。
ふと思いついて、列柱廻廊を抜けて二階にかけ上がり、反対側の窓からわたしは遠い山を望んだ。
この街はあの山の麓にあたる。
山の頂きからは見たこともないほどの大量の濃厚な煙が高く出ていて、雲の高さにまで達し、
黒々と広がる噴煙のかたちはまるで茸か、枝葉を広げた松の樹のようだった。
あれは葡萄の山。
ここからはまったく見えないけれど、山腹には三十ほどの葡萄農園があって、
質の高さでは定評のあるワインを造っている。
昔、トラキア出身の一人の剣闘士が奴隷仲間を率いて立ち上がり、
剣闘士養成所のあったカプアの町を脱出後、あの山に立てこもったことがあるそうだ。
野生の葡萄の木が生茂るあの山で、逃亡奴隷の彼らは数の上では何十倍も勝る包囲軍を急襲し、
見事に潰走せしめた。
こんな話も、すべてセクスティウスから聞いたことだ。
その後、彼らはどうなったの?
わたしが訊くと、知らなくていい、とセクスティウスは答えた。
その頃わたしたちは一緒に暮らしており、子供のわたしが眠るまで、彼は傍で起きていた。
窓からは山が見えた。
葡萄の山は夜になると、その内側からたくさんの星を吐き出しているように見えた。
今ではわたしも剣闘士たちの末路を知っている。
最終的に指導者を失って戦いに破れた彼らは、街道沿いに生きながら磔にされ、
腐るまで放置されたのだ。
わたしはセクスティウスにねだったものだ。
いつか、わたしをあの葡萄の山に連れて行って。
何十倍も勝る敵と戦ったその人たちがいた処へ、わたしも行きたいの。
(どうして。テルティア)
セクスティウス、わたしも自由が欲しいから。
時が流れ、わたしはもうセクスティウスにそれを頼むことはない。
ヘルクラネウムはあの山の麓にある。
けれども、それは一人では歩いて行くことの出来ない、遠い山だった。
奥様がわたしを呼ぶ声が天井に響いた。
「テルティア、此処にいたのかい」
「奥様、いったい、この石はあの山から飛んで来ているのでしょうか」
わたしがこの家に預けられた時、すでに前の奥様はお亡くなりで、いまの奥様が女主人となっていた。
奥様がいつも身につけていらっしゃる二匹の蛇をあしらった黄金の腕輪と、
紅玉と緑色碧玉が象嵌された大きな指環は、植民地の遺跡から発掘し、船で運ばせたものだ。
ながらくお子が出来なかったが、ようやく生まれた。
老いてから授かった赤子への、ご主人さまの可愛がりようはまたとなく、
若だんな様がいらっしゃるというのに、先ごろ書き換えられた遺言状により、
この家の財産はすべて残らず一昨年生まれたいまの奥様の生んだ男の赤ちゃんのものになるそうだ。
奥様は癇症な早口でまくし立てた。
「屋根が潰れた家もあるそうだよ。この家は石造りだし、
落雷があっても持ちこたえるほど頑丈だから大丈夫だと思うけれど、
大切なものは、地下室と、いちばん柱の太い部屋に運び込んでおくれ」
「はい」
「この頃は漁に出ても、狩に出ても、何も獲れなかったそうだ。いったいこれは何の予兆だろう」
陰口を好む人間にありがちなように、奥様は信心深い。
この家にも、祈祷台があって供物を毎日欠かさない。
天災に対して慌てふためいたとて何にもならないというのに、奥様はすっかり動転しておられるのか、
独り言を大声で口にしながら、わたしを突き飛ばすようにして早足で立ち去られた。
おそらく、いつでも避難出来るように家財を隠したり、宝飾品を手提げにまとめに行ったのだろう。
富栄え、奢侈を極めた家だから、地震よりも泥棒を怖れているのだ。
白大理石の床がまた揺れた。
もし本当に何処かへ避難するとなったなら、わたしも連れて行ってもらえるのだろうか。
それとも、家の留守番として、残されるのだろうか。
かなしいかな、嫌な予感は当たった。
積もった石の重みで屋根が陥没し、押し潰された家が三軒目になった頃、街の人たちは賢明にも、
大慌てで住いを後にした。
石と灰の雨の中、丸めた布や調理器具で頭を庇った人々が、家族と手を繋ぎながら、
街の通りを急いで市壁の外へと逃れてゆくのが、門のところからも見えた。
「テルティア。お前は家に残って、坊やの面倒を見ておくれ。
この混乱の中では赤子を連れてゆくのはかえって危険だと旦那さまが仰るのだよ。
でもいいかい、いよいよ危なくなったら、坊やを連れて逃げておくれ。
奴隷たちも残しておきますが、お前がしっかり監督して、勝手をさせてはいけませんよ」
「はい、奥様」
「海から船が出るそうです。陸路からは救援の軍団兵も急ぎこちらへと
向かっているそうだから、頑張っておくれ」
その頃にはひっきりなしに降り続ける石と灰の惨状が明らかになってきていて、
取り残されるのも、夜をぬって石の雨の中を進むのも、そうとうに怖ろしいことになっていた。
この街は、このままでは埋もれてしまう。
眠れぬままに夜を過ごした。
坊やの室に手燭と機織機を持ち込んで、坊やにスープを与えて寝かしつけると、
一心不乱に機に集中しようとしたけれど、家が軋むたびにゆりかごの傍から飛び上がった。
牛馬の蹄で四方の壁を蹴るような石の音、降り続ける灰の音、我慢できない。
揺れが収まった頃を見はからって、消えかけの火に油を足しに室の外へ出た。
こんな夜に明かりなしでは耐えられない。
中庭の惨状からは眼を逸らした。
家が沈下していると思ったのは、そうではなく、
外に積もり続ける軽石がそれだけ高さを増しているからそう見えるのだ。
まるで河の大氾濫のごとくに、石と灰の落下物で、この街は埋没してしまう。
生き埋めになる前に、二階に移ったほうがいいだろうか。
鼻と口を湿らせた布で庇い、手燭に油をじゅうぶんに足して、わたしは室に戻った。
ゆりかごの中には、わたしが室を出た時と変わりなく、坊やが寝ていた。
坊やは息をしていなかった。
「テルティア。一緒に逃げよう」
もしわたしが、天変地異のこの夜に、人恋しく、すがれる者になら誰にでも
すがりたい気持ちでいたとしても、歓喜の表情も凍り付こうというものだ。
いつの間に家に戻って来たのだろう。
暗い室の中には、灰をかぶった男がいて、わたしの後ろに立っていた。
若だんな様だった。
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わたしには分かっている。
奴隷なら幾らでも手に入る繁栄のこの街で、片脚を引く娘を召使にわざわざ欲しがる家はない。
だから、軍隊に入る前、セクスティウスは、わたしをこの家に預けるしかなかったのだ。
惜しいな、この娘、不具でさえなければ。
家を訪れる客人はわたしの姿を眺めては、決まってそう云った。
或る夜、若だんな様がわたしを離れにお呼びになった。
若だんな様のもとには友人の青年たちが大勢遊びに来ていた。
いまの奥様と若だんな様は血が繋がっていない。
若だんな様はお亡くなりになった前の奥様のお子なのだ。
呼ばれたわたしは云われるままに膝をつき、身をかがめた。おかしな格好だった。
彼らは笑った。
娼婦の家の壁には、お前と同じ格好をした女が描かれているよ。裸だったら、もっといい。
蒼褪めていくのが自分でもはっきりと分かった。
「昨夜は酔っていたのだ」
次の日、若だんな様はわたしに詫びた。そしてきまり悪げにわたしに手を伸ばした。
こんな時、他の娘ならどうするのだろう。
だらしなく笑って、仕掛けられた戯れに歓びの嬌声を上げるのだろうか。
わたしは黙って片脚を後ろに引くだけだった。
若だんな様は詰まらなさそうに横を向いた、そして云った。
先日、総監のお招きで盛大に開かれた夜会には、セクスティウスが来ていた。
将軍の娘と語らっていたぞ。
総督閣下の仲人で、彼らは結婚することになっている。
誰もが羨む美女、お前のように、びっこを引くこともない。
「若だんな様、赤ちゃんが」
走り寄って赤子に覆いかぶさろうとするわたしを、若だんな様は無理やりゆりかごから引き離した。
「若だんな様、赤ちゃんが、坊やが息をしておりません」
「眠っているのだ」
人々がゆりかごの中を覗き込む。大丈夫、よく眠っている。
いいえ、息も止まる思いでわたしは首を振った。石の雨の音は鳴り止まなかった。
「若だんな様、坊やが、あなた様の弟君さまが、死んでおります」
「義理母の子だ。わたしが首を絞めて殺した」
手燭の火が大きく揺れた。若だんな様はわたしの腕を掴んだ。一緒に来い。
テルティア、お前がこの家に来た時から、好きだった。
その赤子はわたしが殺した、これでもう、お前はこの家には居られない。俺と一緒に来るしかない。
その赤ん坊を殺したのは、取り上げられた相続権が欲しいからではない、欲しいのはお前だテルティア。
迎えに来たのだ、この街を捨てて、二人で遠くへ行こう。
ぶつかった胸の間で、セクスティウスからもらったお守りが音を立てた。
若だんな様はどうかしておられる。
わたしは抗った。
云うことを聞け、テルティア。わたしはお前を幼児殺しの大罪人として
このまま突き出すことも出来るのだぞ。
外はそんなにも灰がひどいのだろうか。若だんな様の長上衣はもとの色が分からぬほどに汚れていた。
わたしは咳こんだ。
若だんな様の眼はぎらぎらと光った。
子守女とわたしの言葉のどちらを人は信じると思う。お前が赤子を殺したのだ。
もう戻れはしないお前は俺と来るしかないのだ、一緒に逃げよう、テルティア。
わたしが叫んだのは、若だんな様を怖れたからではなかった。
地震がまた襲ったのだ。
暗闇の中でものの倒れるすさまじい轟音がした。床に転がるままに、余震の中で抱きしめられていた。
飛び散った油に火が燃え移り、辺りは燃えるままに明るくなった。
若だんな様はわたしに覆いかぶさった。
何もかも滅びてしまうのだ。一緒に死のう、テルティア。お前が好きだ。
地鳴りがした。身体の奥が葡萄色に染まっていくような気がした。
怒りでも悲しみでもない色だった。
誰がわたしを愛してくれるだろう。
セクスティウスは将軍に付き従って、鎧兜に身を包み、わたしのことも忘れて戦いの野を駈けているわ。
今すぐその家を出なさい。
何処にも行くところはないことを知っていて、どうしてあんなことを云ったの。
若だんな様を押し退けた。炎が熱かった。
「助けて。誰か、助けて」
若だんな様は笑い出した。
何処に逃げるつもりだ、テルティア。外は石礫が街路を埋め尽くし、灰が分厚く舞って、
逃げる場所も隠れる場所も、何処にもない。
這いずって逃れようとしているわたしの髪を掴んで、若だんな様は室に引きずり戻した。
街道は閉ざされた。もう逃げられはしない、お前もここで死ぬのだ、テルティア。
おもしろい話を教えてやろう。
もがく足首を掴まれた。
若だんな様は仰向けにしたわたしの顔を真上から覗きこんだ。
お前のこのみっともない脚は、セクスティウスが損なったものだ。
奇形の子は一生涯、日陰者でいなければならない。
育っても正常にはならないことが明らかになると、お前の両親は医者だったセクスティウスの親の
立会いのもとで、赤子のうちにお前を安らかにしてやろうとした。
(その子を、何処に連れて行くの)
(その子に、何をするつもりなの)
セクスティウスは大人たちの手から赤子を奪って逃げた。この子を殺さないでやって。
少年は叫んだ。
ぼくがこの子の脚を壊したから、この子を殺そうとするのですか。
「お前の母親は、お前が腹の中にいる時に、
転んだセクスティウスを助けようとして、階段から落ちたのだ」
(詳しい話はあとからするから)
大人たちは少年を責めなかったが、少年は生まれた赤子の脚のゆがみを、
自分のせいだと思った。
(セクスティウス。お前は責任を感じているのだね。だがいいのだよ、
見苦しいからだで生きるよりは、ここで死ぬほうがこの子のためなのだ。
お前のせいではないのだよ。眠っている間に、このまま眠らせてやろう。
棺の中に入れる花を摘んでおいで。これが、この赤子のさだめだったのだ)
(テルティアを殺さないで下さい。きっと治ります)
セクスティウスは大人たちから赤子を奪った。そこに大地震が起きた。
大災厄は冬には起こらないと云われていたのに、十七年前の冬、その地震は起きた。
崩壊した家を眺めながら、少年は思ったことだろう。
赤子を抱えて逃げた自分を追わなければ、彼らは倒れた列柱の下敷きとなることもなかった。
若だんな様は狂気の中で哄笑した。
あの男が、お前の脚と、家族と、幸福のいっさいを奪ったのだ。
テルティアを何としても妻にしたいと俺が云った時、もうその手段も考えてあるのだ、
後妻の言いなりになっている老父と、あの欲深い女とあの女が生んだ子供に思い知らせ、
テルティアを解放してやる方法を考えついたのだと俺が云った時、
それでは、テルティアをあなたの家から連れ出そうと、あの男はそう云った。
あの男はおととい此処に来て、お前にこの家からすぐに出て行くようにと云わなかったか。
俺は追いかけて、お前にそんな資格があると思うのかとあの男に言い返してやった。
なにが勇敢な軍人、凱旋の二輪馬車を操り、将軍の隣で民衆の歓呼と花吹雪に応え、
皇帝より直々にお褒めの言葉を頂戴したあの男は、その実、
そ知らぬ顔をしてお前の脚が歪んだ真の理由をずっと隠していた卑怯者ではないか。
「身重のお前の母親がセクスティウスを庇って階段から転落した時、
わたしの母もその場に居合わせていたのだ。
めぐり巡ってセクスティウスがお前を当家に預けに来るまで、
わたしも亡き母から聞いたそんな昔話はすっかり忘れていた。
お前の脚を見て、想い出した。当時母がしきりに不憫がっていた、
あれはあの冬、孤児になった片輪の子だ」
どうやって外に出たのか、覚えていない。
真夜中だと思っていたのは間違いで、朝だった。
このように暗い朝を、わたしは知らない。世界が滅びるとしたら、こうやって滅びてゆくに違いない。
太陽も青空もなく、渦巻く雲と、茫々とした灰色しか眼の前にはなかった。
ヘルクラネウムの街は、街ごと、黒煙の詰まった瓶の中に閉じ込められたようだった。
砂塵で痛む眼をこすりながら見上げれば、空一面に黒い点があった。
それらは灰や軽石と変わり、地上に落ちてきた。
落ちてくる石を避けて商店の軒端に隠れたが、わたしはすぐにそこを出た。
眼の前の家が石の重みで傾くのが見えたのだ。建物の中にいたほうが危ない。
振り返れば、山が真っ赤に燃えていた。
いつかの日、港から連れて来られた黒人奴隷の背中が、
鞭打たれて真っ赤に裂けていたのを見たことがある。
それと同じように、黒い山の方々がぱっくりと細く口を開き、そこから炎が山肌を伝って流れ出していた。
山の頂きからは噴き上がる炎が天高く火花と岩を飛ばし、それは雲を赤黒く光らせ、
空は雷のように轟いた。
あの火の河がこちらへ来たらお終いだ。
愕いたことに、この頃になっても、まだ街には彷徨っている人がいた。
わたしと同じように取り残された召使や奴隷、または石の雨がいつかは止むことを願って、
朝まで家の中に残っていた人々だった。
煙と灰から、人々は逃げた。
わたしに字が読めて助かった。通りの名前を記した道標を時々確かめなければ、
この闇の中では方角をすぐに見失ったことだろう。
突然飛び出してきた暴れ馬に蹴られそうになった。馬は嘶きながら、また砂塵の中に消えていった。
気がつけば、見知らぬ人たちと手を繋いでいた。
異変の恐怖の中で、誰でも人影と見ればすがりつき、そうせざるを得なかったのだ。
だけど、遅れがちなわたしはすぐに誰からも見棄てられ、置いて行かれてしまった。
軽石と灰砂に打たれ、地を埋め尽くした石の上で、何度も転んだ。
息がしだいに苦しくなり、咳き込みながら脚を引いて歩き続けた。
海岸に辿り着いた。
海は荒れ、波は奇怪なかたちに大きくうねっていた。
脱出路に海の門のある西を選んだ人々は間違いだった。
岸壁沿いの部屋で海の荒れが静まるのを待っていた人々は、
それから数刻のちには、皆そこで焼け死んだ。
船は一艘も見当たらず、船があったとしても、この高波ではどうしようもない。
ヘルクラネウムの街を滅ぼす仕上げに、神様は、
破滅の袋の残り全てを街の上にぶちまけようとしていた。
ふっと一息、炎をふくんだ風を入れるだけで良かった。
それはあらゆる瓦礫を巻き込みながら、高熱の竜巻となって、遠い山から一足飛びに街を蓋い、
全てをたちどころに大量の灰で埋め、熱波で突き飛ばし、窒息させた。
「熱雲が来る!」
人々は絶叫した。
最後に見たものは、雲にまで届く、黒い火山灰の壁だった。
防波堤の上でわたしは均衡を崩し、海へと落ちた。その直後、海水を沸騰させた熱嵐が海面に届いた。
隠さなくても良かったのに。
わたしは、その人の前で、悪いほうの脚を出した。
ほら、わたしも、もう隠さないわ。
ずっと気にしているふりをしていただけなのよ。そうすれば、いつまでも、
あなたがわたしのことを気にかけてくれるのではないかと、そう思った。
かわいそうな人、昔のことなど、気にしなくても良かったのよ。
わたしに合わせて歩いてくれていたことを、知っています。
海の渦に巻き込まれたわたしは、遠くの海岸へ打ち上げられた。
あれから何日も太陽が噴煙に隠れているために、冬のように寒かった。
何度も余震があり、昼も夜も、降り積もる灰と薄闇の中だった。
避難所には、大勢の人がいて、運び込まれたわたしもそこに居た。
水と、お粥が配られたが、ほんの少ししか喉に通らず、あとは吐いた。
息を吸うたびに胸がきしんで痛んだ。きっと火の粉か灰を吸い込んだのだ。
避難所では壊滅した幾つもの街の話が怖ろしげに囁かれていた。
お屋敷の人たちはどうなっただろう。
或いは、海岸沿いの何処かで、二匹の蛇をあしらった黄金の腕輪と、
紅玉と緑色碧玉が象嵌された大きな指環は、持ち主とともに灰質の泥流に埋もれ、
ふたたび遺跡となろうとしているのかも知れない。それを確かめるすべはない。
破れた衣の上に、誰かが布をかけてくれた。
身体中が傷だらけだった。
大火傷を負った人もいた。彼らはじきに動かなくなった。
やがて、時折、陽が差すようになった。人探しの声が飛び交う中で、わたしが探されていた。
避難所に入ってきた彼らは揃いのきらめく鎧をはいていた。
避難民に水や食料を配布しながら、大きな声で呼びかけていた。
「びっこのテルティア。びっこのテルティアという娘はいないか」
横たわったままわたしは応えなかった。きっと、幻聴だ。
声は遠のいた。
また日が過ぎた。
やがて、薄目を開けると、辺り一面に人々がわたしと同じように力なく倒れているのが見えた。
噴煙がようやく晴れたのか、不思議な明るさに満ちていた。
こんなにも空は美しかっただろうか。白い雲は。
眼を閉じた。
肺はもう痛くなかった。
誰かが人を掻き分けてまっすぐにこちらを目指してやって来た。彼はわたしの傍で足を止めた。
膝をつき、わたしの髪をはらい、頬に触れ、それから汚れたままの顔をなぞった。
彼はわたしの胸の間から、それを引き出した。
このお守りは、あなたがくれたものだ。
抱き上げられた。
倒れている人々をまたいで、わたしを腕に抱きかかえたまま、力強くはこんでゆく。
新しい風が吹いた。
わたしは眼を閉じたままでいた。雲が青い空に流れてゆく。
ずっと待っていた。今度こそ、もう離さないで。
輝く平野が見えた。船が見えた。馬車もあった。
大勢の人が先に乗って、わたしたちを待っていた。大人もいた、子供もいた、商人も兵士もいた。
静かだった。
少年の声がした。抱き上げられてはこばれてゆくわたしを指している。
一緒にいられるだけで、それだけで良かったのよ。
もう心配しないで。
彼の腕の中からわたしは少年に微笑みかけた。
降り続ける灰がやんだ後には、花の咲く野原が残った。そこにはきっと緑の葉が揺れている。
その子を、何処に連れて行くの。
葡萄の山へ。
[了]
本作品は2007夏、お題企画『冒頭一行より短編を編む』に則ったものです。
「詳しい話は後からするから、とにかく今すぐその家を出なさい」、こちらのお題を私に下さった某さま、有難うございます。
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