[野末の石]
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Yukino Shiozaki

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■野末の石

 最初は誰でもそう言うが、結局は皆、おさまるところにおさまる。
満開の木蓮の下で、銃を構えた。
トゥルスキー・トカレヴァ。
フョードル・バシーレヴィチ・トカレフ。
一度唱えるだけでは覚えられない、そんな名の男が設計した銃だ。
 「渡邉」
 将校の五島は梱包を解き、箱に詰まった弾丸を渡邉に寄越した。
砂まじりの風が吹いていた。
 「ようやく流してもらえた参考品だ。粗略に扱うなよ。その銃には安全装置がついていない」
 銃を構えたまま渡邉はわずかに振り返った。
五島少佐は肩をすくめてみせた。安心しろ、正規品の銃だ。
 「安全装置がないのは造兵廠から出た最初からの仕様だそうだ。
  ソ連では実際に暴発例もある。気をつけることだ」
 頷くと、渡邉は銃身を確かめた。アカの銃は、アメリカのM1911を踏襲している。
 「五島少佐殿、しかしながら1911に比べると、こちらは徹底的に簡略化されています。
  あちらの増産体制も長期化は苦しいのではありませんか」
 わが国ほどじゃないさ、五島少佐は軽くいなした。
上層部はすっかりその気のようだが、見てみろ、この大陸の広さを。
一日鉄道に揺られていても、次の日にはまた同じ山が地平に変わりなく見えている。
補給線を確保するには、陸海軍、全軍挙げてもまだ足りんくらいだ。
艦艇にしろ戦車にしろ、それを動かす油のない国が戦争なんぞ始めて、
いったいどうする気なのかね。
国であればそのまま巣鴨にしょっぴかれそうな不穏当発言であったが、
淡々と語る五島の口調は、風の中にやわらかかった。
官費留学したハルピンでシナ語とロシア語を習得した五島は、リトアニアの領事館に勤めたこともある。
本来は帝国大使館附陸軍武官としてモスクワ行きを切望したそうだが、ソ連側が五島の赴任を拒否、
なんでも生粋のロシア人よりも達者といわれる五島の語学的才能に対して先方が脅威を覚え、
大使館に出入りさせる人物としては、危険視されたからだそうだ。
それでいて愛読書の背表紙を見れば、英国製ディケンズ。
夕陽で染まった土の上を両手を後ろに組んで歩き回る五島は、
おとなしい容貌と、その経歴とあいまって、若き大學教授のごとき風情があった。
 そうだ、この男は、たとえ往来で不敬な発言をしたとしても、憲兵に引っぱられることなぞない。
渡邉は五島から眼をそらし、銃を片手に空を見た。空には夕方の月があった。
五ヶ国語を自在に操る五島は、しかし日本人の間では、徹底して日本語しか使わなかった。
 「渡邉少尉。わたしは先に帰るぞ。今夜はまた移動だ、久しぶりに街に戻れる。遅れるなよ」
 「すき焼きが喰いたいです」
 「相変わらずお前は色気よりも食い気だな」
大陸の夕陽をきって飛んできたものを渡邉が受け取ると、官給品の煙草だった。
 「粗悪品」
 「まあ、そう云うな」
 お前が舶来ものに慣れた横濱育ちなのは知っている。五島の顔は笑っていた。
 「その銃、携帯する時には弾丸を抜いとけよ。
  死ぬのは勝手だが、近くの者が巻き込まれてはたまらんからな」
 五島少佐は渡邉を残して踵を返した。ひと気がなくなったところで、
ふたたび渡邉は銃を仔細に眺めた。
大柄なソ連兵の手に規格を合わせているせいか、遊底がおそろしく引きにくい。
装弾数、八弾。照準結構。
渡邉は周囲を見廻した。誰もいない。水仙色の大気の向こうに夕映えの山々が見えた。
五島がこれをくれたということは、好きに遊べということだ。
ここはお国を何百里。
いまの末息子の顔つきを見たら、国許の老親は腰を抜かすに違いない。
両足を開き、腰を落として銃を構えた。
夕空に銃音が鳴り響いた。
ねぐらへ帰る鳥が騒いだ。
木蓮の花が飛び散って地に落ちた。
渡邉が狙い定めた枝はそのままそこにあった。
 (この次は、外さん)
 持ち重りのする銃を手の中で転がした。すぐに使えるようになる。
射撃じゃ貴様に敵う奴はおらんからな、五島はそう云ってよく褒めてくれるが、
好きでやっているわけではない。
引き金は霜夜に降る雪のように静かにひけ、撃とうと思うな、教えられたとおりに、そうしているだけだ。
それに、視力も人よりはいい。
土塀に凭れた。
五島にもらった煙草に火をつけようとしたが、思いとどまり、渡邉は軍服の襟元をくつろげた。
発砲後、腕と肩にくる反動の余韻を堪えることにもすっかり慣れた。
木蓮の樹の上に広がる異郷の雲を睨んだ。
いつの時代のものとも知れぬ崩れた土塀が荒野にのびて、そこに風が吹いている。
鍬を担いだ畑帰りの農夫が河のほとりから、こちらをじろりと一瞥していった。
半島に降り立った当初は、砂混じりのこの風に悩まされた。風は砂漠から吹くそうだ。
舌にはりついた黄塵を唾ごと吐きながら、「蝉の屍骸を砕いたような味がする」と云ったら、
「それはどんな味だ」、五島は天を仰いで盛大に笑った。
 銃を納めた。
ここには、横濱で毎日見ていた海はない。あるのは乾いた大地ばかりだ。
俺の正体を知れば、さすがの五島も、もう俺とは口を利かぬだろう。
そうだ。好きでやっているわけではない。


 将校が宿舎として占拠した宿屋は、租界にあった。
気の利く士官が如才なく主人のご機嫌をとったお蔭か、食事は旨い。
租界には大陸での儲けをあてこんだ日本料亭の出店も出ており、
今宵はみんなそちらに流れたせいか、宿は静かだった。
当番の下仕官が窓の外に見える通り向こうの雪洞提灯に気もそぞろで落ち着かないので、
お前も息抜きして来いと追い払った。
 「少尉殿は行かれませんか」
 「行かない」
 「噂は本当でありますか」
 「どんな噂だ」
 渡邉は銃を弄る手を休めなかった。工具なしでも分解できるのは設計師のお手柄だが、
その代わり、実に無骨な、実用本位の銃だ。
下仕官はちょっと笑った。怒らないで下さいよ。
 「渡邉少尉は、華族のお嬢さんとご婚約があって、それで風流の道には
  手を出さぬのだとみなが云っております。見かけによらず、清い恋に生きている少尉だと」
 「皆って誰だ」
 「そこら中です」
 椅子の背に腕をかけて振り返ると、下仕官が飛び退いた。本来ならば鉄拳ものだが、
異民族に囲まれて孤立していると、規律もしぜんと緩んでくる。
 「あ、少尉、『半七捕物帳』なんかお読みになるんですか。
  それでこちらは銭形平次、岡っ引ものばかりですね。
  もうちょっとまともなものは読まれませんか。
  自分は大陸に渡ると決まった時には嬉しかったです、何といっても水滸伝と三国志の舞台です。
  でも、こんなにも何にもない退屈なところだとは思いませんでしたァ」
憎めぬ奴だ。
 「怒りましたか、少尉。噂は本当でありますか。華族のお姫さまとご婚約」
 「怒らんよ。その代わり、その噂については、保留中だと云っておいてくれ」
 (話のつまみになるような、そんな色っぽい逸話なぞ、この俺にあるか)
 見合いの席で、女は鳥かごの中の文鳥ばかりを見ていた。
その後、何度訪問しても、応対するのは婆やばかりで、女は微動だにせず黙って座っていた。
少しは笑えよ。
瀟洒な洋館の応接に通されるたびに、蝋人形のような女だと閉口し、向き合っていることが苦痛だった。
恥かしがっておるのだろう、いいじゃないか、相手は女学校出たてのお嬢さんだ、大目に見てやれや。
陸士の同期は他人事だと思って好きなことを云ったが、その女学校出たてのご機嫌伺いを、
何故、この俺がせねばならんのか。
 (渡邉さん)
 二人きりで庭に出され、どうせ返事をせぬのだから話しかけても無駄だと思い、
所在なく池の錦鯉に餌をやっていた。旧藩の江戸屋敷をそのまま改築した豪邸には、
新築の洋館の他にも、茶室や築山まであった。
商売で一代を築いた渡邉家なぞ、どうせ成金と見下されているのだろう。
酸欠気味の鯉と面をつき合わせているのにも厭きた頃、水面に影が映り、女は隣に来た。
ようやくまともに俺の顔を見たか。
と思ったら、白桃のような頬をした女は、その頬を染め、
 (五島さんは、お元気でしょうか)
 横を向いたまま、小さな声でそう云った。
 五島とは、同じ師団に配属になる前、銀座ですれ違ったことがある。
大陸と往復している五島は、軍部のみならず、政府筋からもしょっちゅう通訳として
駆り出されているらしく、その時も青い眼の外国人と一緒だった。
接待中かと思い、あえて知らぬ顔をしてすれ違った。
服部時計店を曲がったところで、五島が追いつき、渡邉の肩を叩いた。
何だ、やっぱり渡邉だったか、
 「忘れたか、わたしだ。五島だ。予科で一緒だった。
  貴様とはよく、上級生下級生混じっての陸士の柔道の試合で一緒になったな。
  下級生のくせに負けん気だけは人一倍強い奴だったから、忘れられん。
  そのうち俺の家に来い。陸大の頃は伯父の家に居候していたが、
  いまは気兼ねのいらん独り暮らしだ」
云うだけ云って、五島は人好きする笑みを浮かべると、バタくさく片手を挙げて、
待たせている外国人の方に急ぐでもなく、ぶらぶらと戻って行った。
五島というのは母方の姓であると知ったのは、それから間もなくだった。
渡邉はそれを、陸軍省の陰気な一室で聞かされた。悪い夢でも見てるようだった。

 (渡邉少尉。これは、機密だ)
 (五島少佐は、………の血筋にあたられる)

 その五島が学生時代に居候していた伯父の家というのが、渡邉の見合い相手の家である。
上層部の計らいで五島と同じ師団に組み込まれることになった時、渡邉はそれを
五島に打ち明けたものかどうか迷ったが、偶然が過ぎるとかえって怪しまれると思い、思いとどまった。
日本を離れて数ヶ月、こちらはお義理で葉書を出したというのに、女からは手紙一通、届かない。
半島に渡る船の中で、両手を後ろに組んで甲板を歩いている五島を見かけた。
五島の船室の掃除にあたった下士官が渡邉のところに飛んできて、
 「五島少佐はアカです。部屋に、冷人(レーニン)があった」
わめいたが、
 「国際交際を課せられた将校だ、それくらい読むだろう。何が悪い」
一喝して黙らせたものの、自信があるのか、捨て鉢なのか、不用意なことをする男だと苦々しかった。
渡邉は甲板を歩いている五島のその背を凝視した。
いまここで、あの背中を押したらどうだ。
あの男をいまここで玄海灘に突き落とせば、それで万事が都合よく収まる。
潮風に指先が凍えた。手すりを握り締めた。本当に俺にそれが出来るのか。
 平生は柔和な五島だったが、渡邉と二人きりの遠慮のない酒の席で話が帝国の行く末に及ぶと、
グラスを握り締め、その顔つきをあらためた。
いつにも増して静かな口調だったが、淡々と吐かれる言葉は痛烈だった。
祖国への愛想づかしも通り越し、もはやそこには、しらけた傍観しか残されてはいなかった。
 (渡邉、機会均等主義の名において、亜細亜に王道楽土を建設しようなどと考えた、
  思いあがった莫迦者たちを、わたしは軽蔑する。
  頼みもしないのに他国の領土に干渉を加える者を、他民族の頭を蹴りながら、
  かってに恩を着せて偉ぶる者共を、わたしは軽蔑する。
  おのれは指一本動かさず、人の努力をさも己の功績であるかのように吹聴してまったく恥じない民族、
  偽りの得と引き換えに、百年の誇りを失う、その下劣を、その汚い貪欲を、わたしは軽蔑する)
 渡邉の部屋の扉が叩かれた。
今晩は将校が出払っていることを知っているのか、訪れを隠そうともしなかった。
 「入ってもいいかね」
 否応もない、もう扉が開いている。銃を机の引き出しに放り込むと、渡邉は直立不動で訪問者を迎えた。
入ってきた大佐はほかの者には部屋の外で待つようにと命じた。
廊下の向こうに、情報部将校の姿がちらりと見えた。東京の陸軍省でもその顔を見た。
出身から薩摩っぽと綽名されている大佐は部屋に入ると、髭に埋もれた顔を厳しくしめて、渡邉に向き合った。
 「渡邉少尉。机の中に隠したものを出したまえ」
 「連隊長殿」
 「その銃は、わしから五島少佐に返しておこう。彼は今宵は泊まりだそうだ」
 承服の他に渡邉に選択肢はない。ストーブの上で薬缶の湯が湯気を立ててごぼりと煮えた。
薩摩っぽに敬礼で応える指先が冷たかった。移送船の手すりを握っていた時と同じだ。
おそらく五島はいま、料亭の一室で内地の者と会合中だ。
馴染みの芸者が三味線をひいて彼らの会談を外に誤魔化していることだろう。
覚悟はしていたが、ついに、その時が来た。

 渡邉士官。
陸軍省に呼びつけてすまないね。
君が陸軍士官学校において、射撃術を優秀な席次で卒業したことは知っている。
宮内省は、君の協力を必要とする。
ところで、渡邉少尉。
銃は、暴発することが、あるそうだね。


 一生覚えられん名かも知れんが、フョードル・バシーレヴィチ・トカレフ、
お前は、いい銃を作った。
ロシアの大地に翻る五芒星の赤い旗、そこから落ちた星が、銃身に刻まれている銃だ。
古いロシア語では、「赤」は「美しい」を意味する。
クラスナヤ・ズヴェズダ。赤い星。その星のかたちを印された銃。
あんたに教わったことだ、五島さん。
 手袋をはめ、馬に乗った。
銃の設計師も、よもや中国大陸の僻地で、おのれの創った銃がこのような使い方をされるとは思うまい。
 「少尉殿、もう日が落ちます、どちらへ」
 「散歩だ。大佐の許可を得ている」
 愕き顔の下士官に片手で応えて、街の外へ馬を走らせた。
半島から大陸に出て来て、いちばん愕いたのは、沈む夕陽の色だった。
乾燥した大気には砂塵が多く飛び交い、夕陽の色がそこに乱反射して、胸の奥まで照らすこの色になる。
どこまでも朱いのに、どこまでも寂寞と空をこがす、燃える色だった。
 「五島さん」
 階級抜きで呼びつけたことで、五島は渡邉が現れた理由を、すぐに悟ったようだった。
五島は広がる地平線を見つめながら、土塀に凭れて夕陽と、流れる静かな大河を見ていた。
馬から降りて、歩いて行った。
五島はその手に、ロシアの銃を提げていた。
陸軍省の手配で、わざわざ五島の手に入るように前線に送られて来た、その銃だった。
渡邉を見て、五島は笑った。
 「よく、分かったな」
 「料亭から戻られた後で、五島さんが宿舎を出て行くのを見ていた者がおりました」
 五島が別のことを訊いたのは分かっていた。
しかし、渡邉は斜光が眩しいふりをして、わざと返事をかわした。
東京市上空を飛び交い続ける暗号電波の存在は早くから知られていた。
発信機が車に搭載されて市内を移動していたため、その場所をなかなか突き止められなかった。
怪電波を追っていた特高は、電波の送信先をヴラヂヴァストークと中国内陸部と突き止め、
発信元の割り出しに成功、東京では外交員と新聞記者が捕まり、そのうちの一人が、五島の名を吐いた。
かねてより、五島の名は、容疑者リストの一ページに載っていた。
知っていたんだろう五島さん、特高からずっと眼をつけられていることを。
省の内密を受けて、俺があんたを監視していることを。
知っていて、何くれとなく俺に親切にしてくれたんだろう。
渡邉は乗ってきた馬を五島に示した。馬は木蓮の樹に繋いでいた。
あれに乗って逃げて下さい、五島さん。

 「公に公表されたものではないとはいえ、菊の御紋章に列なる御方が
  敵国と通じたスパイと知れたら、それは国辱であると、大佐はそう仰せです」
 「逃げなければどうなる」
 「五島さんには、ここで死んでいただきます」
 
 夕陽に背をあずけ、渡邉は自分の銃を構えた。
塀に凭れたまま、五島はちらりと顔を上げた。
今ここで、あんたと柔道をしたら、俺はあんたに負けるような気がする、五島さん。
心のどこかであんたは正しいと認めながらも、その正しさに負けまいとしている俺なんかより、
信じるものに向けてまっすぐに顔を上げているあんたに、俺は負けてしまう気がする。
それは何処だった、任官先のリトアニアか。それともハルピン、あるいは視察先の黒海のほとりか。
軍部の急進と、祖国の視野狭窄に薄暗い気持ちを持つ語学堪能な帝国陸軍武官に最初に近づいたのは、
ロシアかドイツか、或いは末期のコミンテルか。
あんたは思ったことだろう。
何処でもいい、虐げられている国の力になろう。
そのために生きようと。
街の上に夕陽があった。
つい先ごろまで女学生だった女の口から小難しい思想が飛び出してくるのには仰天したが、
それを教えた男と同じ信念でもって、青紫陽花の咲く夕映えの池の淵に佇み、
女はぽつりぽつりと語ったものだ。
 (人の庭を荒らすことを悦ぶ国は、強者に寄りかかることはできても、
  責任や反省からは、逃れるものです。
  そこには何としても自分が得をしたい心だけがあり、
  踏みにじった弱者の気持ちには、まったく思い及ぶことはありません。
  百年後のこの国の美しい実りを、誰がこれから憂い、考えるのでしょうか。
  いまのこの国は、声高な主張と建前だけはあっても、人を侮ることばかりに長け、
  かたちなきものを尊ぶことを、知りません)
 五島は黙って、渡邉に星の刻まれた銃を見せた。
大佐から先刻、お返しいただいた。
 「これを用い、筒に小石でも詰めて暴発事故を装い、自分の銃で自決せよと」
 国産の銃が暴発したとなれば国許の誰かの責任になる。それは貴殿も望むまい、大佐はそう云われた。
慈父のごとき厳しさと、慈しみをもって、わたしを諭された。
君の苦悩を、わしは支持すると、そうまで仰られた。
あの眼を見れば、すっかり力が抜けたよ。
真剣とびかう幕末の時代の直系にあたられる方の言葉は、やはり違うな。
 「見届けに来たのだな、渡邉」
 「いえ。五島少佐の処分は、自分に一任されたものと思っております」
 渡邉は銃を捨て、そして五島からは問答無用でロシア銃を取り上げ、無理やり、五島を馬に乗せた。
五島さん、今朝ようやく、内地から手紙が来た。
あんたの従妹は達者で、俺の自惚れでなければ、俺の妻になる覚悟もついたような、そんな文面だった。

   渡邉さん。五島さんは、あの人は、いつかきっと何処かへ行ってしまいます。
  五島さんはよく、あの大陸に沈む夕陽が自分の国だと、そう仰ったわ。
  兄とも思っていた人ですが、そんな寂しい言葉を、わたくしは聞いたことがありません。
   軍人さんは嫌いです。でも、渡邉さんは、いい方ね。
  いつも、渡邉さんが帰ってから、うるさいばあやを下がらせてしまうと、
  わたくしは笑い出しておりましたのよ。
  詩仙詩聖が詠んだ見事な落日を、金盥が落ちてゆくようだとは、何ごとでしょう。
  ジャンヾヽと、きっと音がするでしょう。
  送っていただいたアカシア並木の寫眞葉書、文机の上に飾ってあります。
  わたしは渡邉さんのお帰りを待っています。
  そして五島さんのかわりに、この桜の国を誇りたい。

 ちょっと俺には過ぎた女だと思うが、最初は気が重くても、
一緒になればそのあたりはどうにでもなると誰もが云う、だから、どうにかなると思う。
渡邉は騎乗した五島の手に宿から持ってきた背嚢を押し付けた。地図、コンパス、乾パン、水筒。
結局、吸わなかった煙草と、餞別代りの岡本綺堂。
銃を振り回して、五島に告げた。
 「いいか、あんたは、河に落ちたんだ。この河に落ちれば遺体は見つからない。
  俺のことは心配いらない、詮議を受けることもない、薩摩っぽや上っ方が望まれたとおり、
  穏便に、知られぬうちに、一人の少佐の未帰還と引き替えに、本件はこれで終わりになるだけだ。
  どこかの村に隠れて、十年待て。辛亥革命なんか聞いたこともないような、山奥の寒村に行け。
  十年もしたら戦争も終わる。二十年待て、四十年、五十年、
  すっかり爺になってから、日本に帰って来い。その頃にも、大日本帝国がまだ健在ならば、
  いろんな考えの人間が共存して暮らせる、今よりはマシな国になっている、きっとそうなる。
  フランス人の書いた空想科学小説みたいな、宇宙船の飛ぶ、すごい国になっている」 
 馬の尻を叩いた。五島はしばらく躊躇うように馬を歩ませていた。やがて、一度も振り返ることなく、
大陸の夕陽の中、黄土高原の彼方を目指して、何かから解放されるように駈け去っていった。 
 乾いた風に、砂が混じった。太陽のかけらが混じった風だった。 
俺も、あんたも、亜細亜征服に乗り出した軍部も、五族協和の建設を本気で夢みた奴も、
この悠久の大地から見れば、蛆虫の戯言だ。
家路につく中国人の牛追いが、うろんげにこちらを見ていた。みろ、すっかり嫌われ者だ。
 (浮雲遊子意 落日故人情。おさまるところにおさまる。
  どれほどそれを惜しんでも、耐えるしかないこともある。
  そうだろう、五島さん)
五島を乗せた馬は地平に消えて、もう見えなかった。
 日が落ちた。軍靴の先で、土を掘った。夕闇の中、五島から取り上げた銃をそこに埋めた。
俺が間違えているのかも知れない。あんたが正しいのかも知れない。
李白の詩は単純明快で好きだと云ったら、何にも分かっていない、そんな顔をしてあんたは笑った。
赤軍の銃の上に土をかぶせた。弾箱のほうも持ってくればよかった。
これは、俺の要らないものだ。
今宵も頭上には月があった。土を深く掘り下げ、黙々とそこに銃を埋めた。
冬には凍土に変わる。春には黄砂の風が吹く。
今度、本土に帰ったら、中国大陸の夕陽は骨まで染まりそうに赤いのだ、
山河を染めて、こんなにも大きいのだと両手を広げて、自慢してやろう。
銃を埋めた大地を、渡邉は両手で丹念にならした。
種のように花が咲くわけではないが目印の小石を置いた。
どうせ、すぐに砂に埋もれて分からなくなる。
俺はこれでも、射撃の名手だ。銃器に関しては自信がある。
安全装置のついてない銃なんぞ、危なくて持てるか。



[了]
本作品は2007夏、お題企画『冒頭一行より短編を編む』に則ったものです。
”最初は誰でもそう言うが、結局は皆、おさまるところにおさまる。”こちらのお題を私に下さった某さま、有難うございます。


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