[風切弓]
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Yukino Shiozaki

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■風切弓(カザキリノユミ)

 苛烈な颱風の眼が、まさに今、彼のちょうど頭上に位置していた。
青磁色の空が、そこだけに薄い雲を引きながら、風の空洞となっている。
若者は馬を飛ばして、風吹く野を駈けた。
 「お前をつかまえるために、風はもう一度、やって来る」
 雲の渦巻く真下には小高い丘があり、そこには、外敵を見張る櫓が建っていた。
馬から下りた若者は、木で組んだ櫓の梯子を駆け上がり、野に立ちすくんでいる女を振り返った。
最初の嵐が過ぎた広野は、水をたたえた池と変わり、窪地にはそこかしこに風紋が出来ていた。
 「逃げろ。お前は、もう不要だ」
 「でも」
 女はしだいに強まる風を怖れながらも、前へ進み出た。
 「それでは、別の生贄を、風の神に捧げなければなりません。
  私の同族の中から、またそれを選ぶのですか」
 女の身体を岩に縛り付け、無人の野に繋ぎとめていた荒縄は、若者の手により、
今しがた斧で断ち切られた後だった。
 若者はそれには応えなかった。その額に刺青された貴人のしるしを、雨粒が打った。
彼は背中に背負った靫から矢を引き抜くと、それを弓につがえた。
向かい風の中、目端でもういちど下界を捉えた。女は相変わらず、こちらを見上げている。 
露珠の飛び交う草木の間に、旗のようになびく美しい射干玉色は、
立ち去ろうとはしないその女の髪だった。
若者は顔をそむけた。
なぜ助けられたかも知らず、いい気なものだ。
雲はしだいに黄疸色に変わり、風の中心の真空から、その周囲を取り巻く暴風域へと
ふたたび変わろうとしていた。
 「来るぞ。風が」
 若者のその言葉に偽りなく、やがて雲は厚みを増して、
吹き付ける大風は耳を切るようなするどい唸りを上げ始めた。
 櫓の上から、彼は弓を構えた。
雨風に立ち向かうその顔は、引き締まり、そしてどことなく、煩わしそうであった。
突風が吹き、野の雑木が大きく揺れたとみるや、どっと雨が降ってきた。
風に折れた樹や枝が、暗い風の波に呑み込まれて巻き上がり、
巨人が両手を振り回すような勢いで、回転し、地を削り、顔の横を過ぎるのを、
若者は豪胆に耐え抜いて、弓の狙いを定めたまま動かない。
異物を混ぜた横殴りの風は獣の群れのように、水をはね散らして、地上にいる女にも襲い掛かった。
行き場を失った女が転倒した。
 「だから逃げろと云ったのだ」
 舌打ちすると、若者は腕の向きをすばやく変えて、吹き荒れる地上に向けて、
その最初の矢を射た。
渦巻く風の前に、風が忽然と立ち上がった。
若者が放った矢の四方に、放射状の風が生まれ、飛来物を空高く跳ね返すと、
逆流する滝のごとく強靭さで野にそびえ、風を押し戻し始めた。
新しき風の流れは矢の落ちた地点を頂点に、強い障壁となって一気に広がり、
今にも風に引きずられていこうといしていた生贄の女は、その無風の内側に、風に守られて立っていた。
地上の颱風ともいうべきこの逆風のかたまりの出現に、渦巻く風と風は拮抗し、雨は一時、弱まった。
 そこへ、銅鑼と、法螺貝の音がした。
大勢の兵が風雨に抗いながら、こちらへと向かってくるのが見えた。
風の眼に辿り着いた兵たちは、びしょ濡れになりながらも槍と盾を構え、若者のいる櫓を取り囲んだ。
一際目立つ鎧姿は、王のものであった。
 「兄」
 若者は、はっとなって櫓の梯子を降りた。最後の数段は足をかけずに、とび降りた。
兄王に駆け寄ろうとした若者は、そこで兵の盾に止められた。
 「兄者。わが王」
 「風切弓を使ったな」
 王は冷ややかに、地に突き刺さった矢と、若者が助けた女とを見比べた。 
 「お前は、わしに無断で風切弓を持ち出した。天孫、瓊瓊杵尊より、
  八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣と共に、葦原国に賜りし、神の力を」
 「兄者の命に従ったまでです」
 兵の盾に邪魔をされながらも、若者は両腕を伸ばして、雨の中、兄に反駁した。
この女を欲せられ、風の止んだ今のうちに取り戻しに行けとわたしに仰せになったのは、兄者です。
王は馬鞍から降りようともせず、若者の訴えを傲然と見下ろすだけだった。
わしはそのようなこと、云った覚えはない。
 「それとも、お前はこのわしが、お前が敗国から連れてきたそこなる婢女に
  情をかけたとでも申すつもりか」
 「兄者」、若者は声を上げた。
 「黙れ」
 葦原の王は兵に命じた。兵よ、よく聞け。あれなるは、もはやわが弟にあらず。
兵が弓を引き絞って寄せてきた。風がふたたび咆え始めた。
 「あれは風切弓を奪った盗人。神に差し出す生贄を穢し、
  豊葦原水穂の国に災いをもたらさんとする者。あれを討て。
  神器、風切弓を取り戻すのだ」
 騙された。
若者は唇をかみ締めて兄王を睨みつけた。
しかし、謀にかけられた若者の決断は早かった。
 「来い」
 倒れていた女の腕を無理やり掴み、口笛を吹いた。
駈け付けて来た愛馬の背に女を乗せ、自らも鞍に飛び乗ると、振り返りざま、若者は矢を放った。
 「風切弓は、帝祖の血を受け継ぐ武者にしか扱えぬ。
  兄王、あなたにはこの弓を引くことが叶わなかった。
  これをよく見るがいい、風切弓を持つわたしこそ、天照大神を祖に持つ者だ」
 弓弦の音がするどく鳴った。
風切弓から発せられた魔矢はその突風で、王の兵をなぎ倒し、その武器をへし折り、
散々に散らして、風雨の中に叩き伏せた。
そこへ外で荒れ狂っていた颱風がふたたび襲いかかった。
二つの暴風は大渦となって国中のあらゆるものを跳ね上げ、山を崩し、河を裂いた。
弓と女を奪った若者は、荒れ狂うはげしい雨風の峡間をぬって馬を飛ばした。
多くの兵を失い、雨が止んだ野に王がようやく身を起こした時には、
すでに若者の姿も神の弓も、国から消えていた。


 空があった。
横たわった若者は、裸のまま、流れる夕雲を眺めていた。
その指が、矢をつがえていない弓弦をはじいた。
嵐はすでに止んでいた。  
 兄王とは腹違いなのだ。
女の隣で、若者は先刻からずっと弦をはじいていた。
妃同士の仲が悪く、わたしは幼少の頃より、母方の地で養育された。
父が死んで、兄が葦原の王として即位すると、兄の妃となっていた姉の招きで、
わたしはようやく宮へ上がることが許された。
だが、最初から兄は機会があれば、わたしを追い落とすつもりだったのだ。
同母弟もことごとく殺した男だ、異母弟のわたしごときを、なんで生かしておこうか。
 (弟よ、此度の野分は強い。このままでは稲が死に絶え、凶作となる)
 (今しがた齎された巫女のお告げに従い、いそぎ生贄を野に捧げましたる上は、
  神も王の祈りを聞き届けてくれましょう)
 (その生贄のことが惜しまれる。急ぎ野に赴き、風切弓をもちいて、女を取り戻して来るのだ)
 (何を云われます兄者。わが王。そのご命令には従いかねます)
 (王に逆らうか)
 (ご執心のその女をお手許におかれることが、わたしの姉である王の妃を、
  哀しませることになりますまいかと)
 (気にすることはない。あれは奴隷の女、酒の席でまわしてやれば面白かろうと思うたまで。
  厭きたら、往来で見世物にでもしてくれよう)
 (あれは兄者のために捕えた女。それではお好きになさるといい。わたしの弓で風を堰き止め、
  この葦原の国を救ってご覧にいれましょう)
 若者の腕の中で、また、弓弦がひらめいて癇症に鳴った。
 「最初から全て、兄王の組んだ罠だったのだ。わたしの姉はそれを知っていたのだろう。
  妃はわたしを追いかけて、神の弓を使うなと教えてくれた。あれは警告であったのだ」
 女の腹に身を寄せた。女の肌は白く、つめたかった。
馬をようやく停めた森の中で、女を鞍から降ろした。
風はとうに過ぎたが、木々からふり落ちる雨の雫に、女の黒髪はまだ濡れていた。
美しい女だった。
 「何処へでも行け」
 「何処に行けとおっしゃいます。あなたが連れて来たのに」
 濡れた衣が透けて、女のかたちが見えた。雨に湿った土がにおった。
疲れて蒼褪めた様子の女を見るうち、兄にとも、女にともつかぬ怒りを覚えた。
 「ならば、お前はわたしが陣頭に立って攻め滅ぼした国の女。こうするまでだ」
 女の髪を腕に巻いて、崖下に引きずって行った。女は抗わなかった。

 「この弓は、カザキリノユミというのだ。この弓が、
  わたしこそが葦原を治める王に相応しいことを、証し立ててくれる」

 若者は裸身のまま弓を取り上げて、しどけなく仰向けになっている女の前に風切弓を見せた。
洞穴に、弦の音が響いた。
暮れゆく空には、弓なりの月があった。
兄王への腹いせを思うさま女にぶつけて苛んではみたものの、
兄により侮辱を受けた怒りは身の内深く沈むばかりで、身を灼く怨念は、風が止み、雨が上がっても、
熱く滾りつづけ、おさまることはなかった。
 「草薙剣が野火に燃える草を薙ぎ払ったと伝わるように、風切弓は風を切る。
  風が強ければ強いほど、その風を食み、力を持つ弓だ。わたしの弓だ。
  この弓が、わたしを王にしてくれる」
 女のまるみを、若者の握った弓の張りが撫でていった。
若者に組み敷かれた女は若者の身体の下で膝を揺らし、弱々しく吐息をもらした。
 「神の剣をお持ちであった倭建命さまも滅びました」
 「不吉なことを云う。あれはあの男が草薙剣を軽んじたからだ。
  わたしは違う。この風切弓は、めったなことでは使わぬ」
 「呪術のかかった器にお心を傾けることは、
  かえって神のお力を削ぐことになるような気がいたします」
 美しい女は若者よりも二つ三つばかり、年嵩であった。
夜討で国に攻め寄せて来たあなたさまの、その猛々しさを、わたくしはすべて見ておりました。
射干玉の髪の女はさびしそうにそう云って、若者を胸に抱き寄せた。
逃げ惑う人々を槍で突き、刀で払い、狂った者のようにすべてを蹄にかけておられた。
わたくしはあなたさまが怖い。
村々に火を放たれ、生きたまま男たちを火に投げ込み、
その炎を馬上から見つめておられたあなたさまは、荒ぶる風神よりも容赦ない。
 「わたくしの首には、あなたさまに捕われた時にかけられた縄の痕が、まだ残っています。
  あなたさまは奴隷に首枷をつけて馬で引かせ、途中で倒れたわたくしの背を鞭打ちながら、
  兄さまの国に連れて帰られた。そのあなたさまも、いまは兄王から追放された身。
  ひとりのおのこにしか過ぎません」
雨にしめった女の乳房は、土と、血の匂いがした。
女の手が、風切弓にのびた。
よせ、若者が弓を遠ざけたが、遅かった。
 「痛」
 弦は女の指を切っていた。
細く切れた女の指先からは血が流れた。それは弓を汚し、弦を染めた。
若者と女はその血を見つめた。女の乳房の上にも血は散り落ちた。
脚のあいだを伝う赤い珠を見ておののく女の顔は、薄く笑ったようにも見えた。
若者は弓を置き、女の手首を掴んだ。
そして、傷ついた女の指先を口にふくんだ。


 国が滅びた後、生き残った者たちは谷間に逃れ、そこに村を築いていた。
女が連れてきた若者を見た落人たちは、彼らの国を焼いた若者を殺そうとしたが、
若者が風切弓をかかげて葦原王への報復を誓ってみせると、彼らは若者を神の子と崇めて、
その支配を迎え入れた。
 射干玉の髪の女との間には、男子が生まれた。
月日が流れ、若者のものとなった国は、周辺の豪族を武力で取り込み、
しだいに強大になっていった。
それにつれて、王となった男の許にはたくさんの女が献上されるようになり、
王は射干玉の髪の女をかえりみなくなっていったが、しかし王は射干玉の髪の女が
去ることを許さず、后にもせず、奴婢のままに据えおいて、傍においていた。
そのわけは男にも分からなかった。だが、自分を罠にかけた兄への憤りが男の内に吹き荒れると、
兄の姿のかわりに、なぜか風の渦の中に露を浴びて立っていた、
あの時の女の姿が胸を焼くのだった。
 (何を見ている)
 それほどまでに強い眼で、女は櫓に登った自分を見ていた。
煮えたぎる憎しみに気も狂わんばかりになった王は、射干玉の髪の女に奴隷のしるしの
焼き判をあてることまでした。
煙が立ち、狂気のように黒髪をふり乱した女は、王の足許に崩れ落ちて気を失った。
王は女を踏みつけ、黒髪を引いて身を反らせると、その背にも、念入りに焼き判をおしつけた。
火傷の痕は白い肌にむごく残り、女は何日も熱が引かなかった。
 「お前はひとたびは兄の許にいた女。兄から払い下げられたも同然の女。
  それに相応しい扱いで、兄に報いてやるのだ」   
 そんな夜には決まって王の寝所から射干玉の髪の女のすすり泣きが聴こえ、
そのような王を、王の側近たちはますます怖れた。
 二人の間に生まれた王子は、母のそんな哀しみを見て育った。

 「人はみな、父上はあれでいて母上のことを誰よりも慈しんでいるのだ、だから
  手許において離さぬのだと云いますが、そうは思えない。母上、王の許から逃げましょう」

 幾らそう促しても、男に打たれた痕を王子には見せぬようにしながら、母は黙って
首を振るばかりであった。
黒髪に隠れた女の顔が、その時、びくりと痙攣するように微笑んだのを、
母を愛する王子は見なかった。
王子は父に隠れて弓の鍛錬をかさねるようになった。
するどい眼をして矢を放つ王子は、父王が手許から離さぬものを、母を、風切弓を、
そして父が寵愛する媛のひとりを、いつか父から奪おうと決めていた。

 或る日、山に登った王子は、強い蔓を見つけた。
それで弓をこしらえると、それは父の秘蔵する風切弓と瓜二つのものになった。
暴虐な父王がいまの地位にいられるのは、ひとえに神の弓のお蔭である。
王子はその弓を持って、媛との逢引の場に行った。
まだ子供のような媛だった。
王子にすがりついてきた媛は、王に仕える間に心を病んで笑顔をなくし、
逢瀬の間もほとんど声を立てようとはしなかった。
この若い媛は、強国となった王の許に最近人質として送られてきた、王の兄、
葦原王の末娘であった。
王は自分を追い出した兄王から寄越された使者をその場で惨殺し、媛を王子には与えず、
自分のものとした。
若い王子はそんな媛を不憫に想い、どのような女よりも、兄妹のような気持ちで愛した。
その日、王子は媛に弓を渡した。
 「父上は風切弓を眠る時にも傍から離さないと聞く。閨に入った時、
  この弓と、風切弓を取り替えてくるのだよ。いいね」
 媛は竦みあがった。
そのようなことは出来ませんと抗う媛を説き伏せて、王子は風切弓に似せて作った弓を媛に渡した。 
神の子は、また、神の子である。
父王があの弓を扱えるならば、その息子であるわたしにも出来ぬことがあろうか。
 翌朝、霧の沼から、ひとりの若い女の遺体が引き上げられた。
死んだ女は、その胸にしっかりと弓を抱いていた。
風切弓ではなかった。
幼い媛は、王にも王子にも逆らえず、心病むままに思いつめ、弓を抱いたまま入水したのであった。
沼から引き上げられた媛の遺骸の前で放心している王子の許に、母が慰めに訪れた。
射干玉色の母の髪は、昔のままであった。
その髪に顔を隠して、女は哀しみにくれる王子の肩に手をかけた。
笑っていた。
末娘の無残な死様に、葦原の王は激怒、大軍を率いて押し寄せて来たのは、
それから間もなくのことであった。

 「父上。風切弓をわたしに下さい。きっと勝ってみせましょう」

 今こそ葦原王への積年の恨みを晴らす時と決めた王は、王子のその頼みを一蹴した。
晴天がにわかに掻き曇り、ぬるい風が吹いた。それは、颱風の前兆であった。
嵐の中、兄の兵を蹴散らし、強風に勢いを得て、王は兄の国にまで一気に攻め寄った。
ごうごうと吠え立てる風は、馬の足を鈍らせ、兵を怖気させたが、王は風切弓を掲げて、兵を叱咤した。
王は颱風を見上げた。
空を引き裂く風の唸りに、歯をむいて笑った。
遠い昔、かつてそこに登ったことのある櫓が見えた。
強風はいよいよ吹き荒れ、雑木が砕けて飛び散った。
広野で激突した戦の帰趨はひとえに、風を制する者にかかっていた。
 「風切弓よ。あれなる兵を蹴散らせ」
王は吼えた。
風切弓からは、風が生まれなかった。
放たれた風切弓の矢は、一本の頼りない矢となって、敵兵の盾にはじかれただけであった。
 「わたしにそれをお貸しください!」
 それを見た王子は、向かい風の中、父の手から風切弓を奪い取った。
鐙を踏んで馬鞍に身を起こし、矢をつがえ、きりりと弓を引いた。
 (風切弓は、二度と、あの人には御せません)
 母は溺れ死んだ媛が持っていた偽物の弓に手を這わせると、おのが手で殺したも同然の
媛の遺体を抱いて哀しみに暮れている王子にそれを伝えた。

 ----あの人と契った夜の、わたくしの血が、それをさせません。
   草薙剣は、女の手に預けられることで、その神力を曇らせた。
   神器を穢すのは女と決まっているものを、慾望と見栄から同じ過ちを繰り返す、男の愚かなこと。
   それでも、これであの人はわたくしのもの。
   その支配の頂点で死ぬがいいわ。
   ふるさとを滅ぼし、わたくしの同族を殺した男を、神の子などにはさせません。

 その夜、王の許に呼ばれた女は、両手を縛られ、
媛を喪った哀しみと怒りを王よりぶつけられるままに、そのまま息絶えてしまった。
愛した媛の隣に土を掘り下げて葬った母の身体は愕くほど軽く、そして、美しいままであった。
王が縛った女の手首の縛めを、王子は母の亡骸から解いた。
その指先には、古い傷があった。
父王も、兵も、後方に遠くなった。
馬を飛ばし、王子は弓を引き絞った。その矢には、母の遺髪が巻きつけてあった。
はるか彼方の雲間に、明るみが見えた。
葦原を駈ける王子は颱風のその細い眼を睨み据え、風切弓の矢先を天に向けた。
野を覆う露珠がさかしまの雨となって吹き飛んだ。打ち付ける雨の中で王子は叫んだ。
 「射干玉の矢よ、風を祓いたまえ」
 風を切る音が雷鳴のように野に走った。空が轟音を上げて割れた。
露珠は烈しく飛び交いながら、地にあるすべてのものを風に巻き上げた。
人も馬も、武具も王も、すべてその中にかすんで消えた。
大量のかがやく露珠は雨と風と雲を呑み込みながら、巨大な一本の柱となって空を昇り、
颱風の眼の中にぐいぐいと吸い込まれていった。
遠い弧は、地の果てであった。
人々はその最期に、櫓を見上げている女の姿を地上に見た。
射干玉色の髪をした女は身をかがめ、地に落ちている弓を素早く抱え上げると、
一匹の黒蛇のように草を蹴って走り去った。
嵐が去り、風が静まった大地には、つめたい風が吹いていた。
雨上がりの野には、何も残されてはいなかった。
風切弓も。



[了]
本作品は2007夏、お題企画『冒頭一行より短編を編む』に則ったものです。
”苛烈な台風の眼が、まさに今、彼(彼女)のちょうど頭上に位置していた。”
こちらのお題を私に下さった某さま、有難うございます。


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