[レンシェの鳩]
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Yukino Shiozaki

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[レンシェの鳩]
■前篇

 その塔は、真紅の塔と呼ばれた。
地平に太陽が落ちた後も、その塔だけはしばらくの間宝石のように赤く輝き、
宵の空に星が並ぶ頃、ようやく燃え尽きて、縦長い影となった。
 それは、見棄てられた塔だった。滅び去った国に壊されることなく唯一残された塔だった。
終わりの日、この砦に立て籠もった王族を守るために、百人の騎士が塔の周囲で
烈しく戦い、彼らは皆死んだ。
塔の内部に攻め入った征服者たちは、次に、塔の中で王家の王子たちの抵抗にあった。
顔の前に剣を立てて、塔の階段を降りてきた王子たちは闘いの前に祈った。
 「塔よ。我らの姫を守りたまえ」
 狭い階段の上と下で繰り広げられた攻防は、すぐに圧倒的な敵の数に圧され、
ひとり、また一人と、王子たちは踊り場に血を散らして膝をつき、
幼い頃から共に育った互いの名を呼びながら、階段の下に突き落とされていった。
王子や騎士たちの遺体を蹂躙して征服者たちは階段を駆け上がった。やがて、
塔の最上階に辿り着いた。
 「扉を開けられよ。王には、ご自害するだけの猶予を与えよう。
  王妃ならびに王女たちはご安心めされ。わが国での手厚い保護をお約束する」
 扉はすぐに開いた。
 切り込み窓から差し込む朱金の光を浴びて敵の将の前に姿を現したのは、王、その人であった。
王は手にした剣を抜いた。
 「わが民、わが騎士、わが息子たちが戦って死んだというのに、王たるわしがそれをせずして、何としよう」
 王の言葉を受けて、敵将は剣を構えた。
剣の音に室の中で固まってふるえていた王女たちは、やがて扉越しに、父王の呻き声を聞いた。
斃れた王の身体に四方八方から突き立てられる無残な剣の音がそれに続いた。
酸鼻に酔いしれた兵士たちがここにきてたまらずに上げる昂奮した哄笑が響いた。
それは塔の壁に反響し、扉を、塔を揺るがすほどであった。
隠し部屋の中で椅子にかけていた女は、王妃の威厳をもって、立ち上がった。
扉を叩いて、ふたたび降伏を呼びかける敵将にむかって王妃は応えた。
捕囚の辱めを受けるくらいならば、王家の者としてわれらは死ぬ。
われらの王の首を持ち帰り、褒美をもらうがいい。そして、そなたらの王に伝えよ。
 「われらは、レンシェの誇りを胸に死ぬのだと」
 王妃は窓を開いた。
泣きじゃくる妹姫を励ますために、まず長女の姫が、窓枠から身を躍らせた。
それは、まるで夢の国に飛び立つがごとき晴れやかな、優しい姿で、
母譲りのその美しさを惜しまれた王女は白い花のように地上に落ちた。
侍女たちは皆、泣いた。泣きながら、王女たちと手に手を取って、塔から飛び降りた。
扉の錠が斧で壊され、敵兵が部屋になだれ込んで来た時、残されているのは王妃だけであった。
強兵たちはその場で足を止め、しん、と静まり返った。
旅立とうとしている王妃は、振り返り、彼らを一瞥した。
窓に突進したのは将であった。
塔の高みからは、雲と、夕映えの山脈が見えた。
男の伸ばした腕は、女には届かなかった。
王妃は将の差し伸べた手を拒み、将の腕をすりぬけて、娘たちの後を追ってはるか下へと落ちた。
塔をつんざいたのは戦の終わりを告げる勝鬨ではなく、将と、
下でそれを見ていた敵の王の嘆きの咆哮であった。
何年経っても、その塔にだけは鳥が巣をつくらず、蔦も外壁を這うことはなかった。 
一夜にして焼き滅ぼされた街に、やがて、木々が芽吹いた。
廃墟に花が咲いた。小川は夜空の下に流れた。
軍隊が撤退した後には、その地に町が再建されることはもうなかった。
王家の人々が命を絶った塔を、三十年の間、人々は遠巻きに畏れた。
盗賊もここだけは避けて通った。
国が失せた後も、塔は風雪に晒されるままに、夕陽に赤く染まり、そこに建っていた。
塔は、いつしか、真紅の塔と呼ばれるようになっていた。
 
 ジャルディン・クロウは、超大国の王子として生まれた。 
大勢いる王子の中で、王位継承など望むべくも無い序列にいる彼は早々に
生まれ持った王家の姓を捨て、家臣の名を借りてクロウと名乗ると、剣を引っ提げて旅に出た。
最初の三年は、船乗りとして船に乗った。
それから大陸に渡り、森に囲まれた小国から小国へと渡り歩いた。
異国の女たちをジャルディンは愛し、また愛された。
女たちはジャルディンが王子であることを知らず、海の彼方の国からやってきた青年の
黒曜石の眸と、褐色の肌に惹きつけられて、夜の相手として彼を買い、また買われた。
 ジャルディンは傭兵として生きた。
戦の火の手を見れば自らそこに飛び込み、腕を磨いた。
その強さを認められて、幾度も取立ての話が持ち込まれたが、そのたびにジャルディンは断った。
誰の前に出ても臆することなく堂々と踵を返す、そのような態度がかえって、
あれは相当なわけありなのだと、人々の尊敬を勝ち得、若くして一目おかれるようになっていた。
戦場から戦場へ渡り歩くうち、いつの頃からか、ジャルディンはその噂を耳にするようになった。
------真紅の塔の中に、人がいる。
 「どの塔だ」
 傭兵仲間はジャルディンに教えた。それが、奇妙な話なのだ、ジャルディン。
塔はこの国にあるのではなく、攻め滅ぼされた小国の、そこに残された無人の塔なのだ。
 「あの塔に好んで近寄ろうとする者などいない」
 戦稼業の男たちは、その様子を思い出すのか、恐々と声をひそめた。
 「お前もその傍を通りかかってみたらその理由が分かる。
  夕方になると、天守閣から壁を伝って鮮血が地に滴り落ちるのだ。
  国が滅びてからもう三十年も経っているのに、真紅の塔の壁には蔦もからまぬ。
  あれは死者の魂がいまだに巣くう、呪われた塔なのだ」
 興味をおぼえたジャルディンは馬を駆り、その廃国へと赴いた。
他の者であれば出来ぬことであったが、ジャルディンは正体も確かめぬうちから
あやかしの類を怖れる男ではなかった。
二度と草木は生えないといわれた焼け野原にも、たくましく木々は育ち、花が咲いていた。
緑かがやく野をジャルディンは進んだ。
塔はすぐに見つかった。
渺々たる廣野に、それは遠くからでも眼についた。
巨人が忘れた古剣のように、かつてその周りに百人もの騎士の死体を築いた古塔は、
城の瓦礫の中に往時と変わりなく聳え立っていた。
崩れ落ちた石垣が点在するのは、城門の名残と思しかった。そこで馬を降りた。
城址は荒れ果て、中庭は外枠だけ残し、ただの草叢になっていた。
倒れたまま土に半ば埋もれている列柱は、無残に焦げたままひび割れていた。
やがて、ジャルディンは塔の前に出た。それは空高くのびた、細い塔であった。
ジャルディンは大声で呼びかけた。
 「誰か、中にいるのか」
 声は青空に吸い込まれた。
ジャルディンの呼びかけに、真紅の塔の内から応える者はいなかった。
剣の柄で塔の錠を叩くと、それは簡単に外れた。
ジャルディンは塔の中に入った。眼についた薄暗い階段を昇った。
螺旋階段は、階層ごとに踊り場を挟みながら、上へ上へと急勾配に続いていた。
並の者であれば、陰惨な戦いが行われた塔の中に入ろうとは思わなかったであろう。
だが、傭兵として生きるジャルディンは、この世のもっとも恐ろしいものは全て見たと自負していたし、
それに屍は朽ちるままにされるのではなく、すべて塚に葬られ、内部は空であることも彼は知っていた。
下から見上げた時には光の点にしか見えなかった天井の採光窓が八角形のそのかたちを
はっきりと見せる頃、しだいに明るくなってきた視界の中で、
ジャルディンは踏んでいる階段に、ふと、濡れたものを見つけた。
それは、血であった。
まだ真新しかった。
ジャルディンは迷い込んだ獣の血であろうと気にも留めなかった。
塔は高く、息が切れたが、彼は脚を止めずに一息に最上階へと登りつめた。
内壁をめぐる階段の終着地は、頑丈な扉のついた隠し部屋だった。
国の最後の日、騎士に守られた王族たちは塔を駆け上がり、ここに避難した。
少し外側に張り出すようにして設えられているその部屋の扉は、打ち壊された時の跡が
まだ生々しく残っていたが、扉自体は修復されており、閉ざされたままになっていた。
鉄の鋲がうたれた扉の表に、天窓から差し込む陽光が細かな文様を刻んでいた。
扉に耳をあててみたが、中からは何の音もしなかった。
石壁の隙間から、涼しい風が吹いた。
風は円筒の塔の底に、寂しい音を引いて落ちていった。
 -----わが民、わが騎士、わが息子たちが戦って死んだというのに、
    王たるわしがそれをせずして、何としよう。
我知らず、ジャルディンは今に伝わる哀歌をそっと口にのせた。
歌はうたう。三十年前、この重い扉を開いて、王は外に出てきた。
そして階段をぎっしりと埋め尽くした敵を上からしっかと見廻し、今の言葉を放ったのだ。
歌は王の最期を讃えて続く。
 -----黄金づくりの剣を持ち、王子たちと同じく、レンシェの王も祈られた。
    塔よ、我らの姫を守りたまえ。
壁面に切り込まれた吹きさらしの窓を、鳥影が掠めた。
窓枠からふわりと身を躍らせ、下へ下へと落ちてゆく姫君の幻を見た気がした。
陰々とした声が塔を貫いて響いたのは、その時であった。
扉が風にがたりと揺れた。
ジャルディンは背中に冷水を浴びせられたような気がした。
その声は塔の真下から聴こえた。
誰か、中にいるのか。
それは、先刻の自分の声だった。



■後篇

 「長女のお前だけは、レンシェの血を伝えて、生き延びておくれ」
 塔の上から見渡すわたしの街は、火矢を浴び、炎に包まれていた。
逃げ場を失くした人々の悲鳴や、馬の嘶き、なにかが焼け落ちる轟音が、
風にのってここまで聴こえてきた。
 わたしの国が、燃えている。
 膝にすがる異母妹たちをわたしは抱きしめた。
お母さまは、ここが王座の間であるかのように、取り乱すことなくしっかりとしていらっしゃる。
お兄さまや弟たち、そしてわたしの従兄弟らは、わたしたちに丁重な礼をして、
剣を手に部屋を出て行った。いつもふざけていた彼らとは別人のように、とても立派に。
みんな死んでしまった。
お母さまが窓を開いた。
きらきらと光る火の粉が塔の高みにまで舞い上がった。妹や従姉妹たちが泣き出した。
そうね、わたしも怖いわ。
お前だけはレンシェの血を伝えて生き延びておくれ、お母さまは何度もそう仰る。
大勢いる王族の女たちの中で、レンシェの純血を受け継いでいるのは、わたしだけだから。
でも、何度頼まれても同じことだわ。
わたしは泣いている異母妹たちの頬を撫でた。
 何も怖くないのよ。お姉さまが先にいって、あなたたちを受け止めてあげるから。
みんな一緒よ。またお花摘みをして、森の中で遊びましょう。
 わたしは窓枠に立った。菫色の静かな空と、夕映えの山々が見えた。森が見えた。
扉を打ち壊そうとする音が大きくなった。
火焔で起こる強風が吹きつけ、わたしの髪がばらけてほどけた。
塔を取り囲んだ者共がこちらを見上げて何かを叫んでいた。金の髪の姫君だ。
十重二十重に護衛されたひときわ立派なあの馬上の男が、それでは敵の王に違いない。
夕闇の中で眼が合った。わたしは微笑んだ。
 お前のものにはなりません。


 ジャルディンが見下ろした塔の底は、谷底のように暗く、深かった。
声はもう一度、今度ははっきりと聴こえた。
 「誰か、いるのか」
 ジャルディンは、安堵して、剣から手を放した。
それは、少女の声だったのだ。
 「いる。ここだ」、ジャルディンは下に向かって応えた。
塔を抜ける声は、壁に反響し、自分の声とは思えぬ振幅をみせた。
余韻が収まるのを待って、分かりやすく、今度は一語一語をゆっくりと区切って云った。
 「道に迷った。塔が見えたので、来てみた。俺はあやしい者ではない。いま、降りて行く」
 降りる前に、眼前の扉をおし開いて、隠し部屋の中を見たいと思ったが、
何かがジャルディンにそれをさせなかった。大勢の人間にじっと見つめられている気がしたのだ。
塔の中の光はじゅうぶんではなく、下で待つ少女の姿はよく見えなかった。
ジャルディンは階段を降りた。登る時よりも膝に負担がかかるので、急ぐことはなかった。
少女とジャルディンは連れ立って塔の外に出た。清潔な風と、青空があった。
眼が眩んだのは、暗闇から急に明るいところへ出たせいばかりではなかった。
ジャルディンの眼の前にいるのは、ぬけるような白い肌にまっすぐな眼差しをした、
見たこともないほどに美しい、男装の少女だった。
少女の乗ってきた馬が近くで待っていた。
少女は馬に草を食ませた。そして、男装の少女は手にした草を鞭のようにしならせながら、
ジャルディンを振り返った。ジャルディンは先に名乗った。
 「ジャルディン・クロウだ」
 「あちらに繋いだ栗毛の馬は、あなたの」、はきはきと少女は訊いた。
 「そうだ」
 「道に迷ったの」
 「そうだ」
 ジャルディンは訝しく思った。  
このようなひと気のない荒地に、この少女の方こそ何の用があって塔を訪れたのであろう。
金色の髪を耳にかけ、男装の少女は薄く笑った。
それは短く切り揃えてあるのが惜しまれるほどに、美しい髪だった。
そして、道に迷ったというジャルディンの嘘を見抜いている笑みだった。
その眼はこう云っていた。
(ここで、昔、たくさんの人が死んだ。それを知っていて一人で来るとは、勇敢ね)。
 塔の壁に凭れて、彼らは水と食料を分け合った。
そこからは、森と、雪冠の山脈が一望できた。
「あんたは、ここで何を」、立ったまま壁に凭れて水を呑み、ジャルディンは訊いた。
少女の態度は人を見下し慣れていた。そして、それはどことなく懐かしくもあった。
そうだ、ちょうど、超帝国の王子であった頃、まわりの貴女たちがこのようであった。
男装の少女は、ジャルディンの名を繰り返した。
ジャルディン・クロウ。聞いたことがあるわ。
夕暮れになると血を流す塔が見たいのなら、傭兵ジャルディン、日暮れまで待つことね。
 「わたしはそれをずっと見てきた」
 「あんた、誰だ」
 「わたしの名はエトラ。この塔を守っている。
  昔、ここにはレンシェという国があった。私はその王家の末裔です」
 ジャルディンは水筒からゆっくりと口を離し、エトラの言葉にはかぶりを振った。
虚言家や詐欺師に騙されるジャルディンではない。
レンシェの国は炎に沈み、塔に逃れた王家の人々も、同じ日に同じ運命を辿ったはずだ。
残された女たちもこの塔から身を投げて、誰ひとり生き残らなかった。
レンシェの人々は降伏よりも滅亡を選び、その貴い血は残らず地上から絶えたのだ。
それは、歌にもなっている。
幼い頃、ジャルディンも、育った宮廷の宴の席でよく聴かされたものだった。
歌は、いまは石垣の間から草がのぞくこの場所に、あの日折り重なるようにして
息絶えた騎士たちを悼み、滅びた人々を、その栄華を惜しんでいた。
時よ、翼をひろげて飛ぶ鳥よ、愛し合う人々は過ぎ去った、時よ、リンドウの揺れる野よ、
古えは遺された塔に偲ぶのみ。
単調な旋律で哀切に詠われるそれは覚えやすく、宴がはてても、ジャルディンの胸に残った。
 「ところが、生き残った姫が、ひとりだけいるのよ」
 ジャルディンの見ている前で、エトラは誇らしく塔に片手をついた。この塔の中に、今もね。
 「塔の、中に」
 塔は無人のはずだった。
思わず今見てきた塔を振り返った傭兵に、エトラは頷いた。
人はこの塔が血を流すと怖れるけれど、それは国が滅びるよりもずっと前の、大昔からのことよ。
この塔に使われている石が、夕陽を鏡のように反射させるので、遠目にはそう見えるだけ。
夕方だけのことではないわ、ジャルディン、塔の上を、ご覧なさい。
ジャルディンは仰いだ。
塔の上部は、雲間からの光を受けて、空に溶け込んでいた。
エトラは教えた。あれも、この石壁がつややかで、細かな硝子質をもち、
色と光を照り返す性質を持っているからそう見えるの。
この石が何処から運ばれて来たのか知る者はいないわ。
或いは、レンシェの城や町が築かれる前から、塔はここにあったのだと説く人もいる。
人はこの塔を真紅の塔と呼び慣わすけれど、まだ国が栄えていた頃この塔は、
鳩の塔、と呼ばれていた。誰がいつ、そんな名をつけたのかは分からない。
白鳩の胸を針で突くと、輝くような深紅の血がこぼれる、それが由来なのかも知れない。
エトラは塔の壁に頬をつけて、冷たい石壁を撫でた。
 「鳩の塔には、昔から伝わる伝説があった。誰も信じなかった。
  でもその伝説はちゃんと成就したの。皮肉にも、レンシェが滅びた後でね」
 その言葉に応じるかのように、突然、真上から音がした。
閉まっていたはずの塔の最上階の窓が開いていた。
後ろに下がって鳩の塔を見上げたジャルディンは眼を疑った。
そこに、金色の髪をなびかせた一人の女がいた。輝く塔の窓枠に立つ女は、光に包まれ、
青空に浮いているようにも見えた。
女は一瞬で姿を消した。
 「塔の窓に現れた乙女を見て、王は叫んだ」、神託のようにエトラは云った。
エトラの眼は光り、男装の少女はまるで預言の巫女であるかのようにジャルディンに歩み寄ると、
塔を見上げて放心しているジャルディンの耳に、歌の続きのようにそれを囁いた。
この塔は鳩の塔と呼ばれていた。
そして、この塔には、昔から伝わる伝説があった。
 『レンシェの姫は、この塔によって守られるであろう』。

 塔の窓に現れた乙女を見て、異国の王は叫んだ。
 「救え、あの姫を救うのだ」
 塔は月に届くほどに高く、そこから落ちては助かりようもない。
王の命を受けて兵士たちが一斉に塔の中に飛び込んでいったが、それも到底
間に合うとは思われなかった。
火の粉の舞う中で、姫は淋しげに微笑んでいた。金糸の髪が風にゆれていた。
夕闇に、塔は赤く燃えた。
 「王よ!あれをご覧あれ」
 身を躍らせた姫のからだは、ひとひらの雪のように、火焔を上げる中庭に落ちていった。
 (姫-------)
 その時、王族の立て籠もる塔を守って力尽き、倒れ伏していた忠義の騎士たちは、
愕くべき末期のあがきを見せた。瀕死の息の中から残る力を振り絞り、
彼らの姫に向けてふるえる腕を伸ばしたのだ。
或る者はそれを、死んでゆく騎士たちの魂だったのだと云った。
また別のものは、赤黒い雲間の切れ間から白い光がさっと差して、姫のからだを支えたと証言した。
異国の王の眼には、こう見えた。
一羽の白い鳩が、幻のように飛んできて、姫に翼を与えたと。
それは一瞬のことであった。
姫はまっすぐに地に堕ちた。
墜落の強い衝撃で跳ね上がり、そして、異国の王の前に横倒しに倒れると、
金糸の髪を乱し、四肢を投げ出したまま、そのままぴくりともしなかった。
王は馬から飛び降りて、自ら姫をその腕に抱え上げた。
姫は眼を閉じていた。その唇から、糸筋のような血がこぼれた。しかし、姫の胸はまだ鼓動を打っていた。
 「まだ生きている。誰かある、誰ぞ、この姫を介抱せよ!」
 また、塔から人が落ちた。
奇跡は今度は起きなかった。姫を抱きかかえている王の眼前に、木が折れるような強い音が続いた。
ひゅっという音は、女たちが上げる墜落の悲鳴であった。
幼い王女や、その侍女たちのからだは石畳に砕け、次々と無残な姿を晒した。
落下の途中で塔の基底部にぶち当り、首を折って落ちる者もいた。
塔の部屋から女たちは身を投げた。
 「止めろ。誰か、止めさせよ。王家の女たちには危害は加えぬ」
身を乗り出して王は声を張り上げた。
はっとなって王は塔を見上げた。
塔の上から彼を見下ろしているのは、彼が滅ぼした国の最後の王妃であった。
将の手をすり抜けて、王妃も落ちた。地に激突する前、逆さまになった王妃の眼が確かに王を見た。
王は絶叫した。
その腕の中で、生き残ったレンシェの姫は、母と妹たちが死んでゆく、その墜死の音を聞いていた。
異国でも、その音は夢に聴こえた。
命こそ助かったものの、姫は完全には恢復しなかった。
王は生き残りの姫を国に連れ帰り、家中の反対を押し切って、亡国の姫を妃の一人に加えた。
父母を殺した王の腕の中で、姫は幾夜も泣いた。
王はレンシェの姫をことの他気遣い、無理強いすることなく時をかけて愛するように努め、また、
姫もしだいに王のやさしさに触れて心を開いたが、国を失った哀しみは癒えることがなかった。
 そなたの望むことは、なんでも叶えよう、と王は云った。
戦をするなと云うのならば、わたしの治世である間はそうしよう。
領地にそなたの故郷に似せた小さな村をつくらせ、そこをレンシェの村と名づけよう。
白いからだを開かせると、姫の肌には墜落の際に負った傷痕があった。
王はその上に唇を這わせた。
終生をかけて、そなたを愛そう。姫よ、どうか、赦しておくれ。
 「王よ、レンシェの姫君は、お心を病んでおられます」
 王の慰撫や言葉は姫にとどく時もあれば、何も聴こえてはいない日もあった。
窓辺に凭れて、いつまでも小声で歌をうたった。
包み込むような王のやさしさには泣けた。
それなのに、姫は一人になると、塔から落ちる幼い妹たちや母の夢を見るのだった。
 「十三年の月日が流れた。王の妃となった姫は、やがて懐妊し、赤子が生まれた。
  赤子は、エトラと名づけられた」
 それを語る金色の髪の少女は少し笑った。おごそかな口調でジャルディンに続けた。
 その王も若くして死んだ。王の喪があけると、レンシェの姫は王女を連れて、国を出て行った。
亡国の女が宮廷を去るのを止める者はいなかったが、王と姫に仕えた幾人かは姫を慕って、
姫と王女に付き従った。
旅の途上、夜の荒野で幼い王女は母に訊いた。何処へ行くの。
母は応えた。レンシェへ。
 「お母さまが育ったお城はもうないけれど、そこにはまだ、塔が残っているの。
  塔がある限り、レンシェはまだそこにある。それは鳩の塔と呼ばれている古い塔なの。
  その塔には伝説があるのよ。
  これは、お母さまがまだ小さい頃に乳母やが教えてくれたお話。
  エトラや、あなたにも聞かせてあげましょうね」
 星空の下、レンシェの姫は微笑んで、エトラにそれを語ってきかせた。
エトラは母が治癒の難しい病にかかり、そして気が狂っていることを知っていたが、
黙っていつまでも母の話を聞いていた。
遠い昔、一羽の鳩がレンシェに飛んで来て、塔に幽閉されていたお姫さまと友だちになりました。
お姫さまを亡きものにしようと企む人々は、閉じ込められたお姫さまのたった一つの慰めであった
その鳩を残酷にも殺してしまいました。お姫さまは何日も泣きました。
その時代はいまよりも、もっと、野蛮だったのです。
やがてお姫さまが処刑される日になりました。悪い人々は塔の上からお姫さまを突き落としました。
その時です、塔から白い鳩が飛んできて、お姫さまのまわりを回りました。
人々の眼には、お姫さまの背に羽根が生えたようにも見えたそうです。
塔から落ちたお姫さまは、無事でした。
それ以来、塔から人が落とされることはなくなりました。
殺された鳩の血で、この塔は夕方になると、赤く見えるのです。
そして、言い伝えが生まれました。レンシェの姫は、この塔によって守られると。
その話をする時にだけ、母の顔はやさしく輝き、束の間の正気が戻っていた。
繰り返し母は語った。
エトラ、あなたも塔を見たらきっと愕くわ。夕方になると、塔は本当に、赤い宝石のように輝くのですよ。
  
■エピローグ

 傭兵部隊から、ジャルディンの姿が消えた。
それを不思議に思うものはいなかった。
あれはもとから俺たちのようなごろつきとは違う、どことなく威厳があった、
もとをただせばきっと相当に身分のある男に違いないよ、傭兵稼業の男たちはそう噂した。
 ジャルディンは、国に帰ったのではなかった。
報せを受けて、エトラの許に行ったのだ。
 塔は燃えていた。
故郷のあった地に辿り着いても、姫の病は癒えなかった。
病のすすんだ姫は願った。わたしたちの一族が待っている、あの塔へ行きたい。
エトラは母の願いを聞き届けてやった。
隠し部屋の中で姫はそれからしばしの時を生き、静かに息を引き取った。
エトラと、それに異国から付き従ってきた、わずかな供がそれを看取った。
駆けつけたジャルディンに、エトラは告げた。
ジャルディン、わたしは、この塔と共に母の亡骸を御空に還してあげようと思う。
あの人は異国の妃ではなく、いつまでもレンシェの姫だった、だから、そうしてあげようと思う。
エトラは母の亡骸を花で飾り、その手に別れの接吻をした。
隠し部屋に火をつけた後で、エトラはいちばん最後に塔から降りて来た。
塔の最上階を包む火勢は、まるで炎の王冠のように夕暮れの空に耀いた。
ジャルディンは塔の階段で見た真新しい血痕のことをエトラに訊いた。
あなたもあれを見たの。舞い上がる火の粉を見つめながらエトラは云った。
 「ジャルディン、わたしも時々は、ここに来ると見ることがあった。
  塔の中に逃げ込んで来るわたしの同胞の姿や、騎士たちの戦う影を、
  壁に飛び散る祖父や、おじ上たちの血を、死んでしまった人々の、歩く音を」
 燃えてゆく塔は、火焔を上げながら、しだいに夕陽に呑まれていった。
かつて女たちが身を投げた窓からも、焔が噴き出した。
熱波で窓の硝子が割れて飛び散った。
ジャルディンは落ちてくる破片からエトラを庇い、塔から遠く離れた。
窓の破片はきらきらと空から零れ落ちた。塔の壁が剥がれ落ちているようにも見えた。
夕闇の中でエトラはジャルディンの胸に顔をうずめた。
だから、わたしはこの塔を怖れ、髪を切り、男の服を着るようになった。
そうしないと、わたしまで塔に捕われるような気がしたから。
 「それでも、時々は見ることがあった、母のまわりに飛ぶ、一羽の鳩を」
 ジャルディンは燃える塔を睨み、塔から遠ざかりながら、エトラをしっかりと抱いた。
赤く燃える塔の上に、鳥の影が見えたのだ。
ジャルディンはますます強くエトラを抱きしめ、そのからだの影に隠した。
白い鳥の影は宵の空を一度だけ回ると、炎の渦巻く塔の中へ消えていった。
そしてそれきり、現れることはなかった。



[了]
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本作品は[塔とお姫さま]作品集のために書き下ろしたものです。


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