[楽園の霧]
******************
Yukino Shiozaki

>TOP >完結小説倉庫




■\.


 余の馬車ならば早馬より速い、遣え。
ナイアード王がお御命じになるのを受けて、乗り込もうとした使者が気がせくあまりに、
踏み台から足を踏み外して転落した。
その騒ぎを見ていた侍女は、使者を押し退けて馬車に乗り込み、
使者に代わってすぐさま西に向けて馬車を出した。御者の鞭が鳴った。
大陸渡りの種馬から飼育された王の駿馬は、城を離れ、
侍女を乗せたまま猛烈な勢いで走り出し始めた。
 街道沿いの旅籠はその夕べ、傭兵を迎えた。
昨日今日、数度にわたって軍隊や騎馬が街道を駈け抜け、そして西の方で何やら戦があったと聴いていた。
ローリア侯が王に謀叛を起こしたという噂だった。
戸締りを固めているその矢先に、傭兵は飛び込んできた。
自警団が村の入り口に臨時に設けた街道の垣根を、馬ごと高々と飛び越えて
傭兵は突入して来たのである。
仰天している亭主に、何者とも知れぬその若い男は、馬を求めた。
 「カルビゾン王の命を受けて、城に戻るところだ。すぐに」
 宿場町なので、馬はある。
二度びっくりした亭主は急いで馬主の許に交渉に赴き、すぐに一番いい馬を連れてきた。
傭兵は、何事かと見守る人々には何も応えなかった。
それまで乗っていた馬の鼻面を一度だけ撫でて亭主に預けると、新しい馬に跨り、
あとは振り返りもせずに、突風のように宿場町を飛び出して行ってしまった。
傭兵は駈けた。
底のない坂道を下り、夜の海底をかきわけているような、長い夜道だった。
ローリア侯は対峙したあの時、「もう遅い」、と云った。
何かが水面下で進行していなければ、あのようには誇るまい。
前方の道から華美な仕立ての馬車が、傭兵に勝るとも劣らぬすごい勢いで駈けて来た。
 「ジャルディン!」
 馬車はかなり行き過ぎてから大きく向きを変え、今来た道を大急ぎで戻り、
四頭立ての猛速度でジャルディンの馬を追いかけ始めた。
ジャルディンは馬を停めなかった。
速度を緩めて平行して並んだ馬車の窓が開き、女の姿が見えた。
亜麻色の髪の侍女だった。
愕いたことに、馬車に穿たれた紋章は、王のものだった。
 「ジャルディン、ギリファム様とあなたに報せに行くところだったの。早く城に戻って」
 王専用の馬車の窓から顔を出し、亜麻色の髪の侍女は馬上のジャルディンをせかした。
いつもは念入りに巻いてある亜麻色の髪を振り乱し、美人の侍女はジャルディンに告げた。
 「はやく行って。霊廟が火事なの」
 両手を口にあてて叫んでいる亜麻色の髪の侍女は他にも何か云っていたが、
風と馬蹄の音でほとんど聴こえなかった。
霊廟の中には、エトラツィア様と王太后さまが、ご一緒に閉じ込められおいでだわ。
焼き殺されておしまいになる。
ナイアード王の侍女の一人がローリア侯と通じていて、その侍女が裏切ったのよ!
  

 ローリア侯は、その死の直前、侮るように笑っていた。
その時抱いた傭兵の悪い予感は、カルビゾンの城において、その出現をみた。
王太后は気丈であられたが、不意打ちを受けて、身動きならなかった。
そしてエトラにも、それは叶わなかった。
何となれば、剣の切っ先は王太后の喉許にあり、霊廟に忽然と現れたその刺客は、
 「みだりに動かれませぬように…!」
 双方に、最初に命じたからだ。
 霊廟の内部に入ったのは、王太后と、エトラ、そして侍女だけであった。
先王の命日の祈祷には、厳かと静寂が求められ、護衛はすべて外にいた。
蝋燭の灯がゆらりと揺れた。
霊廟の中に付き従った侍女は、ナイアード王が最も信をおく、編み髪の侍女だった。
王太后の喉許に細剣をあてて、エトラの眼の前に立っているのは、その編み髪の侍女であった。
いつものように、生真面目な顔をして、繊細な仕事をする者のように、
侍女は王太后を人質に取っていた。
 「……何ということを」
 「夕べのうちに、細剣を、床の敷物の下に隠しておきました」
 王太后の喉に剣の切っ先を当てたまま、侍女はかすかな顔の動きで、後方の床を示した。
立ち上がったエトラと、剣を突きつけられている王太后の眼が合った。
エトラは手近の燭台を掴むと、霊廟の内扉を目掛けてそれを投げつけた。
宙を飛んだ燭台は青銅製の内扉を叩き、灯のついたままの蝋燭が床に落ちて、
壁際に転がり、そこで消えた。
轟音が霊廟に響いた。
格子状の内扉はびくともしなかったが、音は石壁に重く反響した。
あらん限りの声で、エトラは外の兵を呼んだ。
編み髪の侍女は王太后に剣を突きつけたまま、その動きを封じて、微動だにしなかった。
 「護衛兵!」
 護衛を呼ぶエトラの声は霊廟内に響き渡った。
霊廟は厚い石壁に覆われており、内の物音も、外の動きも、内と外の扉でほぼ遮断されていた。
それでも、漏れ聴こえた鈍音に、霊廟の外で不審の声が上がる気配があった。
 「何の音だ」「どうしたのだ」
 エトラは声を振り絞った。声は丸天井に反響した。
編み髪の侍女と対峙したまま、エトラは侍女の動きから眼を離さなかった。
侍女は静かだった。
 「護衛兵!賊である。王太后殿下をお救いせよ、護衛兵」
 「エトラツィア様のお声だ」「中で何かあったのだ」
 護衛兵、繰り返しエトラは叫んだ。
 「護衛兵、ここに出でませ!」
 「無駄ですわ」
 底光る眼を据えて、編み髪の侍女はエトラを遮った。
 「わたくしが先ほど、霊廟の扉に内錠を降ろしました。
  この霊廟は、もしもの際に王族の方々を外敵から護る避難所を兼ねております。
  すぐには破られはしません」
 侍女の言葉を裏打ちするように、霊廟の外扉がどんどんと激しく叩かれていた。
それも分厚い鋼鉄の扉に阻まれて、びくともしなかった。
 「雲梯と綱を持って来い、窓を破り、中に入るのだ」
 そんな声が聴こえたが、侍女は言下に否定した。
 「霊廟の屋根は円く、壁は垂直で、鍵縄をかけるところがございません。
  窓の高みに、兵が現れるまでには、まだかかりましょう」
 「何が目的じゃ」
 編み髪の侍女に剣をあてられたまま、王太后が呻いた。
 「わらわの命か。そこなる王女の命か。誰に命じられた。どうせ、ローリア侯であろう。
  首尾よう我らの殺害を果たしたとても、大罪を犯したそちにも命はない。それを覚悟の上か」
 「わたくしの、命など、どうでも」
 その手が白くなるまで剣柄を握り締め、編み髪の侍女は正面のエトラだけを見つめていた。
帰城以来、ずっとエトラの側で仕えていた女だった。
寡黙な女で、地味な顔立ちをしており、ほかの女たちとは少し一線を引いているようなところがあったが、
長年城に勤め、王の信頼を受けていることは傍目にも知れた。
蝋燭の明暗に照らされた編み髪の侍女のその顔は、蒼褪めてこわ張り、
剣を持つ手は強い力がこもるあまりに細かにふるえ、水の中からたった今、
這い出して来た者のように見えた。
 「そちは、ローリア侯の間者か。エトラツィアの刺客か」
王太后さま、蝋燭明かりの中で、編み髪の侍女は唇をふるわせた。
平生が静かな女であればあるほど、そこにそうして女が見せている凶行は、何やら得体が知れず、
怖ろしいほどであった。
一心にその眸を見開いて、焼き付けるようにして、女はエトラの姿を見つめていた。
その様子は、ひどく美しかった。
 「お初にお目にかかります。わたくしは息子を人質に取られております。
  エトラツィア様のお命と引き換えに、息子は助かるのです。
  わたくしの名は、アマミリス。王のお情けをいただいてきた女です」
 「アマミリス……」
 「虚言を」
 王太后は即座に侍女を叱り付けた。
喉に剣を突きつけられたまま、王太后は語気を強められた。
 「アマミリスとな。そちの語るアマミリスとやらは、すでに殺されて死んでおる。
  王の愛妾の名を持ち出して我らを騙そうとてそうはいかぬぞ。
  不埒者、河に沈んだ死者の名を騙り、罪を逃れるつもりか」
 「嘘ではありません」
 編み髪の侍女は、その細面の顔を、エトラに向けたままだった。
この女はこんなに美しかったかと思うほどに、女の双眸は張り詰めたものを湛えていた。
編み髪の侍女は言葉を継いだ。
 「橋の上で殺されたのは、子守女です。
  ナイアード様はおしのびで下街の愛妾の家に通うふりをしながら、
  わたくしを侍女としてお城にあげて、この十年、ずっとお側においておられたのです。
  下街の家に隠されいたのは、王とわたくしの間に生まれたランテローと、
  それを世話をする者でした。このことを知る者はほとんどおりません。
  彼らを隠れ蓑として、時々ナイアード様とそこで二人きりになる他は、
  わたくしはずっと王のお側におりました。この十年、ずっと」
 「それが本当だとしても、かかる狼藉の理由にはならぬ」
 「アマミリス」
 エトラは、その名で侍女を呼んだ。他に名はない、嘘ではない。
編み髪の侍女のこの決死の様子。
王の許に侍女としてずっと仕えていた女。王の寵を受け、子を生んだ女。
王の供をして下街の家に通い、そこで王と逢瀬を重ねてきた女。 
控えめな姿で、いつも王の側にいた。
アマミリス、とエトラは重ねてその名を呼んだ。
 「アマミリス。剣をおろしなさい」
 「エトラツィア様。お許し下さい」
 今こそ、アマミリスは、その名を持つ女としてエトラの前に居た。
この人こそ、ナイアード王が隠していた女人なのだ。
揺れる灯にその編み髪は昏く輝き、幻の王冠のように女の頭上に黄金の光を与えていた。
この女こそが、決して人前に現れることのなかった王の心の伴侶、ナイアードを支えてきた王の愛妾だった。
 「剣をおろして。アマミリス」
 「姫さま。このような大それたことを仕出かして、申し訳なく思います。
  ですがこれは、嫉妬ではありませんわ、姫さま。
  ナイアード様がいつか相応しき后さまをお迎えになることは、とうの昔に覚悟しておりました。
  わたくし、それでもいいと思っておりました。
  最初からそれを承知で、ナイアード様の許にいたのです。お側にいられるだけでよかった」
 「アマミリス」
 「姫さま、王太后さま。わたくしの息子ランテローが、ローリア侯に攫われてしまいましたの。
  侯はわたくしに、こう求めました。
  今宵のうちにエトラツィア様のお命を奪わなければ、わたくしの息子ランテローを殺すと」
 「莫迦なことを」
 王太后は声を励まされた。 
 「そちがアマミリスであろう、何者であろうと、かかる姦計が成功に終わったことはない。
  ローリア侯ごときに何が出来よう。
  侯は外国に操られておるに過ぎぬ。王の庶子を殺して、何の得があろうか。
  それは脅しに過ぎぬ。子を捕られたことで動揺しておるそちは、
  みすみす悪心を持つ者共の手先となっているのじゃ。逆上をおさめ、落ち着くがよい」
 「それでも、エトラツィア様を亡きものとすることで、王の正妃の座は不在となりましょう。
  それがランテローを攫ったローリア侯の要求です。
  あのような男、養父などと思ったことは一度もありません。
  わたくしを養女としたのだって、欲深い侯がわたくしを利用しようとし、
  宮廷の権勢を嵩に来て、即位したばかりの王に断れぬ申し入れをしただけです。
  わたくしはどうでもよいのです。息子の命さえ助かれば」
 日暮れ前に霊廟に籠もった王太后とエトラは、いまだギリファムとジャルディンの勝利を知らず、
アマミリスも、ランテローが救われたことを知らなかった。
女たちの間に横たわっているのは、カルビゾンに対して軍事協力を求める諸国が
王ナイアードに自国の姫を嫁がせるためには手段を選ばぬであろう、その事実だけであった。
エトラがすでに后であれば、その謀殺は内外の反発を招くが、いまだエトラは「失われた王女」である。
カルビゾン王の正妃には、是非とも利のある姫をつけなければならない。
その邪魔者となる先王の王女を葬ることにアマミリスが失敗すれば、
アマミリスの息子ランテローは、外国に奪われるか、そのまま人知れず殺されて野辺に棄てられよう。
 「アマミリス」
 「王太后さま、かようなことに巻き込んで、申し訳なく思います」
 「落ち着くのじゃ、アマミリス。その剣を下げよ。エトラツィアを殺してはならぬぞ」
 「剣でお二人を順に刺すよりも、確実な方法がございますわ」
 王太后を捕えたまま、片腕を伸ばしたアマミリスは燭台を手に持ち、
蝋燭を下に落として敷布に火をつけた。
火はゆっくりと燃え上がった。油の匂いがした。
隠しから取り出した小瓶の中身を、アマミリスは三人の周囲にふり撒いた。
愕いたのは、外にいる者共であった。   
 「煙の匂いだ」「霊廟の中で何かが燃えているぞ」
 エトラと王太后は、周囲で燃え上がった火に逃げ場を失い、なす術もなかった。
火は、点々と散った油に到達すると、そこで盛んに燃え始めた。
炎の輪は見る間に盛んになり、熱の手を高く伸ばし、三人の女をその炎の内側に閉じ込めた。
 「そちまで焼け死ぬぞ」
 「もとよりの覚悟ですわ」
 「アマミリス、王太后を放して」
 「火だ、火事だ」
 「王太后さまと王女が中に居られる、扉を破れ。お救いするのだ」
 それらも、遠い声であった。
厚い石壁を通しては、何もかもが、不安のざわつきとしてしか聴こえなかった。
それでも、霊廟の中の女たちは、その声を聴き分けた。
それは、報せを受けて駆けつけて来られた、王の声であった。
王は火炎の柩と化しつつある霊廟の前に愕然と立ちすくまれた。
 「王。中に王太后さまとエトラツィア王女が」
 王は臣下の手前、彼らのようにいたずらに喚くことは許されなかった。
王は内部の炎を映してきらめく高い窓の下に立たれると、「この窓を破って中に入るのだ」、
強い口調で兵に命じられていた。
 「いま、雲梯をかけて、霊廟の屋根からそれを進めております」
 「扉が打ち破れぬとあらば、霊廟の壁を突き崩せ」、王は命じた。
 「構わぬ。破城槌と、攻城塔をもて」
 そして、かように求められた後は、常人には到底叶わぬ自制と冷静によって、
拳を握り締めて後ろに下がり、
 「----間に合わぬかも知れぬが」
 呟かれると、その口を閉ざされてしまった。
 「王、お下がりを。危のうございますれば」
 「誰か、綱を。もっと高い梯子を」
 「屋根に上れ。そこから綱を下ろして、誰か、窓を破るのだ」
 「霊廟には、抜け道の坑道があると聴いたことが」
 「城の裏手に一隊回れ。とうの昔に岩盤が落ちて塞がれている道ではあるが、
  そこからお助け出来るかも知れぬ。掘り進むのだ」
 「窓を破れば、風が入り、火の手が盛んになります!」
 「中の様子が分からぬではどうしようもないではないか、やるのだ!」
 「聴いたであろう、アマミリス」
 王太后が真っ先に煙に巻かれて咳き込んだ。
アマミリスは、これまでとばかり、その王太后の胸を剣の柄頭で突いた。
胸を病んでおられる王太后はその場に崩れ落ちたが、床を這い、アマミリスの脚を掴んだ。
 「王が外におられる。そちの言い分は、王に申し上げるがよい。
  かようなことをして、たとえ助かったとしても、母を失ったその子はどうする」
 「わが君が、わたくしに代わり、育ててくれましょう」
 アマミリスは王太后の手を踏み越えて逃れると、もはや王太后には構わなかった。
もはや、アマミリスは何も聴こえてはいなかった。
王の愛妾は細剣を手に、炎の中、真っ直ぐにエトラに向かった。
振り下ろされた剣を、エトラは避けた。
旅の間に傭兵から教えてもらった護身術ではあったが、裾の長いドレスに脚がとられた。
覆いかぶさる女を、エトラツィアはふたたび避けた。炎の壁に遮られ、それ以上逃げ場もなかった。
このままでは焼け死ぬ。
 「エトラツィア様。お許し下さい。わたくしもすぐに後を追います」
 「エトラツィア。王の柩を動かせ。祭壇との隙間に、抜け道がある」
 アマミリスに追いすがり、その裾を握り締めた王太后が息も絶え絶えに、それを教えた。
城の伝承を想い出して、王の柩の後ろにエトラは駆け込んだ。
脱出口は、王の柩の下であった。
肩でぶつかった。腕の骨が折れるほどの力で押した。石柩はまったく動かなかった。
女だけの力では無理であった。
火勢の中にあるのに、全身が凍えた。
眼の前に影が落ちた。
動かぬ柩を背にしたエトラの前に、女が立った。
 「エトラツィア様、申し訳ございません。許して。わたくしは、ナイアード様を」
 -------本当は、誰にも渡したくないのかも知れません。
 ひどく醒めた頭の片隅に、アマミリスの心が聴こえた。
剣の光がエトラの上に閃いた。エトラは身を沈めて、アマミリスを突き飛ばした。
エトラとアマミリスは、床の上を転がった。
 「綱がかかった!」
 霊廟の外では篝火が夜空を焦がすほどに明るく燃えていた。
城中の兵士が集まり、彼らは必死ではたらいた。
転落の危険を冒して霊廟の屋根を這い登り、登頂を果たした兵の手で、頂華に綱がかけられ、
その端がようやく下に落とされた。
そこへ、城門を蹴破らんばかりにして飛び込んできた人馬が、馬のまま、城の中に乗り込んで来た。
城の階層を駈け飛ばし、列柱廻廊と中庭を越えて、最短距離で霊廟の前に走り込んでくると、
馬の鞍の上に立ち上がり、今しもそれを登ろうとしていた兵士の手から鎖綱を引ったくった。
受け取った予備の綱を肩にかけ、馬の鞍を蹴って飛び上がると、大きな獣のように、壁を登り始めた。
窓を打ち破る音がした。
瞬く間に霊廟の窓に辿り着いたジャルディンは肩から外した綱を窓枠に巻きつけ、
それを夜に向かって投げ落とした。
下で待っていた兵がそれに応えて、傭兵に続いて霊廟の壁を登り始めた。
窓をさらに大きく叩き割ったジャルディンは内側に落とした綱を身体に巻きつけて支えにし、
柱を足がかりに弾みをつけると、硝子の破片と共に火災の中に降り立った。
あたりは火の海であった。
彼が見たのは、王の柩の周囲で縺れ合っている、エトラと編み髪の侍女の影だった。
 「エトラツィア様、お覚悟」
アマミリスは渾身の力を振り絞ってエトラにとどめを刺そうとしていた。
エトラは膝をついた。
倒れていた王太后が咳き込みながらそれを命じた。傭兵、王女を救うのじゃ。
 「ジャルディン!」
 背中を向けたまま、エトラは誰が来たかを知った。アマミリスの腕を掴んだまま、
 「ジャルディン。王の愛妾を殺してはいけない」
 自ら庇って、アマミリスの身体に抱きついた。アマミリスは剣を振りかざした。
エトラの頬を、何かがびゅっと掠めた。
殴られたように想った。
それは間に合わぬと見て傭兵が投げつけた剣であった。
剣は回転しながらアマミリスの握り締める剣にあたり、アマミリスの剣を遠く弾き飛ばした。
そのあおりで、アマミリスの身体は横転し、ただちに傭兵がそれを床に取り押さえた。
 「アマミリス!」
 霊廟にさっと外気が入った。
窓から傭兵が落とした綱を伝い、中に突入を果たした一番乗りの兵が果敢にも火を飛び越えて
霊廟の内扉の鍵を斧で叩き壊したのである。
兵は続いて、外の扉も開け放った。
新しい風を受けて炎は一時勢いを増し、天井までに届いたが、
 「火を消せ!」
 開かれた扉から一斉に入って来た兵が、用意していた大量の砂を桶で次々に撒いた。
 「ジャルディン」
 「エトラ。いま、何と云った」
 「編み髪の侍女。その人こそ、王の愛妾なのよ。子供をローリア侯に奪われて、
  それで、こんなことを」
 火炎の熱のせいか、それともアマミリスとの闘いのせいか、エトラの声は枯れ上がり、
その顔は汗ばんで、火照っていた。
伸ばした指先は、傭兵には届かなかった。
組み伏せたアマミリスを引きずり起こすと、傭兵は躊躇なくアマミリスを兵に引き渡した。
その間に、王太后は外に担ぎ出された。
 「ジャルディン。自分で歩けるわ」
 「あの女は王太后とお前を害しようとした者だ。外で、王が待っている」
 「何の騒ぎだ、これは」
 そこへ、王弟ギリファムが馬車から霊廟前に降り立った。
傭兵の後を追って城に戻る途中、王弟の軍隊は亜麻色の髪の女を乗せた王の馬車と行き逢い、
王弟だけがそれに乗って、先に城に戻って来たのである。
ギリファムの後からは、あまりの馬車の速さに眼の回った亜麻色の髪の侍女が、すっかり疲れ果て、
御者に助けられて外に抱え降ろされて来た。
王弟は草の上に横たえられていた王太后の許に膝をついた。
 「おお、ギリファム王子か」
 「王太后、お怪我を」
 「大事ない。王の愛妾アマミリスを、むやみに扱ってはならぬと、王にお伝えするのじゃ」
 何のことやら分からぬまま、ギリファムが頷くと、王太后は手当てのために丁重に運ばれていった。
夜空の下にジャルディンと王の姿を見つけて、ギリファムはそちらへ向かった。
 「王。戻りました」
 「ギリファム。大義であった」
 ギリファムは臣下の礼をとった。
 「王の馬車には最新式の懸架装置がついておりました。凱旋行列にも勝る、快適な道のりでした」
 「余に無断で軍を動かしたる件については、いまは不問とする。
  ギリファム、よくぞ、ローリアを討ち果たしてくれた」
 「ジャルディン・クロウの手柄にて」
 ナイアード王は頷かれた。
鎮火してゆく霊廟を見つめておられる王の様子には、厳格と冷徹だけがあった。
ローリア侯はかねてより、王太后までをも唆しておった不忠義者であった、と王は云われた。
 「異国の姫を魔女と呼び、あらゆる偏見を城の中に振りまいて、憚らなかった。
  忠義一筋ゆえの熱心と思い、目立ったことをせぬうちは大目に見逃してきたが、
  人生の最期に慾が出たか。これも天罰であろう」
 「兄上。兄上の子ランテローは無事に救い出しましたぞ」
 それでも、王のお顔はまったく晴れることはなかった。
大勢の兵を従えた王の前には、一人の侍女が引き出されていた。
結いがほどけた女の髪は、力なくうなだれたその肩にかかっていた。
その後ろにはジャルディンとエトラが控えており、エトラは、「王」、云いかけたが、
王の厳しい眼に一瞥されて、口を噤んだ。
ランテローが救われたと聴くと、アマミリスは顔を上げた。
その顔には、優しいといってもいいほどの、深い安堵と、王への愛情があった。
アマミリスは優しく眼を伏せた。
縛り上げられた女を、王はひややかにご覧であった。兵が待っていた。
王は傍らの兵に命じた。
この女を地下牢に入れよ。
王太后とカルビゾンの王女を殺害せんと謀った、大罪人である。

 
 
■終章. 


 火刑台からは、まだ、煙が立ち昇っていた。
薄紫の煙は、細くよじれ、幾つかの束となって風にそよぎ、
水色の空の何処かへと、吸い込まれて消えていった。
風下に立つと、異様な匂いがまだ濃かった。
兵が棒でつつくと、焼け焦げた鎖が、死体から零れ落ちた。
罪人の火焙りを喜色満面で囃し立てながら見物していたカルビゾンの人々は、
それを見届けると、鎖の外れるその音を合図に鉄柱に縛られた黒焦げの物体から眼を逸らし、
急速に怖ろしくなった様子で、広場から足早に立ち去った。
彼らのうちの、誰ひとりとして、知らなかった。
カルビゾンの王女が帰還を果たし、風の噂にそれを聴くままに、
人知れず、またこの国を立ち去ったことを。
家路を急ぐ彼らの傍らを、その人は馬に乗って通り過ぎた。
黒髪の傭兵を伴っていた。
男装をしている王女に、気がつくものは誰もいなかった。
ローリア侯の残党が広場で火刑に処され、その火が燃え尽きた頃、
彼らは城から出て行った。
城の中庭に引き出された馬は二頭だった。
西の塔の上から、弓と矢を持ち、その者はそれを見ていた。
矢じりには毒が塗ってあった。
空は晴れていた。やがて、霧になりそうだった。
金色の髪をなびかせて、男装した少女が、馬の側に駈け寄った。
身を屈めた黒髪の男は両手を組み合わせて、少女が鞍に乗るのを手伝った。
西の塔の上から、弓を構え、その者はその時を待った。
少女は傭兵の手に足をかけた。傭兵は少女を支えて押し上げた。
標的は自由な小鳥のように、軽々と跳んだ。
少女が鞍の上におさまった。その者は毒矢をつがえ、弓を引き絞った。
 「お父さん」
 その者を背中から抱きとめたバーレンは、父カルドの手から、弓を奪った。
お父さん。もういいのです。もう終わったのですよ。
 「あれは、魔物である」
 老カルドはぎりりとその老体を捻り、塔の高みから、馬上にある王女の細い背を指差した。
傭兵は少女に何か云った。少女はそれに応えた。
自らも馬に乗ると、傭兵は王女に並んだ。すぐに二人は馬を出した。
西の塔の屋上から腕を振り回してカルドは咆えた。
手塩にかけてお育てし、お仕えした、わが王を惑わし、
快活であられた王を腑抜けの暗愚と変えた魔女。
 「異国の女があれに。
  高い塔から飛び降りて、あれだけが助かったのだ。あれだけが。
  今度は逃さぬ。この手で、塔から突き落としてくれる。
  首を絞めて息の根を止めてくれる。
  この毒矢で、射殺してくれる。あれはカルビゾンの禍いである」
 「姫は、遠い異国に帰りました。父上」
 「カルビゾンの御為ぞ。あれは殺さねばならぬ。滅ぼしてしまわねばならぬ」
 「もう終わったのです、父上。お父さん」
 「写本に毒を塗ったのも、カルドなのか?」
 その横で、ギリファム王子はバーレンが取り上げて棄てたカルドの弓を、足先で遠くへ蹴った。
病で弱り果てた父親の身体を抱きとめたまま、バーレンは頷いた。
 「トルマンや、ローリアということはないのか」
 「父は、トルマン王子に頼まれて、王太后に薬を届けておりました。
  先王の本が王太后の部屋にあるのを見た父は、
  王太后がそれをエトラ様に返還する意向であることをトルマン王子から聞き及び、
  そして、写本に毒を塗ったのだと思います。
  父は、王太后に、古びていた写本の留め金を新調することを申し出ました。
  王太后も少しは訝しく思われたでしょうが、
  まさかカルドが中に毒を塗って返したとは、思わなかったはずです。
  父は王太后に、王女の手に渡るまで、決して誰にもこの本を読ませてはなりませぬぞと、
  そのような註文までつけていたそうですよ」
 「いつ、それを知った」
 「研究室から猛毒が盗まれた、カルドだと思う、そのように、
  トルマン王子が打ち明けて下さった時に。
  写本に塗られていた毒も、霊廟前でエトラ様を掠めた矢に塗られていた毒も、
  父とトルマン王子しかその鍵を持っていない薬棚の中から取り出されていたそうです。
  トルマン王子は、内々にわたしにそれを教えて下さいました。
  カルドは悪くない。わたしの研究に付き合わせたのが悪かったのだ。
  カルドに気をつけて、よく看てやれと、そのように仰せでした。
  老い先短い彼を罰することはしたくないと」
 それを聴いたギリファムはおもしろくなさそうな顔つきで、あいかわらず厭味なくらい寛大で、
いい子ちゃんな、優等生の弟で、と異母弟トルマンへの皮肉をもらした。
 「十年前、先王の柩から写本を取り出したのも、カルドなのか?」
 「さあ、それは分かりません。それでも王太后と父は異国の姫を憎む点で
  一致しておりましたから、或いは」
 老カルドには、異国の姫も、王女も、もはや区別がついていないようであった。
バーレンは父を従者の手に預けて、塔の屋上から去らせた。
バーレンとギリファムは、塔の胸壁に手をかけて、城を出て行く王女と傭兵を見送った。
あいつが俺の右腕となってくれれば心強かったのだが、とギリファムが傭兵を惜しんだ。
バーレンはひそやかに笑った。
 「あれだけ殴る蹴るをしたら、ジャルディンも頭にきて、厭気がさしますよ」
 「あれは嫉妬だ。エトラの奴、俺には棒切れでも見るような眼を向けるのに、
  あの男には何だかんだで懐いていたからな。子供の頃あれほど可愛がってやったのに」
 「よく、お許しになりましたね。エトラツィア様が、カルビゾンを去られることを」
 「仕方がなかろう。それが、王のご裁断だったのだ。そして、俺もそれに賛成した」
 城に翻る王旗を見つめて、ギリファムは腕を組んだ。
それにあれは追放ではない、二人とも、いつでも戻って来ていいのだ。
それまでに、俺は、カルビゾンを強くしてみせるぞ。
 「エトラが去ったとなれば、兄上にはまたぞろ強国との縁談が持ち込まれるのだ。
  これからどうなるか知らんが、どうせ、また揉めるのだろう。
  それでも、ローリアの裏切りがこうして天下に知られた以上、
  内政不安につけ込まれぬ為には、いよいよ、どこかの国と有利な縁組をしなければなるまい、
  王がご自身でそう決めたのだ。それが国を出てゆくエトラを護ることにもなるであろうとな。
  それなら、最初からそうすればよいのだ。今さら異国の姫の面影に惑わされたりなどせずに」
 ふくれた顔で、ギリファムは空を見上げた。
ひらけた眺望の彼方が、曇って、そこを飛ぶ鳥の姿が流れ出した霧に霞んでいた。
カルビゾンを去ってゆく王女と傭兵を、城の者は静かに見送った。
病床にある王太后は、トルマン王子に支えられて、西の塔の窓から。
城の兵たちは、剣を立て、二列に居並んで。
来る時にはくぐることのなかった正門を、彼らは堂々と出て行った。
傭兵は城の窓にちらりと亜麻色の髪の侍女を見た。
泣いちゃうから見送らないわ、と云っていた女は、確かに泣きそうな顔をして、手を振っていた。
去り行く二人の影は、跳ね橋から堀を渡り、坂を下り、すぐに街中に見えなくなった。
その先は、平野であり、森であり、渺茫とした果てのない、空だった。
 「一度も、振り返らなかったか」
 去り行く彼らの姿を、王の塔の窓から、王は見届けられていた。
窓にあたる陽は薄く翳り、霧の到来を告げていた。
王太后がそなたをお救い下されたのだ、王は傍らのアマミリスの頬に手を添えた。
杖を手に、御自ら証人台に立たれ、子を誘拐された母の情を代弁し、特赦を求めて下さった。
王女エトラツィアと傭兵、それにギリファムとトルマンの二人の弟も、そなたを庇い、
罪なきことを訴え出てくれた。
まるで申し合わせたかのように、次々と彼らは恩赦嘆願を寄越した。
さもなくば、王であるわたしとても、そなたを放免することは出来なかったであろう。
さもなくば、エトラツィアを手放すことは出来なかったであろう。
アマミリス。
窓に背を向けると、王は愛妾の肩にその顔を伏せられた。
お前だけは、何処にも行かぬであろうな。
祭りのあの夜、打ちひしがれて街を彷徨っていたわたしを、お前が見つけてくれたのだ。
わたしが王子であることをいっかな信用せずに、それでもわたしを愛してくれた。
王として、どのようなことでも耐えてみせるつもりでいた、どのような罪と再会しようとも。
エトラツィアの顔に浮かんでいたものは、あの頃のわたしが見ていた、あの人の顔だった。
わたしの倖せはあなたの中にはないと、そう云っていた。
消えたはずの過去を想い出した。もう一度同じことを繰り返すのか。
あれを殺してしまえば、どんなに楽になるかと、エトラツィアを殺すことまで考えた。
これでよいのだな、アマミリス。
あれを光の中に放してやったのは、それが出来たのは、こうしてそなたが側にいてくれたからだ。
花の香りがした。
白い花の香りだった。王の部屋に活けてあった。
いつもそこにあった。
わたしはお前を正妃としてやることは出来ぬ。これからも、ただの侍女かも知れぬ。
それでも側にいてくれるであろうな。
そなたとランテローがいなければ、この身を支えられぬ。
余の許から去るな。
女の細い腕が、王を抱いた。
たとえこの身を焔でやかれることになろうとも。
いつも過分な愛を下さるあなた様が、どうしてそれを、お疑いになりますの…?
その真が分からぬ、わたくしでしょうか。
アマミリスは王に口づけた。
どのような立場の女でも、殿方のそれだけは見誤ることはありません。
そこが牢獄であろうとも、それを頂けますれば、いつまでも。
ナイアード様。お側におります。
今までも、これからも、わたくしの命がある限り。


 霧の中、バーレンは、霊廟の片隅の土を掘った。
火事により、内部は損傷したものの、王の柩と霊廟の外観は無事に残っていた。
涼しげな樹の根もとに深い穴を掘ると、先王の遺品である写本をその底に入れ、また上から土を被せた。
油紙で何重にも包み、注意書きを添えた封印を施して、陶器の函に入れ、さらにそれを鉄函に納めた。
誰の手も届かぬ地中へと埋めた。
カルビゾンを去る前に、王女がそれを命じたのである。
 「ご覧になりますか」
 包みを手にバーレンが訊ねると、王女は首をふった。
 楽園を襲った魔王は、乙女のことを愛していた。
魔王を封じて眠りについた乙女の方は、どうだったのであろうか。
だが、父と母は写本の一部を云い換えて、娘にそれを伝えた。
右手に君が心、左手に永遠を。
歌うようにそれを語る時、王と異国の姫は、倖せそうであった。
それとも、そう見えただけなのかも知れない。
母は何も分からぬままに、それを憶えたのかも知れない。
エトラはバーレンに古写本の始末を頼んだ。
 ------アルケイディアの楽園は、想い出の中にしかなく、そして、ここにちゃんとあるわ。
 その胸を抑えて、馬上のエトラは、後にしてきた城を振り返った。
カルビゾンの外壁も、すでに遠かった。
霧がかかっていた。
城の物見塔から霧に沈む平野を見ていた時には、城は霧の海に浮かぶ船のように見えたものだ。
エトラ、とジャルディンが呼んだ。
エトラは前を向き、馬を進めた。
ここから見ると城は、霧に包まれた魔の山に見えた。
魔王のすまう浮島に見えた。
土の下、アルケイディアの乙女が、そこに眠っている。 




[楽園の霧・完] 


>完結小説倉庫


Copyright(c) 2007 Yukino Shiozaki all rights reserved.