[Villea]
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Yukino Shiozaki

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Villea(ヴィレア)

 骸の上に、雪が舞っていた。
 やせた大地を冷夏が襲い、たねを撒いても撒いても、芽を出すものがない。
 木の根まで食べ尽された野山。餓死した村人を埋める余力もないままに、人々は幽鬼と化して屍肉をあさり、食糧を求めて彷徨っていた。
 そんな未曾有の飢饉がようやく終焉し、恩寵の兆しがゆっくりと見え始めた一○三三年の冬のこと。
 ヴィレア母子は森の中で見つかった。

 馬車の轍の跡が森の近くに残っていたという。
 冬の森に置き去りにされた母親は、その眸を空にむけて見開いたまま、傷だらけの手足を投げ出して、幼い娘の近くで息絶えていた。
 恵みの雨が降り、空が晴朗と晴れ、風が吹き、透きとおった緑が芽吹く。翌年から続いた大豊作と発展の時代を知ることなく死んでしまった憐れな若い女を、 それからも人々は時折、想い出した。

  ヴィレアは、その女が両手足の縛めを自力でほどき、最後の力で掘った、雪の下にいた。
 母子が何処から連れ去られてきたのか知る者はいない。母親は雪に埋もれて凍え死んだが、外気をふせぐ土の下にいた娘ヴィレアはまだ生きていた。
 二人は、領主の若い息子パーシヴェルによって見つけられた。
 見込みのない狩りに出ていた少年は、もしかしたら冬鳥の一羽でもその弓で射止められはしないかと一日中森の中を歩き回った挙句、日が暮れて、疲れきり、 むなしく手ぶらで帰るところだった。
 幼いヴィレアの髪を引っ張りながら、少年パーシヴェルはヴィレアの耳に囁く。
 ヴィレア、この名を端に刺繍した衣にくるまれて、お前は眠っていたのだよ。ちらちらと降る雪をかぶり、母親の衣にくるまれていた。 お前たち母子を森に棄てた人間は、きっと善い人に違いない。何故ならば、あの飢餓の年は家畜だけでなく、人が人を食べて飢えをしのぐ凄惨が そこかしこで繰り広げられていたのだからね。
 パーシヴェルはその手の平で、暗闇をひどく怖がる幼いヴィレアに目隠しをする。暗闇の正体は目隠し鬼。目隠し鬼なんて怖くないよ、ヴィレア。
  眼を開けてごらん。
 ヴィレアが眼を開けると、そこにはパーシヴェルが笑って立っていて、生まれた仔馬を見に行こうと誘うのだった。
 領主である父親は、息子パーシヴェルの望みをはねつける。
 罪深い女の腹から生まれた、父親がどこの誰かも判らぬ娘を、お前の嫁にするわけにはいかない。お前が頼み込むのでここまで育てたが、 この娘の姿を見るのはもう我慢がならぬ。
 パーシヴェルは勇気をもって申し出た。
「父上。それではヴィレアを遠くにやって下さい。妻にすることも、妹にすることも赦されぬのであれば、せめて、わたしの眼の届かぬ処にやって下さい」
 領主はそれを承知した。
 パーシヴェルは近くにいたヴィレアに笑いかけ、目くばせをした。そうでも云わなければ、領主はヴィレアを知らぬうちに始末してしまいそうなご気色であったのだ。 ふだんは温厚な父が、何故そこまでヴィレアをお憎みになるのか、パーシヴェルには判らない。小さなヴィレアは、領主とパーシヴェルが 自分のために諍うことをやめたので、ほっとした。
 出立の朝、荷馬車に乗せられたヴィレアの手をパーシヴェルは握って誓った。
 お前はわたしが見つけたのだ。扱いの悪い乳母の手から取り上げて、同じ寝床で眠った。わたしのものだよ。
 馬車が出た。領主の手前、パーシヴェルは見送ることも出来なかった。
「ヴィレア」
 馬車は停まらなかった。小さなヴィレアは遠ざかるパーシヴェルの姿を、荷馬車の中からいつまでも見ていた。
 そして時は流れた。


    夕方になって、雪が降ってきた。
 遠い村から風にのって聴こえる晩鐘を、もう何回、聴いたろう。
 地平ちかくに朱い雲が流れ、白く凍えた大地の果ては、残照にねっとりと昏い。小さな家から庭に出たヴィレアは井戸端に立ち、雪の舞う、青硝子のような空を仰いだ。 両手に息を吹きかけてこすりあわせ、あかぎれの痛みをごまかす。汲み上げる地下水は外気よりもあたたかい。
(今宵は、ここへは来ない。きっとお城でお眠りになるだろう)
 夕陽に照らされた平野を見つめ、ヴィレアはかじかむ手にもう一度、息を吹きかけた。 井戸の底に映る空は群青色、水を満たした桶の中にたゆたう浮き沈みは、雪の影だった。
(また飢饉が来る)
 井戸端の近くには、風を引っかいて揺れている一本の細い木があった。庭先に立っている枯れ木は、黄昏の光に包まれて枝先までぴんと張り詰め、 その硬い影を地面にのばしていた。
 お城からあの方がおいでになる際は、いつも、そこに馬を繋ぐ。  その木の影は汲み上げた水の中にも映っていた。桶を持ち上げると、たちどころにゆがんで消えた。
 即位式の翌日に、王はここへやって来た。
「このようなもの、すべて邪魔だ」
 若い王は馬を降り、冠を投げ捨て、井戸の水を頭から浴びた。秋の夕暮れの光をまとい、背中をこちらに向けて立っていた。
 王さまがおしのびで来るのは、これが初めてではなかった。ヴィレアは空を見ていた。王冠が地面に叩き付けられた時にはさすがにとび上がったが、拾わなかった。
 やがて、若い王は背中を向けたまま、「余が風邪をひいてもいいのか」、と促した。落ちている上衣をかき集めて差し出すと、癇症な仕草で、乱暴に払い落とされた。
 それなら、勝手にするといいわ。
 ヴィレアが家の中に引き返すと、王は外套を羽織ってヴィレアを追って来た。
 お衣裳をすべてちゃんとお召しになるまで、口を利きません。
 若者の姿を見ないまま云い渡し、ヴィレアは食事の支度にとりかかった。もとより独り暮らしである。不意の賓客への用意などあるはずもない。 それでも、火を熾して、温かいスープを作った。食後のために、林檎の種をくりぬいたものを天火に入れた。 濡れたままではお寒いだろう。暖炉に薪を足し、先に熱い茶を出しておいた。無言でそうした。
 若い王は家の調度が粗末なことを莫迦にしたような顔をして、だらしなく着崩れたなりのまま、いつものように黙って椅子にかけて待っていた。 卓に片肘をついて、立ち働くヴィレアを見ていた。
 ヴィレアは皿を並べた。やがて家の中に夕餉のいい匂いが漂った。もう一度云った。
 お召しものをちゃんと身につけられるまで、お食事は差し上げません。あなたはもう王さまです。
 その手首を掴まれた。
 城に戻って来い。
 いやです。
 立ち上がった王の眸がヴィレアを捉え、その若々しい唇が引きゆがんだ。
「あいかわらず、余に逆らう」
 外の風が強くなった。そのまま壁に突き飛ばされていた。暗い壁際で揉み合ううちに、云ってしまいたくなった。 逆らうのも抱き合うのも、こうなってしまえばもう同じことだった。引き結んだままの唇からこぼれ落ちそうになるものは、悔しさだけではなかった。 とても哀しいことがあって以来、想うのは、お城のあなたのことだけだった。
 待っていたと。
 愛撫と抗いのうちに、ヴィレアは王の腕に包まれて、そのからだの下に沈んだ。


 孤児であったヴィレアを引き取って育てたのは、老夫婦だった。二人共流行病ですぐに死んだ。
 埋葬がまだ終わらぬうちに、教会に男がやって来て、幼いヴィレアを抱えて連れ去った。断続的につづく飢饉のせいで、子供の数は 慢性的に不足がちであり、子供は高く売れるのだ。
 男はヴィレアに蜂蜜を与えた。
 救護院などよりももっとずっといい処へ連れて行ってあげよう。
 甘い蜜で手をべたべたにして、ヴィレアは頷いた。
 人攫いの言葉には嘘はなかった。王の臣下のひとりが幼い娘を亡くして悲嘆に暮れているところへ、ヴィレアは養女として買い取られたのだ。
 数年後、ヴィレアは養父の後押しで王妃附きの侍女となり、城づとめを始めた。
 城には、二人の若い王子がいた。
 病弱な上の王子はヴィレアに目もくれなかったが、下の王子は時々ヴィレアをからかった。
 彼は母王妃からヴィレアを譲り受けると、自分に仕えさせた。大勢いる侍女の中からヴィレアを選んだその理由を、王子は窓辺に片頬杖をついたままで、こう答えた。
「愛想笑いのひとつも見せないところが、気に入った」
   笑いましょうか、ヴィレアは王子に応じ返した。
「そういうところだ」
 こちらも笑いもせずに、王子は手にした鞭で、ヴィレアの頬を叩いた。頬がしびれるほど、やさしく。
 やがてヴィレアは、城の物陰で、下働きの男の一人と抱き合うようになった。その頬に、唇に、口づけを受けた。 不器用でがさつな接吻だったが、それでよかった。そのほうがいい。城壁の隙間からは、頭上に蒼い空が見えた。白くもつれて絡み合う、冬の雲が見えた。 眼が開けていられなくなると、身をまかせた。薪を割る男の手はざらついて、砂やすりのようだった。日陰に生えた草が踏みにじられて、雨の後の匂いを立てた。
 ここではない何処かへ行きたい。
 崩れ落ちる娘の声なき声を、その眸をのぞきこんで聴いていた下働きの男は、無骨で寡黙だったが、心ある男だった。 暇をとると、ヴィレアを連れて、城を出て行った。
 違う、と云えたらよかった。
 違う、わたしが望んでいるのは、本当はこんなことじゃない。
 それでは何を求めているのかと訊かれても、ヴィレアには応えられなかっただろう。
 ヴィレアは頬をおさえた。
 夫の郷里はのどかな村で、やがて、その暮らしにも慣れた。
 村はずれの小さな家で、二人で暮らした。庭には井戸と、一本の木があった。
 王の臣下であった養父は、彼らの許に生活の足しになるようにと金銭を寄越した。養母は裁縫道具を使者に持たせて、送ってくれた。 それで彼らとは縁が切れた。
 夫が庭先で薪を割る。小気味のいいその音が、ヴィレアは好きだった。それを聴くと、自分の脳天から何かが叩き落とされてゆくような気がして、気持ちがいい。 骨がふるえるほど熱くなる、まるで、雷に打たれたみたいに。そう告げると、夫は嬉しそうだった。
 夫になった男は、ヴィレアの心の底に広がる名もなき深い空には気がつかぬままであった。或いは気がついていたからこそ、荒れたその手で、 城から連れ出してくれたのかもしれなかった。
 夫の葬儀が終わると、また永い夜が待っていた。
 井戸端に出ていたヴィレアは、水を汲み上げる手を止めた。その人馬の影が初めて平野に現れたのも、夕暮れだった。 からからと、滑車が頭の上で鳴っていた。女の心を笑う音を立てていた。
 「久しぶりだ。逢いに来てやったぞ」
 手近な木に馬を繋いだ王子は、ヴィレアの夫が最近死んだことを知っていた。ヴィレアも、王が崩じたことを知っていた。 国を継いだ長子が病弱で、もうすぐ退位することも、その後には、この若者が王として即位する、その御触れも聴いていた。
 しだいに、天候不順による不作が深刻になっていた。土塊と石ころだらけの大地を何百年もの間人々は苦労して掘り返し、耕地と変えた。 麦を植えても翌春に収穫される実りは一粒か二粒であり、その中からさらに翌年の麦種をのぞけば、ひとの口に入るものは例年ほんの僅かで、 その一粒すら、昨年は取れない地域が多かった。
 さらに洪水が起こった。水の引いた後にはすべてが流された養分のない土が残された。今度の凶作はきっと大きい。国中に不穏と不安が渦巻いていた。 神から見棄てられるようにして、恵みの回転はふつりと経たれた。人間にはそれを取り戻す手立てがない。
 王子は不機嫌に手にした鞭を井戸端に放り出し、ヴィレアの手から桶を取り上げると、ヴィレアに代わって釣瓶を落とした。 井戸の水を汲み上げる王子の横顔には、夫を喪った女へのいたわりと、苛立ちがあった。 顔にとんできた冷たい飛沫を、ヴィレアはよけなかった。

 ----ヴィレア。お前の役目は、王子を寝所でお慰めすること。
 ----良かったじゃないか。その為に侍女の中から、お前が選ばれたのだよ。
 ----誰がそんなことを云った。誰がお前なんぞに手を出すか。

 今日はもう来ないと思っていた王が、夜になって、ヴィレアの家を訪れた。
 夕刻から降りだした雪は、まだ止んではいなかった。銀盤のような月が昇り、その高みから流れるさんさんとした粉雪は、月が砕けて落ちているようだった。
 ヴィレアは暖炉の火を強くして、冷え切った王のからだをあたためた。外に飛び出して井戸から水を汲み、沸かした熱湯と交互に盥に移した。
 汗びっしょりになった頃、ようやく風呂の支度がととのった。子供のように、王はされるがままになっていた。冷たい手、若い王の双眸も、夜の氷のようにとがって見えた。
 ヴィレアは王の衣裳をすべて脱がすと、湯気の立つ風呂に導いて、姉が弟にそうするように、凍えたその半身を湯につけさせた。 湯は充分ではなく、もっと必要だった。戸口から出たところで、手から桶が転がり落ちた。
 拾い上げ、もう一度水を汲みに行こうとしたヴィレアは脚をもつれさせて、そこで倒れた。
 馬を駈け飛ばしてヴィレアの家にやって来る王は、すぐにも城に戻らねばならぬ身であった。 いつもならばすぐにヴィレアをかき抱くのだが、今宵は様子が違った。先日、奥方を迎えられたからかもしれない。
 婚儀の祝宴は何日も続き、どこにあったのかと思われるほどのご馳走が宴の席に並んだという。 そして祭りが終われば、また、いつ果てるとも知れぬ、深刻な食料不足が待っていた。
 真っ暗な空から、ゆるやかな曲線を描いて、白い雪が降っていた。平野は静かな夜の海のようだった。 転倒したヴィレアは雪に頬をつけたまま、眼を閉じた。

 外国から王妃さまを迎えられたのだ。これでいい。これで、もう、お役御免だ。

 誰かの手で閉ざされたような真っ暗な瞼の裏に、青い空が見えた。いつか城で見た、清潔な空だった。 彼がまだ王として即位する前、ひとりの王子であった頃、塔の胸壁に凭れて並んで仰いでいた青い空。
「ヴィレア」
 名を呼んだくせに、王子は眼をそらした。
 ふれそうで触れなかった指先も、何かを云いかけて止めた互いの言葉も、その空に閉ざされた。二人で雲の流れる、青い空を見ていた。
 後に残ったのは、何もない大地だった。
 素姓の知れぬ孤児であった賤しい女が、王子に愛されるなど、赦されていいはずがない。 そしてヴィレアは城の壁の間に下男を誘って、自分のほうから抱きついた。
 はやく、はやく、ここから連れて出して。
 それでも、胸の底に焼きついた青の強さは、ヴィレアの胸裡から引き剥がれることはなかった。壁の隙間の狭い空。流れる雲は城の塔の上で 見上げていた時と同じように変わりなく、まぶしかった。突き上げる男の肩や首に縋りついて、声を殺して呻き続けるほどに惜しまれて、清かった。
 外は、まだ雪が降っているのだろうか。
 新婚一年も経たぬうちに夫は死んでしまった。
 庭に倒れていたヴィレアは、愕いた王の手で家の中にはこばれた。
 暖炉の前で手足をさすられていると、湯の中で眠っているように手足の先まで血がめぐった。 生まれたり、死んだりを、繰り返しているようだ。王の胸にヴィレアは火照った頬をおしつけ、力なく頷いて、それを認めた。 もう食べるものがない。とても育てられない。王妃さまにも顔向けできない、お腹の子ごと、殺して下さい。
 必要なものが不足していることを、なぜ云わなかった。
 叱りつける声に、ヴィレアは応えられなかった。王さま、王さま。民は飢えても王さまは飢えが何かをご存じない。 この人からお恵みをもらうことは、死んだ夫に悪いような気がしたからだ。そんな言い訳をしてみたところで、言葉は端からヴィレアの不貞を暴くだけだった。 寡婦になって幾日も経たぬうちに男を通わせた女。抱擁も、心地よい睦言も、人知れず重ねる逢瀬への期待も、その後ろには、 ひたひたとしのび寄る暗転への予兆があった。ヴィレアはそれが怖かった。
(目隠し鬼)
 戯れに、まだ王子だった頃のこの人がしたことか。それとも短い夢のようだった夫との暮らしの中で、ふざけていた時か。 いつ何処で、誰に遊んでもらったのだろう、小さな子供なら誰でもやる遊び。
 城に戻って来い、悪いようにはしない。
 再三の王の求めに、ヴィレアは首をふった。頬を伝うのは、雪ではなかった。
 国中の飢饉は、王の心を惑わせた、ヴィレアという女のせいだ。ヴィレアがこの飢饉を呼んだのだ。 王から食べ物をもらって、独りだけ肥え太り、腹に魔物の子を孕んでいる。
 そんな噂が雪を祓う火のように流れ出したのは、それから間もなくであった。雪どけを待たず、その噂は、遠い地を治める領主の耳にも入った。


 岩のかどに擦り続けて、ようやく手の縛めが切れた。つづいて、ヴィレアは足の縛めを解いた。 それを果たすと、からだの下に入れて寒さから守っていた幼子を、脱いだ上衣でくるんだ。 傷だらけの手首には、もう幼子を抱き上げる力はなかった。歩いて逃げる力もなかった。 見知らぬ森は暗く、深く、どの方角に歩いていけばよいのかも判らない。
 ヴィレアは雪を掘りかえし、幼子をその窪みに入れた。獣が生きたまま子を齧らぬように、そうやって隠した。 井戸水がそうであったように、地面の下のほうが、雪の地表よりもあたたかい。
 もう眼がよく見えず、胸をはだけても、もう乳も出なかった。娘の小さな手に、ヴィレアは人さし指を絡ませた。
 ごめんね。
 穴の上に身を横たえた。追ってくる人々の暗い手かと思われたものは、頭上に重なる木々の枝影だった。
 大勢の人間が押し寄せて来た。この飢饉はお前のせいだと云っていた。子供を抱いたまま、馬車に乗せられた。引き回されている間、石や泥が飛んで来た。 飢えた人々はその飢餓を、撒いても撒いても芽を出さぬ痩せた大地を、日照りを、豪雪を、荒れ狂う流行病を、ヴィレアのせいにした。
 ヴィレアを殺せ。王さまを惑わした疫病神を殺せ。
 一昼夜、地を蹴立てて馬車は走った。手足を固く縛られて、遠い森に棄てられた。
 呪いの子ごと、獣に喰われちまえ。
 木々の間に投げ落とされると、どさりと音を立てて、近くの枝から雪が落ちてきた。こまかな雪が後から降った。
 もう動けなかった。脳裡にまぼろしの暖炉の火がはぜた。身ごもった一年前の夜のことが、遠い夢のようだ。
 ヴィレアは唇をうごかした。
 広がるのは、空だった。
 塔の胸壁に凭れ、いっしょに空を見ていた。意地を張りながら、そのくせ、ふしだらな若い予感におののいていた、互いに知らぬ顔をしながら。
 しんしんとした冷気は、ヴィレアをよく知る深みに引きずり込んだ。
 きれいな空だった。
 領主の息子パーシヴェルがそこに通りかかったのは、残照が冬山の向こうに落ちる頃であった。
 あれは魔の子だ。
 領主は強情なパーシヴェルに今日もそれを云い聞かせる。
 ヴィレアという名の女が世界に飢饉をもたらしたのだ。その女が立ち去ることで、暗黒は終わり、ようやく大地は蘇生の時を迎え、果実はふたたび実るようになったのだ。 一〇三三年は日蝕の年であった。あれこそは、魔物ヴィレアが大地に最後の呪いをかけた印である。ヴィレアがいなくなってからの、翌年からのこの大豊作のつづき、 これが何よりの証拠ではないか。
「何を莫迦な。父上まで、そのような妄言に惑わされるなんて」
 パーシヴェルはそんな父の言を世迷言として軽やかに笑い飛ばせるほどに、立派な青年になっていた。そして父に隠れて、遠方に預けられた ヴィレアに逢いに行くことを止めてはいなかった。彼らほど愛し合っている恋人はまたとなく、彼らほど望まれぬ恋人たちもなかったが、 若者はそのような非難をものともせぬほどに気丈であった。
 恋人ヴィレアのことを語る時、誰に何を云われようとも、パーシヴェルは胸を張った。
「それは十五年も昔の、当時の下らぬ流言でしょう。わたしはそんな噂など知らないし、信じません」
「パーシヴェル。お前が連れて帰った赤子がヴィレアという名であることを知った時、この父がどれほどあの赤子を恐れたかお前に判ろうか。 凶作の元凶として追放されたと聞き及んでいた女が、確かにその名であった。それほどまでに不吉な名はない。凶歉の悪夢がこの地に繰り返されることがあってはならぬ。 即座に殺してしまわねばと思うたが、あれをかわいがるお前が不憫で、命ばかりは助けて、遠くへ遣ったのだ。 あの娘のことは忘れてしまうがよい、パーシヴェル。お前が性懲りもなくヴィレアの許を訪れていることを、この父が知らぬとでも思うのか」
「穀物の不作はひとえに天災に因るものです。作物の稔りとひとりの娘に、いったい何の関係があるのです」
 肩をすくめて、パーシヴェルは父の前から踵を返した。
 廻廊から見上げる鉛色の空には冬の雲が流れていた。
「馬を」、胸騒ぎがしたパージヴェルは従僕に遠出の支度を命じた。


 夕方になって、雪が降ってきた。
 誰かが馬に乗ってやって来る蹄の音。パーシヴェル、彼かしら。ヴィレアは顔を上げた。
 たのもう、と呼ばわる声は、恋人のものではなかった。扉を開いて家の外に出てゆくと、大勢の供人を連れた身なりのいい、見知らぬ貴人が 下馬もせぬまま庭先に乗り付けてこちらを見ていた。ヴィレアは頭を下げた。誰だろう。
 ヴィレア、というのはお前か。
 頷いたものの、ヴィレアは不安を覚えて、手を握り締めた。鞍の上の貴人が苦しげに顔をゆがめたのだ。何度も繰り返し味わっている失望は、降り出した 雪の中、貴人に絞り出すような吐息をつかせた。
 もう十五年も探している女がいる。その名を持つ女がここにいると聴いて、確かめに来た。お前では、若すぎる。
 雲から出た夕陽がそんな娘の姿にまともにあたった。ヴィレアは、朱く舞う雪の中に立っていた。
 貴人は鞍から身を乗り出してその姿を凝視した。供人も囁き出した。似ておられる。
 そんな彼らの眼からのがれて、ヴィレアは後退った。周囲をぐるりと貴人の供たちに囲まれて、逃げ道がなくなった。後ろ向きのまま戸口に手をかける。 眼の前に突き出されたのは、貴人の鞭だった。
 ヴィレアというのは、お前の名か。
 はい、と応える声が震えた。
 母親の名ではないのか。
 母親の名。
 知らない。
「ヴィレア!」
 冬の太陽が地平に落ちてゆくところだった。待ち焦がれていたもののように、懐かしいもののように、娘の名は冬の夕空に、高く響いた。ヴィレア、ヴィレア!
 誰かがその名を呼んでいた。ヴィレア。
 蹄鉄の音がした。
「ヴィレア」
「パーシヴェル」
 髪をなびかせ、貴人の馬の横をすりぬけると、ヴィレアは駈け出した。家の前の坂で転んだ。追いかける供人たちの手よりも早く、支える腕が伸びた。 恋人たちはしっかりと抱き合った。
「あなた方はどなたです」
 ヴィレアを片腕に抱えて、馬を跳び下りたパーシヴェルは剣に手をかけて待ち受けた。供人が剣を抜こうとするのを、馬上の貴人はとどめられた。
 彼らは夕暮れの中にそろって立ち去った。
 貴人だけは最後まで食い入るような眼でヴィレアを見ていたが、ヴィレアを抱くパーシヴェルの強い眸にぶつかると、何も云わずにうっそりと笑って、 馬ですれ違って行った。
 やがて、彼らの許には豪勢な贈り物が届けられる。
 何台もの馬車を連ねたそれらの贈り主は、ついに不明のままであった。
 あれほど反対していた領主がパーシヴェルとヴィレアの結婚をすみやかに認めたのはもっとも不思議なこととして囁かれたが、どこか遠いところから、 それを命じられたのだという噂だった。若い恋人たちにとっては、どうでもいいことだった。

 日蝕の年より十六年。
 一○四九年、飢餓の記憶は、しだいに世の中から薄れて消えていた。
 三圃制が取り入れられ、耕作と休耕の合間には大麦やカラス麦が農地を覆う。 気温は少しずつ上昇し、土を耕起する技術的な努力がそれに加わると、 能率のいい新式の鉄製の農具を使って開墾に励むようになった人々は、不安定な大気や、 決定的な不作にゆさぶられて怯えることもなくなった。
 天の恵みに感謝して、各地に乱立する教会。
 野に咲く花の下に日蝕の年に餓死した者たちの古い骨がたまに見つかることがあったとしても、 それらは変色した枯れ木ほどに、もう誰の哀れも誘いはしなかった。
 その年の冬も、雪が降った。
 雪はかろやかに月の昇る空に踊り、婚礼の夜を彩った。暖炉の火は新床に夕陽色の影を映し出し、それはいつか見た、雪の降る夕方に似ていた。
 やさしく愛し合った後で、胸を包むパーシヴェルの手にヴィレアは両手を重ねた。祈りの歌よりも、豊作の踊りよりも熱心だった願いごと。
 目隠し鬼に捕まること。
 ヴィレアが答えるよりはやく、パーシヴェルがそれに答えた。
 微笑みを交わして手を繋いだ。共寝のまどろみのうちに、いつもと同じ夢をみた。夏の雨。彼方から響く蹄の音。ほら、雲が流れてゆく。 寂しくさせる、空の色。どんな女の胸にもあるたった一つの願いごと。この空を仰ぐ時に。
 パーシヴェルが森の中で見つけた時に、赤子のヴィレアを包んでいた衣。滅多には手に入らない上等な布、そこには、名が縫い取られてあった。 赤子の産着に魔よけの銀糸で母親の名を縫い取るのは、王族のしるしだと、後で知った。
 パーシヴェルは首をふる。
 森の中でこと切れていた女は、農婦の服を着ていた。後で人を遣って、その場に埋葬させた。もうその場所も判らない。 雪に覆われて死んでいた。安らかに硬直し、まるで誰かに返事をするような死に顔で、片手を投げ出していた。 うつくしい眼球は空を映し、そのまま氷となっていた。
 青かった。
 そして、通りがかったパーシヴェルの手によってその瞼を閉ざされた。



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