ビスカリアの星

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[日没より物語は始まる]




[ビスカリアの星] ■序



藍色に深く暮れゆく空には星が一つだけ、宝玉のように耀いていた。
街道を疾風となって駆け続けたその馬は、その星の導きの下、
透きとおる蒼い空がまだわずかに紫色の光を帯びている黄昏を辿って、
黒々と広がる森を後ろにひかえた荘園へと駆け込んだ。
報せを聞いたフラワン荘の奥方は、召使を引き連れて急いで玄関へと出て行った。
蝋燭の朽葉色の明りの中に、馬から降り立ったその騎士は外套もそのままに、
奥方の前に片膝をつき、深く頭を垂れた。
日中にはそこから燦々と日の光が差し込む採光窓は、
今は日暮れと夜の挟間にあって、丸く黒い底なしの空虚となって天井の高みにあり、
森の塒へと帰る鳥たちが、水底を泳ぐ稚魚の群れの影のように、
そこから見える狭い空を過ぎていった。
若い騎士は現れた奥方の名を、限りない懐かしさと、そして何かに追われている者に
特有の、逼迫した、乾いた調子で呼んだ。

「リィスリ・フラワン・オーガススィ」

フラワン家の奥方、まだうら若いリィスリは、騎士の顔をひと目見るなり、
はっとなって身震いし、そしてただちに、召使を一人残らず下らせた。
「旦那さまに、すぐにここにおいで下さいと伝えて。
 この御方の馬を隠し、道へ出て、
 怪しい者が他に誰も付近にいないか確かめてきて」

命じる声は細かったが、この女人の持つ、生来の気品と気丈があった。
荘園の奥方であるリィスリは、野辺に咲く一輪の百合のようだと娘時分に褒め称えられた
ほっそりとした肢体と、その挙動からふと薫るようにこぼれる瑞々しい清雅を
オーガススィ家からフラワン家に嫁いだ今も失わず、
それはこの女人の聡明や、高い精神の徴として
その若さと美しさを侮られるよりは、領民からは広く愛され、親愛と尊敬を受けていた。   

リィスリは騎士の前に自らも膝をつき、その白い腕を伸ばして、
「よくここまで辿り着かれました」と、友人の手をとった。
蒼褪めきった顔を見合わせた騎士と奥方は、昔の若い頃の、
さまざまな歓びや楽しみと、その頃の若い彼らを日々を取り囲んでいた
さざめきや花の香りや、
優美な奏楽が、ここで突如崩れ落ちて灰となってばらまかれ、
互いにそれらの想い出の亡霊とここでばったりと出遭ったような顔をして、
しばらくは手を取り合ったまま、声もなかった。
「変事より以後」
震えながらも、リィスリは懸命に言葉を継いだ。
「都のことをどれほどわたくしは案じたでしょう。
 このような僻地にあれば、伝わる話は誇張された、陰惨なものばかりでした」
「リィスリ。わたしはすぐにここを去らねばなりません」
瀟洒な硝子の器に差し出された水にも口をつけずに、騎士はきっぱりと断った。
かすかな泣き声。
先ほどからそれに気がついていたリィスリは、母になったことはない身ではあったが、
「これへ」と、その腕を差し伸べた。
騎士は両腕にしっかりと抱えていた幼子を、リィスリに渡した。
毛織物で温かくくるまれた幼子は、濃い菫色の夜空の下、
その眼を開いて、小さな手を上へと向かって差し伸べて泣いていた。
赤子をひと目見るなり、リィスリは唇を震わせて「この御子は」とおののいて訊た。
騎士は頷き、そして告げた。

「ヒスイ皇子とルビリア姫の子です。
 ヒスイ皇子は殺害され、ヴィスタの都は
 焔に包まれましたが、ルビリア姫は皇子の子を宿しておられた。
 軟禁先より逃亡を果たすと、
 半月前、この男子を秘かに生み落とされたのです」
「御母ルビリア姫は今はいずこにおられるのです」
立ち上がった騎士に、リィスリは追いすがった。
騎士はすがるリィスリの、かつて幾度か恋情未満の好感を交わして
遊戯のうちに握ったことのあるその手をそっとふりほどき、

「ガーネット・ルビリア・タンジェリン様の行方は誰にも明かせません。
 貴女も知らないほうがいいだろう。
 ルビリア姫は、復讐を決意されておられた。
 我らに代わって、天に代わって、皇子の仇を討つおつもりであられる」
「おお」
「わたしはすぐに発たなければならない。以後もう逢うこともないでしょう」
「ヒスイ皇子は、では、本当に…」
「闘ってのご最期だったと、聞いている」

リィスリは受け取った赤子を胸の中に抱きしめて、哀しみに倒れるよりは、
きっと顔を上げ、何かの決意に、そのやさしい顔を美しくこわばらせた。
涙のにじんだその両目が、腕の中の赤子を見つめた。
返事の代わりに、万感を篭めて、リィスリは赤子を抱いたまま騎士に深く頷いて見せた。
そこへ、荘園の主であり、リィスリの夫であるカシニ・フラワンがやって来た。
「リィスリ」
愕いてカシニは妻と騎士を見比べた。
当惑したものの、妻をこよなく愛し、信頼しているカシニは
静かな領地に今宵忽然と現れ、顔を外套の頭巾で覆い隠している
賤しからぬ様子の若い騎士のことも、
リィスリが胸に抱いている赤子のことも、見たままに許容して、
「お客人ならば、なぜすぐにお通ししないのだ。その幼子には温めた乳を持ってこさせよう」
まだ茫然としたまま、温和な顔を緊張させて、誠実に云った。   
「あなた」
夫に歩み寄ると、リィスリは赤子の顔をカシニに見せた。
騎士はその間に、リィスリとまなざしを交わして今生の別れを告げ、カシニにも深く礼をとると、
外套を翻して素早く風の吹く星空の外へと立ち去り、再び馬に乗って駆け去って行った。

「行ってしまわれたのか。今の騎士は一体どなたなのだ」
「ご覧になって下さい。この御子を。わたくしたちで育てるようにと、御使わし下さったのよ」
「何だって。------そしてお前、泣いているのか、リィスリ」
「ヒスイ皇子は、昔、わたくしの恋人でした」
きらきらとこぼれる涙が、赤子の頬にも落ちた。
「あなたにも隠さずにお話したことがありました。この男児は、そのヒスイ皇子の御子なのです」
「え、リィスリ、それでは」

妻から渡された赤子を領主カシニは不器用に、しかし慎重に広い胸に抱きとめて、
騎士が去った闇の方角と、美しい男児と、目の前に威厳を具えて立つ若い妻を、
まだ混乱しながら、せわしく比べ見た。
「それでは、このおのこごは皇子の血を引くカルタラグン家のかたみということか」
リィスリは「はい」と、力を篭めて応えた。
「ですから、ここにお隠しし、わたくしたちでお育てもうしあげるのです」
「主だった者は余さず皆殺しにされたと聞いている」
事態の深刻さにカシニの顔は厳しくなったが、
何人からも赤子を守るかのように、
小さな命をその逞しい腕にますますしっかりと抱いて、妻に訊いた。
「おのこごの、ご母堂はいかがされたのだ」
「御母君はタンジェリン家のルビリア姫。わたくしも存じ上げております。
 宮殿でお見かけしたその頃はまだ幼く、一緒に花を摘んで遊んで差し上げました。
 皇子は姫さまのことを愛称でルビーと、そう呼んでおられた。
 今でもまだ、ほんの少女のお歳であられるはず。
 ヒスイ皇子を喪い、苦難と迫害の中、亡命先でたったお一人で子を生み、
 それだけでなく皇子のよすがとなるその乳飲み子をこうして傍らから手放され、
 どれほどお辛い想いをされておられることか」

さらさらと絹ずれを立てて少し退き、、リィスリはその涙を、
蝋燭の灯りのゆらめきの影に夫の目から隠した。
まるで何かの懐かしい戯れや、昔重ねた温かな愛撫を追うように、
その腕で自分の腕を抱いてリィスリはしばらく黙った。
しかし冥福は僅かな間で、やがて顔を上げたリィスリの目には、
たおやかなその身の底の底から迸り出た決意がまばゆく浮かび、
使命を受けた者の持つ光に冴えて清んでいた。
リィスリは、「カシニ、あなた」と、やさしく夫に呼びかけた。
わたくしは元より闘う騎士としては育てられず、
あなたの妻となるにあたっては、多くの騎士の家に生まれた女がそうするように
名誉騎士の称号も返上しましたが、騎士の心までは
失ったのではありません。この身に流れるのは古の剣聖の血。
わたくしは剣を扱うすべは知りませんが、この胸の中にある剣を、これより奮おう。

「ヒストリア・ヒスイ・カルタラグン・ヴィスタビア。
 彼は、わたくしの恋人でありかけがえのない友人でした。
 その御霊が何処にあっても、今も、ヒスイ皇子と魂の質色を同じくする者たちは、
 眼には見えずとも、同じ鋳型の魂で結ばれています。
 皇子とわたくしの仲間であり、皇子の親友であった先ほどの騎士は、
 迷うことなく、宝物の隠し処にわたくしを選んだ。
 皇子の流した無念の血と、ルビリア姫の産褥の朱の悲鳴の中から、身を挺して、
 わたくしの元に、御子の御命を託しにきたのです。
 我らは騎士の家に生まれ、騎士として死ぬ。
 墓標もなく、弔いの鐘も鳴ることはない。
 生まれた時より騎士はその死に向かって短命に生き、
 夜露と暁の光の間に瞬いては消えて往く、流星の鋭き命を生きるのです。 
 ヒスイ皇子は、かつてわたくしに、こう云われた」

 -----ヴィスタの都がたとえ燃え、
 ヴィスタチヤの民が滅びても、
 或いは、わがカルタグラン家や貴女のオーガススィ家から、
 竜神の血を継ぐ騎士が輩出されることが途絶えても、
 強く高潔に生きる騎士はこの世に生まれよう。
 騎士はその一度きりの命で、後人の騎士へと、その白い魂を伝えて渡すのだ。
 時を超えて、それは同じ心を通わす者たちの間に、喩えようも無い稀有な志となって、
 熱く冷たく、受け渡されていく。
 「勇敢に気高く、刹那の誇りに生きよ」。
 その道に生きた先人たちはその生き様とその精神によって、星の高みより
 次の騎士を見守りその廉直と孤高を鍛えて支え、導いて下さる。
 怒りは潮のごとく、慈愛は千尋のごとく、
 雷鳴のごとく、蒼穹のごとく、
 平生は森の中に流れる霧のごとく、静かであるように。
 騎士たる者こそ騎士を知る。それは星の耀きとなってその胸に宿るもの。
 わたしの胸にもそして貴女の胸にも、その光は違いようもなく、埋まっている。
 何百何千もの騎士がいても、星を戴く宝石の騎士こそが、わが心と同じ心を分かつ者。
 野辺に立つ、古い騎士の墓を見たことがある。
 粗末な墓標にはこう刻まれていた。
 名もなき墓の上に銀河は祝福で巡る。
  『愚直に生き
   されど
   まことの誉れを知る者であれ』


「皇子は曇りのない笑顔で、わたくしにそう仰いました。
 -----そのヒスイ皇子と、
 ルビリア姫の血を受け継ぐ、この御子は、竜神の皇子」


静かに流れ落ちる涙を拭おうともせず、リィスリは夜に蒼く沈んだ窓辺に立ち、
騎士が去った西と、その上に強く耀き、一点のきらめく結晶となっている星を眺めた。
蝋燭の灯りが、リィスリの繊細な顔の輪郭を新月の弧のように濡れた金色に照らし出し、
追憶と追悼の涙はその細い影の上を冷たく滑り落ちると、床に幾度かはかなく落ちた。
赤子を抱いて立ち尽くしている夫をリィスリは振り返ると、
今ひとたび、カシニの妻として婚家の荘園に慎ましく住まう婦人から、
オーガススィ家の騎士に立ち戻ってそこに孤立し、崇高な仕草で床に膝をついた。
細い項を深く傾けて傅き、捧げる剣の代わりにその涙と祈りでもって、
女騎士は忠誠の誓約と祝福を遺児に捧げた。

「星の清虚に生き給え、御子よ」




[続く]




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