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[ビスカリアの星]■一.



肖像画に描かれた若い女は、握った長剣の柄を胸に、
もう片手を、見る者に静粛を命じるように掌をこちらに向け、
指先を上にして、顔の横にかかげていた。
群青と銀の清んだ空を背景に、淡い金髪を背中に流し、
濃灰色の目をして唇を引き結び、
胸元から真っ直ぐに下に流れ落ちるその衣裳には、金色の花模様と、
貝殻の内側から取れる小さな宝石の装飾が花の塔のように丹念に描きこまれ、
裳裾は咲き乱れる野花の上に広がり降りて、
泉の淵で佇んだ刺繍のほどこされた白い靴の爪先は、
花々の緑の間に、秘密のように隠れ見えていた。


「刻限でございます。クローバ・コスモスさま」

肖像画と向き合っていたクローバは、扉を叩いて入って来た家来に
頷きを返したが、
腕組みをしたまま、画の前から離れようとはしなかった。
城の当主クローバのまだ若さの残る精悍な顔は真昼の逆光の中にどす黒く沈んで、
肖像画を見つめる厳しいまなざしには、いつもの放胆や快活が消え、
衣服や頭髪の乱れにも、
夜通し激しい感情と葛藤し、苦悶していた様子が窺えた。
しかし、黙ったままの主君を案じて「殿」、と控えめに背中から促した家来に、
思いがけずクローバは両手を打って、剛健に威勢よく、
にこやかに振り返った。

「使者には、広間でしばしお待ちあるようにと伝えよ」
「即時の返答を先方は求めております」

顎髭を撫でて、クローバは「無粋な」と小馬鹿にしたように吐き捨てて笑い、

「それならば応えよう。辺境伯クローバ・コスモス、
 カルタラグン家先々代より賜った封土を返上し、辺境伯の称号、及び、
 地権と居城のいっさいを余さず明け渡す、と」
「殿」
「放浪の騎士としてウィスタチヤを出て行く。
 後はお好きになさるが宜しかろう、とな」
「クローバさま、わが殿」

「殿さま呼ばわりは止せ。殿はもうおらん。
 元を正せばコスモス家は三十五年前、世継不在で一度断絶したのだ。
 それゆえ他家から養子を、つまりこの俺のことだが、養子をとって再興した。
 それゆえ今でも新興扱い、序列こそ、かつての栄誉の恩恵で
 宝石の七騎士家の真下に、同格のナナセラ家、フェララ家と並んで据え置かれてはいるが、
 純正なるコスモスの騎士はもうこの世にはおらぬのだ。
 俺自身、殿さまなんて柄じゃないしな」
「クローバさま。領民は殿を慕っております。
 殿のお命じがあれば、戦も辞さぬ覚悟でございます」
「やめておけ」 

クローバ・コスモスは愛情をこめて、低く深い声で、
しかし断固として申し渡した。


「カルタラグン家滅亡よりこのかた、小競り合いと不穏のうちに、
 蜂起したタンジェリン家もついに敗れた。
 これを契機に、ご一新の名を借りて、
 カルタラグンの名の下に封ぜられた領地はひとたび返還の上、
 改めて領土を賜ることになった。といっても、旧勢力と縁のある騎士家は
 目の仇にされておるには違いないよ。
 こたびは逃れても、いずれ、難癖をつけられて潰されるだろう。
 それくらいならばこちらから出て行ってやるのさ」
「しかし、それでは」

従者は悲哀と批難を込めて虚しく呻いた。

「何のために昨夜、奥方さまはご自害なさったので・・・!」
「決まっている」

窓から差し込む柔らかな光が、寝台の上に敷きのべられた織物の上に
丁重に整えられて横たえられた遺骸を、青みを帯びた静かな金色で包んでいた。
そちらへと物憂く目を向けて、

「これが、タンジェリン家の出だったからだ。
 タンジェリンの血につらなる者はことごとく都に護送され、
 首を斬られているとの急報を受けて、俺は妻を伴って共に国を出て行こうとした。
 だがこれは、逃げ隠れすれば領民に累が及ぶ、
 それくらいならば一族郎党の後を追い、俺の前で死ぬと云ってきかなかった。
 さようなら、わが妻、
 お前が死んだら俺は若い女と散々浮気するぞと脅したら、
 「あら、いいわね。そうなさいな」、と戯れの続きのように笑って、
 自らの手で胸を突き、「今宵も庭のお花がいい香り」、そう呟いて死んだ。
 嫁いで来たその晩にも、これは俺の腕の中でそう云ったのだ。
 「庭のお花がいい香り」-----とな」

やさしい光に包まれて眠る妻の、冷たく、固い頬に、クローバは
その手をいとしく滑らせた。
いましもその唇を開いて「あなた」と微笑んで呼びそうな死に顔に、
しばしクローバは語りかけた。

「守ってやれなかったことを許せ。
 わが妻、フィリア・コスモス・タンジュエリン。
 一つ、そなたが歓ぶことを教えてやる。
 カルタラグンの皇子ヒスイは殺されたが、
 かつて皇子に仕えたそなたの妹御、ルビリア姫は、此のたびの殲滅戦にも
 その首級が見つからず、生きているそうだ」

今朝方、侍女らが泣きながら供えた花々の香が、
哀しみに噎せるよりは、かえってクローバの頭を鎮めていた。

「簒奪者レイズン、いや、数代に渡って帝位に居座り続けたカルタラグン家から
 正統なるジュピタの御世をウィスタチヤに取り戻した、復権功労者かな。
 呼び名などどうでもよい、とにかく
 名だたる七つの聖騎士家のうち、この二十年で、
 カルタラグン、タンジェリンの二つと、その衛星であるコスモス家は、これで潰えた。
 オーガススィ家はジュピタ皇家に恭順を示し、サザンカ家は日和見、
 後は皇祖の遺筋を御輿に担いでカルタラグンを追い落とし、
 皇帝補佐についたレイズン家に対して、
 真っ向からそれに不服従の意を表明して抗う構えを崩さぬ
 大国ジュシュベンダとハイロウリーン、
 動向を窺いながら旗色の未だ定まらぬ、ナナセラとフェララ。
 数百年絶えてなかった、激震の世だな。
 その昔、皇位継承争いを収めに乗り出したカルタラグン家が、騎士の家でありながら
 そのまま皇位に居座り続けたのが、こたびの争乱に繋がったのだ。
 ウィスタチヤの版図はこれから再び荒れるだろう」

「クローバさま、ここから何処へ」
家来が鎮痛な面持ちで差し出す衣服に手早くクローバは着替えた。
「レイズン家はもはやわが妻の仇」
支度を整え終わると、広い室内を見回して、クローバは決然と決めた。
「そのレイズンに従う実家のオーガススィ家などには戻らん。
 行くならば、ジュシュベンダかハイロウリーンの国を選ぶつもりだ。
 今より俺は、放浪の騎士、クローバ・コスモスとなる」
「お使者殿に対しては、何と」
「使者の腐った面など見たくもない。裏門から出て行く」
「賢明なるご判断だな、明敏と名高き、クローバ・コスモス殿」

と、その時、勝手に扉を開いて同じ年頃の男が入って来た。
出し抜けに現れた男は、酒を手にしたままクローバに軽く頭を下げて、
そして笑った。

「旅立だれる貴殿にはわたしの名など、もはや不要であろう。
 腐った面の使者、それで結構だ」
「使者どのか。しばしお待ち頂けるか」

動じることなく、クローバは振り返って使者を迎えた。
クローバの冷ややかで鋭い視線を鷹揚に受け流して、
男は、「しばしならば」と、余裕をもって酒を一口味わった。

「そうだな、わたしがこの素晴らしい酒を堪能して飲み干すまでの間。
 知己を得たばかりで何だが、お別れのしるしに、一杯如何かな、クローバ殿。
 もっともこれは広間で待たされている間に、この城の酒蔵に降りて
 失敬したものだがね。
 それにしてもクローバ殿、奥方を差し出し、
 門下に下れば厚遇を持って引き立てると篤く確約したものを、
 裏門からこそこそ出て行かれるおつもりとは、つれなく、愛想のないことだ」
「やはり御名をお伺いしておこう」
「それでは自己紹介に預かる。ミケラン・レイズン。
 レイズンの名を持つが、しがない分家長子だ。気楽に頼む」

クローバはやや目を細め、ミケランが入室する直前から手をかけていた
腰の剣から手を離した。
相手を見定め、厳しく見据えながら、口に出してはこう云った。
「剣に手をかけたは許されたい。
 レイズン家は分家に猛禽を飼われていると見える」
「お言葉、そっくりお返ししよう」、笑ってミケランは手を振った。
「手合わせもしないのに、こちらを見抜いた貴殿の慧眼には恐れ入る。
 正直、室に入った途端に冷や汗が流れた。
 はは、騎士は騎士を知るとはこのことだな。ちと自画自賛か」
「タンジェリンより嫁いだる妻はそこだ。
 都に持ち帰り、存分に首実験されるがいい」
「奥方のご遺骸は貴人への礼を尽くして丁重に扱うことをお約束しよう」

クローバは身を屈めて最愛の妻に別れの接吻をすると、
その細指から抜き取った指環を首から下げて、胸元に収め、
その顔の上に別離の薄絹をかけて、ミケランの目から隠した。


「-----ほう、これは見事な画だ」
ミケランはしげしげと壁の肖像画に魅せられて近付き、
後ろで感嘆の声を発した。
「辺境伯どの、これはどなたの姿の写し絵か」
画をまぶしげに見上げるミケランは、心の底から感じ入っている様子であった。
  
「淡い金髪に濃灰色の目が、貴殿と同じとお見受けするが、
 ご実家のオーガススィ家の方か。
 これは嬉しがらせの世辞ではないぞ、何ともいえない、
 滔々たる凄みをこの画像からは感じる」

ミケランは画の中の若い女がかかげた手に、釣り込まれるように
己の片手を合わせようとしたが、
その影が触れるのも畏れるといった風に、びくりと手を引いて、
果たさぬままに一歩退いた。

「実に見事な画だ。不朽たるべき財産だ。
 実のところ、こちらの城と領土は、脚が不自由で温和な性格わたしの弟に
 譲られることになっているのだが、
 この画ばかりは、ジュピタ皇家の居城に飾られるに相応しい」

妻の亡骸を離れたクローバは手近な卓上から紙の束をとり、
それを固く捩って、暖炉から火を移し取ると、
「ミケランどの、遠路ご足労だった」
紙の薪を手につかつかと壁に架かる肖像画に歩み寄ると、
ミケランの目の前で肖像画に火をつけた。
「何をされる!」
さすがにびっくりしたミケラン・レイズンは燃え上がる画とクローバを見比べ、
同じく愕いて後ろで立ち尽くしている従者に、「水を持って来い」と、
怒鳴った。
「気でも触れられたか、クローバ・コスモス辺境伯」
「いたって正気」
クローバは平然と、燃える肖像画の前に愛嬌のいい微笑を浮かべて
立ちふさがった。
「お察しのとおり、この肖像画は我が実家オーガススィ家の姫、
 フラワン家に嫁いだ、リィスリ・オーガススィの、娘時分の姿を写したもの。
 我が姉だ。
 もっとも生まれてすぐにコスモス家に養子に出された俺には、
 逢った事もない、幻の姉だがね。
 いたくお気に召されたようだが、これは何を描ききった書画なのかご判別がついたかな。
 星を指し示して神託を告げる巫女の真似をしている。
 騎士の守護星だ。
 今後、このウィスタチヤを我がもの顔で闊歩するものどもに、霊剣と星を描いた
 この絵を晒すには忍びない。星の光に射抜かれて目が潰れては困るだろうからな」
「我々はそれに値しないというわけか。傲慢だな、クローバ・コスモス」
呆れてミケランは、もはや消し止めようもなく燃えていく画から、
クローバの腕をとって、火勢の届かぬ安全な場所に引き離した。
そこへ水を満たした手桶を抱えた従者がようやく戻って来たが、
ミケランはもはや消火は無駄と見て、金色の焔に包まれて
瞬く間に燃えていく画を未練の目で眺め、旅支度に身を
包んだクローバの逞しい長身を恨めしく横目に睨んだ。

「聞けば、現存するオーガススィの係累の中で、皮肉にもコスモス家に
 養子に出された貴殿こそが、
 最も騎士として長け、黄金の血が濃く発芽して出たとか。
 そのような御仁がここで退場とは、惜しいことだ。
 わたしがこの画を、単なるご機嫌取りの品として皇帝に献上するのだと思われたか?
 とんでもない、貴殿ともども、
 このような僻地に埋もれていてはもったいないと思ったからだ。
 優れたものこそ十重二十重に秘蔵されるよりは万人の前にその姿を晒し、
 その真価を絶えず秤にかけられ、誹謗を受けてもその優越で凡百を圧倒することで、
 かえって人心を感服さしめ、より良き方向に啓蒙し、
 人々の精神を洗練へ向けて先導して励ましていく義務を負うものだと、
 わたしなどは思うがね。
 そういった生き様は、騎士道からは反するのか?
 貴公らの潔癖はわたしにはよく分からんな。
 もっとも今の世は、その差異に心をとめることすら知らぬ、恥知らずの有象無象が
 横行する時代なのには違いない。
 この画は貴殿のものだ。好きにされるといい」

肖像画の若い女は、かかげた手で雲影のない空を指し、
その真上には一つの星が、細かな光を放射して小さく宿っていた。
その星が焔に包まれて完全に焼け落ちる前に、
クローバ・コスモスは城を後にしていた。


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雪解けの水の中は、初夏になってもまだ、
木陰では震え上がるほど冷たかった。
森の果てに遠く望む青く涼しい山脈は、その万年雪の白い峰を翼のように連ねて、
薄い羽根を広げて空に休んでいるように見えた。
日差しにぬくんだ丸くすべらかな川床の小さな石は、
踏むたびに歩く足裏に心地良く、
時折吹く風に透きとおった水面はかすかな波紋を描き、
裸の身体についた水滴が、その上にひんやりと落ちていく。

彼は蒼い空を見上げた。

耀きながら流れる白い雲の、果ての果てを見定めるように、
深く晴れた空と同じ色の目を少し細めて、厳しい顔をしているその頤から、
少年期の名残をまだ十分にとどめたその細い首筋へと、きらきらと、
銀色の髪を伝って、また水雫が落ちた。
あの子はいつか、一角獣に接吻をするに違いない。
領民は裸になって川で水遊びをする少年を見かけるたびに、昔はそう囁いた。
清純な乙女にしか触れることが叶わないと伝わる聖獣との接吻も、
あの子にならば出来るだろう。
彼は肩に落ちかかる濡れた髪を首の後ろでまとめて、
口に咥えた細い飾り紐で手早く結わえた。
今はもう、誰も彼を少女のようだとは云わない。
彼がその深い瑠璃色の目で見つめると、いつの頃からか、
人はさまざまな態度で親しみを篭めたまま彼からわずかに離れたり、或いは、
見知らぬ若木でも見るように、
視線を止めて眺めるようになっていた。

若者はその白い身体を深みへと運んで、一息に飛び込んで、全身を沈めた。
水の中に広がる世界が彼は好きだった。
頭上にたゆたう漣は空、川底は大地。
岩は山で、小石は村。魚は鳥だ。

彼はそこを泳いだ。

人並みに何もかもが面白くない時期はあったが、それも通り過ぎた。
父も母も厳しく、また優しかったが、そこにはどこか
年端もいかぬ少年に仕えている温かな慈愛の敬いが付きまとい、
両親を愛している一方で、少年の頃の彼の心には、もどかしい寂しさといったようなものが
常に細かな網を張っていた。
己の所作も、人の挙動も、木々の葉ずれの音すら、
何かしら胸に巣食うその糸を辿って、
自分の心に直接響いてくるような気がして辛いこともあった。
そんな時ほど彼の表層には平静が降りて、
人から自分を悟られまいと心の揺れを押し隠すのだが、
母だけはいつも、そのような少年を、心配するよりはむしろ得たりとした顔をして、
厳粛ともいっていいほどに静かに見守っていた。

そのわけは、やがて知った。
そしてその日より、彼にとって両親だと思っていた人々は、親でなく、
自分の犠牲となった哀れな存在へと変わり、
少年はぞっとするような思いで、あらためて深く彼らを愛した。
自分が何者かを知っても、彼の心の沈みは晴れなかった。
出生のことは解決の見えない楔の重石となって、より深く、彼の胸に鋳込まれ、
年月はそ知らぬ顔で、
そんな彼の上に軽やかに過ぎ去っていった。

網目状の光が、泳ぐ彼の瞳を次々と掠めた。
こうして水のきらめきの重みの中にあっても、昔から何ものとも同化せず、
希釈しない、誰とも分かち合えない胸の中に絶えず潜んでいる彼の鈍い懊悩を、
川は昔から変わらぬ冷たさで、慰めるだけであった。
伸びた背丈も、頭に詰め込んだ学問も、ただ彼に対して一つの謎を、
日々の隙間から囁き、けしかけた。

やがて冷え切った身体を水から上げると、川岸に戻り、
さきほど獲った魚を魚籠に入れて水に置き、木の枝にかけていた服を身に着けると、
彼は日光に温まった岩に身を預けて横たわり、目を閉じた。
若い眠りはすぐに邪魔をされた。
緑の光を散らす葉のそよぎにのって、若者の名は呼ばれた。

「-----シリス。シュディリス・フラワン」

彼は目を開いた。
明るく、「ここだ」と、シュディリスは答えた。
そこにはもう、先ほどまでの懊悩に翳っていた若者はいなかった。


[続く]




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