back next top






[ビスカリアの星]■十.




胸が引き千切れた思いがして、冷気の中に目を覚ましました。
リラの君。
貴女が血に染まっていた。
射抜かれたことも知らずに、羽ばたこうとする白い鳥のように、
それでも静かに、何かを云おうとしている。
地を満たした騎士が剣を投げ出して打ち伏しているのが見えませんか。
光を連れて訪れたる君よ。
去り給うな。



森を往く間、カリアは小声で歌っていた。
その手を時折上げて、樹木から零れる日差しを掬っては、知らない古い歌をうたっていた。
シュディリスは馬を引いて歩きながら腕を上げてカリアに示した。
「ウィスタチヤの都ジュピタは、フェララとレイズンが分割した旧カルタラグン領を超えた、
 ちょうどあの山脈の端が空に消える、あの方角に位置しています。
 トレスピアノは西の都と呼ばれる大国ジュシュベンダと、北にサザンカ領を戴いた、
 豊かな穀物を生む土壌に恵まれた風光穏やかな土地で、
 トレスピアノ領家フラワン家は、ウィスタチヤを建国したジュピタ皇家よりも歴史が古く、
 いにしえには地の果てまでを治めた高貴なる家として現在でも、
 帝国各国より礼をもって遇されております」
或る時、世の荒廃を憂いた勇敢な若者が立ち上がり、
それに七人の騎士が付き従いました。
その主従一行にフラワン家の娘オフィリア・フラワンが加わり、
彼女は後に皇妃として迎えられています。
「オフィリアは初代皇帝をその身をもって竜から守ったと伝えられている。
 世界をその爪と焔にかけた凶暴な竜も、聖女オフィリアの身心を砕くことは出来なかった。
 竜の焔はオフィリアの身を包んだが、焔の方からオフィリアを避けて
 天海に飛び散ったそうです。空に駆け上った星は竜のかたちの星座となり、
 地に散った星は、七人の騎士の国となりました」
どこまでが本当でどこまでが後世の脚色なのか分かりませんが、とシュディリスは断って、
「オフィリアにまつわる伝説が今でもトレスピアノを霊験の地として、
 都からこうして遠く離れていても、各国から貢物を持って頻繁に訪れる客人が、
 ウィスタの都での出来事を教えてくれるのです」
話を締めくくった。
鞍に横座りしたカリアはシュディリスが摘んだ花を受け取ると云った。
「では、次はわたくしの昔話をしましょう、シュディリス。
 わたくしの故郷は、カルタラグンの同盟国でした」
カリアは小鳥の影を追って、水面を水色に澄ませている森の泉へと目を向けた。
エスピトラル、これがその小国の名です。
わたくしは王の娘としてそこに生まれました。

「小さな古い国。今ではもう知る者もいないでしょう。
 十九年前カルタラグンがジュピタより追われて滅ぼされた時に、
 エスピトラルも共に焼き滅ぼされたのです。
 わたくしは生まれてからずっと城下の家に預けられていたのですが、
 真夜中、突然兄と姉が駆け込んで来て、
 幼いわたくしの手を引いて、河を下る小舟に乗せました」

カリアの声は、普通に話している時も、最も美しい音が震えてなくように、
その心に浮かぶあらゆる抒情を重ねて詠っているように聞こえた。
父母を呑み込んで焔に包まれていく城を、夜の河から見ていました。
身代わりとなって従者が一人、また一人と舟から射落とされて、河底に消えていく。
「森の中に逃げこんで、もう逃げ切ることが叶わぬと分かった時に、
 兄と姉はわたくしを殺め、その後に自害したのです。
 でも、わたくしは死んではいなかった。息を吹き返すと、隣で兄と姉が死んでいました。
 二人を呼んで揺さぶっても目を開いてはくれなかった。
 すぐに、わたくしはレイズン家の軍勢に捕まりました」
「エスピトラルの名を聞いた時に、縁の方であろうかと、思っておりました」
シュディリスは前を向いたまま、それだけを応えた。
エスピトラルはカルタラグン領に隣接しており、
カルタラグンから派遣されていた援軍は窮境にあるエスピトラルを捨て石にして撤退、
レイズン軍はエスピトラルを一昼夜のうちに灰燼にして通過したことを、
彼は聞き覚えて知っているだけだった。
カリアは胸の上に手を置いた。
「兄はわたくの目の上に片手を置いて目隠しをすると剣をこの胸に立てました。
 姉はわたくしの手を握り、怖くはないのだと云って聞かせておりました」
みんな、また逢えるからと云っていた。
虜囚になるよりは誇りをもって死ぬことを彼らは選んだのです。姉の声は静かでした。
生後まもなく大病を患ったわたくしは国の慣わしに従い、王族の子としてではなく、
成人するまでは領民の子として育てられておりましが、兄と姉はよく逢いに来てくれた。
傍らでこと切れている彼らに気がつく前に、わたくしが見出したのは、
血の溢れたこの胸におかれた花でした。
レイズン家の軍勢が迫る中、兄と姉は幼い妹を大急ぎで弔ってくれたのです。
それを終えると、彼らは刺し違え、折り重なって死んでいきました。
その場で首だけが離されて、兄と姉の遺骸がそのままそこに捨て置かれるのを、見ていました。
昔のことを想うと、胸の中に、真っ白な霧が満ちてきます。
形見も何もありません。
こうしていても、まるで幻の中にいるような気がします。
底知れぬ貴い寂寥をカリアは浮かべて、「歌だけが残りました」と呟き、
曙に一瞬だけ空に過ぎる緑の色の眼を、限りなく明るいまま伏せた。
「エスピトラルでは誰もが知っていた古い歌なのに、誰の作った歌なのか、誰もそれを知りません」
 
雪解けの水が足を濡らした
貴方の葬儀は春だった
針葉樹の森よ
鏡のような湖よ
けっしてあなたのことを忘れない

   同じ城に寝起きして
一つの弓を共に使った友よ
凍える夜にはわたしの腕で眠った愛しい人
同じ糸で二人の指を結んだあの日から
わたしの心はあなたのもの
あなたの心はわたしのもの
鼓動までも

また澄み切った冬が来て雪が降った
輝く氷の原よ
盾のような月の面よ
映して欲しい面影は一つだけ


淋しい、きれいな曲。
針葉樹の森よ、鏡のような湖よ、けっしてあなたのことを忘れない。
紫の夕べにこの調べを聞くと、何かの予感のように、胸が苦しくなりました。
この空のどこかにこのような美しい曲を奏でて歌う人が、かつていて、
誰もそれが誰であるのかを知りません。
それでもこの歌をうたった人の心は、人の心を動かし、いつまでも心の片隅に鳴り響いては、
それを聴く者の心に受け継がれて、一つの永遠として、
人の魂に寄宿していくのですね。
この古い歌をうたうと、見も知らぬ同じ心をもった昔の人と、一緒に時の縦糸を揺らし、
孤独の河の淵で寄り添っているような、兄や姉もそこにいるような、そんな気がするのです。
美しい曲、忘れることのない。
「森の中は、哀しみを想い起こさせてしまうでしょうか、カリア」
気遣ってシュディリスは訊ねた。あの今朝の夢。不吉な夢。
目覚めると、カリアはとうに起きていて、朝露の中を歩いていた。
シュディリスにもカリアが見ていたものが見える気がした。
敵の手にかかるよりはとその手で殺めた幼い妹の亡骸に大急ぎで花を手向けると、
年長の子供たちは折り重なるようにして王家のその命を絶った。
背後に迫る軍馬の音に追われながら、三人で森の中を逃げた。
レイズン家の天下である今の世には誰一人、それを語り継ぐ者がいない。
「早急に、森を抜け出ます」
心が決まったシュディリスはそれをカリアに打ち明けた。

「リラの君、御身をレイズン家より匿うのに最も安全なる国は
 この地上に我がトレスピアノの他ありません。
 ジュピタの補佐役についたレイズン家の専制を憂慮する国は多い。
 なかでも隣国の大国ジュシュベンダ、騎士領ハイロウリーン、この両国はかねてより、
 対レイズンに対して警戒心を持っております。
 先年のタンジェリン殲滅戦に二国が黙殺を決め込んだのは、
 タンジェリンに帝国への謀反ありとして、諸国を納得させる大義がレイズン側にあったからです。
 しかしもし、ミケラン・レイズンがユスキュダルの巫女であられる御身を害する心積もりある時には、
 この二つの雄国こそ、頼むに足りましょう。
 レイズンはタンジェリンを滅ぼした後、コスモス領までも没収、辺境伯クローバ・コスモスを放逐し、
 今はミケラン・レイズン卿の弟がそこの君主となっております。
 これ以上の侵略と専制は、この両国こそが許さないでしょう」
シュディリスは振り返って身を屈め、カリアの手を取って辞を尽くし、伺いを立てた。
「トレスピアノが、御身を匿い、奉ることにご異存は」
カリアは頷いた。
「レイズンの軍勢がわたくしを探して本格的にトレスピアノの野に侵入してくるつもりならば、
 いかがしますか」
「それを好機とします」
シュディリスは即答した。
「その時こそジュシュベンダ、ハイロウリーン、及び諸国へ、
 レイズンの非道を訴えかけることが叶いましょう」
「戦になると」
「先日フラワン家は、フェララ家剣術師範のルイ・グレダン様を客人に迎えました。
 彼の話から察するに、帝国版図に再び戦火が熾る徴候がみえます。
 各地の諸侯、小国が、次はわが身こそタンジェリンとコスモスの二の舞になるのではないかと
 怖れるあまりに、野武士や傭兵を雇い、レイズンを敵国に想定して軍備を増強しております。
 これは帝国の治安維持を任ぜられているレイズンが踏み込むにはかえって格好の口実となります。
 この次にレイズンが侵略の手を伸ばしても、今度は、
 辺境伯クローバ・コスモス殿の英断により、タンジェリン家出身の奥方の自害と、
 クローバ殿の出奔により、無血入城が叶ったコスモス領没収のようにはいかないかと存じます」
「シュディリスよ、わたくしは、他ならぬミケラン・レイズンにその不穏の沈静と、
 タンジェリン戦に殉じた死者への鎮魂を乞われて、ユスキュダルより出てきたのです」
「それこそミケラン卿のあざとさを示すもの。貴女を誘き寄せた上で、何らの計略のために
 貴女の身柄を拉致しようとしたことは明白です」
鞍の上でカリアは目を閉じ、その身体が均衡を崩した。
シュディリスは両腕を伸ばして支えた。
「お疲れですか、カリア」
抱き下ろすと、腕の中のカリアは昨日よりも弱々しくなったように思えた。
そのカリアの緑の瞳はシュディリス蒼い瞳をその底の底まで見通すように見つめ、
坐らせた木の根元の木陰から、意外なことを口にした。

「ミケラン卿の弟御のことをご存知ですか、シュディリス」
「クローバ・コスモス失踪の後にコスモス領を分与された現当主としか」

カリアの為に水を汲んで戻って来たシュディリスは知っている限りのことを述べた。
「接見に預かったことはありませんが、弟君には生まれつき片脚に不具があり、
 終生独身の誓いを立てて妻子は今だなく、
 書物と園芸種の改良を好まれる温和な人柄で、領内からも今のところは
 新為政者に対して表立った不満は上がっていないと聞き及んでおります」
「森の中で捕えられたわたくしはレイズン領に護送され、しばらく、
 彼が静養していた湖の城のお預かりとなり、沙汰を待つ間そこで過ごしたのです」
再び、カリアは白い聖衣の胸に手をおいた。
今でもそこに深い古傷が残っているのであろう。
「当時少年だったミケラン卿の弟御は、国と身内を失い、
 重傷を負った身で送られてきた幼いわたくしをたいそう不憫がってくれ、
 本来、秘密裏のうちにも死罪を受けるべきわたくしの助命と解放を
 実兄であるミケラン卿に請うてくれたのです。不自由な足を引きずって
 監禁されていた塔を訪れては、回復するまでわたくしの枕元で物語を読んで聞かせてくれたり、
 庭に連れ出してくれたのも彼でした」
「では、ミケラン卿の弟御と貴女は、古馴染みなのですね」
「わたくしには、今となってはそのことも、
 月に照らされた海辺の小石ほどに他の事々と変わりなく静かな向こうに思えます。
 ですが、ミケラン卿の使者が届けた手紙には、その昔のことにも触れてありました。
 当時方々への処断に忙しかったミケラン卿は、小国の、
 しかも城から離れて育成されていた一女子のことなど、
 おそらくはさほど問題にしてはいなかったはずです。
 弟御の助命嘆願を聞き入れて、条件付にしろわたくしを放免してくれました。 
 わたくしの今ある命は、確かに、彼らのお陰で永らえたものです」
「狡猾な」、かっとなって、シュディリスは吐き捨てた。
「弟がかつて見せた篤実までも己の目的の為に利用するとは。
 さらには過去に下した特赦を盾に今さらそれを掘り返して恩に着せてくるとは、
 恥を知らぬ者の所業。今こそ、見下げ果てました」
「ああ、貴方はご存知ないのですね、シュディリス」
哀しみを微かに帯びた声で、カリアは両手を胸の前にやさしく重ね合わせた。
「彼は恩になど着せませんでした。
 それに、わたくしはもう俗世にあって、俗世にはない身の上、誰かの意向に従うこともありません。
 ミケラン卿の手紙には、まつりごとを行う高みの身からの深憂が縷々溢れておりました。
 貴方はまだ知らないのですね。
 わたくしはミケラン・レイズンも、その心、紛うことなき高位の騎士だと申し上げたではありませんか」
「貴女がどちらの旗印にも与しないことは承知で申し上げますが、
 わたしには尚更のこと、彼が唾棄すべき、狐のような男に思えます」
「騎士よ、その高潔を、過酷なだけのものにしてはなりません」
カリアはシュディリスを諭した。
「怒りの焔が上がることがなければ、風も起こらぬことを、知らないのですか。
 他でもない貴方のその義憤こそが、暗雲を呼び、
 雨を降らせることを、知らないのですか」
しかし、シュディリスの怒りは巫女が宥めてみても、収まらなかった。
「悪知恵の働くものならば、感情に訴えた真実味溢れる書状を捏造することなど
 幾らでもお手の物のはずです。
 貴女を襲った野武士らは彼の差し金によるものだ。
 こうして尊き御身を夜露にさらし、野に流離わせているその間にも、
 次なる策謀を彼は都で考えているに違いありません。
 父の仇として彼のことを憎んだことはないが、今よりは、貴女の為にも許しがたき相手です」
「わたくしと同じ色の髪」
カリアは後ろで一つに束ねて日差しに透ける、シュディリスの髪を懐かしそうに見つめた。
「国境を接したカルタラグン領とエスピトラル王家の間には過ぎた時代、
 同盟の約定を固めるために縁組が取り交わされていた。
 カルタラグンの皇子よ、貴方とわたくしには、どこかで交わった
 同じ血が流れているのですね」
「しっ」
様子を変えてシュディリスは森の周囲を素早く見回すと、
「どうやら追尾されています。お静かに」
轡を引いて馬を木陰に寄せて隠し、木漏れ日の中に剣を抜いた。




------------------------------------------------------------------------------






村長と共に父カシニ・フラワンを出迎えに道に出たユスタスは、
父の傍に心配で青くなっている姉リリティスの姿を騎馬の中に見出して、
心中、(最悪・・・)と額を手で覆った。
(何ていうのかなぁ。シリス兄さんがリリティス姉さんを微妙に避けてるのも分かるよ)
反対を押し切って、無理矢理同行してきたのに違いない。
(家でおとなしく刺繍でもしてりゃいいのに、『果報は寝て待て』ってことを全くしないんだから)

国境からほど近い村を選んで、街道に行き合わせた旅人と、
レイズン家の騎士団を分宿させてはみたものの、
時ならぬ騒動に、稀人よそ者、貴人、
加えて他国の軍隊を迎えてうろたえるばかりの村人と、
次々に参じる自警団への指示追われて昨夜は徹夜、
さすがにユスタスも疲労困憊であった。
最短距離を選んでこちらへ向かってくる父とは頻繁に伝令を使って、状況の説明と、
今後の対策を相談したが、早駆けの馬が持ち帰ってくる父の文面には、
さすがに沈着こそ欠いてはいないものの、その裏には「何故お前たちがそこにいたのだ」
そんな憤りがありありと篭もっていて、読むたびにユスタスは冷や汗が出た。
「ごきげんよう、父上」
村長の手前もあって余所行き顔で礼をとる息子に対して、
未明より屋敷を出て、換え馬を使って最速最短で到着した家長カシニ・フラワンは、
「父は機嫌が良いように見えるかな、ユスタス」
馬上からユスタスに向けて雷の前触れを遠慮なくたっぷりと漂わせ、
無断で家を出た息子の片方を睨んで訊いた。
「シュディリスの姿がないが」
「兄さんについては、また後で」、ユスタスはひとまず言及を避けた。
「お前たちには父から話がある。シュディリスを連れて来なさい」
「ええ、まあ、お怒りご尤もです」
ごにゃごにゃと口ごもって後ずさりした彼を、「シュディリス兄さんは…?」、
リリティスが待っていた。
陽光に不安を翳らせ、それだけに美貌が増したような気がする姉は、
「ユスタス、兄さんは何処」
その灰色の眼をひたとユスタスに据えて、透き通るその声を厳しくさせて詰め寄ってきた。
その旅装束の下には剣を佩いている。
ユスタスはげんなりと肩を落とした。
シリス兄さんの実母ガーネット・ルビリア・タンジェリン騎士も、姉さんみたいな人なんだろうか。
(だったら、たまらないな。
 私だってユスタスと変わらずに強いわ、なんて姉さんいつも意地を張って言い募ってるけど、
 それは違うだろ、全然違うよ。いい加減、気がつかないわけないんだけどな。
 僕がいつも姉さんと剣稽古する時には、手加減してることを。
 とっくに僕の方が背が高いんだ、同格の騎士でも男と女で、男が攻勢をかけたら、
 腕っぷしもこっちの方が強いんだ、母さんに似て骨の細い姉さんの方が
 負けるに決まってるじゃないか。
 こんな田舎にいたら分からないだろうけどねえ、姉さん、たとえば都に駐屯している
 高位騎士と真剣に対戦してみても、過半数にはやっぱり体格の差で負けると思うよ)

トレスピアノを訪れる幾多の騎士と手合わせした経験から
ユスタスは姉の技量を決め付けて、その見極めがつくだけに、
姉にはいつも複雑な憐憫を感じるのだった。

(まったく幾ら希少価値だからといって、
 騎士の女をもてはやして求婚する男たちの気が知れないよ。
 名馬や銘入りの武具と同様に、箔づけとして女騎士との一夜を求める騎士たちへの
 軽蔑を隠さないリリティス姉さんはその点、ちょっとはマシだけどさ。
 でもだからって、姉さんに恋してその髪をひと房求めた騎士に、僕の髪を渡すことないだろう?
 薬草と一緒に煮て、僕の茶色の髪を金髪らしくなるまで脱色させている姿を厨(くりや)で見た時は、
 この人、本当に頭がおかしいんじゃないかと思ったよ。普通やるか?そこまで。
 どうせ違う髪を染めて渡すのなら、
 だったら兄さんの銀髪のほうがより近いんじゃなのかと文句をつけたら、
 あんなひよひよ男にシュディリス兄さんの髪を渡せるものですかと云ってたけど、
 じゃあ僕の髪ならいいのかよ。
 今でもあの騎士が僕の髪を姉さんの髪だと信じて首飾りの中に閉じ込めたそれに
 接吻してたりするのかと思うと、冗談じゃないよな、オエェ。
 今度はさみを持って近付いてきても、断固、もう姉さんには整髪させないからな)
 
しかし顔だけは精一杯の笑顔で駆け寄って、「怪我はもういいの、姉さん」、
従者を退けてリリティスの馬を受け取ると、
「父上、お疲れでしょう。まずはあちらでしばしご休息下さい」
まだ不機嫌を隠さないでいる父に一軒の家を示して後は村長に任せると、
姉を連れて退散を決め込んだ。
「でも、いいところに来てくれたよ、姉さん」
碁盤上に整然と並んだ柱に蔓を巻きつかせて葉をそよがせている果実畑を抜けて、
ユスタスは二人きりになるとリリティスを他に聞き耳を立てる者のいない
村を流れる小川に架かる小さな橋の上に連れて行き、そこで全てを打ち明けた。
浅瀬の水の音に合わせてひそひそ囁くユスタスの話が終わりに差し掛かると、
リリティスは目を見開いて、硬直し、次に悲鳴を上げた。

「ユスキュダルの巫女を兄さんが奪ったですって!」

慌ててユスタスは姉を制した。
ちょうど村の鐘楼が六点鐘を鳴らしたところで、二人は空を打つその重音にびくりと飛び上がった。
鐘の余韻が消えると、ユスタスはさらに声を潜めて、
「だから大声は出さないで聞いてよ。
 驚くのは無理ないけどね。僕も今でも信じられないくらいだから」
「そんな畏れ多い、大それた、何てことを」
「姉さんに云うんじゃなかった。父さんの前にまず姉さんに相談したかったのに」
「しかも都にいるミケラン卿がこれに関与しているですって」
「それ以上取り乱すなら、もういい、レイズン家の軍隊と談判をつける前に、
 僕から父さんに直接伝える」
橋の欄干に片手をついて震えているリリティスには悪いが、ユスタスこそ、
兄のとった行動の重大さを思うと、徹夜明けの疲労も手伝って、
その場に倒れてしまいたい気持ちだった。
半ば伝説化している高祖オフィリア・フラワンがトレスピアノの野に降臨したと聞いても、
これほどまでに、慄くこともなかったであろう。
やがて気を取り直した姉と弟は顔を見合わせて、どちらともなく、
「一体、どうすれば」と、口を開いた。

「ユスタス、それは間違いなく、ユスキュダルの御方、その人だったの」
「後で落ち着いて一連のことを考えたら腑に落ちるよ。僕もこの目で見たんだ、間違いない。
 ミケラン卿の関与については、彼の軍勢がトレスピアノに侵入してきたのが何よりの証拠」
「あの時のあの声、それでは、本当に巫女はあの輿の中におわしたと……」
「頼むから、そこに拘泥してないで、これからのことを考えてよ。
 街道は幾つもあるんだ。わざわざこんな外れの一本を選んでレイズンの軍隊が狙い撃ちで
 突入して来たのには、巫女ご一行の進路動向を逐一ミケラン卿に報せていた者が何処かに
 いるに違いないんだ。長閑なトレスピアノにだってミケラン卿が帝国の実権を握って以来、
 間者が送られていないわけじゃないことくらい、姉さんだって知ってるだろ。
 帝国への反逆者の探索と捕縛などと尤もらしいことを口上していたけど、彼らは真直ぐ、
 目的の巫女一行を最初に包囲したもの」
「ユスキュダルの巫女を攫って行ったのはフラワン家の長子だと、もう先方には知れたかしら」
「たとえまだでも、時間の問題」
「すぐにシュディリス兄さんを探し出し、兄さんと巫女さまを無事にしなければならないわ」

決然と面を改めてリリティスは剣の柄を握り締めた。
「ミケラン・レイズン卿が何ゆえユスキュダルの御方を狙うのかは分からないけれど、
 忌々しくも軍隊まで我らが不可侵領に踏み込ませてくるとは、只事ではない。
 こちらの抗議も、各国からの非難も、彼は恐れてはいないのね。
 この調子で手段を選ばず巫女さまを得ようとするならば、
 私たちの兄さんを、その身分承知の上で、
 巫女を誘拐した不埒者として見つけ次第処分することだって彼ならやりかねないわ。
 レイズン家には隠密がいると聞く。彼らが兄さんを見つけ出す前に兄さんを無事にしなければ。
 ユスタス、兄さんは何処へ行ったの」
「それを把握していたらこんなに慌てているもんか」
憮然としてユスタスは姉を押し戻した。
「巫女を連れて森に飛び込んでいく姿を見たっきりだよ。
 その後すぐに、従騎士と、さらにはそれを追ってレイズン家騎士が追いかけたけど、
 どちらも相打ちになっただけで、手ぶらで帰って来たからね」
「何処へ行ったのかしら」
「僕なら、トレスピアノからは出て行かないだろうな。
 トレスピアノほど安全で知り尽くしている場所はない上に、領民の協力が得られる」
「それでも、いつまでも尊き方を雨風に晒しているわけにはいかないわ。
 男の兄さんがお連れして隠れ回るにも限度があるわ、はやく何処かに安住して頂かなくては。
 私なら、巫女をお匿いする場所には、うちを選ぶと思うのよ。
 待っていたら、そのうち兄さんの方から父さまに何らかの連絡が入るのではないかしら」
「そして相手にさらなる介入の口火を許すわけ?僕がレイズン卿ならば全世界に向けて、
 フラワン家がユスキュダルの巫女を軟禁したと触れ回り、世論を味方につけた上で、
 今度は正当な手段で真正面から引渡しを正式に勧告するね、
 そうなったらもうシラも切れないよ」

ただし、とユスタスは昨夜から考えていたことを述べた。

「ミケラン・レイズンは後ろ暗い。山中で覆面の者たちに襲わせたあの陰湿から推し量っても、
 彼の方で全てを秘密のうちに処理したがっているのに違いないと思う。 
 シリス兄さんは、ミケラン卿はユスキュダルの巫女を奪って、それを盾に、
 皇帝に叛旗を翻そうとしているのではないかと云ってた」
「まさか」
「十九年前ジュピタ皇家の遺筋を担ぎ上げてカルタラグンを追い落としたように、
 今度は巫女を、彼は錦の御旗にしようとしてるんじゃないかと、兄さんはそう云っていた」
「シュディリス兄さんは頭の回転が速すぎて、私にはまだ一足飛びにそこまで考えられないわ」
同意しない印にリリティスは首を振った。
「確かにユスキュダルの巫女が導く軍勢にあえて刃向う騎士はいないでしょうけど、
 現皇帝とミケラン卿は、共にカルタラグンを倒して改新を興した古くからの友であることを
 知らぬ者はいないわ。一騎士家が皇帝の座についた時の末路はカルタラグン王朝で
 明らかであるのに、それをした彼が、
 今さら全ての騎士家を敵に回して、皇帝への謀反を起こすかしら」
馬車の音がしたので二人は口を噤んだ。
橋の上を畑帰りの農夫が通り過ぎるのを待って、リリティスは云った。
「私が探しに行くわ、兄さんを」
「とんでもない、行かせないよ」
予期していたことだったのでユスタスは落ち着いて両手を広げ、姉を止めた。
「だいたい、よく父さんが姉さんが附いて来るのを許したね」
「どうせ反対されると思ったから、屋敷を抜け出して後を追い駆けたのよ。
 部屋の前には侍女がいたから、露台から蔦を伝って降りて、
 厩舎から兄さんの持ち馬の一頭を勝手に引き出して使ったの。怒られるかしら」

(だから、どうしてそういうことをするんだよ)

嘆息してユスタスは、「とにかく駄目だ」声を強くした。
「僕が姉さんに相談したかったのは、このことを、どこまで父さんに報せたものかってことと、
 もしかしたら領外へ出たかも知れない兄さんと巫女さまの探索の指揮を、
 僕が執ることを、姉さんからも父さんに頼んで欲しかったからなんだ」
「貴方は兄さんの代わりに、父さまの傍にいなければ」
「屋敷に僕と背格好の似た使用人がいるだろ、彼を僕の替え玉にして欲しいんだ」
「レイズンか私たちか-----どちらが先に兄さんを見つけるかにかかってるのよ。
 こんなことろでぐずぐずしてはいられない」
「姉さん」
「退きなさい、ユスタス」
弟は、風吹く橋の上で間合いを空けた。リリティスが剣を抜いたからだ。
リリティスの淡い金髪が、その不穏の気につられるように、その繊細な顔の周囲で踊っていた。
何かを思い定めた時の姉は、何故こうも、泣いているように見えるのだろう。
「いくらシュディリス兄さんでも、一国を敵に回しては敵わないわ」

(いくら無念に猛ろうと、女騎士一人で、レイズンを敵に回して勝算はない)

いつかの兄の言葉が、そんな姉を見つめるユスタスに不意に思い出されてきた。
(彼女はだから、騎士団領ハイロウリーンに行ったのだ。
 騎士団の門をくぐり、その剣を騎士団に捧げ、そして彼女は今も、復讐の時を待っている)
「ミケラン・レイズンが兄さんを害しようとするなら、私は兄さんの傍にいなければ。
 忘れたの、ユスタス。兄さんはカルタラグン王朝の血を引く皇子なのよ。
 それがもし、このたびのことでミケラン卿に知れるものとなったら、
 必ずや彼はこの件に便乗して兄さんを闇に葬ろうとするに違いない。私がそれをさせない」
(ガーネット・ルビリア・タンジェリン。見も知らぬ母だけど、彼女のことを思うと、
 女騎士として生まれた者の不運が痛ましい。特にそれが男への愛と結びついた時の過剰には。
 だからわたしとお前はきょうだいとしても、いちばん身近な騎士としても、
 これからもリリティスを大事にしてやらないとね)
ユスタスは進み出た。
「姉さん」
「邪魔をするなら剣を抜きなさい、ユスタス」
ユスタスは無防備のままリリティスに近付いて行った。
リリティスの刀身に、姉と自分、どちらとも判別のつかぬ暗い影が映っていた。
実の姉弟として生まれた人よ、生涯のうち僕はこれから一体あと何度、貴女のことを
「姉さん」と呼ぶのだろう。
僕は貴女よりも強い。だからこうする。
閃光を引いた剣をかいくぐり、ユスタスは姉の身体を捉えていた。
胸骨の急所を殴りつけたユスタスの拳は、リリティスを崩し、その手から剣が離れて橋にぶつかった。
気を失って倒れるその細い腰をユスタスは片腕で支えた。
すれ違った金色は、姉の髪だった。
冷たく光る灰色の目を彼は見た気がした。
橋の上に膝をついたのは、ユスタスの方だった。
声が出なかった。
橋に伏して胸を押さえて喘いでいるユスタスに、背後から影がさした。
雲の浮かぶ空に揺れる金髪。
リリティスは弾き飛ばしたユスタスの剣を拾い上げると、それをユスタスの前に置いた。
「ユスタス、貴方は、誰を相手にしていたつもりだったの-------?」
手から零れ落としたと見せてその細指が剣影を掴み、握り直したのを見て、
反射的に剣を抜いたユスタスは、それを構える前に瞬時に奪われ、
叩き落とされたその剣が落ちきる前に、胸元に飛び込んできた姉の剣の柄でしたたかに、
先ほどの精確なお返しとして、胸部を打ち返されていたのである。
抉れたかと思うほどの骨の痺れの上に、姉の声は小川の水音よりも凍みて、そして遠かった。
姉は、弟に勝ったことを哀しんでいるのだろうか。
リリティスの声がしていた。
「まさか、この姉が、星の騎士としての称号を名のみのものとして、貴方やシュディリス兄さんに
 恥をかかせるような劣れる騎士であることに、満足して眠るとでも、思っていたの……?」
「リリティス、姉さん、待って」
「剣稽古の時も、黙って、その力量の差を自覚せずに評判に甘んじて驕り怠る、
 その程度の姉ならば、その時こそ貴方は、この姉を恥じるといいわ」
姉の顔は見えなかった。
咳き込むユスタスの耳に、橋から立ち去るリリティスの足音だけが聞こえていた。



[続く]




back next top


Copyright(c) 2006 Yukino Shiozaki all rights reserved.