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[ビスカリアの星]■百.


次の間までの距離は遠かった。
四方に伸びている回廊の先はどれもひっそりと暗く閉ざされ、誰もおらず、
黒い口を開けた洞穴のようだった。
エステラはルビリアに打たれた胸部を押さえながら、ミケランの私兵を
捜し求めて床を這った。
ミケラン様が女騎士に殺される。
誰かを呼ばなければ。誰かを。
エステラは声を振り絞った。
 「シュディリス様。ユスタス様」
 「兄と弟が、ここに?」
緊迫を隠さぬ声が掛かった。エステラが顔を上げると、リリティスがいた。
リリティスはエステラの様子に愕いて駈け寄ってきた。
 「しっかり」
 「わたくしは、大丈夫ですわ」
エステラは助け起こそうとするリリティスの手を握り締め、無我夢中で
王座の間へ続く通路を指した。
 「あちらの、扉の向こうに」
エステラは喘いだ。胸の痛みに気が遠くなった。
 「ミケラン様と騎士ルビリアが」
云わんとするところを察したリリティスは顔つきを変えると、エステラに
動かぬようにと云い含め、王座の間に急ぎ、両手で重い扉を押し開いた。
眼にとびこんできた光景に、リリティスは凍りついた。
 (遅かった。いいえ、まだ----生きているわ。二人共、まだ生きているわ)
それが分かると、ようやく、身体が動き出した。
この時リリティスは悪夢の泥の中を泳ぐようにして王座に近付いていったが、
実際には、騎士にだけ可能な速さで、ミケランを討とうとしている
高位騎士に瞬時に剣を突き付けるという離れ技を果たしていた。
振り返ったルビリアは、シュディリスそっくりの青い眼をしていた。
女の視線がリリティスを捉えた。
怖いというよりは、もはや人のものではない、荒み切った眼の光だった。
辛うじて避けた反撃の剣も、ルビリアがもしも負傷していなければ、
即死であったろう。
リリティスには手負いの竜となった二人を止めるだけの力がなかった。
いつしか、最もこの場に来て欲しくない人の名を、リリティスは
心の中で呼んでいた。
口に出すまい、考えるまいとした。まるで思い浮かべるだけで
効力を発揮する呪いのように。
リリティスはそれを振り払い、振り払いするように、ルビリアと剣を交わしたが、
胸の中で必死に繰り返しているその名とは、ミケランにも、ルビリアにも、
いちばん逢わせたくなかったはずの人だった。
だからリリティスは、振り返るのも怖ろしかった。地に穴が開いて
全員が堕ちればいいとすら思った。
 「巫女を殺めたな、ミケラン・レイズン!」 
 リリティス姉さん、ねえ、気がついた?
ユスタスの声がリリティスの脳裏にぐらりと渦巻いた。
 シュディリス兄さんは、やっぱり、オーガススィ家の母さんをもつ
 僕たちとは違う。
黒雲がのびて、珍しくトレスピアノに大雨が降った夕刻だった。
室内で剣を磨くユスタスは、兄との剣稽古のどこかで、それを
確信したのだろう。雨に濡れた前髪から滴をたらし、剣の手入れを
しているユスタスの顔を、剣の反射光が三日月のように淋しく
照らし出していた。

 彼は、カルタラグン。

 「ミケラン・レイズン!」
 「待って----……兄さん、待って」
リリティスは両腕を広げ、シュディリスに駈け寄った。
後から考えても、どうしてそんなことが出来たのか、リリティスには
分からなかった。
そこに居たのは、竜神の化身だった。
嵐に閃いて、空を翔る、銀と蒼の、いかづちの焔だった。
今度という今度こそ、臓腑という臓腑が干上がりそうな思いで、
リリティスは激怒している兄にしがみついた。
 「違うわ、ミケラン様が巫女を殺したのではありません」
シュディリスはリリティスを一瞥したものの、無事だと分かれば
それで足りたものか、押し留めるリリティスの腕を振りほどいた。
彼の両眼は底深いものを押し殺してつめたく揺らいだ。
ルビリアが酷い深手を負っているのを見分けると、彼は逆鱗のあまり、
いっそう冷徹な口調になった。
 「次は、そこなる女騎士を殺めるつもりか」
 「兄さん!」
この男一人のために、どれほど多くの人間が失われたことか。
しがみついて引き止めるリリティスをもぎ離さんばかりにして、
シュディリスは柱の影を踏んで、彼らの方へと歩いて行った。
白刃を引っさげて王座の間に現れたシュディリスを見て、
ミケランとルビリアは一旦、大きく跳び退って間を空けた。
しかしそれは双方、計算の上だった。彼らは、ひとときも相手から
眼を離さず、互いに生じたその一瞬の隙を無駄にはしなかった。
 「遅かったようです」
西の砦の回廊を進むルルドピアス姫が憂いた声で呟くのを、傍らの
パトロベリは聞き取った。砦に入った一行の中にはフィブラン・ベンダ
をはじめ、多くの騎士に混じって、カルタラグンの騎士もその後に
付き従っていた。
 「姫?」
ルルドピアスの行く手には、光の雨と、時の回廊が延びていた。
 待って。待って。
タンジェリンの少女が、薄明にけむる回廊を走っていた。
春の笑い声を上げながら、新緑の中を走っていた。
 待って、翡翠。待って。お父さま、お母さま。タンジェリンの人々よ----。
幻の少女に、ルルドピアスは憂いて告げた。
 「望みのままに」
影の帳をわけて、懐かしい皇子が、彼らの前に現れた。
 「ミケラン・レイズン!」
亡霊の口が動いた。
女騎士が立っているのもやっとであることを見定めると、ミケランは
彼の闘いの障壁となる翡翠皇子に直進した。
リリティスが悲鳴を上げた。
眼にも留まらぬ剛風となって飛来してきた剣と、迎えうつ銀の剣が
高い音を立てた。高位騎士の剣をシュディリスは撥ね退けたものの、
リリティスを背中に庇って足場を崩し、押し切るのがやっとだった。
シュディリスは、ミケランの狙いが自分にあるのか、リリティスの上に
あるのか判らなかった。彼は妹を横抱きに庇い、ミケランの剣を避けて
王座の前に回った。ミケランの剣を受け止めたシュディリスの腕は、
肩の付け根まで冷たく痺れた。瀕死の男の力とも思えなかった。
やめて、とリリティスが叫んだ。
 「ミケラン」
 「カルタラグンは滅びなければならぬ」
あの夜と同じように、ミケランは幻視に向かってそう云い放った。
荒い息をつく竜騎士は、眼だけが生き残っているように見えた。
ユスタスとロゼッタがようやく王座の間に辿りついた。
 「兄さん、姉さん!」
闘いに驚愕したユスタスとロゼッタは、加勢しようと、剣を抜いた。
ミケランは血の飛沫に染まった眼球を動かして、先に葬るのはどちらかと
測るように、ルビリアとの距離を捉えた。それはミケランの末期の力だった。
シュディリスは咄嗟にミケランを追った。剣の打つかり合いに火花が散った。
亡霊が叫んだ。
 「ルビリア、逃げろ!」
滝が流れ落ちるように時は戻り、ルビリア・タンジェリンは、シュディリスと
ミケランの剣戟の間にその身を入れた。両者の間にとび込んできた女騎士は
片足を引き、腰を屈め、眼を伏せた。
火の尾を引くが如き勢いで剣の弧がとんだ。流れる星のようだった。
同時に、ミケランの剣が女騎士を横殴りに裂いた。
宿縁の二騎士を衝き貫いた刃は、心臓を抉り出すが如き凄まじさで
びゅうと向こう側に突き抜け、闘いと、互いの呪われた血脈をぷつりと止めた。
ぎりぎりまで近付いた二人は、まるで抱き合うかのようにして視線を交わし、
よろりと離れていった。
 「ルビリア!」
ユスタスとロゼッタが叫んだ。
シュディリスはルビリアに、リリティスは、膝頭から折れるようにして
どうっと横倒しとなったミケランに駈け寄った。
女騎士は、踏みとどまり、仇敵を振り返ろうとしてのび上がるような
姿勢になったが、支えきれなかった。
冴えた音色を立てて剣が落ちた。つま先から崩れるように女騎士の
身体が傾いた。その両手は何かを掴むように空をおよいだ。
倒れかかったルビリアを、走り寄ったシュディリスが両腕に引き取った。
仰向けになった女は、腕を落とし、顎を上げ、霞んだ眼で頭上の
シュディリスを見上げた。それが誰かをみとめると、ルビリアは初めて
少女のように瞬刻きらりと笑い、
 「夢のよう」
と呟き、息を止めた。
 「ミケラン様、ミケラン様!」
まだ息のあるミケランを揺さぶるリリティスの叫びが王座の間にこだました。
ルビリア・タンジェリンから先に死んだ。
兄に続いてユスタスが走り寄った時には、女は既にこと切れていた。
シュディリスは女騎士を床に横たえ、眸を閉ざしてやった。
ユスタスの方がよほど衝撃を受けていた。
 「彼女、兄さんのことが分かったかな」
涙を浮かべて、ユスタスは声を嗄らした。
 「誰か分かったかな。兄さんのことが」
誰にも分かろうはずもない。
ハイロウリーン領に保護されたその日より、一切を棄てた人だった。
ルビリアの死に顔は疲れて眠る幼子のようで、ユスタスの涙をさらに誘った。
千万の火粉が都の夜空を火の色で覆ったあの日より、あらゆる闘いを
かいくぐってきた女騎士はコスモスの城で死んだ。赤く燃えて、ひかり
砕けたその姿を、シュディリスは淋しく眺めた。
 「兄さん」
シュディリスは首をふった。想う事はあれども、全てがもう遠かった。
ルビリアの両手をこの女が経てきた辛苦を隠すように胸のところで
重ねてやると、シュディリスは短く祈りを唱えた。
 「兄さん」
シュディリスはもう一度かぶりをふった。
 「母と呼ぶよりも、この人は、騎士として送りたい」
 「ミケラン様。しっかり」
王座の間の群青の伽藍に、リリティスの必死の呼びかけが響いた。
まだ息のあるミケランを膝の上に抱きかかえ、リリティスは泣いた。
ミケランは唇を動かした。張りのある強い声はすでに失せ、青褪めた
その顔には、死を待つ人の、薄れた感じがあった。
老いにはまだ遠い壮年の男が、闘うだけ闘って倒れたその様には、
老木になることをあえて拒んだ、常人には理解届かぬ潔さめいた
哀しさがあった。
ミケランはリリティスの嘆きように、苦笑したようだった。
何を云っているのかと、リリティスはミケランの唇に耳を近づけた。
 「君は、本当に泣き虫だ」
リリティスの哀しみは張り裂けんばかりだった。
涙を流すリリティスに、ミケランはこの城で見たことのある画の話を
リリティスに聞かせてやろうとした。
美しい人が一つの耀ける星を頭上に指して、露珠を満たした
昏き天地を渡っている。
それを語る力はなかった。
幻影を追い、ミケランはふたたびリリティスを見上げた。
そこにその御姿を濃厚に見出して、ミケランは、少年が心惹かれるものを
初めて見た時のような静寧と、喜びを静かにその眸に浮かべた。
シュディリスはミケランの傍には行かなかった。
 「兄さん」
躊躇いがちにユスタスがシュディリスの腕を引いて促したが、そうしなかった。
彼が知る限りのミケラン・レイズンならば、滅ぼしたはずのカルタラグン家の
遺児とは、彼自身が健在であった時に、対峙したかったであろうから。
日が翳り、透きとおった色で広間は青く染まってきた。
ミケランは離れた処に立っている銀髪の青年に眼を向けた。
それは彼のかつて知っていた皇子によく似て、やはり皇子ではなかったが、
ミケランにとっては昔も今も、人生の船出における、最初にして最期の
通過点であったことには変わりなかった。
生涯に重ねてきた罪の裁きが、亡霊の子となって顕れたことを、ミケランは
予定調和ででもあるかのように、従容として興味深く見つめた。
 「あの人は、兄さんです。フラワン家の、私たちの兄さんです」
リリティスは泣きながらミケランに云いはった。
 「一緒に育ちました。トレスピアノで生まれました」
泣きじゃくるリリティスの云い分をミケランは黙っていたが、しばらく経って、
ゆるやかに頷いた。
やがて遅れて、蝋燭を手にした人々が王座の間に到着した。


 「何ということだ」
王座の間に踏み入った一同は惨状に絶句した。
列柱が導く正面の王座の左右に分かれて、両騎士が相討ちとなって
倒れている。先頭に立った者が悲痛な声を上げた。
 「フィブラン様、急ぎこちらへ。騎士ルビリアが」
 「死んだか」
フィブランは顔を暗くした。
邪魔者が相殺されて嬉しいでしょう。
とジレオンは厭味をフィブランに云い差して、反対側を見るなり、
 「おじ上」
色をうしない、ミケランに駈け寄った。
ジレオンはリリティスを押し退けて血だまりからミケランを抱き起こした。
 「早く。医者を」
周囲の協力を求めるジレオンは、自分でも意外なことに、声がふるえた。
 「おじ上、ミケラン卿」
うろたえたところをみせるなとフィブランから云われたばかりである。
ジレオンは歯をくいしばった。
この青年にとってミケランとは、不甲斐ない本家の父よりも先達の男として
父的な位置にいた存在であり、超えていかねばならぬ目標であったから、
そのミケランの死に際しては誰よりも平静ではいられなかった。
もとより、この青年は竜の血こそ出なかったものの、聖騎士家レイズンの
本流の血を受け継ぐ正嫡であり、それがために打倒ミケランを誓わずには
いられなかったという、筋の通った経緯がある。
物心ついた頃にはすでに分家のミケランがレイズン家を左右しており、
皇帝の片腕となっていた為に、父母の憂鬱を見て育った嫡子の彼にとって、
それは悲願にも等しいものだった。
ジレオンはミケランを憎みもし、また本家郎党の為にも権力の奪回を
誓いはしたけれど、一方で、そこは同じレイズン家の者である。
若くして自分を試し、英雄の名と保守を捨てて帝国に尽くしてきた
ミケラン・レイズンを誇りに想う気持ちも、他家の歯軋りを横目に、
内心では誰よりも得意であった。
少年の頃よりジレオンは学問所で勉学に精励しながら、ミケランに
乗っ取られた格好となった本家の者たちを、
「いつかわたしがレイズン家を取り戻しますから」
と励ましてきたが、たとえばジレオンの少々派手で贅沢な、しかし趣味の良い
衣装や持ち物も、実家の父ではなく、ミケランを手本としたものであったし、
ちょうど若き日のミケランが本家からの援助を受けて飛び級を叶え、
学問所に入学したように、ジレオンもミケランからの後援を元手に
学問所を卒業し、もとよりその恩義は一方ならぬものがあったのだった。
それだけに、財源の全てを管理され、財政もミケランからの援助を受けていた
気力のない本家の中で、ジレオンはますます本家の矜持を強めていった。
本家の者はよくミケランのことを、本家の屋号と財を横取りした
分家の盗人と呼ばわって憚らなかったが、それは半分は正解で、
半分は当時のお家事情からしても、無理からぬところであった。
ミケランが介入して財政状況の建て直しをはからねば、分家のみならず
本家まで危うかったという説もある。
なるほど、確かにミケランは詐欺にも等しい手段で本家の財産管理権を
事実上取り上げはしたが、それを数十倍に膨らませて本家に還元していたことも、
また事実であった。
それが分からぬジレオンではなかった。
その気ならばかつての本家が分家に対してしたように、本家をかつかつに
干上がらせて従属させることも可能であったところを、ミケランはふしぎなほど
そういったことは好まなかったことについても、本家の誰よりも、本音のところでは
ジレオンはよく理解していた。
 「彼は理想家であったので、理解届かぬ行為に手を染めることもしましたが」
ジレオンは云ったものだった。
 「利に敏い一方で、人間の遺産としての、善や美を尊ぶ人であったと思います」
その、「おじ上」の死に直面したジレオンは、もはや助からぬことが
明らかなミケランを前にして、惜しみもし、動揺もした。
 「……残念です。こうならぬように、おじ上には世論を反映した上で
  穏便に勇退していただけるように、尽くしたつもりでしたが」
ジレオンは膝の上で拳を握り締めた。
 「ヴィスタル=ヒスイ党も、どこかでおじ上に操られているような、そんな気が
  拭えませんでした。何のことはない、わたしがまだ学問所の初等部に
  いた頃に、貴方から聞いた、現状を転覆させるには、過去の栄華を
  人々に偲ばせるのが効果的である、ただしそれは過去を知る者がまだ
  現役であるうちが望ましいと、教えくれたそのままでした」
幼いジレオンは生意気にもこう問い返してみた。『ジュシュベンダや
ハイロウリーンは名君に恵まれています。世を騒がすような、軽率な真似は
決してしません』。
 「……すると貴方は、大国を導く指導者たちの気質をよくご存知の上で、
  自らを揶揄するように、笑って云ったのです。
  『気概ある男ならば、老いが見えてくるほどに、もう一度隆盛を極めたいと
  望むもの。大義名分と正攻法が揃った時に、山は動き出す』と」
重傷者を王座の間から運び出すことは、ひと眼みて、すぐに断念された。
ミケラン・レイズンは申し訳程度に手当てをされて、静かに死を待った。
 「……名だたる諸兄に送られるとは、思いも寄らぬ光栄至極」
円を描くように等間隔でミケランを囲み、最上の礼をもってミケランを
送ろうとする騎士らに、ミケランは笑顔まで見せた。
ハイロウリーンのフィブラン、ジュシュベンダのパトロベリまでが揃って
いることに、ミケランは顔をほころばせた。
シュディリスたちは柱の蔭に退いて、無言だった。
すすり泣くリリティスを、シュディリスとユスタスは両脇から支え、その顔を
ミケランに向けていた。それは王の最期に思えた。
 「ミケラン卿」
敬称つきで、フィブランはミケランにそっと囁いた。
 「皇太子殿下はまいられぬ。心やすらかに逝けとの仰せであった」
ミケランは穏やかにそれを受け入れ、皇太子への伝言をたくした。
 「望外の倖せ。高位騎士として死ねるとは」
フィブランは最敬礼をもって、輪の中に戻った。
蝋燭の灯がミケランを囲み、その灯は薄暮に包まれたミケランの
瞼の裏に宇宙を拡げ、星座となって瞬いた。
ミケランは、ジレオンが語るとおり、親族の一人に自らの終焉の
一端を託したが、それを引き起こすにはあと一つ、まだあと一つ、足りなかった。
主要騎士国の談合政治へと速やかに誘引するには、ミケランは何としても
引退ではなく、外からの力で斃されねばならなかった。
楔となっているものは、ミケランが皇帝の側近であることの他、本家が
他国と呼応して彼を滅ぼした後の騎士国の平和と、皇帝ジュピタ家の
絶対安全の保障だった。
彼は子供の頃に追いかけていた神秘の中にそれを探した。
精神の根幹にある小函の中に、仕舞いこんでいた古き夢を探した。
夢みる人ならではの飛躍的な着想により、ミケランが必要とした、
その最後の運命の糸が、星々の波と過ぎ行く黄金の夢をわけて
彼の前に進み出てきた。


 「……これは」
ミケランの黒い眸に、明るい光が戻ってきた。
 「ユスキュダルの巫女の世代交代を、この眼で見ることが叶うとは」
 「ミケラン」
騎士たちの輪の間をぬって訪れたあたらしきひとは、死んだ女騎士に先に
そうしたのと同じように、横たわるミケラン・レイズンの額に、祝福の指先を
優しくあてた。
 「謎は解けましたか、ミケラン」
藍色の伽藍の中に瞬く星灯りの中から、ルルドピアスは話しかけた。
 「生涯に渡り、貴方が探してきたものは、少しでも得ることが叶いましたか」
ルルドピアスの器に宿りたるものは、やわらかにミケランにおおいかかった。
少しならば、とミケランは眼をほそめた。
 「貴女をこうして現にすることで、語り継がれてきた世界の神秘が
  真のものであったのだと知ることにより。ユスキュダルの巫女」
男の死を見つめる新生の巫女は、威厳に包まれていた。
今ひらいたばかりのようなその美しき眸に、ミケランは感謝の眼を向けた。
 「貴女は、わたしの頭を常に下げさせてくれた、唯一なる、
  未知のままなる遠きもの」
ミケランは満ち足りた安らかな顔で、去り行く巫女を見送った。
巫女と入れ違いに現れたのは、ロゼッタに支えられた、エステラだった。
もう助からぬ男を前に、エステラは青褪めてはいたが、気丈にも
取り乱すことなく、ゆっくりと騎士の輪に近付いてきた。
 「彼女を通してやって下さい」
ジレオンが男たちを追い払った。男たちは輪をほぐし、そうした。
ロゼッタの手を借りて、ミケランの顔の横にエステラは静かに膝をついた。
ミケランはエステラの姿をみとめると、灯に透けたエステラの
髪が乱れていることに常のごとくの揶揄の笑みを向け、エステラに
触れようと手を動かした。
エステラはその手をこまかくふるえる両手で引き取り、ミケランを見つめ、
何かを囁こうとするミケランの唇に唇を寄せた。
ミケラン・レイズンの末期の言葉は、このエステラが聴いた。
騎士たちは遠慮して、作法どおり、離れた処からそれを見守った。
ジレオン・ヴィル・レイズンもそうした。
男の息が、かそけきものとなり、そしてやがて石床に静かな時が流れた。
エステラは立ち上がった。
ほつれた髪が一筋、光に透けた雨のように、女の頬にはり付いていた。
掠れた声で、女は、一同にかすかに頷いた。
 「旅立たれました」
やがて、鐘の音がした。
それが晩鐘ではないことを、国中の者が知っていた。
皇太子ソラムダリヤは椅子の腕木を握りしめてうなだれた。
こうなることを覚悟していた沈痛な顔で、ソラムダリヤは鐘の音の
意味するところをきいた。
 「クローバ様」
別室にて、ビナスティは遮光布を繰り上げた。
西の砦を包囲していたハイロウリーン軍、及び、城外に待機していた
諸国軍が、弔意をこめて戦旗と武器を下げるところだった。
皇太子の心尽くしにより、ハイロウリーンの医療班に囲まれた
クローバ・コスモスは、担ぎ込まれた一室で怪我の手当てを受けていた。
刻々と入ってくる報告により、ここまで起こったことは知れていた。
クローバは端然として夕雲の流れを追った。
菫色の夕空には、金銀の色を帯びた雲が高いところに綾となって
流れていた。
逸気をもって、限りも知らぬこの世を渡りきった人々が、光を満たした
久遠の空に駈け去るのを、全軍の騎士は彼方に探した。
 「流れ星が……」
報せは、重傷を負ったコスモス領主タイランの許にも届いた。
タイラン・レイズンは、両眼を固く閉じた。
後に、人々が王座の間に居合わせた騎士たちに逆賊ミケランの
終焉の模様を訊ねても、誰も、何も応えなかった。
仇敵の立場にあったカルタラグンの者ですら、
 「立派なご最期だった」
としか云わなかった。
翌朝、彼らの手で、ミケランの柩はコスモス城からはこび出された。
逆賊であるために、まるで市井の人のそれのような粗末な
黒塗りの柩であったが、城外まで担ぎ上げてはこぶ騎士たちの
顔ぶれは後々までも語り草となる、錚々たるものだった。
先導はフィブラン・ベンダ・ハイロウリーン、柩の左右には、
討伐の指揮を執ったハイロウリーン軍から位騎士が三名ずつ、
そしてしんがりに、晴れて高位騎士となったジュシュベンダの
パトロベリ王子。
コスモス城の外で柩はレイズン軍に引き渡され、ミケランの遺体は
野辺の道を辿ってレイズン領へと戻っていった。
それまで人々がミケランの最期に予想してきたような、帝国あげての
国葬とはかけ離れた、道を埋め尽くす弔旗も花もない、不名誉な
罪人としての帰国だった。
亡骸は、分家の森はずれに埋められた。
ジレオン・ヴィル・レイズンはこの葬列には加わらなかったが、その後
皇帝から分家墓地に埋葬をゆるされると、ナナセラから工人を招いて、
故人に相応しい瀟洒な墓標を森に近い敷地に立てた。
改新を成し遂げ、皇帝の片腕として躍進し、レイズン家のみならず
帝国の事実上の支配者として名を轟かせていたミケラン・レイズンの墓は、
大伽藍つきの霊廟ではなく、木陰にひっそりと立つ無銘の墓標に終わった。
それはミケランが、生前、どれほど忙しくとも花を絶やさなかった彼の妻
アリアケ・スワンの霊廟に比べ、何十分の一かの小さな墓だった。
こうして、若き日々手を携えて改新に乗り出した夫婦は、同じ墓に
葬られることはなかった。
 「もしかしたらミケランはこの結末を承知で、アリアケ・スワンを
  分家の墓地には葬らなかったのだろうか」
ソラムダリヤは都に招いたリリティスを相手に、肩を落としてそう云った。
市井の人々は、ミケランの逝去を厳粛に受け止めて、彼を批難する声は
まったくといっていいほど上がらなかった。
誰もが、ミケランの功績を言葉少なく称え、短い弔辞を述べるにとどめた。
何よりも、新しい巫女がミケランの亡骸に祝福を与えた事実が、人々の中に
ミケランへの新たな敬意を生んでいた。
前代の巫女は、ミケランの魂を迎えるために、はるばるユスキュダルより
降りてこられたのだと語る者もいた。この世において、迷っているといえば
誰よりもうつつに迷っていたかもしれぬ人であったから。
リリティスは、郷里トレスピアノの森の何処かにある、少年の墓のことを想った。
フラワン家に生まれた少年が、病の床からそこに葬って欲しいと願った
森の中の墓は、苔に埋もれ、雪に埋もれ、涼しい翠の光の中に
既に跡形もない。ちょうどミケランが、壮大な夢の果てを、白い雲の流れる
無人の虚空にさすらわせては、想い重ねていたように、時の舟に何もかもが
はこばれて、跡形もない。


巫女であった女人は、落日の底に永眠していた。
誰が供えたのか、コスモスの庭から摘まれた花が胸の上にあるのが
今朝と違っていた。
それはもうユスキュダルの巫女ではなく、役割を終えた
ひとりの女人の形骸でしかなく、むしろ、花の魂か何かのようだった。
聖女カリア・リラ・エスピトラルは、使命を果たし終えた安らぎの中にいた。
ミケラン卿の懇願に応えてユスキュダルよりはるばる帝国の野にくだり、
そしてミケランが自死にも等しい方法により、帝国にふたたびの安定を
取り戻したことを見届け終わると、カリアもまた息をひきとった。
ミケランと、ミケランが道連れとしたタンジェリンの残滓の御霊を抱いて、
前代の巫女であったひとは、久遠の彼方へと静かに還っていった。
とび去ってしまったカリアの霊を探すように、シュディリスは
慕い続けていたその顔を見つめた。
ミケラン・レイズンとはまた少し違う想いで、幼少の頃から特別であった
ひとだった。出生にまつわる秘密の重みを、気がつけば、胸のうちに
宿ったこのひとに、誰よりも親しく語りかけていた。
それぞれの祖国、カルタラグンとエスピトラルが、廿年前同時に
滅ぼされた国であり、それぞれに故国を離れたという背景が、ことの他、
少年の頃のシュディリスをして、カリアを近しいものにも、貴いものにも
想わせたものだった。
ミケランも、シュディリスも、秘境に咲く一輪の花を追い求めた。
肉親の愛を求める淋しさにも似た、果て無き探究と、慕わしさのために。
シュディリスはカリアの手を両手でかき抱くようにすると、顔を俯け、
そこに接吻をした。
 「兄さん……」
シュディリスは蹲ったまま、床に涙を落として、身動きもしなかった。
思いがけぬ兄のこの落涙に、ユスタスとリリティスはそれ以上
声もかけられず、シュディリスをそこに残して室の壁際へ退いた。
そこはちょうど、ユスキュダルの巫女の画が架けられていた壁だった。
トレスピアノとジュシュベンダの国境に狼煙が上がったあの日より、
三人三様に続いた旅は此処に終わった。後に人は云う。
星の騎士は、巫女の御声が直にきこえる、あやかしの方々。
ご覧、だからあの日も、フラワン家の騎士たちは、巫女の臨終に
引き寄せられるようにして、コスモスの城に集まってきたのだよ。
さあ、何故かは分からない。きっとフラワン家の子供たちは、他国の
騎士のように、その上にひとの王を持っていなかったからかもしれないね。
戦矢が風を奏でる戦場を駈け抜けた星の騎士たちが、遠い昔から、
そうであったように。


地上を飛び去った者は、もう一人いた。
王座の間の片隅で、女は、忘れられた鳥のように息絶えていた。
 「ルビリア様」
 「ルビリア姫。……ルビイ様」
在りし日の王朝で仕えた姫君を取り囲み、カルタラグンの騎士たちは
声を殺して静かに泣いた。翡翠皇子の后候補として皇子宮にいた
小さな姫のことを、誰もが幸福の記憶のうちに、よく憶えていた。
この方がミケランを討ち果たしてくれたのだという感動は、これで
何もかもが終わったのだという哀しみと虚脱にも覆われて、
皇子の後を追った姫の死に、彼らはうなだれてしめやかに泣いた。
 「ルビリア姫」
 「ハイロウリーンのイカロス王子からも、貴女さまのことを
  重々頼まれていたものを、間に合わず」
騎士らは唇を咬み、マリリフトらに並んでカルタラグンの
祈りの聖句を唱えた。
サンドライト・ナナセラは、聖句にこめられたカルタラグン語の響きに
少年時代を過ごしたカルタラグン王朝の典雅な往時がいちどきに
甦ってくるような気がして、胸の奥底から涙がこみ上がってきた。
オニキス皇子にいたっては、「死んだのか」、信じられぬといった
顔をしてルビリアの手をさすり、頬をさすり、「これ、ルビリア」と
名を続けざまに呼ばわり、助けを求めるようにそこらの人間を
見廻すと、冷たくなったルビリアの手を取り落とし、
獣のような唸り声を立てて、床に突っ伏したほどであった。

やがて、弔いの静寂が訪れた。
蝋燭の灯りに囲まれたしずかなる二体は、離れた場所にそれぞれ
安置され、清められるのを待っていた。
しのび入り、女騎士の遺体に近付く若い男の影に、人々は顔を向けた。
現れた従騎士は、女の剣から血糊を拭いとると、自身の剣帯に
それをおさめた。
 「何処へ行かれるおつもりか」
まだ汚れたままの女の亡骸を両腕に抱き上げた若騎士に、集った
人々が声を掛けた。
黒く濡れた石の天井に反響するそれらに、エクテマスは応えなかった。
歩み寄ろうとしたパトロベリにも、エクテマスは無言の拒絶をくれた。
パトロベリやユスタスやリリティスは、目立たぬようにシュディリスを見遣った。
シュディリスは、もう二度と見ることもない、女騎士の死に顔を見ていた。
息絶えた女は、若騎士の両腕の中でだらりと両腕両脚をたらし、
その細い首を傾けて、蛍火の中で遊ぶように、瞼を永遠に閉じていた。
青い星のように耀かせていた、眼を閉じていた。
返事の代わりに、シュディリスは、ユスタスとリリティスに首を振ってみせた。
あれは母であって、そして母とは呼べぬ人。
外はすでに暮れて、北の星が出ていた。
 「触れるな。これは、わたしの主君だ」
エクテマスは一同に背を向けたまま云った。
 「連れて帰る」
何人たりともルビリアには触れさせぬという硬い態度で、エクテマスは
室から出て行った。
オニキスですら、この主従の間には入り込めなかった。
ルビリアの胎内にカルタラグンの子が宿っていたことをオニキスは
生涯知らず、またエクテマスも教えなかった。ルビリアが宿した子は
もし生まれていれば、新生カルタラグンの世継となるべき御子だった。
懐妊したことをルビリア本人は知っていただろうか。
もしも知っていたのだとしても、この女騎士はタンジェリンの最後の血を
ミケランを討つことに傾けたと思われる。
エクテマスはコスモスの城を去った。
聖騎士家タンジェリンの最後の血はこれにて散った。
半ば生きた伝説に彩られた女騎士が見事宿願を遂げたという一報に
心うたれぬ騎士はなく、柩を見送る列は、コスモスの果てまで
途切れることはなかった。
ガーネット・ルビリア・タンジェリンは、ハイロウリーンの騎士がねむる
英雄の墓地には葬られなかった。軍規違反による逸脱者として処理され、
軍籍は抹消、高位騎士の称号も剥奪、死後の昇級も、栄誉称号も
贈られることはなかった。
遺体はくろがね城のある、ハイロウリーンの都に入ることすら
ゆるされなかった。ルビリアの遺体を郊外で出迎えた者についても、
軍関係者数名と、ごく僅かに限られて、ハイロウリーン軍あげての
弔問や軍葬は禁止される。
国の留守を預かる長兄ケアロスの特別のはからいにより赦しを得て
駆けつけたイカロス王子は、粗末な柩の中のルビリアを前に涙した。
タンジェリン家の血統は、ここで途絶える。
亡骸はその後、行方不明となった。
共同墓地に放り込まれるところを、ハイロウリーン家の王子たちが
ひそかに手をまわして、しかるべき処に葬ったのだと人々は囁きあった。
 「恋仲であったイカロス王子が、姫との想い出の地にひそかに葬ったそうだ」
 「いや、ルビリア姫は従者だったエクテマス王子の所領にはこばれて、
  目立たぬ谷間に密葬されたそうだ」
故国を失い、数奇の運命を辿った女の消息は、北の騎士国で終に消える。
また、最後まで付き従った従騎士エクテマス・ベンダについても
謹慎処分中に自ら除隊を求め、それ以後、都では姿が見えなくなった。
仲の良いインカタビア王子やワリシダラム王子が時折所領地に手紙を
書き送っていることから、自領に隠遁したものと思われる。
希代の天才剣士は、主君亡き後も従騎士の身分を外さず、それきり
海の音にも、風の噂にもきこえなくなった。


「終章へ]


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