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[ビスカリアの星]■終章.


海は、白銀の野のように波をゆるやかにうたせて、水平線も明るかった。
窓辺で海賊の子守唄を口づさんでいたサンシリアは、眼下の庭に落ちる
陽の光のうつろいに、沖のさざなみのひらめきを想い重ね、ふたたび
遠くの海へとその灰色の眸を向けた。
荷が運び出された後の室は、掃除も終わり、光塵が敷布のはがされた
床の上をゆるやかに舞っていた。
風を通すために開け放された扉が叩かれた。サンシリアは振り返った。
父である小トスカイオの弟であり、オーガススィ家の王子である
イクファイファが立っていた。
 「イクファイファお兄さま。ようこそ」
 「サンシリア。いいかな」
 「ええ。すっかり荷造りはすみました。お部屋に何もないでしょ」
 「そうだね。今のうちに、お前に挨拶をと思ってね」
笑みを浮かべて、イクファイファは片付いた室を見廻した。
 「街中も花綱がたくさんだ。レーレローザとブルーティアの時は、
  ちゃんと送ってやれなかったから」
イクファイファはサンシリアの傍らにやって来ると、隣に並んで
窓辺に手をついた。
 「海が青いね」
 「はい」
 「明日もいい天気だそうだよ。花嫁の門出にはちょうどいい」
雲の流れを追うように、サンシリアが窓から身を乗り出した。
二年の時の流れを経て、娘らしくなったとはいえ、まだ子供子供した
仕草だった。サンシリアのまるい頬に、淡い金色の髪が一筋二筋、
風に吹かれてかかっているのを、イクファイファは頼りないものを
見るようにして見つめた。
サンシリアはそれに気がついたものか、晴れやかな笑顔を
イクファイファに向けた。
 「クローバ様のお人柄については、小トスカイオお父さまも
  次官のサイビスも、面識のある方々は口を揃えて
  太鼓判をおしておられますわ。イク兄さまも」
 「そうだね。実直で誠実で、人望篤き御方だよ。
  口数の少ない方なので、あまり懇意に話をしたことこそないけれど」
 「お祖父さまも、クローバ殿は元はといえば同胞なのだから、
  まずいことにはなるまいとおっしゃっています。婚姻の承諾後、
  一切をクローバ殿のお導きにお任せしていればいいと、涙ながらに
  そう励まして下さいました」
 「可愛い孫娘を奪われる心痛のあまり、最後のほうは泣き咽んで
  おられたものなあ。確かにクローバ殿は、我々とは近しい血縁だ。
  だからといって、夫婦の相性は別ものだと思うけどね」
イクファイファは海に眼をやった。
 「父上はよく承知されたと思うよ。お前を、あんな年の離れた、しかも
  最愛の奥方と死別した過去のある男にね」
そのあたりは、サンシリア附きの女官も散々に文句を
つけていたところだった。
サンシリアは、からかうように小首を傾けた。
 「皇帝陛下から特使までいただいた上での、この縁談。
  クローバ様に私が嫁ぐこと、イク兄さまは、まだ反対なの」
 「新興国の初代領主にオーガススィの姫を嫁がせることで、箔をつけようと
  いうのだよ。完全なる政略結婚だ。クローバ様ご自身は、雇われ領主と
  自称して、領地の開拓に専念しておられるがね」
 「皇帝家の贔屓にあずかりながらも、生来どおりの謙虚で朴訥なお人柄。
  都においても好評判だとか。クローバ様のこと、私、好ましく思います。
  クローバ・コスモス改め、クローバ・クロス・バルカンダル卿。
  帝国公認で新しく興された騎士家、バルカンダルの初代統領」
 「そしてお前はその初代領主夫人。
  サンシリア・オーガススィ・バルカンダル。
  一応は、実家の名を立ててもらえたようだね」
 「オーガススィ王家に生まれた以上、どこに嫁ぐかは
  家が決めるものでしたが、騎士でもない三女の私にとっては、
  身に余る光栄だと思っています」
海鳥の影が、オーガススィ城の緑の庭を掠めて落ちた。
オーガススィ家からコスモス家に養子に出され、タンジェリン殲滅戦後は
ジュシュベンダに亡命、ながく無位無官の素浪人であった放浪の騎士
クローバ・コスモスは、紆余曲折の末、いったんオーガススィ家に復縁して
身分を回復し、その後に新しく興された騎士国の領主におさまることで、
国なし騎士としての放浪生活をついに終えた。それにはゾウゲネス皇帝と
ソラムダリヤ皇太子、両陛下たっての推進があった。
バルカンダルの領土には、旧カルタラグン領の一部が割かれた。
新領とは聞こえはいいが、荒廃著しい、二三の砦の他は何もない荒地である。
その土地に特赦で解放されたカルタラグンの残党や、ユスキュダルに
戻らなかったはぐれ騎士らを移民として率いたクローバは、目下、
一から国を建国中で、職工人や農夫に混じって自ら汗を流し、現場で
立ち働いている。
 「でも不思議ね」
ハイロウリーンのくろがね城で、レーレローザはブルーティア相手に
云ったものだった。
 「クローバ・クロス・バルカンダル。
  あの方に限っては、運命に翻弄されたという感じがまるでないわ。
  幼少の頃に養子に出されたことも、愛妻を亡くされるという悲劇も、
  国を失い、民を失い、未来なきものとして軽んじられたこともあったというのに。
  派手なところもなければ、策を弄することも、自分をよく見せたり
  保身に走るということもまるでない地味な方なのに、運命の変転に
  負けることなく、クローバ様は逆境をしっかりと乗り越えていかれたのね。
  いらくさ隊を辞めてまでして素寒貧だった彼に尽くした
  騎士ビナスティも偉いけれど、クローバ様を右腕にと望まれて、
  彼を引き立てた皇太子さまもお眼が高いこと。
  旧カルタラグンの跡地に興されたバルカンダルのお国には、
  特赦されたはぐれ騎士のみならず、クローバ様を慕って、多くの
  コスモスの民が出稼ぎ中だというわ。コスモス領主のイルタル様も
  それを承認しておられるとか。国境を接した国々からもどんどん物資が
  流れ込んでいるし、灌漑や建築工事の音が一日中絶えることがないそうよ。
  負債は抱えても、帝国中で一番活気がある国じゃないかしら」

 「……オーガススィも援助するけどね。前途多難だよ。
  自活を目指して、質素倹約を強いられるはずだ」
 「はい。分かってます」
サンシリアの顔は明るかった。
しかしイクファイファとしては、独立独歩だったレーレローザと
ブルーティアはともかくも、三の姫のサンシリアは惜しまれた。
 「父上の真似をするようだけれど、淋しくなる。淋しいよ。
  一人くらい、残って欲しかった。これが正直な気持ちだよ、サンシリア」
 「ありがとう。イク兄さま」
イクファイファの横顔を、サンシリアは初めて見る親しい顔の
ようにして、そっと仰いだ。
やがて、サンシリアは控えめに口にした。
 「本当はね、イクファイファお兄さま」
 「うん」
 「私、ほっとしています。オーガススィの城を出て行けること」
声音の底には積年の何かが篭っていた。
多産の北方といわれ、少子化の他国と比べ子宝に恵まれた
オーガススィ家の、その三女であっても、王家に生まれたことによる
面倒なことどもは、重石となってサンシリア姫を蝕んでいるようだった。
 「外に出て行ける、そちらの喜びの方が強くて、相手が
  クローバ様であれ誰であれ、行く先に待っていることは
  まだ真面目に考えられないの。思い煩っても仕方がないし」
サンシリアは窓枠に頬杖をついた。
 「縁談がもたらされた時、これで家から解放されるのだとそう思ったわ。
  お父さまとお母さまの関心は、強騎士として生まれた自慢の
  お姉さま方の上にしかなくて、その次には、待望の男子として遅くに
  生まれた小さな弟の上にしかなくて、私は、要らない子でしたから」
 「サンシー、そんなことは」
 「その代わりお祖父さまが誰よりも私を可愛がってくれました。
  騎士の血が濃厚に出たオーガススィ家ご自慢の二人の孫娘は早々に
  自立してしまい、小トスカイオお父さまとスイレンお母さまの関心はそちらに。
  夢のようにきれいでお優しかったルルドピアスお姉さまは、城の中の
  女衆の醜い競り合いから身を引くようにして、遠い離宮に。
  お祖父さまにとっては、私だけが、いつまでも膝にすがってくるあどけない、
  いたらない、かわいい孫娘だったでしょうから。
  私は、まるでこの城にすみついた子猫か何かのように誰からも可愛がられ、
  そして誰からも忘れられていました。
  サンシリア姫。いてもいなくてもよい姫と」
さめた口調で語り出される他人事のような自画像は、それだけ、
サンシリアの長年の隠れた悩みと孤独を示しているようだった。
云うだけ云うと、サンシリアは、ちらりと片えくぼを見せて笑ってみせた。
 「だから、スイレンお母さまの引き起こすあれこれの煩わしい騒動にも、
  いっさい利用されず、巻き込まれずに済んだわ。平凡な娘、
  これといって取柄も魅力も特徴もない、私は無だったから」
 (うまくいくかもしれない)
サンシリアの独白に、内心でイクファイファは、幼いとばかり
思っていたサンシリアへの見解を改めた。
 (未開の天地にも等しい地に年若い領主夫人として
  据え置かれても、この娘なら、思慮深くやっていけるかも知れない。
  思春期特有の悩みとはいえ、自分をよく客観視し、一歩引いた視点から、
  いろんなことがよく見えている)
 「レーレとブルティお姉さまのように、胸をはって、我が道を
  行くということもなくね」
イクファイファの内心を読み取ったかのように、サンシリアは
そう呟いて、俯いた。

イクファイファとサンシリアは若い恋人同士のように腕をくんで、
日光を浴びに、連れ立って外に出た。
大昔、そこが海への玄関であったという、古代の石柱が左右に建つ
ゆるい坂道へとやって来ると、そこで散策の休憩をとった。
クローバとサンシリアの挙式は、リリティス・フラワンの皇帝家への
輿入れと期日を合わせ、とり行われる予定であった。
それをもって、眉の濃いサイビス次官いわく、「どさくさにまぎれて」、
バルカンダル家の成立を天下に認めさせるということらしかった。
 「オーガススィ家が新興国の後ろに全面的につくことで、
  ミケラン討伐の際、ハイロウリーン家より遅れをとった当家に
  華を持たせてくれたというところかな。それにしてもカルタラグンの
  生き残りの人々と一緒に、ブラカン・オニキス殿もクローバ殿の
  預かりとなるとはね。カルタラグン家の復興は難しいとは思うけれど、
  故国の地に旧知の人々と力を合わせてすまわれたほうが、
  心も安らがれるだろう」
 「リリティス様にも、そのうちお逢いできましょうね。リリティス様は
  御母上リィスリ様や、ルルドピアス姫姉さまに似ておられるとか。
  それだけで今からもう、お懐かしい心地です」
偶然にもそこは、イクファイファが、今はもういない妹の
ルルドピアスから、それとなく別離を告げられた場所でもあった。
二度とは帰ってこぬ妹姫の名を、久方ぶりにイクファイファは
胸の裡で波の音にのせた。
あの日、コスモス城から出てきたルルドピアスは、新巫女として
錚々たる騎士にかしずかれ、はるかなる聖地ユスキュダルへと
還っていった。
心まで染まるような清輝に包まれたルルドピアスは、見送る列の中に
兄イクファイファの姿を見分けると、付き人に紗を持たせて四方を
開いた御輿の上から静かに微笑み、現世における別れを教え、
凛然と通り過ぎていった。
 「もし妹が厭だと云えば、何としても攫って逃げるつもりで沿道で
  待っていたのですが、妹は、もう妹ではなかったのです。
  妹には、----ユスキュダルの巫女には、もう逢えぬでしょう」
イクファイファは訊ねる人に淋しい笑みと、愁いを帯びた声でそう応えた。
海風が吹いた。
頬にかかった髪を後ろに撫で付け、サンシリア姫は、こちらも、
かつてこの道を過ぎて海に去っていった銀髪の若者のことを
想い出していた。物思わしげに柱の蔭に身をかがめ、サンシリアは
風に揺れる野花を手で摘んだ。
昨日から想い出深い場所を巡りお別れを告げていたの、と
花摘みをしながら姫は云った。
 「王家専用の浜辺に向かう途中、私はレーレローザとブルーティア
  お姉さまのことを想い出していました。騎士団に入られて、揃いの隊服に
  身を包み、紅葉と秋風の中、男騎士たちに混じって手袋片手に
  颯爽と歩いているお姿は、傍目にも格好よく、様子のよいものでした。
  ----イク兄さま」
サンシリアが身を起こした。
頭上を掠めた影に、「雨?」と顔を上げたイクファイファが反射的に
身構えた時には、サンシリアはイクファイファの腰から剣を抜き取っていた。
 「……え?」
イクファイファの眼前を翼のように銀光が掠め過ぎた。
瞬時のうちに一筋二筋の弧を剣が描ききったとみるや、
風にひるがえったものは、斬りおとされた花々だった。
 「……サンシリア」
愕然と凍りつき、イクファイファは幽霊でも見た顔つきとなって
投げ上げた花を斬り落としたサンシリアを振り返った。
 「サンシリア」
 「イク兄さま」
あり得ぬものを見た愕きに、イクファイファの声はふるえた。
 「いつから。いつからだ、サンシリア」
舞う花を剣圧で捉えて一つ残らず斬るなどと、高位騎士でも難しい。
かくなる離れ業をやってのけたサンシリアは、剣を地に立てて、
イクファイファの顔を正面から見つめていた。
 「時々剣術の稽古場を見物していると思っていたら、お前、いつの間に。
  サンシリア、お前、今のことをいつの間に」
 「騎士の血は、滅ぶでしょう」
涼しい海風が、サンシリアの声色まで青く染めた。
おっとりとしているとばかり思っていた三の姫は、その両眼に
騎士の女の厳しさを潜めて、風に散り去る花々を見送った。


騎士の血は滅ぶ。
それはここ数十年の間に、急速に具現化してきた現象であった。
現に、オーガススィ家のイクファイファはじめ、レイズン家の新統領である
ジレオン・ヴィル・レイズンら若い世代には、高確率で騎士の血が出ず、
聖騎士家に生まれる新生児の数も、何が問題なのか不明のままに、
年々減少傾向にある。
騎士の血にも当たり年とそうでない年がある、偶然だという者もいれば、
次世代はさらに数が減少するだろうと予言する者もおり、
母体が騎士であると、生まれる子は騎士ではなくなるという迷信も生まれ、
系図を辿ってそれを確認したと学会で発表する学者もあった。
騎士の血は滅ぶ。
あまたの騎士家を支えてきた竜神の血は、ようやくここにきて
その呪いを解こうとしているのかもしれなかった。
 「ゆっくりと確実に、私たちは滅ぶでしょう。
  このことは、誰にも打ち明けぬつもり。
  嫁ぎ先でも、クローバ様にも教えません。生涯人に
  見せるつもりはないし、クローバ・クロス・バルカンダル卿との間に
  さずかる御子が強騎士だったとしても、人々はオーガススィ家の
  血統のみを重視して、怪しむことはないでしょう」
 「じゃあ、スイレン様もまるで知らないのか……?」
恐る恐るのイクファイファの問いに、サンシリアは頷いた。
もしかしたら、直系のうちの誰よりも強い血を持っているかも
しれぬ姫君は、憂いた顔で、借りた剣をそっとイクファイファの
鞘のうちに返した。冷たい音を立てて、鋭き剣は鞘の暗がりに
滑り落ちていった。
 「レーレローザやブルーティアのお姉さまのように、
  私は騎士になりたいとは思いません。
  私の身に遅く出た、この竜の血の発露を今さら知ったところで、
  愛情と自己投影の全てをお姉さまがたに注ぎ尽くした
  スイレンお母さまは、きっと笑ってこう云うだけでしょう。
  『あらそうなの、サンシリア』
  さも面倒なことが起きたという顔をして、こうも仰るわ。
  『騎士の娘は三人もいらなかったのに』」
 「サンシリア……」
イクファイファは言葉をなくした。
スイレン夫人ならば、ありうる話だった。
「無神経ほど性質が悪いものはない」を地でいくスイレンは現に、
ハイロウリーンに嫁いだ上の二人の時には、あれほどに力を入れて
都から最新流行のドレスや装飾具を取り揃え、まるで自分が嫁ぐかのごとく
ルルドピアス姫よりもわたくしの娘たちを引き立てるのだと大騒ぎを
繰り広げていたものであったのに、三女サンシリアの番になると
張り合っていたルルドピアスがいなくなったからなのか、どうなのか、
憑きものが落ちたかのようにすっかり興味を無くしてしまい、
今回の嫁入り支度も、準備のそのほとんどを、サンシリア附きの
女官任せにしてしまったほどなのだ。
ついでにスイレン夫人は、笑いながら、こうも云った。
 『伝統も何もない新興のお国に嫁ぐなんて、わたくしならば、絶対に嫌だわ。
  それにしても、女の運命とは分からないものね。
  ルルドピアス姫も、あれほどにわたくしが方々のかたに説明し、相談し、
  指導と矯正を頼んであげていたのに、やはりわたくしが皆さまに
  最初に云っていたとおりに、心が頑なな、何かある病もちの姫で、
  誰にも本音を見せぬまま、指導に従わず、愚かにも不幸になったようです。
  これはここだけの話ですわよ。----あの姫は、自分のことを
  愛していなかったのです。行動を怠り、現実から逃げていたのですわ!
  だからこそ、自殺でもするのではないかしらと、姫の周囲にも頼んで、
  姫の監視を続け、情報を集め、気を揉んであげていたのにね。
  それに比べて聖騎士オーガススィ家に嫁ぐことができたわたくしはまあ、
  何て倖せ者なのかしら。等身大で前を向いて生きているわたくしは賢いわ。
  サンシリアも、頑張ってね』

 「……何というか、スイレン様は、ご自分を高く売りたくて、
  才ある幸福な人間に見せかけたくて、必死なんだろう。
  虚栄の変形であることは、城の者も気がついていると思うよ」
 「人の何倍も自己顕示欲があるのに、才能がない。努力もしない。
  そういう人間ほど、他人を使って自分に注目させようとするわ」
サンシリアは覚めた眼をして古柱に凭れた。
 「自慢話がしたいのに、肝心の中身が大したことがない。
  そんなスイレンお母さまが主役になる為に選んだ方法とは、
  自身を磨くのではなく、他人の努力に便乗し、乗っ取ることだったのよ」
柱の蔭から、青く波打つ海をルルドピアスは見つめた。
己の引き立て役として「何か」を持っている人間に執拗に付きまとう
スイレン夫人は、何の個性も才もない、三番目の娘サンシリアについては、
見事なほどに、これまで視野の外であったのだ。
 「ルルドお姉さまは、この城の中では、スイレンお母さまの思惑どおり、
  『怒っている姫』と呼ばれてしました。
  それが本性なのだ、実は優しくも何ともない、鬱憤をためこんだ
  異常な姫なのだと。お母さまが、世間に云い触らしたとおりにね。
  お母さまの誘導によってルルドお姉さまが集団制裁を受けているのを
  見るのは、辛かったわ。ルルドお姉さまの心と顔面に傷をつけ、将来を閉ざし、
  そうすることで歪んだ優越感を満たす、中身のない方。
  それはご自分の自慢話と抱き合わせになって人々にひけらかされるの。
  他人の家をじろじろ監視し、些細な欠点を見つけては、ことさらに
  問題視して、『どう思うか』と大喜びで吹聴して回る。
  ルルドお姉さまの交友関係に首を突っ込んで、その全員を自分のサロンに
  集合させては、ルルドピアスお姉さまの逐一に偉そうな批難と批評を加え、
  それで途方もなく偉い人物になった気におなりだったわ。
  『あの姫は、頭の中に勝手に敵を作っているようです』
  お母さまは、あらかじめこう根回ししておくことも、忘れなかったのよ。
  そう刷り込んでおきさえすれば、ルルドお姉さまの評判は地に墜ち、
  被害妄想だということになるのだもの。お母さまの、狙いどおりにね」
ルルドピアスのことを心配しているわたくし、ルルドピアスの
恩人であるわたくし、というのはスイレン夫人が好んで用いて
売り出していた、対外的な仮面だった。
もしかしたら自己陶酔のうちに、スイレンは半ばそれを
本気で信じていたかもしれない。
 「さもルルドお姉さまを心配している風を装いながら、ルルドお姉さまが
  悪くみえるかたちで世間に突き飛ばすという手口を使ったお母さま。
  権威にすがり、ルルドお姉さまの中傷を上手に吹き込むの。
  ルルドピアス姫を公的に制裁するという愉快な舞台を作り上げては、
  配慮するふりをしながらも、ルルドお姉さまが叩かれているのを見て
  お母さまは内心では、してやったりと嬉しくて嬉しくてならないのよ。
  何とか自分を引き立たせようと、ルルドお姉さまを引き合いに出して
  躍起になっておられるお母さまの口説は、まるで下手な劇を
  見せられているみたいに、脚色過剰で、大袈裟だった。
  それが、スイレンお母さまが人々からの関心と注目を集め、
  幸福な主人公になれる、唯一の方法だったから。
  誓っていいわ、そうやって大仰な言葉で人を咎め立てる人間ほど、
  都合が悪くなるたびに、調子よく、逃げておられるはずよ。
  オーガススィの城を出ることになって、私、ほっとしています」
そこには愚かで恥ずかしいスイレンという女を母親にもった娘の、
癒えることのない傷があるようだった。
 「サンシリア」
 「ありがとう。イクファイファお兄さま」
ルルドピアスと同じことを云い、サンシリアは古い柱の傍らから
背筋を伸ばして日向に出てきた。
サンシリアは、指先で風に乱れたドレスの裾を整えた。
 「さようなら、オーガススィ。
  勇壮と寂寥の調べが奏でる海賊の唄。
  この海を、私はもう見ることはないでしょう。
  私、クローバ様の許で、頑張ってみようと思います。
  きっとハイロウリーンに嫁いだお姉さまたちのような華々しい活躍は
  出来ないでしょうが、お姉さまたちのことを見てきたから、あちらで
  控えめにしていらっしゃる、騎士ビナスティとも仲良くなれると思います。
  ようやく私の人生が始まる、そんな気持ちでいるの」
さようなら、シュディリス様。
あるかなきかの淡い初恋を、サンシリアは風に離して、青い海に沈めた。

その後のバルカンダル家について少し触れておく。
オーガススィから嫁いだサンシリアは、「貧乏夫人」と呼ばれるような
周囲の侮蔑をよそに、クローバと力を合わせて、地平線に太陽が沈む
開拓生活を謳歌した。
多産のオーガススィらしく子宝に恵まれ、さらにはクローバと女騎士の
間に生まれた少年も、バルカンダル姓を名乗らせる為に籍に引き取り、
実子同様に育て上げる。
物資の慢性的な欠乏を創意工夫で補った為に、バルカンダルは
技術力がひじょうに伸びて、後世を支える新式の農耕具や、湿地にあっても
黴と腐食に耐える漆喰の原型は、この国から編み出された。
はるか後に、最後の高位騎士と呼ばれる強騎士がこの家から輩出される。
その者は、バルカンダル家の紋章を胸に、ヴィスタチヤ帝国の存亡に
おおきく関わっていくことになるのだが、それはまた別の物語。
オーガススィ家の女たちの中で、誰がいちばん豊かな人生を送ったかは
神のみぞしるである。ハイロウリーンに嫁いだレーレローザとブルーティアも
それぞれに、賢婦として歴史に名を残した。

 「……レーレローザとブルーティアねえ」
イクファイファは、ため息をついた。
そちらはそちらで、現在けっこうな頭痛ものなのだ。
 「あちらも、うまくいってないみたいだけどね」
感情的なレーレローザはともかくも、あの理性的で落ち着いた
ブルーティアまでもが、先方の姑とはげしく衝突している模様は、両国を
往復しているサイビス次官からも報告がもたらされている。
姉妹が嫁いだハイロウリーン家の奥方は、スイレン夫人がまったくの
善人に見えるほどの、猛女だった。
 「常識がなく、お行儀が悪いのは、コスモスの田舎出のご夫人に
  育てられたせいですか。理不尽ですって。ほらほら、またこちらの
  揚げ足をとって云い返す。自分たちの思い通りにならないというので
  いちいち文句があるようね。それはあなた達に問題がある証拠です。
  誰もが機嫌を取り結ぶわたくしへの配慮と婚家への協調性に欠けた嫁。
  それですむと思わないことね」
または、
 「海賊の娘たちのくせに」
と呼びつけて憚らず、何かにつけて、あちらの奥方はオーガススィ家の
嫁たちを眼の仇にして格下扱いし、粗探しと侮辱と否定の機会を
一寸たりとも逃さぬらしいのだ。
 「自分の気に入らぬ女騎士に親切だというので、六男の
  エクテマス王子を勘当したほどの、猛烈なお方だというからなあ」
やれやれと、イクファイファは首をふった。
 「……スイレン様には、ルルドよりも先に大国に娘たちを
  嫁がせたいという気張りと見栄もあったろうが、異例の姉妹同時の
  ハイロウリーン輿入れについては、二人揃っていれば何とか
  先方の奥方と対抗出来るのではなかろうかという親心もあったのだろうな。
  だからね、サンシリア、それだけに、わたしはお前のことが心配に思われるよ」
 「大丈夫です。バルカンダルのお国は、オーガススィよりも
  ずっともっと都に近いのよ。文通相手のフリジア内親王さまもたいそう
  喜んで下さって、私たち、しょっちゅう訪問しあいっこするつもりなの」
そこは本当に楽しみにしているらしく、サンシリアの表情は
年頃の娘らしく、ぱっと華やいだ。 
 「とてもとても楽しみです。ヴィスタの都に行けるのだもの。クローバ様が
  皇居におあがりになる時には、絶対に附いて行くわ。ああ楽しみだわ。
  フリジア様が手紙に書いて下さるような、宮廷の恋愛模様を、私も
  この眼で見るのだわ。当代きっての伊達男と名高いジレオン様や、
  ユスキュダルの巫女直々に高位騎士の位を与えられた「誉の騎士」で
  あられるジュシュベンダのパトロベリ王子、それに数々の貴公子の皆々様。
  クローバ様は踊りを嗜まれるかしら。一緒に踊って下さるかしら。
  他の殿方とも踊っていいか、それも訊いてみるつもり。そうだわ、
  そしてそのうちに、もしやシュディリス様とも、再会できるかも」
 「ちょっと、サンシー」
 「わあ、シュディリス様にお逢い出来たら、私、うまくお話できるかしら。
  それはそれはもう、ご立派で凛々しくて、皇居を訪問された
  フラワン家の皆さまは、リィスリ様の再来と謳われるリリティス姫の
  お美しさともども、すっかり宮廷中が魅せられてしまったとか。
  フリジア内親王さまがシュディリス様に恋していらっしゃるから、
  私はもちろんご遠慮するつもりだけど、でもちょっとだけ、シュディリス様と
  お茶したり、踊ったり、お話するくらいはいいわよね。
  あらでも、シュディリス様とクローバ様の間で決闘が起きたらどうしましょう。
  そうなったら私、フラワン家のご次男を射落としたと目下評判の魔性の女、
  イオウ家のロゼッタ嬢に次ぐ、罪な女になってしまうのだわ。いやだ、困るわ。
  ふふふ、うふふふふふ」
先刻、この様子ならバルカンダルでもうまくやっていけるかも知れないと
内心で評価したものを大慌てで撤回しながら、恋に恋しているサンシリアの
幼い横顔に、イクファイファは多大な不安と、知らぬ土地、知らぬ男に
嫁がされてゆく姫君への痛ましさを覚えた。
イクファイファは、まだ何やら無邪気にはしゃいでいるサンシリアの
ほそい手をとった。
 「どうか倖せに、サンシリア」
ルルドピアスの代わりに。
イクファイファの眼に死ぬまで消えることなく揺らいでいる
その無念と喪失を、サンシリアは優しい心で受け取った。
 「大丈夫です。イクファイファお兄さま」
サンシリアは笑顔をみせた。
イクファイファも笑みを返した。
 「私、このお城にイクファイファお兄さまが居てくれて良かった」
 「バルカンダルご夫妻が結婚の報告に皇居を訪問する際には、
  学問所の同窓の誼でソラムダリヤ様にもわたしから
  お前のことは頼んでおくよ。日を見て、わたしもお前の国を
  訪ねるから。元気で、サンシリア」
 「さようなら、オーガススィ」
海は、青かった。
やがて雪と氷に白く閉ざされる大海は、波の華と、氷の山を照らし出す
太陽の光を季節の先に控えて、午後に静かに青かった。
寄せる波に、波立ちそうな心を、サンシリアはぐっと胸に抑えた。
溢れるものは、今はまだ、流さなくていい。
オーガススィは海の故郷。
これより、海賊の娘たちは、雄々しく陸地に旅立って行ったのだから。


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最新の技術と、洗練された古雅を調和させた壮麗な皇居は、
千年の後にも通用するような堅牢と美を兼ねた、建築の見事であった。
女領主エステラは、領地から皇居に上がる度に、これが故人の
造り上げた夢のひとひらであり、その遺構であることを、
想わずにはいられなかった。
皇居だけでなく、ヴィスタの都もそうだった。
随所にある広場と噴水。清潔な疎水。緑が涼しい木陰を作る街路。
故人が巨額を投じた都市計画の、その恩恵が快適となって健全に
機能していることを、エステラは故人の不在の淋しさをうつろに胸に
抱きながら、皇居と所領地の往復のうちに眺めて過ぎた。
貴人の移動は主に輿に限られている街中において、
馬車の使用は、限られた道のみ、限られた人々にゆるされている。
エステラは皇帝から特別に許可を賜っていたが、馬車を用いるのは
凱旋門から外と決めて、ジュピタの都の出入りには、ゆったりと街が
臨める女輿をいつも好んで用いた。
用が済み、皇居の廊下を輿の待機場に向かって歩いていると、
いつものごとく、そこで待ち伏せていた貴族が先方から姿を見せて現れた。
 「ジレオン・ヴィル・レイズン様」
 「相変わらずの他人行儀ですね。エステラさん」
 「ご機嫌よう」
身を屈めて挨拶を送り、さっと通り過ぎようとするエステラを、エステラに
並んで出口までジレオンが見送るのも、いつものことだった。
 「空が青く、よいお天気ですね、エステラさん」
 「ご機嫌うるわしゅう、ジレオン様」
 「いつもの如く、此度も一泊しただけで所領地にお帰りで」
 「理由は貴方こそよくご存知かと思いますわ、ジレオン様」
 「何かわたしに不満でも」
エステラは唇をかみ締めて、ドレスの裾を両手で握り締めた。
 「----ひどいわ」
わなわなと震えている女が可笑しいといったように、ジレオンは
立ち止まった。
 「どうしてミケラン様は、私名義の土地と財産の管理人を、
  遺言状でジレオン様に指名なさったのかしら」
 「おかげで、毎月、こうしてお逢い出来ますよ。私も多忙の身なので
  管理自体は代理人に任せておりますが、帳簿の確認はしています。
  不都合は今のところないかと」
 「おかげで、毎月こうして皇居に上がり、皇居の一隅に事務室を構えた
  レイズン家の参事官から、管理報告を受けなければなりませんわ」
 「レイズン本国までご足労願うよりはよいでしょうに。
  宜しければ、お小遣いを増やしてあげましょうか。少々お借りできれば、
  最小の手間賃をいただいた上で、三割増にして返してあげますよ」
 「結構です。たつきの道はたっております」
 「ではせめて、わがレイズン家の別邸にてもう一泊。食事や観劇でも」
 「ジレオン様」
眦を険しくして、エステラはジレオンに向き直った。
その装いは飾り気の少ないものであったが、服飾に眼がない女らしく
仕立てよく、ひかりものや刺繍を極端に減らしても、それが
エステラの地の美貌を損なうことはない、趣味のよいものだった。
調和されたそんなエステラの姿を満足そうに眺めているジレオンに、
エステラは果敢にくってかかった。
 「お互いの友好の為、誤解のないようにあらためて申し上げておきますわ」
 「拝聴しましょう」
 「わたくしは寡婦でこそありませんが、これでも、ひとさまの何倍も自発的に
  身を慎んでおりますの。遺言状でミケラン様から分与いただいた所領地で、
  生涯をなるべくひっそりと暮らしてゆくつもりですわ。
  宮廷お得意の騒々しい艶聞沙汰には巻き込まれたくはありません」
 「まだ何も始まってはいないのに」
 「誤解でしたら、先にお詫び申し上げておきます」
 「ミケランのおじ上は、最適の管財人を貴女に用意したのですよ」
のらくらと、ジレオンは手近な花瓶から薔薇を一輪摘み取り、
エステラに差し出した。
むっつりとエステラは礼儀上それを受け取った。
 「ご覧のように、つれない肘鉄をくわされても、男の自尊心にかけて
  わたしは貴女を干上がらせるような意地悪なことはしませんからね。
  おじ上にゆかりのある女人と思えばこそ、便宜をはかり、一生涯
  大切に面倒みて差し上げますよ」
 「生憎ですが、存じ上げておりましてよ。ジレオン様が方々の
  貴婦人と昨夜はこなた、今朝はあなたと、浮名を流されておられること。
  すっかり伊達男の名を欲しいままにされておられるとか」
 「地位と財に眼が眩む女には事欠きませんので、それは認めましょう。
  しかし嫉妬して下さるとは。なお捨て置けないな、エステラさん」
 「せっかくですが、この薔薇、お返しいたしますわ」
 「ふうん。意地をはったりして、やはり、少しはわたしのことが好きなのだな」
 「よくも。うぬぼれやッ」
およそ淑女らしからぬ罵声を浴びせると、エステラはかんかんに怒って
廊下をずんずん進み、それをジレオンはゆっくりと追いかけた。

エステラの付き人と輿は、ジレオンの手配で、待機場所から
姿を消していた。
「帰ります」「無駄ですよ」「卑怯者」「なんとでも」の攻防を経て、
しぶしぶ、エステラはその午後、ジレオンと茶を飲むことだけは承知した。
庭のあずまやに用意された二人の椅子は、丸卓を挟んで、二人分の
距離が開いていた。
 「……ものすごい警戒心ですね。そんなにわたしが信用できない?」
 「こんな方法で女を引き止める方のお言葉とは思えません」
 「おじ上に馴染みがあった方は、どなたであろうと親しく思えますが、
  中でも貴女は格別です。もっと仲良くなりたいものだと誠心誠意
  こうして毎回手を尽くして願っているのが、分からないかなあ」
エステラは知らん顔をして、はこばれてきた香り高い茶を
唇にもっていった。
皇居の中であるのに、ジレオンが一声命じるなり、たちまちのうちに
景色のよい庭の一角が彼らの為に整えられて用意されるあたりが、
現在のジレオン家の威光のほどを何よりも如実にもの語っていた。
しみじみと、エステラは庭から皇居の建物を眺めやった。
全景はとても見えるものではなかったが、利便性を失わぬまま、
その角度からも優美と洗練を誇っているそれは、故人が生涯をかけて
積み上げた、夢の積み木の一つだった。

 (あの闊達なご様子で、愉しそうに図面を拡げて築城を指揮する
  あの方が、まだそこにいらっしゃるよう----……)

ふっと曇ってしまった女の機微を、ジレオンは素早く掬い上げた。
 「皇太子殿下と、許婚のフラワン家ご令嬢には、お逢いになりましたか」
ジレオンはわざと気兼ねなく話しかけた。
エステラが否定しようにも、そこには亡き人と通ずる、女の迷う心の色まで
一度に染め上げてしまうような、明るく強いものがあった。
ジレオンの小姓のアヤメが、エステラの頼みで持ってきた一輪挿しに
先刻の薔薇を飾ってさがるのを待って、エステラは頷いた。
 「ソラムダリヤ様はいつもお心をかけて下さいます。
  皇居に上がる日には、必ず皇子宮に招いて下さいますわ」
 「フラワン家のご子息がいたでしょう」
 「御きょうだいお揃いで、ご婚約期間の最後のご訪問とか。
  リリティス様は、ますますお美しくおなりですわ」
 「殿下や彼らから、皇居にもっと滞在するよう、誘われませんでしたか」
 「そんな、もったいない。あの方々はわたくしの顔を憶えて下さって、
  独り身を気遣ってそう云って下さるのですわ。あら、もしかして」
さっとエステラは顔色を変えた。
ジレオンはそ知らぬ顔で、緑の風に吹かれ、目許を笑ませていた。
 「……皇居に居室を持ち、長期逗留をわたくしに勧めるよう、
  未来の皇太子夫妻とフラワン家の方々に吹き込んだのは、貴方なのね」
 「そのほうがいいと殿下も仰せでした。リリティス嬢には世話役の
  ご婦人が必要ですが、信頼に値する、適当な貴婦人がいないのです。
  そこで私から、エステラ嬢を是非にと、強く推薦しておきました」
呆れ果てて、エステラは膝の上に手を重ねたまま、もう返事もしなかった。
ジレオンは立ち上がると、椅子を動かし、エステラとの間を詰めて近づいた。
 「実は本当に心配なのですよ。貴女のことが。眼の届く処にいて欲しい。
  莫迦らしいと思われるでしょうが、貴女がジュシュベンダの王子や
  フラワン家の方や、その他貴族の男たちと親しげに話しているのを
  見かけるたびに、内心では気が気でありません」
 「莫迦らしいわ」
 「そうでしょう」
率直に応じたジレオンには、女たらしに相応しい、女の自尊心を
くすぐるような、妙なかわい気があった。
 「こう見えて気の張る毎日を送っているのです。身辺は殺伐としたものだ。
  貴女とお話している時間は、心からほっとする。以前の、わたしからの
  申し込みを考えてくれましたか?」
 「何でしたか、レイズン家のおじとおいの双方から世話を受けた、稀代の
  浮かれ女の名を頂戴して、強慾な愛人もいたものよと不名誉な
  語り草になってはどうかとか、何やらそんな豪勢なお話でしたかしら」
 「ミケランのおじ上ならば恋仇に不足なし」
その眼は笑っておらず、女心を自分の方へとぐいぐい引っ張るような、
問答無用な誘いかけがあった。
 「貴女はまだわたしのことを青二才と軽んじているのだろうね。
  まあ、見ていて下さい。貴女の満足に届くような男になって、
  きっとそうしてみせるつもりです」
死んで下さい。
いつもならそう返すところを、エステラは何故か云えなかった。
些細なことでも恩人面をする人間が多い中、好き心だろうが
計画犯だろうが、ジレオンはエステラにそんな恥ずかしい思いを
確かに一度もさせたことがない。ミケランがばら撒いたレイズン家の財を
あこぎな方法で取り戻しているという黒い噂もある中、ジレオンは
搾取するならばもっとも容易いであろうエステラの土地と財だけには、
指一本触れていない。
それどころか、エステラを身内扱いして、楽しんでいる節すらある。
アリアケ・スワン・レイズンの霊廟の管理を分家とスワン家から
引き継ぎ、花を絶やさず、自身も時折墓参りをして申し分なく尽くしていることも、
この青年にそなわったあまり知られていない情の篤さを示していた。
何よりも、その声音や手のかたちや、ふとした折の表情が、エステラの
心を否応なく、くるしく絞ることがあった。
 (似ていること)
困ったエステラは、ぱたりぱたりと扇を膝に遊ばせた挙句、
適当に返事をしておいた。
 「十年後も同じことを仰って下さるのなら、その時に、考えます」
 「それはまた悠長な」
 「薔薇も枯れた頃ですわ」
 「貴女はおじ上に操立てしてるからね。そういうところが、好きですよ」
当代きっての伊達男らしく、ジレオンは自信たっぷりにエステラの
手の甲に接吻し、色気ある笑顔で、若々しく笑った。


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日課の公務の息抜きに席を立った皇太子ソラムダリヤは、
緑したたる庭先に、皇居滞在中のシュディリス・フラワンの
姿を見かけた。
回れ右をしようとして、何とか踏みとどまる。
ソラムダリヤは意を決して、シュディリスに近付いて行った。
いつも緩衝材となってくれるルイ・グレダンは、古巣のフェララから
客人を迎えて、今日はいない。
コスモス騒擾の一件落着後、ルイ・グレダン、グラナン・バラス、
サンドライト・ナナセラの三名は、トレスピアノへと着任していた。
ジュピタ家とフラワン家の間に交流が回復したことで、フラワン家側に
新たな護衛体制が必要となり、その主力要員として彼らは選抜され、
皇帝の勅命に従うかたちとなったのである。
これは名誉あることであった。
 「どうせなら、ロゼッタも遣してくれたらいいのに」
ユスタスは口を尖らせたが、これはサザンカ家の家司である
イオウ家の立場としては、無理なことであった。
その代わり、フラワン家が都に上がる際には、ロゼッタ・デル・イオウも
サザンカ大使の供として皇居に招かれた。
これはリリティスの家族にも気を配る、ソラムダリヤの配慮だった。
もっともロゼッタは終日騎士装束を崩さず、自国の大使の警護に徹し、
いくらユスタスが誘おうとも、「はい」とはなかなか云わぬため、
そのやりとりの様子はすっかり面白おかしい、宮廷話の一つとなっていた。

皇居と皇子宮の中間に広がる庭は、森を模しただけあり、日光に
あたたまった樹木の豊かな香りが広がっていた。
シュディリスの方から気がついて、振り返った。
その途端、どんと跳ね上がった心臓を抑え、「やあ」とソラムダリヤは
片手を上げた。その手が、気まずく宙にとまる。
あまり人に好き嫌いのないソラムダリヤにしては珍しいことに、
彼はリリティスの兄シュディリスの前に出ると、著しく緊張するのである。
別段、何があるというわけでもない。
何かをされたこともない。
だが、怖い。
薄青色の寛衣姿をまとったシュディリスは、皇太子を前にしても
景観を眺めることをやめず、木漏れ日の乱舞の中に佇んで、
皇居の庭も我が物顔に、誰が後ろに立とうとも畏まったりはしない。
彼はフラワン家の者であり、それが許されている唯一の者である。
しかしだから苦手で話かけにくく、全体に扱いに困るというのではない。
ごく、とソラムダリヤが緊張に息を呑んだ。
皇帝の意向を伝える使者を立て、トレスピアノのフラワン家へ
リリティスとの縁組を承諾してくれるよう、丁重に申し込んだのが昨年。
その際、ソラムダリヤは最大限、愛するリリティスとその家族の
ことを思い遣り、婚礼の費用は全額負担、年の五分の一は里帰りを
ゆるすこと、またフラワン家の人々がいつでも都に遊びに来れるよう、
トレスピアノの面影をそのまま再現した小屋敷も都の一等地に用意して、
何ならリリティスには皇子宮に隣接する予定の皇太子妃宮ではなく
そちらで生活してもよいと、そこまでの配慮と誠意をみせた。
今か今かと返答を待つソラムダリヤにフラワン家からようやく届いた返事は、
 「娘の意志がまだ固まりません」
との、受諾とも拒否ともとれぬもので、
 「やはり、わたしが直接行くべきだった」
ついに皇太子は自身で馬に乗って、トレスピアノを突撃求婚訪問
するというところまでやったのだ。

あれがまずかったのだろうか。
報せを受けて国境まで帝国皇太子を迎えに出てきた
シュディリス・フラワンは、フラワン家へと案内してくれる
道すがら、如才のない受け答えの中にも微妙な壁を作っており、
こちらの気のせいではなく、ひややか、であった。

いや、とソラムダリヤはそれを即効打ち消した。
交流が途絶えていたジュピタ皇家とフラワン家の婚姻は、すでに
ソラムダリヤ個人の希望ではなくなっている。
一刻も早く皇太子の婚礼を打ち上げて、改新から騒擾まで続いた
ミケラン時代の名残を払拭し、新時代の幕開けをと願っているのは
ソラムダリヤと皇帝家だけではない。
新巫女を祝い、新興バルカンダル家とその領主夫妻の誕生を祝い、
ヴィスタチヤ帝国そのものを寿ごうとする流れは、諸侯の願いとも
完全一致して、ソラムダリヤとリリティスの結婚は、目下、最優先で
推し進められるべき、帝国挙げての慶事となっているところだ。
回る車輪は止められない。
さればこそ、ソラムダリヤは外的な圧力とは関係なく、リリティスの心を
得ようとしてきた。
彼はトレスピアノに送り続ける恋文にも、リリティスと対面した際にも、
一句たりとも帝国の大事を匂わせず、まるで市井の青年のように
リリティスを口説き、ぎこちなくも誠心誠意の愛を打ち明け、ひたすらに
求婚を尽くしてきた。
そしてこちらの記憶にある限り、フラワン家の人々も、実に
皇太子の熱意に好意的・協力的であったと思う。つまり、余計な
口出しをせずに、二人を見守ってくれていた。
しかもである。
コスモス騒擾が落ち着いたその後、一時は気鬱になったとして
笑顔が消えてしまい、フラワン家の父母の許でゆっくりと
静養していたリリティスに、皇太子妃となるよう、最終的な説得を
果たしたのは、シュディリスであったそうだ。
祝賀一色の流れに乗れず、唯一、渋り続けていたリリティスに、
 「兄さんが----シュディリス兄さんが、そう云うのなら」
涙ながらにそう云わしめて、リリティスに皇家との結婚を
承諾させたのは、最終的に、彼女の兄のはたらきかけが大きかった。
少なくとも、そう聞いている。
現に今も、婚約期間を共に過ごす為に皇居に上がったリリティスに
弟ともども付き添って現れ、人に逢えば、同性ながらも傍目に見ていて
惚れ惚れするような端麗な笑みでもって、
 「リリティスのことをよろしく願います」
申し分のない挨拶を取り交わしては、次代のフラワン家の統領らしく
この婚姻を祝い、程よくも積極的な友好に尽くしている。
ように見える。
それなのに、彼の、自分に対するこの慇懃無礼かつ、無関心を
装った、冷淡な態度は何だろう。
 (要はあれだ。花嫁の父だ)
さりげなく訊ねてみたシュディリスの従者のグラナン・バラスも
視線を逸らしながら大急ぎで頷いていたではないか。
彼らは不可侵領地の荘園で、互いを唯一の友のようにして育った
きわめて仲の良いきょうだいなのだ。それだけに、兄としては
男としてリリティスを盗られるような気がするのであろう。
ソラムダリヤは何とかそう理解した。
そうこうするうちに、
 「なにか」
いつまでも人の後ろにぼさっと突っ立ってそこで何をしているのだと
云わんばかりの一瞥が飛んできた。
それは冴え冴えしいほどの青い光でもって、常の如くに、リリティスの兄と
親しくなろうとするソラムダリヤの前向きを真っ向から打ち砕いた。
とどめをさすようにして、シュディリスはわざと身体ごと向き直った。
水際立ったその立ち姿からして、こちらが負ける。
 「何か話でも」
 「う……」
天候か何か、話題のきっかけを求めていたソラムダリヤは、またしても
鉄壁の拒絶を前に後が続かず、諦めた。
 「兄さん」
 「シュディリス様」
皇太子と入れ違いに庭に現れたのは、ユスタスと、旅装束に
身を包んだ、紅顔の少年だった。
少年は背に、画布と絵筆を収めた筒を背負っていた。
 「シュディリス様。ソラムダリヤ様に何かされたのですか」
 「どうかしたの。殿下、元気なく歩いておられたよ」
 「負け犬」
 「いや、それはない」
さすがに突っ込みつつ、ユスタスはソラムダリヤに心から同情した。
トレスピアノに居た頃はそこまで気がつかなかったが、この兄は
カルタラグンの血統そのままに、根はすさまじく頑固で、激情家なのだ。
カルタラグンの特徴とは、喩えるなら、薄硝子の器の中に密閉された、
荒ぶる炎である。
ついでに、かつては弓を掲げ、征矢の勲を欲しいままにしたタンジェリンの
剛の血も流れている。さらには、激浪と雪の絢爛が骨身に沁みこんだ
オーガススィ家の母に育てられた御子である。
もともと、カルタラグンとタンジェリンの掛け合わせは、血統の
組み合わせとしてはよろしくない。見た目には清涼な飲み物、しかして
一献かたむければ、相手の息を止めかねぬ悪酔い確実の、難儀な
酒精といったところだろうか。
なにぶんにも、ユスタスは、見たのである。
 「兄さん!」
ロゼッタと共にとび込んだ砦の王座の間。
もしもミケランが手負いでなく、リリティスを片腕に庇っているのでなければ、
おそらくシュディリスは、何の躊躇もしなかったであろう。
激昂した兄の姿は、竜の化身、青白きほむらに包まれた刃のようだった。
 (それに、此度のジュピタ家との婚姻のことだってさあ……)

 「兄さんが----シュディリス兄さんが、そう云うのなら」
ユスタスが姉から聞き出したところによれば、なんとシュディリスは、
 「ソラムダリヤが厭になったなら、いつでもお前を攫いに行くから。
  リリティス。必ず、迎えに行く」
そう云って、姉を説き伏せたらしいのだ。
 (説得するほうも、それで納得するほうも、根底からおかしいだろうが。
  抑えに抑えてきた恋情が、どうしてここにきて決壊するんだよ。
  リリティス姉さんがお嫁に行くとなったら、突然これだ)
やりかねない、と思う。
何といっても、あの翡翠皇子の御子である。
 (ユスキュダルの巫女も攫ったくらいなんだから、いざとなったら
  兄さんは、それくらいやるだろうなあ。これで密会なり夜這いなりが
  成功してみろよ。ソラムダリヤさんが知らぬうちに、カルタラグンの
  強騎士の血を引く御子が生まれて、未来の皇帝になるかもしれないよ)

騎士の血は滅ぶ。
騎士の血が出てこないジュピタ家が統治してこそ保たれていた
ヴィスタチヤ帝国は、そのうち、新たな呪いの時代を迎えるのかもしれない。
それとも? 
しかし今からそれを憂慮しても仕方がない。せめて皇太子夫妻が
仲むつまじくして、兄と姉が互いを忘れてくれるよう、祈るのみである。
 「ミカ」
シュディリスはユスタスの後ろにいる少年を呼んだ。
画布を背負った少年は、放浪の画家の弟子である、ナナセラのミカだった。
ミカは進み出てきた。
「本日ジュシュベンダに出立いたします。馬パトロベリをお借りします」
竜の隠れ里に置いてきたはずの馬パトロベリは、バルカンダルに
移民するカルタラグンの騎士の手ではこび出され、さらには
バルカンダル卿を拝命するクローバの一行の供をしてヴィスタの
都に入ったところ、ちょうど時期を同じくして皇居に滞在していた
シュディリスと再会した。
シュディリスを見るなり、馬パトロベリは一声いなないて全力で
駈け寄り、ぱかりと口を開けて、シュディリスの髪をむんずと食む。
上機嫌でそのままバルカンダルの一行から去ろうとした馬パトロベリを、
「すわ、フラワン家御曹司誘拐略取か」と宮廷近衛兵が大挙して追いかける
椿事の末に、面倒くさくなったクローバからの半ば押し付けの譲渡を経て、
馬パトロベリはシュディリスの馬となった。
どういうわけかこの馬、ミカにも懐いた。
せっかくなので、シュディリスはミカに馬パトロベリを貸し出して、
ジュシュベンダに送り出そうというのであった。
シュディリスはミカを近くに寄せた。
 「ミカ。これを」
ミカは、ナナセラに隠棲中のエチパセ・パヴェ・レイズンの推薦を
受けて、諸国を見学中だった。
ヴィスタの都での勉学を終え、これから、師がいると伝え聴いている
南のジュシュベンダに向かうというミカに、シュディリスは遣いを頼んだ。
シュディリスの手の平にあるのは、貝殻ほどの大きさの品だった。
 「これをパトロベリ王子に。見せれば分かってもらえる」
 「お預かりいたします」
ミカは綿を詰めた木函ごと、押し頂いて受け取った。
それは、陶器の焼絵だった。一度粉々に割れたとみえて、宮廷御用達の
職人の手で、きっちりと元通りに膠付けされていた。
裏面には、アニェス・マノという名が刻まれていた。
 「紹介状を書いたから、イルタル様には目どおり叶うはず」
 「何から何まで、ありがとうございます」
 「兄さんからパトロベリさんへの手紙はないの」
 「ない」
シュディリスは云い切った。
ユスタスは紹介状をミカの上衣の隠しに入れてやった。
その筒に入っているものは何かと訊かれて、ミカは背負った荷物を
誇らしげに説明した。
 「最初にコスモスに行ったのです。これは、コスモス王国時代の
  古い寺院の天頂に描かれた、星のかたちを写しとったものです。
  もっとも大切なもの。信仰の対象だったとか。
  千年も昔の稚拙な絵であるのに、強い力がこもっていて、それを描いた
  人の崇高な思念が放射されているように見えました。写しとるには、
  模写では駄目です。描き手にも、同じものが求められるのです」
ミカの両眼には、それに近いものが描けたことを自負する、
剣士のそれにも等しい、曇りを貫く、鋭い晴れやかさがあった。
 「師匠に逢えたら見てもらいたいのです。持って行きます」
 「馬パトロベリの馬の名は、パトロベリ王子には内緒にしなよ。
  せっかく高い評判をとったというのにそれが気恥ずかしいのか、
  あの人、相変わらず極楽とんぼで、温泉地に長期逗留中らしいけど。
  いいね、花と霧の運河の都に遊学か。兄さんとエチパセさんの
  名を大いに活用するといいよ。きっと良い待遇が受けられるから」
 「ありがとうございます。ユスタス様。シュディリス様。
  お預かりした物は、必ずパトロベリ王子にお渡し致します」
ミカが去ると、それを見送りに、ユスタスも去った。
 
庭は、静かになった。
神話を模した僅かばかりの石像に、ようやくカルタラグン王朝の
名残がうかがえる、静かな一角だった。
父母が遊んだ庭。往時の人々はもういない。
そこは、美しいばかりの、翡翠色の庭だった。

 ----時が巻き戻ったとしても、わたしは同じことをする。
   我侭な男に付き合わせて、すまなかったね。

それが、エステラに笑って告げた、ミケラン・レイズンの最後の
言葉であったそうだ。
もしかしたら、エステラは他にも聴いたのかも知れないが、それ以上は
エステラとミケランだけが知ることだった。
ミケラン・レイズンは、女の腕の中で死んだ。
帝国の為でも、家の為でも、大義の為でもない。
それが悪であったとしても、悪と重々知りながら、星座を描くようにして
この地上に夢の地図を拡げることを選んだ男。
その生涯を折りたたんで仕舞うにあたり、彼は銀河の人の御手を
はるばる求めた。帝国の安寧の為であると、真心こめて偽りながら。

 ----ミケラン・レイズンに裏切られました。

前代巫女の亡骸は、雪のユスキュダルに埋められた。
祈りに包まれ、この世の終わりまで、静かにそこにあるだろう。
カリア・リラ・エスピトラルの名をそっと唱え、シュディリスは
全ての者、全ての騎士への弔いに眼を瞑った。
木漏れ日は暗夜に迷い、想念の泉に燦爛と飛び散った。
さればこそ人はそこに沈みたる真を探す。

青く晴れた空の上にも、星々が拡がっている。
網膜と心象をすり抜けて、流れ落ちる流星の光跡。
音もなく、白矢の影を投げかけて、雨の如くに星は降る。
刻まれる久遠の時の、揺曳運動。
真珠、黄金、碧玉の色。
その支点の真上に清く耀く航行の彩を、人はこう名づけた。
ビスカリアの星。




「完]


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