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[ビスカリアの星]■十一.




家畜を追う鈴のついた杖をつきながら、牧人が村へと帰っていく。
橋の上から起き上がったユスタスは、
拾い上げた剣に疵がないことを確かめて鞘に収め、
領民に見られても見苦しくないように姿を整えた。
それから、よろめいて、胸を押さえた。
リリティスに打たれたそこは、息をするだけで、ぎりぎりと肺まで重く痛んだ。
本当にひびでも入ったかも知れない。
女の細腕でよくもあれだけ、ぴたりと狙い済ました箇所を一撃してくれたものだ。
倒れる姉を抱きとめようと伸ばした腕の中に、絹色の蝶のようにリリティスは飛び込んできた。
ふわりと滑り込んできて、こちらの剣を叩き落としてくれると、その次には、
ありたけの想いや鬱屈を篭めて、訣別も辞さないことを思い知らせるように、
こちらの胸にきつく鋭い痛打をくれてきた。
(いい迷惑だ)
ユスタスは橋を回って小川に降りると、口をそそぎ、少々血を吐いた。
昏いさざれ水に広がった血はしばらく薄い藻になって漂ったのち、青光る下流に消えていった。
その血は姉の血に思えた。
先ほど弟に加えたあの打擲に至るまでには日頃、どれほどの
鬱積がリリティスの中に積もり積もっていたのかを考えると、ユスタスは憂鬱だった。
姉をいたわり、守ろうとすればするほど、リリティスはどうやらそれを
自分への侮りだと感じて、周囲を自分の敵と見なすらしいのだが、
逐一にそのような反発を示されるならば、何をしても無駄、という諦めの気分になってくる。
ユスタスは小石の沈む川から顔を上げると、草を掴んで斜面を登った。
女にやられたからというだけではない姉への嫌悪感を何とか
己の未熟のせいにするところにまで引き落とし、
姉への愛情をもう一度呼び戻すと、
近くで遊んでいる村の子供たちの姿に目を細めた。
君の姉君、優しくて、すごい美人。
昔から下心込みで姉に近付いてくる少年たちにそう言って羨ましがられる度に、
ユスタスは内心で肩をすくめたものだ。
かなりの根性曲がりだぞ、僕の姉さんは。

(いつも、誰にも私の気持ちは分からないわなんて顔をして、実のところあの人、
 ほとんど誰も、まともに相手にしてないじゃないか。
 実際に姉さんは優しいし、誰よりも思い遣り深い人だよ。でも何だか僕には、
 その優しさの上に傲慢とか潔癖の二文字がついているような気がするんだよな。
 過度の清廉でもって、これで誰にも文句は云わせないわよ、みたいなさ。
 もちろん、そんなつもりは姉さんには毛頭ないんだろうけど、女の子はやっぱり、
 ちょっとバカで、素直でかわいいのが一番だよ。
 小さな子がそうするように、可愛らしく男の腕にすがって甘えてくるその様子に、
 男は、自分がこの弱い子を守ってやらなくてはと思うもんなんだ。
 それが結局は女の倖せだろ。
 何でそれを自ら棄てて踏みにじっているんだ、あの人は)

でも、それはもしかしたら僕たちの責任なのだろうか。
別れ際に云われた姉の言葉を反芻するうちにユスタスは苦いものでも
噛んだ気がしてきた。
シリス兄さんと僕は、「女だから」というので、
知らず知らずのうちに今まで姉さんを疎外し、いろんなことで傷つけてきたのだろうか。
確かにシュディリスとユスタスは、何の罪の意識もなく、
リリティスを置いてよく二人で出て行った。
リリティスを大切にしているからだと言い訳をしておいて、平気な顔で、何度もそうした。
「リリティスはいいよ。女の子なのだから」
シュディリスもそう云って、いつ頃からか、ユスタスしか誘わなくなった。
姉がいつの間にかに、いつも不安と不信を抱き、
何か大きなものに酷く怯えて、負けまいと、身構えているようになったのは、
もしかしたらそのせいなのだろうか。
女であることの利点よりも、
女であることの不利ばかりを、リリティスは数え上げて、苦しんでいる。
(それは自分を縛るだけで、ちっとも自由にはしないのに)
姉さんは優しい人だ、とユスタスは胸に当てた拳を握りしめる。
誰よりも。それはこの僕が知っている。

(でも、きっとあの人自身もどうしたらいいのか分からないほど、その優しさは、
 逸脱に見えるほどにまっすぐで、正しすぎるんだ。
 ああ、そうだよ、よくも僕をやってくれたよ。
 わき腹に風が抜けたと思ったら、もう転がされていたもんな。
 それでも僕だから辛うじて動きが止まるだけで済んだけど、
 これが普通の騎士を相手にした決闘ならば、手心を加えない姉さんの前で、
 相手は腕ごと剣を切り落とされて死んでいただろう。
 それが僕の慢心を正す目的でやったことならそれでもいいよ、
 幾らでも勝ち誇ってこの弟を嗤うがいいよ。でも姉さんにはきっと、
 誰にも分かってはもらえないことへの怒りと、絶望だけが、あの時あったんだろうな)
昂じた哀しみにより打たれた。
胸が痛かった。
振り仰いでももちろん、リリティスの姿はとうに見当たらなかった。
白く明るい空がその眩しさで網膜に暗い目隠しをするようだった。
霞む空をユスタスは見つめた。

僕はともかく、姉さんにだけは、
シリス兄さんの本当のことを教えるべきじゃなかったんだ。

それが全ての元凶だとは云わないけれど、
それ以前の姉はまだしも、「まとも」であった気がユスタスにはする。
幼い恋ながらも、仲の良い少年もいて、月の出る菫の夕べに、
二人でそぞろ歩いているのを何度か見かけたし、
あのままあの調子で姉は倖せになるのだと、ユスタスは思っていた。
そんな時シリス兄は、「へえ、リリティスに恋人が」、どこか楽しそうな、
微かな含み笑いで、ユスタスが招く窓辺に並んで片手を窓枠につき、
男の子に送られて屋敷に戻って来るリリティスを眺めていたものだった。
シュディリスと喧嘩をすると、わっと泣き出して、泣きじゃくりながら弟のところへ
加勢を求めに飛んできた姉。
それがわが姉ながら、とてもいとけなく、可愛かったものだった。

(ユスタス、ユスタス、聞いて。シュディリス兄さんがまた、ひどいのよ-----)
(またとは何だ、リリティス。まるでいつもわたしがお前に対して
 悪いことをしているように云ってくれる)
(ぶたれるわ、ユスタス、助けて)
(お前を叩いたことなど一度もない!ユスタス、リリティスの言など聞くな)
(じゃあ、今、ぶつかも知れないわ。ユスタス助けて、兄さんが怒ってる)
(悪いことをしたのはどちらなのか分かっているくせに、いい加減にしてくれ。
 とにかくその本を返してくれ、読みかけだ)

諍う兄と姉を引き分けるコツといっても特になかったが、
取りすがって泣く姉を持て余しながら、
リリティスを追いかけてきた兄と、姉を庇う弟の間には、
確かに男同士の無言の合意といったものがあり、どちらもそれは、
良きにつけ悪きにつけ、やはり(女の子だから仕方がない)といった、
リリティスへの情けであったと、今にして遣る瀬無く思い出される。
この腕の中に柔らかく震えていた、姉の声。
(ユスタス、助けて)
いつ頃からか、姉は、もう云わなくなった。
大人になったからではなく、誰を頼っても、
根本的な解決を、何の援助も期待できないことを、何ひとつ変わらないことを、
彼女なりに、知ってしまったからなのだろうか。
不意に突き上げてきた苛立ちに、ユスタスは前髪を乱暴にかき上げた。
(--------何で、こうなるかな)
気がつけばいつも淋しい顔をしていた姉。
もどかしさのあまりに、こちらまで気がおかしくなりそうだった。
姉さん、僕は貴女が倖せになる為ならば、労を惜しむことなどないのに。
貴女から何かを求められたら、できうる限り、今でも力になるつもりでいるのに。
まるで最も困難な道が拓けたら、
それで万事が根源から救われるのだと必死で思い定めたかのように、
貴女はもう、その役割を、シリス兄さんだけに求めているの、姉さん。

(そりゃね、シリス兄さんみたいな男が近くにいて、
 なおざりではない理解をいつも示してくれて、
 包容力も許容も随一で、しかも一緒に育ったお陰で
 他人との間には時としてもどかしい障害となる齟齬も殆どないときては、
 姉さんじゃなくても、女ならば誰でも最も望ましい、名匠が絵に描いたような
 頼れるやさしい恋人になっちゃうんだろうけどさ、兄さんは)

甘いよな、ユスタスは腐る気分をそのままに、足許の小石を蹴り飛ばした。
どれほどシリス兄さんが怖いかを知らないから、そんな手ぬるいことをうっかり思うんだよ。
想像でもそれは十分に追えた。
橋の上で自分は引いたが、兄ならば、リリティスが剣を掴んだ瞬間、
そこへ向かって踏み込んだであろう。
動きを奪われる前に、リリティスを征して、女の好きにはさせてはおかなかっただろう。
(リリティス)
兄が姉の名を呼ぶ時、その声音にはどこかいつも、
女の頬を上からやさしく撫でて宥めるような強い無機質があった。
それはシュディリスが実はまったく妹のことなど女の対象として気には留めていないことの
何よりの宣告ではないか。そして逆にいえばそれこそが、兄から姉への、
押し殺した哀れみや、愛の深度の証拠ではないかとユスタスは思う。
この世で最も、彼女の名をやさしく呼ぶ。
初めて女を抱いた時、少しだけ、リリティスのことが思い出されて参ったよ、といつか兄は笑った。
(リリティス------)
ガラン!という音がした。
反撃の隙を与えることもなく前へ出た兄が姉のその手から剣を取り上げて、
素っ気無く抱きとめる、姉の手から落ちた剣が橋の上に立てるその音ではなかった。
牧人がつく追い棒が立てるガランガランという鈴の音に、
夢想から醒めたユスタスは、茶色の前髪の下のその青い瞳を光らせて、腹を決めた。
女ひとりの嘆きや怒りよりも、兄の平静や抑制のほうがいつも蒼白く燃えて勝っていることを、
もはやそれは名のつかぬまでに、凍えて強いものであることを、
よろしい、姉さんがいつまでも気がつかないのであれば、僕はこうするのみだ。


(僕たちきょうだいは、全員、化け物だ)

歩くたびに痛む胸を庇いながらユスタスは脚を早めて父が休憩している民家に向かい、
案内されるままに扉を次々抜けて父の前に直進すると、
「父上、親子の縁を切って下さい」
頭を下げて頼んでいた。
そうやって身を倒すと、リリティスに打たれた痛みが胸部から背骨までずきりと走った。
息を詰めてひたすら耐えて、床の一点を見つめてユスタスは待った。
礼服に身を替えて広間にいた父カシニは、驚きを顕にすることもなく、
「切れというなら、子の意を尊重し、切ってもよい」と、やや間をおいたのち応えた。
「では、長い間いつくしんでここまで育成下さり、ありがとうございました。
 母上にも宜しくお伝え下さい」
手短にすらすらと口を動かし、
「不肖の息子ではありましたが、ユスタスは何処にいてもお二方のご多幸をお祈りしております。
 御恩はこの後わが身わが一身の選ぶ行路において、
 頂いたこの名に恥ることなきようお目にかける所存です、では」  
開けっ放しのままにしていた広間の扉からユスタスは出て行こうとした。
「ユスタス」
壁際の暖炉の前から父は引き止めた。
ユスタスは「何ですか」と振り返った。
「父は、レイズン軍に早々のお引取りを願うつもりだ」
「当然です。厳重なる抗議の上、すぐにも国外退去をお命じになって下さい」
「レイズン軍が追っている何人かをシュディリスが連れて行ったか」
「あ、何だ。そこまでご存知でしたら、僕からはもう何も申し上げることはありません」

ちょうどう軽食を持って入ってきた下僕の盆からそれを包ませてユスタスは受け取ると、
食料を荷に詰め込んだ。
「父上はひとまず、何も知らないふりをして談合に向かって下さい。
 彼らの狙いはすでにもう残された者の中にはないのですから、
 軍の撤退をぐずりはしないでしょう。
 その代わり日をおかず、何らかのかたちでレイズン家から再び折衝がある筈です。
 建前上は、此度同様に、反逆者の探索というかたちになっているはずだ。
 条件つきで領内の捜索の自由をお認めになってもいいんじゃないかな。
 かたちばかりのそんな連中にシリス兄さんが捕まるとも思えないし、
 仮にもトレスピアノ領内で、レイズンの手勢がシリス兄さんに危害を加えることはないでしょう。
 何といっても、シュディリス兄さんは、わがフラワン家の嫡子なのだから」
ユスタスはきっぱりと言い切った。

「いかなる理由あれ、フラワン家の嗣子を傷つける者は許されません。
 兄さんがそこまで考えてある御方を連れ去ることを決意し、
 共に姿を消したのかどうかは分かりませんが、賢明な選択だったと僕は思います。
 兄さんはいざとなればフラワン家の身分を持ってその方の盾になるつもりなんだ。
 父上も兄さんを支持して、レイズン家に対しては強硬姿勢で臨んで下さい。
 僕はシリス兄さんの後を追います」
「その御方とは、ユスタス」
「ユスキュダルの巫女です。後は経緯よりお察し下さい」
「リリティスは、それで、シュディリスを探しに行ったか」
「姉さん、ここに立ち寄ったの?」
カシニはユスタスを見送って街道まで出てきた。
ユスタスは馬を呼ばせてそれに乗った。
「姉さん、父さんに何か云ってた?」
「そこの道を振り返りもせずに駆け抜けて行く姿を見た。
 後を追わせたが、使っているのはシュディリスの駿馬だ、追いつけるものではなかった」
「あちらの道ですね。分かりました」
「ユスタス。お前とシュディリスについては、男子が決めること、後顧することなく、
 思うことをやりなさい」

温厚に見えて、いつも父は、決断する時には鋼の強さを見せたが、
今はそんな顔をしていた。ユスタスが一番好きな父の顔だった。
初めて乗るその馬をユスタスは軽く並足で進ませて、一回りして戻って来ると、
父の差し出す剣と荷を受け取った。
「僕の直筆以外の手紙は信用しないで下さい。
 昔決めたとおりに、文面の末尾をわざと汚しておきます。
 なるべく連絡は入れるけど、手紙が絶えてもあんまり気を揉まないで、そう母さんにも伝えて」
「息子が騎士になった日より、覚悟はしていた。止められるものではあるまい」
まるで今年の作物の出来映えでも見るような眼でカシニは息子を眺め上げていたが、
そこには為すべきことを積み上げてきた者の自信と、男の誇りがあった。
「どのように避けても、運命は必ずその者を選んで、流れていくものだ。
 聖騎士オーガススィ家からリィスリを迎え、
 シュディリスを預かり、お前を授かった日より、そう心得て、
 わたしはお前たちを、見苦しい人間にだけは育てなかったつもりだ」
それはフラワン家の家訓だった。
父はユスタスに云った。
「シュディリスの力になってやりなさい。お前の兄はわたしの息子であり、フラワン家の世継だ」
よどみなく、父はそう云った。
カシニ・フラワンはリィスリ・オーガススィをその妻として迎える時にも、
並み居る求婚者の一番後ろからゆっくりと歩いてきて、その歩みを止めぬままに、
その腕に美しい花嫁をとまらせて、
浮かれ騒ぐことなくトレスピアノへとしごく地味に立ち去っていたというが、
半ば笑い話になっているこの逸話を聞く度に、ユスタスは父母への誇りを覚えたものだった。
騎士でなくとも騎士の心を深く知る者。
オーガススィ家のリィスリ姫は、自分に手を差し伸べた男たちの中から、
堅実と信念を内に持つ、この寡黙な人をよくぞ選んだ。
ユスタスはにっこり笑った。
「大袈裟だなあ。でも、はい、そのようにいたします」
「だがリリティスだけは、あの娘だけは、母の許に返してやってくれ」
「分かりました」
とだけ、ユスタスは応えた。
顔には出さないけど、きっと父はリリティ姉さんのことを一番心配しているに違いない。
ユスタスはリリティスが去って行った黒い森の方角を眺め遣った。
不安ではないと云えば嘘になるが、兄も姉も行ったのだ、僕も行こう。
「父さん、今までお伝えする機会もなかったけど、兄さんを僕の兄さんにしてくれて、ありがとう」
馬慣らしを終えて手綱を握ると、ユスタスは微笑んだ。
「兄さんがいるのといないのとでは、僕は全然違っていただろう。
 面倒な長子の役割を全て引き受けてくれました。今度は僕が兄さんの力になる番だ。
 シリス兄さんが本当の兄さんではないと知った時も、僕は嬉しかった。
 それなら僕たちは肉親の情だけでなく、
 まことの友誼で結ばれて、いつまでも一緒だ。そう決めたんだ。
 でも忘れないで、シュディリス・フラワンとユスタス・フラワンの父母は、
 この天地に、父さんと母さんだけです。きっとすぐにみんなで家に戻るよ」 
父に頷いて見せると、
ユスタスは「行ってきます」、笑顔を残して、親を後にした。





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剣に手をかけると、追っ手を待つ静寂の中でシュディリスはカリアに微笑んだ。
「ご案じなさいませんよう。何人であれ貴女に手だしはさせません」
カリアは無言で静かに応えた。
繋いだ馬が不穏を察して嘶きを上げたのをシュディリスは振り仰ぎ、
我らがここにいることはとっくに見つかっているでしょう、
こうして隠れても無駄のようだ、と断った上で、
「もしも、トレスピアノでは安泰得られぬようであれば、
 その時には隣国ジュシュベンダを頼ろうと思います」
カリアに告げた。
外気にあたると萎れていく花のように、疲れのせいか巫女カリアはますます弱く見え、
彼の見下ろす閉じたその唇には昨日よりも赤みがなかったが、それとは逆に、
カリアの姿全体はいよいよ内面から何かの神々しさが沸き出でて、
その瞳は澄み渡り、緑の光の中に静かに燃え立つように、シュディリスには見えた。
彼はそんなカリアを励ました。

「ジュシュベンダにはわたしの学友がおります。
 かの地で彼らと共に勉学を修めました。
 たとえ親しく交わる友とはならずとも、終生、その人となりには信がおける者たちです。
 いいことばかりではなく、悪いことを共に愉しんだ仲なので、それがよく分かる。
 決して卑しい振る舞いは選ばぬ者たちです、彼らが力になってくれるでしょう」

彼は耳を澄ませて、
「やはり、こちらへ真直ぐに来る」、日に明るい森の深部へと眼を据えた。
「数は多くないが、接近が慎重で、慣れています。
 やはり森の恵みにたずきを得ている領民などではない」
顔を厳しくすると、カリア、と呼びかけた。
「先日来から絶え間なく、身辺に闘いを見るのはさぞ厭わしくお感じであることでしょうが、
 ここはわたしに任せて下さい」
「いいえ、いけません」
訴えるカリアの唇の上にシュディリスは指をあてて、二の句を塞いだ。 
分かってはいても、女人を相手にすると習性でつい、という感じで、その頬に片手を添えて、
「貴女は云われた、旅の間は実の姉だと思ってくれるようにと。
 騎士である弟は、姉を守る義務がある。云う事をきいて」
「シュディリス」
「わたしはまだ貴女に訊かなければならないことがある。ですがひとまず、
 それは後にしたほうが良さそうだ」
シュディリスはカリアを大樹の陰にすると、そこに隠れているようにといい含めて、
剣柄を握りしめて樹から離れ、向き直った。
彼の銀色の髪におちる木漏れ日は、緑色の光となって、あたりにも揺れた。
蒼色の眼を、シュディリスは緑が風に波打つその先に据えていた。
そして一呼吸の後に、彼は白光と共に剣を抜き放っていた。
「何用あって追うか」
厳しく誰何する彼の前に、木陰から人影がばらりと五つ現れた。
シュディリスは剣を構えたまま、再び問うた。「何者だ」。
一つの低い声が応えた。

「フラワン家の若君とお見受けいたす」
「そちらが何者か分からぬうちは返答いたしかねる」、シュディリスは鋭く返した。
「フラワン家の者とこちらを見定めた上でのその無礼であらば、尚のこと、
 明かす名などない」
では、他の遣り方でそれを知ろう、と品を帯びた低い声が笑って応えた。
「当代フラワン家に生を受けた子息息女は、全員が星の騎士の称号を有すとか」
「………」
近付いた影の動きを目端で捉えたまま、シュディリスは構えを崩さなかった。
現れた五人は、剣を抜いた。
「実地に確かめても宜しいかな?」
「そこもとらに、星の称号の意味するところが、判じられるのであれば」
シュディリスの言い放ちを受けて、男は薄く笑った。
金髪を鬣のように靡かせて、
壮年の男の濃灰色の瞳は、朝日に目覚めた刃のようにシュディリスを貫いた。

「自負を皮肉に乗せて人を刺す癖があるのかな、若君」

年少者であるシュディリスを、どこか揶揄する口調だった。
男は余裕を見せて笑った。
「その不遜なる落ち着きこそが君が星の騎士たるその証、
 と云ってよいのではないかな、若騎士よ。
 君が云わんとするところは、星は強さのみを顕すものにあらず、
 額に刻まれたその印は凡百の眼には見えざるものなれば、というわけだな。
 フラワン家のご当主は、世継のご長子を立派な青年に育てたらしいが、
 治世者の徳質に、よもや辛辣と思い上がりを加味したわけではあるまい」
 
男の多弁のその間、シュディリスは飛び出して来た二名を
剣の先で軽く流してかわしていた。
跳び退って、カリアのいる樹の影から離れぬよう、剣を片手に足場を固める。
再び打ち込まれた白刃を眼にも留まらぬ速さで打ち返すと、彼は今度は踏み込んで、
両側の二人が体勢を整える暇も与えず、続けざまに流し斬った。
その素早さはまるで、シュディリスが緑の光の中に、
白い虹を大きく描いて雨だれの代わりに血雫を振り切ったように見えた。
「容赦ないな、若君どの」
瞬時のうちに剣を落とされて深手を負った仲間の姿を見て、男はさすがに顔色を険しくした。
「オーガススィ家の血を持っているだけのことはある」
「目的を伺いたい」
「後ろにおられる御方にそれはお伝えしよう」
「ならば、これより先に進むことは果せぬものとお心得ありたい」
シュディリスは男の灰色の眼を見据えて冷たく応えた。
「次は手加減しない」
「たいそうな自信だな、シュディリス・フラワン!」男は笑った。
残る二人が間合いをつめてきた。
男はそれを制して、後ろから「待て、俺がやろう」、と進み出てきた。


「後学のためにも一度、その鼻っ柱を折られる必要もあるのではないかな?」

男の振りかざした剣は、次にはシュディリスを殴り払っていた。
暴風に吹き飛ぶように、シュディリスはそれを辛くも避けて、避けた先にいる
男の仲間を一人斬って退けると、
間髪入れず後を追って頭上から落ちかかってきた男の剣を柄元で受け払い、
さっと後ろに下がった。
カリアを隠した樹からこれでは離れてしまうが、男の腕前を知った今は、うかつに動けない。
細かな血の霧を浴びた汚れを拭いもせずに、シュディリスは立っていた。
対峙したシュディリスと男は睨み合った。
「もう一度、云うがいい、フラワン家の若君」
剣光の向こうで、男は朗らかといってもいいほどに微笑んでいた。
「先ほど、君は何と云ったかな。
 ------そこもとらに、星の称号の意味するところが、判じられるのであれば、と、
 そう啖呵を切らなかったか?」
「…………」
ゆっくりと男は剣を持って歩いて来た。
「よもや君、弟や妹相手に、お飾りのその冠に安穏と酔いしれていたわけではあるまいな」
弾くように剣を叩き返して、男は微笑んだ。
「お雛さま遊びならばそれも良かろう。だが、
 誇りばかり高い星の騎士などよりは、名誉称号なくとも、修羅場をくぐって来た
 騎士の方が勝敗においてはついに勝ることを、------覚えておくがいい」
「あなたは何者です」
シュディリスは押されながらも、その蒼い瞳を燃え立たせて、反撃に出た。
落ちる陽光が、地面に濃い光のまだらを作る中、
強い剣戟の音が立て続けに木の葉を震わせた。

「ただの騎士だよ、フラワン家のご長子どの」

灰色の眼を細めて物騒に笑いながら、男は片手持ちの剣でシュディリスをかわした。
「面白いことがトレスピアノで起こっていると聞いてやって来た。
 事情は大方察したが、ユスキュダルの巫女を奪い去った若者が果たして、
 真にフラワン家の嫡男なのかどうか、それともそれを詐称するレイズン家の隠密なのか、
 それが知りたかったところだ。
 疑いは晴れたよ、安心するがいい。それではさすがに君は殺せない」
「愚弄するか」
「賛辞と受け取れ」
剣と剣がぶつかり合った。
「すぐにかっとなるのだな君は」、男はシュディリスの顔を近々と覗き込んだ。
「俺にそっくりだ。
 だから親身にもなれるし、その未熟さや生意気に嫌悪も覚える。
 もっとも歳の差に関係なく真正の剣士は、因果なことに、みな揃って似てくるものだがね。
 激情家で、自尊心が冴え渡っているわりには厭世を気取り、負けず嫌い。
 しかしひとまずは年の功に譲るがいい、君の負けだ、シュディリス。
 俺のこの顔をよく見て、何か思い出さないか?
 それとも、オーガススィ家とは早いうちに縁が切れた俺だ、君に叔父がいることも知らんか。
 幼少の折に別れて久しい俺の姉上、リィスリ様はお屋敷にご息災かな」
「………辺境伯クローバ・コスモス殿!?」

金管の音を立てて、シュディリスの手から剣が飛ばされ、地に落ちた。
愕きでシュディリスは痺れる腕を押さえたまま眼を見張り、
「まことに」、と名を知るばかりの叔父にようよう云った。
オーガススィ家の一男子であったクローバは幼少のうちにコスモス家に養子に出され、
クローバ・コスモスと名を変えてコスモス領内で成人の後、コスモス家を継いだのであるが、
元を糺せばクローバは、シュディリスの養母リィスリ・オーガススィの弟である。
あらためて見れば、その髪、その瞳の色は、母や妹の面影につうじる、
紛う事なきオーガススィ家のものであった。

「このような辺鄙な森で噂に聞く姉の子と邂逅叶うとは、俺も思わなかった」
「貴方こそ、故国を出奔の後、行方不明と聞いておりました」
「辺境伯は返上し、今は一介の放浪の騎士だ」

クローバは打ち落としたシュディリスの剣を自ら拾い上げると、
「君のこれは良くないな」、眼の高さに上げて、
日差しに傾けながら、剣先まで検分した。
「何かこだわりを持って腰のものを選ぶか?」
「いいえ。その剣は砥ぎに出した愛剣の代わりに、適当なものを屋敷から持って出たものです」
リリティスとルイ・グレダンを追って参戦した山間での闘いの折、
いつもの剣は刃を損なっていたのである。
「では、俺のこれと交換してやろう、使え」
鞘ごと、クローバは自身の剣をシュディリスに投げ渡した。
ずしりと重たく飛んで来たそれをシュディリスは片手を挙げて空中で受け取り、
「何用あってここに来られましたか、叔父上」
再び訊いた。
その詰問口調の厳しさに、クローバは精悍なその顔をやや苦笑させて、
「クローバで結構。君の母上であるフラワン家の奥方は確かに俺と血を分けた姉にあたるが、
 俺はとうの昔にオーガススィの人間ではないのでね。
 それにしても絵師の描いた画の中でしか知らぬ我が姉だが、
 君は彼女とは似てないな、シュディリス」
「妹のリリティスは母の若い頃によく似ていると云われています」
「生んだ娘を騎士にするとは、姉上も、罪なことをするものだ」

話を逸らさないで頂きたい、とシュディリスは語気を強めた。
クローバに詰め寄ろうとしたシュディリスは、次の瞬間、気色ばんでさっと振り返り、
カリアのいる樹木の陰へと視線を走らせた。
「謀ったか、クローバ・コスモス!」
シュディリスは今しがた受け取ったクローバの剣の先を、
クローバへと突きつけた。
「俺に気を取られていた君が悪い。だから、未熟だというのだ」
「今すぐ貴方の従騎士を、あの御方から遠く下げてください。
 さもなくばカリアを捕えているあの女騎士ともども、クローバ・コスモス殿、貴方を殺します。
 わたしを襲わせて、貴方はカリアを奪うつもりだったのだ」
「ユスキュダルの巫女。カリア・リラ・エスピトラル様」
クローバはシュディリスには構わなかった。
シュディリスの剣を手の甲で押し退けて、
「俺に負けたばかりの男が吼えるものではない、君は短慮ではないにしろ、本当に短気だぞ」
悠々すれ違うと、樹を背にして立つカリアの前に進み出た。
カリアの細影の傍には女騎士が立っており、
気遣うように、カリアの手を取っていた。
女騎士に支えられたカリアはそこに咲く、一輪の細茎の花に見えた。
クローバは片膝をつき、その淡い金髪の影を地に落して、頭を深く垂れた。

「ご無礼、お許しあれ。放浪の騎士クローバ・コスモスと申します。
 そこなる女騎士は我に従う騎士の一人で、名をビナスティ。
 我ら、巫女をミケラン・レイズンの策謀より御守りするべく、
 我が友人、ジュシュベンダ君主の意を受け、御身をお迎えに上がりました」

ユスキュダルの巫女は、たった今、空からそこに降りてきた幻のように、
クローバ・コスモスの口上を聞いていた。
周囲に散らばる剣と傷ついた男たちを、逃げた小鳥を探すように見渡すと、
「血の匂い」、と、巫女は言葉を発した。
誰の胸も震えるような声音だった。






[続く]




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