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[ビスカリアの星]■十二.





放浪の騎士クローバ・コスモスは、しばらくの間、地に膝をつけたまま、
ユスキュダルの巫女を仰視していた。
心に焼き付けるかのようにその濃灰色の眼を厳しく細め、
空や緑と、大地と大気と、不可視の糸でぴんと結ばれて、固く縛められることで
ようやく危い処に零れ落ちずに立っているかのような、
巫女のその姿を見ていた。
カリアは静かにそこにいた。
揺らぎ立ち上る何かを張り詰めさせながら、名の付けようのない煌々とした静かな想いを、
そこにいる人々に分け与え、その姿は何かにもがき苦しんで、
羽ばたこうとしても羽ばたけずにいる。
森に集った騎士たちの前に立つそのほっそりとした女人の身体は、
もはや性別を超えた、
剥き出しの一つの精神、人智を超えた力で燃え上がり焼けていく魂のように見えた。
何にも云わぬその唇は、ひっそりと閉ざされたまま、見つめる人々に
大いなる謎を告げているのだった。
星を連れ、風を連れ、
夜明けの暁光と黄昏が、またこの世の空に過ぎていく。
そなたらがそこにあり、この世のうつろいの中に共に存在する驚異を、
人はなぜ、忘れてしまったのですか?
森の光は降り止まぬ雨のよう、その向こうに、古代から続く
虹や冷たい青空の彩りが、現れて消えていくのが、見えませんか。
鹿の子まだらに雪は降りしきり、地表にある事どもは夕べのうちに熱い灰が埋めていく。
わたくしにはそれが見えるのに、あなた方には、
燦然と輝く、あの星が見えないのですか。
いつもこの胸を切り裂く。
それとも、あなた方は、その利己心より得るものをこそ、至上の王冠と思うのですか。
あなたが欲しいものは僅かばかりの、うたかたの誉れなのですか。

「この目で見るまでは、幾多の曖昧な伝説に包まれた巫女のことは、
 話には聞けども、疑いを持っておりました」

やがて手を片膝の上で握り締めたまま、
放浪の騎士クローバ・コスモスはようよう声を絞り出した。
「一介の騎士としてユスキュダルの御方に敬意は惜しまぬながらも、
 有名無実なるものとして、その名ばかりを崇めていたといってもいい。
 おそらく、ミケラン・レイズンもそれは同様でしょう。
 しかし、貴女の光明をこうして目の当たりにした時には、
 彼とても我が身と同様、心の底より考えを改めるに違いありません。
 一度邂逅したことのある彼は、酒に酔いながらも、その眼光は真実に対して
 決して曇ってはいなかった。
 ユスキュダルの巫女よ、か弱きその器には到底耐え切れぬものを、
 御身は耐えておられる。その身を選び、瀑布のように天上の彼方より
 流れ落ちてくる神霊の示現者として、地上での命を手放しておられます。
 清浄なる雪山の、花降る霊廟こそが御身に相応しきうてなとは承知なれども、
 当座をしのぐ仮宿を、どうか我らにお任せあれ。
 御身こそこの地上に遣わされた聖光である。巫女よ、ジュシュベンダへお越し下さい」

-------シュディリス。
カリアに呼ばれた。
シュディリスは夢から醒めるようにはっと顔を上げて、カリアの許に駆け寄った。
薄い虹が飛び去るように、カリアを包んでいた神秘は解け、
日差しに照らされてそこにいるのは、蒼褪めた面持ちの、若い巫女だった。
「カリア、ご無事ですか」
傍らに控えるクローバの部下の女騎士を下がらせて、
巫女を近くの樹の根に坐らせると、シュディリスはうな垂れた。

「何とお詫びしても足りない。貴女を守ることが出来なかった。
 あれがレイズンの手の者であったらと思うと、死んでも足りない」
「よいのです。わたくしは何も怖れてはいないのですから」
蒼褪めた顔で、カリアは謝るシュディリスに首を振った。
「それよりも、シュディリス、わたくしはジュシュベンダに行こうと思います」
「クローバ・コスモス殿の今の言葉を全てお信じになるのですか。
 ジュシュベンダの大君が貴女を庇護したいとの、その申し出を鵜呑みに?」
カリアは微笑んだ。
安堵よりも、かえってそれを見るシュディリスの胸には、
何かの大きな不安が欠落となって落ちるようだった。
何故、そのように微笑むのです、カリア。
透き通って消えていきそうだ。
「何故ならば、いま大切なことは、わたくしがレイズンに捕まらないことだからです」
「それはそうですが、しかし、トレスピアノからジュシュベンダに移っても、
 かえって巫女はここにありと知らしめることになり、 
 騎士家の取り潰しを謀るミケランにはかっこうの口実を
 与えることになりはしないでしょうか」
「わたくしは大丈夫です。わたくしが案じているのはシュディリス、貴方のこと」
訝るシュディリスに、カリアは優しく微笑んだ。
ミケランがまず先に亡き者にしようとするのは、
わたくしではなく、カルタラグンの皇子である、貴方のほうだからです。
日に透けて輝く若葉の薄影かと思ったそれは、カリアの瞳だった。
薄い花びらで包まれるように、シュディリスはカリアのまなざしに抱かれていた。
さわさわと揺れる樹木から零れる緑の光が、水草のように辺りにしんと揺れる中、
遠い昔、あるいは未来から訪れた、そのような何かを、カリアはシュディリスに教えた。
ずっとリリティスとユスタスが、貴方を呼んでいる。
慈しみの眼をして、カリアはシュディリスの額に手を置いた。

「リリティスとユスタスの許に帰らなければ。貴方は彼らの懐かしい兄なのだから」


「心配ならば君も一緒にジュシュベンダに来たまえ、シュディリス」
クローバ・コスモスが後ろから云った。
若者の銀色の髪を無遠慮に後ろから掴んで、カリアから引き離し、
離れた樹の幹に押し付けると、
友人の仕草でその頤に手をかけて上向けさせた。
「その前に君のこの傷を見てやろう。気になっていた」
血に汚れたままの衿口から覗くシュディリスの首筋の傷を彼は軽く指で弾いた。
「まだ新しい怪我だな。巫女を奪う際に遣り合いでもしたか」
「もう治りました」
「些細な傷でも放っておくと命取りになるぞ。------ビナスティ!」
「はい、クローバ様」
「薬をくれ」
離れた処に控えていた女騎士がすぐに応えた。
肩まで流れる癖のある美しい金髪をヴェールのように揺らして、
シュディリスによって傷つけられた騎士らの傷の手当をしていたビナスティは
その手を止めてすぐに立ち上がり、こちらにやって来た。
豊かな胸と細い腰をした、森の女神のような女騎士は、
その白い額に、はっきと目立つ深い縦傷を持っていた。
ひと目で刀傷と分かる醜いそれを、騎士ビナスティは髪で隠さずに顕にしており、
額にあるその傷のせいで華のある女の顔立ちには、
男を誘うような、棘と弱みがちらついた。
シュディリスは同じように顔に深傷を負った女のことを思い出した。
アニェス。
ジュシュベンダに置いて来た昔の恋人。
同時にもう一人の男の名も。
「--------パトロベリ・テラ」
「ん?」
「クローバ、貴方がここに現れたのは、
 パトロベリ・テラが山間で襲撃を受けた旅の一行に不審を抱き、
 追尾をかけていたからだ」
シュディリスはその蒼い目をぴたりとクローバに据えた。

「国境沿いの山道で襲撃された巫女の一行は、
 救援を求める烽火を上げました。
 駆けつけたジュシュベンダ国境警備隊を率いていたのが、彼です。
 パトロベリは何食わぬ顔で山間の襲撃現場から引き上げておきながら、
 そのままにはしておかなかったのだ。
 街道を行く旅人に間者を紛れ込ませでもして、一行を尾けた。
 トレスピアノに不法侵入してきたレイズン軍の道筋を辿り、
 ジュシュベンダの客人である貴方がここに現れることが出来たのは、だからですね」
「そうだ。よく気が付いたな。だからといって短絡的に、
 ジュシュベンダとレイズンが結託しているなどと思い込んだりはしてくれるなよ」
あっさりと、クローバは認めた。
「西の都と呼ばれるほどの大国ジュシュベンダを、
 ここトレスピアノのような泰平の眠りにある地と同一視するほど
 君も暢気者ではないだろう、シュディリス。
 妾腹とはいえ、そこを統治する騎士家に連なる生まれをもったパトロベリが、
 その目で見たものを、そのまま右から左へ流して片付けるはずもない。
 こう云っては何だが、トレスピアノの君らが知らぬだけで、
 ジュシュベンダの中枢ではとうに、ミケラン・レイズンがユスキュダルに使者を送ったことも、
 レイズン家から軍隊が動いたことも、逸早く掴んで承知だったのだ。
 ジュシュベンダだけではない、
 北の大国ハイロウリーンでもそれは同様だろう」
「ハイロウリーンも……」
「本来であれば、騎士の国であるハイロウリーンこそ、
 巫女の護衛に附くには相応しいのだ。
 それが証拠にハイロウリーンからもユスキュダルの巫女の保護を名目とした
 大部隊が目下ひそかに南下中だという。
 もっとも俺はパトロベリからその話を聞いて、
 どこにも属さぬ放浪の身分であることをいいことに、
 レイズンの軍勢が向かった街道を目掛けて勝手に飛び出して来たのだがね。
 さすがに神聖不可侵のトレスピアノ領内で、レイズンとジュシュベンダの旗印が
 巫女を奪い合って激突するわけにもいくまい。
 大君は俺の単身行動を黙認のうちにお許しあったよ。
 ミケラン・レイズンが何を考えているかは知らんが、みすみすユスキュダルの巫女を
 盗られるのを黙って見ている国はない。
 いつまでもここにぐずぐずしていれば、巫女を巡って諸国が立ち上がり、
 トレスピアノが戦場になるぞ」
「………」
「疑わしげに、そう睨むな」

苦笑して、クローバ・コスモスは手を上げた。
妻を喪った彼のその左手には、まだ婚姻の指輪が嵌められたままになっていた。
それと対になった亡妻の形見の女物の指輪を
細鎖に通してクローバは胸から下げていたが、
先ほどの闘いで普段は肌につけているそれが飛び出したものらしく、
亡きフィリア・タンジェリンの指輪は今は彼の胸の上に淡く輝いて揺れていた。
自害したクローバの妻が、実母であるガーネット・ルビリア・タンジェリンの姉に
あたることを、それを見つめるうちにシュディリスは思い出した。
シュディリスを、姉リィスリ・オーガススィの子だと信じているクローバは知らぬことながらも、
奇縁に想いを馳せてシュディリスが黙り込んだのを何と思ってか、
「俺がまだ信用出来ないというわけだな、シュディリス」
クローバは顎を手で撫ぜた。
「だがここで俺が幾ら「そうだ」と云ったところで、君が納得にするに足りる
 証しが立てられるわけでもあるまい。時の無駄だ」
「カリアは誰にも渡さない」
「まるで君のもののようだな。往来でそれを喚いたりするのは止せよ」
「双方お静かに。あちらで巫女がお休みです、叔父と甥の喧嘩はそのあたりで」

横合いからビナスティが仲裁に入り、貝殻に入れた塗り薬と、硝子瓶につめた水、
布に包んだ焼菓子を差し出した。

「クローバ様、薬です。飲料と、僅かですがお菓子もお持ちしました」
「何で菓子など持っていた」
「出立を求められた時、女衆を手伝ってちょうど竈でこれを焼いていたのです。
 まだ熱いところを包んで荷袋に入れて来たのを、失念していました」
「------ということだ。シュディリス、有難く頂きたまえ」
「すべて、カリアに差し上げて下さい」
「君だって食べてないのだろう?顔色が悪いぞ、
 いいから適当につまんでおけ。
 さっき一人を伝令にして出したから、じきに別動隊がここに迎えに来るが、
 それまでの辛抱だ。ここからジュシュベンダへ帰る途上でも何か手に入れてやろうから」
「まだジュシュベンダに行くとは云っていない」
「そうなるさ。他にどうしようがあるのだ。
 巫女を攫ったのがフラワン家の長子であることはすぐにも知れるぞ。
 俺がこちらの領主なら、レイズンに対して頑としてそれを認めないだろう。
 その為にも君こそトレスピアノには居ないほうがいい。
 トレスピアノとジュシュベンダは古い盟約で結ばれた仲だ、
 客人の俺が云うのも何だが、大君アルバレスは決して悪いようにはせんだろう」
「そのとおりです」

進み出たビナスティは片腕を胸にあてる略式で、シュディリスに礼をとった。
きらきらと輝く金髪に縁取られた、額の深い縦傷。
顔の中にあるそれは、美しい盛りにある女の美をさらに強く打出して飾る、
勲章のようだった。
きびきびと、しかし艶笑を帯びた声で女騎士は唇を開いた。

「フラワン家の御曹司に御逢いできるとは、光栄です。
 クローバ様にお仕えしている、ジュシュベンダのビナスティと申します。
 以後お見知りおきを、シュディリス様」

「------宜しく」
シュディリスは儀礼的に頷いた。
女騎士を見るのはもちろん初めてではなかったが、あまり自分と歳の変わらぬ、
しかもこのような目立って美しい騎士は稀である。
それでもざっと見て、たいしたことはない、強くはない、と相手の技倆を踏んでしまうと、
同じ騎士としての興味を無くした。
そんなシュディリスの心を読んだものか、
ビナスティはクローバと顔を見合わせて、木漏れ日の中に肩をすくめた。
「べっぴんだろう、だが油断するなよ、
 宮廷にいるお飾りの儀仗兵とは違い、これはなかなか腕は立つぞ。
 従騎士をつけてくれるというので有難く承諾したら、
 こんな色っぽくて若い女が来た」
クローバはシュディリスに「塗れ」と、薬を投げ渡し、ビナスティへ顎をしゃくった。
「物好きにも流れ者の俺に剣を捧げたるとは、
 どんな騎士かと思いきや、
 これが男の前でも平気で着替える、後で見せてもらえ。
 色気仕掛けで近付いて、俺の動向を大君に密告する役目を帯びているのだ。
 だが生憎とこちらはまだ妻の喪に服している。君に譲ってもいいぞ、シュディリス」
「人聞きの悪い」
琥珀色の目をきらめかせて微笑みながらビナスティは、
腰に握った剣の鍔をクローバに向けて、
憤慨の代わりに小気味よく打ち鳴らした。
「そのようにお疑いならば、今すぐここで私を斬り捨てて下さればいい。
 たまたまお部屋に貴方がおいでとは知らずに上着を脱いだだけですのに、
 その云われ様はあんまりです。シュディリス様の前で私を女と侮り、
 愚弄されるのですか。
 これでも剣と共に地獄を見て来ました、今度云ったら承知しません」
「大層だなそれは。今度云ったら、どうするのだ」
「その時には、寝首をかきに寝所にお邪魔します」
「では今晩」
「クローバ様の言をお信じになりませんように、シュディリス様」
地獄を見て来たという女騎士は、みずみずしく笑った。
まるで畑で藁を積む美しい娘のように、宮廷で円舞曲を踊る美女のように、
額に傷を持った女騎士は、生けられた花のように笑った。
「気難しく黙られている時もあれば、このように、
 おふざけになることもあるのですわ。傍仕えしている私の監督不行き届きです。
 伏してお詫び申し上げます、シュディリス様」
「シュディリスで結構です、ビナスティ」
クローバ・コスモスに揶揄された格好となっているシュディリスは
素っ気無く応じた。
「ここは正式の場ではないし、同じ騎士としてそのようなことを、
 普段からわたしは誰にも許してはいない。どうか立って下さい」
いいえ、とビナスティは傍らに剣を立てたまま、首を振った。
「帝国に散らばる全ての騎士国は、その源を、オフィリア・フラワンが
 初代皇帝をその身を挺してお守りしたことにより生まれているのです。
 尊き家にお生まれになった若君、ジュシュベンダにご留学の折には、
 遠くからお姿をお見かけしたことも御座いました」
そして、日に輝く髪をふわりと沈めてすらりとしたその身を屈めると、
「ジュシュベンダの総意として、アルバレス大君の望みとして、
 私からもお願い申し上げます。シュディリス・フラワン様、
 ユスキュダルの巫女と共にどうか再びわが国に入来されますよう」
ビナスティはシュディリスの腰に佩いた剣の先に口づけた。
その時、頭上に細く高い、鳥の鳴き声が森に響いた。
「合図だ。迎えが来たぞ」
クローバ・コスモスは人が笛で真似た鳥の声が沈むのを待って、
威勢よく、声を張り上げた。



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-------泣きたい?

-------いいえ


-------二度とは逢えない、それでも決して忘れない
    山の嶺にかかる黄金雲、夏の雨が降る度に
  
-------この世界が終わるまで


「と、このように、まどろっこしい劇だった」
「……本当にあなたは、芸達者でいらっしゃいますわ」
ミケラン・レイズンは召使いらを全て退かせて夫婦二人きりになると、
寝椅子に半身を凭せ掛けている妻アリアケの隣に、自らも腰をかけた。
「どうだった」
夫の黒髪を撫で付けてやりながら、
「本当にあなたには、こなせないことはないのではないかと思うほどです。
 役者の科白まで、一度見たら全て覚えてしまわれるのですね」
妻のアリアケは、ほっと溜め息をついた。
「帰ったらお前に演じてやろうと思って我慢して、終演まで観ていたのだ。
 これでも子供の頃は劇作家になりたいと思っていたこともある。
 目は肥えたが、そのお陰で、
 世の中の殆どの劇が詰まらなく映じてしまうようになった。半可通の悲劇だな」
「今宵は珍しく、屋敷にいて下さるのね」
ミケランはそれには応えなかった。
「アリアケ」、妻の名を呼ぶと、頬に手を添えてこちらを向かせた。
窓からは中天に浮かぶ白い月が見えていた。
「今日は少し良いようだ。明るい顔をしている」
「髪を少し切りましたの。そのせいでしょう」
「もちろん、気がついていた」
快濶に笑い、夫は病人の妻の肩を抱き寄せた。
「久しぶりに落ち着いて元気なお前と話せるのだ。何かわたしにして欲しいことはないかな」
「お願い事をしても」
「なんなりと」
「昨日、コスモス領に落ち着かれたタイラン様から手紙が届きましたの」
「弟からお前に。それで」
「環境が変わったことで、その後ご不自由な
 脚の具合は如何かとこちらが出したお見舞いの手紙の、
 その返礼を下さったのです」
「気を遣ってくれたのか、それはありがとう」
「タイラン様から頂いたものはまだそのまま別室に積んでありますから、
 明日にでもご覧になって下さい。
 あなたが向こうでお気に召したとかいう城蔵のお酒も届けて下さいましたわ。
 タイラン様によれば、何でも、あちらのお城には大層立派なお庭があり、
 そこに咲く花々が夜になると特に、素晴らしい芳香を放つそうですの。
 学名がいろいろと書き記されておりましたが、あなたになら分かるかしら。
 興味がありましたら後でその手紙をお見せします」
「いや、弟の様子は聞いて知っているので構わんよ」
「タンジェリンの血を引くフィリアさまのご自害と、
 領主クローバ・コスモス様の失踪の後に、それを招いた他ならぬ
 ミケラン・レイズンの実弟としてのお国入り、
 前領主は実は失踪ではなく、城の受け渡しの際、
 ミケラン・レイズンに暗殺されたのだとも噂されておりましたし、
 さぞや弟御タイラン様におかれましては新領主としてご苦労が多いかと思いましたが、
 あのようなご性格の方ですもの、領民が憎もうにも、ご本人が花園の中で
 庭いじりをしている姿を見たら、憎しみも拍子抜けしてしまいますでしょう。
 案じておりましたが、ご様子、恙無きようで、安堵いたしました」
 
「弟のことではお前にも心配をかけた。しかしアリアケ、
 話は要点をまず先に云うものだ。
 わたしに頼みたいこととは何なのだ」
「ご幼少の頃は劇作家になりたい夢をお持ちだったというのは本当ですの」
「他の芥の夢ともどもに」
「それでは、その観察眼を生かして、妻の望みを当てて下さいましな」
「-------そうだな」
脚を組みかえると、ミケランは妻の顔を眺めた。
病みやつれることでかえって加齢を止め、生きた人間というよりは、
紙を合わせて出来た人形のような、
それでもまだ女の生々しさを新婚の想い出と共に匂わせている妻は、
浮腫の浮き出た腕を、沈黙のうちに袖で隠した。
家同士の取り決めた縁組であったが、
後見人に連れられて見合いの場所に現れた年上の少女は、ミケランの気に入った。
妻のやせた髪をひと束、ミケランは手で掬ってそれを弄んだ。
「おさげにしていた、あの時」
「あの時とは……?」
「見合いの日だ。互いにまだ子供だった。もう二十五年も前になる」

美しい女、健康で若い女、才気ばしった女、愉しめる女、女は女。
そして枯れた花でも花であるように、これは妻。

「庭に出て、話しかけても、何も応えてはくれないので閉口した。
 こちらも少年だったからな、見合い相手が年下だというので
 侮られているのかと思った。おさげの髪に飾ってもらうようにと花を手折っても、
 いつまでも手に握っているのだから、気まずいものだった。
 それでは見合い相手のことがよほど気に入らないのだろうと」
「何でもよくご存知なので、びっくりしていただけですわ。
 それに、神童だ何だと脅されるように聞かされておりましたので、
 存外に、さばけていてお優しく、快濶なご様子に、戸惑いましたの」
「何でも詳しいのではなく、興味のあることならば、という但し書きが最初につくがね。
 だから長年連れ添った己の妻のことも、少々は理解しているつもりだ。その望みも」
「では、当ててご覧になって」
「たとえば、そうだな」
「仰って」
「妻が、弟と、長年想いを交わしているとかね」
びくりとしたアリアケは、身を引こうとして、逆に夫の腕に捕まっていた。
髪に触れる夫の声は耳朶に低く流れた。
背を支える腕も、首筋や頬を撫ぜる手もやさしいままに、実に楽しそうに。
アリアケは身を震わせた。放して、あなた。
ミケランはにっこりと笑って妻を抱きしめた。
アリアケは抗って身もがいた。
「嘘です、そんな」
「お前はこう思っている。次から次へと新しい愛妾を作っては
 その許に通う不実な夫などとは離縁して、あてつけに、夫の可愛がっている
 弟の許へ走ろうと。その陰気な想像は病の床にある間、
 ずいぶんとお前の慰めになったことだろう。
 わたしはそれを責めないよ、その資格もないことだしな」
「あなた・・・・・」
「弟のタイランは優しい男だ。
 少年の頃より想いを寄せてきた兄の妻の不幸には、深く同情したことだろう。
 同病類を憐れむではないが、身体が不自由な分、病人の気持ちも分かることだろう。
 かといって兄の非行を諌めるほど兄に対して憤ってもいないし、
 お前を愛してもいない。仄かな憧れと憐れみというところかな。
 タイランはあれで、誰よりもこの兄という男を分かってくれているのでね、
 方向性は違っても彼もひじょうに鋭い、賢い男だから、
 義姉の気持ちを知りつつも、良い義弟のふりをしてくれているのだ。
 そのような弟の忍耐と勇気は、わたしも高く評価しているよ」
「タイラン様は、何も、そのような、わたくしだって・・・・」
「実弟と妻が思慕を交わしていても、わたしは怒らないと、そう云っている」
ふいに真面目な顔になり、ミケランは抗う妻の上に覆いかぶさり、いよいよ抱き寄せた。
「自分の手を汚さずに知らぬ顔をして、双方に良い顔を向けながら、
 終局的に己の評判を守っているだけの誠実ぶった人間ならば心底から軽蔑するが、
 弟は実に愚直で寡黙で、賢明だ。
 人に対して申し訳ないという想いを知っている人間こそ、
 善良な人間なのだということをわたしは彼から学んだ、あまりいいこととも思えないにしろな。
 そしてお前も実に貞淑な妻でいてくれる。
 だから何も怒ってはいないし、心配もしていない。
 そこの卓にある押し花が、弟が送ってくれたという、コスモス城の庭に咲く花か?
 実にきれいな花ではないか。
 妻を慰めてくれたお礼は、わたしからも弟に云っておこう。ところでアリアケ、
 今宵のお前は本当に、具合が良さそうだ」
「あなた、やめて」
「酷い男だと?」
アリアケは身をよじってミケランから逃れようとして、すぐに咳込んだ。
骨と血管の透き出た薄い身体を寝椅子に丁寧に横たえて、ミケランは水薬を
妻に飲ませると、その呼吸が落ち着くのを待った。
「弟のことを想っている妻を抱くのも面白いかと想ったのだが」
震える妻の手を握ってやりながら、半ば眠たそうに云った。
「願い事の話をしていたのだったな。
 コスモス領に物見遊山に行き、弟に逢いたいのならばそうすればよい、と
 快く送り出してやりたいところだが、
 今の身体では到底無理なのは自分でも分かっているだろう。
 不実な夫であっても、わたしが母のように妹のように娘のように、
 お前をこうして大切にしていることだけは信じてくれていいと思うがね。
 何が不満なのだ。
 別宅を持たせて愛でている若い女がいることか?
 多少の嫉妬は抑えようもなかろうが、それとこれとは別だということくらい、
 子供じゃないのだから分かってくれていると思っていたが」
「………」
「”泣きたい?”」
「--------いいえ」
「では、もう泣くのはおよし。疲れさせてしまった。わたしが悪かった」
「そうやって何もかもをお一人で把握されているつもりの、
 あなたのそのご様子にこそ、わたくしは哀しく、悔しいのです」

じっとりと泣き濡れた頬をミケランの胸に傾けて、さめざめとアリアケは訴えた。

「人は、あなたの劇の中の人物ではありませんわ……それぞれに
 生きた血の通った、怒りや哀しみを持った、一つの人生を持った人間です。
 あなたのそのような態度は、敵を大勢作るに違いありませんわ」
「そのくらいのことを分からぬ男だと思われているとは、情けない」
妻を抱いたまま片腕を伸ばすと、
ミケランは弟のタイランが妻に送って寄越した押し花を手に取った。
押し花にされた花は、その花弁も色もそのままに、芳香を放っていた。
(クローバ・コスモスが妻のフィリアの遺骸に手向けていた花だな、これは)
(都に搬送してもまだ棺からはこの香りがしていた)
(あの男はジュシュベンダに行ったか。強い眼をした男だった。
 クローバ・コスモス。いずれまた逢うだろう----)
押し花を卓上に戻して、「アリアケ」、
ミケランは泣いているアリアケの顔を両手で包んだ。

「少しお前を放っておきすぎたのか?そうは思わないがね。
 こうしてこの夫は、妻の憂鬱な心情や、ふとした思いつきで差した魔心や、
 ひそかに育んできたらしき義理弟との想像上の姦通にも、詳らかなのだし」
アリアケは少女の頃からあまり顔立ちが変わらない。
薄い頬も細い首も、目立たぬ地味な造りも、その姿そのものが、気に入った。
「ついでに人間にはやはり等級というものがあることも、
 高貴な人間と下劣な人間がいることも、
 その精神のありように、明らかな差異があることも、分からぬお前ではないだろうに。
 それを傲慢と人は呼ぶがね、わたしはそうは思わんね」
「存じておりますわ。たとえ奴隷の子であっても
 端倪すべからざる素質を見出した時には、
 大いに取り立てられてきたことも、たとえ憎まれようが、
 賄賂や追従による斡旋には見向きもしてこなかった、あなたであることも」
アリアケは弱々しくその手をミケランの肩にすがらせた。
「人間には等級があると仰るのね。
 そしてご自分にはそれが正しく量れると自負されていらっしゃいますのね。
 では、その等級の中におけるわたくしは、あなたにとって何所に位置づけられておりますの。
 こうして病魔に蝕まれ、痩せ衰えて健康からも天からも見放され、
 子供も遺せず夫の慰めにもならず、
 大事な話は何一つわたくしには相談もしてくれず、
 夫が愛人の許に通うのを病床から見送るばかりの惨めな女は、一体、あなたの何なの」
「妻だ」
当たり前のことを訊くなとばかりにミケランはさらりと答えた。
この世界が終わるまで。
おさげ髪で見合いの場に現れた年上の少女は、確かに、ミケラン少年の気に入った。
彼が妻にする女に求めた唯一の条件は、生涯愛せる女であることだった。
病める時も、浮気をする時も。
愛欲と関心が失せた時にも。






[続く]




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