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[ビスカリアの星]■十三.





父の許より旅立ったユスタスは、まずは姉リリティスの探索を第一とした。
数刻の遅れである。追いつくだろう。
畑帰りの農夫を見かけるたびに、若い娘が馬でここを通らなかったかと訊ねた。
しかし、連れ戻されるのを怖れてか、リリティスは姿が目立つ道を
ことごとく避けたと見えて、黒い森が近付いて来ても、
何の手がかりもユスタスは得られなかった。
誰かと接触さえしていれば、なかなかに忘れがたき容貌の我が姉である、
何らかの収穫はあっても良さそうなものであったが、まったくそれがない。
情報を何一つ入手出来ぬまま、
昨日来の疲れが出てきたユスタスは馬の上で伸びをし、あくびをした。
出しなに父カシニがびっくりするほどの大金を呉れたが、何といっても
勘当してくれと大きなことを自分から云った手前、領内にいる間はさすがに
家の金を使う気にはなれず、街道沿いの宿が煙突から煙を空に流し、
夕餉の良い匂いがするのに空腹を誘われながら、
そこも通り過ぎて、今夜はもうリリティスを探すことを諦めて、
適当な場所で野宿することにした。
レイズン家の軍隊をトレスピアノ領内で分宿させている目下、
伝令や、警備の者たちが頻々と行きかっている賑やかな街道である。
人目の多い今宵ほど、そこを行く旅人にとって安全な場所はないとも云える。
誰そ彼刻になったので、ユスタスは旅外套の頭巾を後ろに跳ね除け、
夕風の涼しさに顔を晒した。
べつだんフラワン家の者とばれたところで困ることもないが、それでも
顔を隠しているとそれなりに行き交う人々の眼が不審そうに
自分の姿を追っているのが分かって、閉口していたのだ。
謎の旅の一行を尾けて出る際、兄のシュディリスが、

「外套の頭巾を被るより帽子の方が、昼間は怪しくは思われない」

と云っていた意味が、ようやく分かった。
助言を弟に与えて、兄は何食わぬ顔をしていたが、
大方、これもシュディリスがジュシュベンダ留学時代に、悪さのついでに覚えたことなのだろう。
ユスタスにとっては、自分こそが家族の中で一番兄シュディリスと親しいという自負があり、
最も打ち解けて何でも話せる男同士の仲だ、とも思ってはいるが、
そんなユスタスでも、兄のことは、まだまだ知らぬことが多かった。
シュディリスはあまり自らは自分のことを語らない性質だったし、
訊けば答えてくれるものの、それも、嘘ではないにしろ、
間違いなく本当のことなのかといえば、そうでもなさそうなのが常である。
(では、訊くが)
多分、兄は意外そうに目を見張りながら、こう云う。

(冒頭か末尾にでも、これは本音だと念を押ししておきさえすれば、
 泣き言混じりな放言でも、それにいかにもな真実味を漂わせておきさえすれば、
 ユスタスはどんな話でもそれを鵜呑みにするのか?)

そして、ふふっと軽く品のいい含み笑いをして、ユスタスの肩に手を置いて行ってしまう。
誤魔化されたような気分だけがユスタスには残るのだが、
だがそういった際の、兄から弟への軽いからかいとその愛情だけは、
疑いようもなく本物の温かみを持っていた。
シュディリスが隣国ジュシュベンダに単身で留学した数年の間、
休暇で屋敷に帰省して来る度に、ユスタスの眼には兄のその人となりは、
深みと眩みがより増したように映ったが、
少年が青年に昇華する時期というだけではない、
別個の人格があの時分、兄の中に根を下ろし、家族からは離れてどこか知らぬ処へと
その基底を移して、彼を完全に独立させてしまったような気がしたものだった。
男の子はそういうものだと単純に決めることも迎合も出来ぬ、
人間としての色合いの違いを、ユスタスは休暇で家にいるシュディリスの
その背中に漠然と感じ取っていたのだが、
淋しさ半分、より兄に惹かれていく気持ち半分、そして、
「シリス兄さんはいつか僕から離れていく」確信が胸に満ちてきたあの頃のことは、
少年ユスタスの中にも、一つの契機を与えた。
(僕は、裏切るまい。
 たとえ離れ離れになったとしても、兄さんに恥ずかしくないように、
 兄さんだけは裏切るまい)
具体的にそれが何かはユスタスにも分からなかったが、
あの頃はひたすら闇雲にそう唱えて心を落ち着け、急激に大人び、また、
大人びていく兄を見ていた。
シリス兄さん、何となく、変わったみたいだ。
そう告げた時、「失恋したからね」と、シュディリスはやや曇った顔をしてみせて、
それ以上の追求を見事に弟からかわしてしまったのだが、
何でもその女人というのは、
山間で邂逅を見たジュシュベンダ先々代の落とし種パトロベリ・テラと
かつて縁があった人らしく、パトロベリ・テラを目の前にした時のシュディリスの、あの、
渦巻くものを内に抑えているような忍従のきつさはそのまま、アニェスという
その女人への未練や、当時の愛の深さを思わせて、
ユスタスは少々びっくりした。
弟分の自分ですらこれなのだから、リリティス姉にとっては、
夜も眠れないほど、
ジュシュベンダの見も知らぬその女人のことが気になったことであろう。
ユスタスはそこで、首を捻った。
何といっても男同士、こっそりとお忍びで兄がユスタスを誘って娼館へと
繰り出すこともたまにはあったが、そういう時も、まるでそれが清遊であるかのごとく、
兄は悪びれもなく、それこそ陳腐な喩えながらも、温室に入って気に入った花の
隣で眠るがごとく、気楽な風なのが常だった。
翌早朝に家の用事があることを思い出して慌ててユスタスが飛び起き、
兄のいる室の前で幾ら呼んでも応えがないので、何かあったのかと乱入してみると、
その夜の敵娼がしどけなく、「寝かせておいてあげて」と寄り添っているその傍で、
シュディリスは本当にすやすやと、実に気持ちが良さそうに、
銀色の髪をさらりと寝台に流して、その髪を撫でられつつ、
女の膝を枕に眠っていたこともある。
そのような兄の姿と、
パトロベリ・テラに対して、

(アニェス嬢。覚えておいでのはずです)

遺恨を吐き出した、あの冷え冷えとした厳しい苛烈な態度とは、
兄の性格の、複雑な切れ込みを新たにユスタスに見せつけるものであった。
兄が特定の女人に対してそんなに深く情けを傾ける男だとは
露ほど思っていなかったのもあるし、
いつも何層にもその心を隠しているかと思えば、あのように、
弟と妹の見ているのにも構わずに、むき出しの巌のような直情的な一面を
日の下に晒すこともある。

(ビスカリアの星)
(恋人を讃える際に、貴方はそう云った、と聞いています)

恋敵を前にしたあの時、兄はよく堪えて剣を収めた。
それともそれは、傍らからリリティスが愕きと哀しみに張り裂けそうな顔をして、
彼を見つめていたからかも知れない。
兄と姉のことを繋げて考えると、毎度ながらユスタスの頭は痛かった。
所詮はきょうだいとして育った男女である。
おそらくシュディリスにはそれを摘むことは父母への裏切りと、
忘恩行為だとしか捉えることは出来ず、従ってリリティスの想いには行き場がなく、
第一、不謹慎ながらも二人を恋人と見立てて姿を重ねて想像してみても、
その絵面は宿命とか運命などの深刻な陰影に彩られてきらきらしいばかりに重たいばかりで、
とてもではないが弟としては、賛成も応援も致しかねるものであった。
(ビスカリアの星-----恋人を讃える際に、貴方は)
唯一無二、絶対の恋人。
星の深海から一粒の光を見出すがごとく、あなたを見つけた。
ユスタスは暮れていく空を見つめて、やれやれと嘆息した。
何がビスカリアの星だよ、思い詰め過ぎなんだよ、大体。
恋ってもっと楽しくて、嬉しくて、
毎日をばら色にするものなんじゃないのか。
ユスタスはだからそれを見た時、姉の報われない想いを
あまりにも深く考え込んでいたせいかと思った。
そのはぐれ馬には、乗り手の姿がなかった。
木立から差し込む残光に照らされながらこちらへとやって来るその馬の額に
見覚えのある白い斑を見て、ユスタスの全身は総毛立った。
それは見間違えようもなく、兄のシュディリスの持ち馬であり、
リリティスが屋敷から勝手に鞍をつけて出してきた、姉の乗っているはずの、
馬であったのだ。
(何があった)
ユスタスは馬を驚かせないように近付くと、掴む者もいないままぶらぶらと
揺れている手綱をはっしと掴んで、慌てて馬を捕らえた。
騎者を失った馬は恥入るようにうな垂れ気味であったが、
ユスタスが兄がそうしていたように首を撫でてやると、おとなしく擦り寄ってきた。
(何があったんだ。姉さんはどうしたんだ)
しかし何度目をこらしても、鞍は空であり、近くにリリティスの姿はない。
夕闇の向こうから角燈が近付いてくるのを見て、ユスタスは馬を止めた。

「おーい、おーい」

角燈を上げて、農夫が現れた。
「やあ、その子を掴まえてくれたのか。探していたんだ」
「この馬、あなたの?」
ユスタスが誰とは気が付かぬまま、赤ら顔の農夫は「いや、違う」と、正直に答えた。
見慣れぬ少年の顔を珍しげにしげしげと見上げながら、
「日暮れ前にうろうろしているところを見つけて、とりあえずわしのところの厩舎に
 入れておったんだが、これが賢い馬で、渡し棒を鼻面で退けると、
 とことこと抜け出してしまったんだ」
「僕はこの馬の持主を知っています」
「おおそうかね。そんなら、連れて行ってその人に返してやってくれ」
農夫は朗らかに応えた。
ユスタスは相手が嘘を言っておらず、信用出来そうだと見て、さらに訊ねた。
「この馬がはぐれていた場所を教えて。
 そして他には何も見つかりませんでしたか。乗っていた人は何処へ行ったんだろう」
「うーん」、腕組みをしながら農夫は応えた。
「旅外套だけが落ちておったが、この子一頭きりだった。
 河のほとりを歩き回って嘶いておったんだよ。他には誰もいなかった」
「河」
ユスタスは声を上げた。
まさか姉さん、溺れたんじゃ。
しかし農夫が、河といっても浅瀬のあたりだと説明するのを訊いて、
それを打ち消した。だがそれも、残されていた外套には血が飛んでいたと聞くまでだった。
場所は雷で倒れた二本の樹が交叉して倒れているあたりだという。
ユスタスは蒼褪めた。
「滅多に人も通わんところだが、
 馬の鳴き声がするので行ってみたら、これがいた。
 辺りをちょっとは探したんだが、馬の持主は見つからなかったがなあ」
「ありがとう。僕はちょっと急ぐので、この馬ことはあなたに頼んでもいいかな」
ユスタスは馬を降りると筆記具を取り出して、農夫に寄せてもらった角燈の
明かりの中で、素早く手紙をしたためた。
リリティスを失って馬と荷だけが戻って来ても、
父カシニはいたずらに心配するばかりであろう。
書き終わった手紙を、知らぬ者には容易くその形には戻せぬ折り方で畳むと、

「二つ先の村に今晩、領主が泊まっているのをご存知ですか。
 今夜か明日の朝にでもこの馬を連れて行って、この手紙と共に渡して下さい。
 この馬はフラワン家の馬なんだ。これ、少ないけど御礼です」
「え、あんた一体」
「ごめん、本当に急ぐんです」

口早に言い捨てて、ユスタスは馬と銀貨を農夫に押し付けて、
自分の馬に飛び乗ると、わき腹を蹴って駆けた。
(ユスタス、シュディリス兄さん)
過ぎる風に助けを求める姉の声を聞いた気がして、耳を切るようなその悲鳴に、
馬上でユスタスは身を震わせた。
理由があって馬を乗り捨てたのならいいが、身につけていた外套がそこに
落ちていたのなら、何かあったと見るべきだろう。
黒い森には、あちこちの国から追放されて流れて来た野盗が潜んでいる。
その一党にでも捕まって、もしも誘拐されたのだったら。
(僕のせいだ。僕があの時、姉さんを止められなかったからだ。
 姉さんは女なんだから、しかも女騎士なんだから。
 普通の女の人よりも、もしかしたら百万倍も、
 気をつけてあげなくてはいけなかったんだ)
ユスタスは唇を噛み締めて、さらに馬を飛ばした。
何かに巻き込まれて馬から引き摺り下ろされ、
連れ去られていく姉の姿が、不安となって浮かんでは消えた。



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リリティスは、暗闇の中にいた。
轍の音に揺さぶられながら、四方をぴたりと閉ざされた馬車の中で、一人だった。
馬車の床の板に顔を押し付けて、リリティスは何度も唇をそこにこすりつけた。
剣を取り上げられて目隠しと、手足を拘束された上、
声を出せぬように口の上を布で巻かれた時、それをした者が、
「綺麗な子だな」
間近にしたリリティスの容姿に心底感心したように、身を屈めると唇に触れたのだ。
その汚れがそうしていれば取れるとでもいうように、リリティスは板に顔をつけて、
布越しに唇が痛むまでそうやって男の唇の感触を拭い続けた。
休憩を兼ねて馬に水を飲ませるために沢に下り、
岩場に膝をついて顔を洗い、水で濡らした櫛で髪を梳いていると、
背後に人の気配を感じた。剣の柄に手をかけたところで、
「身許をお尋ねしたい」
やわらかな男の声がしたのだ。
付近の村の自衛団の者だろうかと思い、
リリティスは濡れた顔を片袖で拭って、振り返った。
岩場に男が立っていた。
男は近付いて来ると、再びリリティスに尋ねた。
「村の者ではないようだが、ここで、何を」
事務的な愛想を保った口調だったが、男が只者ではないことは、ひと目で知れた。
その目はさり気なくリリティスやその馬を検分しており、
とりわけ、リリティスが剣帯者であることに、じっくりとした注視を向けていた。
リリティスは濡れた髪を肩の後ろに何気なく払うと、
努めて相手に不審を抱いていない様子をつくって応対した。
「お役目ご苦労さまです。
 身元の証になるようなものは生憎持ち合わせておりませんが、
 トレスピアノの者に相違ございません。馬に休息をとらせていたところです」
「この先は黒い森しかない。何処に向かわれる」
「探し人を、探しに」
相手をまっすぐに見つめてリリティスは応えた。
そうしながら、剣を持ち直していた。
男の背後の林に、五人、いや、もっと潜んでいる。

「 素性の分からぬ者はひとまず集めて、調べることになっている。
 そこまで来てもらおう」
「あなたは」
「トレスピアノ国境警備の者だ」

リリティスは男が伸ばした腕から身を引いた。
もし彼らがまことにトレスピアノの者であるならば、
リリティス・フラワンの名を明かして穏便に済ませたいところであったが、
そうではないことを、リリティスの直感が告げていた。
「平服なのは何故ですか」
「領内は目下緊急時ゆえ、下らぬ問答は無用である」
権高く男は応えた。「来い、娘」。
(よそ者。ここを我が父が治めるトレスピアノ不可侵領と知って、その横柄)
傾く陽光の中で数えると、彼らは総勢で七人いた。
全員が武具を具えている。
川面を渡る夕風にリリティスの濡れた髪が雫を散らして夕陽になびいた。
ルイ・グレダンと共に闘った際に負った傷は、まだ完治してはいない。
母のリィスリが巻いてくれた服の下の包帯の上に、リリティスは手を置いた。
(お母さま、ごめんなさい。
 騎士として生きると決めた時に、私はきっと、その引き換えとして、
 大きなものを喪ったのだと思います。
 母の傍で優しく微笑んでいる娘であること、倖せを疑わない娘であること、
 もっとも楽な安佚と偽りの安らぎから離れ、縁を切ること。
 世に満ちる欺瞞から背を向けて、風の中を進むこと)
 
「トレスピアノ国境警備の方々------」、リリティスは一人ひとりを冷静に見回した。
「いかにも」、彼らは頷いた。
「もし本当にそうなら、この私に『何者か』などと、訊くはずがない」、決然としてリリティスは云った。
「何」
「娘、何者だ」
「あなた達の誰一人として、見覚えのある者はいない。そちらこそ、正体を明かして」
「この娘、捕らえろ」

さっとリリティスは剣を抜いた。
「怪我をしたくなかったらおとなしく来るのだ」
「おい、これはやはり騎士だ」
「落ち着いているな。娘。名を訊かせてもらおう」
「あなた達こそ、誰」、リリティスは跳び退り、太陽を背にして、
有利な足場を取った。
「落騎士狩りの盗賊、それともトレスピアノに潜伏した他国の密偵か。
 騎士とみた者を捕えているようですが、あなた達の目的は何」
「女騎士め、場馴れしている」
「ますます怪しい。取り押さえろ」
縮まる包囲の輪の端から、その時、
「その人、僕にやらせて」
弾むような少年の声がした。
リリティスの視界に進み出てきたのは、背こそ高いが、少女と見まごうばかりの骨の細い、
十一、二歳ばかりのほんの子供だった。
一人だけ小柄な者が混じっていると思っていたが、
少年の姿を見たリリティスは眉をひそめ、剣を握り締めた。
初めて狩りに出た子供が獲物を前にして興奮するように、少年は目を輝かせて、
目の前のリリティスを見ていた。

「その女騎士、僕にやらせて。
 約束ですよ。そろそろ僕一人でやらせてくれるって」
「お前にはまだ無理だ。女とはいえあの騎士、強いぞ」
「だからこそ是非」

伸ばした髪を短くうなじで結わえたその少年は、すたすたとリリティスの前に
恐れ気もなく進み出て来た。
すでに剣を抜いている。
その剣を構えて、少年はリリティスに「さあ!」と威嚇と誘いの声を上げた。
そして間髪を入れず、微動だにせずに立ちすくんでいるリリティスに向かって、
少年は滑空する鳥の素早さでひゅっと剣を振り回して飛びかかって来た。
リリティスは「下がりなさい!」と少年に命じた。
一撃をかわして大きく離れると、男たちにも叫んだ。
「まだ未熟な子供を立ち向かわせるとは。この子を引かせなさい」
「この女の人を殺さずに捉えたらいいんだね。
 それくらい僕一人でやれるよ。僕に任せて!」
(殺してしまう)
対峙したリリティスは少年の剣を剣先で流して、激しく困惑していた。
(私はこの子を殺してしまう。この子は加減も何も知らない。
 相手が強ければ遠慮はいらないわ。でもこの子、稽古を積んではいても、
 逸るあまりにすっかり剣の力に引きずられている。
 昔のユスタスを想い出す。------やめて)
リリティスは少年の剣をはじき返し、また少年はさらに追撃に来た。
それはまるで獣を仕留めるのにいたずらに剣を突き刺し回るのに似た、
功を焦り、狩りを喜び、我を忘れている者の動きでしかなく、
隙だらけであるが故に、リリティスは叫び声を上げた。

「私を殺さずに捕えたいのなら、止めなさい」

倣い覚えた型も何もあったものではない力任せの攻め方に対しては、
勢いをかわすのが精一杯で、防御に徹することも出来ない。
辛うじて剣の先を走らせた。
外套にぱっと粉のような血が飛んだのは、自分の血ではなく、少年の血だった。
もともと勇敢なのだろう、少年はそれに怖気ることなく、いっそう意気を上げた。
「やったな、女騎士!」
少年の首が飛び、少年の胴が割れ、
リリティスは己が剣で少年を一刀両断にしてしまう像を、刹那の内に何度も見た。
(どうしてそうしてはいけないの)
そうなるまいと懸命に防ぎ、形ばかりに攻勢に出ている自分を、
冷ややかな眼が、どこかから見ていた。
誰かが、氷るような声でリリティスに囁いた。
それは自分の眼であり、声だった。
(お前は以前、兄に向かって偉そうにこう云ったのではなかったの、リリティス)
(いざ戦いになれば私だって、
 相手がたとえ私よりも若い少女であっても子供であっても、
 刃向うならば迷わず斬ってみせるわ、と。私は騎士だからそうするわ、と)

(騎士なら躊躇うことなく、目の前の少年を切り伏せてみせるだろう)
(何故そうしない。それともリリティス、お前はこの期に及んでも、
 巷の女たちのように、まだ自分にも優しいところが残っているとでも、云いたいの?)

(見っとも無い見得だこと。女騎士を気取っておいて、所詮お前はその程度の、
 気取りやなんだね、リリティス。それでは兄に拒まれても仕方がない。
 そのような覚悟の足りない愚かしい女など、彼には必要ない)
(兄さんなら--------)
(そう、彼ならば、この少年をとっくに斬っている。
 お前のように、情けに惑わされたりはしない。さあ、リリティス、
 あなたは兄に附いて行きたいのでしょう。彼の役に立ちたいのでしょう。何を迷う。
 一度は彼に剣を捧げようとまでしたお前が、たとえ幼年とはいえ、
 剣を向けている子供一人、屠れなくてどうするの。もしこの子供がいつか、
 お前の愛する者に刃を突き立てることがあったら)
(それでも騎士なの、リリティス!)

眼が眩んだ。
後ろから、誰かの手が、リリティスをすうっと抱いたように想った。
懐かしい手。シュディリスの手だ。
幼い彼女が駄々をこねてねだるままに、最初に妹に剣を持たせて教えた手。
静かな、厳しい声で、シュディリスはリリティスの背中を押した。
(リリティス、躊躇うな)
光と影が逆転して、明るくなった。
目の前にぜいぜいと息を切らしながら剣をふりかぶっている少年の顔があった。
一瞬後にはリリティスに斬り下げられて、川に浮いている子供の顔だった。
(シュディリス兄さん)
リリティスは動きを止めた。
その細腕から剣が離れて、岩場に音を立てて落ちた。
その音が冷たく突き刺さった。
「降参?女騎士さん」
少年の顔が歓喜に輝いた。
リリティスが自ら手放した剣を脚で遠くに蹴って、仲間を振り返る。
「勝った!女騎士に勝った!」
風に髪が乱れるまま、そこに立っていた。
騒いでいる少年の声も、頭の上を素通りしていった。
蹴り飛ばされて遠くに落ちた剣に、夕陽が責めるように赤黒く落ちて光っているのを、
リリティスはぼんやりと見ているだけだった。
男たちが取り囲み、リリティスから外套を剥ぎ取り、
他に武器を持っていないかを服の上から調べた時も、
黙ってされるがままになっていた。
その場で目隠しをされ、手脚を結わえられ、男たちの馬に担ぎ上げられた。
横座りにさせたリリティスを、男の一人が片腕で支えて、馬を進めた。
目隠しの上に落ちる影の様子と樹木の深い香りから、
森の中へと男たちは入って行ったと分かった。
やがて幾度かの合図を経て、男たちから、
そこで待機していたと思しき別の一団の手に引き渡されたが、
彼らはリリティスには聞こえないところで話していたので、何も分からなかった。
一度、先ほどの少年が傍にやって来て、
目隠しをされたまま横たわっているリリティスに水を飲ませてくれた。
少年は美しいリリティスが気になるのか、気持ちと裏腹な少し腹立だしげな様子で、
リリティスの世話を焼こうとした。
「ねえ、その腕の怪我のせいでわざと僕に負けたのかい。あいつら、そう云うんだけど」
いいえ、とリリティスは応えた。
続いて虚ろな声で言い添えた。
もし私がわざと負けたのなら、その恥は、私のもの。
騎士を名乗る資格がないのは、私の方。
気にしないで。私を放っておいて。
馬車に乗せられ、口封じの布を口に巻かれて、再び暗闇が落ちた。
そうしながらも、リリティスは馬車を囲んで進んでいる、少なからぬ騎馬の気配に
耳を澄ませていた。武具の音ばかりがして無駄口が全くない。
集団の足並みが揃っている。
これは、軍隊だ。





[続く]




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