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[ビスカリアの星]■十四.





朝靄を透かして、木立の衝立の向こうに森を貫いて流れる河が見えていた。
その河を指して、馬上のクローバ・コスモスは隣に並ぶシュディリスに訊ねた。
「フラワン家の御曹司としての御身に再度訊く」
白い蛇が鱗を見せて這うように、河は朝日に輝いて滔々と流れていた。
「あの河を越えるとジュシュベンダだ。
 ここが分岐点だとしかと心得えた上で返答願おう。
 ジュシュベンダ入りする覚悟はついたか」
シュディリスは河を見つめながら「はい」と、強く頷いた。
「河を渡ります」
「そうか」
放浪の騎士クローバはシュディリスに首肯を返した。
河の対岸には知らせを受けて、
巫女を迎えるジュシュベンダ側の一行が既に到着し、控えていた。
クローバの従者が鳥の鳴き声を真似て笛を吹き、合図を出すと、
対岸の彼らは輿を高く担ぎ上げて、流れの中をこちらへと渡って来た。
曙のまだ柔らかな光が差し込む森の中、近くには巫女カリアがいた。
夜通し森を移動する間、巫女は女騎士ビナスティの馬に乗っていたが、
時折様子を窺うと、
眼を閉じて、姉に凭れる妹のようにビナスティに静かに身を預けたままでいた。
シュディリスはクローバの許を離れて、馬を降りた。
そして朝露を踏み分けて女騎士ビナスティの馬に寄ると、
巫女を馬から降ろすのに手を貸した。

「ジュシュベンダより迎えの使節があれに。
 あちらの輿へお移り下さい、カリア」

それに応えて微かに頷いたものの、一晩中馴れぬ馬に揺られていたカリアは
顔色も悪く、馬から降りるとふらついて、
慌てて差し伸べたシュディリスの腕の中に崩れるように倒れてきた。
それも一瞬で、ひとたび顔を上げると、巫女はその緑の眼を美しく見開いて、
朝の花を踏み分けて進み、やさしいその姿を光の中に現した。
河を渡って来たジュシュベンダの使節団はその姿に一斉に平伏し、
ユスキュダルの巫女を前にして、感極まり、もはや声を上げる者もいなかった。
森が晴れ、対岸に広がる森がくっきりと見えた。
「河を渡った後は、ジュシュベンダの森の中を再び進み、
 夕刻には森の外れに出る」
昨日の邂逅の後、クローバは枝を用いて地面に簡略な地図を描いた。
「今居るここはジュシュベンダとは正反対だ。
 街道はもちろん取れない。
 大回りではあるがサザンカとの国境沿いに沿って、このまま黒い森の中を行く。
 怪我人連れの上、巫女にはご無理を願うしかないが、
 夜通し歩き、明朝までにはジュシュベンダへ入る。急ぐぞ」
そうしてやがて暮れた森の中を、
夜目の利く者を先導に立て、蛍火程度に燈した明かり、それと星明りを頼りに、
一行は夜の間も黒い森の中を西へと進んだ。
彼方に万年雪の尾根を浮かび上がらせたジュシュベンダの山脈を臨みながら、
その道中、
「自害した俺の妻の名は、フィリアと云った」
クローバはシュディリスに話しかけた。
不自由するかと想われた夜の森の中は河沿いのせいか存外に明るく、
晴れた星空の下、地面に絡む木々の根の苔が森の静脈のように微光を放って
青白く浮かび上がっていたので、
眼が慣れるとさほど足許に迷わなかった。
手綱を捌いて進むクローバのその胸元には、
鎖に通して首から下げた妻の形見の指輪が、月の光に滲んだ光を放っていた。
「フィリアは、初代皇妃オフィリア・フラワンにちなんだ名だ。
 あれはタンジェリン家から俺の許に嫁いできた。
 ミケラン・レイズンによって殺されたも同然の俺の妻だ」
今はクローバのものとなった指輪は、
亡骸を離れたフィリアの命がそこに飛び移って宿ったように、
そして妻を喪った男の悔いと悼みのように、夜の森の闇の中でぼんやりと、
彼の胸の上に灯って揺れていた。
シュディリスをフラワン家の嫡子だと信じて疑わぬクローバは続いて他意なく、
「俺の妻フィリアは、その昔、カルタラグン王朝の翡翠皇子が
 いずれは妃にと望んで手許においていた、
 ガーネット・ルビリア・タンジェリン姫の姉にあたるのだ」
不意にその名を出してきた。

「君はまだ生まれていなかった頃の話だから知らんだろうが、
 ルビリア姫の姿を一、二度、宮廷で見たことがある。
 当時のことだ、まだほんの少女だったがな」
「クローバは、翡翠皇子と?」
ミケランは頷いた。
「その頃の俺はミケラン・レイズンと同様、伺候したばかりの若造だったが、
 何度かお言葉をかけて頂いた。
 独特の魅力のある皇子だった。
 何かを隠したようなあの微笑みや、
 こちらの心に直に触れてくるようなあの声の抑揚を、今も忘れずに覚えている。
 そこにおいでになるだけで、辺りがさあっと明るくなるような皇子だった」
暗闇が幸いして表情は知られることはないものの、
不審を抱かれることのないように、余計な関心を引くことを怖れて、
シュディリスはそれ以上は黙っていた。
「皇子はルビリア姫のことを、ルビーと、愛称で呼んでいた」
思い出すままにクローバは語った。
「タンジェリン家特有の赤錆色の髪をして、赤い小鳥みたいに、
 翡翠皇子の後をついて歩いていた。
 ヒスイ、ヒスイ、と呼び捨てにしていて、幼妻のように彼の世話を焼いては、
 彼にからかわれていた。何ともほほえましい光景だった」
「彼女は今は、北方の大国ハイロウリーンの騎士団にいるとのみ聞き及んでいます」
シュディリスは慎重に云った。
ガーネット・ルビリア・タンジェリン。
その名を聞く度に、心の奥底で名付けようのない何かの感情が動き出す。

「今となってはルビリア姫だけがタンジェリン家に遺された唯一の直系だな。
 あの政変から十九年。あの時のあの少女も、もう三十路半ばになるか。
 タンジェリンの残党および血統に連なる者はことごとく
 ミケラン卿の命により首を刎ねられたが、
 ハイロウリーンの騎士団にいる限り、ミケラン卿も彼女にだけは手が出せまい」
「ミケラン卿は、では、クローバ殿の奥方と同様、
 先年のタンジェリン家の叛乱には加担していなかったルビリア姫までも、
 粛清の対象としているのですか」
「王宮で動乱が起こり、翡翠皇子が殺害された時、
 幼かったルビリア姫はその一部始終を目の前で見ていたのだという。
 そして復讐を誓って姿を消した。
 翡翠皇子にとどめの剣を立てたのは、ミケラン・レイズンだ」
「………」
ぎりっとシュディリスの胸が痛んだ。
夢にも想ったことのない実の父ではあるが、クローバの言葉に、
ミケラン・レイズンが突き立てた剣がこの胸にも落ちたようにその時、想われた。
翡翠皇子はルビリアの胎内に己の子が宿っていたことを知らぬままに死んだ。
ルビリア姫が翡翠皇子の復讐を決意したのはいつだろうか。
目の前で翡翠皇子の無残な死を見届けた時だろうか。
剣を帯びた騎士でなくとも養母リィスリ・オーガススィがその嫋やかなる身のうちに
騎士の心を高く潜め、かつて恋仲であった皇子の子供を手許に引き取り、
我子同然に育ててくれたように、
翡翠皇子のその魂は騎士ルビリアの上に乗り移り、
今もなお、気高い気脈を打って止まぬのだろうか。
(ルビリア。貴女に逢いたい)
星空を見上げ、今までにない強さで、はじめてシュディリスはそう想った。
貴女が愛し、貴女が産んだ翡翠皇子の形見はここにいる。
シュディリスはぽつりと呟いた。
「ミケラン・レイズンはわたしにとっても敵となるでしょう」
「そんなことを他の者の耳があるところで、君が云うものではない」
厳しく声を落としてクローバはシュディリスを嗜めた。

「ルビリア姫や俺にはミケラン・レイズンと敵対するに足る私怨がじゅうぶんにあるが、
 フラワン家の御曹司である君が旗色を明らかにするのは時期尚早だぞ。
 ジュシュベンダへの密行についてはいかようにも弁明出来ようが、
 フラワン家の者がうかつに、皇帝補佐役のレイズン家に対する
 敵視を顕在化させるなど、あってはならぬことだ。
 トレスピアノ領主カシニ・フラワン殿におかれては、もし今のことを耳にすれば、
 息子の立場わきまえぬ発言にさぞ悩まれることだろう」
「父カシニは常々、わたしと弟のユスタスに云っていました」
特に悪びれるでもなく、シュディリスは闇に眼を向けて馬を進めた。
星の風がその銀色の髪を冷たくゆらし、夜の森の香りがその身を包んだ。
「父はわたしたちきょうだいに云っていた。
 騎士であることは誰にも止められぬ。
 生まれた時より、その額にはその星の欠片が埋まっているのだと。
 もし迷うことがあれば騎士の心に従って生きよと。
 彼がユスキュダルの巫女を苦しめるのならば、わたしにとっても敵です」
「彼を敵と見做す理由はそれで十分というわけか。相手は手強いぞ」
「高位騎士とか」
「そうだ。生憎と剣を交わすまではいかなかったが、
 城で奴と逢った時に、はっきりと分かった。
 扉を隔てて、その姿がまだ見えぬ前から知れたのだ。
 そこに騎士がいる、『一人の本物の騎士がそこにいる』、とな。
 その魂の呼吸が、この背筋に張り付くように近く感じられたものだ」
「魂の呼吸…?」
「そう」
そこで、クローバ・コスモスは闇の中で声を上げずに小さく笑った。
ちらりと隣を往くシュディリスの影を愉快そうに窺う。
「君とは違う、しかし同じであり、しかし違う色合いの、そんな、な」
「それで騎士は皆、似通ってくるものだと云われたのですか」
「不服そうだな。なら、こう言い換えてもいい。
 敵味方の別ではない。真性の名において、等しいと」
「わたしはミケラン卿とは違う」
「むろん違うとも。俺ともな。
 だが、そこらの騎士の中に混じってこの暗闇の中でもし乱戦となった時に
 誰に向かって剣を向けるかとなれば、君は俺かミケランに、
 ミケランは俺か君に、そして俺は君とミケランを、まず敵とするだろう。
 瞬時に嗅ぎ分けて見分けることだろう。
 愛玩動物ならば頭を撫でて適当にあやして捨て置け。
 三流が一流の鳴き声を真似て吼えても、所詮は三流にしか脅しはきかん。
 牙を向ける相手は、または背中を合わせて闘うに足りるのは、
 同じ匂いのする同類の者だ。分かりやすく云えば、そういうことだ」


「わたしはそんなに強くない。現に、貴方にも負けました」
憮然としてシュディリスはクローバに反駁した。
「フェララのルイ・グレダン様からも経験が足りぬと指摘された。
 今晩はこうして夜通し森の中を移動するので助かった。
 きっと悔しくて眠れなかっただろう」
クローバは大笑いした。
「昼間、俺に負けたことへの当てこすりかそれは。
 嘘つくな、そんな殊勝な男でもないくせに。もっとも、もう少し君は
 自己過信をしてもいいぞ。どうせすぐに星の騎士ここにありと知れるものを、
 そのお行儀のいい態度は、御母君の躾の賜物か?」
クローバは笑った。
きらきらと瞬く満天の星を見上げ、森の夜風の中、
笑い止んだ彼は深々とした蒼い夜空に顔を向けた。
星は歌っているように見えた。
「オーガススィからコスモス家に養子に出された時、
 俺はまだ幼児であったからリィスリ姉の顔を知らんが、リィスリ様の方では
 俺のことを覚えているかも知れんな。
 どうせ乳母を蹴ったとか、いつまでも女の乳首を口に咥えてご機嫌だったとか、
 大の男が恥じ入るしかないような、女だけがしつこく覚えている
 ろくでもないことばかりだろうが、君の母上に御逢いすることがあれば、
 そういった些細な話でもいい、お聞きしたいものだ。
 コスモス城にリィスリ姉上の若き頃の映し絵があった。
 片手に剣を持ちもう一方の手で頭上の星を示している絵だ。
 その絵をいつも眺めていたせいか、他のオーガススィの同胞よりは、
 リィスリ姉上が一番近く思われる。
 その絵の中でリィスリ姉上は、騎士ではないのに、騎士の眼をされているのだ。
 厳しく、やさしく、そして峻厳で静かなる久遠を秘めた眼だ。
 ユスキュダルの御方を見た時、瞬時にその絵を思い出した。
 似ておられるわけではないのに、不思議だな、シュディリス」
夜の薄い幻のように、馬に相乗りしているビナスティと巫女の姿が近くにあった。
その姿に眼を向けて、
「騎士といえばほとんどが男であるのに、
 その象徴はたいてい女の姿をしている。画家も好んでそう描く。
 旗を掲げ、騎士を導いていく女騎士。
 画趣はいろいろだが、どれも女だ。勇気と神聖の象徴だ。
 ものども皆ことごとく傷ついて地に倒れている戦場で、
 ただ一人そこに立ち、彼らを激励している女騎士。
 竜の炎の前に両手を広げて立ち塞がった伝説の乙女。
 そして、我らを見守り給うユスキュダルの巫女も、女人であられる。
 何故にあのようなか弱き肉体を選んで、最も強いものの御しるしがそこに宿るのだろうな」
クローバは女騎士ビナスティのほっそりとした後ろ姿を見つめながら、
やがて嘆息した。

「現実には、女騎士ほど悲惨なものはないものを」
「悲惨と決まったわけではありません」

シュディリスは妹リリティスのことを考えていたので、語気を鋭くして否定した。
「わたしの妹リリティスは騎士です。
 もしリリティスが暗い森で彷徨っているのなら、何としても助けます」
「兄としてか。それとも騎士としてか、シュディリス」
「両方です」
「妹御が本物の騎士ならば、君の庇護を甘受するよりは、
 顔を上げてその手を跳ね除け、身を遠ざけることを選ぶだろう」
「そうです。……ですから、リリティスを助けてやりたくとも、
 それを表沙汰には出来なかった」
シュディリスは苦く付け加えた。
「妹は、わたしや弟ユスタスのそういった心配を、
 己が至らぬせいによる憐みや同情だと思い、
 そこに安堵や慰めを見出すよりは、
 自らを蔑み、ますます苦しむだけでした。
 妹は騎士であることを望み、そのその能力も人並み以上に高く持ちながら、
 その優しさで、騎士になりきることが出来ない。
 ですが、そんな妹だからこそ愛しく思い、護ってやりたく思います」
妹でさえなければわたしはそんなリリティスを愛したでしょう、という最後の言葉は、
シュディリスの口から出ないままに終わった。
いつ頃からか、リリティスは妹ではなく一人の悩める女として彼の前にあり、
そしてそんな妹を何とかしてやれるのは自分だけだということを、
リリティスがそれを望んでいるのだということを、シュディリスは知っていた。
分かっていながらそれでも見てみぬふりをしてきたのは、
自分が受け止めてやることを、
他ならぬリリティスが拒絶すると、分かっていたからだ。
(私が弱いからなの?兄さん)
花のように美しいその顔を強張らせ、リリティスは悲痛な声をいつも上げていた。
(私が弱いからそうやって優しくしてくれるの?
 愛してくれると、嘘をつくの?)
誰よりも優しく、誰よりも気高い妹はそうやって、
騎士であることと女であることの二つに真正面から引き裂かれていた。
騎士である限り、強く生きなければ騎士でなく、
女である限り、男に縋らなければ女ではなく、
リリティスの苦しみはいつも、そのどちらでもない虚空に虚しく落ちていた。
頬に一筋の涙をこぼして、リリティスは唇を震わせ、
答えようもない答えを求めて花の木を離れ、泣いて取りすがってきた。

(どうしてなの?シュディリス兄さん--------)

「幾つだ、リリティス嬢は。十七か」
おおよそは察したという風に、クローバは実直なところを述べた。
「妹御には云ってやるといい。
 その苦しみは自分自身が選びとっているものだとな。
 軽薄に愚かに、恥を知らぬ者として生きることは幾らでもたやすい。
 だが自らそれに背を向け、それを捨てたのだと。
 それに相応しい報いや褒美があるわけではない。
 世に問うたところで歓迎されることも理解されることもない。
 世俗人は実のところ、正しいことや気高いことや、
 まことの美徳やまことの優しさなどをひどく嫌い、嘲笑で報いるものだ。
 味方はいないぞ、リリティス嬢。
 だが、その凄烈とその苦悩を、少なくとも俺は支持する」
憎からず、クローバはシュディリスの妹を夜の森の中で褒め称えた。
ルビリア、ビナスティ、騎士ではなかったが俺の妻フィリア、
君らのご母堂リィスリ・オーガススィ、それにオフィリア、
彼女たちが稀に見せてくれるその強さを、その弱さと脆さを、俺は支持する。
騎士の象徴が女のかたちをとっているのもむべなるかな。
男には敵わん。
「少し、甘く見すぎたのかも知れません」
シュディリスは憂鬱に首をふった。
「いつか、好きな男でも出来たら変わるだろうと楽観していた。
 リリティスは女だからといつも侮っていた。
 女なのだ、男に愛されたら分かるだろう、その懊悩もすっかり忘れるだろう、
 倖せになるだろうと、適当に片付けてよく考えてやらなかったことは否めません。
 妹に剣を持たせるのではなかった。
 子供の頃、きょうだい三人で遊んでいた。
 オーガススィの血に目覚め、見る見る強くなっていく天分優れた妹を、
 わたしや弟のユスタスは面白がって、歓んでいた。
 小さな剣を携えて紫の菫の花のように凛としている妹は、家族の誇りだった。
 リリティスに剣を教え、騎士である重責と重荷を背負わせたのは、兄であるわたしです」
河のほとりに片膝をつき、冷たい朝の水で顔を洗った。
首筋に負っていた傷はほぼ癒えて、触れても痛みはもうなかった。
気が張り詰めているせいか徹夜行の後でも眠たくはなかったが、
疲労はさすがに否めず、身を切るような清流の冷たさにかえって、
骨までぴりりと目覚めるようだった。
朝焼けの過ぎ去った水色の空を眺めながら、
クローバとの昨夜の会話をそこまで反芻していたシュディリスを、
その時、クローバの従騎士ビナスティが呼びに来た。




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朝風に髪をなびかせた美しき女騎士ビナスティは、リリティスとは異なり、
華やかな容貌とその精神の均衡に、無理をしたところがなかった。
現在の主であるクローバに恭順しながらも、
云いたいことがあれば気負いなくさばさばと口にするその様は、
シュディリスの眼にも清々しく、眩しいものとして好ましく映った。
それだけにビナスティの額に縦に走る醜い深傷は、
美しい女騎士の美しい顔の異様な裂け目としていっそう人眼を引いた。
その瑕瑾を隠しもしないだけに、尚のこと、
騎士としての自負か、それとも他の何かを証し立てたものなのか、
ビナスティの微笑みの中に落ちたその刀傷は意味ありげに見えた。
二人きりで話しがしたいと、巫女があちらでお待ちです、シュディリス様。
「カリア」
「シュディリス」
瀟洒な輿の前に立ち、担ぎ手を遠ざけて青い河を見つめていたカリアは
微笑みを見せた。カリアは用意された新しい衣を身につけており、
先ほどビナスティが手伝ってその髪を結い直したので、
水辺の花ほどに清らかだった。
滔々と流れる河は、白波を静かに蹴立てて、朝の涼しさに青く横たわっていた。
ところどころ川床の岩に遮られて乱れているその流れを見つめながらカリアは云った。
「この流れを超えますか、シュディリス」
「同行をお許し下しさい、カリア」
河のほとりでシュディリスはカリアの繊手を握り返した。

「どうしてもですか。貴方はトレスピアノに引き返した方が良くはありませんか」
「元はといえばわたしが貴女を奪い去ったことにより、
 このような仕儀と相成ったのです。
 貴女のご無事を見届ける為にも、ジュシュベンダへ赴く責任がわたしにはある。
 クローバ殿と打ち合わせてもう決めたことです。
 ジュシュベンダはトレスピアノの友好国。友人も多いし、
 イルタル・アルバレス大君とも御逢いしたことがある。何事もあろうはずがありません。
 それに、わたしの身分そのものが、
 ジュシュベンダにおいても貴女を守る盾となるやも知れません」
「貴方の、身分」
「皇帝家と縁深きフラワン家の者に手出しをした者に極刑が下ることは、
 ヴィスタチヤの法で定められております」
シュディリスは声を抑えてカリアの手に手を重ねた。

「万が一、ジュシュベンダがレイズン家と結託するようなことになり、
 貴女がレイズン側に引き渡されるよな事態となれば、
 わたしは我が名を名乗りを上げながら、貴女を連れて逃げます。
 そのようなことで使ったことはかつて一度もないこの名ではありますが、
 わたしがフラワン家の者であることが、もしかしたら少しはお役に立てると思う」
しかし、カリアは顔を曇らせた。
素性を糺すというならば、シュディリスはフラワン家ではなく、カルタラグンの血脈である。
それが知れるところとなれば、帝国法も彼を守ってはくれず、
むしろ追われることとなるだろう。
それを察してシュディリスは「大丈夫」と頼もしく請合った。
「ユスキュダルの巫女に付き従うことこそ、
 騎士の本懐でなくて何でしょう。
 わたしの妹リリティスと弟ユスタスも、兄がそれをすることを望むはずです」
何よりもカリア、離れたくない、とシュディリスはカリアを見つめた。
「親しく想って下さるのですね、シュディリス」
「傍にいたい」
そう云って彼がその指先に接吻をすると、
カリアは澄み切ったその緑の眼をやさしく細め、
清流のたぎりをそのまま彼の胸に押し戻すような、はるかな眼をして、
「シュディリス」
静かに呼びかけた。
「シュディリス、わたくしは女のすがたをしてはいても、
 女人として貴方に応えることは出来ません。それでも」
「貴女は唯一無二の方」
シュディリスは、懐かしい眼をしてこちらを見ている巫女を見つめ返した。
「叶うならばカリア、もう一度貴女を抱きしめて眠りたい。
 貴女と二人で過ごした森での時は終生忘れることはないでしょう。
 あの夜の貴女はわたしだけの巫女だった。
 ですが、何も求めません。
 少しでも長くお仕えしたい心がこうしてあるのみです」
「それでは、もう何も云いません」
「良かった、カリア」、安堵の息を吐いてシュディリスは若い笑顔を微かに覗かせた。
「初めて御逢いした時から、貴女のその仕草の一つひとつに、
 別れを告げられているような気がして、胸が苦しいほどだった。
 まばたきをして眼を開いたら、もう貴女はそこにはいないのではないかと思われて、
 何度も確かめずにはおれなかった。
 一度見失ったらもう永遠に逢えないのではないかと不安になる。離れたくない」
「ここにおります」
巫女カリアは騎士の情熱に慈しみの眼を向けて、と同時に、
限りなく淋しく、やさしく、巫女としての言葉を手向けて告げた。
「御身は騎士。わたくしは巫女。いついかなる時も、その心、見守りましょう」


輿の帳が下ろされて、
巫女の座す輿を間に挟んで一行が河を渡り始めると、
後方からビナスティがその金髪を軽やかになびかせてシュディリスの馬に轡を並べた。
河の水しぶきの音にその声を隠して、
「シュディリス様、あれはいけません」
ビナスティはからかう風もなく、指を口元に当て、
琥珀色の眼を険しくして首を振った。
続いてクローバ・コスモスも現れ、反対側から呆れ顔でシュディリスに囁いた。
「ビナスティの云うとおりだ。
 傍で聞いていると、まるであれは巫女への恋心の激白だったぞ」
「激白……」
絶句のあまりに乱れてもいない馬脚を手綱を引き絞って抑え、
「そのようなつもりでは------」
シュディリスは左右のクローバとビナスティを交互に見遣って、弁解の声を上げた。
「違います」
「何が違うだ。聞こえていたぞ。離れたくないだの、傍にいたいだの」
「近くには私たちしかいなかったから良いようなものですが、でも、
 私の耳にも確かにそのように聞こえましたわ。シュディリス様、
 これより、この先はジュシュベンダ。
 いらぬ誤解を受けかねない言動はお慎み下さいませ」
「ビナスティ、あなたまで」
二人に責められたシュディリスは珍しくうろたえた。
不快をあらわに、彼はむっとして云い返した。
「お二人ともそのようなことは巫女への非礼であり、無礼だ」
「残念だが、君にはそれを云う資格はないぞ、シュディリス」
ひそひそと楽しそうに、身を乗り出してクローバはシュディリスに耳打ちした。
「神聖なるユスキュダルの巫女と一晩を過ごした唯一の男として、
 君の名はこの世の終わりまで語り継がれることだろうよ。
 人々の驚愕と好奇心の趣くままに下世話な脚色つきでな。覚悟しとけ」
「クローバ!」
高笑いしてクローバは行列の前方へと駆け去って先に河を渡ってしまった。
彼の馬が後足で盛大に水しぶきを浴びせたが、有能なビナスティはそれを
外套を掴んだ腕を上げることでシュディリスにかかるのを素早く防いだ。
シュディリスは何となくそんなビナスティを見つめ、それから彼女の顔から視線をそらした。
「ビナスティ」
「はい、シュディリス様」
「-----いや、何でもない」
「私の額にある、この傷のことを訊ねたく思し召しでしょうか」
水の上に踊る光に包まれて、ビナスティは朝の精霊のように美しかった。
察しの良い女に一本とられた格好となったシュディリスは
さすがに決まりが悪くて謝った。
「あなたが話したくないのであれば聞きません。
 昨日クローバ殿との会話を聞いて、気になったまで。
傷つけることを云ったのなら、申し訳なかった」
「お気になさらず」
ビナスティは気さくに微笑んだ。
「尋ねない御仁はいないのですもの、そろそろではないかと予期しておりました。
 おかしなことに女性よりも、殿方の方がこの傷の所以を知りたがるのですよ。
 憐みからでしょうか」
「あなたに関心があるからだ」
「お優しいことを」
「クローバが知らないのであれば、尚更、聞くのを止そう」
シュディリスは、対岸の森に上がってこちらに背を向け、
付近を探っているクローバの姿に眼を遣って、
「あなたのことは、彼が先だ」
わざと無愛想に云っておいた。
先ほどの軽い仕返しを、そのようなかたちでシュディリスから受けたビナスティは、
頬を染めることも動じることもなく、
「放浪の騎士クローバ・コスモス。辺境伯クローバ・コスモス。
 どちらの肩書きも妙に、お似合いの方ですこと」
クローバの姿を見つめながら、くすりと笑った。
しかしやがてジュシュベンダの岸に辿り着き、
休憩を入れた緑の木陰の中で、ビナスティはその琥珀色の瞳をきつくし、
遣るかたのない不満を洩らした。

「シュディリス様におかれてはお分かりのはず。
 パトロベリ・テラ様の報告を受けた大君イルタル・アルバレス様が、
 何故、客人とはいえよそ者であるクローバ様に対して、トレスピアノへの潜入と、
 不審なる一行の探索をお任せしたのか」

クローバの姿を視界に入れながら、ビナスティは痛ましげに呟いた。
「万が一高貴なる方を巡ってレイズン家とこじれる事態となれば、
 クローバ様に罪を着せて切り捨て、
 ジュシュベンダは知らぬ顔を決め込むためですわ。
 クローバ様は国を失ったとはいえ誉れある騎士。
 生家であるオーガススィ家とは縁薄く、されどその騎士の血は純度高く、
 彼こそ聖騎士の名を継ぐに相応しき方ですのに、
 幾ら一介の騎士に成り下がったとはいえ、これではまるで
 野武士の使い走りのような扱い、クローバ様がお気の毒でなりません」
「彼を気の毒だと想うことこそ、彼への侮辱です、ビナスティ」
濡れた馬を自ら拭ってやりながら、シュディリスは年上の女騎士を嗜めた。
「クローバ殿は元よりそのような仰々しい称号を厭われる方だ。
 それにわたしが大君であっても、やはりそうしただろう。
 クローバ殿は全てを承知で、自ら大君に申し出て今回の役目を請け負ったのだ。
 今は巫女の御為に、彼は自ら進んでジュシュベンダの旗下に下ろうとされている。
 それを補佐するのが従騎士に任ぜられたあなたの役目。
 クローバ殿に情が移ったのなら尚のこと、
 彼に同情としての力を貸すのではなく、彼を信じなくてはいけない。
 騎士がその真の主を見出したる時には騎士の変節は許されることだ。
 だが、それは情けが元であってはならない。
 ジュシュベンダの大君からクローバ殿に捧げる剣の先を変える時には、
 そう考えて下さい、ビナスティ」
それはいかにも、
次代のトレスピアノを引き継ぐ嫡子としての態度であり言葉だった。
その言葉を聞いたビナスティは、しばしの沈黙をおいた後、うっすらと、笑った。


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その夜である。
ジュシュベンダの都はまだ先であったが、
森の尽きるところに建つ狩猟用の城館の一つに到着した一行は、
巫女の疲労を慮って貴族が利用するその城に、その晩は泊まることとなった。
割り当てられた部屋に引き取ったクローバ・コスモスは、 
「フラワン家の立場というのも、けったいなものだな」
暖炉の前の椅子に寛ぎ、ビナスティから酒盃を受け取った。
「巫女はお休みになられたか、ビナスティ」
「はい」
ビナスティは頷いた。いまだ騎士装束のままだった。
「寝所の前にはお申し付けどおりに警護の者と、
 控えの間にはこちらのお屋敷からお借りした侍女を配しております」
「御曹司の方は」
「シュディリス様は寝ずの番なら自分が、と最初は申し出られましたが、
 巫女さまに説かれて、ご自分のお部屋に引き取られました。
 嗜まれるかどうかは存じませんがこれと同じ寝酒を運ばせましたところ、
 灯りもそのままに、もうお眠りのご様子だったとか」
「道中、一度も背筋が崩れなかった。
 さすがはフラワン家の世継、若いのに、見上げたものだ。
 疲れのせいか口に合わぬのかは知らんが食事もあんまり摂ってはいなかったようだ。
 明日の朝は好きなだけ、寝かせてやれ」
「はい」
「お前ももう休め、ビナスティ。お前こそほとんど休息をとってないのだ。
 此度は俺の勝手に付き合わせて、お前にも無理をさせてしまった」
「何を申されます」
「悪かったな」
「いいのです。それよりクローバ様、フラワン家の立場とは」
暖炉に薪を継ぎ足したクローバはビナスティにも酒を注いでやった。
フラワン家というのも特殊だなと思ってな。
歴代皇帝と比肩するだけの敬意を他国より払われながら、
その実、何の実権も権勢も有しない。
完全なる中立を貫けるほどの力があるかといえば、そうでもないし、
皇帝の手厚い庇護の下で悠々羽根を伸ばしているかといえば、それも違う。
実質的には古い建国神話にまつわる聖女オフィリア初代皇帝妃の霊だけが、
いついつまでもトレスピアノを擁護し、
人の心にフラワン家に対する漠然とした敬意を持たせているだけなのだ。
「もし誰かが、何故フラワン家をそのように
 重んじるのだと真っ向から問い質したとしたら、
 皇帝家と縁続きの古い家柄という他には、何もないのだからな」
「世の中には、それで十分ということもありますわ」、ビナスティは云った。
「そう、それで十分だ」
クローバはどこか達観したようなそんなビナスティを注意深く見つめながら、頷いた。
「だが、そこにミケランが目をつけたように俺には思われる」
「巫女さまのことを云われているのですか」
「人の頭が認めただけの不可視なる威信という面では、
 ユスキュダルの巫女もまた、同様だ。
 ミケラン・レイズンは誰もが踏むを怖れるそこに、
 斬り込むつもりなのかも知れん」
「一体なんの為にでしょう。祈るばかりの方に実害はないはずですのに。
 巫女を害するなど、あまりにも畏れを知らぬ所業です」
「畏れを知らぬ男というよりは、畏れを知るからこそ、
 あの男は自らの手でそれを無効にしたいのだ、俺は卿のことをそう思う。
 まるで自分自身への挑戦と探究のように、
 ミケラン卿は物事の裏面や小昏い面をその手で暴き、
 神聖味を引き剥がすことにより知的な歓びを覚え、
 しかもそれを机上のものでなく帝国全土に広げることに全力を注いでいる。
 そのように俺には思われる」
暖炉の薪がはぜた。
横顔をその明かりに向けて、クローバは手の中で酒盃を弄んだ。

「皇帝代行を騙ってはいても、人心を苦しめる悪政を働いていたわけでもなかった
 カルタラグン王朝を、若き日のミケランが転覆せしめたのも、その好例だ。
 しかし巷で云われているような野心が彼の動機なのでは実はなく、
 ミケラン卿を動かしているのは既存の巨大なるものに対する、疑いなのだと俺は思う。
 猜疑と構築こそが彼を楽しませているのだ。
 コスモス領主城で城の受け渡しを求めにやって来た奴と初めて逢った時、
 ミケラン・レイズンは酒を呑んでいた」
その時のことを思い出して、クローバは盃を傾けた。
「ふらりと立ち寄ったとでもいいたげな様子で、あの男は現れた。
 辺りを圧するような緻密な濃厚を、酒の力で入念に奥へと隠した笑顔で、笑っていた」
「策士の上に、演技派ですか」
「精力的で獰猛な獣を、強烈な理知で完璧に御してみせ、さらにその上に、
 酔狂を被せてみせる余裕まである。そんな男だった」
「………」
突然、立ち上がったクローバが酒盃を置いて手を伸ばし、
ビナスティの細顎を掴んだ。
上向けにさせたビナスティの顔を、クローバは真上から睨み据えた。
「------気をつけろよ」
クローバはビナスティの美しい姿態をじろじろと見下ろした。
「ミケランは若くて綺麗な女に見境がないらしいからな。
 お前なんかが目の前を横切ってみろ、そのまま手近な部屋に連れ込まれるぞ」
「また、そんな」
脱力してビナスティはクローバの手を丁寧に退けた。
「真面目な話をされているのかと思えば」
「本当のことだ」
「ご冗談を。第一、ミケラン卿には十代の頃に結ばれて、
 今も大切にされている奥方がおいでのはずです」
「不治の病だそうだがな」
ビナスティは口を噤んだ。
クローバ・コスモスはまだ妻を喪った痛手から癒えてはいない。
顔にも態度にも出さないが、眠れぬ夜を重ね、酒を過ごすことがあることを、
側近だけが知っていた。
「------何だ」
「何でもありません」
「本当にもう休め、ビナスティ」
「明日も忙しくなりそうです」
「分かってるなら引き取れ」
「そう致します。見回りの後、もう一度、報告にお邪魔致します。
 何事もなければお起こししませんので、クローバ様もお休み下さい」
寝台に横になり暗闇に眼を閉じたクローバは、やがて、眼を開いた。
城館は寝静まり、暖炉の火も消えていた。
月光が人影で翳った。
クローバ様。
唇に唇を合わせ、しなやかな獣のように、女の身体が重なってきた。
「湯浴みをされた後の、前髪を後ろにしたクローバ様が、私は好きです」
「帰れ、ビナスティ」
「いいえ」
「何て格好だ。風邪をひくぞ。
 夜這いに来て俺の首を取ると云ったのは、あれは本気だったのか」
羽織っていた薄物を滑り落としたビナスティは、
クローバの胸にその白い肌身をすり寄せた。
「生憎だがビナスティ、俺は嫁入り前の娘とどうにかなる気はないぞ」
「聞きません」
「俺は妻の喪中だ」
「聞いて頂きたいことがあって参りました……クローバ様」
「バカな子だ」
たくましい腕に引寄せられて、ビナスティは小さく息をついた。
暗がりの中でクローバの指がビナスティの額の傷に触れた。
男の手がそれをなぞり、頬を包んだ。

「俺はお前のこの傷が好きだ、ビナスティ。
 額のこの傷を見せてお前が笑った時、恐ろしいものを見たと俺は思った」
「クローバ様、首にかけているものをお外し下さい、亡き人の指輪を」
「地獄を見たと云う女が、明るく笑っていた。
 それを見て、総毛立った」
「今だけは私のクローバ様でいて下さい」
「この女の心は徹底的に壊れて、とうに死んでいるのだとその時思った。
 だから欲もなく何やら透明なのだ。
 俺に聞いてもらいたい話というのは、それか、ビナスティ」
「私は、生きていますわ。
 こうして、クローバ様が触れて、お感じになっているように」

クローバは半身を起こし、妻の指輪を首から外して床に置いた。
そしてビナスティの細腰に腕を回し、美しい裸身を横たえた。
だが、やがてビナスティは「お待ち下さい」、と急に男から身を引いてしまった。
「お前。最低な女だな!」
無理からぬ激憤を上げて、クローバはビナスティを突き放した。
「---------クローバ様」
「もういい、部屋に帰れ」
クローバはビナスティの肩を乱暴にぐいぐいと押して遠ざけた。
「一人では眠れんというならば、そこの隅っこで寝ればよい。
 途中で止めるくらいなら最初から来るな、勝手にしろ!」
「そんな大声を出されては外に聞こえてしまいます」
「あのな、ビナスティ。分からんのか、俺は怒っているのだ。くそ、面白くない」
「クローバ様、少年のよう」
ビナスティは背を向けてしまった男の背中を後ろからかき抱いた。
申し訳ありません。
そして慰めるようにその髪を撫でた。クローバ様、かわいい方。
「分からん女だ」
「はい」
「大君の命令でこうしろと云われたのなら、首尾よくそうしたと云っておけ」
「はい」
「命令なのか?」
「いいえ」
「分からん女だ」
「昼間、シュディリス様が云われたことが、ようやく分かりましたわ」
「何の話しだ」
「私はクローバ様をお慰めに参りましたの。
 ですが、クローバ様の方が、そんな私を慰めてやさしくしてくれようとした。
 憐れみをかけられて、大切な指輪も外して下さった。
 だから、今日のところは」
ビナスティは男の背に口づけた。
貴方が亡き方のことをまだ深く想われているのが分かった、今日のところは。
(あれが、クローバ・コスモス辺境伯だ)
(いや、今は一介の平騎士クローバ・コスモスかな)
(長年連れ添った奥方を贄にして、コスモス領をレイズン家に差し出したそうだ)
(恥知らずの騎士もいたものだ。少しでも矜持を知る騎士ならば、
 その場でミケラン卿と刺し違えたはずではないか)
(しっ、滅多なことを云うでない。
 大君が彼をジュシュベンダに招いたのだというぞ)
(利用価値があればこそ、な)
(実のところクローバ殿とて、領主の責務と首尾よく手が切れて、
 いっそ晴れ晴れとしているかも知れんぞ)
ビナスティ、とやさしい声がした。
緑の瞳がビナスティを見ていた。
木陰にいる巫女の姿を見出した時、涙が溢れて止まらなかった。
ユスキュダルの巫女は立ち尽くしている女騎士を
全てを視通したまなざしで包み、励ました。
(巫女さま-------!)
(心細さを、おそれてはいけません)
ビナスティ、その額の傷は、あなたの過去でも未来でもない。
信じるものに従う時、自分のことを考えてはいけません。

(真に敬うものしか畏れてはいけません。さあ、進んで)

クローバの背に頬を寄せて、ビナスティは囁いた。
「クローバ様、私の父と母は、私が幼い頃、村人たちに殺されました」
酷い飢饉の年で、父母には、穀物を盗んだ疑いがかけられたのです。
生きながら炙られる刑にかけられた父は、私の元に戻って来た時、
焼け焦げてぱっくりと裂けた肌から赤い血を溢しながら、まだ息がありました。
気が狂ったまますぐに死にましたが、最後まで、私と母の名を呼んでいた。
父も母もまだ、とても若かった。その彼らの歳をこうして越えたことが、
今でも夢のような気がします、クローバ様。
彼らは幼い私のことをとても愛してくれました、
私の為に父は木彫りの人形を、母は小さな人形のための着物を作ってくれました。
黙ってクローバは聞いていた。
ビナスティの言葉のどこかに哀しみや希望がないかと探っても、
そこには平坦な静謐があるばかりで、それはまるで遠い昔の物語のように聞こえた。
ビナスティの髪は月光に淡く輝いて清潔に零れ、
肌と肌を通して女の心の音ばかりが、背中越しにはかなく、夜のしじまを静かに打っていた。
額の傷をクローバの背にやさしく押し付けて、ビナスティは続けた。
美しかった私の母は日頃から女たちの嫉妬をかっていた。
息絶えるまで石畳の上を引き摺り回されました。
優しかった母の顔が砕け、しだいに襤褸切れのようになっていくのを、
その肉片が石畳の上に散らばり、
母を引きずる馬の糞尿に混じって醜い血筋を引いていくのを、
手を叩いて歓びながら、夕暮れまで村の女たちは笑って見ていました。
それから彼らは急に怖くなり、残された私に全ての罪を着せて、
私の額に罪人の印を刻むと、私を村から叩き出したのです。
騎士になった途端、皮肉なことにこの傷は名誉の負傷と見做されるようになり、
罪人の印として見る者はいなくなった。
そのことを嬉しいとも、哀しいとも、思いません。
正気とも、狂気とも、思いません。
ですが、クローバ様、御逢い出来て良かった。
哀しみに遭われた方よ、私が力添えいたします。
心が頼りなくなるこの想いを、巫女さまは、それでよいのだと云って下さいました。
貴方さまの従騎士となった女はこういう騎士です。お嫌いでしょうか。
「同情だけでは俺は女を抱かんぞ」
背中を向けたまま、ぶつぶつとクローバはまだ怒っていた。
「やる気がないなら離れろ、ビナスティ」
「このままこうしております。どうぞ、お眠り下さい」
「せめて何か着ろ」
「はい、そのように」
「ビナスティ」
「はい」
「何度でも云ってやる。俺はお前のその傷が好きだ、ビナスティ」
月明かりに仄かに浮かんだ女騎士の顔は、ぞっとするほど美しかった。
床の上には男が今宵の女の為に外した指輪があった。
クローバが喪った女の指輪だった。





[続く]




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