[ビスカリアの星]■十六.
ウィスタチヤの都。
カルタラグン王朝から皇家ジュピタの御世に戻って、二十年が経とうとしていた。
かつて火炎を上げた皇子宮も、今はその痕跡ひとつなく、
輝く尖塔を空に伸ばして、水晶柱のように午後の中に静かにあった。
そこから出たソラムダリヤ皇太子は、身軽に身ひとつで、庭園へと向かった。
森の趣きをあえて残して生い茂る、豊かな庭木の合間を探す間もなく、
フリジア内親王の、無理をねだる声が聞こえてきた。
「お願いです、お父様。ゾウゲネス皇帝陛下。
フリジアの一生のお願いです。
トレスピアノのフラワン家の方々を、都にご招待したいのよ」
「招いて、どうするのだ、フリジア」
内親王を叱りつけることこそなかったが、
ウィスタチヤ帝国の皇帝ゾウゲネスは言い逃れ気味に再度、娘に云って聞かせた。
「なるほど、トレスピアノの方々は、
かつてのカルタラグン家の統治の世においても、都へはしばし御幸されていたな」
「でしょう?だから」
「しかし、ミケラン・レイズン卿が、フラワン家については昔からあまりいい顔はしないのだよ。
それゆえフリジア、その願い事を、まずはミケランに云ってみてはどうかな。
感心にもよく仕上げたその、歴代のフラワン家伺候記録を彼に見せて、
彼が招待を是とするならば、わたしは反対はしない、と云っているのだ先程から」
「情けないわ、お父様ったら」
機嫌を損ねたフリジアは頑張って手づから調べて書き付けてきた
この百年のフラワン家の招待歴をさらに父に突きつけた。
「どうしていつもいつも、ミケランなの。
ウィスタチヤ帝国の皇帝はお父様なのに、どうして彼が何もかもを決めるの。
あの方には良くしてもらっているけれど、こんなのってないわ。
ではミケラン卿が反対したら、お父様は娘であるわたしの願いごとは知らん顔をされるの?
ミケラン卿がフラワン家を好かないというただそれだけの理由で、
どのような名家よりも位の高い、由緒正しき貴家と今後も疎遠になさるおつもりなの?
それではお父様にとってはわたしよりも伝統よりも、ミケラン卿のほうが大事なのね。
ゾウゲネス・ステル・ジュピタ皇帝陛下は、レイズン家のしもべなのね。
フリジアは頭にきました。
お父様への失望に、これ、数えてもよろしくて?いいわ、そうするわ、わたし。
もうお父様ともミケラン卿とも口を利かない」
「これ、フリジア」
「わたし、一人でトレスピアノに行きます」
「何を云い出すのだ」
「一人で旅をしてもいい歳ですもの。そしてトレスピアノに行ったまま、そのまま帰りませんから」
「やれやれ。そなたの魂胆は分かっているぞ、フリジア。
おおかた、フラワン家の世継の君が目当てなのだろう。
かの君に逢いたくて、そのような願い事を父にするようになったのだ」
「失礼だわ、お父様!」、フリジアは真っ赤になった。
「違わんだろう」
「違うわ、違う、違います」
頃合を見て、ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ皇太子は父と妹の仲裁に入った。
「父上。フリジア」
「おお、いい処に来た」
辟易して父ゾウゲネスはフリジア内親王が押し付けてくる紙束を息子に渡した。
「何ですかこれは」
「フラワン家の歴訪一覧だそうだ」
「トレスピアノの?」
父に図星をさされた少女は真っ赤な顔をして、兄を味方にするべく、
「ソラムお兄様だって、それをお望みなのよ」
矛先をこちら向けて、ソラムダリヤを巻き込んだ。
「お兄様も、シュディリス・フラワン様に逢ってみたいと、以前そう仰っていたわ」
「そんなこと云ったかな」
「云ったわ」
「そうだったかな」
しばらくの間、云った、云わないで、兄と妹はやりあった。
耳の左右に貝殻のように巻いた妹の髪を抑えて遠のけ、フリジアが叩いてくるのを止めさせると、
「へえ、よく調べたものだな」
フリジアの写した書きつけをソラムダリヤは明るい木漏れ日に広げた。
「勉強よりも熱心じゃないか」
「一番最後にトレスピアノの方々が宮殿に来られたのは、
ご当主であられるカシニ・フラワン様で最後なの。
もう二十年以上も前のことよ。おかしいわ、こんなの」
「改新の前、まだカルタラグン王朝の頃だな。
当代領主のカシニ殿はその折に、花嫁を見つけて、トレスピアノに連れ帰られたんだ」
「よくご存知ね、ソラムお兄様」
「奥方の名はリィスリ・フラワン・オーガススィ。
この前ミケランから彼女の話を聞いて、
心当たりを探して、彼女の若い頃の肖像画を見せてもらったのだ」
「あら、わたしも見たかったわ」
「素晴らしい美女だったろう」
横合いから皇帝も大人げなく乗り出してきた。
「肌は雪白のごとく、髪は光のごとく、瞳は神秘の薄明のごとく、と当時は歌にもなったのだ。
居並ぶ美姫たちも彼女を前にしては瞬時にかすんだ。
あれはまこと、北国の磨いた一輪の花だった」
「御逢いしたことがあるの、お父様」
「うんと若い頃にな。
でもあれほどの美しい方をそうそう忘れるものではない。
翡翠皇子と踊っていた。
皇子の腕に抱かれて、白い花のように細い首を傾けて、
黄昏の大河に流れていく夕べの光のように、わたしの前を過ぎていった。
ほんの若造だったこの身にも、夢のような何かを心に残していった。
音楽が流れていた。今もあの曲を聴くと思い出す。
カルタラグンの退廃と衰亡を淋しく孕んだ、あの美しい音楽」
「素敵だわ」
まだ父に対して怒りながらも、両手を胸元で組んで、内親王はうっとりと溜め息をついた。
「その様子は、さぞ素敵なものであったでしょうね」
「翡翠皇子の方もきっとさぞや、「お素敵な」皇子だったのだろうな」
ソラムダリヤは妹へのからかいを篭めた。
「かえすがえすも、彼女と一時は深い仲であったという
翡翠皇子の肖像画が改新後、全て焚き上げられて一枚も現存していないのが惜しい。
と、これは禁句ですか。前王朝に関する話題は止しましょう」
「ソラムダリヤ、それはどのような写し絵だったのだ」
皇帝は構わずに促した。
「出来が良ければ持主と折り合いをつけて、お前のものとするといい」
「放浪の画家が若い時分に描いたものだと聞きました」
その絵を想い起こして、皇太子は風に吹かれて木陰に咲く花に目を向けた。
それは実に、何ということもない、平凡な肖像画だった。
青い丘を望む窓の傍に腰を掛け、片手に花を、もう片手で膝の上に小さな本をふせている。
どこの王侯貴族も姫の縁談のために用意する、そんな室内肖像画の一枚だった。
リィスリ・オーガススィを写したいと望む画家は引きも切らず、
オーガススィ家も厚遇をもって彼らを迎えたが、
ソラムダリヤが見たのは、中でも最も代わり映えのしない、典型的な肖像画だった。
そして、画家がまだ未熟なせいで、少しだけ稚拙さを帯びている絵であった。
細部に手を抜くことを知らぬ懸命さばかりがまだ先に立ち、洗練と熟練からはまだ距離のある、
画布に傾けた若い熱意が、表にはまずさとなって顕れている、そんな絵だった。
それだけに、その異様さは際立って映った。
ソラムダリヤは美しいと感嘆するよりは、その絵のもつ迫力に
目にした瞬間、総毛立ったのだ。
ありふれた構図であるがために、若い画家の持つ先天的な観念の視線は、
技量で絵を描きこなす数多の画家を超えていた。
修練で得る技巧よりも、画家としての眼が勝っていたのである。
絵の中からこちらを見ているリィスリ・オーガススィは美しかった。
そして画布の中に閉じ込められた娘の姿と、それを活写して静謐に落ち着けた画家の、
双方の魂の持つものが融合し、一つの厳しさになっていた。
何かを問いかけてくる。
リィスリ・オーガススィが絵に描かれたとおりの娘であったというよりは、
前へと倒れかかるような画家の才能がそこまでその絵を引きずり上げたのであろうか。
それとも、その逆であろうか。
絵の中の娘の、こちらを見つめているその灰色の瞳に宿る久遠は、
それそのまま、それを描いた画家の眼であり、リィスリの瞳であり、
リィスリという素材を得ることではじめて画家がそこに、
己の冷たい魂と燃える情熱を、永久に閉じ込めることがやっと叶ったのであろうか。
拙い絵だった。
だが見る者の眼には、ただ事ならぬ真摯を示威してくる、そんな絵だった。
淡い金髪に縁取られた姫君の顔は、醜いものや愚かなもの、
うわべだけのものを永遠に裁く目をして、この天地のどこかに生まれて
どこかへと去っていく、名も無き放浪の画家の揺ぎ無き自信そのものになっていた。
空を渡る孤独の風の音すらするほどに、その絵は自由だった。
「美しい方だった?お兄様」
「それはもう」
フリジアには大袈裟に頷いて、
「どこかにあんな美姫がいないかなと思うほどに」と、無難なところを感想として
ソラムダリヤは述べるにとどめた。
実のところ、「美しい」よりはむしろ「怖い」と感じたのが
その印象の正確なところであったのだが、そのあたりの微妙を説明できるほど、
青年皇太子の感性はそれ向きには発達してはいなかった。
ただ美しかった。
二十歳の皇太子にはそれだけで絵を鑑賞した満足にはお釣りがくるほどで、
あのような美しい姫君がこの世に二人といるならば出来れば妃に迎えたいものだと、
単純に思ったし、しみじみと、美女は美女として、その姿を夜毎反芻してみたりしている。
ところが意外にも、兄のその言葉を捕らえて、フリジアは意気込んだ。
「それなら、ちょうどいいわ」
両手を打ち合わせてフリジアはソラムダリヤに飛びついた。
「ちょうどいいわ、トレスピアノのフラワン家に嫁がれたリィスリ・オーガススィ様は
三人のお子様を持たれて、その真ん中が、お姫様だもの!
十七歳になられるリリティス姫は、何でも、オーガススィ聖騎士家の血を受け継いで、
お母様のリィスリさまに大変に良く似ているそうよ。
それはもう、見かけた者は皆、口を揃えてそう云うもの。
とてもお美しい方だそうよ、ソラムお兄様もご覧になりたいでしょう」
「それはもちろん知っているし、その他もろもろの賞賛も聞かぬでもないけれど」
そのあたり複雑なところを見えて、ソラムダリヤは露骨に眉根を寄せた。
「リリティス姫は、騎士だろう」
「それがどうかして」
「オーガススィの血はいいが、騎士の血まで露骨に表に出している姫なんて、
たとえばタンジェリン家の気違いルビリアみたいな、例のあれだろ?
苦手なんだ、女のくせに何かといえばすぐに逆上して、やたらと剣を見せびらかすあの手合いは。
しかもその品格品質の申し分なきこと、星の騎士だというじゃないか。
普通に考えても、男よりもご立派で強い女なんて、どうもだよ。勘弁してくれ」
「あら、そんなの、リリティス姫に御逢いになるまでは分からないわ」
めげることなく、ここぞ突破口と見たフリジアはしつこく言い寄った。
兄と同じ明るい金髪を日に輝かせて、熱心に兄にまとわりついた。
「お招きして、ひと目ご覧になっても損はしないと思うわ。
ドレスをお持ちでないなんてことはないと思うけど、幾らでも、
最新流行の一式をリリティス姫のためにご用意するわ。
噂でもそれほど美しい方なのよ、髪に花を飾り、胸元には宝石を輝かせ、
美しく着飾って夜会に現れた彼女を見たら、ソラムダリヤお兄さまも、
きっと、ときめかれることよ」
「それでダンスを誘った途端に決闘を申し込まれるのか」
「そんなこと、なさらないわよ」
「フリジアの目当ては、例の、お素敵な白馬の王子さま決定版の彼なのだろう?
妹姫のことなどどうでもいいじゃないか」
「その綽名、シュディリス様に対してひどいわ」
「白馬の王子さま決定版」
フリジアが兄を叩き、それをあしらいながらソラムダリアは
「彼を見たのか?」と興味を惹かれて口を出した皇帝に説明した。
「いえ、こちらも肖像画だけを。かの君がジュシュベンダに留学の折のもので、
まあ立派な貴公子と云えば云えるし、
沈思黙考型で陰気な翳りがあると云えばあるような、そのように見えました」
「肖像画からその人物の本質を見抜くのは次世を預かる身として大事なことだぞ」
「分かりませんよ、わたしには。その手の慧眼はミケラン卿に任せます」
「お兄さままで、ミケラン卿なの」
「父上に話があって来たんだ」
堂々巡りの口論がまた始まりそうだとみて、皇太子はそれとなく合図を送り、
戯れはここまでだと教えると、
「皇太子が皇帝に用である。下がりなさい、フリジア」
ここは断固とした態度を見せて、妹の内親王を女官に連れて行かせた。
フリジアの姿が去ると、ゾウゲネス・ステル・ジュピタ皇帝は
ソラムダリヤを誘って、お付きの者を遠ざけ、
庭池の中に建つ瀟洒なあずまやに腰を据えた。
「やれやれ」
苦労の殆どはミケラン卿に押し付けて、文字どおりのお飾り皇帝であるせいか、
今だ若々しいゾウゲネス皇帝は、運ばせた飲み物に口をつけた。
「お年頃と反抗期というやつかな。近頃とみに、うるさくて敵わぬ」
「フリジアですか」
「素直でおとなしい娘でまだ好かった。云って聞かせれば分からぬ子ではないからな」
涼しい風が吹いていた。
池の中にあるそのあずまやの陰からは、皇居の尖塔が庭の森の向こうに見えていた。
「フリジアのあの様子では、本当にミケラン卿に頼みに行くかも知れませんよ」
「ご嫡子シュディリス殿が十九、リリティス姫が十七、末弟のユスタス殿が十六歳。
フリジアが十三歳。
確かにトレスピアノのフラワン家の子らはちょうど、お前たちの良い話相手になるだろう。
何故ミケランはフラワン家を嫌がるのだろうな。
フリジアにとっては、長子シュディリス殿もしくはユスタス殿は婿候補として、
リリティス姫は、そなたの妃候補として、どちらも申し分ないというのに」
「聞いたらフリジアが期待して狂喜しますので、その話はひとまず。
しかし、何故、ミケラン卿がトレスピアノのフラワン家を疎んじるのか、
聞いても宜しいですか」
「知らない」
「知らないって、父上……」
「聞いても本当のことをわたしに教えるかどうかも分からんからな。
ミケランは学兄、学弟と呼び合っていた頃から、
いったい何を考えているのか窺い知れなかった。
わたしに近付いたのも、ただ単にわたしが、ジュピタ皇家の傍流にあたるという
その血筋のせいであったのだ。さもなくば見向きもされなかっただろう」
少年の頃から何かと配慮を見せてくれたのも、あれは全て、その頃から彼の頭には
カルタラグン王朝転覆の計略が練られていたからなのだな。
共に手を携えて改新を果した皇帝と、影の皇帝の親密なる友情の正体とは、
そのくらいのものだ。全てはミケランが筋書きを書いて、わたしはそれに合わせて
気がつくと踊っている。ま、それで構わんがね。
彼のような頭のいい、見事な傑物の傀儡となっているのは、それはそれで、
凡庸なわたしには刺激があって、毎日が楽しいものだ、と皇帝は述べた。
「酔ってはいても、あれでいてあの男、決して卑しいことや間違えたことはしないからな。
世間の批難を考慮に入れて余計な敵を作らぬように、
時として政敵にとどめを刺すことを厭わぬながらも、
仮面をかぶることをよく熟知した、政治家なのだよ」
「怜悧な政治家というよりはもう少し・・・もう一刃、怖いものを彼は隠していると思いますが」
「おやおや、それは何だ、息子よ」
「さあ。騎士としての彼の何か、かな」
「騎士でない我々には理解が及ばぬところだ」
「あはは、それを詳らかに語れたら、きっと、
我ら親子は皇帝家といえども、ミケラン卿に厚遇されてはいなかったでしょうね。
彼に対して従順だからこそ、父上もわたしも、彼から一応の敬意を払われているのですよ。
彼の前ではひたすらいい子でいる方が確かに無難だ。
まあ、彼がフラワン家を遠ざけているのには理由が思い当たらないでもないけれど」
「何だそれは」
「先程の話の続きではありませんが、フラワン家の奥方への配慮じゃないのかな。
リィスリ姫が翡翠皇子の恋人だったのなら、それを惨殺したミケラン卿と仲がいいわけがない」
「そんな理由なのか?そんなことを気にする彼か」
「翡翠皇子を殺したことに罪悪感を抱くような彼ではないが、それでも、
フラワン家の奥方の方はミケラン卿に対して穏やかではないでしょう」
「そういえばフラワン家を招くのは世代交代の後にしたほうがいいとミケランが云っていたな。
つまり、嫡男のシュディリスがフラワン家の当主になってからだな。
些細なことだが、いかに表沙汰にはせぬとても、
レイズン家とフラワン家の不和が公的な場であらわになるのは
確かにジュピタ皇家にとっても良くないことだ。さすがは彼だな、細かい」
「今でもレイズン家とフラワン家は、ほぼ、没交渉のはずです」
「そしてフラワン家はどちらかといえば、レイズン家と敵対するジュシュベンダと親しいからな。
それはそれで、またフリジアがうるさく騒ぐのだろうな。まったく」
そこでようやく、
皇帝はソラムダリヤに今気がついたというように、用事を訊ねた。
ソラムダリヤは、
「ミケラン・レイズン卿が何処に行ったかご存知ではありませんか」
と父皇帝に改まった。
「如何した。そのような真面目な顔をして」
「彼を探しているのです」
「あの男なら、昨日から極秘任務と称して領地に行ったぞ」
「レイズン領に?」
「タンジェリン殲滅後、騎士の残党が方々で騒ぎを起こしている。
帝国の威信と治安宣言のために国中に散らばる不逞浪士をこのたび
一斉に処罰することにしたのだが、捕らえた者共を都に護送する前にひとまず
レイズン家が詮議を行うとあって、その監視に行ったのだ」
「そのことで、ゾウゲネス皇帝陛下にお訊ねしたいことが」
「どうしたのだ、怖い顔だな」
「父上」
言いかけて、しかしソラムダリヤは父の温和な顔を見ているうち、これでは
頼りないと諦めた。
「どうしたのだ、ソラム」
「何でもありません。ミケラン卿は領地ですね。それでは後を追ってみようかな」
「どうしたのだ。後を追うとはレイズン領に行くつもりか」
「近衛を引き連れて行きます、ご心配なく」
「若い頃に制約が多いとかえって人格が歪むとて、
そなたには年頃の若者と同じ振る舞いを許し、相当に行動を任せているが、
自重はするのだぞ。彼に用か」
「いえ-------、ただちょっと、気になる噂が耳に入ったものですから」
ソラムダリヤは父を残して立ち上がり、庭池に建つあずまやから出て、飛び石を渡った。
池の端には流れ着いた花が吹き寄せられていた。
ソラムダリヤはそこを跨ぎ越して急いだ。
あの噂は本当だろうか。
それは十分、ソラムダリヤのような日向性の健全な青年をも愕かせるものだった。
ミケラン卿ならばやってのけるだろうか。
行方不明中のユスキュダルの巫女に、暗殺の疑い。
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監獄の塔にリリティスはいた。
ジュピタの都に送られる前に、今一度ここで詮議を受けるのだと聞いた。
高みにある採光窓から差し込む、わずかな光が
独房の中のリリティスを慰める唯一のものだった。
レイズン領、国境ほど近い砦。
時の移ろいをリリティスは数えた。
日照の色が濃さを増したのでそろそろ夕刻かと覚えるものの、
高い窓には手も届かず、景色も空も見えない。
それでもその小さな窓は、片方の足首を壁の鎖で繋がれている囚人に、
時折、僅かばかりの風を落とした。
(心を、強く、保つこと)
砦へと向かう跳ね橋を渡る前に、護送馬車の中で己に言聞かせた。
(素性を明かさないこと)
(私がリリティス・フラワンだと、レイズン側に知られないこと)
(決して負けないこと)
その決意が、次第に揺らぎ出している。
二日を過ぎても、まだリリティスを尋問に訪れる者はいなかった。
娘の淡い金髪を風が揺らし、日の光がわずかに、温めた。
冷たい石壁に背をつけて、リリティスは床の影を見つめていた。
片足首を壁と繋ぐ鎖の長さには余裕があった。
鎖の重みさえ考慮しなければ或る程度自由に動き回れることが出来たが、
女の身一つではその自由も、四方の石壁や届かぬ窓には、何の役にも立たない。
頑丈な鉄の扉には囚人を監視する小窓があり、
定刻になると、巡回の牢番がその小窓を開いて中のリリティスを一瞥して過ぎていった。
扉の下部の差入れ口が開いて、
そこから食事や水が配られるのに合わせ、
日に二度、女の虜囚の世話をする唖の老婆が牢に入り、
リリティスの食事の給仕や、必要な着替えや汚れ物の世話をした。
最初、リリティスは食事を摂ることも、着ている服を脱ぐことも拒んだが、
老婆が悲痛な顔をして首をふるので、申し付けられたとおりにしなければ
きっと老婆が咎めを受けるのだろうと思い直して、あとは言いなりになっていた。
与えられた簡素な女物の服を着て、リリティスは膝を抱えていた。
その白い衣の上に、採光窓からの日差しがまだらに弱く散っていた。
牢に入れられる前に、衝立の影で着替えた衣服を全て取り上げられた。
砦に住まう婦人が呼ばれ、婦人の手で下着の上からもう一度、
何か隠してはいないか調べられた。
「この娘は」
「はぐれ騎士にしては身なりが良いぞ。何かの間違いではないのか」
「しかし、身許を一切明かそうとしないのが、怪しい」
「この者の剣は」
「ここに。しかし銘も紋章も何もない」
「名のある女騎士ならば、すぐに身許が知れるだろう」
砦を守るレイズン家の者共は、
馬車から下ろされたリリティスを見て一様に愕いたが、
名を問質してもリリティスが頑として口を開かないので、「ひとまず牢へ入れておけ」、
匙を投げたものである。
捕らえられた罪人が集められたその広間には、他にも大勢の男たちがいた。
彼らは無遠慮な目で連行されてきた若い娘を見ていた。
リリティスはただ一人の女騎士だった。
何らかの罪を犯してはぐれ騎士となり、
長年の流浪に末に疲れ果て、顔かたちの荒んだ男たちの中にあって、
赤い唇を引き結び、瞳を伏せている若いリリティスは、
潅木の中の一輪の花のように、凛として美しかった。
少女の髪を調べる婦人の手がリリティスの髪を丹念に櫛で梳き、
それがほどけて肩にふたたび流れ落ちた時も、
賛嘆の溜め息が居並ぶ砦兵らの口から漏れたが、それを咎める者もいなかった。
リリティスは全神経を殺して、外界の全てに対して無になろうとした。
無表情でその辱めに耐えた。
弱みを見せたら負けてしまう。
(なぜ、負けてはいけないの?)
抱えた膝の上に顔をうずめた。
再び、心の声が囁きかけて、己を責めた。
(お前はもう、とっくに負けたのに。
誰もがひそかにこうなることを願い、お前の挫折と破滅の時を、
期待しながら、今か今かと待っていたのだよ。
惨めに潰れて消えていくがいい。
高潔であることを自らに課し、それが正しい生き方だと思い上がっていた高慢な娘よ。
いい気味だ、その心得違いの罰を受けるがいい。
その傲慢の弦はもうじきに切れるだろう。
身の程知らずの娘には、それ相応の粛清がふさわしい。
その髪を焼け、その目を潰せ、その手足の腱を切れ!)
ギャーッ、という恐ろしい絶叫が響き渡った。
リリティスは膝に顔を埋めたまま身を固くした。
日に何度、あの苦しげな悲鳴の響きを牢の下方から聞くだろう。
他の騎士たちは地下牢に送られて、そこで拷問を受けているのだ。
それともこの声は、幻聴だろうか。
廊下を行き交う牢番たちが話している拷問の様子から、自分が勝手に紡いだ
拷問を怖れるあまりの想像だろうか。
(もっと怖れるがいい。日頃の大言壮語の報いを受けるがいい)
リリティスは独りきりだった。
片足首を繋いだ鎖は、わずかな動きにも音を立てて、
少しでも大きな音が立つと、すぐに番人が様子を見に来る。
それが煩わしくて、出来るだけ、動かないようにしていた。
牢の床を彩る淋しい日光を見つめながら、リリティスは正気を保とうとした。
砦を預かるレイズン家の家従がリリティスを指して何事かを囁き、
またリリティスを調べた婦人のとりなしもあって、
地下牢へ送られた他の騎士たちとは離されて、
監獄の塔の上の階にあるこの独房へとリリティスは入れられた。
それがもしや、女騎士の希少価値に注目した配慮であるとすれば、
酷い拷問は免れるかも知れない。
その代わりリリティスに待っているのは、もっと違う種類の悲惨である。
受胎可能の女騎士というだけで、騎士の強い血を求める家に引き渡されるかも知れない。
フェララのルイ・グレダンが案じていた類のことが、
もしもこの身に起こるくらいならば、死んだほうがいい。
狭い牢の中は暗かったが、隅の寝台には新たに乾いた敷布も運ばれて、
長い間使われていなかった婦人用の牢ではあるものの、
机も椅子も暖炉もあり、我慢が出来るほどには清潔である。
しかしリリティスの気分はどん底まで落ちていた。
我慢すること、何があっても、何をされても。
昔、弟のユスタスが読んでいた悪趣味な本の一つに拷問の様子を描いた挿絵があった。
煮えたぎる鉛を目や喉に流し込まれたり、
台座に釘で固定された挙句、皮膚を少しずつ鉄具でむしり取られたり、
逆さまに酢の樽に漬けられている描写の数々は、胸が悪くなるほど凄惨だった。
その頁を弟から見せられたリリティスは貧血を起こして階段から転がり落ち、
お陰でユスタスは父カシニからこっぴどく叱責を受けたものだったが、
ユスタスの悪ふざけはともかくも、その無残な絵を思い出して夜が眠れなくなった。
あの時、寝室に訪れた兄のシュディリスは何と云ったのだったか。
寝台に打ち臥したリリティスの傍らに、兄は妹が眠るまで付き添っていた。
(------兄さんは、では、拷問が怖くないの?)
リリティスの問いに対して、しばらく考えた後、シュディリスは応えた。
もし、そのようなことになったら、きっとこう思って耐えるだろう。
(リリティスとユスタスの代わりに、と)
それに、と付け加えた。
(何でも聞いたところによれば、拷問も過度なものになると神経の方から先に参って、
苦痛はさほど感じなくなるそうだ)
(でも、それまでは?)
(耐え抜くしかないだろうな)
シュディリスは肩をすくめた。
怯えて掛け布から差し伸べたリリティスの手を兄は握った。
思えば、あの時にはもうシュディリスは己がフラワン家の人間ではないことを
知っていたのに違いない。
そして、たとえ拷問にあっても、弟と妹の代わりにこれを引き受けているのだと、
そう思うことで責め苦を耐えてみせると誓った兄は、安心させるようにリリティスに微笑んだ。
(天地が逆さまになったとしても、フラワン家の姫君であるお前が
拷問にかけられるなど、あるはずもないが、
もしそのような奇禍に巻き込まれることになったとしても、きっと助けにいく)
ユスキュダルの巫女を連れて、兄はレイズン家の目前で巫女を奪い取り、姿を消した。
ここにその妹のリリティスありと知れたら、逃亡したシュディリスが危くなる。
(兄さん-------)
リリティスは抱えた膝にますます深く顔をうずめた。
きっと私を囮にして、レイズン家は巫女さまと兄さんを呼び寄せる駆け引きに出る。
そんなことをさせてはならない。
無銘の剣を選んで家を出て、本当に良かった。
名を決して明かしてはならない。
わたしは、仮にも騎士だ。
きっと拷問にも誇り高く耐えてみせるだろう。
兄さんの為に、どのような無残な目に遭ってもそうするだろう。
でも怖い。
兄さん、シュディリス兄さん。
家に帰りたい。トレスピアノに帰りたい。
(お母さま--------)
母が手当てをしてくれた腕の傷が痛んだ。
夕暮れになろうとしていた。
リリティスは抱えていた膝から顔を上げた。
監獄塔の階段を昇ってくる大勢の音がする。
男たちの笑い声。
中でもひときわ目立って、場違いなほどに、低く、明るく、
楽しげなる高貴な男の声が混じっていた。
それを聞き分けた途端、リリティスは緊張に顔を強張らせ、立ち上がった。
そこに無いと知りつつも、手が剣を求めて腰へと伸びる。
騎士の本能が警戒しろと告げていた。
来る。騎士だ。
獄番や側近たちと何かを話しながらこちらへとまっすぐに近付いて来る。
彼らは、リリティスの牢の前でざわつきながら立ち止まった。
監視人が、牢の覗き窓をまず開いた。
牢の中に目を走らせてリリティスがそこに変わりないことを確認の後、後ろを振り返る。
「あの女騎士です」
覗き窓の人影が入れ替わった。
リリティスは隅の石壁に背を押し付けて、日の翳りに顔を隠した。
向こうからは内部の様子が見えても、こちらからはほとんど何も見えない。
男たちの表情も分からない。
彼らの視線から逃れようとしながらも、鉄格子のはまった小さな覗き窓の向こうに
その姿を探した。
心臓が早鐘を打っていた。
暗くてよく見えませんが、と彼らは振り返っては貴人に告げていた。
「本当に若い、まだ少女です」
違う、彼らではない。
最後になって、それははっきりと、リリティスにも聞こえた。
強さを低く帯びた、大人の男の、騎士の声。
「拝見しようか」
ざわめきが、ぱたりと止んだ。
進み出て来たその貴人の為に男たちが退き、覗き窓に別の眼が現れた。
「おやおや、これは--------」
一度聞いただけでも只者ではないと知れる声音だった。
視線の重み、扉を隔てもなおも伝わってくる重圧に、リリティスはおののいた。
高位騎士。誰。
リリティスが睨みつけている扉の向こうで、騎士は軽やかに、笑ったようだった。
「名は?」
それには砦を預かる者が応えた。
続いて聞こえてきたその正体に牢の中のリリティスはさっと蒼褪めた。
「口を割らないのです、ミケランさま」
ミケランはいったん覗き窓から引き下がると、
「女騎士もいろいろいるが、このように若いのは確かに、稀だ。
娘が持っていた剣を見せてくれ」
傍の者に命じた。
ただちに用意のそれが差し出される。
「こちらに」
「--------ん」
リリティスの剣を目の高さに上げて検分したミケランは、
「これは大変だ。この剣が本当に彼女の使ったものであるならば、
この娘さんは相当なものだ」
くすくすと笑い出した。
「身に着けていた衣類は全て都の上等もの、
身のこなし、食事の行儀、わずかに聞こえたその声の抑揚も、貴婦人に相応しく、
高い教育を受けて育った者に特有の知性と気品が透けて見えるときて、
その上に正規の剣術を学んだ剣士とは。
さて---------どちらの、どなたであろうか」
もう一度ミケラン・レイズンは覗き窓に顔を寄せた。
リリティスは横を向いた。
本来ならば下を向いてしまいたいところであったが、
ユスキュダルの巫女を拉致しようとした男に下げる頭など、フラワン家の者にはない。
リリティスの矜持はここにきて、かえってミケランの眼に
その並外れた強情さと気高さを晒してしまう結果となった。
ミケランは笑い出した。
「見たまえ諸君。あまりにも大勢が押し寄せて来たので、怯えさせてしまったようだ。
あのように肩を震わせて、それでも精一杯に誇りと意地を見せているのが、
実に可愛らしいではないか。
牢の中の人よ、愕かせて、すまない。
女性を脅かすのはわたしの本意ではない。
見たところ特に不自由はないようだが、ご不快のご気色。
だが、少し貴女と話がしたいのだ。もちろん二人きりでね。
それには少し遠いようだ。それに、ここからでは暗くて君がよく見えない」
正式の訪問のごとく、ミケランは扉を叩いた。
「先に自己紹介をしよう。ミケラン・レイズンだ。牢番、この扉の鍵を」
「しかし、ミケランさま、それは」
「わたしが直に彼女を取り調べる。他の者は全て階下に控えて、そこで待て」
活路を求めて高みの採光窓を虚しく仰ぎ、
壁に手を這わせたリリティスは、足首を繋ぐ鎖に足をもつれさせて唇を噛んだ。
最大の敵を前にして、剣がない。
突如リリティスの脳裏に、兄の実母である女騎士ルビリアのことが思い浮かんだ。
彼女ならば諦めるまい。
何か武器になるものを探した。
椅子を握った。
それを見てミケランは軽く笑った。
「それを使って壁をよじ昇ろうとでもいうのかな。娘さん、止めなさい。
爪を痛めると苦しむぞ。------この小鳥は暴れるのか?」
「足を鎖で繋いであります。おとなしいものですが、しかし」
「構わん」
にこやかに、しかしずしりとした威厳を刷いて、
ミケラン・レイズンは牢番に再び鋭く命じた。鍵を。
そしてリリティスを注視しながら、ミケラン卿は微かに眉を上げた。
------この娘、どこかで逢ったか。いや、それもすぐに、分かるだろう。
「聞いたとおり美しい娘だ。もっと近くで、よく見たい」
しかし、それは叶わなかった。
「あなた」
不意に、女の声が邪魔をしたのだった。
静かなその声を聞いたミケランは、さすがに愕いてリリティスの牢の前から離れた。
愕く声が聞こえた。
「アリアケ」
「お願いがあります、あなた」
「諸君、妻のアリアケだ。------アリアケ、どうしてここに」
「------あなたのご真意をお聞かせ頂きたく、後を追って参りました」
「真意とは」
「ユスキュダルの巫女さまのことです」
女人は苦しげに咳をした。
付き添いの侍女の手を払って、ミケランの腕が妻を抱きとめた。
「無茶なことを。いったい何故ここに来たのだ、アリアケ」
「お聞かせ下さい。一体、何をされるおつもりなのか」
「遠出が負担になる身体であることは自分でも分かっているだろうに。
お前をここまで連れて来た者たちこそ、許しがたいぞ」
憤るミケランの声を遮り、なおも女人は夫に言い募った。
「お聞かせ下さい、あなた。そこの、その獄舎に囚われてる女の方は、よもや、
ユスキュダルの貴き方ではありませんでしょうね」
「何も気にすることはない」
「では、どなたですか」、アリアケは弱々しく喘いだ。
「身許不明のただの女騎士だ。騎士かどうかも定かではない。だが、もう喋るのはお止し。
アリアケ、さあ、わたしにつかまるのだ。
即刻にもこの不潔な砦から連れ出して、一番近い別荘にでも送り出してやりたいが、
今晩のところは部屋を用意させよう。医師を呼べ、妻は具合が悪い」
「あなた」
そしてミケランの妻は、無理やりにミケランの腕を逃れて、
リリティスの独房へと近付くと、
覗き窓の隙間から病み衰えたその細い手を牢の中へと差し伸べた。
その影が、リリティスの足許にやさしい影を作った。
か細い婦人の声がリリティスを呼んだ。
もう少し、そこで辛抱していらして、お嬢さん。
「何かの間違いで申し訳ないことをしております。ご両親の許に帰してあげます、きっと」
アリアケ、と後ろから強く呼ぶ声がして、
そうして妻を抱き上げたミケラン・レイズンら一行は、
リリティスの牢の前から立ち去り、砦にその日の夕陽が落ちた。
[続く]
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