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[ビスカリアの星]■十七.




「どういうことですの、これ」
ミケラン・レイズンの愛人、エステラは、自慢の細腰に両手を当てて、
湖に面した露台に立つミケランに向かって、その声を尖らせた。
「一足先に別荘で待て、との手紙を貴方から受け取り、
 このとおり、ここでミケラン様をお待ちしておりましたわ。
 それが何故、他でもない奥様との鉢合わせになりますの?」
湖に照り返す午後の光が、女の肌を日頃よりもつややかに見せていた。
若い頬を紅潮させたまま、やや演技がかった仕草で、
エステラはその不満ごと、押し付けるようにして酒杯をミケランに手渡した。
「ねえ、どうしてですの」
湖面を渡る風が女の薄衣にさざなみを作った。

「急使を受けて、お申し付けどおりに大急ぎでこうして対岸の別棟に移りましたけれど、
 わたくし、決して喜んではおりませんわ。
 このようにこそこそと、奥様の眼から隠れて己の立場を思い知るために、
 わたくしは都から貴方さまの領地に呼び寄せられたのでしょうか。
 加えて、見ず知らずの娘の世話をわたくしに任せるとは、一体、何事ですの」
「適当にそこは堪忍することをあなたに求める」

やんわりとミケランは宥めた。
湖を望む露台に出て手すりに手をつき、風にあたっていた彼は、
若い女の機嫌を取ることにしたようで、愛人エステラを招いた。
森に囲まれた湖の面には陽が照り映え、心地よい風が吹いていた。
木々に半分隠れて、対岸には別荘の母屋が見える。
別棟に当たるこちらは、平生は客人用に使われるものであり、
豪奢と洗練の面からと、景観の良さはどちらも甲乙つけがたいものの、
やや小規模な造りとなっていた。
宿泊設備は申し分なくとも、主の奥方が訪れれば、愛人である身の上は荷物をまとめて、
寛いでいた母屋を明け渡す他ない。それも、見つからないように隠密のうちにとあっては、
せっかく訪れたエステラの不平も無理もない。
酒杯を手にしたミケラン・レイズンはそよ風に黒髪をそよがせたまま、
そんな愛人の腰を引寄せた。
「不測の事態だ。致し方ない」
「承服出来ませんわ」
「わたしは砦からようやく今、到着したばかりなのだぞ、エステラ」
「お疲れをねぎらいたい気持ちも、平然とされたその顔を見ては、湧いてはきませんわ」

むき出しになったエステラの白い肩にミケランの手が触れた。
最近はご多忙で、なかなか御逢い出来なかったのですもの、わたくし、
本当に楽しみにしておりましたのよ、とエステラはまばたきをして、媚を作った。

「別荘でせっかく貴方と憩いの時を持てると楽しみにしていたの。それがどうでしょう、
 ようやく貴方が到着されたかと思えば、奥様と、得体の知れない罪人が
 一緒になってミケラン様よりも半日も早く、不意打ちにやって来るのですもの!」
「容態が落ち着き次第、妻はすぐに都に戻す。それまでの辛抱だ」
「奥様のことはいいわ」
むっつりとエステラは彼女を抱こうとするミケランの手を逃れた。
「ご病気なのに無理をなさったのですから、静養が必要です。
 都へお戻りになるよりも、風光明媚なこちらの方がお体にはいいわ。
 だから奥様のことはいいわ、わたくしも出来る限りお役に立ちたいと思います。
 後でこっそりとアリアケ様のお顔を拝見しに行きますわ」
何かを云おうとしたミケランより先に、エステラはすまし顔で湖へと視線を逸らした。
「何もご心配には及びませんことよ。
 愛人として名乗りを上げるわけではありませんから。
 おとなしい方なのでしょ?だったら何かご不便があっても
 耐えてしまわれるかも知れませんもの。
 だから侍女のふりでもして、こっそりと、奥様のご機嫌だけ伺わせて頂きます。
 こちらの別荘の者が気がつかないことがあっては、いけませんもの」
「男の正妻の容態に気遣いを見せる愛人。やさしい女だ」
満足げにミケランはエステラの背を撫でた。
酒の中には太陽が色濃く踊っていた。
話はこれで全て済んだとばかりに、妻の休む対岸の母屋へと目を向けている
落ち着いた男のその態度に、エステラはいよいよ憤って小さな足を踏み鳴らした。
「ミケラン様。------わたくしが怒っているのが、お分かりになりませんの?」
「アリアケは勝手にわたしの後を追って来たのだ」
子供じみた女の批難に対して、彼は仕方なく片眉をひそめた。

「わたしが呼んだのなら、もっと堂々と妻と、愛人のあなたを引き合わせる」
「わたくしが云っているのは、あの娘のことです!」

湖に背を向けてエステラは建物を振り仰ぎ、別棟の一角を男に指した。
露台の手すりに腕をかけてミケランはそれを仰ぎ見た。
頑丈な格子のはまった窓が高みにあった。
午後の空を映して、黄金色に静まっている。
「あれが綺麗な娘なので、嫉妬しているのか」
「ちらりと見ただけですが、確かに美しい少女ですわ」
おもしろくなさそうに、エステラは部屋の卓上に置いてある鍵を指し示した。
「今朝方、気を失ったまま運ばれて来ました。
 ミケラン様の指示に従い、ちゃんと扉には鍵をかけて、軟禁してあります」
「ご苦労だった」
「名前もまだ知りません」
「わたしも知らんね」
ミケランは酒を口にした。
「だが、野放しには出来ぬ存在なのだ。だからああして閉じ込めてある。
 妻のお陰で牢獄を出られたのだと重々言聞かせてあるはずだから、
 手枷足枷を加えずともここで無謀な真似などしないだろうが、
 小賢しい真似を試みるようなら、縛り上げることだ」
「もう!あれは、何者なのかとわたくしは聞いているのですわ」 
「騎士だ。しかも、いわくつきときている」
薄く笑った。
濃緑の遮光布が下げられたままの窓を見つめた。
「しばらくの間、監獄にいたのだ。
 体力よりも精神的にそうとう参っているはずだが、それでも強情なものだ」
「気絶していたのは、では、拷問に?」
アリアケは身を震わせた。
「あの娘を拷問台に載せたの、ミケラン様」
「いや」
ミケランは首をふった。

「生憎とわたしは居合わせていなかったので知らないが、こちらに身柄を移管するのに
 牢から出して塔の階段を下ろしている途中で、気を失ったのだと聞いている。
 いよいよ責め具にかけられると思ったのか、
 それとも虜となってからこのかた、昨晩も一睡もしていなかったのか、どちらかだろう。
 一度くらい自白拷問にかけて口をほぐしてみても良かったのにとは思うがね」
もともとさほど強くはないのが、強くあれと念じる一念で、ぎりぎりに耐えていた。
あの娘、騎士の心に耐えうるほどその精神の堤は強くない。
「哀れだな、資質あれども、烈女たる適性には足りぬとは。
 騎士ならば、どうせ落ちるならば階段からではなく、塔の窓からにするものだ。
 あの子は怪我をしていたか?」
「よく見ていませんわ。上の部屋に運んで寝台に寝かせたところで、
 わたくしも貴方の配下の方と一緒に出て来ましたもの」
「アリアケがうるさくてね。
 あの娘も他所に移さなければ自分も国境から動かないと言い張って敵わない。
 以前は男の仕事に口を出すような女ではなかったのだが」

死期が迫っているのかも知れんな、とミケランは妻の休む対岸を一瞥した。
しかしその一瞬の暗い顔は、エステラにも気がつかれない間にすぐに過ぎて、
ミケランは露台にかけていた腕を下ろして愛人を見返った。
「それで仕方なく、アリアケと共に監獄の塔からこちらの別荘へとお移り頂いたという次第だ。
 地下ではなく、景色の見える部屋に入れたし、少なくとも牢獄よりはマシだろう」
「それで?」
「それでとは」
「それで、ミケラン様は、あの名なし娘をどうなさるおつもりですの」
「とりあえず、アリアケが都に戻るまでは、ここにおく他あるまい」
エステラは露台から部屋へと引き返すミケランの後を追った。
ミケランはエステラとすれ違った。
「わたしはアリアケの様子を見てから、すぐにまた砦に戻る」
飲み干した酒杯を卓に置くと、
「妻を見舞って、夕刻のうちに砦へと引き返す。
 エステラ、予定が狂って悪かったが、
 せっかくわたしの別荘に来たのだ、あなたも楽にするといい」
愛人へのお愛想を適当に口にして、湖を指した。
「舟もある。浮気も自由。妻に障らぬ範疇で、大いに楽しむといい」
「ミケラン様」
エステラの見てる前でミケランは鍵を取り上げた。
先回りしてエステラは出て行こうとするミケランの前に立ち塞がった。
「娘の様子を検分しに行くおつもりなのね。
 わたくし、今、貴方が考えていることが分かるような気がしますの」
「多分、正解だ」、あっさりとミケランは認めた。
「ひどいわ」
「何故」
ミケランは低く笑った。
「その懸念は正解ではあるが、まさか、いかなわたしといえども妻のいる近くで、
 さほどの悪さは働かんよ。ただし今日のところは、という但し書き付きだがね。
 女騎士は気に食わぬが、貴重な一品ではある。
 親しみを深めたいと願うのは、そんなにいけないことか?」
「わたくし-------わたくし、荷物をまとめて、ここからも、
 貴方の世話を受けている都の家からも、遠からずのうちに出て行った方が宜しくて?」
「何故」
ミケランは足を止めた。
一旦出て行きかけたミケランは引き返してきた。
エステラは後退った。
「あの家は、あなたの夫君の死後、
 競売にかけられたところをわたしが買い戻しはしたが、その後あなたの名義に戻している。
 他にも資産を多少つけてやった。
 出て行くというのなら好きにすればいいが、あの家は付属の奴隷ごと、あなたのものだ。
 他に頼る身寄りのない若い女には、結構な財産だと思うがね」
そしてエステラはミケランに抱かれて、深い口づけを受けていた。
かすかに漂う酒の香りの中、
力強く抱かれてエステラは吐息をついて足許をもつれさせた。
背中が卓上に触れて、酒杯が倒れた。
「美しい娘だっただろう」
卓上に腕をついて女を囲い、女の乱れを真上からミケランは抑えた。
わたしと賭けをしないか、エステラ。
実はさるやんごとなき御方が行方不明となったのだが、あの娘が、どうやらこの混迷した
事態を照らす光明となってくれそうだ。
自主的に光となってくれるか、否かを、賭けてみないか。
むしろわたしとしてはあの娘がいつまでも強情を通して、
その正体を黙っておいてくれる方が都合がいい。
その方が、こちらの好きに扱えて都合がいい。
ミケランの手の中で鍵が鳴った。
冷たい鉄の感触がエステラの胸に触れた。
胸の谷間へとそれは戯れに落ちてきた。音を立てて繰り返し女に触れた。
あなたはあの娘が意地を通して身許を明かさない方に賭けるといい、きっと勝つだろう。
褒美としてわたしはあなたの財産をさらに増やしてあげよう。
歓んで賭けに負けるよ。
何故ならばあの者が強情を通して黙っている限り、あれは罰すべき騎士なのだ。
詮議する必要がある。
「さて、女の子ひとり、どこまでその身ひとつで頑張れるものかな」
ミケランは熱を帯びていく愛人の耳朶にそう囁いて言い置いた。





男が母屋へと去って後。
エステラは階段を上がって娘の部屋を訪れた。
内鍵をかけてまず目に入ったのは、床に倒れている娘の、乱れて広がった髪だった。
床に散らばる陶器の破片の中に、夕焼けに打たれながら、横たわっていた。
「あの人、帰ったわよ」
窓の外には黄昏の雲が流れていた。
娘はゆっくりと、虚ろな仕草で身を起こした。
リリティスの膝の下で、割れた器の破片が音を立てた。
そして両腕で、その胸を覆った。
純潔のままのその胸には、衣を引き下げられた時の抵抗で出来た傷が残っていた。
力なく床を這い、寝台の柱に凭れると、下を向いたまま震える声で問うた。
娘の声は弱々しく掠れていた。
「------あなたは」
「先程までここに居た男の、愛人」
身を屈めてエステラが娘に差し出した盃は跳ね除けられた。
中身の水を撒き散らして遠くへと飛んで、壁にぶつかった。
娘は叫んだ。
「近付かないで」
「あの人はもう帰ったわ。湖の向こうよ。そのまま砦に戻るわ。もう来ないわ」
本当よ、とエステラは素っ気無く付け加えた。
怪我でもしたの、あなた。
「大袈裟ね。ミケラン様に何かされたわけではないでしょ」
「-------触らないで、近付かないで」
様子を見ようとする女の手を振りほどいた。
男の愛人に触られたところを急いで手で拭い、かん症にそれを止めなかった。
口をついて出たリリティスの拒絶は理性を失った絶叫になっていた。
「汚らわしい!」
「いいわよ」
と、エステラは応じた。
女の声があまりにも平然としていたので、かえってリリティスは打ち沈んだ。
立ち上がると、エステラは壁際に落ちた盃を取って戻って来た。
それを寝台の傍の小机に戻すと、エステラは近くの椅子に腰を下ろした。
華奢な足を前に突き出して、リリティスに向き直った。
「ええ、ミケラン・レイズンの愛人です。彼に囲われているわ。それがどうかしたの」
汚らわしいと今、云ったわね。
構わないわ、何と呼ばれようと。
どのように軽蔑され、何と人から批難されようともね。
「確かにわたくしは金銭で彼に買われて彼の自由にされているわ。でも、それが何?」
エステラの沓を飾る宝石に、夕日が当たっていた。
燃える沓を履いているように見えた。
若い王妃のごとく、エステルは背を伸ばして堂々としていた。
淡々と教えた。
「十歳の時に父親が死んだわ。続いて病弱だった母も。
 金持ちの年寄りがわたくしを引き取った。十二歳の時だったわ。
 高徳家のふりをして、毎晩ろくでもない狂態に付き合わされた、思い出すだけでも反吐が出る。
 心を殺して人形のように尽しているうちに、妻に昇格したけれど、すぐに彼は死んだわ。
 するとどこからともなく現れた債権者が偽造した遺言状を持ち出して、
 未亡人であるわたくしから全財産を巻き上げたの。
 今のあなたよりも若かった。
 何の世知もなく、頼る縁故もなく、路上に投げ出されたわ。
 聞きつけたミケラン様はそれを阻止して、手際良く、わたくしを安全にしてくれました」

汚らわしいと云ったわね。
ミケラン様が?それともわたくしが?
でも構わないわ。

「何と呼ばれようといいわ。
 二度とあのような絶望の恥辱の中で暮らすくらいなら、今のほうがずっといいわ。
 男の欲望に従属する女として女たちの中で最も低い位置に位置づけられようとも、
 昔の惨めに戻るよりはずっといいわ。
 三年経って、ミケラン様はわたくしに愛人となるように求めたの。
 彼はわたくしの服を脱がせたわ。
 ミケラン様はそこらの無責任な男どもよりもはるかにマシよ。わたくしは運が良かった」
少なくとも、好色な老人に遊ばれて、首に鎖をかけられ、
客人たちの見世物にされているよりはずっといいわ。
せいぜい甘えた声を上げて、若さが保つ間は可愛がられておくわ。
「あなたがそうやってお育ちのいい自尊心を目の前に掲げて
 わたくしを汚らわしいと呼ぶのはご勝手だけど、
 恵まれた女には想像もつかない辛酸を味わって、わたくしは少女時代を過ごしてきたのよ」
汚らわしい、と云ったわね。
その言葉をわたくしに投げつけるといいわ、何度でも。
そんなものが、今さらどうしてわたくしを傷つけるの?
「堅気の女たちから面罵されたとしても、今さらもう、どこにも恥じることなどなくてよ」
きらりと女の沓が光り、その光が俯いているリリティスの眼を刺した。
「地獄を見たことのない女だけが、ご大層に不幸ぶっていられるのではなくて?」
しかしリリティスはエステラの言葉など聞いてはいなかった。
とめどなく身体が震えた。
リリティスの鼓膜に渦巻いているのは先程まで自分を揺さぶっていた、男の声だった。
ごく微量に余裕と好色の笑みを沈め、こちらの臓腑まで貫くような目をしていた。
婦人を訪問する手順を正しく踏んで、男は軽く扉を外から叩き、
「お休みのところを申し訳ない」
そう断ってからリリティスの部屋に入って来、後ろ手に再び鍵を閉めた。 
ミケラン・レイズンが礼儀を踏んだのは、そこまでだった。 
 
 
  
鍵の差し込まれる音がした。
リリティスは寝台から起き上がっていた。
砦から連れて来られた服のまま、一番遠い壁際に立っていた。
部屋に入って来たミケランは、まず湖に面した窓に向かうと、
紐を手繰り、遮光布を上に引き上げた。
室内にさっと四角く光が差し込んだ。
湖の青さに目を細め、そこでようやく、ミケラン・レイズンは黙殺していたリリティスを振り返った。
娘はそこに何かの怯えた幻のように立っていた。
男はつかつかと歩み寄ってきた。
身を守ろうとして反射的に上がったリリティスの細い手首を掴むと、
「お互い、手っ取り早く話を進めようではないか」 
窓辺に引きずっていった。
抵抗しても男の力の方が勝っており、前によろめいたところをまた引きずられて、
リリティスは力任せに明かりの入る窓側に突き出された。
乱暴してすまないね、とミケランはさらに力を加えた。
「しかしこれも君がまだ虜囚の身であることをその身に教えておきたくてこうしている。
 一昨日ぶりだな。そろそろ、君の声が聞きたいが」
「………」
「遠慮なく声を上げたまえ、誰もここへは来ない」
間髪を入れずものすごい力で手首をぎりぎりと締め上げられた。
強く喘いだものの唇を噛み締めて、よく堪え、
リリティスは窓から斜めに差し入る光線の中で、男を睨み上げることで応えた。
血が滲むほどに唇を噛み締めた。
この男に知られては絶対にならない。
シリス兄さんが、翡翠皇子の遺児であることを、この世にまだ
カルタラグン聖騎士家の血が残っていることを。
シュディリス・カルタラグン・ウィスタビアの存在を。
痛みのあまり、踵から崩れ落ちそうになったところを引き上げられた。
「気絶をしたと聞いたが、気丈さを取り戻したようだ」
リリティスの顔を上から覗き込んで笑ったミケランは、そのままリリティスの背中を
日の光の透ける硝子窓に押し付けた。
リリティスの髪が広がり、白金の光に包まれた。

「わたしは君を知っている」

娘を見つめながら、ミケランはリリティスの片腕を上げさせた。
「片手に剣を持ち、もう一方の手をこうして掲げて、星を指し示していた。
 青い天海に浮き立つ一つの貴い星を指していた。
 今のように厳しい目をして、唇を引き結び、
 燃えるような清い光に包まれて、わたしを見ていた。
 あまりにも信じがたくて、一旦は打ち消していたが、もはや疑いもない。
 わたしは君を知っているぞ」
ミケランはリリティスの髪を一掴み、手の平に掬った。
光に透ける娘の髪は、淡い色を躍らせながら、はかなく滑り落ちていった。
「コスモス城で、目の前で燃えた」
ミケラン・レイズンは指先を伸ばし、リリティスの頬に触れた。
硝子よりも冷たい頬であり、指だった。
微かに震える娘の怯えを、男の指がなぞっていった。
「クローバ・コスモス辺境伯がわたしの見ている前で、その絵に火をつけた。
 自害した奥方の亡骸の前で、彼はそうしてのけた。
 絵が燃え落ちていくのを見ていた。
 紅蓮の炎に包まれて消えていった。君は灰になったはずだ。
 だが、わたしの頭の中にはまだあの絵が残る。熱を放ってこちらを見ている。
 天上に輝く遠い星を指し示し、灰の中から甦り、何かを訴えている、そうだ、この眼だ」
「殺すがいい」
身を起こそうとしたリリティスは、さらにミケランの力で硝子へと押し付けられた。
「殺すがいいわ。私を」
「やっときいた口がそれなのか」
男は笑った。
両手首を掴まれたまま、リリティスは顔をそむけた。
きらきらと光こぼれる髪に囲まれた娘の顔に、男は顔を近づけた。
「取引といこうではないか、北国の宝石の血を受け継ぐ姫君よ」
リリティスは身をすくめた。
不意にミケランの唇が、首筋に触れたのだ。
「何を----------」
「これが嫌だというのなら、ご身分を明かしなさい。
 そうすれば相応しき第一級の礼節をもって、丁重に我が領地にお迎えしよう」
ただし、それで君が困らないのであればね。
肩越しから首筋を這う唇は、リリティスの耳に触れた。
男の身体とすれあっているリリティスの胸が怯えて強張った。
「強要はしない。しかし白状するのなら今のうちに頼みたい、
 その唇から願おう。貴女の名を教えなさい」
「………」 
「長年、刃ひと重のあやうさで人間同士の鬩ぎ合いを切りぬけ、
 時には汚い方法も厭わずに敵にとどめを刺してきた男を、
 黙秘ごときでかわせると思うのか?
 わたしを舐めてもらっては困る。いかに君がまだ男をよく知らぬとはいえね」
ミケラン・レイズンは冷え冷えと笑った。
押し付けられた窓硝子が急に冷たくなったようにリリティスには思われた。
勇気を出して、リリティス。
だが、脚が震えた。
唇が震えた。
シュディリス兄さん、ユスタス、助けて。
何があっても、堪えろ、耐えろ。
「答えたくないのなら構わない、勝手に用件を述べさせてもらう」
身が凍えた。
冷たい喘ぎが漏れた。
背中越しに胸元に手が入り、衣が引き下げられた。
がくがくと震える身を、男の腕が支えていた。
「君には確か、兄君がいたと覚えている」
耳元に囁かれたミケランのその言葉に、リリティスの動きが固まった。
娘への憐れみをこめて、ミケランは娘の髪と肩に口づけた。
わたしの云う事をよく聞くならば、兄君を助けてやってもいい。
全てを明かし、おとなしく従うのならば、身分に相応しい賓客として遇しても差し上げよう。

「世間では何と云ってるか知らぬが、わたしは女にはやさしい男だ。
 貴女はただ、兄君に助けを求めるだけでいい。
 わたしは貴女の兄君と少し話があってね。
 どうにかして逢いたいと思っているのだ。それもなるべく、近いうちに」 
「やめて」、リリティスは弱く喘いだ。
「怖れるならば、兄君の名を呼ぶといい」
「やめて…わたしを一人にして。出て行って」
「本当に華奢な身体だ。この手には剣よりも、花や扇子が似合うのではないかな。
 それとも、こうしようか。妻とわたしの間には子がない」
「…………」
「以前の情人が子を宿したこともあるが、生憎と流産した。
 特に我子が欲しいと思ったことはないが、不思議なことに、君を見た時に、
 君にわたしの子を生ませたくなった」
リリティスは今度こそ声なき悲鳴を上げた。逃げ場を求めて、窓に手を突いた。
あれはまことに素晴らしい絵だった、リリティスを腕に捕らえたままミケランは回想した。
夜毎に夢に現れる。
切り崩そうと思っても、もはや無の世界に飛び去って、捕らえることも叶わない。
だが、その代わりに、君がわたしの前に現れた。
わたしのものにしたい。
「いささか二律背反的な希求ではあるが、そうすることでようやく、
 脳裏に立ち塞がるひとつの女の像は、その純潔と潔癖は、
 その気高い神聖を女の普遍に落ち着かせて、わたしの庇護下に再生し、
 わたしに安堵と歓びを与えてくれるのではないかと思うのだが、どうかな」

妻は余命が短い。
あたらしい妻を今から仕込んでおくのも悪くない。
特に君のような、由緒正しき高貴な血と強い騎士の血統を受け継ぐ女と、その子ならば、
是非にも欲しいものだ。
怖れてリリティスは身もがいた。額が窓にぶつかった。
「君が決めたまえ」
ミケランはリリティスの額に手をおいて庇ってやると、窓に押し付けたまま後ろから抱きすくめた。
やさしく囁いた。
女騎士に生まれた不幸というよりは、女なら誰でもこうなることだ。
わたしとしてはどちらでもいい。
名を明かすならば、兄君のことで少々、利用させてもらう。
素性を頑固に隠しとおすならば、掌中にある女として、好きにさせてもらう。
もっと賢くなることだ。
兄君のことはその時次第だが、悪いようにはしない。
多少の懲らしめは必要となるかも知れないが、命を奪うまではしない。
「兄さんを……」
リリティスの灰色の瞳が、鋭く硬化した。
「彼の名を教えなさい。まったく、けしからぬことをしてくれたものだ」
硝子窓の向こうに、空が見えた。
太陽が黒く反転して、その向こうに紺碧の星の海が見えた。
「………させないわ」
娘は何かを呟いた。
ミケラン・レイズンが娘から身を大きく引いたのは、太陽が雲に隠れたからではなかった。
シュディリス兄さんを逢わせてはならない。
翡翠皇子とルビリア姫の子だと分かれば、この男は兄さんを殺めてしまう。
殺させはしない。
させない、この命にかえても。
太陽が再び空に現れた時には、リリティスはミケランに向き直っていた。
気高くその顔を上げていた。
オーガススィ家の血はここにきて、火花のようにリリティスの中にその強さを与えた。
輝く髪をゆらめかせ、リリティスはその手を上げた。
そこにない剣を求めて、幻のそれを握り締め、
この上ないほどの優美な曲線を素早く空に描いて、それをミケランに振り下ろした。
あまりの速さに、その軌跡も見えなかった。
ものの砕ける音がした。
リリティスの振り上げた卓上の蜀台を、咄嗟に手じかにあった鶴首の花瓶で受けて
辛うじて避けたミケランは、砕け散る陶器の破片が床に落ちる前には、
リリティスの腕を捕らえ、その手から蜀台を叩き落としていた。
激しい音が室内に起こった。
男と娘はもつれ合って倒れた。
リリティスを床に倒して押さえ込むと、おとなしくなったその髪を払いのけ、
ミケランは真上から娘の眼を覗き込んだ。
彼は息をついた。
「-------愕いたな。星の騎士の称号は、お飾りではないというわけだ」
何だ、今のは。
今のが実剣なら、わたしは確実に死んでいた。
恐れ入ったよ、陥落寸前の君に、まだそのような力が残っていたとはね。
面白いものを見せてくれた御礼をしよう。
ミケランはリリティスの唇に、唇を重ねた。
眼を開いたまま、リリティスはぴくりとも動かなかった。
呼吸に胸を波うたせたまま、金色の聖水に浸された花のように、
床に乱れた髪の中に、その白い顔を傲然と上げていた。
氷のように冷たかった。
冷たく凍えた唇から顔を離したミケランの眼に、横たわるリリティスの姿は、
騎士の魂の至純そのものに映った。

「君のその、一体どこから湧いて出てくるのかと思われるような、
 誇りの高さに裏打ちされた無謀さを、その愚かしい清さを、わたしは愛する」

娘の身体を封じ込んだまま、彼は低く云った。
いつかわたしはこの全てを自分のものにするだろう。
今君がわたしに見せてくれたものは、二度とお眼にかかることはないと思っていたものだ。 
辺境伯はわたしの目の前であの絵を燃やした。
今度こそ、逃がさん。
片膝をつき、横たわったままの娘の手を取ると、そこに畏敬をこめて彼は接吻した。
騎士が最高の貴婦人にとる礼だった。
放した手を娘の胸の上に戻してやると、彼は立ち上がった。
リリティスは仰臥したまま動かなかった。
息をしたまま死んだ者のように、何かを見つめて無言だった。
扉のところから、ミケランはわずかに振り返った。
娘は遠いどこかに不変のものとして輝く何かを見つめていた。
コスモス城の絵と寸分変わらぬ眼差しをして、何か別のものにその生命を明け渡していた。
扉に手をかけ、ミケランは別れの挨拶の一瞥を寄越した。
再会する日を楽しみに待つとしよう。
「願わくば、その美しい魂が、まったく同じままに、いつの日にか
 わたしに優しく微笑みかけてくれることを祈る」
リリティス・フラワン。



夕闇が濃くなった。
暮れていく空にはまだ星がなかった。
「どうだった、彼」 
エステラは倒れたままの蜀台を拾い上げ、そこに蝋燭を立てた。
絹ずれの音をさせて、エステラはリリティスの傍に膝をついた。
「男ぶりが良かったでしょ?それとも夢みる女の子には、
 親子ほどに歳の離れた男よりも、同じ年頃の、もっと優しげな男の子の方がいい?」
リリティスは今度はその手を振り解かなかった。
細い女の手が、リリティスの顔を上げさせた。
「本当に、災難ね。でもうまくやれば、わたくしの後釜に座れてよ」
拒否の代わりに、リリティスは無言でうな垂れた。
存外にやさしい仕草で、エステラはそんなリリティスを支えた。
怖かったのね。でも、元気を出して。
「弱い立場にある女二人だって、共謀する事は可能だわ」
エステラはリリティスの腕を取った。
リリティスの腕に無数にある小さな古傷に気がついたエステラは、
呆れた顔で薄く残るそれを見つめた。
「女の子なのに刀傷がつくような騎士になるなんて、お馬鹿さん」
そして遣る瀬無い溜め息をついた。 
わたくしはミケラン様に逆らうつもりはないけれど、だからといって、
目の届く範囲で苦難に陥った女性を見殺しに出来るほど、
平気でいられるわけじゃないわよ。

「ミケラン様はわたくしには何も教えては下さらないけれど、
 こうなったのには、相当に深いわけがあるんでしょ。
 どうせいつかはミケラン様に飽きて捨てられるのよ、その覚悟はとうに出来ていたわ。
 せめて引き際を見苦しくはしたくないものだわ。
 ささやかだけど、そのくらいの誇りはわたくしにもあるわ。
 元気を出して。きっといいようになるわ。
 ミケラン様が何をするつもりなのかは知らないけれど、一つだけ、
 間違いのないことがあるわ。
 彼、女にはかなり寛大よ。
 気がついて?あの人、自分の野心に対しては怖ろしいほどに忠実だけど、
 下らぬ私怨から弱い者をいたぶるような、卑しい真似だけは絶対にしないのよ。
 事がばれても、わたくしを無一文に戻して都から叩き出すようなことはしないはずよ。
 だから、わたくしのことなら心配いらないわ。
 彼を本気で怒らせない範疇で、頑張ってみましょうよ」

「どうして--------」、弱々しくリリティスはこぼした。  
つけつけとエステラはそれに応えた。 
どうしてかって?あなたがもしわたくしの妹であったら、そうしてあげたいことを、するだけよ。
女の敵は女、女の味方も女。
それだけよ。
それが証拠にわたくしは今あなたが一番欲しいものが分かるわ。
お風呂に入りたいんでしょ。
男の手で散々に触れられたその身体を洗いたいんでしょ。
いま用意させているわ。
熱めのお湯で、きれいにするといいわ。
「囚われの身には変わりなくても、だからといって汚れた格好でいる法もないものね」
まだ下ろしたことのないわたくしの服があるから、それに着替えるといいわ。
アリアケ様が別荘をお発ちになるまでの我慢よ。
後はわたくしは知らないふりをするから、好きにしなさいな。
本来ならアリアケ様を味方につけるのが一番だけど、
期待できるほど、あの御方にはそんな力はもう残されてはいないのよ。
見たでしょ、もうほとんど、半日も寝たきりのままでいらっしゃるのよ。
病気で亡くなった母を思い出してしまう。
苦しみながら死んだわ。
それを云う時、エステラの顔は何かを思い出してぴくりとゆがんだ。
あの方を人質にして逃げようなんて事だけは考えないことね。
「夫の罪を引き受けて、死を待つばかりのお気の毒な奥様を、
 これ以上哀しませるようなことだけはしないで頂戴」
これしか用意出来なかったけれど、使いなさい。
そしてエステラは、リリティスの手に、持ち込んだ短剣を滑らせて手渡した。

その頃、湖の対岸の母屋を訪れる者がいた。
別荘を出て砦へと戻ったミケランと入れ違いになって、その夕刻に到着した。
随身たちと笑いさざめいていた青年は、馬上から夕凪に静まる美しい湖へと目を向けた。
涼しい風の渡る湖面には早出の白い月が漂っていた。
対岸にももう一つ別棟があるようで、そこにも灯りがともっているのが見えた。
夕風に森の木々が音を奏でた。
蒼穹を仰いで、青年は少しだけ夢を見るような静かな目をした。 
ウィスタチヤ帝国皇太子、ソラムダリヤである。 




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ジュシュベンダの騎士ビナスティが、巫女の後を追うシュディリスの随身として選抜したのは、
シュディリスよりも数歳ばかり年上の若騎士だった。
「御曹司のことを頼みます、グラナン」
出立前する彼をビナスティは見送った。
「他ならぬあなたを選んだのは、あなたがヴィスタの都に詳しいことと、
いざとなれば、シュディリス様の身代わりとなってもらうため。
 命に代えても、トレスピアノの世継の君を守って下さい」
「そのことで質問が、ビナスティ」
間近に見るビナスティの美しさに青年は少し恥らいながら、
馬の手綱を握り直した。
凛々しい顔を傾けて、褐色の髪をしたグラナンは自分よりも小柄な女騎士に伺いを立てた。
「トレスピアノの若君にお仕えすることは我が家の名誉、有難くお受けします。
 しかし、コスモス領旧領主クローバ様と、フラワン家のシュディリス様、
 それにユスキュダルの巫女さまと、レイズン家。
 さらにはこちらへと向かっているとの報告の入っているハイロウリーン。
 ジュシュベンダの家臣として、事が混戦した時には、
 このうちのどれを最も優先にして、身の振り方を決めれば良いのです」
「第一に、巫女さまを」  
躊躇うことなく、ビナスティは応えた。
「次に、シュディリス様を。何故ならばシュディリス様がトレスピアノを
 出奔をした件については、まだ諸国に知られていることではないからです。
 そしてその次に、レイズン家を。レイズンとは出来る限り事を荒立てず、
 軽挙は謹んで下さい。ハイロウリーン騎士団についてはまだ情報不足です」
「クローバ・コスモス殿は」
「事態に応じて、ジュシュベンダにとって不利になると見た場合には、
 クローバ様のことは切り捨てても構いません」
しっかりした声でそう述べたビナスティの指には、クローバが残した亡妻フィリアの指輪があった。
「分かりました」
グラナンは軽く頷いた。
ビナスティはシュディリスの為に、最も頼みに出来る騎士を考えて選んだが、
その目に狂いはなかった。
若い騎士は腕が立つ上に、賢く、篤実だった。
「ユスキュダルの巫女さまに続く順序が、フラワン家のお世継ですね。
 ならばこの身はもはやジュシュベンダ大君への忠節からは半分外れたわけだ。
 それなら残り半分は、自分の意思で決めることが出来ます。
 単身で巫女に付き従ったクローバ・コスモス殿に敬意を表し、
 放浪の騎士にお味方し、合力することも。孤立した騎士に寄り添えないほど、
 この剣は濁って錆びてはいませんから」
「グラナン」
「わたしが貴女に命じられた内容を正しく解釈しなかったのだと思って下さい」
平気な顔をしてグラナンは馬に跨った。
ひと目につかぬ前に先に発ったシュディリスを追う彼の姿が、
朝日に輝く森の向こうに見えなくなるまで、ビナスティは朝露の中に立っていた。


「シュディリス様」

そのグラナンは、山道を馬でひた走るシュディリスにようやく追いついて、
注意を促した。
シュディリスは、ちらりと彼を見た。
「シュディリス様」
「敬称なしで頼みたい、誰かにもし詮索を受けたら、
 我々は友人だと応えるのだから。今から馴れておいて欲しい」
難しいことですが、その時が来たらそうします、と
グラナンはシュディリスの指示に快く首肯した。
騎士ビナスティからこたびの拝命を受けた時、実はとても嬉しかったのです。
名乗りの無礼をお許し下さい。
「ジュシュベンダの騎士グラナン・バラスと申します」
「バラス家?」
さあっと銀髪をなびかせて初めてこちらを向いたシュディリスに、グラナンは笑顔を見せた。
「ええ、わたしには五つ下の弟がいて、
 弟の口からよくフラワン家のご長子の話は聞いておりました」
「バラス家。トバフィル・バラスの兄弟」、愕いてシュディリスはその兄を見つめた。
「僧籍に入った彼とは今も、折に触れて手紙を交している」
「ジュシュベンダご留学の折には、弟が学友として、御曹司とお近づきになる栄を賜りました。
 本来であれば、とてもフラワン家の方に気に留めて頂けるような名家ではありませんが、
 わけ隔てなく接して下さったと、歓んで、弟は今も申しております。
 一族の者として御礼申し上げます」
「ビナスティはそのことを」
「はい。それゆえに、彼女はわたしを貴方の従騎士として選んだのでしょう」
「トバフィルは友人です」
シュディリスは少し笑って、複雑な顔をした。
「あの頃は仲間とずいぶんと無茶をした。それを知られているのは、少々具合が悪いな」
「ご安心下さい」
快濶にグラナンは笑った。
「そのご懸念には、わたしにも学生時代があったとお応えすれば足りましょう」
シュディリスとグラナンは顔を見合わせ、納得の淡い微笑を交した。
いろいろとやったものだから、シュディリスは異国で過ごした過去を懐かしく風に追った。
ジュシュベンダではわたしは一人の学生として、
仲間たちと連れ立っては、よく夜の街に繰り出したものだった。
シュディリスは微笑んだ。
とても家族には聞かせられないような話ばかりだ。
「不品行なこともなさいましたか」
「もちろん」
「弟は何でもかんでも軽率に話を外部に流すような男ではありません。
 肝要なことは何ひとつ、兄であるわたしの耳には入ってはいないと存じます。
 でも、我が弟めが、御曹司の妹御に懸想をして振られたことは存じておりますが」
「ああ、あのこと」
シュディリスは薄く笑った。
「妹のリリティスはまだ子供だったので、トバフィルの気持ちが分からなかった。
 トレスピアノに彼らが遊びに来た時のことです。
 もう時効だろうから、後で詳しいところを教えよう。
 恋に不器用なまま、彼を僧侶にしてしまったことに対する責任も多少覚える」
「弟に続いて、貴人の傍に仕える栄誉に浴し、奮い立っております。
 バラス家の男子揃ってフラワン家の方と縁を持てたことは光栄至極」
「では、トバの兄である騎士グラナン」
「は」
「ビナスティの心配りに感謝を。心の通う同行者を得て、満足です。宜しく願います」
「同行者はどうやら他にも、もう一人、いるようです」
シュディリスは無言で頷いた。
騎士グラナンは剣の紐を解いた。
お気づきでしたか、シュディリス様。
余裕をもって、しかし目配りは鋭く変えて、グラナンは上方を見ずに、
地面の影に視線を落とした。
二人の馬の他に、見え隠れしながら動くものがあった。
崖の上にいます。
我々は、どうやら、何者かに尾行されているようです。




[続く]




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