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[ビスカリアの星]■十八.




シュディリスと従騎士グラナン・バラスの馬影は、尾行者に気がついた後も
その歩みを緩めなかった。
そそり立つ崖の下方は広がる森である。
グラナンは注意を向けた。
「離れませんね。我々を不審者とみて見張る、ジュシュベンダの警備隊かも知れない」
「ここはまだジュシュベンダ領」
手短にシュディリスは沙汰した。
「国境を越えるまでは様子を見よう、グラナン」
「はい」
剣の柄から手を放して、グラナンは後をつけてくる者の影をうろん気に地面に追った。
「どうも警備隊のこしらえには見えませんが、お言葉どおりに」
「急ごう」
「巫女はどちらの道を向かわれたと思われますか」
「分からない。クローバ殿が一緒ならば尚のこと。
 出来れば都に入る前に先回りして思い止まり頂きたい」
「大君の命により、帝国各地の主要街道および間道は、この頭の中に入っております」
「各地に潜入する間者候補として?」
「まあ、そういうことになりますか」
グラナンは認めた。

「バラス家はもともと学者を輩出してきた家柄。
 弟のトバフィル共々、父に習って帝国統一言語の他に
 各国語も多少読み書きが出来たので、密偵として選ばれたことがございます。
 もっとも間者としては不向きと看做されて、途中でそこは除隊になりました。
 他国の情報を収集するには、もっと、
 貴顕凡俗に混じっても目立たない、人畜無害に見える人間でないと不向きです。
 わたしの騎士の血はそれになるには、障碍でした。
 あまりいい役者にはなれません」

しかしご心配なくシュディリス様、とグラナンは請合った。

「巧者と比べれば拙かったという程度で、
 その気になって目をつけ、目を光らせているのでなければ、
 市井の人間くらいは別人に成りすまして難なく騙せます。
 フラワン家の御曹司とわたしを適当な旅の途中にある若人に見せかけるくらい、
 取り繕うのは造作もありません」
「それでは、どちらかといえば、わたしの方が足手まといになりそうだ」
「演技は苦手ですか」
頷いてシュディリスは薄く呟いた。
「わたしが読むと喜劇も悲劇も一本調子で、まるで何かの学術書でも朗読しているみたいだ、
 どうやったらそこまで感情皆無に劇の台本を読めるんだ、面白くないからもういい、
 そう云って弟のユスタスがいつも呆れていたから」
「そんなに?」
「かなり」
「ではためしに有名どころで一つ」
咳払いの後、グラナンは声を張った。
 『鎖帷子を解くまでもなく、波音の代わり、
  わが胸の高鳴るを、今宵こそ貴女は聞くだろう。』
グラナンの深々とした声の抑揚は抑えたうちにもなかなか堂に入って、
植民都市の野外劇場を取り巻く松明や、
その上の夕暮れ空まで思い浮かぶようであった。
 『冬雲のさざなみに残れる夕星、夏の雨に打たれて散る浜辺の貝ほどに、
  風に爛れた時の匂いのかき鳴らす、この歓び』。
気楽にシュディリスは応じた。
「続けよう。------『紅玉の玉髄もやわらかなる花びらも、その唇には遠く及ばず、
  ふかき夢も浅きうつつも、
  崇き響きがごとくに今だこの胸に燃えるを、君ならずして誰にか語らん』。」
「なるほど」
グラナンは笑い出した。
声質の良さもあって下手でこそないものの、
シュディリスのそれは高尚に白々と響く講義調だった。
流麗ではあってもそこに篭もれるはずの熱のまるで感じられない独白のような淡白な趣きで、
演壇からの説教に似た。
笑って、悪気なくグラナンは請合った。
後ろに何者とも知れぬ追跡者を控えているのに声を上げて明るく笑った。
緊張を失わぬままに軽口が平然と叩けるのは相当な場数を踏んだ者の証拠である。
シュディリスは心中で同行者の実力のほどをそれで推量し、
改めて彼を選んだビナスティの配慮に感じ入った。
両刀遣いらしく、グラナン・バラスはその両腰に細身の剣をぶら下げていた。
グラナンは朗らかに告げた。

「どのみち達者な演技が出来ても、出来なくても、
 シュディリス様はすぐにただの御方ではないと知れることでしょう。
 そのあたりを何とかするのは付き人としてのわたしの腕の見せ所だ。
 御曹司だとばれないように善処します。わたしにお任せ下さい」
「適当なあたりで願います、グラナン」

憮然とすることもなく、シュディリスは受けた。
己の独吟の才能がさほどのものではないことは百も承知なのである。
跡継ぎとして領民の前で感情を不用意に吐露することを禁じられた育ちのせいというよりは、
もともとの性分であろう。
演芸にもっとも才があったのは、きょうだいの中ではユスタスだった。
祭りの夜、トレスピアノの野は提灯で囲まれた。
星空の下の祭りの舞台、弟が友人たちと何かを演じるたびに、大喝采が起こったものだ。
薄桃色の提灯に横顔を染めて隣でそれを見ていた妹リリティス。
髪に花を飾ってやると、こちらを見上げて微笑んだ。
灯篭を夜の川に流して願をかけた。

(何をお願いしたの、シュディリス兄さん、ユスタス)
(シリス兄さんは)
(リリティスは)
(いつまでも兄さんたちと一緒にいられますように。いつか、倖せになれますように)

妹の願い事は、仄かな光を残して森の暗闇へと沈んでいった。
「どうかされましたか、シュディリス様」
「何でもない」
シュディリスは胸を押さえた。
引き裂くような誰かの声がまた聞こえた気がしたのだ。
助けを求めて悲痛な声を上げている。何度も聞こえる。
(リリティス)
そんなはずはなかった。
リリティスはトレスピアノにいるはずだ。
フラワンの父母の許に、あの妹だけは、安全に。
「兄さん、ご学友のトバフィル・バラス様が、私にこれを下さったの」
紋章のついた指輪を手に、困惑していたリリティス。

「頂けないわ。兄さんから返しておいて」
「自分で返したほうがいい」
「どうして」
「分かるだろう」
「分からないわ」
「誤魔化さずに、云うとおりに」
「私、あの人にこう答えただけなのよ。
 バラス家とフラワン家の格差は比べるまでもなく、釣合も取れないけれど、
 唯一それを平らにする方法があって、それはトバフィル様がジュシュベンダの
 司教次席になることだって。それで、きっと努力してそうなりますから、
 もう少し大きくなったらジュシュベンダに来ますかと訊かれたから、はい歓んで、と」

仕方なく、シュディリスはリリティスの手から指輪を取り上げた。
学友の誠実に対しては、妹はあまりにもまだ子供なのでとそのままを応えた。
紅玉の玉髄もやわらかなる花びらも、その唇には遠く及ばず。
きっと、子供ではなかった。
あの頃にはもうリリティスはおそらくは。
(シュディリス兄さん)
(アニェス嬢って誰なの)
古い恋を追求されて、つい、唇を奪った。
昔の女を想い出して、激すままに抱きしめて、傷つけてしまった。
あの夜の後悔がこうしてしつこく胸を苛むのだろうか。
それだけではなかった。
時々は、妹を女として見ていた。
そうしてはならないと自制してきたものが、
あの夜、後ろから抱きつかれて、どうしようもなかった。
気が狂いそうに、何かが愛しく、愛しいと想う事そのものが疎ましかった。
その心を潰すようにリリティスを抱きしめていた。
他の女を想いながらリリティスの想いも自分の想いもそうやって押し潰した。
いつかはこうしたいと望み、そうしてはならないと想い、結局は妹を傷つけた。
掠れあがった声を上げて腕の中で抵抗していたリリティス。
それと同じものが、今しがた、悲鳴となって聞こえた気がシュディリスにはした。
愛とは違うにしろ、いとしさは、誰よりも。
シュディリスにとってのリリティスという存在は、何度堂々巡りをしたとしても、
結局はそこに落ち着く他ない。
妹の気持ちに応えることはないだろう、これからも。
そして、リリティスを独りで夜に残した、あの晩のことを思い返していたせいだろうか。
それが起こった時にも、シュディリスはさほど愕かなかった。

「シュディリス様」


警戒の囁きと共に、ぱっと目の前に流れた閃光は、グラナンが抜き放った剣である。
崖上から先回りした影が、道の前に現れたのである。
まだ手を出すな、と言い掛けて、シュディリスは口を閉じた。
空は青く、森は冷えていた。
気持ちの乱れのような薄い雲が飛んでいた。
相手をしてやってもいい、とシュディリスは暗く呟いた。
誰のものとも知れぬ遠い悲鳴に対して湧き上がるこの胸の不安を、何かで紛らわしたい。
思慕や慙愧の全てをあの夜、リリティスの上に押し付けてそうしたように、この手で砕きたい。
(未熟者)
クローバ・コスモスが軽視の視線をこちらに寄越した。
森の中で剣を合わせた彼とどちらが強いのかはあれでは判別がつかないものの、
経験を積んだ差に決定的に負けた。
若輩者の自分へ慰めを寄越したクローバ。
それは抑制になるよりはクローバ・コスモスに対してと、カリアが自分ではなく、
放浪の騎士を道連れとして選んだことへの情けなさとして、シュディリスの中で点火した。
叩き斬りたい。
その衝動を抑えるために、彼は大きく息を吸った。
落ち着け、駄目だ。
カリアが黙って去ったことは確かに痛打であったが、ここで自失しては駄目だ。
妹を傷つけたあの夜の二の舞だ。
たぎりかけたものを押し殺した不愉快なくすぶりは残ったものの、
養父カシニの薫陶が効いて、何とか彼は騎士としてのその過敏な過激をここでは堪えた。
「シュディリス様!」
「自制はする」
グラナンが手綱を握り返す頃にはシュディリスは
崖から降りて前へと出てきた騎馬へと馬を走らせていた。
きらりと光が落ちて、それはシュディリスの手から斜めに地に影を生んだ。
現れた追跡者は目深に帽子を被って、単身だった。
抜き身を握ったまま、シュディリスは鋭く誰何した。
「久しく」
「ご挨拶じゃないか、シュディリス・フラワン」
親しげな応えだった。
「ひと目見ただけでよくこちらが分かったな。そう殺気立ってくれるなよ」
その口調には覚えがあった。
対応はグラナンの方が早く、彼は馬から素早く降りると、地に膝をついて声を絞った。
「パトロベリ・テラ様……!」
「どうも」
帽子を指で上げて、濃茶色の髪を見せると、パトロベリ・テラは彼らに顔を現した。
それはまさしく、ジュシュベンダ先々代の脾腹出パトロベリ・テラであった。
パトロベリは地に平伏したままのグラナン・バラスに略礼を許し、立ち上がらせると、
「見かけたことがある。バラス家の騎士だな」
「は」
「ジュシュベンダの者なら僕が畏まられることがことの他大嫌いだって知ってるだろ。
 ここは宮中じゃないんだ。道中、楽にしてくれ」
鷹揚な仕草で手をふった。
「は。しかし、道中とは」
嫌な予感がしたものか、愕いてグラナンは声を固くした。
ぴしゃっと鞍を手で叩き、当たり前だろう、とパトロベリは決め付けた。
「君たちと共に行くのさ。で、何処へまず向かう」
シュディリスが前に進み出るのに合わせて、「おっと」、パトロベリは馬首を巡らせて間合いを取った。
一見には卑屈すれすれに見える愛嬌を見せて、パトロベリはシュディリスにうっすらと笑いかけた。
パトロベリは剣を抜かなかった。
シュディリスの声は険しかった。
「パトロベリ殿」
「何だっけ。前に逢った時には、何で君と揉めていたんだっけなシュディリス。
 ------いずれ時と場を改めて、アニェスに与えた傷を、わたしが貴方にそっくり返そう。
 そんなことを君に云われたんだったな確か。
 君のその勇ましい宣誓に対してあの時にはしかと返答をしなかったので、
 今それをするとしよう。命が惜しいので御免こうむるよ」
「貴方がどうでも、わたしがそれは決めることです」
「シュディリス様、お待ち下さい」
「グラナン、これはパトロベリ殿とわたしの話だ」
「違うね」
パトロベリはシュディリスの周りを馬でぐるりと回って冷やかした。
「違うね、これは僕の話でもなければ、君の話でもない」
僕らが愛したあのかわいそうな女人のことだ、とパトロベリは云った。
アニェスのことは静かにしてやっておいてくれはくれまいか。
君が彼女の苦しみのその仇とばかりにここで僕を討ち果たしたとして、
果たしてそれを歓ぶ彼女だろうか。
「アニェスの不幸は、その責任が全てこの僕にある」
「………」
「贖罪を引き受けるのは君ではなく、この僕だ。
 すなわち、生き恥を晒してもアニェスと同じ哀しみの中に生き続け、
 幸運から疎外された孤独に、苦しみ続けるというね」
「そんなに殊勝な御仁には見えない」
シュディリスは手厳しかった。
パトロベリは肩をすくめた。
「は、そうかもな。
 まあ僕は軽佻浮薄を愛する徹頭徹尾いい加減な人間なので、
 これでも結構楽しく、日々遊び暮らしているからな。そうも見えるだろうよ。
 でも、僕を責める資格は君にだってないぞ、シュディリス。
 君は一日にいったい何度、アニェスのことを考える?
 アニェスのことを想いながら、何度ほかの女を抱いた?
 または彼女のことを全く想い出さなかった?
 どうせすっかり過去の女になっているくせに、今さら義憤でもないだろう。
 夜となく昼となく、今だにずっとアニェスのことを恋慕っているなどと
見え透いた男の嘘は、ここには男しかいないんだ、止めるんだね」

痛いところを突かれた。
シュディリスが黙り込んだのを見てパトロベリは暗くせせら笑い、さらに継ぎ足した。

「それでも、よかろう、
 或る女人に捧げた君の騎士の心が、かの人を傷つけた男に対して
 執念深く当時覚えた怒りのままに収まりがつかぬというのであれば、ここで闘ってもいい。
 だけどそれで僕、または君が死んだ時、
 一番哀しむのは誰なのか、少しは考えてみたらどうだ。
 アニェスはきっとそのような事態を招いた自分を責め、生まれたことをさらに呪い、
 宿業をさらに背負うことになるだろう。
 正義の鉄槌にかこつけた崇高なる振る舞いに聞こえても、
 君がやろうとしているのは、結果的にはそういうことさ」
だからその剣は鞘に納めて、
せいぜい惚れた女をむかし苦しめた男に天罰が下るように願うといい、
生憎だけど僕は天罰など信じてはいないがね、下るものならとっくに僕など
身の毛のよだつような悲惨な死に方を路傍に晒して、世間の笑い者になっているだろうからね、と
パトロベリは自嘲した。
「貴方にアニェスの気持ちを代弁する資格はない」
「おお、そうさ」
微賤パトロベリは悪びれることなく、かえって胸を張った。
こうして生きていることこそが贖罪なのだと知らしめるかのようにシュディリスに向き合った。

「孤独なアニェスはこんな僕に、精一杯、その心を差し出してくれたよ。
 僕は-----そんなアニェスを利用しようとした。
 とことん付き合ってくれる女が欲しかった。
 恵まれた育ちの者どもには決して分からない、微妙な部分を理解してくれる、誰かがね。
 顔が傷つく前のあの子の笑顔は、本当に、沁みるように美しかったよ。
 雪が降っていた。
 僕の、この手で、顔を叩き斬られてもなお、僕の方に手を差し伸べて、
 『逃げて』とアニェスは叫んでいた。
 夜の雪の中に血を散らして倒れていく彼女を、ぼんやりと僕は見ていた。
 希望の全てはあの夜に終わったんだ。
 それだけで、もう十分だ。僕は一生それを思い出しながら己を嗤って生きていく。
 半分は卑賤の血、半分は高貴な血、
 こんな畸形児がこの世に生まれたことがそもそもの間違いだったんだろうな。
 そしてこんな僕を救ってくれた女まで、僕はこの手で破滅させてしまった。
 僕が死なないのは、ただひとえに、
 僕が自ら死んだりしたらアニェスがさらに苦しむからでしかない。
 こんな滑稽、こんな悲惨な無為を、
 君らは一度も味わうことなく倖せに生涯を終えるように、祈ってるよ」

「お二方の遺恨の詳細は分からぬながら」
戸惑いつつ、グラナンは二人の間に割り込んだ。
「パトロベリ様、シュディリス様、ここはお引き分け下さい。
 どうか剣を鞘に納めて下さいシュディリス様。
 パトロベリ様、こちらがトレスピアノのフラワン家の御曹司であることをご存知であるならば、
 挑発的発言は厳に慎まれますよう。シュディリス様がここにおられることへの
 ご不審はご尤も、しかし、この隠密行動はアルバレス大君も承知のことなれば」
「嘘つけ」
パトロベリ・テラは鼻を鳴らした。
「何で僕がここに現れたと思う。
 僕は大君の命で、一足先にユスキュダルの巫女の御前に大君の口上を届け、
 仕儀万端相整えるために、狩猟館へと向かっていたのだ。
 そこへ、シュディリス、君が大君に放った使者と途中で行き逢った。
 何ごとが起こったのかと馬を先に飛ばして見れば、あの美人騎士が、
 ちょうど騎士を一人送り出すところだ。何かあるに違いないと、こうして後をつけたのさ」
「全て、いずれはアルバレス大君の知れること」
グラナンの諫止を受け入れて剣を収めたものの、冷然とシュディリスはパトロベリから顔を背けた。
「騒ぎ立てようと見逃そうと、ご自由にされるといい。
 そんなにわけを知りたいならば教えて差し上げよう。
 巫女が元コスモス領辺境伯クローバ・コスモス殿を連れて未明に出奔しました。
 わたしとグラナンはそれを追っている」
「ええ!?」
必要十分な説明は済んだとばかりに、シュディリスは馬に戻った。
「嫌いな相手には一分の温情も見せないのか君は。心の冷たい男だ」
「己の不幸にのみ目を向けて、他者を傷つけることへの言い訳にだけは熱心であるよりはましです」
冷然とシュディリスは言い返した。
「何をどう取り繕おうが、貴方の口上は全て世の中へ向けた自分の甘やかしにしか聞こえない」
「厭味にもならない陳腐な文句にしろ、云う時には君も云うじゃないか御曹司」
「世間にひけらかす不幸話の裏面など、慣用句の範疇で説明がつく」
「陰険め」
「お二方」
埒があかないとみたグラナンは、さすがというべきか、強行手段に訴えた。
睨みあって再び対峙しようとした男たちの不穏の間に飛び込むと、電光石火の早業でもって
その両腰から引き抜いた剣を交差させて向けたのである。
剣先の切っ先の一つはシュディリスに、もう一方はパトロベリに、触れんばかりに伸びていた。
「いい加減になさるよう」
「テラ家の家長と、フラワン家の世継に剣を向けるか」
口笛を吹くと、パトロベリは進み出た。
「臣下の分限を超えた振る舞いだな、見逃すわけにはいかん」
パトロベリが剣の柄にに手をかけても、グラナンの影はびくともしなかった。
剣を交差させたまま、半眼で腰を沈めていた。
冷気を刷いた乾いた声でグラナンは云った。
背反にも等しき行いとは百も承知。
「国許の法に従えば縛り首ですが、
 やんごとなき方々の間で流血の事態になるやも知れぬとあってはもはや致し方ありません。
 バラス家騎士グラナン、両騎士の仲裁に入らせて頂く」
「こらこら」
慌ててパトロベリは手を振った。
「そう真面目になるなよ。ちょっとした齟齬だ悪かった。
 シュディリス、君からも彼に何とか云ってくれ」
「グラナン」
いっそ憎らしくパトロベリが横目に据えたほどに、あっさりとシュディリスは気魄を解いて、
終生の友であるかのように、グラナンのその肩に手を置いた。
「その身を障壁とされて間に立たれては為す術もない。剣を引いて欲しい」
「間違えたことはなさらぬと」
「約束しよう」
頷いてシュディリスはグラナンの腕を下げさせた。
グラナンは剣を両腰に引くと、シュディリスとパトロベリの二人に頭を下げた。
「これで決まった!」
これで何が決まったのかは知らぬが、パトロベリは両手を打ち合わせた。
「あのやさしいアニェスの想い出にかけて、取り合えずは仲直りといこう。
 たいした血筋ではなくても僕のこの名が有効になることも或いはこの先あるやも知れないよ。
 だいたい従騎士を一人しかつけぬなど無謀もいいところだぞシュディリス。
 単純に二人よりも三人の方が便利がいいはずだ。
 ユスキュダルの巫女と不良の放浪の騎士を保護しに、
 いざ出立するとしようじゃないか。------ところでシュディリス」
これ以上の逡巡は時間の無駄とばかりに馬に飛び乗り先に立ったシュディリスの後を追うと、
パトロベリは偽りのない親身な調子で声を低め、囁いた。
「いいのか、君。こんなことをしていて」
「--------何がです」、シュディリスはパトロベリを見向きもしなかった。
気にせずにパトロベリは顔を曇らせて続けた。
「トレスピアノのフラワン家、君をはじめとして、弟君も妹姫も、不在らしいぞ」
「それをどこから?」
シュディリスは顔色ひとつ変えなかったが、さすがに手綱を握る手に力がこもった。
この胸の痛み。
ユスタスはともかくも、リリティスに何かあったのだろうか。
ジュシュベンダの情報網は帝国一だ、そのくらい知れるさ、とパトロベリは気の毒そうに云った。
もっとも、彼らが何処に行ったかまでは、まだ掴めてはいないがね。




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ミケラン・レイズンの愛人エステラは、時ならぬ訪問者の応対に追われた。
皇太子のご来訪ともなればしかるべき者が出迎えねばならないところであるが、
生憎とミケラン卿は不在、
滞在中の令夫人アリアケは病床にあるとなれば、
レイズン家の家令もいない別荘地ということもあって、
出迎えの役割を担うのはエステラしかいなかったのである。
幾ら卿の愛人とはいえ、それを外せばとても御前に出ることの適わぬ身であることを
重々承知で、身支度を整えた後、エステラは母屋に現れた。
幸いにして、ウィスタチヤ帝国の世継は思いやりのある、礼節を知る好青年であった。
不快を表明することも、
ミケラン卿とすれ違いになった無駄足の、その不平の一つもこぼさなかった。

「せっかく保養に来られた貴女であるのに、
 大勢を連れて夜分にいきなり訪れて、すまないことをしてしまいました」

かえってねぎらってくれた上、
気楽な旅には馴れているので、森の中で野宿をするとまで云い、
さすがにそれを止めたエステラには「本当にお気遣いは不要ですよ」、感じよく明るく笑い、
ついでに初めて見るミケラン卿の愛人の若さと美しさに、
好奇と賛嘆と、微量な欲情の眼を素直に向けつつ、
エステラの手を取り、ソラムダリヤ皇太子はその手の甲に、
高貴の女人へに対するそれと寸分違わぬ口づけをおいたものである。
「卿の奥方もこちらにお泊りとか」
「はい」
「お見舞いは叶いますか」
「明日の朝にも御立ちの御予定ですが、お加減がまだ少し」
エステラは正直に応えた。
「先程、わたくしがご挨拶に伺った時には、薬の後で、深くお眠りでしたわ」
「それでは、わたしがここに来たことは最後まで内密にしておいたほうがよさそうですね。
 令閨のお身体に障るでしょうから」
青年皇太子ソラムダリヤは顔を曇らせた。
「アリアケ・ミケラン。子供の頃は彼女の膝で眠ったこともある。
 控えめな方で、わたしも内親王もとても可愛がってもらいました。
 そんなにも容態が重くなっていたとは知らなかったな、心にとめておきます。
 ミケラン卿は家庭のことを外部には話しませんから、私生活のことはまるで不明でした」
そして、「ああ、貴女のことは、何となく、いつの間にかに知っていたのですが」と
エステラに対して云わなくてもいい言い訳を添えるあたりも若々しかった。

「お食事を急ぎ整えさせてはおりますが、歓迎の宴など、
 今からではたいしたことが何も出来ませんわ」
「結構です。もとより、そのようなものをあてにしてこちらに来たのではありませんから。
 それにしても連れて来た近衛たちの人数が多いので、ご迷惑だろう。
 やはり森の中で野宿することにしようかな」
「とんでもないことですわ」
「父陛下には内緒ですが、今までにも何度も彼らと気楽にやっていることです」
「焚き火を囲んでの野営はお若い方々にはお愉しみの多いこととは思いますが、
 皇太子殿下を夜露にさらしたなどと知れたら、わたくしが
 後でミケランさまに叱られてしまいますわ」
「あちらは?」
喉の渇きが早速に求めた酒を口に含みながら、青年は湖の対岸にふとその時、目を向けた。
露台から臨む夜の湖に、別棟の明かりが朧に弱く映っていた。

「向こうの建物に誰もいないのであれば、我々はあちらに移ってはいけないかな」
「あ------・・・」

結い上げた髪の乱れを直すふりをして、エステラは口ごもった。
薄らと紅くなったその頬を、ソラムダリヤは惚れ惚れとして見つめた。
(ミケランが恋人にする婦人は昔から美貌揃いで有名だが、これもまた、実にいいな)
もっとも、ごく平凡な情動の持主であるソラムダリヤは、
臣下の愛人とその留守にねんごろになるといった刺激的可能性の上には想念が及ばず、
酔いの眼で女の首筋から胸元への魅力を眼下に愛でるにとどめて、
「どうでしょうか」
朗らかに、対岸の別棟を指し示した。
慌てたのはエステラである。
頭は悪くはないにしろ、皇太子を前に彼女も上がっており、
そうそう当意即妙な機転も働かなかった。
まさかあそこには、ミケラン卿が手篭めにしようとしている若い娘が監禁されておりますとも云えない。
仕方がなく、エステラは媚を浮かべて微笑んだ。
「お酒をもう少しいかがですか、ソラムダリヤさま」
「ありがとう」
「ミケランさまは国境の砦に戻られてしまいました。入れ違いになり申し訳なく思いますわ」
「それは先程も聞きました」
「ご覧になって。湖面に映る月が、あのように美しいこと」
「貴女ほどではありませんよ、エステラ」
「まあ、お世辞など」
「ミケラン卿のご友人である貴女とここで御逢い出来て良かったな。
 公私混同する彼ではないが、それでも貴女を宴にでも連れて来て、
 もっと我々に見せびらかすくらいのことはしてもいいのにと思いますよ。
 ミケランが羨ましいな。彼、気に入った女人を褒める時には、
 まるでもうその女人が自分のものであるかのように、強気な言葉で優しくする。
 あれを真似をしようと思うんだが、なかなか無理ですね。
 年齢と風采に加えて、男としての風格や風韻の違いだろうか。あと何年後かには、
 わたしもあのように振舞えるといいんだが」
「あの-----・・・」
「何ですか」
「ウィスタチヤの天地はこれみな全て、ジュピタ皇家の治めるところ。
 あれに見える別棟も、皇太子様および随身の方々にすっかり開いて、
 お寛ぎ頂きたいところではありますわ。そう出来ましたら、どんなにいいか」
「何かわけでも」
「実は、あちらにも病人がおりますの」

せいぜい、言い逃れに思いつくのはその程度だった。

「病人」
「ええ、こちらの別荘に仕える、下働きの少女で」
原因不明の高熱にかかって、何でも医師の話では流行病かも知れぬので、
様子が分かるまでは隔離治療が必要だと申しますの。
近くに家のない者ですので、ああして一棟を使わせているのですわ。
「でも、貴女はあちらにお泊りなのでしょう、エステラ」
「わたくしは風邪も引きませんから、看病にはちょうどいいのです」
「そんな。それはいけない」
びっくりしてソラムダリヤはエステラに向き直った。
若い皇太子の性格はいろんなことを平行して悩むようには出来ておらず、
今の彼の頭からはすっかりユスキュダルの巫女の安否と、
それに関与しているらしきミケラン・レイズンの弁明を求める、
レイズン領来訪の本来の目的は消し飛んでいた。
「健康を誇っている人でも、いつ、病魔にとりつかれるか分かりませんよ。
 流行病、それは尚更いけません。
 その女の子はミケラン卿も目をかけて可愛がっている子なのだろう。
 良ければわたしの専属医師を当地に寄越してもいい」
「いえ、そんな。いいえ」
胸の谷間にまで汗をかきながら、エステラは慌ててさらに言葉を継いだ。
皇太子の眼から対岸の別棟を背中で隠すように立ち、なるべく部屋の奥へと導いた。
とにかく、今晩のところはこちらの東棟にお泊り遊ばして。
お若い方々で少々賑やかにされても、あそこならば中庭を挟んで、
物音は奥方さまには届きませんわ。
後でお酒をたくさん運ばせますわ。
そして明日は森で狩りでもいかが?または湖で釣りなど。
先程、ミケラン様には皇太子ご来訪の旨を伝える使者を出しましたから、
おっつけ返事が戻ってくると思いますわ。
返答のあるまでは、どうぞこちらで、旅のお疲れを休めて、ごゆるりとなさって。
ソラムダリヤは振り返った。
「何か聞こえたが」
「え」
「今、女の声が。対岸から」
「いいえ、わたくしには何も聞こえませんわ」
「何かが、わたしの心にふと触れた気がしたのだが・・・花びらみたいな、何かが」
「気のせいではありませんかしら」
膝のあたりで薄絹を握り締めて、エステラは皇太子に引きつった微笑みを見せた。
夜の湖も夜の森も、星空の下に透き通って穏やかだった。
騎士の中には遠方の声が聞こえる者もあると聞くが、皇太子は騎士ではないはずだ。
もっとも聖騎士家の血が入り混じっているジュピタ皇家のことであるから、
何らかの特異な特質は自覚なく、彼も潜在的にその身に具えているのかも知れない。
「聞こえませんわ。ほら、何も」
「その病人はよほど具合が悪いのですね」
「ええまあ」
エステラは肩越しにそっと湖の闇を見遣った。
不気味なほどに湖は静かだった。

 



[続く]




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