[ビスカリアの星]■十九.
納屋の壁の隙間から差し込む朝日に、ユスタスは目を開いて、髪をかきあげた。
ここはどこだろう、ああそうだった、とひとつ流れで昨夜からのことを思い返し、
髪についた藁屑を軽く振り払うと、半身を起こした。
朝の冷たい風に、裸のユスタスは少し震えた。
敷布をはねのけて、裸身のまま伸びをする。
たまっていた疲労は気持ちのよい熟睡によって回復したようだ。
家畜が鳴く音が納屋の外から聞こえてきた。
近くに引き寄せて置いておいた衣服や荷物はそのままそこに揃っていた。
納屋の二階から梯子を見下ろせば、馬もそこにちゃんと下にある。
警戒するわけではないが、それを確かめてから、服に手を伸ばした。
若木のようなその身体に、後ろから女の腕が巻きついた。
ユスタスはその腕に唇をつけて、にこりと笑った。
「おはよう」
女の巻き毛にからみついた藁屑を取ってやろうとすると、女は笑って、
「後でちゃんと梳くからいいわ」
ざっくりと払っただけで、さっさと後ろで束ねてしまった。
「お腹すいたでしょ。待ってて今、朝ごはんを作るから。
顔を洗うなら井戸はここを出て左よ」
幾らなんでも強行軍だった。
リリティスの行方を追って飛び出したはいいものの、何も手がかりが得られず、
連日の疲れはここにきてユスタスに限界を告げ、
馬から転がり落ちるようにして、目についた一軒の民家に休憩を求めたのである。
「お金なんていらない。狭い家だけど一晩、休んでいくといいわ」
ユスタスを上から下まで眺めた後で、女はあっさりとユスタスを
一人住まいに迎え入れてくれた。
若い男の子がいったいなぜ、このような僻地を馬で飛ばしていたのかなどと
尋ねることもしなかった。
温かい食事を振舞ってくれた後、乾いた藁を納屋の二階に運ぶのを手伝っていると、
「ちょうど、話相手が欲しい気分だったの」
女は身の上話を始めた。
正直、面倒だな、とユスタスはその時思った。
まだ若いのに肌艶の失せた女の顔を最初に見た時、
何となく直感で、昔は春をひさいでいたのかなと思ったが、それはあたっていた。
貧しい村に生まれて売られ、客をとるうちに見初められて、
女はこの家に嫁いできたのだという。
幸せはごく短く、舅姑と夫はあっという間に病没して一人残された。
未亡人はユスタスに自嘲してみせた。
「昔の稼業に戻ろうと思っても、もう、売れる年じゃないものね」
だからここで小さな畑を耕して、何とか独りで暮らしているの、と女は笑った。
笑い方や話し方のどこかに、娼婦であった時代の名残があった。
人生への疲れや諦念が生ぬるく溜まったような女のその口調は、ユスタスの知るものだ。
姉のリリティスが知ったならしばらく口を利いてくれなくなること確実の、
兄シュディリスと自分のたまの娼館通いはあくまでも男同士の秘密の愉しみだったが、
そこで耳にする女たちの身の上話はいつも同じで、
若いユスタスをうんざりさせたものだった。
愁嘆を客に披露するのも馴れ果てた調子で、嘘くさく、媚が混じり、
たいていは内容に代わり映えもなく、気の毒だとは思うが同情も出来ず、
少なくともユスタスは、そんな話を好む種類の客ではなかった。
しかし考えてみれば、
娼館から外に出ることのほとんど許されることはない女たちには、
自ら客に語る話といえば、虚実の混じったその手の安手の「物語」しかなかったのかも知れない。
下手くそな物語だったにしろ、あれはあれで、可哀想だったのかもな。
ふと湧いたその情に自ら前向きに頷くようにして、
気がつけばユスタスは若い未亡人の苦労話に耳を傾け、
死んだ亭主の話を聞いてやり、気がつけば男と女がなる事に馴れるままに、なっていた。
こんなことをしてていいのか、と柔らかな藁の上に倒れて
女と身体を重ねた時にはさすがに脳裏で思ったものの、
(おかげでぐっすりと良く眠れた!)
目覚めのユスタスは爽快である。
女の腕の中で温かく眠ったせめてもの御礼として彼が思いつくものはやはり金銭の他になく、
朝食に出された皿の下に、相場の宿賃より少し大目の硬貨をユスタスは滑らせておいた。
しかし長居は無用である。
行きずりの未亡人ひとりをそれこそ軽く扱った自分にも少し腹が立つ。
「いろいろと、ありがとう」
馬を引き出すと、それに乗った。
そのあたりは男のずるさで、これきりの女にユスタスはさわやかに別れを告げた。
「人を探しているんだ。だからもう行かないと」
「どんな人?」
女は余分に焼いてくれた焼き麺麭を布にくるんで馬に積んだ荷物に加えてくれた。
「誰を探しているの」
「家出した姉さん」
「どんな」
適当にぼかしつつ、ユスタスは説明した。
トレスピアノの国境をすでに越えた、サザンカ領の外れにあたるこの辺りには
ユスタスがフラワン家の者だとひと目で分かる者はいないと思うが、
素性はあまり迂闊に明かさないほうがいい。
「そんな若いお嬢さんは知らないわ」
案の定、女にはまるで心当たりがないようだった。
しかし、見送る未亡人はふと思い出したようにユスタスを引き止め、
柵に足をかけて身を乗り出すと、馬の上のユスタスに顔を近づけてそれを教えてくれた。
二人組みの若者を捜している人たちの話ならつい最近聞いたわよ。
そんな若者がこの辺りを通過しなかったかと、
あそこに屋根の見えている家に住む行商のおじさんが、
先日町で通りすがりに尋ねられたの。
一人は銀髪、一人は茶色の髪。蒼い目。
「そういえば、あなたも茶色の髪ね。それに空の色の目をしている」
「僕じゃないよ」
さり気なく否定しておきながら、馬上のユスタスは忙しく頭を働かせた。
(誰だ?シリス兄さんと僕を捜しているのか?------何で)
もし何者かが捜している尋ね人の該当者がまことにシュディリスとユスタスであるならば、
それはやはりレイズン家の手の者である可能性が高い。
こんな僻地にまで手を伸ばしているとなると、
(やばいな)
ユスタスは唇を噛んだ。
リリティスを奪い返す前に自分の方こそ、巫女を奪い去ったシュディリスの片割れとして
レイズン側に捕まるかも知れない。
「それ、どんな人たちだった」
「三人組の他国人。騎士」
「所属はどこの国。紋章は分かる」
「あたしも後ろ姿だけは見たの。彼らは身なりのいい立派な格好をしていて、
全員が剣の柄頭に、緑の紐を巻いていたわ」
「紐の先に三角の金飾り?」
「ええ、そうだったわ」
ひゅっとユスタスは内心で口笛を吹いた。
それじゃあそれは、フェララ家の騎士だ。
(ルイさんだ)
フラワン家に滞在していたルイ・グレダンは、
帰国の途上、ついでに僕と兄さんを捜すことを父カシニから頼まれたに違いない。
ルイ・グレダンのことである。きっと律儀に、丁寧に捜してくれたのだろう。
トレスピアノ領内のみならず、トレスピアノ、サザンカ、フェララと北上する途上とはいえ、
こんなサザンカ領の外れにまで探索をかけてくれたとは、律儀を通り越して、
その誠実さに申し訳ないほどである。
方々に迷惑をかけてる。
ため息が出た。
あんな人のいい彼にいちばん皺寄せがいくように世の中は出来ているんだから、参るよまったく。
万事に鷹揚に構えているせいでそのようには見えなくとも、
ルイ・グレダンは元はハイロウリーン騎士団の重鎮であり、
怪我を負ってそこを退いた現在は、
フェララ家剣術師範代として大国の厚遇を受ける身、つまりフェララの賓客である。
もうフェララにも帰国したであろうが、此度のことが無事に済んだら、
彼にも厚く礼をしなければなるまい。
(リリティス姉さんをお嫁さんとして差し出すとかさ)
笑えない冗談を半ば本気で考えていると、女は「他にも」と情報をくれた。
森のずっと向こうの、雷で裂けた大木近くの河原で、人死にが見つかったそうよ。
中でも一番若い子供の死骸は、首と胴体が離れていて、
しかもよほどの腕前の剣士でなくばこうはなるまいというほど、
すっぱりと両断されていたんですって。
何者かにふるわれた一刀があまりにも一瞬のことだったせいか、
岩場に落ちた少年の首は、何かを言いたげに口を開き、目を開いたままだったという噂なの。
物騒ねえ。
仲間割れでもあったんじゃないかと、ここらの人は云ってるわ。
最近は怖いことばかりね。
他はともかく、河原でのそれは間違いなく、ユスタス自身の仕業である。
へええと感心して聞いておく他なく、そうした。
これはますますここからすぐに立ち退いたほうがいい。
念の為に自分がここに泊まったことを未亡人に口止めしておいたほうがいいかとも考えたが、
女がまったく何も知らぬほうが安全であろう。
誰に何を訊かれても、家出中の姉を捜している弟を一晩泊めた、それで通るはずだ。
「気をつけてね」
「うん」
「お姉さんが見つかるといいわね」
ユスタスはそんな女に顔を傾けた。
「素敵だったよ。本当にありがとう」
女に口づけをすると、手を振った。
さらなる災難は後にしてきたその女の村から、ユスタスを追いかけてきた。
「盗賊だ!」
雄たけびに似た声が突如巻き上がると、
道の向こうからどどっと人が農具を武器に現れて、いっせいに駆けて行くではないか。
後方を見れば、空に幾つもの狼煙が細く上がっている。
見る間に、カンカンカン、と変事を告げて連打する鐘の音も方々から響いてきた。
すれ違っていく彼らに向けて、ユスタスは訊いた。
「本当に盗賊」
「間違いない」
隣村の農夫たちはユスタスの脇を駆け抜けながら返事を寄越した。
「この間もここらを襲って、そん時には家畜と、娘っこを浚って行ったんだ」
「今度のもまた、そいつらに違いねえよ」
「手ごろな女を見ると見境なく浚っていくんだ奴らは」
それでは一晩世話になったあの未亡人が危ない、と思うよりは、
やはり真っ先にユスタスには姉リリティスのことが頭に浮かんだ。
たとえば逃亡に成功して、レイズン軍から離れたところを、その手の悪い連中に
再び捕らえられていたとしたら。
レイズン軍はよく訓練された軍隊である。
一度内部に押えた虜囚をみすみす取り逃がすなどまずない線だと思いつつも、
ユスタスの不安は高まった。
盗賊と軍隊なら、軍律の行き届いた軍隊の方に捕まっているほうが、
体面的なものとはいえそこに秩序が存在している分だけ、若い娘を囲む状況としては、
盗賊よりはまだマシである。
こんな調子では、どこかで誰かが川に身投げしたと聞くだけで「姉さんかも」と思い、
世界中に馬を走らすことになるんじゃないだろうかと思いながらもユスタスは、
姉のことはさておいても、人情面から世話を受けた未亡人の身が気遣われて、
来た道を戻ることを即座に選んでいた。
「誰だ、あんた」
直ちに馬首をめぐらすと、驚く村人たちを追い抜いて、先頭を切って駆け抜けた。
すでに、ものの焼ける不吉な匂いを風が運んできている。
盗賊たちは一陣の竜巻のように辺境を襲っては、目に付いたものを片端から奪って、
見境のない殺戮の後に去っていくのが常だった。
馬を飛ばすユスタスの胸にせりあがってきたものは、
未亡人の身が心配だというよりは、もはや乱暴狼藉を見捨てては置けぬ騎士としての血であった。
道の端にへたり込んでいた未亡人はユスタスを認めると、
「ああ!」
叫んで、よろよろと立ち上がった。
ユスタスが昨夜泊った納屋も、家も、火の粉を噴き上げて燃えている。
「無事だった?良かった」
家は燃えても持ち出すだけのものは持ち出したと見えて、
未亡人は金袋だけはしっかりと握り締めていた。
「でも------。見て、あたしの家が、畑が、めちゃめちゃに」
「盗賊は」
「森へ引き上げてしまった」
「追いかける」
「待って、追いかけるってそんな。あんた一人で、危ない」
「様子を見るだけで深入りはしないよ。大丈夫」
しかし一人にされるのが怖いのか、未亡人はユスタスの足を下から掴んだ。
気持ちは分かるが今は構っている余裕がない。
「後ろからすぐに隣村の人たちが来るから、それまでは何処かに隠れていて」
言い聞かせて、振りほどいた。
怯える女を宥めすかして、ようやく押しのけて遠のけた。
その真横を、すっと駆け抜けていった卑しからぬ騎馬がある。
花の香りがした。
初夏の花だった。
森に向かって、少女が駆け過ぎていく。
その手にはすでに抜き放った剣があり、盗賊を屠った血の色で、朱に濡れていた。
花の香りには、血と混じっていた。
一人で盗賊を追う気だろうか。
「危ない、待て」
呼びかけても、少女は振り返ることはなかった。
今まさにそうしようとしていた自分のことは棚上げにして、
未亡人には救援が来るまで隠れているようにと念を押して突き飛ばすように下がらせると、
ユスタスはすぐさま少女を追って馬を飛ばした。
(何だ?あの子)
短く切った黒髪からは、細い首筋が見えていた。
少女は黒づくめの男装をしていたが、襟元や袖口には
娘らしい薄紅色がやさしくこぼれていた。
片手に剣を、片手に手綱を持って、危なげなく、木立の間を駆けていく。
やがて、緑の中に刀身の弧を赤く描いて、少女の方から先に馬首をこちらに向けた。
勢い余って、ぐるっとユスタスの周囲を大きく廻ってから、また前に出てきた。
「戻りなさい」
双方の馬が嘶いた。
かわいい顔に、小鈴が震えるようなかわいい声だった。
だがその唇から放たれる言葉は命令癖を帯びて、冷たかった。
血塗れた剣の先を地に向けて、少女は凛としてユスタスに促した。
「旅の方。ここから先はわたしに任せて戻りなさい」
トレスピアノを治める家に生まれた者として、
主要な国の名家家系図はあらかた頭に入っている。
この口調と物腰、かわいい姿と声に似合わぬ、堂々たる。
ユスタスは少女が手にしている細身の剣を見た。
緑の中に目覚しく、木漏れ日をはじいて、赤かった。
屠った者の血で汚れているのではなかった。
最初から、そういう色なのだ。
赤い剣。
「わたしの名はロゼッタ・デル・イオウ」
赤く光る剣を見て顔つきを変えたユスタスに、少女はこれで分かっただろうと言わんばかりに、
ユスタスに向けて細い顎を傲慢に上げ、後ろを指差した。戻れ。
「サザンカ家の家司イオウ家の者だ。
盗賊はわたしが追う。怪我をする前に、戻りなさい」
「怪我をするのは、君じゃないの」
ユスタスは自分よりも幾つか年下と思しき少女の説得にかかった。
とにかく一人でなんて、無謀すぎる。
「君こそ、村に戻れよ。御付きの従者たちは何処なんだ」
「何者か」
少女の目が釣りあがった。
かち、と柄音を立ててその赤剣を握りなおす。
「わたしを、薔薇とその棘を家紋とするイオウ家のロゼッタだと認めながら、
そのわたしの言葉を聞かぬつもりか」
「聞いてもいいけど、聞かなくてもいいかな」
「名乗れ、旅の者」
「うーん。名乗ってもいいけど。やめておくよ」
「痴れ者。ふざけるな」
降り注ぐ緑の光が真っ赤に切れた。
ユスタス目掛けて赤い軌跡が走った。
高く上がった金属音に、森の中の鳥が羽ばたいた。
ロゼッタの顔面のまん前で赤い剣は静止していた。
君こそふざけるな、と言い返したのはユスタスだった。
脅しのつもりでユスタスに振り上げたロゼッタの剣は、
目にも留まらぬ速さで抜かれたユスタスの剣に勢いごと軽く滑らされた挙句、
瞬時のうちに、合わせた柄元をこちら側へと押し戻されていたのである。
透けるほどに赤い色をした剣だった。
日差しに落ちる影まで赤かった。
その影は目を見開いているロゼッタの顔にも斜めに落ちて、
怒りと驚愕に紅潮した少女の頬を覆い隠していた。
花の香りがした。
深く沈んでもなおも、華やかなささやきを寄越してくる、若い香り。
「やめよう、危ない」
優越感といったほどでもないが、ユスタスは先に剣を引いて馬を離した。
あまり、公平とは云えない。
星の騎士と、イオウ家程度の騎士では、勝負にならない。
ましてや相手は女の子である、男のユスタスに敵うわけもない。
さらにはフラワン家の方がはるかに格上である。
本来であれば、ロゼッタはユスタスの前にひれ伏して、
今しがた重ねた無礼を恐懼して詫びているはずなのだ。
運悪くこれでユスタスが傷つくようなことでももしあれば、時と場合によっては、
サザンカ家はトレスピアノのフラワン家子息に危害を及ぼそうとした罪で
イオウ家と取り潰し、ロゼッタに死を命じるかも知れない。
無論そういったことを求めるユスタスではない。
その代わり尚更のこと、ロゼッタに正体を明かせなくなった。
トレスピアノは田舎なので、わりと大らかに領民と接することも出来たし、
女の子とも気楽に遊べたが、
一歩領外に出れば、フラワン家の名は次男ユスタスの肩にも重くのしかかってくる。
たとえば正式訪問としてシュディリスなりユスタスがサザンカを訪れる場合には、
サザンカ中の人間が沿道に出て彼らの為に花道を撒き、
花びらで敷き詰められたそこを馬なり馬車で往く際には沿道左右をずらりと儀仗兵が固め、
典範に基ずく式典が贅を尽くして整えられて、夜には空に花火も上がる、
そんな按配になるはずだった。
もちろん、そんな大袈裟なことをして欲しいわけではない。
形式的な儀典としてそうなるだけのことであって、
本人たちとしては、あとは忍耐と我慢との勝負である。
慣れっこなのでフラワン家の三きょうだいも幼少の頃からよくその手のことに耐えたが、
ふと横を見れば、父や兄はともかく、
母やリリティスは貧血で顔が真っ青になっていることもよくあった。
そんな母やリリティスにいち早く気がつくのもやはりシュディリスで、
兄と弟はリリティスの頭越しに目配せすると、切りのいい間合いを見て、
女家族を奥に下がらせたものだった。
「わたしは大丈夫よ」
そんな時にもリリティスは必ず抗って云うのだった。
『わたしは大丈夫よ』--------。
ふと気がつくと、森の中が静かだった。
木漏れ日の柱の向こうから、ロゼッタ・デル・イオウがしげしげとこちらを見ていた。
赤い剣と、赤い唇をきりりと固めて、見ていた。
その顔は、想い出の中の姉ではないが、まさに蒼白である。
切りそろえた髪を逆さまに馬から落ちて、今にも倒れるのではなかと思うほどだった。
ユスタスを見ていた。
バレた。
(そりゃバレるよな)
それとも、さすが、というべきだろうか。
ユスタスは困った。
(かりにもこの子はイオウ家の騎士だ。
隣国の領主家のことは聞いて育っただろうし、何よりも一撃とはいえ今の打ち合いで、
優れた騎士の目を持つものならば、ほぼ間違いなく、こちらの正体なんか、
丸見えになっただろうしね。でも、ということは見かけによらず、
盗賊を一人で討伐しようとするだけあって、彼女なかなかすごいんだな。へえ)
(実際、今のは少しきわどくて、こちらも驚いたしね)
しかし、わざと余裕をもってユスタスは剣を収めた。
ロゼッタは、
「お名をお聞かせ頂きたい」
口調を改めて馬を寄せて来た。
衣類に焚き染めているのだろうか、美しい花の香りがした。
「御身、いずれのご家中の方か」
(かわいい声でそんなに改まった訊き方するなよ)
「ユスタス・フラワン。もしや御身は、フラワン家の二男では」
(かわいい顔でそんなに真剣になるなよ、しかも大当たりだよ)
困った時の癖で、ユスタスはこんな時、シリス兄さんならどうするだろうと考えた。
ロゼッタ・デル・イオウ、薔薇と棘の騎士。
少しそばかすがあるけど、これは大きくなったら消えるだろう。
筋がいいから、もっと大きくなったら、きっと、この子はもっと強くなる。
その代わり下手をしたらこの子も姉さんの二の舞だ。
女騎士の運命は両極端。
緑の中に、赤い影が落ちた。
地に滴り落ちるのは、ロゼットの赤い剣の生む赤い影だった。
「ご返答頂きたい」
「そうだよ」
笑顔を向けた。
「馬を下りる必要はないよ。そのままで聞くといいよ。
僕の名は確かに、ユスタス・フラワンだ」
同時に「でも、秘密にしておいて欲しいんだ」と開き直ったユスタスは続けて頼んでいた。
有無を言わさぬフラワン家の威厳をいちおう、かたちばかりはこめておいた。
深い事情なんかないよ、ちょっと遊びに来てるんだ。おしのびで。
「やはり、ユスタス・フラワンさま」
ロゼッタは態度を改めたものの、怯まなかった。
「畏れながらユスタス様におかれましては、何故にこのような森の中に、
供人も連れずに御一人でおられます」
イオウ家の家風なのだろう。
男口調ではあるものの、物怖じしないきびきびとした言いようだった。
小さな顔をこちらに据えて、怖い顔をしていた。
あべこべに詰問を受けてしまったユスタスは、
盗賊成敗に駆けていく君の身が心配で追いかけたからだよ、と
云い返したいところであったが、その盗賊の気配もすっかり消えた森の中には、
もはや用もない二人である。
正体がバレたのだ。一刻も早く退散するに限る。
馬首を並べて引き返し、森を出たところで、ユスタスは、
じゃあ、これで、と片手を上げた。
「ここで逢えて嬉しかったよ、ロゼッタ。
君の名前を覚えておく。
僕のことは誰にも言わないでいてくれること、頼んだからね!」
半ばやけくそ気味に、適当な挨拶込みでロゼッタにもう一度頼むだけ頼むと、
ぱっと馬の速度を上げて、ロゼッタを置き去りにして駆けた。
腕前は確かだ。盗賊が戻ってきても、あの子ならしばしの時間は何とかなるだろう。
盗賊が放った火もようやく鎮火した村を抜ける際、途中で未亡人の姿を見かけた。
村人たちの保護を受けて、何とか人心地ついた様子だった。
疲れた顔だったが、婦人たちの世話を受けて、何とか笑みを浮かべている。
それを横目に見て安堵した後は、挨拶を送ることもなく通過して、ユスタスは馬を飛ばした。
薔薇の残り香がした。
振り払いたいよりは、振り返りたかったが、それを堪えた。
少女が首から下げていた陶器の小さな飾りから、どうやら薔薇の香りはしていたようだ。
花の香りと深紅の剣。
とんだ道草だった。
だがイオウ家の少女騎士がそれこそ、なぜこんな辺鄙な森近くにいたのだろうか。
(知るもんか)
ひとまず、ユスタスは忘れてしまうことにした。
ユスタスが森の中で出遭った少女はこの後にも登場する。
ロゼッタ・デル・イオウ。
薔薇の騎士である。
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眠りは安らかには訪れず、その目覚めもまた、
不快味を帯びていた。
しかし彼らはそれを、己らの修行不足だとは思わなかった。
三人が三人とも、それをこの中の誰かのせいにしていたからである。
何しろ歳の近い立派な成人男子三人が、宿の小さな部屋で、
ぎゅう詰めになって眠ったのだ。居心地がよかろうはずもない。
そのわりには全員よく眠ったが、若いからであろう。
シュディリス、パトロベリ、グラナンの一行は、昨夜遅く、街道沿いの旅籠に泊った。
今晩はそこしか空いていないという部屋をひと目みて、ジュシュベンダ騎士グラナン・バラスは、
「わたしは厩舎で寝ます」
即座に申し出たが、
踵を返すその襟首を捕らえたのは主筋にあたるパトロベリ・テラで、
「何が厩舎だ」
まずい飯を出す安宿しか見つからなかった不満を
八つ当たり気味にグラナンにぶつけて小言を述べた。
「あれは馬小屋とも呼べない、屋根があるだけの吹きさらしだったじゃないか。
それに僕と彼を二人きりになどさせるな。
シュディリスに寝首をかかれたらどうするんだ。
それに雨が降るぞ今晩。豪雨だ。あんなところで寝たら流されて川に落ちるぞ。確実だ」
「月の明るい夜ですが」
「いいからここで寝ろ」
部屋に押し戻した。
シュディリスはと見れば、無言で、二つしかない寝台の片方に腰をかけ、
自ら装束を脱いで早々と寝支度をしている。
慌ててグラナンがそれを手伝おうとするのも断って、
二枚重ねの敷布の一枚をはがし、もう一つの小寝台からも同じようにして、
二つの寝台の間に簡易の寝床を作ると、窓際の寝台に自分はさっさと身体を横たえて、
「おやすみ」
挨拶だけを彼らに寄越した。
「おやすみって、おい、もう寝るのか」
「グラナン、良ければ寝台を使い、パトロベリ殿には下で寝てもらうといい」
「君はどうして一日の終わりにまでそんなに愛想なく悪意なんだ、シュディリス」
シュディリスはもう返事をしなかった。
目を閉じてしまうと、すっと眠りに入ったように見えた。
「お疲れなのです。昨夜もあまり満足には睡眠をとられてはいないはずです」
その姿を横目に見ながらグラナンは声をひそめて、
もちろんのこと彼はパトロベリに寝台を譲り、
自らはシュディリスが作った床の寝床の方を選んだ。
しばらくはグラナンがパトロベリの着替えの面倒を見る音や、
荷物をまとめる音などがしていたが、燭台の明かりを最後にグラナンが吹き消すと、
静寂と暗闇が落ちた。
シュディリスは眠ってはいなかった。
目を閉じて、胸の中の暗闇にそれを探していた。
妹の声を。
父母の許にいると思っていたリリティスが屋敷から姿を消したというパトロベリの一報は
シュディリスを不安に突き落としたが、心配するばかりで打つ手立ても今はない。
リリティスを想う時にはいつも付きまとう自責の念は、
やがて朝方にパトロベリに指摘された過去かかわりのあった女たちへの後悔に変わり、
懐かしいアニェスの面影になり、巫女カリアになり、またリリティスの上へと、
薄暗く色を変えて戻っていった。
(どこにいる)
呼びかけても、リリティスも、誰も応えなかった。
胸苦しく、それでもようやく眠ろうとした時だ。
どさっという音がして、う、とグラナンが呻いた。
狭い寝台に慣れないパトロベリが下で寝ているグラナン・バラスの上に落ちたのである。
大きな物音に全員がはっきりと目覚めた。
面倒なので放っておこうかとも思った。
しかしシュディリスはうんざりと起き上がると、月明かりの中でグラナンを助け起こして、
強打した腰をさすっているパトロベリには自分の寝ていた寝台を指した。
「パトロベリ殿、代わりましょう。そちらの寝台より、こちらのほうがまだしも広い」
「寝相はいいんだぞ、僕は。この寝台が男には狭すぎるんだ、君だって落ちるさ」
「もう一度今の騒ぎで起こされるのはご免だと云っているのです」
「真夜中にまで険があるんだな」
「お二方、お止め下さい」
「これしきのことで剣を持つな、グラナン」
「騒がしい」
安らかに、眠れようはずもなかったのである。
一夜明けて、三人は再び巫女探索の途上となった。
昨夜幾度なく、果ては敬語も敬称も吹き飛ぶ口論(というにはあまりにも低俗低級であったが)
を交わしたせいで、三人とも不機嫌に押し黙っていた。
それでも怪我の功名、または雨降って地固まるというべきか、
何となく、この顔ぶれで旅をすることへの諦めのような一抹の馴染みは、
そんな彼らの間に生まれたのかも知れない。
「結局、雨など一度も降らなかったではないですか、パトロベリ様」
「いいじゃないか、お陰でよく眠れただろ。なあシュディリス」
「あれを快眠と呼ぶならばね、パトロベリ」
どうでもいい軽口をたまにむすっとした顔で互いに差し挟みながら
三つの馬影は付かず離れず、ひとかたまりになって夜明けの道を急ぐのだった。
皇太子ソラムダリヤは、清々しい思いで、朝の湖畔を散歩していた。
ミケラン・レイズン卿の別荘地はまだ静寂の中にあり、
朝鳥や、静かな湖面に時々目覚めの魚が跳ねる他は、他に動く影もない。
空は薔薇色と青磁色に美しく晴れて、西空の森の上には、小さな星と月がまだ残っていた。
朝露に濡れた草花を踏みしだきながら、若き皇太子は、
爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
いい気持ちだった。
昨夜はよく寝た。
急なことで何のもてなしも出来ないとエステラが恐縮していたわりには豪勢な食事が出たが、
なにぶんにも、同じ屋根の下に病人がいる。
騒いでも中庭を間に挟んでいるので薬で眠る夫人には聞こえないと云われても、
さすがにそれはアリアケ・レイズンの手前、憚られ、
ソラムダリヤは側近たちにも別荘の閑静を守るようにと命じると、
自身は酒もほどほどに切り上げて、羽目を外して騒ぐこともせぬまま
早々のうちに就寝したのである。
明け方、鳥の声で目が覚めた。
湖に面した別荘地はその風まで、清らかに思われた。
「ソラムダリヤ様、どちらへ」
「散歩してくる」
寝ずの番に簡単に断ると、簡単に身繕いをして、彼は一人でぶらりと露台から外へ出た。
空の色、湖の青、森の向こうの山脈に、感嘆のまなざしを彼は向けた。
ミケラン卿はまったく風光明媚な美しい別荘を持っている。
それに麗しい愛人も。
(実に美しい)
厳密にいえばエステラは彼の好みとは少し違ったが、それでもミケラン卿の愛人エステラは
女なら見慣れた青年の目にも、じゅうぶんに鑑賞に堪える美女だった。
少し愚かそうで無防備なところや、上目遣いの甘さがまたいい。
と、彼はすっかり女の媚態に騙されているのだった。
そんな朝の頭にふんわりと見かけた女のことを想いつつ、
部屋から持って出て来た焼き菓子を小鳥のために彼は手の中で砕いた。
撒いてやると、さっそくに小鳥が集まってきて、それをついばんだ。
妹のフリジアも連れてくれば良かった、と七つ年下の内親王のことを
ソラムダリヤは残念に思った。
森と湖の景観や、小動物のかわいらしさに、きっと大喜びしただろう。
月が森に消え、空が明るんできた。
日が完全に昇る前のひと時、次第に湖の青さが金色をかぶったようになって、
深みを増した空の彩りは、いよいよ美しく華麗に輝いた。
夕映えよりも、朝焼けのほうが、彼は好きだった。
歓びや何かの期待が、のびやかに、きれいな色で羽ばたいて満ちていく気がするのだった。
散策するソラムダリヤの前に、やがて母屋の対岸の別棟が現れた。
もし彼が、最後に一握り残った焼き菓子を、鳥のために空に投げ上げていなければ、
その異変にも気がつかなかったであろう。
夜明けの空を見上げた高い視界に、何かが見えた。
それは慎重に、だが着実に、すばやく動いていた。
別棟の外壁に張り付いて、蔦を伝い、雨樋を伝い、命綱もなく、若い娘が下に降りようとしている。
音を立てないように細心の注意を払って、そうしている。
あっけにとられて、ソラムダリヤはそれを眺めていた。
泥棒とも思われない。
不審に思いながら彼が近づいても、
娘は足場や手がかりを探すほうに完全に気を取られているのか、壁際から顔を他に向けなかった。
そこで何をしているのかと声をかけるのも娘を驚かせるようで躊躇われてしまい、
窓枠に手を伸ばし、腕木を伝い、細い脚で軽やかに足場から足場へと、
転落も怖れずにわずかな出っ張りを音もなく飛び移る、その様子を驚き恐れ入りながら見ていると、
あともう少しというところで、頼るものが途切れた。
地面はまだ遠い。
一体どうするのかと見ているソラムダリヤの前で、娘の身体が宙に浮いた。
思い切って、飛び降りたのである。
「うわッ」
反射的にソラムダリヤは両腕を伸ばして真下に駆け寄っていた。
その腕の中に、娘は落ちてきた。
仰向けに二人で転んだ。
まず目に映ったのは、娘の灰色の瞳と、夜明けの星の光を吸ったような髪だった。
どちらが速かったのかは分からない。
次の瞬間、二人は飛び起きて、
娘は手にした細い短剣を彼に向け、驚いたソラムダリヤはその腕を取り抑えて、
壁に娘を押し付けて抑えていた。
よく見もしないままに、ソラムダリヤは娘の口を片手で塞いでいた。
「しーっ」
もみ合いになったが、「静かに」咄嗟に娘に言い聞かせて、建物の角を曲がった。
ちょうど、森に埋もれるようにして木々が被さっているところまで
引きずるようにして連れて行った。ここならひと目につかない。
樹木の暗がりの中で囁いた。
「何をしていた。泥棒なら、逃がすわけにはいかない」
男装をした娘は髪を乱したまま、応えなかった。
ふと思い当たった。
これはエステラが昨晩云っていた、別棟に隔離したという病人娘なのではないのだろうか。
「下働きの子?」
そうは見えない。
娘の様子にはどことなく優美なところがあり、抑えた手も繊細だった。
娘はやはり何も云わなかった。
ソラムダリヤに手首を捕まれたまま、まだその手にしっかりと短剣を握り締めていた。
なおも暴れて逃げようとする。
「誰にも知られたくないのだろう。騒がないほうがいい」
「わたしを、放して」
切羽詰った声だった。
身も世もない懇願というものがあるとすれば、まさにそれだった。
「行かなくてはいけない処があるんです」
「何処へ」
「お願い。わたしを見なかったことにして」
「いいけど、その短剣を振り回さないと約束してくれなくては。
最初に云っておくけど、これでも護身術だけは嫌というほど叩き込まれているんだ。
君の細腕くらい、簡単に折れる。------いいね」
「…………」
手を放した。
娘はすっと後ろに下がった。
樹木の切れ間から、日が差し込んで、そこだけが明るかった。
剣を持ち、かすかに震えて、その顔をこちらに向けていた。
何かを酷く怖れているせいか、凍えた目をしており、痛ましいまでに孤高で、鮮烈だった。
娘は身を翻し、駆け出そうとした。
ソラムダリヤは再び抱きとめていた。
その手を掴み、腕を掴み、背中から抱きしめていた。
「世界中を探して-----------」
ようよう、ソラムダリヤは喘ぎながら云った。
「君を描いた画家を探そう。君を見た。あの人だ。------君を、知っている」
腕の中でがくりと娘の身体が震えた。
その言葉に何かを思い出しでもしたのだろうか。
狂気じみた抵抗を見せて、娘はソラムダリヤの腕から飛び出した。
振り返ると、ソラムダリヤに短剣を振りかざした。
「やめるんだ」
その尖先を避けると小声で厳しくソラムダリヤは命じた。
性格的にも素質的にも、彼は攻勢には向いてはいなかったが、
そのかわり訓練を積んだだけあって、守勢には自信があった。
皇太子を幼少の頃から鍛えたのは名うての剣豪ばかりで、武器がなくとも怯むことはなかった。
娘の火のような攻撃を避けて、彼は低く叫んだ。
「わたしを傷つけたら、君がいけないことになる。本当だ、嘘じゃない。
だから止めるんだ。君は------騎士だね」
「放して」
「落ち着くんだ」
「放して……」
ざあっと光の雨のように娘の髪が目の前で踊り、その向こうに娘の眼が見えた。
泣いていた。
何がいったいそんなに苦しく、辛いのかと思わせるほどに、思いつめた顔をしていた。
娘は小刻みに震えながら、抱きとめたソラムダリヤに抗った。
触れた肌は驚くほどに冷たかった。
油断したわけではないが、あ、と思った時には斬られていた。
動きを止めたのは娘のほうだった。
酷く怯えて、ソラムダリヤの頬から流れた血を見ていた。
無抵抗の人間を斬ったせいなのか、それとも他に理由でもあるのか、
傷ついた顔で、泣きながら、彼を見上げていた。
ソラムダリヤは娘の腕を掴んだまま微笑んだ。
「大丈夫だよ」
手の甲で血を拭った。あふれた血は首筋を伝った。
彼は出来るだけやさしく、汚れていない方の手を娘に伸ばした。
「少し斬っただけだ、大丈夫。
それよりも、どうして壁を伝って外へ出ようとしたんだ。
わけがあるなら教えてくれないか、わたしはきっと君の力になれる。
何処かに行きたいなら、そこへ、君を連れて行ってあげられると思う」
女騎士は彼を見ていた。
朝の光に包まれて、弱々しく、しかしその手にまだ剣を持ったまま、硬直していた。
病んでいるようには見えなかったが、もしかしたらこの娘は本当に病人なのかも知れないと
ソラムダリヤが思い直したほどに、青褪めて、具合が悪そうだった。
声を和らげて、出来るだけ気をつけた。
頬の傷から流れる血がどうやら娘を怖がらせているようなので、
努めて痛みを我慢して、笑顔をつくった。
「本当だ。力になってあげられる。
だから、ね、君、もう泣かないで」
少し身を屈めて、フリジアがもっと幼い頃にはそうしてやったように、
娘の顔を下から仰ぐようにした。
「そんなに動揺したままでは何処にも行けはしないよ。
そんなに震えて立っているのも辛そうなのに。
いったい何がしたいのか、どうしたいのか、云ってみてくれないか」
「わたしの力になってくれるというの--------?」
思いがけず、娘が応えた。
ソラムダリヤは顔を輝かせた。頷いて、娘の手を取った。
「もちろん」、ソラムダリヤは美しい娘に意気込んで見せた。
「誓うよ」
「誓って」
ソラムダリヤが何者か知らない娘はなかなか居丈高だった。
幾分かそれが愉しくも思われて、明るい性格の皇太子は気にしなかった。
娘が何者でも構わない。
よもや逢えるとは想わなかった、夢の中の姫君に、あまりにも娘は似ていた。
拙い手で描かれた、しかし画家の心眼を深々と見る者に伝えてきた、
絵の中の北国の姫に。
目の前にいる。
そして彼に求めていた。
誓って。
ソラムダリヤは誓う真似をした。
「そうだね、内容によるけど。
でも君が行きたい処へお伴するくらいのことはお安い御用だ。
連れて行ってあげるよ。君は、何処へ行こうとしていたの」
「トレスピアノ」
それは娘の唇から歌の最後のようにふと零れ落ち、
そして娘はそのことに、自分で怯え上がったようだった。
[続く]
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