[ビスカリアの星]■二.
背中越しに跳びかかってきた身体に腕を回して
シュディリスは身を反転させると、
岩場を転がり、もろとも相手を川に軽く落とした。
ざぶりと被った冷たい水に、二人は声を上げて若く笑った。
「兄さん!シュディリス兄さん、ひどいよ」
「ここにはあまり来てはいけないと云ってあるのに、ユスタス」
「いいじゃない、姉さんなら裸でいるところを見られたら困るだろうけど、
僕達は男同士なんだから」
ユスタスは笑って兄にもう一度身体をぶつけた。
青空の下、兄と弟は水を掛け合い、ふざけあった。
やがて濡れぼそった衣服を脱ぎ散らかして、それが乾くのを待つ間、
二人はユスタスが持って来た麺麭を馬から降ろして分け合って食べ、
風と温かな日光にすぐに乾いた服を着込むと、
葉影がちらちらと明るくこぼれる樹の根元に並んで腰を下ろした。
兄と弟は、同じ青い瞳をしていた。
シュディリスの方が少し紫のかかった黄昏の深い青なら、
弟のユスタスはそれに比べればずっと清んだ明るい青色をしていて、
兄のシュディリスも弟のユスタスも、大きくなるまでは
互いを本当の兄弟だと信じて、疑ってもみなかった。
ここ二、三年のうちに急に背が伸びた弟のユスタスだったが、
血の繋がらぬ兄に向ける真っ直ぐな笑顔は、
無条件の信頼と甘えに裏打ちされた、幼い頃のままだった。
シュディリスが実の兄ではないことを知った後も、
ユスタスのその笑顔は曇ることなく、シュディリスの部屋に飛び込んで来て、
「聞いちゃった!」
と開口一番、
愉しい噂話でも聞いたかのように、笑って兄に抱きついたものである。
フラワン家の仲の良い二人の男子が、実は兄弟ではないことを
疑ってみる領民はいなかった。
養母リィスリは、実家であるオーガススィ家の慣わしであると偽って、
身篭ったことを口実にシュディリスが二歳になるまでは
領地を離れた隠れ家で、腹心の者たちだけで秘かにシュディリスを育てたし、
銀髪と茶髪という違いはあれども、
シュディリスとユスタスの二人の顔には、共にある種の精神性が表れており、
複雑に血統の絡み合った正騎士家特有の、
沈思のうちの剛毅豪胆といったものが、すでにもう、二人の容姿や
振る舞いの端々に、冷淡ともいうべき洗練さでその所作を覆いつくしていて、
それが兄弟ならではの類似となって人の目には映っていた。
何かを語る彼らの声音には、いつも、心から心に向かってそれを丁寧に
語りかけるような、高い精神と情感の合わさった誠実さと真実があったし、
かと思えば、まるで気取らないところも、共通していた。
そしてそれらの特徴は、
フラワン家三人きょうだいの真ん中に生まれ、
母の名にちなんでリリティスと名づけられた唯一の女の子ともども、
たとえ彼らが同じ年頃の若者たちと見かけは同じ言動をとっていても、
さすがはフラワン家の御子たちだ、と、
明らかな差異の印象を、人々の心に強く与えるものであった。
シュディリス・フラワン、またはユスタス・フラワンの兄弟が現れると、
そこにさっと一陣の清潔な蒼風が吹くように人々には想われたし、
また最近はなくなったことだったが、ほんの幼少の頃、
二人が何かに対して強い怒りを覚えると、
じわじわとその周囲までもが気圧されていくような、
止めようもない怒りの流れが、無言のうちにもその全身から放出されて、
それは母であるリィスリ、または父であるカシニが、
抱きとめてやって窘めるまで、彼らの体内を嵐となって出口なく赤く駆け巡り、
そして一旦そうなると、まだ自己制御を知らない幼子の時分には特に、
彼らが心から信服し、愛を捧げている者にしか、
それを収めることは出来ないのだった。
騎士の血に強く裏打ちされたそれらの特質がちょうどいい目暗ましとなって、
彼らが実は兄弟ではないことを、田舎の者たちの猜疑心からはすっかり隠していた。
むろん、彼らフラワン家の兄弟たちは、領主の子に生まれた特権に驕るでもなく、
暴力的で、傲慢な性格でもなかった。
両親の愛に包まれ、
支配する側に生まれた義務や自覚を躾ともども教えられて育った彼らは、
領民とは親しく口を利き、共に野山を駆け回って親愛を交わすと同時に、
礼節の一線をこちら側から固く守ることで、
やがては父に代わって統治する領土の全てを、分け隔てなく気遣い、
大切にすることを知っていた。
何かを考える時には、利己よりは万人を基準とする、
俯瞰的な思考を習性としていて、彼らが何かを譲る時には、それは
自分の慾を棄てることで高みに上がる、まことの貴人としての振る舞いを
すでに身につけて選ぶものだった。
そして末弟のユスタスにとっては、父母よりも、
自分を可愛がり、導いてくれる手本には、
四つ年長の兄、シュディリスがそれに代わることが多かった。
とは云ってもまだ若い二人は、その他のことに対しては、若さ相当であった。
他人には滅多に窺わせぬとはいえ、時折少し憂愁な趣きをその横顔に覗かせる兄と違い、
弟の方はまだちょっとした悪戯を使用人に対して試みたり、
気さくに相談を持ちかけたりして、誰とでも友達になり、可愛がられていた。
この兄弟にとっては、シュディリスが生まれた十九年前のウィスタビヤの大変事も、
先ごろのタンジェリン家の蜂起とその滅亡も、
コスモス家の事実上のお取り潰しも、それに伴う他の聖騎士家の動向も、
その報せの重みは彼らとてよく受け止めても、
完全なる治外法権といったこの領土にあっては、
しょせんは遠い他所で起こった、あまり実感の伴わぬ出来事にすぎなかった。
(でも、だからといって、このままで済むものかな)
ユスタスは、木の幹に凭れて午睡をしている兄シュディリスの横顔を
そっと盗み見ながら、この明るい少年には似つかわしからぬ厳しい顔をして、
腹ばいになったまま、草の上に置いている剣の柄を指先で弄んだ。
(ジュピタ皇家とレイズン家は、
カルタラグンに続いてタンジェリン家を、ウィスタチヤから消した。
だけど、まだほんの少女の頃に、リリティス姉さんよりも、
今の僕よりもまだ若い頃に、シュディリス兄さんを生んで、
今は、大国ハイロウリーンの騎士団に仕えていると聞くルビリア・タンジェリン姫と、
カルタラグンとタンジェリンのその双方の高貴の血を父母に持つ、
シリス兄さんがここに健在だと、もしも諸国に知れたら)
眠る兄は、その銀髪を木漏れ日の緑に染めて、
様子が良く、また、ウィスタの都を追われた二つの
大聖騎士家の血を引いているという、その宿命に縁取られて、胸が痛むほど、
ユスタスの目には危うく見えた。
(お前の兄、シュディリスのまことの父君の名は、ヒストリア・ヒスイ・カルタラグン。
御母君は、ガーネット・ルビリア・タンジェリン。
お前の兄は、カルタラグン家とタンジェリン家の結びつきにより生まれた、
カルタラグン王朝の遺児です)
母リィスリがそれを自分に告げた時、もう少しでユスタスは笑い出すところであった。
それが冗談ではないと知れたのは、骨身にまで沁みるような、
その時の母リィスリのまなざしの中にぴたりと照準されて篭められていた、
寒々しいほどの、哀しみや真摯であった。
母リィスリ・フラワン・オーガススィはその手に剣を持ち、
その年齢に達した男の子が許される佩剣を自らの手で、ユスタスに授けた。
(シュディリスと背格好が変わらないまでに長じたお前に申し伝える。
今後、兄シュディリスに禍いが被らんとする時には、
その一命をもって、シュディリス皇子を守り抜きなさい。
兄の楯となり、事あらば、兄の名を騙り、カルタラグンの皇子として身代わりに死になさい。
ユスタス・フラワン・オーガススィ。
我が子よ。
命や名声を惜しむ者は騎士ではない。
命や名誉を惜しむことなく真を生き抜くのが騎士なのです。
御身、まことの騎士であれ)
父のカシニは、それから数日経った穏やかな日を選び、
庭の四阿(あずまや)にユスタスを招いて、末っ子ユスタスの両肩に手を乗せた。
「信じることに従って生きるといい。
希釈されたものとはいえ、わしのこの身体にも、騎士の血が代々流れている。
たとえ過ちに落ちることがあったとしても、お前もシュディリスもわしの大切な息子だ。
シュディリスにもそう云った」
何処から見ても領民の敬慕を集める温和な領主の典型といった風貌の父は、
その時だけは、ユスタスの目に平凡な、しかし子供のことを心底思い遣っている、
普遍的な強さをもった一人の父親として映った。
父カシニは、自分自身に言い聞かせるように、
母親の実家の血を継いで、騎士の特性が色濃く出た息子のユスタスに告げた。
「お前たちが騎士として生きるのならば、それを止めることは出来ない。
信じるものにその剣を捧げて生きるとよい。
だが、愚かな父親の願いとして、これは聞いておいてくれ。
わしは、シュディリスとお前が仲良く、このまま平和のうちに
兄弟で力を合わせてこの荘園を治める将来を願っている。
ウィスタチヤにはまた風雲が起こるであろう。
しかし華やかで刺激的な戦の凱歌とは無縁であっても、
人々の安寧を恒久的に守ることほど、勇敢で、力の要る仕事はないのだよ。
わしはそれを信じて、このわしが治める限りは、
今までこの領土の上に、戦の矢一本、軍馬の蹄一つ、
立ち入らせることを断じて許さなかった。どのように厳しく処断しても、不正は正した。
わしの守るべき信義とはそれなのだ。そのことを覚えておいておいてくれ。よいな」
近くに繋いだ二頭の馬の影が時々ゆったりと大きく掠める中、
ユスタスは母からもらった剣を滑らせて、鞘から引き抜いてみた。
オーガススィ家の紋章が刀身に刻まれたそれは、日蔭の中に白く燃え上がり、
抜き身に反射する光はユスタスの顔をなぞって、細くうつろに横切っていった。
(シリス兄さん)
まだ舌の回らぬ幼い頃、ユスタスは兄の名をそう呼んだ。
シュディリスはユスタスが現れて名を呼ぶと、何をやっていてもすぐに手を止めて、
にこりと微笑んでくれた。
兄弟喧嘩も幾度かしたが、いつも兄の方が手加減してくれていたことを弟は知っていた。
ユスタスは刀身のオーガススィの紋章を指で撫ぜながら考えた。
(皇宮が襲撃された十九年前、ジュピタとレイズンは、
カルタラグン家の第二子ヒスイ皇子を首尾よく殺害したけれど、
ルビリア・タンジェリン姫がヒスイ皇子の子を懐妊していたことを知らなかった。
ルビリア姫は秘かに男子を生んで、そのまま出奔、
赤子はフラワン家に嫁いでいたリィスリ母上が引取ってここで育てた。
母上の実家であるオーガススィ家はジュピタ皇家との呼応を選んで、今もそれは
変わらないし、
もしもカルタラグン王家の遺児が、ここ、トレスピアノの地に息災であることが知れたら、
シリス兄さんを亡き者にしようとする側と
守ろうとする側の軍勢が雪崩れ込んで、この地は戦場となったかも知れない。
そうなれば、フラワン家もその渦中に当然、巻き込まれただろう。
結局、父上に騎士の勇気と義侠があったということなんだろうな。
その可能性を重々承知の上で、母上と僕たちを今まで守ってきたのだから)
そのせいもあってか、シュディリスの養父に対する尊敬は傍目にも明らかで、
父を揶揄するようなうっかりしたことをユスタスが冗談にでも口にすると、
「そのようなことを云ってはいけない」、
ついぞ見せたこともない叱責をするほどだった。
そしてユスタスは、そんなシュディリスが好きだった。
血が繋がってはいなくとも、
肩車をしてくれたり勉強を教えてくれた「シリス兄さん」は、
ユスタスの兄だった。
(兄さんを守るなんて、あたりまえのことじゃないか。きっと僕はそうするとも)
鞘に剣を収めると、ユスタスは向きを変えて仰向けになり、
梢の上に広がる空と雲を見つめた。
剣を胸の上でしっかりと握った。
やがて先に目を開いたシュディリスは、剣をおもちゃのように抱きかかえて眠っている
まだ子供のままの弟の寝顔に、幼さを見て、微笑んだ。
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フラワン家の歴史は古く、聖七騎士家よりもはるかに歴史を遡る。
はるか昔は現在のウィスタチヤ国土の半分を掌握して治めたともいわれ、
聖七騎士家とジュピタ皇家がウィスタチヤを建国した折も、
敬意をもって、豪族フラワン家は談判のうちに、
ウィスタチヤの首都ウィスタより遠く離れた「地の果て」、
しかし肥沃な、トレスピアノと呼ばれる一帯に、大国ジュシュベンダと境を接して、
広大な所領を荘園として与えられた。
以来、トレスピアノはウィスタチヤ帝国に連なるどの国からも完全に独立したかたちで
フラワン家の下に、自治を任されていた。
現在に至るまでのその破格の恩恵は、
初代皇帝の皇妃が、フラワン家の女であったことに深く由縁している。
初代ジュピタ皇帝は聖七騎士と、旅の途中で出逢ったフラワン家の姫の力を借りて、
荒ぶる竜の御霊を鎮め、その竜神の青い血を引き継ぎ、ウィスタチヤを創ったと、
建国の神話は語っており、
フラワン家の姫が、楯もなく鎧もなく、火炎を吐く竜の前に立ちふさがり、
身をもって竜から初代皇帝を守っている姿は、
画家たちのたいそう好む題材として画布の中に描かれてよみがえり、
あらゆる国の城や宮殿の広間を飾ってきた。
そのようなわけで、フラワン家とその恵み豊かな領土は、
いわば神聖不可侵のものとして、あらゆる隷属から免れ、
それは百年前、
ジュピタ皇家で起きた世継争いに、ひとまずの調停として
皇帝権の代行に乗り出し、その後、数代に渡ってウィスタチヤを支配した
カルタラグン王朝期にも、さらには十九年前のカルタラグンの終焉に伴う、
ジュピタ皇家再興の際にも、トレスピアノの自由自治権だけは保たれて、
侵略の手を伸ばす国がないままに、そのままフラワン家のものとして据え置かれていたのだった。
フラワン家からはその後も時代ごとに幾人かの皇妃をジュピタ皇室に上げており、
また、安全保障のために有力騎士家との縁組も積極的であった。
騎士家の方も、半ば伝説的な霊験あらたかなフラワン家の者との縁組を
縁起かつぎとして歓び、血が薄れぬ範囲で、騎士の家ではないフラワン家とよく結ばれた。
当代領主のカシニ・フラワンの許に、はるか北方のオーガススィ家からリィスリが
嫁いで来たのもそのためである。
山岳と森に囲まれたなだらかな領土は、空を過ぎる雲の影を
ふんわりと森や川に広く落として、やわらかに、その日の午後の終りを迎えようとしていた。
「シリス兄さん、あれを見て」
ユスタスが山肌を指すまでもなくシュディリスは、一度小さく上がって、それから
力なく国境の谷間あたりに落ちていった小さな狼煙に気がついて目を向けていた。
薬品を含ませた薬草を丸め、火をつけて弓矢から放たれたそれは、
空に一筋の弱い薄赤を刷いた後、どんなに目を凝らしても、再び上がることはなかった。
シュディリスは眉をひそめ、「急ごう」と、突然馬の腹を蹴り、
ユスタスを残して先に丘を駆け下り始めた。
束ねた銀髪を短くなびかせてシュディリスが荘園に飛び込んだ時、
父のカシニは屋敷の表に出て、
近隣から急ぎ集まってきた長たちと狼煙が上がって消えた方角を不審気に見ていた。
「父上!」
嫡男の帰宅に腰から頭を下げる長たちの中から、呼びかけに応えて、
カシニはシュディリスを迎えて進み出てきた。
「今の狼煙を見たか、シュディリス」
「はい、丘の上から。隣国ジュシュベンダとの境でした」
シュディリスは馬に乗ったままで答えた。
「救援を求める狼煙ならば、真っ直ぐ天頂に向けて続けて二つ放たれるはず。
わたしが見たものは山沿いに落ちていく弱い弧の一つだけ。
その後、何も上がりません。
手違いならば良いのですが、弓手が討たれた為、それが叶わなかったとすれば」
「うむ。やはり自衛団を派遣してみたほうが良さそうだな。
今、長たちとそれを相談していたところなのだ。
長たちの意見は、大方、山間の道を通っていた旅人が獣か追いはぎにでも
襲われたのではないかと云っている。わしもそう思う。
怪我をされているやもしれぬ」
「はい」
カシニは顔を翳らせ、別の心配を口にした。
「リリティスがあれを見るなり、お客人と下男を連れて行ってしまったのだ」
「姉さんとルイさんが?」
ようやく兄に追いついて到着したユスタスが後ろで愕いて口を開けた。
「うむ。様子を見てくると云ってな。
リィスリとわしが止めさせようと外に出た時にはもう、姿が見えなかった。
リリティスはともかく、フェララ家からの客人に何かあったらと思うと」
「分りました」
シュディリスはぐずぐずしてはいなかった。
「父上、わたしは先に行きます」
すぐさま馬の首をめぐらし、風に顔を引き締めて、
「念のために自衛団を後から追わせて下さい」と父にそう頼むと、
「待ってシリス兄さん、僕も行く!」
ユスタスが慌てて手綱を取った時にはもう、その馬影ははるか遠くへと駆けていた。
十七歳になるリリティス・フラワンは、母リィスリの若い頃の生き写しであった。
淡い金髪に、母と同じ濃灰色の瞳を兄弟と同じ青寄りに少し沈ませ、
その凛とした面立ちとほっそりとした姿は、
オーガススィ家の女の容色の特徴を、ほぼそのまま受け継いでいた。
すべすべした頬はまだ丸く、胸の膨らみも、女であることを受け入れて誇るよりは、
恥ずかしいものとして固く衣服の下に隠されてはいたが、
馬を走らせて紅潮するその顔や、言葉の端々に覗く生き生きとして闊達な心の様は、
誰の目にも、涼しい香りのする野花や、飛び立つ小鳥を想わせて、
フラワン家に咲いた花として一目おかれ、愛されていた。
そのリリティスは、フラワン家に滞在中のルイ・グレダンと共に、崖下を見下ろしていた。
下から吹き上がってくる山間の夕風に、
リリティスのリボンで後ろに結わえた豊かな髪が舞った。
その可愛い横顔を盗み見ながら、
「狼煙はジュシュベンダの側からも見えたはずです。
おっつけすぐにも国境警備隊が参りましょう。
お父上の手を煩わすまでもない」
ルイ・グレダンはでっぷりと太った身体を鞍の上で窮屈そうに揺らして、
むしろ愉快そうにリリティスに教えた。
「フラワン家のお立場からは、
トレスピアノの地に直接係わらぬことにはなるべく黙殺を決め込むほうがよいのです。
この崖より向こうはジュシュベンダの領土、
彼らにここは任せて我々は引き返し、この様子を見たまま
カシニ殿にお伝えして安心して頂こう」
リリティスは馬の鞍から身を乗り出して、崖下の様子に、その濃灰色の目を細めた。
混乱の中に、雅な輿が一つ見えていた。
その輿を守る者と襲う者を中心として間に激しい攻防が繰り広げられており、
波浪の中の孤島のような、輿を囲む輪の一番内側を固めるのは、護衛の騎士ではなく、
無防備のままの女たちばかりなのが上からも見てとれた。
さらに視線をずっと逸らしていくと、道から外れたさらに深い崖下に、
矢筒を背負って倒れて死んでいる者がいた。
おそらくは岩場に立ち上がって救援を求める狼煙を放ったところで、
射落とされて道から転がり落ちたものと見えた。
ルイ・グレダンは誰の目にも明らかな年下の少女への懸想を丸出しにして、
黙りこくっているリリティスの関心を自分に向けるようにさらに言葉を継いだ。
「旅の彼らを襲っているのはおそらく、国境を徘徊して獲物を狙う、山賊ですな。
あの輿には相当の貴人が乗っていると見えますが、
はて、どちらのお方であろうか」
「リリティスさま、襲われている側は、山賊より人数は多くとも、
女人の数の方がどうも多いように思われます」
気を揉んだ下男の言葉に頷くと、
リリティスは腰の剣に片手をやって、鞘と柄を繋いでいる留め金を外した。
「リリティス嬢?」
まさかと愕いているルイ・グレダンを無視して、
楽の音が震えるような、澄んだ声が、独り言として風に挑んで呟かれた。
「ジュシュベンダの遅いこと。あれでは狼煙を放った者が浮かばれない」
その髪を束ねるリボンを、今ひとたびきっちりと固く結わえ直すと、リリティスは、
「お助けしましょう」
先に立って、馬を操ってまっしぐらに崖を駆け下っていった。
[続く]
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