[ビスカリアの星]■二十.
弟トバフィルへ。
兄グラナンが手紙を綴る。
お前の住まう山間の僧院も、今日はいい天気だろうか。
晴れた日には遠くの北方山脈までも望めると聞く高みのそこは、
我々の暮らす世俗の芥とは無縁の、清新な青空が、
今朝も濃く澄み切って、世界の果てまでも広がっていることだろうね。
こうして手綱を握る手に日を受けて、木陰に馬を歩ませていると、
何もかもが一瞬の夢のような気がすると云った、お前の言葉を思い出す。
僧籍に移ったお前とは違い兄のわたしの方は、
そこまで遊離解脱の境地に容易くなれはしないが、それでも
ここ数日に起こったことを振り返ると、少しの間、
思いがけない夢でも見ているような浮き立つ気持ちが確かにしてくるのだ。
それともこれは、眠気を甘く誘う、心地の良いそよ風のせいだろうか。
涼しい風と、辺りを包む木々のざわめき、
鞍の高みから仰ぐ遠い山脈や青空や、道に落ちる羽虫の影が、
わたしを瞑想に傾け、情趣に対して感じやすくさせているのだろうか。
遠くのぞむ山の稜線を縁取る万年雪の白さはそのまま、
この世のどこかにある、静謐な生活を教えてくれる。
いつかそこにわたしも赴き、お前からの手紙にあった鐘の音を聞きたい。
山肌の雪が風に煽られ、夕暮れの空一面に羽ばたいて帰っていく。
その空に鐘の音が響くのは、まこと、星々が歌い上げているようだと、
感激を抑えた中にも敬虔に、お前は手紙の中に書いてくれていた。
夕映えに燃える雪の山々を眺めながら、わたしも静かに、
雪の中、星の中に、
その清音を遠いいつの日か、聞いてみたい。
この手紙は、空想の紙を広げて、
心の中でお前に書いている。
今までも、何かあればまずお前に手紙を書き、
文字で誰かに何かを語ることで、心を平らかにし、物事の正誤を見定めてきたわたしだ。
無論、帯びた任務に関わることは守秘が鉄則だから、
たとえ封印した手紙の中であってもそれを破る兄ではなかったが、
とりわけ今回ばかりは書簡のかたちとしてお前に委細を届けることは出来ないようだ。
先ほども休憩をとった街道わきの旅籠で兄のかつての同僚が出てくるのを見かけたのだが、
商人に変装している彼に一言二言、お前や家の者への言伝を頼もうかとも思ったものの、
やはり止めてしまった。
街道を行過ぎる人々の中にもジュシュベンダの間者や
使者を見かけることもあるのだが、
互いに知らぬ顔をしてすれ違う彼らにも、伝言や手紙を託すことは出来ない。
目下、帯びている使命の重さがわたしにそれをさせないのだ。
だから、我が弟よ、心の中でこの手紙を書く。
僧房でお前がわたしの手紙を開封して読んでくれているところを想像しながら、
誰にも知られぬように書いている。
それでも正直なところ、お前に知らせたくてたまらない。
服務に関することの一切は任務から解かれぬ限り、そして解かれた後も、
肉親のお前にも今まで一度たりと漏らしたことのないわたしだが、
今回だけは、ちょっと特別だ。
驚くなよ、弟よ。
お前の兄グラナンは今、トレスピアノ御曹司シュディリス様と一緒にいるのだ。
ジュシュベンダに留学のみぎりには、
お前を引き立てて親しくして下さった、あの方だ。
嘘ではない。
現に今も、トレスピアノのお世継ぎであられるシュディリス・フラワン様は
わたしの傍近くで馬を進めておられる。
緑濃い木洩れ日に埋めたその横顔は、連日のお疲れのせいか、
鞍の上で揺られるままに、少しぼんやりとして眠た気だ。
変装ほど大袈裟ではないものの、ご身分が明らかにならぬよう、
往来の多い街中では髪を束ねた上で平帽をかぶって頂いているのだが、
下民の中やひと気のない今は、それを解かれている。
伏目がちにしたその顔は、散々お前から聞いていたとおり、
そこらの官女や娘たちよりもずっと絵になる。
女同士ならばともかく、こういう時には男はふつう女の嫉妬よりももっと性質の悪い、
それが何だといった根深い反感になるものだが、
容姿に優れた同姓に対するこの手の陰湿な、理由なき男の仇視も、
彼の場合は、あまり、湧き上がってはこないね。
造りのきれいな青年もいたものだと思って、ついつい見てしまって、どうもいけない。
さらに驚かせよう。
シュディリス様の反対側には、パトロベリ・テラ様もおいでである。
兄を間に挟んで、左右にお二方がおられるのだ。
先々代のご落胤であられるパトロベリ様は、我らが主君アルバレス様にとっては
退位された父君の異母弟にあたられる御方。
右にシュディリス様を、左に傍系とはいえ尊き血筋のパトロベリ様をお守りして、
お前の兄が馬を並べているなど、たとえここが式典に臨む花飾りの大通りでなくとも、
バラス家の名誉に尽きるとは思わないか。
(この兄が中央だ。
シュディリス様とパトロベリ様を近くにさせておくと、喧嘩が始まるのだ。
護衛のわたしはいわば衝立代わりとして、真ん中を進む無礼を許されている)。
何故そのようなことになったのか、との問いには、
時が許すのならばいつか語れることもあるだろう。
「急ぐことはない」、
何故か突然、シュディリス様が確信をもってそのように断言なさったので、
並足のままで我々は街道を歩んでいるのだが、お陰でこのように、あれこれと
考えごとをする余裕がある。
本来ならばこうして心の中で思い巡らすだけであっても、不覚悟、不謹慎なことである。
騎士にあるまじき自慢に聞こえるかも知れない。
だが隠さずに内心の嬉しさを伝えたい。
額に傷のある女騎士をお前は知っているだろうか。
元辺境伯クローバ様付きの女騎士と云ったほうが知れているかも知れないが、
その彼女に呼ばれて、今回の打診をもらった時には、
実は飛び上がるほどに嬉しかったのだ。
騎士稼業冥利に尽きるというのはあのことをいうのだ。
美人の誉れ高い女騎士に直に頼みごとをされたからではなく(それもあるが)、
琥珀色をした彼女の眼が切なげにわたしをじっと見つめて(すまん、ちょっと脚色している)、
ヴィスタチヤ帝国を揺るがすやもしれぬ大事と、貴人の護衛を、
このグラナン・バラスを特に選んでお任せ下さったのだから。
「グラナン・バラス。貴方にしか出来ぬことを、頼みたいのです」。
こう云って、わたしにそれを命じた時の彼女の、
きりりと張り詰めた中にも硝子の脆さを隠した美しい顔。
その面影は役得としてこの胸の中に一輪の花のようにありがたく頂戴して納めたのだが、
重大任務の拝受と、美しい女人が心より頼む切なる願いを聞き届けること、
この二つの宿望が同時に叶ったあの時ほど、騎士として生きて、満たされたことはなかった。
天にも昇る心地の余韻のままに、こうして高貴なお二方と馬を並べ、
双方から親しく身近に口を利いて頂ける、そのことに、
顔には露ほど浮かべずとも、珍しくも少々この兄は得意な気持ちでいるのだが、
子供の頃から共に育ったお前だけはわたしの日頃の謙虚と自省を誰よりもよく知るがゆえに、
この密かな慢心も、大目に見て許してくれることだろうね。
さて、冒頭に断ったように仔細は語れないが、
かわりに、トバフィル、お前のかつての学友のことについて触れよう。
シュディリス様のことだ。
仰望といってもいいほどに、お前は隣国からの留学生をかつて高く評価していた。
飛び級したお前とシュディリス様は不思議なほどに心が通ったようだった。
学生時代の過ごし方などいつの時代も大きくは変わりはないだろうが、
随分と楽しそうに、そして羽目を外して、
自由闊達に日々を過ごしていることは、当時のお前からもよく聞かされたものだった。
ジュシュベンダ側が当初、
御方のためにと揃えておいた名家出の学友候補を差し置いて
シュディリス様は格下のお前ばかりを友人とされたわけではなかったが、
お前と彼らを差別せず、彼らと変わらぬ親交を結んで下さったこと、
思慮より生まれるおやさしいそのお心をもって、配慮ある厚遇を賜ったこと、
今後バラス家に生まれる者は末代までも、そのことを我が家の誉れとし、
またシュディリス様への敬慕としなければならない。
幾度かお前からも自慢げに肖像画を見せられたとおり、
シュディリス・フラワン様はなかなかに際立った容姿と品位を兼ね備えておられるから、
イルバル・アルバレス大君に剣を捧げたジュシュベンダ騎士であるわたしにも、
自然と敬愛の念も生まれてこようというものだ。
かといって、姿どおりの優しの君ではないことも確かなようで、
短い間にもそのことはわたしにも重々よく分かった。
たとえお前の口から彼の武勇伝を聞かされていなくとも、
彼の場合はそれもすぐにわたしの目にも知れただろう。
ところで、当時の噂程度にしか知らないが、何でも聞くところによれば、
パトロベリ様とシュディリス様はかつて同じ女人を巡って奪い合いをした仲なのか?
パトロベリ様が捨てた昔の女に留学当時のシュディリス様が懸想して、
さらにはその女人がパトロベリ様のほうがいいとすげなくシュディリス様を振ったのか?
よくは知らないが、因縁だな、
御歳はパトロベリ様の方が上でシュディリス様がわたしの下だが、
このお二人はつまらぬことですぐに、年甲斐もなく派手な諍いを始めるのだ。
現に今朝方も、
「妖精の国の王子さまみたいな顔をして-------」
パトロベリ様に井戸端でそのようにからかわれたシュディリス様は、
盥の水を草地にあけると、濡れたままの顔を上げ、きっと睨み返された。
「貴殿こそジュシュベンダの皇子だ。
トレスピアノは王制ではない。王子呼ばわりされる所以はない」
「そのくらいのことも知らない僕だと思ってくれているとはこれまた光栄至極」
「邪魔だ。退いて下さい」
「あ、水をかけたな!濡れ髪を振ると隣に水がかかることを知っていてわざとやったな!
些細なことで気分を害し、揚げ足を取るなど、
世継ぎの君のやることじゃないぞ、シュディリス。トレスピアノの民が知ったら泣くぞ」
「お言葉をそのまま返そう」
「は、僕が?そりゃどうも。まったく光栄だね、
いちおうはジュシュベンダの王位継承者の内に数えてくれているわけだ。
王位が廻ってくることもない末席の皇子など、この世から絶えてしまえばいい。
僕は自分からそれを捨てた。だからもう王族なんかじゃない、生憎だな」
「皇帝代行を担っていたカルタラグン王朝を滅ぼし、
ジュピタの御世をヴィスタビアに復古させたのは、その、王位が巡るはずもなかった
ジュピタ皇家の傍系だった。ゾウゲネス皇帝も、よもや、嫡流より遠く離れた身でありながら、
カルタラグン家打倒の錦の旗印にされるとは夢にも思わなかったはずだ。
尊き血筋は疎かになさらいほうがいい」
「それは僕へのあてつけなのか、説教なのか、それとも謀反の唆しなのか!?
さては君はそうやって僕をジュシュベンダの反逆者に仕立て上げ、
死罪を賜るように僕を破滅に追い込むつもりなんだな!酷いやつだ」
「そう出来たら、と思うこともあるかも知れない」
子供の諍いだった。
シュディリス様は相手から背をそむけ、
パトロベリ様は顎に泡をつけたまま手にした剃刀を振り回すしで、
手巾をご用意しながら後ろで聞いていてはらはらしたが、
パトロベリ様の些細な揶揄に対して反応し、
かあっと青い怒りを冷たく帯びた御曹司の眼には、はっきりと、
侮辱を許さぬ誇りの高さが具わっているのが見て取れた。
彼はパトロベリ様に怒っているのではなかった。
いやむろん彼に対して憤られたのだが、応えて放った突き刺すようなその言葉の一つひとつに、
積年の何かを感じたのは、一人の女性を巡って過去に起こした彼らの禍根とは関係のない、
彼の背負う何かの重みのなせる業であったように思われたのは、
わたしの気のせいではないように思う。
睨み上げた彼の青い眼。
それは彼が実は見かけを裏切る大変な激情家であることをわたしに教えてくれもしたのだが、
同時にわたしの胸に一抹の、或る疑いを、次第に固めさせもするものだった。
彼のことをお前は何と云っていたかな、トバフィル。
確かにシュディリス・フラワン様は好ましき青年といっていいのだろう。
実際、共にいて窮屈のない、爽やかな御方である。
幾ら無礼講を求められても、つい習性で、先に立って扉を開いたり、馬に鞍を置いたり、
鞍に上る足台にして頂けるように片膝を差し出したり、
わたしは彼らに対して当然のことをしてしまっていたのだが、
昨日、旅籠での夕食が終わった時のことだ。
わたしが立ち上がると同時に席を立たれたシュディリス様は、ついと前に先立たれ、
わたしの為に戸口を開いて、従者のわたしがいつもお二方の為にそうしているように、
壁際に慇懃に控えて、同じように戸を押さえられたのだ。
目が合うと、いたずらっぽく、少しだけ目元で微笑まれた。
お優しく、しかし、雄弁な威厳をもって、言外にわたしに何かを諭されていた。
そこまでされては仕方がない。
シュディリス様もパトロベリ様も、公の場を除いては
何でも気楽にご自分たちでやられるのを好まれる方々なので、
以後、ご配慮をありがたく頂いてお世話の手を抜かせてもらうことにしたのだが、
そのような、心細やかで、気持ちのよいところを持った青年であるというだけならば、
シュディリス様は単にトレスピアノのお世継ぎとしてまことに秀でたる人物であるというだけで、
兄のこの胸に、何とはなしに苦しく固まってくる、
この疑惑は生まれてはこなかっただろう。
お前もよく知っているとおり、貴人には裏表の顔がある。
わたしのごとき下流の人間であっても公私の区別が厳格にあるように、
その位が高ければ高いほど、公私の峻別は方々の上に重圧となってのしかかり、
特に幼少の頃より対外的なそれを厳しく求められる高貴な方々の性格をしばし、
二重三重の人格に分裂させていくのが普通である。
それは何も珍しいことではなく、
厳粛な君主が心安い者の前では放蕩者に豹変することもあれば、
名君と謳われる御方が、家庭内においては暴君であったり、
またこれほど極端な悪例ではなくとも、
外の人間に対する貴人としての態度と、本来の彼の顔、
もしくは素顔そのものが、もうどちらであるのか誰にも本人にも分からぬまでに、
時と場合によってそれが素早く自然にすげ変わることは、
往々にして見受けられることだ。
だから、つい先ほどまで、さすがはトレスピアノの御曹司であると頷かれるような、
惚れ惚れと心うたれるお気遣いや忍耐をわたしに見せて下されたシュディリス様が、
つぎの瞬間、その思慮分別と高配を投げ捨てて、
パトロベリ・テラ様と子供じみた口喧嘩を始められるのを目撃しても、
わたしは何一つ、彼がおかしいとも、よく分からぬ御仁だとも、信用できないとも、思わない。
ちらりと魅力的で快活な笑顔を見せて下さった次の瞬間に、もう、
彼は彼自身の内々へと沈み込み、周囲の音も聴こえてはいない風に変わるのも、
その青い眼が小昏い物騒を潜めて、
何かをじっと待つ獣のように動きを止めて輝いて見えることがあることも、
とらえどころがないにしろ、特にあやしいことだとも、ましてやそれが悪いことだとも思わない。
どちらも彼の姿だ。
よく人は、裏表がない人間を良い人間の代名詞として称えるが、
まことの意味が分かってそう呼ぶ者は少ない。
あの人はいい人間である、と人が誰かを決める時それは、
単に自分にとっていい顔を見せてくれる都合のいい人であるというだけに過ぎぬことが
ほとんどではないだろうか。
情動が首尾一貫していて、一言でその人となりを丸ごと説明できるような人間ほど、
信用が置けないというのは、昔、お前とも話し合ったとおりだ。
彼は良い人間である--------果たして、本当だろうか。
彼は優しい人間である------果たして本当にやさしいのだろうか。
猜疑心からではなく、信用できる人間を取捨選択する上で、
こうして常に人の表裏を疑ってかかることこそ、
誰がどのような時にどんな態度をとり、どのような道を選ぶのか、
危機的状況下と平穏な日常、昇り坂にある時と下り坂、
両方に同じその者を置いてみた時に果たして
どのような振舞いを見せてくれるものであるのかを正しく見抜いて知ることが、
決して譜代の家臣として磐石の地位を宮廷で築いているとはいえぬ
我らがバラス家に生まれた人間の習性である。
貧困のうちにあっては清廉であった者が、
金銭を手にしたとたんに何かの箍が外れて見苦しい恥知らずと変わる、
極めて誠実であると信じていた者が、相手の没落に合わせて態度を変えて、
面と向かって暴言や卑しい振る舞いに及ぶのを、
わたしたちは今までにも見てきた。
世間の評価と実体との差異、時として悪人と見做されていた者こそが
誰にも出来ぬ高貴な勇気を奮い起こし、それを振るうのに躊躇わぬことを、
良い人間として手本にされていた人格者が、しばし臆病者で
保身的な人間に過ぎぬこともあることを、
繊細という名の逃避であること、傲慢という名の謙遜であること、
欺瞞という名の愛、粛清という名の秩序、または全てその逆の場合もあることを、
人が何かを語る時、借り物の言葉をただ威勢よく話しているだけなのか、それとも、
声は小さく幼いものであっても、彼の知性や心と密接に連動した魂の言葉であるのかを、
その重みと真正を正しく見極めること、それこそが、
わたしたちが少しでも高い人間であるようにと身を正し、
ものごとを誤らずに測る基本なのだということは、お前から教えてもらったことである。
この世においては、おそらくそれも何の価値を持たない、
無駄な苦労かも知れない。
こんなことを云うとまたお前は物分りの悪いこの兄のことで胸を痛めて悲しむのだろうが、
人から奪ったものの勝ちであり、人を突き飛ばしたものの勝ちであり、
紙で作った王冠を頭上に載せたものにこそ、神が豊かな恵みと祝福を下されることは、
何かの確かな規律や徳の失せた今の世には、
それこそが正しいこととして万人から好まれて崇められているのも、また事実だ。
お前が一字一句、長年に渡ってこつこつと丁寧に書いていたものを、
平気な顔で次から次へと盗み取り、それを平然と己の物にして、出版した者は、
今でも人々の賞賛を浴びて莫大な金銭にまみれた名誉の中にいる。
もしもこの世にまことに学問の神さまというものがあるのならば、どうしてその神は、
人々の喝采を浴びているその者の頭上に、正しい裁きを下されないのだろうね。
そして、お前や学問の神さまとやらの代わりに鉄槌を下そうとしたわたしを止めたお前は、
何も云わぬ代わりに、静かな眼をしたまま、翼をたたんで、そっと俗世を離れてしまった。
無念でもなければ傷ついてもいない、とお前は云った。
わたしが書き綴ったものも、先人たちから受け継いだものであるのだから、と。
兄であるわたしの目には、お前の方こそ、
学問の神の前に謹んで深く頭を垂れていたのであり、
お前の心を片端から踏み潰し、讒言によりお前の首を絞めて蹴落とし、
お前のものを片端から自分のものとした得意げなる者こそ、
学問の神の名を口にすることすらもおこがましい、
ただ己の金銭欲と顕示欲にのみ忠実であっただけの口達者な下劣者だと思われるのだが、
この世の天秤は、声の大きな者にのみ、褒美やうまみをどうやら豊かに与えるのだね。
こんなことを云うと多分、お前はそれは違う、と静かに首をふるだろう。
残念ながらこの兄は、お前の代わりにここまで憤ることは容易くとも、
お前のそういった清虚さとは、どうも無縁で理解もできないようだ。
不変なる偉大なものなど、わたしをはじめこの世の多くの人々にとっては、
最初から盲目である。
それゆえお前は、誰にももう邪魔されず、誰からももう奪われぬよう、
安らかに真理と心ゆくまで語れるように、霧の彼方、森の彼方、
清い空と湖に心を預けてまことの神と近く、静かに話せるように、
俗世を離れてしまったのだろうと、わたしは今でも思っている。
そのようなお前が友として愛している青年を、
このわたしが疎かにするはずもない。
君命なくともお前の友人である限り、喜んで兄はシュディリス様にお仕えする。
ただし、騎士のわたしはわたしなりの目で、トレスピアノの御曹司を観察し、判断する。
そして心の眼でもってして、彼という人間を気をつけてみた時に、
わたしの目には、薄らぼけた、しかし何かの巨大な謎の影が、
シュディリス様の姿の向こうに空洞のように次第に見えてくる気がするのだが、弟のお前は、
果たしてそれに気がついていただろうか。
これは彼の人柄がまだ明解ではないからというので、安易にそう云うのではないのだ。
それくらいの信はわたしに与えた御仁であるし、ましてや彼は騎士である。
高貴な身分に加えて騎士であることは、
彼をいっそう、対外的な性格と内面的な性格に分けたであろう。
ご身分が高いことと、
騎士として最高位である星の騎士の称号を有されていることは、
情動の組み立て方も、当然ながら我々とは大きく違ってくるだろうし、
星の与えた天稟と後天的な気質、嫡男としての義務と自制と、もともとの気性とが、
彼の内で細かく分離し交錯し、
手持ちの札を入れ替えるようにして、その態度を時と場に応じて矛盾なく変貌させていくのが
彼にとって自然なこととなっていることは、想像に難くない。
それはもちろん咎められることでもなければ、奇怪なことでもなく、
むしろ彼のような立場にある人間であれば当然だろう。
そのあたりのことはわたしにも承知であるし、理解が及ばずとも予測と許容の範疇である。
だが、あえて兄はお前に訊きたい。
トバフィル、お前は彼の、いったい何を見ていたのだろう。
ちょうど良いせせらぎを見つけたので、さっそくに、パトロベリ様が水辺へと降りていく。
生い茂る木々の葉が青く透き通り、その上の空が眩しく青い。
下流に馬を連れて行き、
そこで馬に水を飲ませていたシュディリス様が戻って来られた。
馬の扱いが熟れていらっしゃるので安心してお任せ出来る。
パトロベリ様に続いて、ご自身も水浴びをするために衣服を脱がれている。
誘われたが、後でとお断りして、衣を預かった。
繰り返し求められてお二方への儀礼的態度を捨てたもの、
無論のことそれは暫定的なことであり、彼らはわたしがお守りし、
その足許でお仕えする人々であることには変わりない。
丁重な態度こそ略しても、狎れないようにはしなければならない。
だからお二方が水浴びをされている間、わたしがその警固に当たるのは当然のことだ。
鳥がさえずっている。
洗い物を木にかけて乾かし、木陰の岩場に腰を下ろしたわたしは、
武具の手入れをしながら、鳥たちのお喋りや梢をそよがせる風に、耳を澄ましている。
川の中のお二人は距離をおいて泳いでいる。
魚を手づかみにしたパトロベリ様がそれを持ち上げて、
「夕飯にしよう」と嬉しげにわたしに向けて示されたので、会釈しておいた。
傷ついた少年のようなお方だ。
わざと粗雑にされている口調やご本人の卑下を裏切って、ひじょうに繊細で、
人の気がつかぬようなことにも心を痛めるようなところがパトロベリ様にはおありになる。
どうしようもない放蕩者と呼ぶ者もいるが、もしかしたら、
彼こそ宮廷の誰よりも大器晩成なさるかも知れないと思うのは、
一緒に旅をするうちに彼のことが好きになってきたわたしの贔屓だろうな。
バラス家をジュシュベンダに迎え入れて下さった大恩ある先々代さまの御子だからというだけでなく、
逆境にある者に気持ちが傾きがちになるのは、バラス家一族が、
百年の昔には流浪の民としてどこの国からも石もて払われ、
蔑視を受ける身だったことと、無縁ではないのだろう。
それゆえ有益な学問と技術でもって我々は生き抜いてきたわけだが、
ジュシュベンダに迎え入れてもらってからの安穏しか知らぬ第三世代の若手のわたしやお前も、
古い時代を知る親族の老人たちから一族の迫害の歴史と苦労の数々を折に触れて
聞いて育ったものだった。
わたしがシュディリス様に、何かを隠しておられる感じを覚えるのは、
知らぬうちに培われて鋭敏になった、日陰の者に対する敏感のせいだろうか。
髪の先に踊る繊美な虹のように、まばゆく暗くその表情を変えられるかの君に、
何かをぴったりと内に隠し持たれているような、
乾いた暗渠の存在を感じるのだが、それとも全てわたしの気のせいだろうか?
彼を目の前にしている間には感じないのだが、ふと距離を空けると、
たちまちのうちに、今見ていたシュディリス様が向こうの闇に身を引かれたような気がする。
立ちくらみに似て、光が飛び去るように一瞬目の前が暗くなる気持ちがするのだが、
それでは、トレスピアノの御曹司として何不自由なく、
当代領主カシニ様の薫陶を受けて立派に育たれた嫡男の君に、
見ているわたしの胸をふと落ち着かなくざわつかせるような、
どれほどの暗い秘密があるというのだろうか。
考えてみても何も思いつかない。
トレスピアノはウィスタチヤの中でも、最も長閑で安逸な、平穏無事の楽園ではなかったか。
だから、このような暗然は、全て、わたしの気のせいかも知れない。
しかし気のせいかもしれないと思いながらも、どうやらこのグラナン・バラスは、
お前の友人であるシュディリス様を、見たままの御曹司だとは、
もう見做してはいないようだよ、弟よ。
水音が乱れた。
今朝方の井戸端での口論がどうやらまた再燃したようで、
川の中で裸のまま、お二人は何やら言い争っておられる。
止め立てするにはわたしも川の中に入らなければならないが、莫迦らしいので止めておく。
ああやって身分をかなぐり捨てて遠慮なく舌戦を交わしておられるお二方を見てると、
傍目には微笑ましく、それこそ兄弟のようだ。
我々はいつから、子供をやめてしまうのだろうね。
それとも、永遠の子供として死んでいくのだろうか。
僧籍に入ったお前をはじめ、
女きょうだいも皆他家に嫁いでしまい、バラス家も寂しくなった。
長兄が全てよくしてくれているとは思うが、お前も老いた父母の健康を気遣い、
わたしたちを生んでくれた彼らへの祈りを、不心得者のわたしの分まで捧げておくれ。
お前の友人のシュディリス様が先に水から上がられるようだ。
いつかまた、トバフィル、お前に逢いたい。
兄は騎士として生きていく。
弟よ、ではまた。
「水は冷たくはありませんでしたか」
木にかけて干した衣はよく乾いていた。
グラナンが差し出した衣類をシュディリスは受け取ると、問いに応えて首を振った。
「交代しよう」
「パトロベリ様が上がられてからにします」
川の中ではパトロベリがまだ魚を獲っていた。
シュディリスはグラナンの手を借りて簡単に着替えを済ませると上着を片手に木陰に移った。
束ねぬままに背に流れている髪から雫が落ちるのを、慌ててグラナンが拭いた。
「少し、お眠りになりますか」
グラナンの勧めに頷くと、シュディリスは樹の根元で目を閉じた。
背に触れる幹が温かく、泳ぎ疲れた身体が骨まで真綿に包まれるようだった。
日差しの中、やさしい想い出に微笑んだ。
彼は明るく目を開くと、傍にいるグラナンにそれを教えた。
トレスピアノでもよくこうして泳いだ。一人で泳ぐことを好んだが、弟がついてくる。
「ユスタス様ですか」
「グラナンもいつか逢うこともあると思う」
「よく似ておいでとか」
「さあ、どうだろう」
シュディリスは草花の上に流れていく木漏れ日から空に目を移した。
グラナンに語る想い出は独り言のように聞こえた。
「一人になりたい時に河に行くのだが、結局は弟に連れ戻されてしまう。
もしかしたらわたしを追跡しているのではないかと思うほどに、
泳ぐ場所を変えても、すぐにユスタスに見つかった。
男兄弟なので喧嘩をすることもある。
母や妹がいるので、家の中ではなかなか思うように暴れることが出来ない。
そのぶん、森の中では弟と二人きり、思うさま遊ぶことが出来た。
弟と二人で泳ぐ水の中は、いつも、明るかった。
子供の頃は悪戯ばかりをしている弟で、
ユスタスのお陰で、どれほど楽しい気持ちになれたか知れない」
額に腕を乗せて、シュディリスは少し間をおいた。
その弟を捨ててきた。
(シリス兄さん!)
目の前にユスキュダルの巫女がいる。
近くにいる、この手の届くところに。
この魂を抱いて下さるあの御方が。
音もなく降る雪に、音がある気がするように、震える声と想いで、その名を呼びたい。
ずっと夢に見てきた、逢いたかった。
何も照らさなくとも星の光が輝くように、その光を抱きたい。
そう思った途端、巫女の輿を目掛けて馬を走らせていた。
雨が大河に叩き落ちるようにそうしていた。
背中で自分を呼ぶ弟の声にも振り向かず、父も母も妹もあの瞬間に捨てていた。
高速の勢いで今まで馴染んでいた懐かしい世界が失せていく。
父と母の声が、弟の声が遠くなる。
(シュディリス)
(兄さん)
(シュディリス兄さん)
妹が自分を求めて呼ぶ声が、星の嵐にかき消えていく。
誰かが悲鳴を上げている。
「---------……」
「シュディリス様?」
何かを堪えて放心しているシュディリスを気遣って覗き込んだグラナンに、
シュディリスは遣る瀬無いため息をついてみせた。
「弟を、レイズン軍の迫る街道に置き去りにしてしまった。
わたしの浅慮のせいで、妹を、どうやら一人にしてしまった」
「ユスタス様および、リリティス様とて、騎士」
微笑んでグラナンは請合った。
「ましてやシュディリス様と同じ血を分けた星の騎士であられます。
弟御も妹後も、ご無事でおられるに違いありません」
それにはシュディリスは応えなかった。
木陰の中で目を伏せたその顔を、グラナン・バラスは注意深く、
穿鑿者の目をもってして眺めた。
それを破ったのは魚を抱えたパトロベリの声だった。
「たくさん捕まえたぞ。火を熾してさっそく食べよう。何だ、シュディリス、昼寝か」
「お静かに」
石を積んで作った即席の生簀に捕らえた魚を戻すと、
ざばざばと水を蹴立てて、ようやくパトロベリが岸に戻ってきた。
パトロベリが着替えを済ますのを見て立ち上がり、双剣を手近な木に立てかけて
交代で水浴をするために腰の剣帯を外して服を脱いでいるグラナンの背中に、
午睡に落ちながら呟くシュディリスの声が届いた。
グラナン、水は冷たくはなかった。
その代わり、冷たい光が差していた。
水と光は、流れの重みの中に、どちらも霧のようだった。
グラナンは立ち止まって耳を澄ませた。
「澄んでいるのに、晴れていかない」
振り返ると、シュディリスはもう静かに目を閉じていた。
風が吹いていた。
岸に咲く花から、輝く川に目を移したグラナンは、その転移の一瞬、
覚えのある暗闇が隙間に吼え上がるのを見た気がした。
巨大な闇を湛えて、白い雲の流れるこの世界とは乖離したまま、
眠るフラワン家嫡子の上に爪を立てて覆いかぶさっていた。
真昼の川はやさしく流れていた。
立ちくらみから覚めたグラナンは、水で顔を洗った。
水面に跳ねる光が目の前一面に広がっており、その眩しさにグラナンは目を細めた。
光の野原に見えた。
滔々と、時の水は闇と光を混ぜて青空の下に流れていた。
「いつか、晴れる時もありましょう」
グラナンは呟いた。
「第一部・完]
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