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[ビスカリアの星]■二十一.




「ここから降りたとはね」
窓の鉄枠を取り除けさせたミケラン・レイズンは下を見ず、
湖に背を向けて窓枠に腕をかけた。
身をそらして天窓の位置を振り仰ぐ。
破風の向こうに広がる空が、眩暈がするほど青かった。
空に近い天窓の一つが今は開いたままになっていて、
そこだけが真四角に暗かった。
その小さな空洞を始点に、ミケランは徐々に鋭い視線を外壁に這わせて、
蔦の乱れた跡を辿りながら注意深く下方へと痕跡を追っていった。
「天窓から出て、狭間飾や蔦を頼りに、
 梁や張り出し部分を足場にしたか。なるほどね、
 木登り好きな子ならば下まで何とか降りれないことはなさそうだ。
 それにしても随分と危ないことをする」
身を起こし、空の青から森の青、湖の青へと目を転じ、
もう一度下を覗いたミケランは、口元に指を軽く当てて顔をしかめた。
そこで滑ったと見えて、漆喰が摩れている箇所がある。
この高さから降りたら擦り傷程度では済まないものを。
もう一度天窓を部屋から見上げた。
確かに、あの天窓は鳥くらいしか通れないと決めてかかって
何の対策もしていなかったこちら側の手落ちではあるが、あの娘だから出来たことだなこれは。
遮光布から布を引き裂いてそれを梁にかけ、天井によじ登り
天窓の掛け金を叩き壊すなど、トレスピアノ領主夫妻は大事な一人娘に天晴れな躾をしたとみえる。
「階下に下りるには階段の道を使わず、天窓から外に出て胸壁へと飛び移り、
 地面に向かって飛び降りろとでも、誰か云ったのか?
 どうやらあの娘には淑女の基本から教えなければいけないようだが、
 しかしそれは今更わたしがやることだろうか。どう思う、エステラ」
ミケランと目を合わせることで、エステラは返事の代わりとした。
両手を後ろで組み合わせ、こわばった面持ちのまま、
ミケラン・レイズンの愛人エステラは出来るだけ、平気な様子を装って立っていた。
しかし家人を叱る家長よろしくミケランが黙ったまま気長にこちらを見ているので、
威圧負けしたエステラは仕方なく、やがて口を利いた。
まともに彼を見ることが出来ないのは、湖の眩しさだけのせいではなかった。

「もう少し、ミケラン様のお戻りが早ければ良かったのですわ」

余計に男を怒らせることをわざと自分は云っているのかも知れない。
しかしエステラは顎を上げて、
予め決めていたことを一息に述べた。
笑みまで浮かべてみせた。
衛兵たちにも外にいた部屋の見張りにも、罪はありませんわ。
昨夜、ソラムダリヤ皇太子さまが急にお越しになりましたものですから、
そちらの方に注意と人数がどうしても大きく割かれましたの。
「貴方は、病床にある奥様の代わりに、残していくわたくしにこの別荘の采配を
 お任せ下さいましたけれども、
 何しろこういった事態にはまるで心得のない街で暮らす女の身ですもの、
 何をどうすれば良いのか皆目分からず、わたくしこそ右往左往しておりましたの。
 交代の人員も当然足らず、一晩中、何もかもが混沌としておりましたことは、
 処罰が及ぶ範囲の全ての者に代わり、
 彼らの名誉の為にも、わたくしが保障いたしますわ」
「それで、わたしが到着するまで、何一つ何もしなかったというわけか」
「とんでもない」
心外の様子を顔に浮かべてみせたエステラは、
それを男に伝えるために、直ちに哀れっぽく訴え始めた。
わたくし、昨夜の皇太子ご来訪の報せに続いて、急使を貴方に向けて放ちましてよ。
あの娘がいなくなっていることに気がついて、すぐに。
そのことはよくご承知でしょうに。
「使者とは途中で行き逢った」
「まあ、それはよろしかったわ」
「それにしては少し刻が経っているような気がするが」
冷然とミケランは糺した。
「急使が放たれて、国境の砦を早朝に発ったわたしの許に報せが届くまで、
 その時間を逆算していくと、あなたは故意にしばらくの間、
 娘の逃亡を知りながらも一切の概況をその胸に秘めていたのようにも思えるが」
「そんな」
「わたしは怒っていないし、このようなことで怒りもしないのだから、
 正直に打ち明けてもいい。もちろん嘘を云ってもいい」
付け加えた。
安心しなさい。
ミケランはエステラから目を離さすことはなかったが、その口調を軽くしてやった。
精一杯虚勢を張っていても、女の顔色は全てを語っており、その目線は定まらなかった。
男は女に椅子を向けてやった。

「あなたが一番疲れていることを忘れていた。かけなさい、エステラ」
「いいえ」、エステラは立ったままでいた。
「まあそう恐れることもない。誰もあなたのせいだとは云ってない」

エステラは動こうとはしなかった。
女の髪も今は解けてその細首にかかり、目の下も薄く青ざめて、
同情を引く有様ではあった。
ミケランは反対側の扉を指し示した。
「部屋に引き取り、一眠りしてくるといい」
「ミケラン様、わたくし、責任を逃れようとは思いませんわ」
なかなか健気にエステラは毅然としたところを見せた。
「監禁していた罪人を逃がしてしまって、申し訳なく思いますわ。
それほど大事な方であるならば、もう少し、違う配慮をいたしましたのに」
「首尾よくいったのだから、もう少し素直に歓びなさい」
「それ、厭味ですの」
「嘘をつく女は正直者を騙る女よりも、わたしを愉しませてくれる。
 せいぜいその可愛い頭で考えられる限りの嘘をつくといい」
「貴方が代わりになさって」
というのが、エステラの投げ遣りな返事だった。
その時扉が叩かれて「ミケラン様」と外からひそやかに呼ぶ声がしたが、
「急ぎか」
「いえ」
「では、しばし待て」
ミケランはそれを退けた。
手にした手巾を胸の前で握り締めたまま、エステラは顔を横に向けた。
「どうせわたくしの考えつくようなことくらい、
 幾つだって、ミケラン様はとっくに先に思いつかれているはずですわ。
 いつものように、わたくしにそれを教えてくれたらいいのですわ。
 ついでに、まだ少しでもわたくしを哀れに思し召すのであれば、
 今後のことも指し示して下さいな。
 わたくし、明日からは街路に立って娼婦か物乞いにでもなればよろしいのかしら」
「馬鹿なことを」
「それとも、ご友人のどなたかにわたくしを払い下げるおつもりなのかしら。
 いいわ、それでも。
 ミケラン・レイズンの愛人であった女なら、一時的にしろ
 興味を持って下さる殿方だっていると思うわ」
「戯れにもそのような浅ましいことをあなたに覚悟させた覚えはないし、
 少なくともわたしの目の前で誰かにそのような申し出を許した覚えもないが、
 先ほどから見せているあなたのその挑発的で意地っぱりな態度は、
 妻と共に別荘に置き去りにされた腹いせなのか、エステラ?」
「別に」
「妻のアリアケといい、あなたといい、あの娘といい、
 どれほど飛び跳ねてみせたとて男の庇護下に居るのが
 女の一番の倖せだと知りながら、
 どうしてそのように、些細な反逆や反抗を時々、
 男に対して大真面目に試みてみるのだろうな」
「知りませんわ」
「せいぜいこちらは君らを甘やかすことで誠意を見せるしかないようだ」
「どういう意味ですの」
「剣と馬を、あの娘に与えた者がいる」

本題に切り込んだミケランは、
何かを云おうとしたエステラを手の動きで遮って続けた。
近隣の住民が男装をした娘の姿を見たそうだ。
長い裾をからめたなりでは、この高さから降りるのも容易ではないし、
変装した方が逃げやすい。
天窓の掛け金は固いもので叩き壊されている上に、
そこにぶら下がったままになっている梁にかけた切れ端は、
鋭利な刃物で斬られたものであることが切り口から分かる。
掛け金は剣の柄頭をたたきつけて壊したのだろう。
厩舎から馬がいなくなっているが、皇太子の随身たちの馬をそこに入れるために、
別荘の馬は昨夜、野外に出されていた。
数が足りない。
娘が奪って逃げたと思われるが、
それに相応しい馬具一式をどこかに用意していた人物がいる。
さて、男の服と、剣と、馬をあの娘に与えたのは誰かな、エステラ。
それがあなただとは云わない。だからあなたも黙っているといい。
先ほどにも云ったとおり、わたしは怒ってはいないし、
裏切られたとも思わないね。
少々のお仕置きはするかも知れないが、そう不安になることもない。
「たとえば、それ、どんなことですの」
おずおずとエステラが訊いた。
「畏れ多くも、ウィスタチヤ帝国皇太子を別荘地より不明のことにしてしまった、
 わたくしへの処罰はどのようなことになりますの」
「愛人の逸脱も罪状も全てこちらの不徳の致すところと心得て責を負い、
 皇帝へはわたしから申し開きをしておく代わり、あなたにはもっと優しくしてやるとか」
「嘘ですわ、そんなの」
「では、もっと斬新なことでもしてみるか」
ふわりと腰に腕が回されると、
ダンスのターンでエステラは一気に窓辺に連れて行かれていた。
続いて上がった悲鳴は、女のものだった。
踵が浮き、身体が宙に浮いていた。
空と湖が逆さまになり、湖に頭に落ちてきた。
髪から落ちた髪飾りがどこかの青に吸い込まれて音を立てて砕けたが、
エステラはそれを見ることも聞くことも出来なかった。
女の身体を両腕に担ぎ上げ、抱きかかえたまま窓の外へと出し、
投げ落とす真似だけしてすぐさま室内へと戻してみせたミケランは、
女に「どうだろう」、と微笑んだ。
エステラはそのミケランの胸を打った。
「何を-------なさるのッ!」
抱き下ろして放してやっても、エステラは男を打った。
「痛い。そう叩くものではない」
「二度と、二度と、今のような悪ふざけはご免ですわ」
わなわなと震えて、エステラは男に取りすがり、抱きついた。
「高い所がそれほどに苦手だとは知らなかった。覚えておこう」
「投げ落とされるかと思いました、怖かった!」
「怖かったか」
「怖かったですわ」
「ここから落ちたら命にかかわる」
「何をいまさら」
「それを、あの娘はやってのけたのだ」
エステラの顔から血の気が引いた。
罪悪感のある女には、自分のせいだと云われたも同然だった。
ミケランは動きを止めた愛人の腕を掴んだまま、もう一度下を見た。
庭や湖がこちらに向かって持ち上がって見えるほどに地上は遠かった。
空を鳥影が横切った。
灰色の瞳が鋭く過ぎていった。
ミケランは目を細めた。
風がその黒髪をなぶるのを、させるままにして彼は立っていた。
一昨日この窓に押し付けた娘の幻が、輝きながら熔けていく。
全身全霊で拒絶したというわけだ。
恐怖と勇気を秤にかけて、死ぬかも知れぬ恐怖を跳び越す方を選んだか。
乙女の潔癖と騎士の豪胆でもって、外に飛び出す翼を得たか。
見える気がする。
決意を固めて天窓を見上げている。
手を傷めることも厭わずに鍵を叩き割り、娘は光の向こうへと出て行く。
風にその髪を広げ、夜明けの大気を吸い込み、遠い夜明けを見つめたことだろう。
目もくらむ高さにあって、怖れるよりは、静かであっただろう。
あの娘を支えたのは激しい拒絶の衝動よりも、いっそ静謐なる覚悟であっただろう。
恐怖は後から、地上に辿りついた娘を襲う。
娘は慄きながら、ここから逃げていく。
一瞥すら、湖には残さずに。

「…………」
「ミケラン様?」
「見事、と云ってやりたいところだが、感心はせんね」

あなたにもね、と愛人に対しても付け加えて、
寝椅子に腰掛けたミケランは、腕木に凭れて片頬杖をついた。
天窓から落ちる光が波模様を床に描いて揺れていた。
稚魚の彷徨う浅瀬のただよいに見えた。
掴もうとしても掴めず、その繊美さは眺めているだけで、事足りた。
狂おしいまでにあれほど惹き付けてくれた夜の星も、昼になると、
どんな記憶よりも希薄していく、それと同じだな、と彼は独りごちた。
どうせトレスピアノに帰り着くことが出来たらあの娘、
もはやいかなる召喚にも応じず、聖域トレスピアノからは二度と出てはこぬだろう。
老婆になるまでそこに引きこもっているだろう。
さて、運がいいのやら悪いのやら。
「これからどうなさるおつもりですの、ミケラン様」
「追いかけて連れ戻してもいいが、奇妙なことに、
 目の前にいないとなるとわたしの興味も薄れていく」
ただしソラムダリヤ様を伴っているとあらばそうもいかん、と
ミケランは引き寄せたエステラの髪をひと束すくった。
間も無く彼らの動向も知れようが、
なるべくならゾウゲネス皇帝陛下のお耳に入る前に、お戻り頂きたい。
「遠乗りに行く、ミケラン卿の別荘番に案内を頼んだから供はいい」
皇子は早朝の散歩から戻られると馬の用意を命じ、
わざわざ一度自室に戻って、にこやかな笑みまで浮かべてそう云って、
お支度を整えられたそうだ。
若い者たちだけで出かける時には皇子はしばしばそうやって
単身での行動を好まれたから、誰も不思議には思わなかった。
それでも後に続こうとした近衛には、
しっかりとした声で「供は不要である」と重ねてお答えになった。
朝早くのことでもあり、昨夜は大勢が呑みつぶれ、
お引止めするに足りる才覚ある者がお傍にいなかったのが不覚だったな。
ソラムダリヤ皇子は、「ほら、彼が案内人だ」、そう云って、
別荘地の外れに小さく見える馬影を指し示しまでしたのだそうだ。
もしかしたら帰りは夜になるし、興が乗れば明日になるかも知れないが、
ちょっと気ままに遠くへ行きたい気分なのだ、
あまりにも遅くなるようであれば
迎えを寄越してもらうよう手紙を送る。心配はいらない、と。
「皇太子さまにもしものことがあれば・・・」
エステラの顔色はまだ青かった。
(大変、あの人、明日にでも戻って来てしまうわ)
昨夜遅く、娘の部屋へ駆け込んで用意のものを渡したエステラは、
不意の客人が皇太子一行であることは娘に対して秘密にしておいたはずだ。
確かに自分は何も云わなかった。
エステラが懸念したのは、戻って来たミケランが監禁中の娘を今度こそ
厳重な監視の下、何処かへと隠してしまわないかとか、
囚われの娘が哀れであるとか、
これではせっかく砦から娘を出したアリアケ様のお優しさも無駄になってしまうとか、
女の頭で思いつく限りのそればかりであった。
そして今のエステラがもっとも怖れているのは、
あの娘がどうやってか、別荘に迎えた客人がソラムダリヤ皇太子だと知り、
畏れ多くも皇太子を人質に取って逃げたのではないかという心配だった。
しかし、ミケランはあっさりとそれを否定し、
若い愛人への呆れを示して両手を軽く広げてみせた。
今のわたしの話をどう聞いていたのだエステラ。
皇太子は遊びにでも行くかのように、にこやかに、浮かれておられたのだ。
経緯かは知らぬが、少なくともソラムダリヤ様は、
女騎士に脅されて人質となったわけではない。また、おそらくは
名もご身分も明かされてはいないのではないかと思う。
彼にしてみればちょっとした冒険のつもり。
お立場はよくわきまえているはずだから、
姫を適当な処まで送り届けたらすぐに戻って来られるおつもりなのだろう。
囚われのトレスピアノの姫君と、ウィスタチヤ帝国の世継ぎの皇子、
星火の夜明けにかく出逢い、手に手を取りて、
朝風の中に旅立ちたりといったところか。
ここだけを取り出すとちょっとした浪漫に聞こえるな。
皇祖と、トレスピアノのオフィリア姫伝説の再現だ。
露珠の飛ぶ風に導かれ、はるかなる、虹を超えていく。
逃げたものは仕方がない。
探索の手は打った。
とりあえずは若いお二方の双方に怪我さえなければ、まずは善しとしようか。
「貴方らしくないその諦めから、かえってご執心の深さが分かりますわ」
床に座ったエステラはミケランの膝に頭を寄せて、もたれかかった。
疲れた頭を男の膝において、女は顔を隠して呟いた。
わたくしには分かりますわ。
貴方は諦めるような方ではないわ。
ミケラン様。ねえ。
あの女の子、とても怖がっていたのよ。ご存知でしょう。
可哀想ですわ。奥様がたっての望みでお救いした娘ですもの、どうか、
これ限りにして、お咎めなしで見逃してあげて下さいな。
どのような事情があるのかは知りませんが、わたくしからもお願いしますわ。
このようなことは口にするのも不吉なことですが、奥様のご遺言とも心得て、どうか、
これきりになさって下さいな。
「自分の邪魔になる女だからか」
「違いますわ」
「うん、分かっている」
「ついでに、貴方のような方は、女を底知れぬ孤独に突き落とすのだということも、
 お分かり下さったらいいのですわ。
 わたくしがアリアケ様に深く同情するのは、だからなのですわ。
 どんなによくして下さっても、どれほど愛して下さっても、
 貴方は女に幼心の安らぎを下さる方ではありません」
だが、ミケランはそれには応えず、
思案げな面持ちで愛人の髪を手に絡めて遊んでいた。
やがてミケランは愛人の手を取って立たせると、
その手の甲に口付けをして「少し眠って来なさい」部屋から去らせ、
「待たせた。入れ」
外に待たせていた者を中に呼んだ。



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奇禍のあたり年というものがあるとして、
十六歳、もうじきに十七歳になろうとしているユスタス・フラワンは、
まさに奇禍の方から追い駆けられているといっても良かった。
困難に直面すればするほど窮するよりは晴れやかに肝が据わる性格である。
それを目撃した時、ユスタスは笑いまでこみ上げてきた。
(これが笑わずにいられるもんか)
顔つきをただちに引き締めて、彼は馬を走らせた。
ひとまず姉リリティスのことは保留にしようとユスタスは決めた。
姉とて騎士である、何処でどうしているのかは知らないが、
弟が駆けつけるまでの間は単身にて災難を持ちこたえるくらいのことは期待して、
ここは姉さんを信用することにしよう。
ユスタスはそう思い決めることで頭に浮かんでくる不安や心配を宥めた。
リリティス姉さん、ごめん。
僕は先にこちらの方から決着をつけてしまいたい。
ここで行逢ったのも何かの天祐、見逃すわけにはいかないみたいだ。
胸にあたる風が強くなった気がした。
そこにはレイズン家の隠密から取り戻したリリティスのリボンを仕舞ってある。
気のせいか時折、そこが痛んだ。
将来、自分が家庭を持って子供が出来た時、それがもし女の子なら、
絶対に騎士なんかにはしないぞと、
ここ数日の間繰り返している決意をあらたに決意しながらもユスタスは、
トレスピアノの父母は何故、兄と自分はともかくも、
娘のリリティスまでもが騎士になることを黙認したのであろうかと、
今さらながらに恨めしく思われた。
それは止められるものではないのだと、生まれ落ちた時から、
その額に刻まれている徴なのだ、その宿星のままに彼らは生きるのだと
騎士についてはよく云われるが、それ、そんなに大層なことなのか、と
ユスタスは自分のことを棚上げにして今は大いにパトロベリ・テラに同感である。
だからって非常識な振舞いがご無理ご尤もとばかりに許されるものでもないだろう。
高潔の呼び名こそ聞こえはいいものの、
やっていることときたら単なる独善的な暴力ではないかと我ながら思う。

騎士は決して、殺すことを躊躇わなかった。
ユスタスとてその例外ではなかった。

初めてその剣を人に向けた時からそうだった。
うさぎや小鳥を抱いて、にこにこしていたユスタスが、
通りすがりの無頼の騎士が浴びせた無礼への返礼として無言で立ち上がり、
彼を傷つけて突然辺りに血の雨を撒き散らしたあの時も、
ユスタスは何の痛痒も覚えず、汚れた顔を拭くだけだった。
罪悪感もなく、悔いもなく、
遠巻きにして見つめる人々に対しても、
倒れた騎士を医者の許に連れて行くようにと命じるだけで、
その場から立ち去るあの日の少年はやはり何の罪も覚えなかった。
普通の人々の抱く騎士への偏見や羨望、嫌悪感や敬服の念は、時として、
騎士を孤独へと追い詰めたが、それだけに騎士の心の水準は、
この世のものならぬ、この地上ではないところに遠くはるかに預けられて、
高く保たれているのが常だったからだ。
騎士が己の心を見つめるその時、仰ぐ先にはいつも、ユスキュダルの巫女がいた。
かの存在こそは理屈抜きの、騎士の絶対であった。
それゆえユスタスはたとえ父母や同胞を見殺しにしても今はこうしなければならなかった。
「ごめん、この前から無理ばかりさせて」
ユスタスは馬に声を掛け、その腹を蹴り急がせる。
木漏れ日が突風のように目の前に交錯するその中を駆けた。
---------この女の人はだれ?
ユスキュダルの巫女だよ、と最初に教えてくれたのは兄だった。
蔵書庫の古い書物の中にその絵はあった。
その姿ははっきりとは描かれてはいなかったが、女人のかたちをしていた。
輝く星空に囲まれて、白い幻鳥のように両手をやさしく広げ、光の中に立っていた。
---------騎士の心を見守って下さる方だ
---------何だか怖いよ、この人
---------そうかな
---------だってまるで妖精か幽霊みたいだ。雲の宮殿に住んでいるみたいだ。
床に寝そべってそれを見ていると、
一緒に覗き込んだ兄の髪がはらりと落ちてきた。
兄は夢を見るような目でいつまでもその絵を見ていた。

---------お逢いしたい

兄のシュディリスほど心中深く慕うことはなかったし、
文献をひっくり返して知識の中にその痕跡を探し求めるほど興味も深くなかったにしろ、
やがてユスタスも、巫女というものの不可侵性を不文律のうちに騎士のその身に覚えた。
いわばそれは精神の基盤であり、彼らの贖罪であり赦免だった。
何の規律も模範も制約も持たない騎士の情動は、同時に、
並外れた忍耐や制限を自らに課すことでかろうじて節度を保ったが、
彼らの横顔に人知れず固く刻まれたそれらの厳しい抑制と忍従を、
ユスキュダルの巫女だけが、正しく受け入れ、抱きとめてきた。
聖女の面影をその心に宿すことで初めて騎士は気品の位を帯びる。
はるか昔から、ひとたび戦となれば敵味方、広野に結集して対峙した双方の騎士は、
抜き放った剣の柄元に口をつけて巫女に囁いた。
渦巻く星から落ちる落雷のように、それは彼らに誇りを与えた。
汝が腕に抱きとらせたまえ。
我が魂を、ご覧あれ。
それに応えるかのように、星の命を宿した剣は切っ先から震えて、
彼らに進む力を与えてきた。
騎士にとってのユスキュダルの巫女とは、彼らの命そのものだった。
暗雲の戦場に向けて一斉に丘陵を駆け下る騎士のごとく、ユスタスは駆けていた。

(生き残ったのは我らだけ)

その騎士は仲間と共に郷里に帰る途上にトレスピアノへやって来た。
一族でナナセラ騎士家に仕えたその騎士は、
リリティスに剣術を授けることを最初、拒んだ。
フラワン家の子供たちはお抱えの剣術師範の他にも、
トレスピアノを訪れる歴々の名だたる騎士たちからも直に剣術の手ほどきを受けたが、
客人である彼らは皆、シュディリスとユスタスには心から仕えてくれても、
リリティスには特別な配慮を見せていたことに今さらながらユスタスは気がつく。
手を抜いて教えるというのではなかったが、
彼らはどこかに薄く曇った懸念と不憫を抱く目をしてリリティスを眺め、
それを気取られまいとして、大人の笑顔を向けていた。
奥方様。
或る年フラワン家に数日の間滞在したその騎士は、慇懃に母リィスリに申し出た。
オーガススィ聖騎士家の血とフラワン家の血を受け継ぐ貴きご息女に対して、
人並みの倖せを望むのであれば、騎士にしてはなりません。
騎士の使命と女としての倖せは、真っ向から相反するのです。
それを乗り越えていった女騎士を多くはわたくしは知りません。
フラワン家の方々は姫を戦場へ送り出すことをお望みか。
さもなければ騎士の真似事などさせてはなりません。決して。
それに対して母が何と応えたのかは忘れた。
しかし、翌日からその騎士はリリティスにも稽古をつけた。
トレスピアノを去る際、騎士は見送るきょうだいの中からリリティスを呼んだ。
騎士は年々その数が減っております。
騎士を多く輩出する家柄であったわたしの一族も、もはや跡が絶え、
生き残ったのは我らだけ。
片膝をつき、騎士は震える声で少女リリティスの手を取った。
わたしがお授けしたものが貴女さまの命取りとなるやも知れません。
それでも騎士の道を選ばれるのであれば、
その危うさに自ら近づかなければならぬ時がこの先にきっとある。
それは安息とは遠い。女の身には苦行となりましょう。
それでもわたしには貴女さまのその目と、その心に不滅の灯が見えた。
それは内から貴女さまを導き、また、これからの貴女さまの背中を支えていくものだ。
迷える時には想い出して。
我ら騎士の孤独や苦しみの深さのその先に、
ユスキュダルの巫女さまが光を掲げて下さっていることを。
それから騎士は未練を振りほどいてさっと立ち上がると、力強く微笑んだ。
「騎士の心が最後に流れ着く星々の谷間にて、いつかまたお逢いいたしましょう」
さしたる高名も聞かなかった無名のその騎士は、
今にいたるまでユスタスの胸にも光跡を残す厳かさで、
別れ際、フラワン家のきょうだいに騎士同士の挨拶を鮮やかに言い残していった。

見覚えのあるその騎士が、もう一騎と並んでユスタスの前を馬で逃げている。
前方から只事ではない剣幕で急いで来るのを脇に退いて見送ったのだが、
かなり近くからすれ違いざまに、あれ、と思い、
(今のは昔、フラワン家に立ち寄ったあの騎士では)、
振り返ってユスタスが思い出すまでの一刻の間に、
その二騎影を追って、どどっと殺気立った二十騎ばかりが砂塵を蹴立てて
ユスタスの脇を駆け抜けて行ったのだ。
追われていた。
記憶の糸はここに来てあちこちから寄り集まって一本に絡まった。
聖七騎士家の下にあるフェララ、コスモス、ナナセラの
三ツ星騎士家の一つである、ナナセラ家に仕え、
トレスピアノにしばし滞在し、
幼いフラワン家のきょうだいに剣技を教えて立ち去ったあの一族。
(-------確か、タンジェリンの係累だった。
 ということは追っているのは、
 先年のタンジェリン殲滅戦の残党を刈っているレイズン家の手の者だ)
しかもシュディリス兄さんの見間違いでなければ、逃げているあの二騎影。
その馬その装束。
(先ほど、馬に乗って二人、出て行った)
女輿を担いだ謎の一行を追って、
領主である父にも黙って家を出たシュディリスとユスタスが、
野宿の一夜明けた朝に、見かけた騎影があった。
罪人や敗残騎士らを供に固めた天幕から早朝、二影が遠く離れていくのを、
ユスタスより先に起きて見張っていたシュディリスが見かけた。
その彼らではないだろうか。

(斥候か伝令か、どこかへの使者かな)

何処へともなく天幕を後に走り去って行った彼らについて、
朝霧を透かして見たその特徴を兄はユスタスに教えてくれたが、
ユスタスとすれ違った二騎士は兄の語ったその風体に酷似していた。
偶然とは思えない、間違いない。
木々の葉や小枝が頬を打つのも構わずに道なき道をとったユスタスは、
追跡劇を断ち切って彼らのど真ん中に飛び出した。
追いつかれそうになった側が剣を抜いて、たった二騎で馬を引き返し、
追手の二十騎に立ち向かうところだった。
「何奴。邪魔だ、そこを退け」
「怪我をする前に去れ」
頭上を飛び越さんばかりに陽光を散らして彼らの間に割り込んで来た少年に、
追っ手側も追われる側も一斉に吼えた。
ユスタスは構わず馬首を巡らし、小勢側へ助太刀することを大胆にも双方に知らしめて、
数が少ない方へと駆け寄った。
圧倒的に不利だった。
ユスタスは剣を抜いた。
そして二騎のうちの片方を振り返り、その顔を確かめると、にこりと笑った。
「あ、君は」、騎士が唸った。
面食らっている騎士に、やっぱり貴方だった、とユスタスは親しく呼びかけた。
ジュシュベンダとの国境境での闘いでも行逢っているはずなのに、その折には
想い出しもせずに、兄姉ともども、ご無礼いたしました。
「お久しぶりです、先生」
そしてユスタスは口に指を当てた。
僕の名は、ここでは呼ばないで。




「続く]




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