[ビスカリアの星]■二十二.
一応は目上を尊敬して立てるけど、時と場合によっては、
その限りじゃなくてもいいと思うんだ。
かつての師へ向かってユスタスは微笑んだ。
鞍にしがみついて林を走るうち、途中で傷つきでもしたのか、
ユスタスの頬には掠り傷が出来ていた。
それに気がついたユスタスは軽く腕で拭った。
対峙する双方の馬の猛りに釣られてか、辺りの空では小鳥がせわしく鳴いていた。
「ここは僕が引き受けました。
そうだな、この道の先の宿場町を一つ過ぎた三角塔の物見がある村の、
その塔の中にでも潜んで、そこで僕を待っていて下さい」
「ユスタス君」
ユスタスは騎士の言葉を遮った。
「ここを片付けたらすぐに追いつきます」
「何を馬鹿な」
横で聞いていた騎士が危ぶんで怒声を上げた。
「相手はあのように多勢だ。君ひとりで何が出来る」
土埃に汚れたその顔は悲壮な決意で殺気立っていた。
彼は距離を開けて向かい合っているレイズンの手勢へと腕を向けた。
「二十騎だぞ。我ら三人が力を合わせても到底、敵う数ではない」
「ソニー、無礼はよせ」
「ゼロージャ、この少年は何者だ。貴殿の知り合いか」
騎士ゼロージャは「言葉を慎めというのだ、ソニー」、相方を叱った。
騎士は相方にぎらりと咎めの目を据えると、おもむろにそれを打ち明けた。
「この若人こそは星の騎士。我らごときが気安く口を利けるお方ではない」
「そうです」
ユスタスはソニーと呼ばれた騎士に向かって、雄弁にも勝る証として、
剣を突きつけてよく見せた。
紋章が日の光を弾いて白い焔のように刀身に浮き出た。
ユスタスはソニーとゼロージャにそれを掲げた。
その茶色の髪と蒼い目をすり抜けて、ユスタスの顔にもその剣の紋様は揺らいで落ちた。
「オーガススィ家の紋章です」
聖騎士家の印がなくともユスタスの身分の高さは、そんな彼の態度からも
疑いようもなく知れるものであったから、
効果覿面に満足して、ユスタスは剣を向けたまま年配の彼らへと申し渡した。
「母より譲り受けしこの剣にかけて、何人であれ、
僕に手出しをすることは許されません。心配はご無用です」
「君は、ではトレスピアノの」
目を見開いてソニーが息を呑んだ。
ユスタスは、「今は時間がないから、話はまた後で」、騎士ソニーを遮った。
「し、しかしお待ちあれ。相手がどこの何者なのか知っておられるのか」
「残党狩りのレイズンでしょ、どうせ」
ユスタスの目がただ事ならぬ物騒を浮かべているのは、
今から敵となる彼らが姉リリティスの失踪にも大いに関連性があるが故であったが、
二騎を追うのにあんなに大勢を遣わすとは卑怯な連中だよな、と肩越しに
遠慮のない侮蔑を浮かべて見せるユスタスに、騎士は愕きで声もなかった。
それでも、ためらい勝ちにゼロージャの方はユスタスの申し出に対して異議を立てた。
「ユスタス君、侠気あふるるそのご厚意はまことに立派で、有難い。だが、
年下の君一人をここに残して我らだけ逃げていくなど、
そのような真似は臆病者にも劣る。
落ちぶれたりとはいえ我らも騎士だ。承服できぬよ」
「ねえゼロージャ先生、そんなにお疲れなのだから、ここは無理をしないで」
あっさりとユスタスは言い返した。
それに多分、僕のほうがもう、貴方よりもずっと強いと思うんだ。
だからこの場はお任せ下さい。
「それに、いざとなればそれこそ身分を明かしますから、ご心配なく」
躊躇いながらソニーが口を出した。
「それなら今、トレスピアノを治めるフラワン家の子息であることを名乗られては」
ユスタスは首を振った。
まさか、と少年は笑ってみせた。
僕ら星の騎士は生まれつき、遠い祖先がその身に浴びた竜の血を受け継いで、
並の騎士よりも闘いに向いているんです。
オーガススィ聖騎士家の血を持つ僕は、人よりも優れた強さに恵まれた。
その分、僕は一介の騎士として、誰よりも地を這っていく覚悟です。
退くよりは進むことを、挫けるよりは跳ぶことを、
否と思うものに膝をついて下るよりは、惨めに負けることを選びます。
騎士として生まれついたこの身が最も怖れることは、
敗北でも屈辱でもない、現世での不名誉でもなければ、挫折でもありません。
騎士がその生き様のうちに戒律としなければならないもの、それは、
常に騎士であること、騎士として偽らずに真正直に生きることの他にない。
フラワン家の名は僕の誇りですが、騎士の血が闘えと騒ぐ時に
その名を盾として持ち出すことは、たとえ身の安堵を得たとしても、
この僕自身の精神の息の根を止めるようなものだ。
だから、僕は名乗らない。
ゼロージャ先生、ソニーさん、振り返ったユスタスは双方に呼びかけた。
ここで邂逅したのも何かのお導きです、僕はあなた方に訊きたいことがある。
その為にも、あなた方にここで倒れられては困ります。
「ユスタス君----------」
「だから先に逃げて」
「我らに訊きたいこととは」
ユスタスの青い目はタンジェリンの生き残りであるゼロージャの目を捕らえた。
静かに囁いた。
ユスキュダルの巫女についてです。
言い捨てると、ユスタスは馬を敵方に向けて走らせていた。
捨て身にも見える若騎士のその振る舞いに、待ち受けるレイズン側はどよめいた。
闘志を熱く固めながら、その中を馬で駆け抜けた。
まるで狭い船倉の旅から陸に開放された移民のごとくに、
少年は眼が覚めるような生気を帯びていた。
ああ、助かった。
馬を駆るユスタスは心中で喝采を上げていた。
緑と風が輝きを増して後ろへと流れ飛んだ。
兄さんと姉さんと、ユスキュダルの御方の、その全てを心配するなんて、
幾らなんでも五里霧中で荷が重かったんだ。
何かのかたちで道標が欲しかった。
これで少しは目の前が開けてくれそうだ。
少なくとも、リリティス姉さんを探してレイズン領のど真ん中に闇雲に飛び込むよりは、
こっちに飛び入る方が百倍いい、と、ユスタス自身の予感がそう告げていた。
「騎士が逃げるぞ、追え」
後に残された二騎士は危機を脱する期を逃しはしなかった。
ユスタスに心を残しながらも、その意を汲んで、すぐさま馬首を巡らせて逃亡した。
そのゼロージャとソニーを追って押し寄せて来る彼らの鼻面に立ち塞がり、
ユスタスは出遭いがしらに剣を滑らせて一薙ぎした。
(これはオーガススィ家、伝来の剣)
母はユスタスにそれを預ける時、言い添えた。
(オーガススィの名において、母は騎士に、星の命を授ける)
身を低くしてすれ違った後には、騎士が落馬していく音が地を打った。
太陽光が赤い輪になって剣尖に踊った。
ユスタスの剣は流星のように走った。
続けざまに右左と薙ぎ倒してから後ろを見遣ると、
ゼロージャとソニーの二影は既にはるか遠くに小さくなっていた。
時間稼ぎの役割は済んだ。長居は無用である。
道の塞ぎを兼ねて五六騎くらいを転がした後、それを引き際として、
ユスタスは別の道を選んでその場から駆け去ろうとしたが、
追いすがって来る怒りのレイズン騎士へ向けて、
「悔しかったら僕を捕えてみろ、役立たず!」
云い返したのは、幾ら何でも無駄な恨みを買う、遣り過ぎであった。
お陰で目論見どおりといえば云えるが、怒り狂ったレイズンは、
「追え、あれを追え!」
ゼロージャとソニーを捨てて、ほとんどの者がこちらへと追い駆けて付いて来た。
とうの昔に滅びた古い町の名残が、風雪に晒されるままに朽ちている野だった。
蹂躙の爪跡が焼け焦げとなってまだ残っていた。
風が吹くたびに、何処からともなく花びらが流れた。
馬が倒れませんように。
さすがに祈るような気持ちで、馬を励まし、ユスタスは荒野を転がるように下った。
どれだけ飛ばしただろうか。
懸念が不幸なことに的中し、倒壊した遺跡の柱に馬が前脚を取られた。
反射的に身を丸めて手綱を手放したユスタスは馬鞍から振り落とされて遠くに落ちた。
横倒しに回転しながら激しく転がった。
地面と空が目まぐるしく回り、その間にも、怒涛の勢いで迫りくる蹄の音を
ユスタスは聞いていた。
草を掴んで勢いを止め、唇を噛んで這い上がった時にはもう、
退路を絶たれて周囲を取り囲まれていた。
彼らは続々と馬を下り、荒い息を吐きながらユスタスの周りを固めて剣を向けた。
レイズンに包囲されたユスタスはゆっくりと起き上がり、服についた草を払った。
隊長が命じた。
「この生意気なくそガキを殺せ」
ガキ呼ばわれされちゃったよ、父さん、兄さん。
はるか昔に放棄された町の遺物が草叢に石影を落として静かだった。
口に入った草を吐き出すと、ユスタスは剣を構えた。
母からもらったその剣は彼の誇りだった。
刀身から空に向かって光が垂直に伸びていた。
きれいな光だった。
蒼空と結ばれた道みたいだ。
どうか、遠くとおく、僕を連れて行って。
激突した途端、腕から脳天まで痺れた。
奥歯を噛むと血の味がした。
ユスタスは剣を手放さなかった。
何人も相手にするうち、目の前に火花が散って、だんだんと視界が暗くなった。
彼方より突如、湧き上がったその新しい轟きを、誰もが最初、耳鳴りか幻聴かと思った。
風に花びらが飛んでいた。
その花の雨をかいくぐり、鎧を輝かせた軍馬が坂を駆け下って来る。
たった今、空から野に降りてきた幻の軍勢に見えた。
どよめくレイズンが見守る中、花びらを跳ね除けて輝ける彼らはやって来た。
先頭の騎士が片手を上げて何事かを命じる姿を、ユスタスは霞んだ視界の中に捉えた。
横一列に並んだ弓兵が馬上から弓をこちらに向けていた。
風切り音を引いて飛来した矢は、大雨の音に似ていた。
放たれた矢はユスタスを避けて、レイズン兵の上にことごとく降り注いだ。
蹴散らせる者を蹴散らして駆け抜けて行き、
半円を描いて向きを変えると、彼らはユスタスの許にまた戻って来た。
跳躍する白い獣のごとく、その新たなる軍勢は修羅場になだれ込んで来た。
指揮官が鋭い声を発するのと、残った力のあらん限りをこめて、
ユスタスが吼え返すのとが同時だった。
「少年を救え!」
「救いなど不要だ!」
余計なことをするな。
これは、僕の闘いだ。
しかし新参の軍勢は剣を抜いて、ユスタスに加勢し、レイズン側に斬りかかっていった。
それを見ている余裕はもはやユスタスにはなかった。
彼は飛び掛って来た敵騎士と激突し、剣を合わせた。
お前たちに攫われた姉さんの仕返しだ。
当然の報いだ。
「オーガススィ家の剣で殺されることを光栄と思え」
雄叫びを上げてユスタスは男にぶつかっていくと、剣を絡ませたまま身を屈め、
引いた剣を走らせると、レイズン騎士の脇腹をひねった刃で斬りつけた。
生温かな霧のように血が降って来た。
赤い花の上にも、死力を尽くしたユスタスの上にも、それは降り注いだ。
ユスタスは足を滑らせた。
均衡を崩したところに地面はなかった。
僅かの間、気を失っていたのかも知れない。
空がかき消え、剣が手から離れた。
脳天から血の気が引いて、ぬるい風が身体を過ぎていった。
全ての音が遠のいていく。
倒れてきた死体を抱きとめるようなかたちになって押し出されたユスタスは、
草に隠れていた遺跡の枯れ井戸へと、転がり落ちていたのだった。
よく落ちる日だった。
辟易しながらユスタスが井戸の底で目を開いた時には、
地底から見上げる地上は、先ほどまでの剣戟の音も夢のように失せ、
すっかり静かになっていた。
どうやら不利と見て残りのレイズンは逃げ出したようだ。
鎧装束をつけた騎士らが馬から降りて、死体の始末に土を掘っているその気配が、
乾いた井戸の壁を通して伝わってきた。
(助けてもらった、と云っていいのかな。------誰だろうあの人たちは)
井戸の出口は真上に遠かった。
斜めに差し込む弱い明かりを頼りに手探りで壁に手をかけてみたユスタスは、
左肩に激痛を覚えた。
自分が殺した騎士の遺骸が下敷きになってくれたお陰で、この高さから落ちたわりには
死なずに済んだものの、その代わりに肩を傷めたようだ。
これでは、運がいいのか悪いのか分からない。
敵か味方かもまだ分からない上にいる連中に助けを求めるのは躊躇われるが、
廃村の枯れ井戸に取り残されてこのまま木乃伊になるのは、ぞっとしない。
身体を見ると、べったりと返り血がついていた。
狭い井戸の底で血生臭さい死体を踏みつけにしたまま、
壁に凭れてユスタスは茶色の髪をかき上げ、ため息をついた。
「おい」
声が掛かった。
振り仰ぐと、騎士がこちらを見下ろしていた。
青空を背にしたその顔や声は、まだ随分と若いようだった。
「怪我をしたのか」
固い声であったが、井戸の縁に片膝をつき、底にいるユスタスの全身を見下ろす目には、
注意深い観察と、幾分かの気遣いがあった。
「正確に答えろ。立てるなら立て」
明晰で端的な口の利き方だった。
「どこを怪我した」
「左肩を」
「今、引き上げてやる」
眼の前に綱が投げ落とされた。
それを使ってすぐさま青年騎士自身が機敏な動きで滑り降りて来たのには驚いた。
たちまちのうちに井戸の底に到着した青年は、ユスタス同様に事も無げに
死体を踏みつけて降り立つと、
「失礼」
ユスタスの肩に触れた。
痛みを堪えてユスタスは顔を上げたまま唇を噛んでいた。
武官らしく短く刈った髪をした若者だった。
青年は少し片眉を上げたが、丁寧な仕草でユスタスの腕を確かめると、
折れてはいないようだ、とだけ告げた。
口調を和らげて付け加えた。
「医学に心得の或る者がいる。看てもらうといい」
一連の所作に一分の無駄もなく、無駄口もなかった。
その横顔はおとなしそうだったが、冷静沈着で、鍛えられた者のものだった。
青年はユスタスの胴に綱を繋ぎ、同じ綱を握らせると、上に向かって口笛を吹いた。
それを合図にユスタスの身体が宙に浮いた。
力強く、段階的に引き上げられていく。
青年は上に注意を呼びかけた。
「気をつけてやってくれ。肩を傷めているようだ」
どこの騎士だろう。
底からこちらを見上げている青年騎士を見下ろしていたユスタスは、
光が遮られた気配に顔を上げた。
井戸の縁から、ユスタスに向かって手が差し伸べられていた。
細い女の手だった。
「救いなど不要だ、--------そう云い返した、君よ」
井戸の暗闇にその声は涼しい音色となって響いた。
ユスタスは目を細めた。
逆光の中に一人の女騎士の影がまばゆくあった。
透き通るほどに澄みきって強い、蒼い眼が見えた。
(少年を救え)
それは騎士団を率いて、命令を下していた、あの声に間違いなかった。
「闘いぶりをしかと拝見。
気高い誇りに身を捨てて生きる、そんな絶滅人種がまだいたとはね。
救いなど不要。同感だわ。私も、いらない」
しかし、女騎士の手は、ユスタスの腕を掴んで引き上げた。
どこまでも濃く深く青い空がひらけた。
その後から青年騎士も続いて綱を使い、自力で井戸を上ってきた。
「美しい地上への復帰おめでとう。それとも、生地獄かしら」
目の前に、女の髪が揺れていた。
錆びた鉄を思わせる色をして、青空になびいていた。
騎士たちはすでに整列を終えていた。
その完璧といってもいい統制のさまは、
彼らが騎士の玄人集団であることをユスタスに教えた。
「エクテマス!」
「はい」
解いた綱をまとめていたエクテマスという名の若騎士は片腕を胸につけて、
女騎士の前に進み出た。
「彼のことを任せるわ、面倒を見てあげて」
「はい」
承服のしるしにエクテマスは頭を下げた。
「少年」、女騎士が手をひるがえした。
「これはあなたのもの」
落ちていたオーガススィの剣が渡された。
ユスタスを覗き込むそのやさしい目は、誰かと同じに、蒼かった。
風に飛ぶ花の行方を、どこか遠い眼で見ていた。
安心していい、わたし達は、あなたが逃したあの二人の騎士から、
あなたのことを聞いてここへ来たの。
彼らは我々を求めていた。間に合って良かったわ。
ユスタスに渡された剣は、血糊を丁寧に拭われていた。
「残留部隊と合流。引き上げます」
命令は直ちに伝達された。
背筋を伸ばして待機していた彼らは一斉に馬に乗った。
騎乗したその隊列には一糸の乱れもなかった。
剣を握り締めたユスタスの口から、その名はほとんど無意識に呟かれていた。
淋しい弔いのように花びらが野に降りしきっていた。
「ハイロウリーン騎士団……」
女騎士は頷いた。
荒れ果てた遺跡を眺めていた。
昔、ここに来たことがあるわ。
散り急ぐ花の中から女騎士はユスタスに名乗った。
わたしの名は、ガーネット・ルビリア・タンジェリン。
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「それでは、町の広場の様子を伺って来ます。
何か新たな情報が入手できるかも知れません」
「分かった」
「頼んだぞ、グラナン」
それでは、と断ったものの、グラナン・バラスはなかなか立ち去ろうとはしなかった。
樹木の陰がちょうどいい日除けになった、酒屋の店先である。
展望のよい高台にあり、晴れた山と町が一望出来た。
卓を挟んで向き合っていたパトロベリ・テラとシュディリスは、
見送ったはずのグラナンがまだそこに居ることに気がつくと、促した。
「早く行けよ、グラナン」
「ここで待っているから、行って来るといい」
「お二方、あの、お酒は駄目ですよ」、グラナンは角に隠れてじいっと二人を見ていた。
果樹園に囲まれた午後である。
木陰では老人たちが将棋をしていた。
シュディリスは盃を傾けて見せた。
「これは、軽い果実酒だ、グラナン」
「さっきお前が注文したんじゃないか」
羽虫を手で払いのけながらパトロベリも請合った。
「しかし」
「心配するなよ」
パトロベリは卓を叩いた。果実酒の盃が飛び上がる。
「いいから、さっさと行けよ。仮にも成人した立派な騎士が
物陰から女の行水を覗き見するような、そんな真似をするな、みっともない。
それに何かっちゃ、お二方、お二方って、
僕とシュディリスを一まとめに扱うのは止せよ。失礼だろう」
「御曹司に対してですか」、物陰からグラナンは言い返した。
「お前さん、皮肉を云うようになったじゃないか」
「シュディリス様からの影響かも知れません」
「皮肉など口にした覚えはない」
「嘘をつくなよ、妖精の王子さま。
ちぇっ、僕だって男前なのに、どうして酒屋でも宿屋でも、
女の眼はシュディリスばかりに集中するんだろうな、不公平だ」
「小物を売りに来た先ほどの女性は貴方に譲ってもいい、パトロベリ」
「分かってて云ってるだろ、あれは女装した男だ」
「お似合いかと」
「ほほう」
「------やっぱり、ここに残ることにします。心配だ」
「だから心配するなよ!」
パトロベリの大声に、通りかかった子供がびっくりして振り返った。
グラナンを追い払い、その馬影が山道を下って見えなくなるまで、
シュディリスとパトロベリは無言であった。
完全にその姿が樹の影に隠れると、向き合った二人はどちらからともなく、
疲れた顔でぐったりと椅子に姿勢を崩した。
やがて脱力から立ち直り、卓に両手をついて謝ったのは、パトロベリだった。
額をすりつけたまま情けない声を上げて、パトロベリは突っ伏した。
「すまん」
貴方のせいではない、と適当に応えて、
シュディリスは顔を片腕に埋めて在らぬ方を見遣った。
横椅子に並んだ農婦たちが楽しげに野菜の皮を剥いていた。
トレスピアノでも見かける保存食づくりの光景だった。
なおもパトロベリはぶつぶつとこぼしていた。
「うちの家臣は概ね生真面目揃いだが、ジュシュベンダの中に
あんな融通の利かない化石級の堅物がいるとは思わなかった。
誰だ、グラナン・バラスなんかを従騎士に推挙したのは」
「ビナスティ」
「楽器の弦みたいに細剣をふるうあの美人騎士か。
けっこう腕が立つと聞くが、それは違うだろ。
大方、男共はみんな彼女の美貌と額の傷との落差に目を奪われて、本気が出せないんだ。
あのお姉ちゃん、今度逢ったらお仕置きにすっ裸にしてお尻ぺんぺんだ」
「彼を選んだ彼女の名誉のためにも弁護するなら、
グラナンは職務に極めて忠実であるだけだ」
「その職務の中には、僕と君の行動の拘束と、昼夜問わずの監視も
含まれていたわけじゃなかろう?」
辟易した顔つきのまま、パトロベリは酒場のおやじを呼びつけた。
「酒をくれ、強いの」
しかし客あしらいに馴れた酒場のおやじは、生憎でございます騎士さま、とそれを断った。
「何でだ。お前のところは酒を売るんじゃないのか」
「お連れの騎士さまが、こちら様には決して酒を売ってはならぬと、
さきほど言い置いておかれたのでございます」
「云うこときかなくていいぞ。あちらが下で、こちらが上なんだからな。
こんな地味目な格好じゃあ区別がつかないだろうが、
あっちが従者で、僕たちの方が主人だ。
敬意を表してこちらに従うのが当然だ」
「そう仰られた時には、こう云えとのことでございました。
『時と場合によっては、その限りじゃなくてもいい』、
とのことでございます」
「もういい!」
「果実酒ならばたくさん取り揃えてございます」
知らぬ顔を決め込んで、シュディリスは余所見をしていた。
濃厚な日差しの降り注ぐ園を見ていた。
影にまで果実の明るい色が溶かされた長閑な山間の昼下がりだった。
山間をぬって届く涼しい風が心地よい。
夕闇はきっと紫に暮れていくだろう。
空には星座がひかり、連なるそれらは遠く近く、すすり上げるように光るだろう。
木漏れ日が揺れていた。
こつんと音がして、シュディリスの手元に小さな何かが差し出された。
新たに持って来させた果実酒の盃を片手に、
パトロベリが胸から外したそれを寄越した。
焼き絵を収めた平たいその楕円には、首から下げる鎖がついていた。
「君は知らないだろう。見せてやるよ」
蓋を開いたシュディリスは中を覗いて、眼を細めた。
その声やその肌が一度に呼び起こされた。
「幾つくらいかな、十四、五歳の頃のあの子だ」
中にあったのは、アニェスの肖像だった。
両目をぱっちりと開いて、髪に花を飾っている。
無残だった顔の傷はそこにはなく、時を止めて、こちらを見ていた。
それは少し寂しげな、愛らしい一人の少女だった。
面影はそのまま、シュディリスが出逢った頃の彼女になった。
学友と連れ立って夕べの古都を歩いていると、誰かが云った。
この屋敷に、顔を斬られた若い女が住んでいるそうだ。
恋人と駆け落ちするところを追い立てられて、逃げ場を無くした男の方が、
誤まって彼女の顔を斬ったという話だ。
それから幾度か、シュディリスはその屋敷の前を通りかかった。
見上げる先には暗く閉ざされた窓があった。
立ち込める夕闇や河霧からもそこは隔てられ、
美しい空とも安らかな生活とも無縁の無言の哀しみに、ひっそりと閉じていた。
シュディリスは蓋を伏せた。
「これを、いつも-----」
「うん、そうさ」
(事件当初は緘口令が敷かれたのだが、今ではみんな知っている。
相手の男の正体は、先々代さまが側女に生ませた私子で、
二度と彼女とは逢わないことを誓う代わりに牢獄から放免されたそうだ)
(それなんだが、咎めがなかったのをいいことに彼は平気な顔をして、
今も宮廷に出入りしている。
一人の女の人生を破滅させ、あれだけの騒ぎを起こしておいて、
恥知らずな御仁もあったものだとは思わないか)
(もっとも、もう誰も彼をまともには扱ってはいないがね。
前から日陰の御子ではあられたが、
自らそれを決定的にされたというわけだ。当然の報いだな)
持ち歩いていることに気が咎めでもするのか、
自虐的な照れ笑いを少し浮かべて、
パトロベリはシュディリスから絵を受け取ると、再び首から下げて服の中に入れた。
「可愛いだろ?」
シュディリスは無言で軽く頷くにとどめた。
ジュシュベンダの都に雪が降ると、それは古都を沈めていく黄昏の灰に見えた。
かつてその雪の中を駆け回って遊んでいたであろう絵の中の少女の庭にも、
恋人と手を取り、走って渡った逃亡の橋にも、
夜に重ねた苦しい語らいの日々にも、雪は降っていた。
閉じ込められている女が哀れだと思ううち、おぼろな想いは熱を帯びてとめようもなく傾いた。
静まり返った回廊からは、大きな冬の月が見えていた。
-------誰?
-------どうか、逃げないで下さい
腕の中のアニェスに囁いた。
-------貴女がゆきたいところへと連れて行こう
花の野に、光さす海辺に。
酒屋の壁に沿って咲いた明るい花の、その影が追憶に重なって揺れていた。
最も深い彼女の傷の上に、何度も接吻をした。
軽率な過ちといえば、自分こそ同罪であったのかも知れない。
慰めることもついに出来ぬまま、別れてしまった。
女を倖せにしてやれなかった男二人のうち、
一人は罪を免れ、一人はその記憶と共に罪滅ぼしの余生を引きずるようにして生きている。
シュディリスが仇を討つと思い定めていた過去の男は眼の前にいて、
君はあれからの彼女を知っているんだよな、と指先で果実を回していた。
卓から落ちかかったその一つを腕で止めて、シュディリスは呟いた。
「あの人はいつでも美しい人だった」
「ふうん」
「当然の報いだと?」
「は?」
(時間が経てばみんな忘れてくれるとでも思っているんだろうさ。
どうもあの図々しい態度を見ていると、そう思われてならないね。
自分はどうでも、自分が傷つけて潰した娘さんの方は、一生を棒にふったではないか。
ああいう手合いは自分が巻き起こした過失も全てを人のせいにして、
ご自分ばかりがおかわいそうな被害者面をするのがうまいのさ。
宮廷では、彼が来るとみんな顔を背けて話もしないという噂だ。
甘やかされたせいで、よほど神経が図太く出来ていらっしゃるとみえる。
下種というのは実に奴のような男のことを云うのだ、図々しい、唾棄すべき卑怯者だ)
「未練たらしく彼女の姿絵を持っていることがか?」
それにはシュディリスは応えなかった。
あの頃、恋のせいで頭に血が上った自分は友人同様、
ひたすら逃げた男のことを女の代わりに義憤から憎んだが、
友人のトバルィル・バラスだけが態度を異にしてしていた。
問われると、トバフィルは短く応えた。
さぞ、辛いだろうに。
(彼は立場を使って何もかもを女のせいにすることも出来た。
一言も弁明をしないでいるあの方は、罪を背負う立派な人だ)
「パトロベリ」、シュディリスは声を掛けた。
「何だよ、あらたまって。巫女のことかい」
察しがいいとはパトロベリのような男のことを指すのだろう。
人の心の機微を捉えるには頭の良さと繊細さがあってこそそれは叶うが、
それを覆い隠す眠たそうな笑い方をして、
パトロベリは手の中の果実を投げ上げた。
「話を聞いた時にはさしもの僕もぶったまげたけどね。
巫女を都に招いたミケラン卿の真意を、まず知りたいところだな。
巫女を手中にして、あの男はいったい何をするつもりだったんだろうか。
まさか帝国全土の騎士を怒らせて、すっかり敵に回すつもりじゃあるまいし」
黒い太陽のように果実が落ちて来た。
それを両手で受け止めて、パトロベリは片頬杖をついた。
僕は覚えているんだ。まだ子供だったけど。
真夜中に、早馬が気違いみたいに飛び込んで来た。
ウィスタビアの都が落ちたと告げていた。
カルタ=ウィスタビア王朝が一夜にして滅んだその夜、宮殿を覆った紅蓮の焔。
第一皇子は元より都から遠ざけられており不在、
カルタラグン一族は惨殺された上、遺骸は炎に投げ込まれた。
僕にもそれが見えるような気がしたよ。
瀟洒なつくりの尖塔が悲鳴を上げて燃え落ちていく様がね。
「二十年前のことだ。君はまだ生まれていなかったのかな」
「父母より少しだけ聞いたことが。流星の年であったと」
シュディリスは応えた。
パトロベリ・テラは続けた。
下手人のミケラン・レイズンも見たことがある。
全権大使としてジュシュベンダに来た彼は、騎士の拵えではなく貴人の装いをしており、
噂の舌鋒など微塵も見せずに、黙っていると、控えめで堅実な役人風情にも見えた。
酒宴の席で、静かに微笑んで、酒を口にしながら周囲を見ていたっけ。
ジュシュベンダを崩すには、と宴の終幕で一堂が静まり返る発言を
彼は不意に口にした。
-------頽廃美の中にまどろんでいたカルタラグンとは異なり、
帝国を二分するほどの大軍が必要となりましょう。
そして、カルタラグン王朝を滅ぼした男はにこやかに笑って、
酒杯を一堂の前に上げてみせた。
-------失敬。これは、賛辞とお受け取りのほどを。
「居並ぶ廷臣を眺めていた彼の眼が僕の上に止まった時、彼は見事に、
僕を「見なかったこと」にしてくれたよ。
哀れみでも軽蔑でもなく、同情でもなく疎外でもない、
多分あれは、「気に留めておくべきもの」として、僕を瞬時に分別して警戒した、
そんな黙殺だったように思うのだが、それは錯覚じゃない、
帰り際、彼はもう一度、こちらを見ていた。
しかも僕がそれに気がついていることを知った上で、背を向けた。
予断ならぬ眼力だと舌を巻いたね。
その日、僕はちょっとした悪ふざけで、
余興の道化人として宴に紛れ込んでいたんだからね」
ご落胤パトロベリはそれを回想することで、そのうわべの剽軽さを裏切る、
彼自身もなかなか鋭い勘と洞察力の持ち主であることをシュディリスに教えたが、
パトロベリのその矛先は、唐突にシュディリスにも向いた。
通りすがりの若い女を見送ってだらしなく頬杖をついていたパトロベリの、
その眼は笑ってはいなかった。
ミケラン卿よろしくシュディリスを横目に捉え、宮中挨拶の続きのように、
わざとらしく彼は惚けた。
いけないなあ、そろそろ僕も歳だろうか。このごろ物忘れが多くて参るよ。
そよ風にやわらかに髪をなぶらせ、パトロベリはあらぬ方を見遣っていた。
君は何者なのかな、シュディリス。
球技の玉のように素早くまっすぐに果実の一つが転がって来た。
「御身の出自をもう一度、お聞かせ願いたい」
シュディリスは立ち上がった。
垣根に両腕をついて、山間の道を見下ろした。
空も山も海のように蒼く広く底深いばかりだった。
世界の果てから風が吹いていた。
腰に佩いた剣が歯噛みのような音を立てて震えた。
飛ぼうと思えば、ここから飛べそうだった。
この身を抱いて受け止めてくれるのは、父だろうか母だろうか。
それとも、誰もいないか。
幻の人々の姿が真下に或るような気がした。
カルタラグンの終末が近づく中、彼らはまだそれを知らず、営みを続けていた。
その残光の一つが、こちらを見て微笑んだ。
まだ若い男だった。
(翡翠皇子)
その名は、シュディリスには何の意味もない記号だった。
養母リィスリの話の中に時折、あふれるばかりの懐かしさと傷みとなって出てくる、
女の心臓から奪い去られた何かだった。
哀しくもなく辛くもない過去だった。
(君は何者なのかな、シュディリス)
おかしなことを訊く、誰もが訊く。
では、何者であったら満足か。
養父母やきょうだいが慈しんでくれたフラワン家の名と、
トレスピアノの嫡子として生きたこの抑制を捨てて生きれば正しいか。
この身にもし、伝説の竜の血が流れているのなら応えろ。
カルタラグンの遺児として復讐に立ちたい男の衝動と、妹弟へ義務と愛と、
騎士として生きていきたい天命とに引き裂かれている。
翡翠皇子にかかわった女たちの持つような永い哀しみを持たない代わりに、
カルタラグンのその名は、異物のような、必然の呪いのような、何かとなって、
シュディリスの腕を時折、やさしく前へと引いて迷わせた。
凍てつく夜にも鮮やかに燃えて、それを掴もうとすると、粉々に砕けた。
(シュディリス)
傷ついたその手に白い手が重なった。
巫女カリアの美しい緑の眼があった。
シュディリスの頭を巫女は優しくその胸に抱いた。
心臓の上に手を添えて、その言葉を刻んだ。
(どのような苦しみにも、その傍に、共に耐えるわたくしがいます)
余韻ごとシュディリスは手を握り締めた。
あらゆる幻影はかき消えた。
忘れられない歌ばかりが残った。カリアが歌っていた。
鳥影が過ぎ、風が吹いた。
果樹園にもようやく日が暮れようとしている。
無為な夢から覚めたシュディリスは、下方に向けて迎えの片手を上げた。
視察を終えたグラナン・バラスの馬影がこちらへと上って来る姿があった。
「続く]
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