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[ビスカリアの星]■二十三.




天幕の壁をとおして、星空から、風が吹いている。
旧タンジェリン領を覆う夜の静寂と冷気が、
火照ったままの肩の傷を冷たく撫ぜている。
敷布の敷かれた天幕は大き目で、内部には荷物箱を並べた簡易の寝床と
折りたたみ式の卓と椅子が二組分あり、その片方を使って、
先ほど従者が運んで来てくれた夕食をユスタスは口にしていた。
包帯の巻かれた左肩が固定されているので、食べにくいが、
皿に盛られた食事はすべてあらかじめ一口に見合う大きさに切られていたので、
従者の手を借りたり、体面を失うような不細工な食べ方はせずに済んだ。
ユスタスの食事が終わる頃を見計らって、ハイロウリーン騎士団に無事回収された
ゼロージャとソニーがユスタスの居る天幕を訪れる頃には、
人心地ついて元気を回復していた。
「ゼロージャさん、ソニーさん」
「ご無事であられたか」
「我々だけ先に逃げてしまった。ユスタス殿、かたじけない」
人数分の飲み物を用意させた後で従者を天幕の外に出すと、
「お互い、運が良かった」
ユスタスは愛想よく笑顔を向けた。
「再会出来て嬉しく思います、先生」
「先生などと。随分と昔のことだ」
感激しながら騎士ゼロージャは目頭を押さえた。
「ソニーにも話したが、トレスピアノに立ち寄ったのは、もう何年も前のことだ。
 それでも少しの間ではあったが、フラワン家の子弟に剣技を教えたあの日々は、
 わたしにとっても生涯の思い出だよ」
「ユスタス殿」
深々とソニーもユスタスの前に頭を下げた。
「ジュシュベンダの山間で賊に襲われた我々の危うきところをお助け下さったのが
 フラワン家のごきょうだいであったとは、後から知ったこと。
 我ら、しんがりを務めていた為、ごきょうだいの雄姿は遠くから拝見するのみで、
 本日も御身とは知りえず、無礼を重ねてしまった。
 トレスピアノ領主殿および、御兄君シュディリス様、御姉君リリティス様にも、
 あらためて篤く御礼申し上げる」
ええ、まあ、ユスタスは適当にごまかした。
「あんな感じで兄も姉も、二人とも、達者で困るくらいです。
 お気遣い無く」
ゼロージャとソニーの二人はレイズン軍がトレスピアノに不法侵入するより前に、
何らかの目的でユスキュダルの一行と袂を分かったのであるから、
巫女を攫ったのが兄のシュディリスだとは、この様子ではまだ全く知らないようだ。
彼らがあの日、いかなる使命を帯びて巫女の許を離れたのか、
どうやったら聞き出せるだろう。
思索巡らすユスタスを知らぬげに、騎士ゼロージャはすっかり追憶に浸っていた。
「背が伸びられたな、ユスタス殿。
 立派になられて、最初は君だと分からなかったくらいだ」
「もう兄と肩を並べています」、ユスタスは少し誇らしげにはにかんだ。
ついでに、口慣れた嘘もさらさらとついた。
「僕は父に似たけど、兄と姉の二人は、母方に顔が似たみたい」
「御母上と云われると、オーガススィ家の」
「シュディリス様とリリティス様は、ではオーガススィの特徴を受け継いだのだな」
「はい」、と云い切る。
「金銀の枝を伸ばす北欧の血だな」
すっかり信じきって、ゼロージャは頷いた。
「嫡男シュディリス殿は大人びた方であられたよ。
 さすがはトレスピアノの次期統領だと感服しもしたし、
 留学先より休暇で戻られておられたかの君には、
 もはやわたしごときが教えることなどないようにも思われたが、
 リリティス嬢とユスタス君は、当時はまだあどけなくておられた」
「わあ、恥ずかしいな」
「二人で喧嘩を始めては、兄君に叱られたり宥められていたのを、思い出すよ」
「教えて頂いたことは、今も、忘れていません」
「本当に仲の良い、立派なごきょうだいであった」
その立派な「ごきょうだい」のお陰で、
トレスピアノを遠く離れたこんな処であなた方の可愛い弟は肩に怪我までしている。
再会の暁には兄さんにも姉さんにも必ず文句を云ってやる、
確信犯か天然なのか分からないシリス兄さんはともかくも、
直情で破滅型のリリティス姉さんにはひとつ弟として説教でもしてやらなければ。
そうだ、場合によっては今度こそ姉さんと、決闘も辞さないんだ。
橋の上では不覚をとったけど、今度やったら、僕が勝つさ。
昼間の戦闘による興奮の尾がまだ引いて、気が大きくなっているユスタスは
出来もしないそんなことを血気盛んに考えつつ、
積もる話は僕にもありますが、と話題を変えた。
しかし、誰が立ち聞きしているか分からぬハイロウリーンの野営地である。
ユスタスの言葉はそこで途切れた。
「そういえば、ユスタス殿」
ソニーが怪訝そうに訊ねた。
「何ゆえあって、今だご身分を明らかにされておられないのです。
 ハイロウリーンの方々は、ユスタス殿のことを主君を失った騎士か、または
 家出したどこぞの子息であると決めてかかっているようだ。
 このままでは待遇も悪く、怪しまれて、窮屈であられように」
「待遇はいいですよ。こうして怪我の手当てもしてもらえました。
 先生とソニーさんが僕の正体を彼らに教えてなくて、むしろ有難かったです」
「うかつに明かせることでもなかったゆえな」
「このまま僕のことは内緒にしておいて」
ユスタスは頼み込んだ。
「事情があるんです」

(名は、少年)

黙っていると、
「では、せめて好きな名を教えなさい。それを君の名にするわ」
錆色の髪をした女騎士はそれ以上は求めなかった。
咄嗟にユスタスは早世した祖父の名を口にした。
祖父の記憶はない。
カルタラグンの遺児であるシュディリス皇子がトレスピアノに密かに
預けられた頃には既にもう、何十年も前にこの世の人ではなかった。
次男ユスタスの名はこの祖父の名にちなんで名付けられ、
祖父の遺剣は、嫡男のシュディリスに受け継がれている。
何の変哲もない古剣だった。
もっといい剣はないの?
父カシニからそれを見せられた時、
覗き込んでいたきょうだい三人はがっかりして、正直なところを洩らしたものである。
おじいさんのあの剣はどうしたんだっけ。
兄さんは部屋に置いたままにして、あまり使ってはいないようだったけど、
あまりにも特徴のない剣だから、兄さんが持って出たかどうかも、気にしていなかった。
何でも初代皇妃オフィリアの剣を中に閉じ込めて接いだ剣だというけれど、
その手のうさんくさい伝説はフラワン家には掃いて捨てるほどあったもんな。
ありがたいような、そうでないような、
あらゆる聖遺物は数えたらきりが無いほどフラワン家には転がっていたので、
シュディリス兄さんが受け継いだ祖父ユタスのその剣も、
世継ぎの証として、飾り物程度にしか扱われてはいなかったはずだ。
戻りたいな、フラワン家の居間に。
僕と兄さんが森で遊んで泳いで戻ってくると、お菓子が用意されていて、いい匂いだった。
僕らは仲のいい家族だったし、互いを思いあって、誰が欠けてもいけなかった。
ついでに、シリス兄さんが僕たちの父さんを尊敬し、敬慕し、
ひとかたならぬ孝行をみせ、その教えを尊守しているのも無理のない話として分かるよ。
妻の恋人であった男の子供を我が子として守り育み、
フラワン家伝来の剣を彼に渡したんだから。
傍らに立てかけてあるオーガススィ家の剣をユスタスは眺めた。
でもそれ、ひょっとしたらそれは、兄さんにとっては枷となることだったんじゃないだろうか。
本来であれば、男子として生まれた自分こそが、フラワン家の長男であり、
正統な後継者である。
気楽な次男で良かったと思っているくらいだから、
そのことについては兄を愛するユスタスには何の不満もないものの、
祖父の剣を父より渡された兄は、自身がトレスピアノを背負う世継ぎの身であることを、
その日より肝に銘じたことであろう。

-----ルビリア姫は、シリス兄さんがトレスピアノにいることを知っているの?
-----知らないはずだ。生み落とした後、すぐに別れたと聞いている。
-----生んですぐに?
-----すぐに。もしかしたら生きていることも、彼女は知らないかも知れない。
    知らない方がいい、その方がいいと、彼女は決めたのだろう

他人事のようにそう応えた兄の言葉どおり、トレスピアノを訪れる
各国要人、騎士、誰ひとりとしてシュディリスのことはカシニとリィスリの子と信じ、
その素性を疑ってみる者はいなかった。
それは家族だけの秘密だった。
-----ユスタス、背が伸びた
すれ違いざまにユスタスの肩に手を置いて、微笑んだ兄。
シリス兄さんは、本当はどんな生き方を望んでいるんだろう。
兄さんにはめちゃくちゃに可愛がってもらったけれど、もしかしたら、
僕やリリティス姉さんの存在も、兄さんにとっては重石の一つだったのだろうか。
自分を捨ててまっしぐらに巫女の許へと駆けていった兄の強烈な後姿は、
ユスタスの知るシュディリスではなく、
シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビアとして生きる彼の姿だった。
もう誰の声も届かないのかも知れない。
「ユスタス殿」
「ユスタス殿、どうされた。傷が痛むのでは」
「取引をしなくちゃ」
ユスタスは取り出したリリティスのリボンを剣柄に結んで、指先に絡めた。
ハイロウリーン騎士団と邂逅したのは運が良かった。
これが僥倖でなくて何だろう。
僕は、この幸運を利用する。
名は、とルビリア・タンジェリンに訊かれて、ユスタスは祖父の名を応えた。
「ユースタビラ」。
その名が外から呼ばれていた。ユスタ、入ってもいいか。
我々はこれで失礼、そう云ってゼロージャとソニーがひそやかに去った後、
入れ違いに天幕の幕戸を開いて入って来たのは、
ハイロウリーンの青年騎士エクテマスだった。
立ち去っていく二騎士を見送り、エクテマスは幕戸を閉じた。
「邪魔したか、ユースタビラ」
「いえ」
闘いの野からユスタスを同じ馬に乗せてここまで連れて来た騎士は、
ユスタスを医師の手に委ねるとそのまま忙しく野営地の何処かへと消え、
今まで姿を見せずにいたのだった。
天幕に持ち込んだ角灯を柱にかけ、エクテマスは口で紐を引きながら、
馴れた動きでその手甲や鎧装束を解いた。
「医師から聞いた。その肩の怪我は
 井戸に落ちた時のものではなく、落馬した際に
 負ったものらしいな。手負いのままレイズンを向こうに回して
 あれだけの奮闘をしてみせたとは、感心だ」
「あの時は夢中で気がつかなかっただけだよ」
「ユースタビラ、歳は幾つだ」
「十六歳」
「もしわたしが騎士団の徴集役に任ぜられていたら、
 君を少年騎士団に入れるところだ」
賛辞らしいことを口にして、エクテマスは椅子を運んで来ると
ユスタスの向かいに腰を下ろした。
「自己紹介がまだだった。
 わたしの名はエクテマス・ベンダ・ハイロウリーン。騎士ルビリアの弟子にして、従騎士だ」
「ハイロウリーン。それじゃあ」
ユスタスはエクテマスの顔を見つめた。
エクテマスは取り出した剣を磨きながら頷いた。

「ハイロウリーン家の生まれだ。
 腹違いで大勢いる兄弟の下から二番目なので、エクテマスの名だけでは、
 長兄たちと違って、誰もわたしがどこの出なのかに気がつかないけどな。
 だがハイロウリーン騎士団は、その出自の別で優遇されたり差別されることもない。
 高位騎士は名家の出にどうしても偏るので、
 平等は建前だと悪く云われることもあるが、
 少なくとも実力主義は尊ばれている。まがい物は軽蔑される」

エクテマスはそこで、ちらりと皮肉な笑顔を彼を見つめるユスタスに向けた。
「独り立ちしてもいい歳の男がいまだに女騎士の弟子であり、
 従騎士などをやっている。
 君から見たら情けなく思うか、ユースタビラ」
「思わないよ」
ユスタスは肩をすくめた。
「少なくとも見る目のある者なら、貴方がハイロウリーン家の人でなくても、
 その謙虚の裏に予断ならぬものを秘めていることくらい、分かるよ」
「予断ならぬもの、か」
エクテマスは小さく笑った。
謹厳実直にして勇敢な若騎士には意外なほど、小昏いものの潜んだ
遣る瀬無い、苦い笑みだった。
しかしそれはすぐに消えて、剣を鞘に収めると、エクテマスはきびきびと立ち上がった。
「まだやることがあって忙しい。
 何といっても従騎士だからな。これからルビリアの天幕に行かなければならない。
 君は先に寝てていいぞ。わたしの荷から使えるものは勝手に使っていいし、
 そこの箱に酒もあるから、明日に差し支えない程度には、
 まあ、好きにやっててくれ」
「ルビリアさんとは長いの?」、ユスタスは訊ねた。
ハイロウリーンには、予備役としての少年騎士団がある、と
エクテマスは手短に説明した。
「騎士候補の子供を集めた、いわば学校だ。 
 その中から選抜された優秀な少年は、弟子として騎士に仕えるが、
 わたしはそうやってルビリアと巡り会った。十二歳の時からだから、もう十年になる。
 お役ご免の歳になっても、あらためてルビリアの傍に仕えるべく従騎士に志願した。
 だから身分は今だに一介の平騎士だ」
「何で」
当然ながら疑問の声をユスタスは上げた。
血縁関係でもないのに、そのような癒着、聞いたことも無い。
さあ、何でだろうな、というのがその返事であった。
天幕の中に入り込んだ羽虫が灯りに引き寄せられて羽ばたいていた。
透明なその羽影が天幕を回った。
「ちょっと待って。弟子にして従騎士だって」
ユスタスはとあることに思い当たって、ぎょっとなった。
こともなげにエクテマスはあっさりと、そうだ、と応えた。
「今からルビリアの入浴だ。移動中のこととてたいしたことは出来ないが、
 湯が運ばれる頃だ。行ってくる」
「ええッ」
「何を愕く。従騎士なのだから、当然、着替えも湯浴みも傍で手伝う」
幕戸の向こうには、星空が広がっていた。
夜風がそこから吹き込んだ。
何となく黙り込んだユスタスをエクテマスは振り返った。
ルビリアの名誉の為にも云っておくが、色気のあることなど何もない。
誰に訊いてもいい、実に日常的なことだ。
「はじめてルビリアの従騎士となった頃は、わたしの方があの人よりも、背が低かった」
エクテマスは出て行った。


天幕に、湯の流れる音が響いた。
沸かした湯を盥に注ぎこむと、エクテマスは衝立の向こうに呼びかけた。
ルビリア、どうぞ。
衣服を脱ぐ衣擦れの音がして、やがてぼんやりとした暗い明かりの中、
片膝をついて控えるエクテマスの前に、女の裸が現れる。
「あの少年、ただ者ではなさそうね」
女は衝立の陰から現したその裸身をゆっくりと盥に張った湯に沈めた。
行軍中の入浴である、盥は浅く、腰までしか湯は届かない。
湯桶から新たな湯を足し、エクテマスはルビリアの背中にも湯を流した。
ルビリアはすんなりとした脚を抱え寄せ、膝に顔を押し付け、湯気の中で目を閉じた。
「彼の剣を見た?エクテマス。
 オーガススィ聖騎士家の紋章があったわ」
「はい」
「目のきれいな子。思わぬ逸材を拾ったかもね。
 本国に連れて帰って、少年騎士団に入れてみたい」
「断られました」
エクテマスが与える湯の流れは、女の白い背中をすべらかに流れて落ちた。
目を閉じた女の頬がわずかに上気して薄い色に染まっている。 
「熱くはありませんか」
「気持ちがいいわ」
女の身体のあちこちにある細かな傷が、湿りを帯びた薄暗がりの中に
うっすらと浮かび上がっている。
その創跡を背後に控えるエクテマスの手は、夢の中で何度もそうしたように、
辿りそうになる。
彼に許されているのは背中を流すことだけで、眼の前にあるその細いうなじや
後ろから手を回せばすぐに届く唇に、触れることはない。
女の背筋やその濡れた腰を、別の情でもって、湯よりも熱く包み込むこともない。
立ち上がった女を乾いた布を広げて背中から抱く。
その身体に沿って、水気をふき取る。
天幕の中には羽虫が飛んでいる。
その薄影が女の肩や胸や脚を順に過ぎていく。
されるがままに無防備にルビリアは立っている。
女の細い身体、ほんの僅かな動きで、その肩筋に顔を埋め、
胸を抱き、腰を引き寄せ、こちらを向かせることが出来る。
わたしはもう、あなたよりも背が高い。
とっくの昔にあなたを追い越した。
しかし、エクテマスはそれをすることはない。
着替えと片付けが終わると、簡易の寝所を整え、エクテマスはルビリアの許を退出する。
髪を梳かしていたルビリアは思いついたように云った。
「エクテマス、明日の朝食は、あの少年と共に」
「分かりました」
「少し話しをしてみたい」
「はい」
「ご苦労でした、下がっていいわ」
「おやすみなさい、ルビリア」
エクテマスは女を残して出て行く。
これから始まるのは女の長い夜だ。
それがどれほど暗く、赤銅色に赤く、声なき悲鳴と苦悶の涙と、失った日々への
愛惜に鮮やかに彩られているのか、エクテマスは知らない。
立ち入ることも、それを分かち合うことも彼には出来ない。
翡翠皇子の流した血の中から、その血の浸み込んだ赤い土の中から、
散々に蹂躙された硝子の破片の中から、燃え落ちていく焔の中から、
永劫に消えない恨みだけをその手に掴み、復讐の騎士は立ち上がった。
昏く深い河の向こう、断絶の彼方の沈黙に、
限りなく懐かしい面影だけがその彼岸にあり、ルビリアを、そこで待っている。
ルビリアを見ている。
死んだ男が為し得なかった報復を、彼の愛した少女が果たしてくれることを。




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女の子との二人行、しかも彼女は夢にまで描いた理想そのもの、ときては、
隠しているにしろ身分の強みからくる余裕と優位性で、ソラムダリヤ皇太子は大いに、
その道中を愉しんでいた。
トレスピアノへと向かう街道を逸れて西に道をとり、
フェララへ行くと娘が云い出した時には愕いたが、賢明にも、
「トレスピアノへ行くのではなかったのかい」
などと、ソラムダリヤは訊ね返したりはしなかった。
「君の行きたい処へ」
おっとりとして、道案内を申し出た。
「実際のところそこまで詳しくはないけれど、
 街道の地図を眺めるのは昔からわたしの趣味なんだ。
 だいたいは分かると思うよ」
リリティスは礼を述べた。
「巻き込んでごめんなさい。でも、
 道が分かる人がいてくれて、助かります。ありがとう」
「名前を教えてくれないか」
「リリティス」
躊躇の後に、娘は名乗った。
リリティスは名乗ることで、もしかすれば青年の強い協力が得られるのではないかと
思ったのだが、あえて、ソラムダリヤは「ではトレスピアノのリリティス嬢では」と
大袈裟に構えることはしなかった。
何となく、そこはぼかしたままで、下々のようにただの一人の男と女として
リリティスと仲良くなりたかったのである。
それで、自らも皇帝継承者であることを明らかにはせず、
御付武官の一人の名を借りて、ハーンと名乗った。
お忍びで下町や他国に入る時にも使ってきた名なので、その名はすらすらと
口に出て、娘もソラムダリヤのことはミケラン卿の別荘を訪れた客人の従者であると、
こちらが説明したままに、疑ってはいないようだ。
フラワン家のリリティス姫。
男には噴飯ものの夢みるお年頃というやつで、フリジア内親王があれこれと
トレスピアノのフラワン家の三きょうだいについて夢想を広げてはいたが、

--------君は、何処へ行こうとしていたの
--------トレスピアノ

その名を聞いた瞬間、運命にどんと胸を突かれた気がソラムダリヤはした。
逃れようとする娘の手を捕えたまま、
君の行きたい処へ連れて行ってあげる、誰にも見つからないように、
きっと送り届けてあげよう、そう云ってソラムダリヤが約束してみせると、
楽絃のように張り詰めていた娘の身体から、それを支えていた力がほどけた。
そこにいたのは、今生まれたばかりのような、
美しく弱々しい、朝の星の光の娘だった。
そして、フリジア姫の夢の霞の切れ端をすっぽりと頭から被ったような格好で、
ハーン、こと、ソラムダリヤは、夜明けの空から腕の中に落ちてきたリリティス・フラワンに
あの瞬間、すっかり心を奪われてしまったのだ。
陸に上がるのと引き換えに言葉を失くした物語の中の海神の姫君のように、
リリティスは頼りなく、思いつめた顔をして力を失くし、傷ついていた。
彼女がオーガススィ聖騎士家の血を濃厚に受け継いだ娘であることは、
先日ようやく彼が目にしたリィスリ・オーガススィの肖像に容貌がたいへん
よく似ていていることと、剣を扱い馴れた女騎士であることからも知れたし、
繊細なつくりのその顔も、北欧の冷たい雲の照り映えのように、
何ともいえない憂いやゆらぎを時折浮かべてみせるその瞳も、
青年皇子の心を酩酊させ、縛り付けるに足りる美をもっていた。

(わが妻に、わたしの妃になってもらおう)

フラワン家ならば皇太子妃を出す家として、申し分ない。
すっかり心に決めてしまったソラムダリヤは、そこで、
青年らしい矜持といたずら心を起こして、自らの正体を隠すことにした。
ずっと以前、御付の青年たちと場末に出かけたことがある。
居酒屋に可愛い女の子がいたので、皇太子はそれに目をつけ、
侍女を相手にするような気持ちで気楽に話しかけていた。
女の子の方も、品のよい風体の青年を憎からず想って、その頬を染めた。
ところが客の中に血の気の多い連中がいて、
よそ者のソラムダリヤを取り囲み因縁をねじ込んできたからいけなかった。
「ここにおわずのは、ヴィスタチヤ帝国皇太子であられるぞ!」
飛び出して来た護衛武官たちが抜き放った剣の林の向こうで、
静まり返った人々の中、女の子が真っ青になってこちらを見ていた。
騒ぎが収まり、「ヴィスタにお戻りを」、御付に促されて戸口へと向かう間から、
女の子に謝りたくて振り返った。
もう二度と、女の子は先ほどまでの笑顔や親しみを見せてはくれなかった。
重罪でも犯したかのような動転ぶりで、青くなったまま、
店の奥に恐縮して立ち尽くしているばかりだったのだ。
二の舞はご免だ。
苦い想い出となったあの時の反省もあり、ソラムダリヤは慎重だった。
出来るなら、リリティス姫のほうからも、皇太子ではない自分のことを
一人の男として好きになってもらいたい。
それには、まずは、信頼するに足りる男であることを信じてもらうに限るだろう。
幸いにもといっては何だが、傑出した才知も麗質も皆無な代わり、
ソラムダリヤ皇太子はごく温厚な好青年で、人好きのする性格であった。
何よりも、リリティスが身近な男(この場合は兄のシュディリスであろうか)と比べて見がちな、
その年頃特有の批判的な目で見ても、恥ずかしくはないほどには、
当たり前といえばいえるが、
粗野な者の上にはない品性を皇太子は備えていた。
したがってハーンは、自分からは何もうるさいことを無遠慮に喋ったりはせずに、
貴婦人に付き従う忠実無比な従者のごとく、リリティスの隣で馬を歩ませていた。
詮索を好まないというよりは、今はまだ、
リリティスのことをそっとしておいたほうがいいのだろうと
彼は気遣っていたのである。

ところが、道が二股に分かれたところで、リリティスは馬を止めた。
「ここまででいいわ。送ってくれてありがとう。助かりました」
目深に帽子を被り、束ねた髪を全て帽子の中に入れてしまったリリティスは、
男装をしていることもあって小柄な少年に見えた。
山陰が遠くの空に、その稜線だけが白く鮮やかに、
地平近くに横たわっているのが見えた。
遠くジュシュベンダやトレスピアノからも臨める山脈の、最西端にあたる雪山である。
「あの山を目印に、ここはらは独りでもフェララに行けると思います」
それに、もう戻らないと貴方も怪しまれてしまうでしょう、とリリティスは付け加えた。
「あ、うん、そうだね」
ソラムダリヤであるところのハーンは逆らわずに、まずは、頷いた。
人間関係に波風を立てない穏やかさは習得したものでもなく、
天性のものであったが、彼の美点の一つであった。
その代わり彼は、しごく常識的な方面から、
穏やかにリリティスを説得することにした。
古来より一人旅の若い娘には万の言葉よりも効き目の或る、すなわち、
「でも、女の子の一人旅は危ないよ」、である。
眼の前で朗らかにそう口にするハーンには、リリティスを安心させる誠実があった。
それに、女独りで飛び出したからこそ、
あのようにしてレイズンに囚われる羽目になったのではなかったか。
ここは、この人の好意に甘えたほうがいいのだろうか。
馬を止めてリリティスは逡巡した。
これがもし、相手がルイ・グレダンであったなら、リリティスはルイの優しさを知るがゆえに、
あえて甘えたか、もしくは断固としてルイの気持ちを利用するようなことは避けたであろう。
けれども年頃の近い、そしてどことなく悠然と構えた、意外なほどに頼もしい面もある、
青年の目に宿る自分への紛うことなき心配と、愛の発芽のようなものは、
ハーンへの安心へと次第にリリティスのなかで変わった。
「それでは、もう少しだけ、お付き合い下さい。
 フェララの市街に入れば、わたしにも頼る処がありますから、
 そこで何かのお礼もきっと出来ましょうから」
「礼など」
旅籠が固まって立っている処へ差し掛かった二人は、そこで休憩をとることにして
小川のほとりに馬を休めた。
リリティスをそこに残して、食べ物を買いに出たハーンは、
ミケラン・レイズンが見たら間違いなく厳しく窘められるであろう、雑歌を口笛で吹いた。
帝国皇太子が思いもかけず、出かけた先で高貴な乙女と巡り会う。
それも、互いに誰とも知らずに、偶然に。

(宮廷の官女が好んで奏でる、歌物語みたいだ)

行き交う人々も帽子を深く被った彼のことを誰も皇太子だとは気がつかぬ。
それに、この辺りまでくれば、素顔が知られていることも少ない。
一生に一度くらい、このような自由が欲しかった。
生まれの割にはかなり自由に育ってきた方だとは思うが、それでも常に誰かに
囲まれて、何をするにも周囲との調和をはかり、
露骨な好悪感情の発露や我欲を抑え、
「よきように」
気を回しているのは、そのことをさほど負担には思わないまでも、やはり
気疲れを覚えて、窮屈な時もあったのだ。
フラワン家の姫君がいったい何故、ミケラン卿の別荘に軟禁されていたのかは
皆目も検討がつかないが、
「---------いいえ、ミケラン卿は、私の名を知らないわ」
ぼそりと低く、リリティスが苦しげにようやくそれだけを答えたところをみると、
それ以上かさねて問うのも憚られた。
大方、リリティス姫も自分と同じようにちょっとした冒険をしてみたくなって
トレスピアノの外に出て、
その美貌が目に留まりでもして、何らかの目的でミケランに利用されるために、
その配下の者の手で捕まったのではないだろうか、などと、
ミケラン直々の関与は露ほども疑わずに、
どこまでも素直な直線思考でソラムダリヤは考えてみたりする。
別荘での接待役に美しい若い女や奴隷娘を集めていたのかも知れないな。
ハーンは愉快な気持ちになってきた。
このことをミケランが知ったら、さしもの彼も愕くだろう。
ミケラン卿はフラワン家のことをよくは思ってはいないが、これがきっかけとなって、
もしかしたら昔のようにジュピタとフラワン両家の間に姻戚と友好関係が復活するかも知れない。
そもそもヴィスタチヤ帝国の成り立ちからして、
初代皇帝を竜のあぎとから守り抜いたフラワン家のオフィリア姫の功が大きいのである。
(オフィリア、退け)
(退きません)
(オフィリア、逃げてくれ)
(竜よ、お前に、純潔のこの身を与える。
 しかしてこの方に触れることはならない。私をその焔で焼け)
語り部によりさまざまではあったが、竜の前に立ちふさがった勇敢な乙女の話は
何度聞いても胸が轟いたし、その伝説の生きた体現ともいうべき、
オフィリアの血を引く娘とあれば、次代のヴィスタチヤ帝国皇妃として、
リリティス・フラワンほど申し分の無い姫はいるであろうか。
女騎士と聞いていたので苦手意識を持っていたが、逢って見ると実物は見た目も清楚で、
少なくとも復讐鬼と化して地に潜伏している気狂いルビリアのような、執念深い、
怖ろしい女でなくて、本当に良かった。
馬を繋いだ場所に戻ってみると、リリティスは樹にもたれて、
根に埋もれるようにして、花陰に眠っていた。
今まで見たどんな女の寝顔よりも、その上にちらつく葉影のせいか、哀れに見えた。
疲れているらしいそんなリリティスの寝顔を、
眠りの邪魔にならぬように静かに見つめながら、こちらの気持ちをいつか汲み、
男の愛に応えて腕の中で微笑んでくれるように、と心中で期待してみる。
こういう際の男の想像は、すっかり相手の女が自分のものになっているのであったが、
皇太子はそこまで調子のいい浮かれ者でも自分が見えない痴れ者でもなかったので、
しごく真面目に、そして彼なりの熱意をもって、算段を立てねばならなかった。
小川のせせらぎを眺めながら、腕組みをして考えた。
それにはまず、確認しておきたいことが当然あった。
誰かほかに、好きな男はいるのだろうか。





「続く]




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