[ビスカリアの星]■二十四.
名を呼ばれた気がして、眼を覚ました。
雲間に広がっていく夜明けの涼しさが、夜の間にたまった細切れの夢を薄く剥いでいく。
病床にあるアリアケ・レイズンは冷えた髪に頬を埋め、ゆっくりと反対側に身体を向けた。
付き添いの看護人は部屋の片隅で椅子に座ったまま壁に凭れて眠っている。
その者に声を掛けるのを止め、胸の上で手を重ね直すと、アリアケは天蓋へと眼を向けた。
病人の部屋を飾る花が朝の闇に香っていた。
それは都から再び国境の砦へと戻る直前に、夫ミケランが手づから持って来た花だった。
夫の声を聞いた気がして眼を覚ました。
「アリアケ」
どのように多忙の時でも、ミケランは時間の許す限り、アリアケの見舞いに訪れた。
来ると彼はまず、アリアケの死に場所をざっと見回して、
何事にも不具合がないかをその眼で確かめ、暖炉の火加減ひとつにも、
いい加減なことを許さなかった。
それからおもむろに彼は妻の枕元に片手をついて、アリアケに挨拶をする。
「今日は顔色がいい、アリアケ」
先のない病人相手であっても、末期の患者扱いをすることなく、
いつもと変わらず快活に、頼もしく、ミケランは請合ってみせる。
病人に調子を合わせる無理も、嘘をつく白々しい重たさも微塵も感じさせぬまま、彼はそうする。
ミケランは続いてそのまま別室に赴くと、昨夜の容態や薬の量を確認し、
かかりつけの医師と共に看病の手筈の一切を整える。
不治の病に罹った妻を離縁も別居もせぬまま寛容に受け入れたミケランは、
長年の闘病生活もむなしく、いよいよもういけなくなったというこの瀬戸際においても、
忍耐強く、そして建設的であり、
つまるところ政務におけるミケランとなんら変わりなき如才のなさで、ことを的確に裁いていた。
その態度はまるで、こうと取り決めたことを着実に実地しているかのようだった。
『ミケラン・レイズンの妻たる女に相応しき死を与えてやらねばならない』。
夜は明けきってはいなかった。
聞いている者が誰もいないのを承知で、アリアケは何かを口に出して云ってみようとした。
唇の乾きがそれを閉ざした。
昼夜の区別なく続く、骨まで砕けていきそうな絶え間ない疲労と微熱の中にあって、
その希みはやはり、声にはならなかった。
故郷の野が見たい。
実家のスワン家の裏手に流れていた小川と、遊んだ野原。
そこへ帰りたい。
家はすでに他家のものとなり、領地も分割の上、
僅かばかりが遺産として親族の手許に残されただけの、
もはや知る者もいない家である。
それなのにアリアケの手は、生まれ育ったあの家の壁に触れ、窓を開け、
いつもそこにあった小川と野原の朝を懐かしんで、記憶の中の夢だと分かり、
毎朝むなしく眼を覚ます。
(泣きたい?)
いつか、夫がそう訊いた。
それは夫婦の間にだけ用いられる、ミケランの妻へのからかいの一つで、
若い頃から年下の夫はそうやって、先手を打って妻を甘やかすことが得意であった。
面倒なので泣かれるのは御免こうむる、その上に女の情動は見え透いていて、
次に貴女がどう出るのかはよく承知しているよ、そんな、
(泣きたい?)、だった。
それを、この上なく平静に優しくミケランはやってのけた。
心に蓋をされた気がしたものだ。
(泣きたいわけではありませんわ)
(そうか。それなら良かった)
この話はこれまでとばかりに、彼は別の話題に話を移す。
その度に女の心ひとつ、胸に澱むものの吐き出すあてを失くしていたことを、
首尾よく妻を落ち着かせることに成功していたあの夫は、
果たしてどこまで知っていたであろうか。
(アリアケ)
夫の声はすぐ近くにいつもあった。
スワン家の実父を、次に母を喪った時にも、ミケランはしっかりとこの身を支え、
細やかな配慮で気遣ってくれたが、行き届いたその十全な優しさも、
伴侶としての義務の果たす以上以下ではなかったことが、
今さらのように胸に淋しく、幾重にもアリアケの記憶の底から持ち上がってきた。
病に衰えていく中でも、夫は以前と変わりなく、いや、
以前よりももっと慎重な愛情によって、変わりなく自分を擁護してくれている。
しかし死期間近になった今頃になって、過ぎし日をアリアケが振り返ってみれば、
そこに横たわっているのは歓びでも楽しみでも懐かしさでもない、寒々しい、
女の孤独としか名づけようのない、色のない、音のない、空疎な何かであった。
(アリアケ)
(アリアケ。やったぞ、カルタラグン王朝を、翡翠皇子をこの手で斃した!)
返り血を浴びたまま、ミケランはあの日、妻を抱いた。
大事を成し遂げた直後の興奮と昂ぶりを若い眼にぎらつかせたまま、
ついぞ見たこともない有様で、帰って来るなりミケランはアリアケを熱く固く抱きしめて
長く離さなかった。
(男子としてこの世に生まれた限り、何かを成し遂げたいと思っていた。
そんなわたしの眼の前に、ちょうどよい積み木があった。
いつかは滅びるものをならば、何故、この手で滅ぼしてはいけないのかと、そう思った。
それを、ついに、やったぞ!)
打ち付けられるように口走られるその数々を、恐れおののきながら、
どこまで自分は受け止め、また、その野心の放出を共に震えながら聞いていただろうか。
互いに不足なく、この二十数年夫婦として生きてきたものの、
双方がまだ十代であったあの見合いの日よりこのかた一度として、
アリアケは側にいるその男のことを、
この世で最も心安いはずの身内や伴侶としては見ることがなかった。
少なくとも、それが男の身勝手だというものであったとしても、
夫の方はこの妻に全幅の信頼と、調和と、愚かな姉に対するような軽侮と憐れみ、
それゆえにいっそう一方的で、親切な、一定の理解と保護慾を保っていたはずだ。
完全に無力で非力な劣れる者として彼の側にいたからこそ、
それを気に留めてやろうとする彼の広い心と憐憫に乗じて、
アリアケには他の者には云えないことでも、時々は、
ミケランに伝えることが出来たのだ。
それを知りながら、何故あの時、夫の烈しさを拒み、彼を窘めなかったのか。
(アリアケ)
飛び立つ朝鳥の影に重なる夫の面影は、いささか不服そうな顔をしていた。
気に沿わぬことがあると表面上は穏やかなままに、相手への心象を一変させる男だった。
自分はその冷酷を怖れて、いつも何も云わなかったのだろうか。
凡庸という名の穏やかな性情しか持ち得ぬ女の皮相的な言葉など、到底聞き入れてももらえず、
動かしがたいことが分かっていたからであろうか。
それでもあの日の夫の若い横顔に、
今頃になって死の病の中からアリアケは語りかけていた。
弑逆した翡翠皇子の血もまだ生々しき血刀を引っさげて帰って来た夫のその不浄の手を取り、
自らはその前に膝をついて、彼の膝に額をつけ、切々と願い、説いていた。
妻であるこのわたくしに何一つ事前に打ち明けては下さらなかったのですね。
わたくしは一度たりとそのようなことを望みはしませんでしたのに、
聞いても下さらなかったのですね。
わたくしは一人の男の生涯を支えるのに選ばれた妻として、
この世のあらゆる女に成り代わり、あやまちを許しておくわけにはいかない。
それがどのような道であれ、おのが意のままに世を回天させしめようとする貴方の、
その傲慢と独りよがりの視野狭窄こそ、その浅ましい我慾こそ、貴方のもっとも厭う、
愚かなると同種ではないのですか。
知能と力を蕩尽していこうとする貴方こそ、怖ろしい。
わたくしのことを愛して下さるのなら、どうか、わたしが怖れることはしないで。
新婚の想い出、まだ若かったミケランの寝顔、執務机に広げた書類に向かうその背中、
若さのままに熱心に求婚の言葉を口にし、耳朶に誓いを囁き、愛を求めた、ミケラン・レイズン。
もちろん、ミケランは、たとえアリアケがそうしたとしても、
いかにも母性的な不安と臆病な正義から発せられる、そのような女の繰言を
身に沁みて聞き入れるような男ではなかった。
そのことは誰よりも、アリアケ自身が知っていた。
「心外だな」
ややふてくされた笑顔で、寝台で互いの腕を絡めて、
彼はその腕の強さを得意気に疑う新妻に教えたことがある。
「これでも高位騎士なのだ。その辺の文弱な学者連中と同じにしてもらっては困る。
たとえここに盗賊が押し入ったとしても、貴女ひとりくらいは守れる」
そしてそれは同時に、これからの生活についても、こう宣言していた。
『義務を果たすことこそ愛である』。
それの何が不満であったのか、アリアケにも分からない。
怨みにだけは変えるまいと、そう己に言い聞かせるたびに愕然と我に返り、
自分自身のその醜い考えに、その善良な胸を痛めてきた。
淋しさは病苦とも、夫の浮気とも関係がないところで、アリアケを蝕んだ。
病に臥して後、夫の所有してきた愛人は世間の風評とは裏腹に数も少なく、
それぞれの女との情事を詳細に語ることこそ戯れにもなかったにしろ、
もしもアリアケの方から訊ねることがありでもしたら、ミケランは特に悪びれも隠しもせずに、
双方の女の名誉を守りつつ、節度のうちに楽しい物語として、語ってくれたことだろう。
そしてそれこそは、妻としての地位に対する敬意の顕れであると、誠心誠意をもって、
彼は説明してのけたであろう。
アリアケが望めば、たちどころに彼はそれらの情人たちに整理をつけて、
気の済むまで、結局は妻ごときの言いなりになどならぬことを言外のうちに
アリアケに知らしめるまで、苦もなく素行を慎んだはずである。
その余裕こそが、相手への懲罰になると、熟知した上で彼はそうしたであろう。
その優位性の裏で、一人の女の生が意味のないものに貶められて、遠く、
置き去りにされてきたことを、彼は知るだろうか。
ひとかけらの罪悪感もなく、理解も及ばず、この世のすべてを優れたるものとそうでないものに
二極化してしか扱わない男は、或る日、見合いの席に現れた黒髪の娘のおとなしさを気に入り、
それを伴侶として据え置くことで、「夫婦」を手に入れた。
それは妻が不治の病になろうが孤独になろうが、かたち崩れぬ永遠の体裁だった。
レイズン本家からの指図による押し付けであった見合いに対する反発を、
アリアケを能動的に得る方向へと転じ、
若かった彼は自らの意思で本家の束縛を超えてみせた。
アリアケはむなしく苦しい胸を押さえた。
身体の無理を承知で国境へと向かい、ユスキュダルの巫女を害しようとする夫を問い質し、
その策謀を止めようとしたものの、そこで力尽き、別荘から都へと戻されたまま、
屋敷の一室でこうして独り、生死をさまよい続けている。
やせ細って見る影もない自分の腕を、僅かに持ち上げてみた。
無力のままに、夜明けの光に透けていきそうに見えた。
縋るものとて何もない。
既に己の手で燃やしてしまった、数々の、
ミケランの弟タイランからの手紙をアリアケは思い起こしていた。
「アリアケ様、お目覚めでしたか」
付き添いの女がようやく目覚めて、水差しを手に、寝台に寄ってきた。
遮光布を少しだけ上げて部屋に光を通した看護人は、アリアケの顔色を見るなり、
かすかにはっとして、顔を強張らせた。
「アリアケ様」
「………いいのです。誰も、呼ばないで」
細い声でようようアリアケは応えた。
しかし看護人は急いで隣室に飛び込み、医師と共に戻って来た。
医師はアリアケの瞳孔を確かめ、脈を取るなり、首を振った。
音を立てぬままに周囲が騒然と緊迫していくのを、
木から落ちた巣の中に取り残された雛のように、アリアケはぼんやりと聞いていた。
朝なのだ、とあらためて思った。
最期の朝だということを、うっすらと覚えた。
家に帰りたい。
ここではなく、生まれたあの家へ帰りたい。
眼を閉じた。
意識の混濁が始まり、アリアケは子供の頃に遊んだ野原を歩いていた。
お父さまお母さまに、お逢いしたい。
ほら、お父さま、お母さま、これをご覧になって下さい。
珍しいお花でしょう、タイラン様から頂いたのです。
「………タイラン様は、何処」
コスモス領の城に咲く、珍しい花々を、丁寧に押し花にしていつもアリアケに届けてくれた。
「タイラン様は、お見えではありませんわ、アリアケ様」
看護の女が慌てて言い聞かせた。
「ミケラン様の御弟君は、コスモス領におられます」
そうだった。
張り詰めた声で耳元に囁く看護人の声に、アリアケは虚ろな顔をした。
クローバ・コスモス辺境伯の出奔の後、
コスモス領の領主に据えられたミケランの弟タイランは、
その生まれつきの身体の不具と、優秀な兄の日陰に常にあって、
もっともアリアケの淋しさを理解し、また親しく心を通わせることの出来る異性として、
アリアケの慰めとなり、心に長く住んだ人だった。
この世の何処かに確かに一人だけは己のことを気に掛けてくれている存在として、
病人の無為の日々を支え続けてくれた義理弟であった。
折に触れて交わしたタイランとの手紙は、
遠く離れた義理弟との精神の交合といったものを確かにひと時、
アリアケに与えてくれるものだった。
その手紙を、別荘地から戻って来てすぐに、アリアケは自身の手で焼き捨てた。
たとえ夫に見せたとしても何ひとつ後ろめたいところのない、
挨拶と近況報告に終始したそれらの手紙は、アリアケにより文箱から取り出された後、
一つひとつ紐を解かれて、火中にされた。
ついにどこにも誰にも吐き出すあてのなかった不燃のままの女の情とその憂愁が、
手紙と押し花と、それを眺めていた日々と共に、暖炉の焔の中に一通残らず、
すべて消えていくのをこの眼で見ていた。
これでもう、心置きなく、旅立てる。
誰にも知られることのなかった、いいえ、タイラン様だけがお分かり下さっていた、
わたくしの淋しさもわたくしの存在の証も、決して前向きではなく、所詮は
重荷と変わっていたそれらの慰めも、これでもう終わり。
まだ温かな灰を窓から散らして捨てた。
手紙の灰は、羽毛のように回りながら、風に細かく落ちていった。
だが、そうしてみても、期待した安息は訪れることはなかった。
その手紙を燃やしてしまった後も、病魔に侵されたアリアケの内に残ったものはやはり、
長年に渡って縮み上がり、堅く凍えてきた、
頼りなく彷徨い続けるあてのない、心細い、死への恐れと生への諦念ばかりであった。
「あなた」
冷たい汗の中から不意にもがいて、アリアケは腕を伸ばした。
あなた、何処にいらっしゃるの。
医師と看護人がその手を掴み、瀕死の女を励ました。
遮光布を下げろ、と医師が命じた。
あたりは薄暗くなった。
それとも、もう眼が見えないのだろうか。
死相を浮かべた女は陰りの中で彷徨った。
誰かが早口に励ましを囁き続けていた。
しっかりなさって下さいませ、アリアケ様。
国境の砦におられるミケラン卿には、急使を走らせました。
こちらへ急ぎ、向かわれているところです。
辛抱してお待ち下さいませ。ミケラン様はすぐに、すぐにお見えになります。
ミケラン。
野原の向こうに、夫が立っていた。
若い頃の彼だった。
まだ少年の面影を残した横顔に、眩しいほどの自信家の自負を見せて、空を見上げていた。
--------何を見ていらっしゃるのですか。
アリアケが問いかけると、こちらを見て笑った。
黒髪に陽射しがあたり、冠をかぶっているようにも見えた。
婚約者の腰を引き寄せて、風に吹かれ、彼は流れる雲を見ていた。
高い青空にその心を全て吸い込ませたような、晴れ晴れとした強い顔をしていた。
--------やりたいことを全てやって、生きていくつもりだ。
空が星空に変わり、星の海原に、鋭い軌跡で流れる星があった。
若い光に燃えていた。
星の嵐を貫き、それは蒼白い焔を迸らせて矢のごとく飛んだ。
口許に不敵な笑みを浮かべて、ミケランはそれを待ち構え、胸を差し出して立っていた。
アリアケは追いすがり、夫をその光から守ろうとした。
あなた、いけない。
懸命に腕を伸ばしても、星がすり抜けるばかりで、何も掴むことは出来なかった。
見えるのは、夫の遠い後姿ばかりであった。
「アリアケ様、お気を確かに」
「ご遺言を」
何かを、云おうとした。
ずっと何かを伝えたかった。
(泣きたい?)
からかう夫の声がした。
幻の朝が見えた。幾夜も繰り返して擦り切れた、苦しい孤独だけがまだ明けなかった。
ミケランがいぶかしげに首を傾けていた。
アリアケ、どうしたというのだ。困りごとなら、全てわたしが良いようにしてやろう。
わたしにはそれが出来る、望みを云ってみなさい。
もちろん、何事であれ労を惜しみはしないよ。
愛しい妻。
(嘘)
掠れた吐息をついて、アリアケはかぶりを振った。
あなたは誰も愛してなどいない。ご自分の道しか、見ていない。
頬に伝うもの、それが最期の涙であることを、死の淵に立つアリアケは知っていた。
「ご夫君に、言い残されることがありましたら」
「アリアケ様」
誰からも愛されずに死んでいく。
そんな女があなたの妻であったことを、あなたは決してお認めにはならないでしょうね。
これこそが、何もかもを把握していると信じ切っている男への、
最大の仕返しでなくて何だろう。
わたくしは理解ではなく、愛情から、触れて欲しかったのです。
「………」
「アリアケ様」
「お言葉を、アリアケ様」
アリアケの意識は永遠に閉じていこうとしていた。
懐かしい、あの野原に帰りたい。
若い夫がそこに立っていた。
今ならまだ、間に合う。
話したいことがたくさんある、謝りたいことも、恨み言も繰言も、
どうしようもなく愚かしい、日々の他愛のない些事こそを。
だが、アリアケは最期の息の中から、こう告げた。
朝の冷気に沈むように、一筋の涙を残し、ひっそりと息絶えた。
「-------倖せだったと、夫に、伝えて下さい……」
馬を駆け飛ばしたミケランが夕刻になってようやく到着した時、
アリアケ・レイズンは彼岸へと旅立った後だった。
明け方の花がまだそのままに飾られて、壁に萎れた黒い影を落としていた。
喪の部屋で、ミケランは眠る妻を見つめた。
「アリアケ、今、帰った」
朱金に照り映える雲が窓の外に広がっていた。
夕陽の中で、遺骸に触れた。
故人の好んだ花が一輪、胸の上で組み合わされた両手に供えられていた。
すでに冷たかった。
「しばらく、妻と二人きりにしてくれ」
背中を向けたまま、ミケランは扉を閉めるようにと命じた。
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隠密の行軍中にもかかわらず、酸味と甘みの絶妙なるソースのかかった
立派な肉料理が昨夜に続いて出て来たことには、やはり愕いた。
「ここは旧タンジェリン領の外れ、旧カルタラグン領との境目だ。
レイズン領に組み込まれ、サザンカの管轄下にあっても、
ルビリアの名をちらつかせれば、領民はこぞって
最上のものを我々に差し出してくれる」
我がことのように誇らしくエクテマスはそう説明して、
「もっともソースの方はそこらの果実と野草から料理番が即席で拵えた」、
鍋を卓上に置くと、ユスタスに食前の盃を寄越した。
早朝の森の霧には、各天幕からそれぞれの食事の匂いが流れていた。
ユスタスこと、祖父の名をとりあえずここにおける我が名としているユースタビラは、
怪我をしていない方の手でエクテマスから盃を受け取った。
口をつけると、水だった。
飲み干すと喉が痺れるほどに冷たかった。
「そこの河の水だ。温かい茶は後から来る。朝から酒を飲ませるわけにはいかないからな」
エクテマスは笑った。
天幕の壁を外側に張り出して日よけを作った朝食の席だった。
現われたルビリアを見て、エクテマスはさっと身を正すと、後ろに下がった。
「ルビリア」
「おはよう、エクテマス」
ガーネット・ルビリア・タンジェリンは既に身支度を整え、洗ったばかりの清々しい顔をしていた。
蒼い瞳をすべらせると、ユスタスにも頷いた。
「おはよう。ユースタビラ」
起立したユスタスを片手の動きで坐らせて、二人は向かい合い、食事を始めた。
「朝食の席にお招き頂きありがとうございます」
「気楽にルビリアと呼んでいいわ。騎士の倣いに従って」
「昨夜はお陰さまでよく眠ることが出来ました、ルビリア」
「お行儀がいいこと。たとえ常套句であっても、
育ちの良さはそのようなところからも如実に知れるわよ、ユースタビラ」
ルビリアの錆色の髪は陰にあると青みを帯びても見えた。
ユスタスは微笑んだ。ルビリアも笑った。
予想どおりの展開といわば云える。
しばらくはわざとらしい芝居を承知の上で互いに打った。
「君の剣は大事なかったかしら」
「大切なものです。研いでもらいました」
「悪いけど検分させてもらった。久方振りに業物を見た。オーガススィの剣だったわ」
「家に伝わる剣です」
「君に相応しい。あの剣は、誇りにしてよい主を得た」
「僕がここに呼ばれたのは、詮議の為?」
「もしそうなら、昨日のうちにとっくにそうしている」
「間諜扱いされないだけでも光栄だな」
「ハイロウリーン騎士団は疑わしき者を、懐に入れたりはしない。
私は君を騎士と認めた。それで十分よ」
「タンジェリンの人間でありながら北国の大国の騎士団に飛び込んだ貴女は、
身をもってそれを知るというわけ」
「そう。身をもってね」
「ユースタビラ」、給仕に立っているエクテマスの叱責が飛んだ。
「口の利き方に気をつけろ」
ユスタス・フラワンは肩をすくめた。
社交辞令や行儀の良さは褒められても当然だけど、
口の利き方に気をつけろなんて、女性を前にした食事の席上では初めて云われた。
謝る代わりに、ユスタスはルビリアに向かってにこりと感じ良く笑っておいた。
そんな少年をルビリアはその蒼い眼で、落ち着いて見返した。
ユスタスは気まずくなって眼を逸らし、眼の前の食事に専念した。
母リィスリによれば、シュディリスは完全にカルタラグンの血筋の皇子であり、
実際に彼の生母のルビリアに体面してみると確かにそのとおりで、
顔かたちはまるで似ていないと最初に逢った時にもユスタスは思ったが、
やはりそこは血の繋がりと騎士の特性のせいだろうか、そんな様子をされると、
女騎士ルビリアの深遠なるまなざしの内には、極めて兄に通じるものがあった。
(苦手だ。どうしよう)
肉の塊を飲み込んだ。
明るい朝にあらためて眺めると、兄の母どころか恋人といっても通りそうなほど、若い女だった。
シュディリスを生み捨てた女は、そのような過去など片鱗もその姿の上に留めずに、
細い指を組み合わせて、整った顔を静かにユスタスに向けていた。
そんなところも兄に似ていた。
風に流れて二人の間に落ちた花びらを、ユスタスは卓上から取り除いた。
「聞いてもいい、ルビリア」
「どうぞ。何かしら」
「この行軍の目的。遠くハイロウリーンから、わざわざ一隊を率いて下って来た、その真意」
ずばりと切り込んだ。
しかし、エクテマスもルビリアも毛筋一つも動じることはなかった。
ゆるやかに、ルビリアはかすかに笑っただけであった。
小首を傾けて、彼女は微笑んだ。しばし間をおいた後、今気がついたようにエクテマスを振り返り、
「エクテマス、お茶を」
話を済ませてしまった。
(苦手だ)
温かなお茶の湯気に顔を隠し、ユスタスはぼやいた。
シュディリスならばおそらく率直に、「それは教えられない」、直裁にきっぱりと応えるところであろう。
手づからユスタスに代わりのお茶を注いでくれると、ルビリアは森の緑に眼を向けた。
霧が晴れて、そこに幾重にも日が射していた。
独り言のように洩らした。
「重篤であったレイズン家の奥方が、どうやら、もういけなくなったとか」
はっとしてユスタスは顔を上げた。
しかし森の朝霧を眺めるルビリアの横顔は、私怨も、
相手の不幸を味わう気味の良さも、何の情も浮かべてはいなかった。
「お気の毒に」
ミケランに対してか、それとも死んだその妻か。
その弔いの言葉は確かにある種のルビリアの心情を乗せてぽつりと吐かれたが、
言葉が言葉のままに胸に突き刺さるばかりで、それの持つ意味どおりには沁みては来なかった。
彩りの全く違う人生を歩んだ女に対する羨望も憐憫も軽蔑も哀悼もそこにはなく、
何ひとつ、ユスタスには同調出来なかった。
むしろまるで、奥方の無念までもこの身に引き受けてみせようと決めたかのようだった。
それでいて、霧の輝きを見つめるルビリアの、この脆いまでに危うく張り詰めた静謐さは何であろうか。
平生は林の中の霧のごとく静かであれというわけか。
彼女はこの世の者ではない死者と魂で語ることで、安定と平静を保っているのだろうか。
しかし眼を上げたユスタスは愕然とした。
何かの潮の到来を待つように、ルビリアは、今度はうっすらと目元に笑みを浮かべていたのである。
ユスタスは内心で舌を巻いた。さすがは聖騎士家の姫君だ。
(シリス兄さんよりも、手強いや)。
フェララ剣術師範代ルイ・グレダンは、その日の稽古を終え、大国の街中を歩いていた。
街中に独り住まいの簡素な住居を構えたルイは、稽古の後には見回りも兼ねて、
市場を抜けていくのを日課としていた。
日によっては供人も連れず、大柄な身体を堂々と威厳を持って運び、
「ルイ様」「ルイ・グレダン様」
わあっと駆け寄って来る小さな子供たちを「これこれ」、などと云いつつ捌いて歩く彼は、
玉に乗って芸をする熊が人気者であるように、市場の人気者であった。
ついでに、見た目を裏切って、彼は実はたいへんに街の女たちからも好かれていた。
道端で転んだ老婆を助け起こし、おぶった上でその家に送り届ける熊、
剣術の稽古を貴人の子弟につける一方で、乞われればいつでも快く
無料で街人にも稽古をつけてやる熊、
さらには通いの下男が尖端恐怖症でやる者がいないとかで、
大きな背中を丸めて不器用に針に糸を通して繕い物をする姿を書簡配達人に目撃された熊は、
それを吹聴されるに及んで、本人の知らぬところでフェララの女たちの胸に
どおっと轟かんばかりの愛情を無条件に湧き上がらせていたのである。
女性には好かれないと寂しく思っているのはルイ・グレダンばかりで、
彼が街に出てくると、もう何年も、
女たちの柔らかな優しい視線が執拗なほどに彼を追いかけていたのだが、
ルイはそれを、己が醜いからだと、すっかり馴れてしまった諦めと哀しみで受け止めていた。
驕りを知らぬそのような内気と節度、稽古における胴間声との落差がまた人気を博し、
「ルイ様」「ルイ・グレダン様」
親しい笑顔と呼びかけに今日も囲まれて歩く彼は、
見世物の熊なのだろうと自分で自分を決めてしまえば、
彼の誤解により少々は切なくとも、居心地の良い街として、このフェララを愛していた。
そのルイ・グレダンは、厳しい顔をしていた。
ジュシュベンダからトレスピアノ、サザンカを掠めて旧カルタラグンにまで延びた大山脈の、
最も西側にあたるフェララは、山を超えて届く風と豊かな雲が絶え間なく光と陰りを落とす、
城壁に囲まれた堅牢な石の街である。
東のレイズン、北のハイロウリーン、南のジュシュベンダと並んで、
ヴィスタチヤ版図の西の要として、この国は古くから機能してきた。
フェララは聖騎士家ではない。
滅亡したカルタラグン、タンジェリンを除いた聖騎士家の残りの五つ、
ジュシュベンダ、ハイロウリーンの二大騎士家、サザンカ、オーガススィ 、レイズンと続く、
その下に位置する、三ツ星騎士家の一つである。
しかしフェララは、同じ三ツ星家のナナセラ、コスモスと比べれば、
聖騎士家のサザンカやオーガススィをはるかに凌駕して、
カルタラグンとタンジェリンの二家が失せた後はいっそうのこと、
ジュシュベンダ、ハイロウリーン、レイズンと肩を並べる、帝国の支柱となっていた。
帝国と謳ってはいてもヴィスタビアの実情は、複数の自立的自治権を持った国の集合体であり、
今だにそれぞれが古来からの慣例に従って「国」と俗称で呼ばれていることが示すように、
必ずしもジュピタ帝家の主権下に隷属をするものではない。
伝説まじりの建国紀において、悪しき竜より地を救ったのがジュピタ家の若者であり、
それに従った七人の騎士がそれぞれの国を永久封土として貰い受け、
ジュピタに恭順と敬意を捧げることでその下に諸国が統合されたのが、
ヴィスタチヤ帝国の始まりである。
長きに渡り、そこには当然、離反もあれば国の統合も、復帰もあった。
二十年前にカルタラグンが落ち、それ以後レイズンの策謀と煽動により
冷遇と衰退の一途を辿っていたタンジェリンが蜂起の後に潰えたことは、
帝国中をおののかせた激震でありはしても、帝国の黎明期より近隣小国を吸収合併しながら
ジュピタ皇家の周囲を固めてきた大国にとっては、いわば
歴史のどこかで見た衰亡と興隆の繰り返しであり、自領の守りさえ固めておけば、
その基盤を根底から揺るがすものではなかったのである。
そのフェララに、その午後、鐘が鳴っていた。
街を囲む高い鐘楼から、いっせいに、時ならぬ鐘の音は城壁を越えて、平野へと響いていった。
それは哀悼の弔鐘であった。
ミケラン・レイズン卿の奥方逝去の報が、この日、正式に帝国各地へと伝えられたのである。
人々は顔を見合わせた。
そんな方があのミケラン卿にいたのか、というのが本音のところであった。
何しろ卿の正妻であるアリアケ・レイズンは、ジュピタ皇家が皇帝の座に返り咲いた直後の、
まだうら若い頃から病の床につき、容態を一進一退させながら養生生活を送っていて、
この二十年、帝国人民の前にはその消息もその姿もほとんど現さないままであったのだ。
権勢の割には表立った派手さを一切好まぬミケラン卿は、
奥方と己の肖像画を勿体をつけて各国に配ることも一切せぬまま、
他国を訪問する時にも単身であり、病人を身内に抱えていることを外部には全く匂わせず、
どちらかといえば愛人関係の方でその浮名を大いに流しているのが常だった。
その奥方が、死んだ。
ルイ・グレダンは空に仰いだ。
鳴り響く鐘の音は、フェララの街を振動させ、遠い何処かへと動かしていくように思えた。
巷説がどうあれ、ミケラン卿が年上の妻を大切に扱い、
その病に効く薬があると聞けば金に糸目をつけず収集していたことは、
隠れもなき事実である。
夫婦の機微や実情などは傍目には不明ながらも、愛人を可愛がる一方で、
ふと何かを思い出したように宮中の宴からも抜け出して妻を見舞うことを欠かさなかった男にとって、
アリアケという女は何がしかの良心をミケラン卿に陰で与え続けていた存在に違いなく、
今の今まで名前すらろくに聞いたこともなかったような控えめな細君の、その死去の報は、
不意に壁が崩れ落ちたような不安をルイに重たく覚えさせるものだった。
極めてそれは簡潔なる理由であった。
妻を巻き添えにするわけにはいかない、たったそれだけの理由により、
ミケラン・レイズンはこれまであれでも相当に、野心を実現させるその
手段や方法を選んで来たのではないだろうか。
ほとんど意志らしき意志表示もしない、やさしい女だというだけであったと聞くアリアケは、
夫の野望を煽るよりはその従順の中から共犯者であることを拒み続け、
ぎりぎりのところでいつも、ミケランを抑止していたのではなかったか。
その女が、死んだ。
ルイは思い直して、首を振った。
情を誰よりも深く詳らかに理解はしても、それに左右される男ではあるまい。
もし多少でもそれがあるならば、クローバ・コスモス辺境伯の奥方に、
あのような無残な終わりを突きつけたりはしなかったはずだ。
フィリア・コスモス・タンジェリンは愛妻を守ろうとする夫と、領民の間にあって、
ミケラン卿の到着前にタンジェリンの矜持を持って誇らしく自害してみせたという。
比較のしようもないが、アリアケの死は、今まで数多の命を肉親から奪ってきた男の身の上に、
ようやく、その順番が巡って来たに過ぎない。
それを天罰と呼ぶには、ミケラン卿はそのような何かに頼る甘えた考え方をしない男であることも、
ルイ・グレダンは知っていた。
それなのに今更になって、故人のことがひどく惜しまれた。
鐘の音が寂しい余韻を空に残して止んだ。
考え事をしていたせいだろうか。
幻にしか見えなかった。
「ルイさま」
リリティス・フラワンが立っていた。
「続く]
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