[ビスカリアの星]■二十五.
パトロベリ・テラに云わせれば、この世でもっとも
うっとうしいものは、鐘の音だということだった。
時を告げる鐘、祈りの鐘、祝祭の鐘、変事を告げる鐘、どれもこれも、
「その度にいちいち、どきりとするし、
なかなか終わらないことにも苛々する。僕は小心者なんだ」
ということらしかった。
両手で耳を塞いだパトロベリは、見えもしない鐘の音を憎らしげに空に追った。
大体、あの音の巨大さは何だ。空まで割らんばかりじゃあないか。
こちらの都合をまるで考えてはいない。脳天に響いて他の何も考えられない。
不意打ちに鳴り出しては、傍若無人に人の心に踏み込んでくる、失礼だ。
ぼやき続けるパトロベリは、もしも鐘の音が翼の生えた鳥であったなら、鐘楼から飛び立つ前に
片端から弓矢で射落しかねない険悪な顔をしていた。
グラナン・バラスは呆れて「子供のように」と、そんなパトロベリの癇症な態度を窘めた。
「そうやって耳を塞がれていても雷鳴と同じで、鐘の音など、
防ごうにも防げるものではありませんでしょう」
「だから余計に嫌いなんだ」
長閑な村の午後に鳴り響く鐘の音よりも、パトロベリの方がよほど騒がしかった。
隣で冥福していたシュディリスも、ついに頭を上げて、目を開いた。
「死者を弔う鐘なのだから、パトロベリ、静かに」
トレスピアノの風習に従い、弔いの印の若葉を一枚、胸に当てているシュディリスの、
長子が弟を諭すようなその口調が、またパトロベリの癇にさわった。
パトロベリはシュディリスの前に立つと、シュディリスの手にした若葉を胡散臭そうに眺めた。
「何だ、その田舎くさい哀悼の意の小物は」
「トレスピアノは確かに田舎」
短く応えて、シュディリスはそれ以上相手にしなかった。
葉を胸に当てたまま、荘厳な鐘の音に促されるように、再び眼を閉じた。
その回りをぐるぐると落ち着きなくパトロベリは歩いたり、わざとらしく飛び跳ねた。
やがてどうしても気になるのか、パトロベリは抑えきれぬように、
鐘の音に負けない大声を上げた。
「以前から奇妙に思っていたけど、その葉っぱにはどんな意味があるんだ」
「由来がある」、眼を閉じたまま冷ややかにシュディリスは応えた。
「若葉でなければ駄目なのか」
「別に」
「冬場はどうするんだ」
「常葉木がある」
「だから、その葉っぱにどんな意味があるんだ」
「後で教えます」
「今がいい」
「後で」
「今教えてくれなくちゃ嫌だ」
「いい加減にされるよう、パトロベリ様」
シュディリスに詰め寄る彼の後ろ襟を掴んで、
急いでグラナン・バラスはパトロベリをトレスピアノの御曹司から引き離した。
それなりの場へ臨席される際には感心なほどにご立派な礼儀正しさを見せられるくせに、
この方のこんな態度はジュシュベンダの恥だ、と内心でグラナンは閉口していた。
子供をあやす口調でグラナンはパトロベリを宥めにかかった。
「後で存分に聞きましょうから、今はお静かに、パトロベリ様」
「静粛になんかするものか」
パトロベリは反抗して駄々をこねた。
「君たちこそおかしいぞ。それでも騎士か」
靴先で砂礫を蹴り上げた。
「あの弔鐘は、ミケラン・レイズンの奥方を弔う鐘だ。
帝国を我が物にせんとする大悪漢の身内の弔いなんか、うっちゃっとけよ」
まるでそれを聞き届けたかのように不意に鐘の音がそこで途絶えたので、
パトロベリはかえって怖れて、最後の響きに気味悪く震え上がった。
鐘の余韻は、世界中を一体に包んだまま、野山の上にも人の上にも、
重たく響き渡って広がり、山河を果てなく過ぎていった。
後には引き潮の寂寥が残った。
午後の明るみはそのままに、音の消えた田園は新しく洗われたような
奇妙な違和感を帯びて眼に映り、重たい鐘の音は空っぽな耳底に
まだ低く留まって反響したまま、しばしの間、人心を沈ませた。
シュディリスは胸においていた若葉にくちづけをすると、それを風に放した。
薄い色を閃かせて、それはたちまちのうちに広がり渡る日の光の何処かへと消えた。
三人の青年は堤の上に並んでしばらくそれを見送った。
一枚の葉の行方は誰にももう分からなかった。
木陰からシュディリスは地平線にまで続く濃厚な木漏れ日と雲の流れの、
その先を追っていたが、やがて眼を逸らした。
グラナンが休ませていた馬を引いてきた。
気を取り直したのか、憎まれ口をパトロベリがきいた。
「そんな神妙な顔はもう止せよグラナン。辛気くさくなるじゃあないか」
「見も知らぬ婦人がひとり身罷られたというだけなのに、
何故か、大きなものがこの世から奪われて消えていった気がします」
グラナンは手綱を握り締めた。
「アリアケ・レイズンという方の名すらついぞ聞いたことがなかったのに、
おかしなものですね」
「長く病に苦しめられて、ほとんど外出も叶わなかったとか」
シュディリスが言い添えた。
そのアリアケが病身をおして夫ミケランを砦に追ったお陰で、
そこに囚われていた妹リリティスが際どいところを奥方のとりなしによって
救われたとも知らずに、グラナンの手に手を軽く重ねて励ますと、
シュディリスは手綱を受け取った。
そして少し何かを逡巡しているような静かな様子を馬上から見せたのち、
木々を渡る緑の風の中で、それを付け加えた。
「地上の労苦より解き放たれし御霊よ、心安かれ。
かの方を清き園に迎え入れ給え。
あかるき野べに、静かなる河のほとりに。
貴女がどのような方かわたしは知らない、しかし地上の旅を終えられた貴き方として
この祈りを捧げたい。御霊よ、安らかに眠られよ。--------アリアケ・レイズン」
「今だヴィスタチヤが地に在らぬ時より、トレスピアノでは古くから死者を送る際、
葬儀に参列する者も、そうでなき者も、一枚の葉に弔意をこめるとか」
そっと訊ねたグラナンに、シュディリスは頷いた。
「儀式化したわけではないが、そうすることが習いとなっている」
「供えるのが花じゃないのが変わってる。普通は花だろう」
パトロベリが横合いから口を出した。
「花も供える」
シュディリスはグラナンとパトロベリに語った。
何百年も前の、もはや定かではない頃に、フラワン家の中から幼い死者が出た。
病の苦しみの中から子供は願った。
どうか、ぼくが死んだら、森に埋めて。
つややかな葉や花を、ぼくに下さい。
いつまでも緑の風の中にいられるように、この世の美しさを忘れないように、
遊んだ森や河を想い出して、あの世でも、大好きなそこに居られるように。
子供が死ぬと、フラワン家の人々は子供の願いどおりに彼を森に埋め、
慕い続けた森の若葉と花で彼を包んで埋葬した。
小さな墓はやがて雨と森に埋もれた。
現在ではもう墓の場所すら定かではないが、それ以来、
誰かの弔いの鐘が塔から鳴らされると、
トレスピアノの領民は農作業の手を止めて近くの青葉を一枚手に取り、
旅立つ者のその冥福を祈るようになった。
「小さな子が死ぬ話なんか止してくれ」
ぽつりとパトロベリがこぼした。
「聞くんじゃなかった。これ以後、
道端で葉っぱを手に遊んでいる子供を見かけたら、
きっと僕は今の話を思い出して、遠い昔に一人ぼっちで死んでしまった
小さな子のことを思い出してしまう。
あらゆる死の中で、子供の死が一番いけない。
馬に乗って駆ける爽快さも、学ぶことの歓びも、恋も知らないで」
(兄さん)
弟が階段を駆け上がってくる音は、いつも、軽やかに騒々しかった。
ユスタスはわざとそうしていた。
扉を叩く前に自分の訪れを知らせることは、兄に対するユスタスの気遣いだった。
シュディリスは読みかけの本をそのままに、窓の外を見ていた。
その日、弟が何の用で来たのか、シュディリスは知っていた。
(兄さん、聞いちゃった)
ユスタスはそんなシュディリスの背中に飛びついて抱きついてきた。
首に巻きついた弟の温かな腕は、いつもよりも力強く、そして何かの悪戯が
成功した時のように、上機嫌だった。
(ユスタス)
(ねえ兄さん、兄さんは、リリティス姉さんと僕の、本当のお兄さんじゃないんだって)
床に倒れたユスタスは可笑しくて堪らないというように、そのまま笑い出した。
そんな莫迦なことがあるものか。
じゃあここにいるシリス兄さんは誰なのさ。
(ユスタス)
(兄さんはカシニ・フラワンとリィスリ・オーガススィの長子で、僕たちの兄さんだ。
僕が生まれた時からそうだったもの、今さらそうじゃないなんて云われても、
兄さんが僕たちの兄さんであることは、もうこの世の誰にも変えられはしないよ)
笑いながらユスタスはしかし真剣な目をして、弟を床から助け起こそうとする
シュディリスを仰ぎ、手を伸ばした。
僕の知る兄さんの名はシュディリス・フラワンだ。
そうじゃないなんて云う者がいたら、僕こそフラワン家の名なんて捨ててやる。
笑みを含んだままの弟のその眼は、そう云っていた。
リリティスの時は、無言だった。
ふとした拍子にぶつかった手を、思いがけない素早さで引いた妹は、
火傷でもしたのかと思うほどの動転を見せて、血の繋がらぬ兄の側から走り去った。
その日のうちに、シュディリスは妹を中庭で呼び止めた。
(リリティス。お前の好きな花が咲いた)
子供の頃からそうしてきたように、妹の為に摘んでやった。
花を渡すと、リリティスはいつもの笑顔で笑った。
そして少し躊躇いがちに、リリティスは兄の腕に手をからませ、
(向こうのあの花も、下さい)
樹に咲く別の花をシュディリスにねだり、シュディリス兄さん、と変わりなく呼んだ。
それで済んだつもりになっていた。
(兄さん私、騎士になるわ)
眼の前に片膝をついた妹を見た時、はじめてシュディリスは得体の知れぬ怖ろしさに襲われた。
フラワン家の父母弟妹とは血の一滴も分かち合ってはいないと知らされた後も、
それまでと変わりなく父は父であり、母は母であり、ユスタスはユスタスであったのに、
あの晩からリリティスだけが、そうではなくなった。
月光に打たれたリリティスは、それ以後よく見かけることとなった思いつめた危うい顔をして、
何かの確かな絆を求めて、兄の足許にひれ伏し、剣を差し出していた。
いったい何が違ったというのか、
それ以後、弟のユスタスとはより確かな愛情で結ばれることになったというのに、
その同じきょうだい愛を求めても、もはやリリティスにとってはそれそのものが心細く、
頼りなく、シュディリスよりも孤独になってしまったのは。
多感な年頃だから女だから、といえばそれまでである。
しかし、リリティスが不安を覚えたものは、実はそれはそのまま、家族の絆を失いたくない、
フラワン家の彼らとこのままでいたいと望む、シュディリスのわがままと同種の切望であり、
それゆえに彼はリリティスを妹として据え置きにしたまま、故意に意識から遠ざけたのであるが、
シュディリスはそのことを、いつかは離れ離れにならなければならないことを理解しない、
妹の愚かさのせいにした。
彼はフラワン家の次代当主としての義務に唐突に駆られ、
「パトロベリ、グラナン」
傍らの二人に思い立って呼びかけた。
「何だ、シュディリス」
「妹のリリティス・フラワンのことで頼みたい」
崖から落ちそうになっている妹を救えるのはやはり結婚であろう、と彼は
家族の男子としてまたもやユスタス同様に単純にことを考えた。
そこにはやっかい事をうまく処理して済ませたいという男の打算も当然あったが、
妹への愛情や心配は偽りなく、誰よりも強かったので、シュディリスは真剣であった。
「誰か、適当な見合い相手を推薦して欲しい」
「それは……難しいことではないでしょう」
賢明なグラナン・バラスは、リリティスに懸想した弟トバフィルのことはおくびにも出さなかった。
幾つかの騎士家や名家を指を折ってたちまちのうちに数え挙げると、微笑んで請合った。
「幾らでも見つかりましょう。
探せばどこの名家にもリリティス様と似合いの貴公子が一人や二人はおられます。
むしろ、今まで他家とご婚約が整っていなかったことのほうが不思議なくらいです。
あまりにも麗しい姫君であられるので、お相手を慎重に選んでいるのだと
国許では噂をしておりましたが、フラワン家の、しかも母君リィスリ様に似てお美しい
かの姫君を求めぬ家はございません」
「そうかな」
パトロベリは馬を歩ませながら遠慮なく異を唱えた。
話題が話題なので、軽薄な彼は楽しそうであった。
「候補というなら、はばかりながら、この僕だって立候補できるんだぜ。
もっとも卑腹出ゆえ、花婿候補の序列のずっと後ろの方になるだろうがね」
「パトロベリ様」
「何だよグラナン、その苦々しげな顔は。
残念ながら幾ら妨害があろうと、リリちゃん本人が「あの御方がいいわ」と僕を選べば、
血筋の上からでも、めでたくジュシュベンダとフラワン家の、
世紀の縁組が成立するんだからな。
彼女とは幾つ違うんだ?十歳の歳の差なら、まさに僕とぴったりだ。
これは迂闊だった、そうか、その手があったか。
おかしいな、どうして今まで誰もそのことを僕に勧めなかったんだろう?
お陰で初対面のあの時、未来の夫候補として
彼女に良い印象を売り込めなかったじゃあないか」
「パトロベリ様、シュディリス様の御妹君のことを町娘と同様に軽々しく口にされぬよう」
「自己推薦して良ければ、自信があるね」
邪魔をされたパトロベリはいよいよ調子づいた。
ぺらぺらと彼は並べ立てた。
「なぜ僕では駄目なんだ。
その辺の甘ちゃん育ちの腑抜けた王子さまよりも、
彼女の美貌や家柄に眼がくらんだ高級志向の莫迦どもよりも、
僕はあの子のことをよく分かってあげられると思うよ。
何といっても、最初に逢った時から僕には彼女の迷いや苦しみの原因が見えていた。
あの子は誰かに認められたいとか、騎士として高く生きたいとか、
本当はそんなことを望んではいやしないんだ。
彼女に必要なものは、そのままの君が好きだという、ただこの一言さ。
そうだ、今度リリちゃんに逢ったら、あの子に何も云わせずに、優しく抱いてあげるとしよう。
『いいからこの胸でお泣き』、なんてな。
ぐずぐず悩んでないで、いっそのこと花婿は僕に決めてしまったらどうかな、お兄様」
「パトロベリ、わたしは真面目に妹のことを考えているのです」
「この良縁話のどこが不真面目なんだ」
「貴方を義理兄と呼ぶくらいなら、妹には女子修道院に入ってもらう」
「何という横暴な兄貴だ。リリちゃんが可哀想だ」
手の平で鞍を叩いて、パトロベリはさして面白くもなさそうにわざとらしくあくびをした。
「それとも」
「それとも?」
「もしかしてシュディリス、禁断の恋とやらで、君こそ本当はリリティスが欲しいんじゃないのか」
「シュディリス様!」
グラナンの制止より早く、シュディリスの手が腰に伸びていた。
鞍の上でパトロベリはのけぞった。
風を飛ばして閃くや否や、横殴りに走ったシュディリスの剣は、
パトロベリの首根の寸前で、ぴたりとその動きを止めていた。
パトロベリの馬と馬首を並べたシュディリスの蒼い眼はしかしパトロベリを見てはおらず、
前を向いたままであった。
馬の嘶きに、押し殺したシュディリスの声音が加わった。
周囲の緑が緑のままに、透き通って冷えたように思われた。
「もう一度云ったら、その首、跳ね飛ばす」
「シュディリス様、どうかお止め下さい。パトロベリ様、謝罪を!」
「このわたしが妹を欲していると云われたか、パトロベリ殿」
パトロベリは嫌そうにシュディリスの剣を避けながら、
前脚を浮かせた馬を落ち着かせることは出来たものの、
剣に止められて鞍の上から動けなかった。
「わたしが妹リリティスに邪まな気持ちを抱いていると、そう云われたのか、パトロベリ殿」
「えー、いや、その」
「もし欲しいなら、妹が大人になった時に、とっくにそうしている」
「うわ。それもどうかと思うぞ」
しかしパトロベリも豪胆であった。
最初の愕きをたちまちのうちに払いのけると、首前に剣を当てられたままの格好で、
さらなる挑発とも覚える減らず口を平気で続けた。
問題発言だ。でもそれでもいいじゃあないか。
パトロベリは強い口調で云い出した。
もし君が妹御を好きでも、それならそれでいいじゃないか。僕は恋する者の味方だ。
そうとも、愛し愛されることほどこの世で貴いことは他にない。
それを知らずに生きるよりは、そのために死んだほうがいい。
世間がどんな批難を加えるような恋であれ、僕はそれを圧殺しようとする力こそ憎む。
「恋人の腕の中にいる歓喜、それを知らぬ者こそ、
生きることを知らぬままに死んでいく憐れなる者だ。
死者よりは、僕は愛に生きる者の味方をし、その至高を知る彼らを愛する。
シュディリス、君がもし妹御を愛し、妹御もまた君を愛しているのなら、
たとえ兄妹であっても構うものか、彼女を奪って、
誰にも邪魔されない処へと逃げるがいいんだ」
何かを怒っているような口調で、パトロベリはなおも鋭く続けた。
それが一夜限りであっても、その後引き裂かれたとしても、それが何だ。
永遠など何処にもないことくらい、僕らはもう知っているじゃないか。
愛に恒久性や道徳を持ち込もうとする、卑小でしわがれた心こそ僕は憎む。
思うさま睦言を交わし、互いを抱きしめることなくして別れるよりは、
たとえそれで全てを失うことになったとしても、まことの愛を語ることのほうが、
百倍も素晴らしいんだ。
「人生は一度きりだ、死んだら終わりなんだ。
愛する者と命を交合し、互いにそれを優しさのうちに告げずして、
何のために与えられたこの時間だ。
たとえ妹でも、君が妹を欲しければ、そうすればいいんだ」
「ほっておいてもらおう!」
珍しくシュディリスが怒鳴った。
グラナンが眼を丸くしたほどの剣幕だった。
パトロベリは怯まなかった。
眼の前に伸びるシュディリスの剣を見たパトロベリは微笑した。
よく見れば剣は、主の怒りを伝えて、小刻みに震えているのだった。
「は。図星だったかな、もしかして」
「それ以上の放言、妹ばかりでなく、フラワン家への侮辱と見做す」
「怖いものか、そんなもの」
「わたしの誇りも、わたしの怒りもわたしが決めること。貴方が決めることではない」
「ただ思い知れと云うわけ?」
怯えた二頭の馬が足掻いた。
「パトロベリ様、シュディリス様、そこまでに」
割って入ろうとしたグラナン・バラスは「あ!パトロベリ様」、引きつった声を上げた。
振り返ったパトロベリはグラナンを、その一瞥だけで、静まらせた。
あまりの早業に、合わさった剣の音は後からグラナンの耳に届いた。
グラナンは息を呑んだ。
パトロベリのその飄々たる姿は、平生とは人が変わったほどに、威厳を増して見えた。
首から僅かに血を引いていた。
「見たかい、先々代直系の騎士の血を」
突然、パトロベリは鞍の上から上体を前に倒して身を投げかけ、
その首を自らシュディリスの剣に差し出し、咄嗟にさすがに引いたシュディリスの剣を、
次の瞬間には、抜き放った剣で跳ね上げていたのである。
しかし、前方を見たグラナンは再び叫び声を上げて、パトロベリに注意を促した。
「シュディリス様。いけない」
パトロベリに跳ね飛ばされた剣の着地点に馬を駆けさせそれを片腕で取ったシュディリスは、
剣を旗棹のごとくに振りかざしたまま、パトロベリを標的に据えて、その馬首を巡らせたのである。
その蒼い眼はひたとこちらを見据えていた。
「パトロベリ様、ここはお逃げ下さい」
「構うもんか、シュディリス、いざ勝負だ!」
剣を構えて、パトロベリは待ち受けた。
「そこを退け。そしてよく見てろよ、グラナン」
パトロベリはグラランを押し退けて、微笑んだ。
風の中にシュディリスの銀の髪が流れた。
パトロベリは歓喜をこめて告げた。
「ここに対峙するのは、古に竜の血を分かち合った、ジュシュベンダとカルタラグンの騎士だ」
「え?」
決闘などさせてはならじと血相を変えて自らも剣を抜き、馬ごと二者間に飛び込んだグラナンは、
パトロベリの命令に背いてそこを動かぬままに、パトロベリの言葉に硬直して、
背中を向けたまま蒼褪めた。
「-------何と云われました」
「あは、数日もの間、寝食を共にしていてそのことに気がつかないとは、
ジュシュベンダ騎士として情け無い。
それとも僕以外の者共はみんな、彼のあの優男風の見てくれに騙されるのか」
ぎらぎらと眼を輝かせて、パトロベリはシュディリスを待った。
「僕はこの時を待っていたんだ。何がフラワン家の嫡子なものか。
どこからどう見ても、あれは真正の彗星騎士だ。
僕は待っていたんだ。あちらにおわす妖精の王子さまの正体を、暴く時をね」
剣光と共にシュディリスの馬が光の嵐のように飛び込んで来た。
三つ巴となって剣と剣がぶつかり合う音は、雷の光を放ち、今にいたるまで一度たりとも
闘いにおいて眼を閉じたことのないグラナン・バラスは、両者の間に挟まったまま眼を閉じて、
二人を引き離しながら力の限りの絶叫を上げた。
「どうか、お止め下さい!」
「グラナン、お前さんも騎士なら騎士の闘いを知れ」
グラナンを突き飛ばしたパトロベリは、馬上で剣を持ち替えた。
シュディリスの息がすぐ近くを掠め過ぎた。
金属音に身が震えた。
鐘の音よりも骨身をえぐって灼いた。
ああ本当にもうここで死んでもいい。
血という血がおののいて歓びを上げている。
人の命がここまで強く高まることを、僕はずっと誰かに見せたく、そして知りたかった。
何という交歓だろう。
彼の冷たい情念を感じる、こちらに流れ込んで昏く、熱く満ちてくる。
この気持ちは名付けようもない。誰にも分かってはもらえない。
どうせ誰にも通じない。
騎士の孤独に生まれた限り、このようなかたちでしか、僕は誰とも重なれない。
君が相手だ、シュディリス。
「さあシュディリス、それとも、カルタラグンの名で呼ぼうか、
シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビア、父の無念と母の覚悟より生まれた御子よ」
シュディリスは柳眉を僅かに上げた。
パトロベリは笑ってそれを流した。
眼の前に立てた刀身と、シュディリスの蒼い眼が交錯した。
このまま僕を欺き、隠し通せるはずもない。
君の本当の姿を僕に見せてくれ。
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石畳にしみ込むように、鐘の音は消えた。
空には雲が流れ、鳥が飛んでいた。
白昼夢ではなかった。
その再会において、たとえいかなる夢想をルイがしていたとしても、
最も望み、そして即座に首を振り打ち消していた夢のかたちが、そのまま実体となって、
彼の名を呼びながら、放心しているルイの胸に飛び込んで来た。
「ルイさま」
金色の小鳥のように、リリティスは石畳を蹴ってルイ・グレダンの胸にぶつかってきた。
「ルイさま、ルイ・グレダン様」
夢かと思い、仰天したものの、ルイは揺らぐことなくしっかりとリリティスの細い肩を支えて
リリティスが転ばぬように抱き止めた。
そしてさり気なく、自身の汚い男の巨体から遠のけた。
若い娘のやさしい髪が、腕から離れた。
彼はごほんと咳払いを一つすると、目上の紳士としての振舞いを努めて引きずり出してきた。
突然フェララの街中に現れた慕わしい娘は、覚えのある姿よりもこの短期間にやせ細り、
ひどく疲れているように見えた。
「や。これは、リリティス・フラワン嬢」
心底ルイは愕いてはいたが、何とか平静な声が出た。
支えを失ったリリティスは眩暈でも起こしたものか、ふらついた。
ルイはリリティスの繊手を丁重に取ると、人通りの邪魔にならぬ路地へと導いた。
屋根の合わさる暗がりに入ると、娘は壁に持たれて、苦しげな息をついた。
ルイは気遣わしげに娘の様子を見ながら、しかし思慮深く訊ねた。
フラワン家の姫君が単身で他国に現れるなど、ただ事ではない。
しかもリリティスは男装をしており、その様子はどう見ても、気楽な物見遊山ではない。
おそらくは、トレスピアノ領主カシニ曰く、
「しょうもない冒険に無断で出かけた」男兄弟を追って家出を決行し、
トレスピアノを勝手に出奔したのではないかと直ちに検討をつけたルイはまったく正しかったが、
あえてそれは伏せ、
「先日のトレスピアノ来訪の折には、お世話になり申した」
何気ない調子でまずは儀礼どおりの挨拶から切り出した。
「このような処でお姿をお見かけするとは思いもよらぬこと。奇遇ですな。
してまた、フェララへは何の御用で」
「ルイさま」
この世で最も苦手なものは女性の涙であるルイの眼の前で、リリティスの眼が潤んでいく。
「ああ!いかがされたか、リリティス嬢」
慌ててルイは手巾を探し出して差し出したが、しかしリリティスはそれを受け取ることもしなかった。
「お加減が悪そうですぞ。
国境での小競り合いのあの時の腕の傷が、まだ傷まれるのか」
おろおろと無駄な心配を重ねるルイの前で、娘はぐらりと一度後ろに倒れかかり、
ルイが腕を伸ばす前に辛うじて姿勢を立て直したものの、壁に手をついて、
ようやく身を支えた。
「これはいかん。熱がある」
「ルイさま」
リリティスは、しばらくそれしか云えなかった。
泣き出しこそしなかったものの、踏み出したリリティスはもう一度ルイの胸に、
子供が大樹に寄り添うように、震えるその身を預けた。
うつむいたリリティスは、何故か、微笑みを見せた。
その赤い唇が乱れた息とともに、小さく何かを云った。
ルイは耳を近づけた。
「ルイさま。お逢いできて、嬉しい……」
罪つくりな娘もあったものである。
ルイの魂は完全に宙に浮いた。
しかし路地の入り口に新たな人影を認めると、ルイは顔つきを一変させ、
リリティスを後ろに庇った。
ルイが動くと同時に、今度こそ、リリティスは崩れ落ちた。
「あ、これ、リリティス嬢!」
気を失ったリリティスを腕に抱えて庇いながら、ルイは逆光に向けて重たく誰何した。
「そこなる者、姿を現すがよい」
人影は戸惑うように止まった。
ルイは追及した。
「先程よりこちらを窺っておられたであろう。このをとめごに、何か用でもあられるか」
「そちらこそ、彼女から離れて下さい」
返す声は若造のものであった。
ルイは剣にかけた手を緩めた。
悪びれの無い、しっかりとした声だった。
この声、この調子には、卑しからぬものがある。
ルイは記憶を探った。
帽子を目深に被ったままで、顔が分からないながらも、どことなく覚えのある若い声だった。
ルイの厳しい注視に困惑しながらも、進み出た青年は片手を伸ばした。
貴人特有の、訛りの全く無い帝国共用語をすらすらと話した。
「彼女をこちらへ渡して下さい。何でもないのです。
気分が悪そうだったので先ほど薬局で薬を買い求めたのですが、
どうも体調に合わなかったようだ。
わたしが宿を探している間、店に預けていたのですが、
誰かの姿を通りに見つけたらしく突然出て行ったと聞いて、
こうして心配して探していました」
「名をお伺いしたい。そして顔を見せられい」
ルイはいっかな承服せず、腕に抱くリリティスを青年の腕からますます遠のけた。
「こちらのをとめごが誰であるのかを、貴公が本当に存知ておられるのかどうか、
どうしてわしに分かろうか」
「それは。困ったな」
「何を困る」
ルイは顔を険しくした。
「疚しきことがなければ、この娘とて、逃げ出したりはせぬはず」
「これでは、誤解が深まるだけのようです」
慎み深い青年に素っ気無くルイは応えた。
「そこもとが正体を明らかにせぬ限りは、当然のこと」
そんなルイの断固たる態度に対して、青年は特に怯みもしなかった。
ルイを見つめると、くすりと青年は笑った。
人差し指を口許に添えて、しばらく何かを考えていた。
そして青年は、意外にも彼の名を正しく呼んだ。
「ルイ・グレダン」
「何」
「元ハイロウリーン騎士団に在籍し、勇猛でその名を知られた高位騎士。
騎士団を離籍の後、現在は剣術師範代としてフェララに滞在。
フェララ公の信任厚く、大使としての任も預かる。そうですね」
「何と」
愕いたルイは、しげしげと青年を見つめた。
どことなく楽しげに青年は続けた。
「わたしの名はハーン。ということになっています。
そこの彼女の名はリリティス」
「む、何故それを」
「彼女から聞きました。姓については触れることを止しましょう。
偶然、難儀に遭った彼女を助ける機会を得、フェララになら頼る処があると云うので、
ここまで彼女を送り届けて来たのですが、頼る処というのは、それでは
貴方のところだったのかな、ルイ・グレダン」
呼び捨てである。
眼を丸くしているルイの眼の前で、青年はその帽子を取った。
感じの良い顔が現われた。
「---------おお」
「何年ぶりだろう。忘れてはいないよ、逢えて嬉しく思います。ルイ・グレダン」
「帝国皇太子ソラムダリヤさま------!」
リリティスを抱えたままルイはあっけに取られて皇太子を見つめた。
ソラムダリヤは地に膝をつこうとするルイを素早く止めた。
その若い顔をルイはよく見上げた。
覚えのある少年の姿から、すっかり青年らしい顔つきになり、ご立派に成長されたものの、
間違いなく、それはルイがジュピタの皇居において幾度か言葉を掛けて頂いたことのある、
皇太子ソラムダリヤであった。
何よりも背筋を伸ばした怖気のないその物腰が、それであると告げていた。
生来、温和な気質で、尊崇を求める傲岸とは縁のない性状の持ち主にしろ、
その気になればソラムダリヤは幾らでも帝国皇太子として相応しき振舞いをとることが出来た。
ルイの愕きぶりは深く青年皇子を満足させたが、だからといって、
帝王教育を一通り受けてきた彼は、
そこらの若者のようにここでさらなる悪ふざけを見せることはなかった。
悪戯が成功した時のような喜びは喜びとしても、今の彼の関心は全てリリティスに注がれており、
矢で射抜かれたような顔をしたまま絶句しているルイに公人としての態度で鷹揚に頷くと、
ソラムダリヤはやわらかく命じた。
「話は後で。リリティスを、早く何処かで休ませてやりたい」
「は、はあ」
「貴方の家が都合が良いと思うが、構いませんか」
「わしの、いや、わたくしめの家でございますか」
ルイの声はひっくり返った。
その拍子に抱えているリリティスがずり落ちそうになったので、
慌ててソラムダリヤは娘をルイの腕に押し戻した。
誰も聴いてはいないのに、皇太子はルイに顔を近づけると、
ひそひそ声で真剣になって言葉を重ねた。
「そう畏まらずに、力を貸して下さい。実はわたしの方こそ、
父陛下や随身たちには内緒でここまで来たのです。あまり人目にはつきたくない」
「いや、それはなりませぬ」
「何が」
「いや、何がといって」
「分かってるよ。お説教なら後でちゃんと聞こう」
「とにかく、わしの家はなりませぬ」
ルイは大慌てで首を振った。
「通いの下男はいても男の独り住まい、むさくるしき処なれば、
とても皇太子さま、ましてやうら若き女人をお泊めするような処ではございません」
「貴方の家は狭いのか?」
「何の、フェララ公ダイヤ様のご厚意にて、厚かましくも独り身をわきまえず、
小さな庭まである分不相応な屋敷を頂いております。この道のほんの先に、近くですぞ」
「では、いいでしょう」
「いやいや、そうではなく」
「じゃあ、こうしましょう」
心情溢れるまなざしで眠るリリティスを心配そうに見つめていたソラムダリヤだが、
顔を上げると、明るい顔をして思いつきを述べた。
たとえどれほど気配りが出来るといっても、そこは世間知らずの箱入り皇子さまだった。
誰かに何かを頼んだ時に、悪いようにはされたことが今まで一度もないその育ちから、
ソラムダリヤは勝手に段取りを決めてしまった。
「いきなり押しかけるのは貴方も迷惑でしょう。
わたしとリリティスはひとまず、街中の宿に落ち着きます。
用意が出来たら、迎えを寄越して下さい」
「え。はあ」
「それと、リリティスを医者に診せたいのだが、いい医者を知っていますか」
「知らぬでもありませぬが」
「では、頼みます」
すっかりソラムダリヤに呑まれてしまった格好となったルイはそこで、もじもじと、
最も不可解であり、そしてリリティスのみならず、
未だ独身である皇太子の風評への懸念から、最も気になるところを思い切って訊ねた。
「ええごほん。ソラムダリヤ皇太子殿下」
「どうぞ」
「………皇太子さまにおかれましては、リリティス嬢と、
本当にここまで二人きりで旅をされてこられたので」
「うん。でも同じ宿でも部屋は別にとったし、
彼女が恥ずかしく思うようなことなど何もなかった。誓って」
「わしごときに貞操を誓われずとも宜しいが、はあ、それはしかし」
そこで初めて、ルイは飛び上がった。
「いけませぬ、今頃、帝都は皇太子さまの行方を捜して、大騒ぎに!」
「だからそれは後で話します。それと、申し訳ないが、ルイ」
物入れから袋を取り出すと、彼はそれを振って見せた。
僅かな音しかしなかった。
女の子の手前、何とかここまで誤魔化していたけど、この有様です。
お金を貸して欲しい。
そして好青年ソラムダリヤは、誰もが彼を好きになるような気取りの無い
控えめな正直さで照れてみせた。
「あまり持って出なかったんだ。いつも他の者が支払うからね」
そこへ、早駆けの伝令が先触れを立てて触れ回りながら、フェララ城へ向かって
街路を駆け抜けていくのが見えた。
ルイとソラムダリヤは顔を見合わせた。
人々が道の両端に退いた真ん中を、伝令の操る黒馬が、
けたたましい蹄の音と共に風のように飛び過ぎた。
それを見送って、ルイとソラムダリヤは路地から顔を出した。
ソラムダリヤは馬の消えた方角を怪訝そうに見送った。
怪訝そうに青年はルイを振り仰いだ。
「何ごとだろう」
「ここにおわします皇太子さまを探しているのでありましょう」
憮然として、ルイはもっともなことを応えた。
「続く]
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