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[ビスカリアの星]■二十六.



有蓋回廊にいたミケランは、呼び止められた。
侍女を連れたフリジアが渡ってくるところであった。
「これは。フリジア内親王さま」
柱の傍から離れて、ミケランは向き直った。
皇居の庭園を横切る鳥を彼は眺めていたのである。
「ただいま、陛下の御前から退出したところ。これより、領地に立ちます」
「ミケラン」
鳥が飛び立った。
歩み寄ったフリジアは、その小さな顔を蒼くして、
まずは卿にお悔やみを述べたが、
せっかく覚えてきたその文句は、途中で喉がつまって、途切れてしまった。
その短い形式的な弔辞は、少女の心から今にも溢れそうになっている
精一杯の弔意が加わることで、哀しみの色合いをより増して、
それを告げるフリジア本人の胸にかえって響くようであった。
フリジアは声を絞った。
奥様を亡くされるなんて。お気の毒に思います。
さぞ、お寂しいでしょう。
ミケランは誠意をもって一礼をすることで、それを返事の代わりとした。
静かに黙っていた。
人前で感情をあらわに指摘され、代弁されるなど、彼の趣味ではないが、
アリアケの死後、口々に人から送られたどのようなお悔やみよりも、
フリジア内親王の今のそれには少女に裏心がなく素直なだけに、
連れ合いを喪った男を慰撫するやさしさが確かに篭っていた。
柱の影を挟んで、ミケランと侍女を従えたフリジアは向かい合っていた。
やがてミケランは平静な顔で、「何か御用ですか」、と云った。
彼は平然として、この場に相応しい哀しみを浮かべたフリジアの幼い顔を見下ろしていた。
庭園から差し込む光が、廊下を明るい緑に染めていた。
フリジアは拍子抜けし、そしてやや不満であった。
何か云ってくれたら、アリアケ様の想い出話や、お慰めも出来るのに。
卿のこのきっぱりとした態度には、それをさせないところがおありだわ。
こんな時にも誰にも弱みを見せないなんて、かわいらしくない。
心の冷たい方。
(いいえ)
すぐにフリジアは思い直した。
(今はまだ、奥様を喪った哀しみがお深いのだわ)
考えていることが全て顔に出ていることを、フリジアはもちろん気がつかない。
両手を組み合わせたまま、フリジアは床の影に眼を落とした。
フリジアには分からないことではあったが、少女のこの単純と浅慮にはどこか、
ミケランがそうだと信じていたような、
故人の従順や、ひたむきな善良さに通じるところがあった。
(特に、考えを巡らせるだけ巡らせた上で、結局は少々ばかり、
 己のことを人よりは聡く、気遣いの出来る善人だと信じ込んでいる愚かな女たちに
 特有の自己愛でもって、自己満足な美談に満足して落ち着くあたりが)
そういった女の愚かさに対しては、ミケランは限りなく寛大な男であった。
理由を訊かれたら彼は笑ってこう応えるだろう。
それしきのこと、邪魔にならぬよ。
その「それしきのこと」が、健気に表情を変えて、侍女に持たせていた花束を
手づからミケランに手渡した。
「お帰りになるの」
「いろいろと忙しく。妻の墓は故人の望みどおり、湖畔に建ててやりたく思います」
「お見舞いに行けなかったことが、心苦しいの。
 せめてその代わりに、わたしからのお花を、これをどうぞ、アリアケ様に。
 道行のお邪魔かも知れませんが、水に挿せば枯れません。
 これはアリアケ様から頂いた種が花を咲かせたものなのです」
「そのように。必ず」
謝辞は簡潔に、しかし身を屈めてフリジアから小さな花束を受け取ったミケランは、
丁寧に、いたわりを見せて花を抱えた。
その様子を見て、フリジアは満足した。
(いろいろ云われているけど、わたし、やっぱりミケラン卿のことは好きだわ)
無言で花を見つめているミケランの面持ちに、少女はふたたび、やさしい気持ちになった。
何でも義務的に済ませるのが洗練された男のしるしだとでも思い違いをしている、
恰好ばかりの、笑顔の汚い、そのくせ出しゃばりたがりの、
他の人たちとはやはり違うわ。
もちろん、万事につけてそつなく完璧にというのなら、彼ほどそれが出来る人はいないけれど、
ミケラン卿は、見せ掛けだけでなく、表面のそれがちゃんと
彼の知性や心と連動されて、佇まいの端々にそれが顕れている気がするわ。
それが証拠に、処世術が、垢のように、彼を汚してはいないもの。
フリジアは彼を高く評価し、高く評価することで、
どうやらその違いが分かるらしき自分にも、深い満足と得意を覚えた。
(少し、おやつれになったのではないかしら)
何が何でも他の者には見抜くことの出来ぬ妻を喪った男の心弱りを
ミケランの上に探し出そうという眼で、フリジアは、
今日初めて見る男であるかのように、ミケランのことを見つめ直した。
よくよく見れば、さすがにアリアケの死の直後を反映してか、
一見は生真面目な役人か学者のように見えるその男らしい顔は、
確かに少し疲れを刷いているように思われる。
思い遣り深く、そして大人びて見えることを期待しつつ、フリジアは沈痛の溜息を小さくついた。
父の周囲にいる近臣たちと眼の前のミケランを比較して、
まず気がつく大きな違いは、彼がひじょうに控えめであるという点に尽きていた。
自ら座の中心に乗り出すことは決してしないが、ふと気がつくと、一座の誰もが、
ミケランの存在を意識して、賛同であれ反論を求めるのであれ、
彼の気を引くような発言へと流れているのであるが、当の本人は最後まで我関せず、
何か訊かれれば快活に応えるものの、退屈そうに見えることすら、あった。
まるで誰が、何を云おうとしているのかには全て予測がついていて、今さら新鮮味もなく、
頭の巡りの悪い連中に付き合って忍耐強く我慢して最後までこうして
聞いていなければならないのは耐え難いが、その状況そのものを面白いとでも思うことで、
ようやく、自らも喜劇の一員となって楽しめる、とでもいった風であった。
そしてミケランは故意に、そのような自分の態度を周囲に認知させるようなところがあった。
そこが気に入らないと悪く云う者も多かったが、兄のソラムダリヤに云わせれば、
「仕方がないことではないかな。
 実際、彼の方がはるかに頭が良いのだから」
容認する他ないことらしかった。
「芸術家と一緒でね、きっと、ああして好き放題にさせて、
 甘やかしておいたほうが有益な人物なんだよ。
 それに面従腹背というなら、お前も分かるだろうフリジア、
 善良ぶった他の者たちのほうが罪のない顔をして、よほどひどいものだ。
 良くも悪くも彼にはそれもよく分り、よく見えるのだろうから、
 ミケランからすれば自分以外の者など、莫迦にしか見えないのだろう」
父上も含めてね、と冗談めかしつつも兄は半ば本気で締めくくった。
そのミケラン・レイズンが、最愛の、と噂されている妻を喪った。
湧き上がった同情が、フリジアに優しみと強さの合わさった、女の心を生んだ。
強いものが折れる時、しばしば女は無条件の憐憫にかられて
何としても力づけ、慰めたくなるものであるが、この時フリジアはまさにそれであった。
そしてそれは、ミケランが軽蔑するところの「自分に都合のいい美談」的な、
自己陶酔を伴うものである。

(私だけが彼のことを分かってあげられるのだわ)

年齢が至らないその分だけ、故アリアケと同じ轍を踏んではいても、
フリジアの方がより乙女らしく直情であった。
傷心を耐えているであろう男の上に麗しい悲劇の物語を被せたフリジアは、
ついでに思うさま、そこに乙女心の筆を加えることに飽きなかった。
(昔から、思っていたわ。ミケラン卿は他の殿方とは違うわ。
 朗らかにされている時にも、そうでない時にも、
 彼の周囲にだけはいつも、濃くて深くて、厳しい影があると思っていたわ。
 私はずっとそれが怖くて苦手だったけれど、どうしてかしら、
 今はその影の中にいるほうが、自由に泳げて、心が安らぐ気がするの。
 他の人には分かってはもらえないことでも、分かってくれる気がするの)
実際に妻としてそこに閉じ込められた故人アリアケ・レイズンは、
夫の聡さの中で心安らぐどころか、ミケランの手の中、影の中で窒息しそうになったまま
淋しく死んだのだと知ったら、フリジアは愕くであろうか。それとも単純に、
故人が不幸であったとしたらそれは病のせいであったと、万人同様に納得するだけだろうか。
(お可哀想な、アリアケ様。お可哀想な、ミケラン卿)
今日この時、フリジアは彼の手を取り、心より慰めてやりたかった。
『ミケラン卿、その平然とした態度は、無理をされているのでしょう?
 本当は別のことを考えていらっしゃるのでしょう?
 堪えることはご立派ですが、
 苦しみや秘密を、そうやってお独りで抱えていることは、苦しみをより煮詰め、
 ご自身を損なっていくばかりのこともあると思います』
彼はきっと、薄く微笑むだけでしょうね。そして小莫迦にした調子と、
子供をあやすようないつもの笑顔で、慇懃にわたしにこう応えるの。

 『手軽で便利な詭弁だ。聞き飽きた。
  相手に『本当のあなたはそうではない』と云いさえすれば、
  いかにも優れた洞察力があるように、見せかけることが出来るのだから。
  しかしそれは聴衆を前にして、
  己を一過性のくだらない満足と勝利で酔わせることには有効であっても、
  真実がいずこにあるかには毛筋の先ほども到達してはいない。
  少なくとも、わたしには面白くない。
  フリジア内親王さま、そこまで仰るのであれば、
  相手の表層をただ逆さまになぞるだけでなく、わたしが何を考えているのかまで、
  その根拠を提示して、理路整然と言い当ててごらんにならなければ』

(人の心はそのように、言葉で全てをつまびらかにするものでも、
 して良いものではありませんわ、あなた)
アリアケならば、ミケランにそう云ったであろう。
夫を見上げ、哀しい眼をして、
言葉なき言葉にてアリアケは、ミケランの振る舞いに何らかの堤を与えたことだろう。
それはミケランの手を、いつもやさしく後ろから引いて止めてきた。
わずらわしい母親の手のように、頼りない幼女の手のように、
(そんなことをしてはいけません)
そう囁いた。
そんな女たちの干渉や心配はまた同時に、(わたしをみて)とも願っていたのであるが、
妻の死を迎えてみても、それはミケランには永遠に理解が及ばず、分からぬところであった。
彼にとって女の持つそれらの特性は、ひとまとめに他愛なく愚かしく、愛しいものに過ぎなかった。
そしてこの時、フリジアからの花を手にしたミケランは確かに、
そういった愛しさの持ち主であった故人のことを、深々と思い浮かべていたのである。
彼は幻のうちに、アリアケの顔を思い浮かべた。
きれいな花、と呟く静かなその声を、そよ風の空耳に聞いた。
残念ながら、男女の機微を知らぬ少女のフリジアにはそこまでの情緒はまだ足りなかった。
慰めようにもそれを拒絶している彼の厳格な態度を、
(彼はきっと誰もいない処で奥様を偲ばれるのだわ)
そのあたりにきれいに落ち着けて、自分で創り上げた物語の中で涙した。
立ち去っていくミケラン・レイズンの背中をいたわしげに、
こればかりは偽りのない同情でもって、フリジアは廊下の端から見送っていたが、
柱に手をかけて、ぼうっとしているところを、やがて侍女から促された。
「フリジア様、ダンスのお稽古のお時間です」
「ええ、行くわ」
名残惜しげに、フリジアはドレスをつまんで踵を返した。
本当はミケラン卿に会ったら、是非ともトレスピアノのフラワン家の招待の一件について
頼み込むところであったのだが、喪中とあっては浮ついた話を持ち込むことは
さすがに憚られ、今日は叶わなかった。
近頃のフリジア姫の日常を支える柱は、「いつかあのお方に逢う為に」
恥ずかしくない姫君でありたいというもので、それが彼女を大人にしたものか、
感心なことにフリジアは以前に比べれば行儀も意識的に洗練されてずっと良くなり、
少々不埒な理由にしろ、
一流の教師の下での教育も稽古事全般に対しても、自ら前向きで熱心であった。
何しろ友達の年上の姫君や、侍女たちも口を揃えて、
「トレスピアノの御曹司シュディリスさまなら、フリジア様のお婿さんに申し分ありませんわ」
「何かにつけて秀でた、お優しい方でいらっしゃるそうですわ。
 平生はトレスピアノのような田舎の田園に控えめに暮らされていて、
 なかなかこちらにまでは風評も届きませんけれども、
 ジュシュベンダに留学されておられた折も、たいそう女性から人気があったとか。
 名門を鼻にかけた気取った殿方よりは、鄙でお育ちでも、
 そのような殿御の方が爽やかで好ましいですわ」
「あら皆さま、油断大敵ですことよ。そのように優れたお方なら、
 すでにもう言い交わされた女人の一人や二人、いらっしゃるのが当然のことよ」
「え!」
「あらあら、フリジア姫。これは失言でしたわ。お許し下さいませね。
 刺繍が床に落ちましたわ。はい、どうぞ……」 
「それに、まあ貴女ったら、一人や二人とおっしゃって?複数なんておかしいわ」
「あらいいえ、浮気者だと云ったつもりではありませんのよ。
 まさか、御曹司ともあろう御方に限って、そんなはずありっこありませんわよ。
 つまり、そう、それだけ魅力的な殿方だということではないかしら」 
「んまあ、素敵」
「シュディリス様とはお年頃も家柄の釣り合いもちょうど良いし、
 フリジア様が羨ましいですわ、きゃあきゃあ」
煽り立て、ままごとの範疇にしろすっかりお膳立てをするものであるから、
フリジア本人も、シュディリス・フラワンこそは未来の背の君、運命の方であると、
思い決めてしまったところがあった。
(トレスピアノの方々に、そしてシュディリス様にいつ、お逢いできるのかしら。
 お父様に頼んでも埒が明かないのですもの。
 一体どうして、前時代までは仲が良かったフラワン家とこれほどまでによそよそしく、
 関係を疎遠にされているのかは知らないけれど、
 ミケラン卿が働きかけてくれないことには、どうしようもないわ)
そんなミケラン・レイズンの内心に、亡くした奥方との美しい追憶を期待して
潜り込めることが出来たなら、フリジアは震え上がったかも知れない。
公開処刑の期日は迫っていた。
ミケランは、花を片手に足早に歩きながら、
前方にちらつ日影に眼を据えて、
砦に捕えてある騎士たちの処分とその手筈について考えを巡らせていたのである。



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あの頃に思う存分、彼らと喧嘩をしなかったのが悪かったのだろうか。
フラワン家の家風は、家人同士がすれ違う時にも目礼をするほど礼儀正しく、
静かなものであった。
子供が三人もいるので、彼等が幼い頃はそれなりに賑やかであったが、
父母からの感化と、長子のシュディリスが物静かな性質だった為にか、
やがて幼い妹や弟もそれに倣って、だいたいは三人揃っておとなしく、
同じ歳の領民の子らのように取っ組み合いの喧嘩をしたり、声を荒げて
手を上げるようなことは皆無といっていいほどなかった。
シュディリスとユスタスも男兄弟として仲が良く、
間に二人から大切にされているリリティスを挟んで、フラワン家の三きょうだいは、
傍目には羨ましがられ、感心されるほどに、睦みあっていた。
白い雲が青空に流れる緑豊かなトレスピアノ。
晴れた、温かな日に、
馬を並べて丘を駆けて行くフラワン家の子供たちの颯爽とした姿と、その笑顔を、
トレスピアノの人々は微笑ましく見送った。
彼らとて、たまには喧嘩もした。
嫡男であることと、外部には隠されている理由により、幼い頃から敬意をもって
扱われていたシュディリスとは異なり、喧嘩はやはり、リリティスとユスタスの間によく起こった。
しかしそれすらも、親や使用人の見ていないところでこっそりと、
誰かが誰かと諍えば、もう一人がそれを止めにはいるといった順番で、
半日後にはもう仲直りをしている類の、他愛のないものでしかなかった。
引き取ったシュディリスの上に、亡くした恋人の俤を重ねて、
恋人をもう一度手許で育てるような慈しみと哀しみを見せていた母のリィスリ。
実子と分け隔てなく、しかし最初から、フラワン家の世継ぎとして、その意思を尊重し、
彼を大人扱いにしていた父のカシニ。
「父上。母上」
たとえ血の繋がりはなくとも、彼らは父であり母だった。
弟ユスタスとも、ほとんど激しい喧嘩をした覚えがない。
シュディリスは木陰に横になったまま、彼らを慕った。
幼少の頃のおぼろな記憶に、怪我をした弟が泣き出した時にも、
母や誰かが駆けつけるよりも早く、自分は弟の手を引いて、傷口を洗ってやったように思う。
悪戯をする歳になった弟が自分の持ち物に落書きをした時も、
ただ仕方が無く、可愛いと思うだけで、本気で腹を立てたりすることは一度もなかった。
それはリリティスについても同様で、妹である分だけ、さらにシュディリスは妹に対して甘かった。
いや、本当は子供らしく、自分も腹を立てることもあったのかも知れない。
だがフラワン家には、感情を見苦しく露骨に破裂させないような大人びた気風があって、
穏やかで気品ある人々の中で、分別は自然と誰の上にも身についた。
あの頃、彼らと喧嘩をしなかったのが悪かったのだろうか。
顔の上に、影が落ちた。
グラナン・バラスであった。
彼が今だに大憤慨していることは、近付いてくる足音の荒さからも知れたが、
彼が持ってきた果実酒は、やさしくシュディリスの手に渡された。

「こちらにおいででしたか。宿の中を探しました」

木陰のそよぎに心地よく意識を奪われるままに、シュディリスは、
「喧嘩の具合や加減が分からない」
言い訳がましくぼそりと呟いた。
分からなくても宜しい、喧嘩をしなければ良いのです、グラナンは手厳しく云い返した。
珍しくシュディリスは抗弁した。
「先に喧嘩を売ってきたのはパトロベリだ」
「その喧嘩を買ったのは貴方でしょう」
残念です、あれしきの挑発、余裕でかわせる方だと思っておりました。
本気でまだ怒っているらしく、この話になるとグラナンは血相を変えて、
まだまだ容赦がなかった。
その手が傷口を確かめ、新たな薬草を添えるのを、シュディリスはさせるままにしていた。
しみじみとグラナンは嘆息した。
「深く残るような傷がつかなくて、よろしゅうございました」
女子供ではあるまいし、大袈裟な心配である。
しかし、グラナンはあくまでも大真面目だった。
シュディリスの隣に膝をついて、彼の手当てをしながら、
「もしも御身に大事があれば、ことはジュシュベンダとトレスピアノの戦に及びます」
暗い顔できちりと諭した。
それに対して、シュディリスは薄く応えた。
まさか。
その「まさか」は、奇妙な重みをもって、真実を告げる奇怪な扉の音のように、
二人の青年の間にぱたりと落ちた。
反対側に首を傾けたシュディリスは笑ってはいなかったが、ぼんやりとした自失に沈み、
樹の根元に身を預け、木々の葉ずれを見上げていた。
まさか、カルタラグンの遺児ひとりが、今更ジュシュベンダの問題児の手にかかったところで、
トレスピアノとジュシュベンダが、立ち上がるはずもない。
ここにいるのは、フラワン家の子息ではない。
トレスピアノにいる間はそのように遇されてはいても、一歩外に出れば
もはやこの天地に安住の地もなく、頼る処とてない、名付けるならば、余計者。
それはまるで、夢のように頼りのない昔話だ。
夜の中、星の冷たい矢を浴びて、少女が走っている。
やがて彼女は人知れず子を生み落すだろう。
赤子はすぐさま彼らの友人に渡されて、遠くふたたび、闇を抜けていく。
産褥から少女は独り、剣を片手に立ち上がり、北の星を目指して歩き出す。
夜道に落ちていくその影を星の光が照らしている。
生誕の夜、母子は分かたれて、
シュディリスが幾ら想像を重ねてみても滅び去った人々の行く末は塗りこめた闇だった。
シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビアという名が見出せなかった。
空は広く、蒼く、高かった。
懐かしいトレスピアノと、フラワン家の家族しか浮かばない。
(騎士として生きよ)
すぐ傍の輝く緑の草の上に、星を連れた白い影が現れて、
幻はシュディリスに頷いてみせた。
その向こうに、美しい雲を浮かべた、夕暮れの広い空が見えた。
幼い子供たちが駆けていた。
花の揺れる、眩しい野だった。
(今度、父上が馬を下さる)
(ずるいよ、シリス兄さんばかり先に)
(私も馬に乗りたいわ)
(お前たちにはまだ無理だ)
(ユスタス。リリティス)
その沈黙を、強いて破ったのはグラナンだった。
彼はわざと手荒にシュディリスの傷の手当を再開すると、
「シュディリス様は、フラワン家の御曹司です。
 トレスピアノの世継ぎとしてジュシュベンダに留学し、
 わが弟トバフィルと親交を結ばれたのは、ここにおられる貴方です。
 シュディリス・フラワン、その名しかわたしは知りません。
 誰に訊かれても、それ以外の何者でもないことは、
 バラス家の名にかけてわたしが請合います」
仏頂面で言い切った。
シュディリスは首を傾けてそんなグラナンを仰いだ。
重大な事実を主君に隠蔽することは、グラナンの騎士としての身の破滅である。
しかしグラナンはむっつりと付け加えた。
パトロベリ様が冗談ばかりを口にされる方であることは国許では周知のこと。
ジュシュベンダに戻ってそれを告げても、信じる者はいないでしょう。
わたしは何も聞かなかったことにするのです。
グラナンはシュディリスがまだ見つめていることに気がついて、わざと渋面をつくった。
「何です」
「ビナスティが選んでくれた騎士が、トバフィルの兄上で良かったと。心から」
一身上のことならばこの先、何があっても耐え抜こうが、
フラワン家の人々に迷惑がかかるようなことがあってはならない。
わたしはそれだけをずっと怖れてきた。
「ではもうこの話は止しましょう。実のところ、信じ難いのが本心です」
「グラナン」
「はい」
「ありがとう」
「お愛想を云っても無駄です。わたしの弟は、不肖の弟ながらも、
 このような手間隙や心配を、わたしにかけることはありませんでした」
怪我の処置は丁寧で、手早かった。
ぎりりと唇をかみ締めながら、グラナンはシュディリスの腕に包帯を巻いた。
「お命があって、本当に良かったのです。
 見ていたわたしには、お二方ともここで死ぬのだろうと思われて、
 後を追って自害することまで、あの時には覚悟したのですからね」
「彼の具合は」
「村の医者の家で、元気をもてあましていました。明日にも戻ってこれるでしょう」
「さあ来い、シュディリス!」
パトロベリより早く、すり抜けたシュディリスの剣は、
その身のどこからと思われるほどの凄まじい強さで、パトロベリを馬から叩き落としていた。
落馬したパトロベリを追って、馬を飛び降りた。
シュディリスはパトロベリに起き上がることを許さなかった。
彼を蹴り飛ばし、その胸を片脚で押さえつけた。
飛び散った血が草地に落ちるより早かった。
彼の銀髪が鋭い弧を描き、逆光の中に流れた。
まばたきすら忘れたような顔をしていた。
剣を振り上げ、パトロベリ目掛けて振り落とした剣先を、身をひねったパトロベリは
両手で横に構えた剣で下から受けた。
荒い息と共にパトロベリはシュディリスの脚を払った。
片腕で地から跳ね起きたところを襲われて、かわしつつも攻勢に転じたシュディリスは、
「お止め下さいッ」
間に飛び込んだグラナンの絶叫と邪魔立てを、彼をパトロベリに向けて突き飛ばすことで応え、
二人が折り重なったところで、とどめの一撃を放つために剣をすべらせた。
「殺すならばわたしを」
「僕はいいけど、彼は国に帰してやれよ」
盾となって彼にしがみついているグラナンを、振りほどけぬまま片腕で抱きかかえた格好で、
パトロベリが、引きつった声で何か云っていた。
「シュディリス!」
聞こえなかった。
シュディリスは剣柄を持ち上げた。
眼前に掲げた剣に映る蒼い眼が、冷え切った色で己を見返した。
その蒼い眼はフラワン家の名の誇りと、妹を侮辱した汚名をそそぐことのみに燃え上がり、
彼の体内の血という血は、怒りのあまりに重たく冷えて揺れていた。
耳鳴りがした。
もしもその幻の声が止めなければ、シュディリスは言上どおり、
パトロベリの首を一刀のうちに刎ね上げていたであろう。
毅然としたその声は、翼のようにシュディリスの手を打ち払った。
(シュディリス)
厳しくも、やさしくも、それは聴こえた。
パトロベリとグラナンが眼を見開いている眼の前で、
シュディリスのその手から雷に打たれたように剣が離れ、地に落ちた。
(いけません。シュディリス)
草地に落ちた金属音の鋭さを、誰もが、大空が折れる音のように聴いた。
誰かに抱かれたような気がした。
透き通ったその気配は身に沁みて、真正面から風の流れのように通り抜けて過ぎていった。
シュディリスは、誰かの名を呟いた。
日差しがはじけ、河のせせらぎが時に流れた。
ふと我に返ると、グラナンとパトロベリが両脇にいて、茫然と空を見上げていた。
「尋常じゃない」
グラナンに馬で送られて近隣の村へと医者に掛かりに行く直前、
止血した脇腹をまだ痛そうに押さえたまま、
パトロベリはシュディリスを鞍の上から睨み付けた。
「どうして本物の妖精の王子さまであることを、君、僕に云わなかったんだ」
僕も見たよ。
女王さまみたいな幻が、僕の前に立ちふさがり、君を止めてくれた。
その声を聴いたんだ。
僕たち全員に云っていた。
-------騎士として生きよ。



「続く]




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